倣薛濤(せつとう)箋

唐代の女性詩人、薛濤(768 - 831)が創案したといわれる薛濤箋は、芙蓉の花弁から染料を作り、紙を紅に染めていたという。”芙蓉”というと、小生などは白い大輪の花を想起しがちである。しかし芙蓉の品種は千差万別で、真紅の芙蓉も存在する。真紅の芙蓉は黄河流域から四川省に多く見られるという。
芙蓉の花房を開花直後に摘み、その花弁を杵でもってよく搗きくだき、余分な水分を除く。すると鮮やかな真紅の染料になるという。白居易の「長恨歌」には「芙蓉帳暖度春宵」という句があるが、この「芙蓉帳」というのは、芙蓉の紅で薄絹を染めた赤いカーテンであるという。
薛濤は唐代中期の詩人であるが、詩文だけではなくその筆跡も名高かった。しかし唐楷はもっぱら碑帖のみで真蹟をみないように、唐代の筆跡というのはほとんど亡失してしまっている。薛濤の真筆は北宋の宮廷ですら、わずかに一片を収蔵するのみであったという。
薛濤が士大夫との応酬において、自ら製した詩箋を使用したことは想像に難くない。また、あるていどの数量が流通したとも考えられる。しかし薛濤自身の筆跡どころか、薛濤箋に書かれていると考えられる尺牘は、現在のところ確認できていない。実物を見ることが出来ない薛濤箋、あるいは薛濤箋の産地であった浣花渓の紙であるが、唐代の中期以降の詩には多くうたわれている。

晩唐の詩人、李商陰(812年〜858年)に「送崔珏往西川」という詩がある。友人の崔珏が四川省へ転任する際に贈った送別の詩である。細部にわたると長くなるので、簡単に紹介しておきたい。

年少因何有旅愁
欲為東下更西游
一条雪浪吼巫峡
千里火雲焼益州
卜肆至今多寂寞
酒垆従古壇風流
浣花箋紙桃花色
好好題詩詠玉鈎

年(とし)少(すくな)きに因(よ)り何ぞ旅愁(りょしゅう)有(あ)らん,東下(とうげ)して更に西游(せいゆう)を為さんと欲す。
一条の雪浪(せつろう)、巫峡(ふきょう)に吼(ほ)え,千里の火雲(かうん)は益州(えきしゅう)を焼く。
卜肆(ぼくしょう)、今に至れば寂寞(せきばく)多く,酒垆(しゅろ)、古に従いて風流に壇す。
浣花(かんか)の箋紙(せんし)は桃花(とうか)の色,詩を題するに好好(こうこう)、玉鈎(ぎょくこう)を詠(うた)え。

「巫峡」は現在の三峡付近の峡谷。「火雲」は熱気をはらんだ(と考えられていた)夏の雲。「卜肆」は前漢の卜占の名人、厳君平が成都において名高かったことを指す。また酒垆は居酒屋であるが、やはり前漢時代に卓文君と駆け落ちした司馬相如が二人で居酒屋を開いていたことをいう。「浣花箋紙」は成都近郊の浣花溪で紙が製せられていたことを言う。また「玉鈎」は湾曲した玉であるが、三日月をさす。

以上を踏まえて、大意のみ示す。

若いのだから、どうして旅を愁えることがあるだろうか、東に下ってまた西に旅をするくらいはなんということもない。
一筋の吹雪は巫峡の大渓谷に響き、千里にも連なる夏の雲は益州の空を焦がすかのようだ。
成都では、占いの店は前漢の厳君平のような名人が占うのでないのだから、今や大方は寂れていよう。司馬相如が卓文君と開いていた店の伝統にならって、居酒屋はその風雅を誇っているだろう。
薛濤が漉いた浣花の詩箋は、桃の花のような淡い紅(くれない)。詩を書くのにとてもいいから、成都にかかる美しい三日月を詠いたまえ。

生卒年から考えると、薛濤が晩年を迎えるころ、李商陰が二十歳前後であったと考えられる。李商陰はすでに隠棲している薛濤に直接会ったことがないにしても、薛濤と交流のあった年長者から彼女のことは聞かされていたことだろう。詩中にうたわれている”桃花色”の浣花渓の詩箋は、特に薛濤箋を意識したものと考えていい。

李商陰と同じく晩唐の詩人、唐彦謙(生年未詳、893年頃没)の「紅葉」には「蜀紙裁深色、臙脂落靚妝」とある。ここでは裁断した蜀の紙を紅葉にたとえている。ゆえに蜀紙といえば、紅い紙を想起しているとみていいだろう。また唐代最末期の韓偓(842〜923)の「恨寄」にも「秦釵枉断長条玉、蜀紙虚留小字紅」とある。ここでも「蜀の紙は虚しく小字を留めて紅」とうたってるので、やはり紅い紙を思い浮かべていると考えていいだろう。(このあたりの詩はいずれ詳述したいが、今は話がそれて長くなるのでこれにとどめる)
もともと蜀は唐代における紙の主要な産地である。薛濤以前から浣花溪では紙が製せられていたのであり、薛濤箋は特に薛濤が監督して造らせた紙、と考えられる。しかし薛濤の没後、浣花溪でいつごろまで薛濤箋が作られ続けたかは明らかではない。唐末の戦乱を経て、南唐において澄心堂紙が製せられるにいたったが、宋代の士大夫達が垂涎する澄心堂紙の産地は徽州である。やはり蜀の紙が最良を誇ったのは唐代であり、薛濤箋は蜀の紙を代表する存在であったといえるだろう。

さて、この”薛濤箋”を思わせる紙が欲しいと考えた。伝承によれば、薛濤の詩箋は原紙を芙蓉の染料で紅に染め、これに雲母を散り敷いた紙であるという。芙蓉の染料は現在すでに入手が難しいし、植物由来だけに、色素の安定性もやや懸念される。そこで上海博印堂の製紙工房と、材料、製法について相談したのである。

ところで薛濤は隠棲した後も生涯独身を貫き、道服をまとって女道士として余生を過ごした。雲母は服用を続けると昇仙に至るとされる、仙薬のひとつである。漢代に成立したとみられる。中国における最古の薬学書というべき神農本草經には、雲母は上品に部類されている。上品に分類される薬材は、すなわち服用によって昇仙に至る薬材なのである。その雲母を散り敷いた紙というのは、そのしっとりとした淡い光沢もさることながら、どことなく神仙を想起させるところがあっただろう。女道士となった薛濤に似つかわしい紙である。
倣薛濤箋材料としては雲母の細粉でも製造可能である。しかし蛤蜊箋で実績があり、より繊細な蛤蜊粉を使用してもらうことにした。”ラメ”をさらに細かくしたような、潤いを感じさせる光沢が期待されるのである。
また紅い染料も、製法が定かではない芙蓉由来の染料ではなく、乾隆蝋箋で実績のある朱砂を使用してもらうことにした。朱砂あるいは丹砂などの水銀化合物も、雲母と並んで仙薬の中心に位置する材料である。神農本草經には、やはり「丹砂(丹沙)」が上品に分類されている。また長期の保存によって変色することなく、また防虫の役割を果たすことが期待される。
この朱砂と蛤蜊粉を使って薛濤箋に倣うのも、あながち見当違いではあるまいと考えた..................はたして紙は出来た。倣薛濤箋朱砂は印泥でいえば美麗の紅ではなく、光明にちかい明るい赤色である。この朱砂を白い蛤蜊粉が覆うことで、淡い桃色の色調が生まれている。もっとも、唐代の詩人が想起した「桃花色」はもっと濃い紅であったかもしれない。しかしこの淡い色調も、日本では多くの人の好まれるところであるかと思われる。そのうえを、ごく薄い絹をかけたような蛤蜊粉の光沢が覆っている。写真ではわかりにくいかもしれない。無機質なテカテカとした艶ではなく、潤んだようなしっとりと落ち着いた艶である。よいのではないだろうか。
倣薛濤箋”薛濤箋”は詩箋であるから、本来は小さく裁断して使用されている。しかし詩箋といっても、定まった大きさの規格があるわけではない。民国くらいの詩箋の大きさは縦に23cm前後、横に13cm前後のものを見る。しかし仮名の料紙としての応用などを考えると、横幅が50cm前後、縦に30cm程度はほしいところである。また大胆に對聯にこれを用いたい、という人もいるかもしれない。そこで”大は小を兼ねる”ではないが、使用したい紙の大きさは人によって違うのであるから、裁断せずに全紙のままとすることにした。
当然、一枚一枚の手作りである。原紙を漢方薬液に浸し、乾燥させ、さらに朱砂を塗布したうえに、7回から8回にかけて蛤蜊粉を散布するのである。このような作業が可能な加工紙の工房は、大陸広しといえどもはや一,二が残るのみである。非常に手間がかかり、例によってそれほど数を作ることが出来なかった。しかし今の時代にこのような紙の需要がそれほど多いとも思われない。紫式部や清少納言、あるいは和泉式部にでも贈れば喜んでくれたに違いないのだが、墨汁が濫用され反古の山が築かれている現代では、高価なだけで無用の”長物”と謗られるかもしれない。
大量生産、大量消費の時代である。時代とともに価値観が変化するのは致し方ない面もあるが、たまには紙が貴重品であった時代を想起することも必要なのではないだろうか。この倣薛濤箋も、一片の紙に過ぎないとはいえ、徒(あだ)やおろそかにはしてほしくないものである。
落款印01


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