歙南の昌溪鎮

今年の1月、徽州南部の古鎮、昌溪を訪ねた時の事。

いつも依頼しているタクシー運転手の胡氏には「明日婺源に行きたいからホテルまで迎えに来てほしい」と頼んでいた。朝、ホテルの駐車場で待つタクシーへ行くと「今日は婺源への道が閉鎖されている」との答え。仕方がないのでこの日は墨工場へ向かう事にしたのである。そのあくる日、きょうは大丈夫かと思っていたら胡氏の答えは「まだ通行止めが解除されない。」とのこと。いたしかたなく、この日も婺源行きをあきらめて、歙県(きゅうけん)郊外の昌溪という古鎮の見学へ行くことにした。

昌溪は「歙南第一」と讃えられる、渓谷に沿って開けた美しい集落であると聞いている。しかし宿泊地の黄山市屯溪区からは少し距離があり、今まで訪問することがなかったのである。
昌溪の起源をたどると、紀元前の前漢時代の生活の跡が見られるという。時代下って唐代の頃は滄溪と呼ばれ、南宋の淳煕年間に至って昌溪と改められたそうだ。最近は観光に解放され始めたとはいえ、ここを訪れる旅行者はまだ少ない。徽州の古鎮といえば世界遺産の”宏村”などが圧倒的な知名度を誇っているから、それ以外の古鎮にまで足を延ばす人は少ないのである。

いつもの胡氏の運転で山道をたどる。山麓の木々の梢には、ふるった粉砂糖まぶしたような雪が残っている。この季節の徽州の降雪時によく見られるのであるが、木々に降り積もった雪がなかなか解けないのである。溶け落ちずに樹上に何日間も残る。特に葉の上に積もった雪は、葉に付着したまま落下しない。これは山間の空気が冷たいことと、山の陰になって日照時間が短いこともあるが、晴れていても薄曇りで太陽の光が弱いためである。日本のように空気が澄明であると、日差しに熱せられてすぐに溶け落ちてくるのだが、ここ徽州では事情が違っているのである。しかし粉雪を薄くかぶった山景色もまた良いものである。

昌溪の入口には地をならしただけの駐車場がつくられ、入口には参観の受付らしき建物がある。しかし窓口は開いていない。昌溪も観光地として開放されてからは、参観料が必要なはずである。ただ昌溪は観光に解放された時期が遅い古鎮であり、黄山市における中心市街の屯溪からも距離がある。もともと訪れる人は少ないと思われるが、冬場のこの時期であればさらに少ないのだろう。どうも受付は閉めてしまっているようだ。ともかく中に入ることにする。
徽州昌溪鎮川沿いに開かれた小さな菜園に沿って、農道のような小道が続いている。雪をかぶった青菜は、黒いほどの濃い緑色の葉を延べている。
川沿いにしばらく歩くと、渡河点に出たようだ。流れの中に人が一人立てるほどの大きさの、長方形の切り石が点々と置かれているのが目に入る。切り石は流れを横断できるように、対岸に向かって直線上を等間隔に並んでいる。切り石が尽きる先には、瓦葺の木造の小屋がみえる。そこを目指してこの切り石を踏んでゆくというわけである。
木造の小屋は水車小屋で、回転していない巨大な水車が見える。元来はこの水車を機能させるたであろう、川のこの個所には人工の落差が築かれている。貯水を目的としたものではないが、一種のダムであり、動力用途という意味では発電用のダムに相当するだろうか。これを水壩(すいは)という。並べられた切り石も、流れを調整するためにおかれたものであり、両岸の往来の役割も兼ねているのである。
徽州昌溪鎮急傾斜に沿って流れが速くなっている。この日はとても寒く、水は手を切るような冷たさである。うっかり足を滑らせて流されれば、無事では済まないかもしれない。流れの中ほどで写真を撮る時も、やや緊張する。
徽州昌溪鎮この切り石は水面からほんの数センチ浮かんでいるだけで、ところによっては面積の半分ほどが、流れの下に沈んでいる石もある。冬場は水量も少ないので渡れるが、降雨で水量が多いときは渡るのが難しかもしれない。
歙南の昌溪鎮流れの中ほどで、上流の集落の方を見る。青い水面に灌木が影を落とし、その奥に集落の白い壁が見えている。遠景には淡く雪をかぶった小高い山々が続いている。

先にも述べたが、唐代の頃は滄溪と呼ばれ、南宋の淳煕年間に至って昌溪と改名されたという。滄溪の「滄」は青青とした水が広がる様子を形容する文字であり、眼前の光景がそのまま表現している。また昌溪の昌は、日の光を反射してキラキラと輝く、という様子をあらわす文字である。水面に陽光が反射する時の形容にも使われる。これも昌溪の静かな流れに太陽の光が照りかえっている様子から、名付けられたのではないかと思う。
険しさはないが、平明で美しい山水の眺めである。

対岸に渡ると、水車小屋の中から激しい水の流れの音が聞こえる。明代の弘治年間(1488年 - 1505年)に創建されたといわれる水車小屋である。水車小屋に合わせてこの水壩も築かれたであろうから、当時としてもかなり大がかりな土木事業であっただろう。徽州における王朝時代の水利事業の見事な例は、歙県近郊の新安江においてもすでに目にしてきた。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮大きな水車の車輪は、現在は壊れていて回転していない。巨大な臼が置かれているが、かつてはここで製粉が行われたのだろう。この巨大な臼を回転させるのであるから、相当な動力である。
水車小屋から川沿いに上流へ向かうと、昌溪の入口に至る。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮途中、家屋の上を見上げると、四方へ突き出した独特な格好の拡声器が目に入った。同行していた朋友の話では「あれは昔どこの村にもあって、あのスピーカーから毛沢東の言葉とか、共産党のスローガンが流されたのです。」ということだ。日本でもああいった拡声器は田舎の農村にないわけではないが、必要時以外は今は使わないだろう。文革期の大陸では、朝から晩まで、四六時中党を賛美する歌や毛沢東語録が流れていたというのだから、今は閑静なこの村落にもそれは騒々しい時代があったのだろう。

昌溪は上流地域の集落と、下流地域の集落の二手に分かれている。上流は主に呉姓の宗族、下流地域は周姓の宗族が聚居しているという。徽州の古鎮は、それぞれ多数派の宗族を中心として形成されているところが多くみられる。呈坎の羅姓や、歙県雄村の曹姓、績渓県龍川なら胡姓、槐唐なら許姓、といった具合である。しかし姓を異にする宗族が同居していないということではない。結果的に、ひとつの鎮に半々くらいのところもある。中国は伝統的に同姓婚をしない風習がある(現在は当然OKである。が、例は少ないそうだ。)また姓を異にしていても、地域によっては通婚してはならないとされる組み合わせもあった。なのである村に支配的な宗族がたとえば”汪”であっても、必然的に”呉”や”方”など、他姓の相手が入り込むのである。特定の宗族同士で通婚が繰り返される傾向があるから、いつしか他姓の人口が増え、宗廟が築かれるようになることもある。また支配的な宗族が逆転するという現象も起こるのである。

昌溪についていえば、南宋に呉姓が大量に移住してきたことを契機として、村落の名が滄溪から昌溪に改められた、という経緯があるという。北宋が金に滅ぼされた際の、北方の漢民族の大量移住の例といわれる。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮昌溪の集落に入ってまず目にするのが、下流集落の周氏の宗廟である。宗廟の前の広場がきれいに整備されている。周姓といえば漢の高祖に仕えた周勃と周亜夫がいる。彼らは劉邦と同じ沛の出身である。徽州は北方の戦乱を避けて移住してきた宗族が多いから、昌溪の周氏も元は北方の一族であったのかもしれない。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮しかしこの宗廟、急ピッチで修復したのかもしれないが、壁や柱を褐色のペンキで塗りたくっているのは、あまり感心できないことであった。しかしどんな形にせよ、完全に取り壊してしまうよりは保全されているだけ良いといえるのかもしれない。ちなみにこの周氏の宗廟は、昌溪出身の実業家が海外で成功し、事業で得た資産を投じて整備したのだという。再び渓流沿いに、上流地域の集落へ歩いてゆく。
歙南の昌溪鎮昌溪の歴史を体現するかのような、ふた株の樟(クスノキ)の巨木が現れる。それぞれも、非常に大きなクスノキのひと株に見えるが、実際は同程度の年輪の大木が癒着してひと株のようにそびえているのだという。ゆえに非常な巨木ではあるが、年輪は800年くらいだということだ。
歙南の昌溪鎮この巨樹がそびえる築山に沿うようにして、垂直に深く切れ落ちた水路が導かれている。水の流れから地表までは、緻密に積み上げられた石垣で覆われており、カーテンのような優美な曲面を作り上げている。実に丹念な設計であり、代々昌溪に暮らしてきた人々も、この景観を美しいと感じてながめてきたに違いない。現代の異邦人である、小生もそう思うわけである。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮昌溪は上流地域と下流地域に分かれるが、その境目の地域には学校や病院、政府関連の建物があり、近代的な建物が多くなっている。肉屋では、解体された豚の大きな肉塊や内臓が、凍てついた外気にさらされて、鮮烈な色を見せている。前々日に降雪があり、この日は晴天だが凛とした寒気に満たされている。石と煉瓦、漆喰で出来た古鎮の中はことのほか冷えこむのである。これから旧正月へ向かう農村では、豚肉を始め肉類の需要が高まる時期であり、肉屋も繁盛するのである。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮やはり蒼溪(青い谷)、あるいは昌溪(輝く谷)というどちらの名にもふさわしい、山光明水の景観が、鎮に沿って続いている。鎮の中心区域からは対岸へ向けて、近代的な橋がかけられている。陽光に白く輝くアーチは、碧い水に映えて優美な姿だ。
歙南の昌溪鎮やや繁華な中心地域を抜けて、上流の古い集落へ入る。四角く区画された濠が現れる。徽州の古鎮の中には、集落の中に四角く濠をうがたれている場所がいくつか現れる。印象的なのは西溪南のそれがある。盛夏には蓮の葉で覆い尽くされるであろう。
歙南の昌溪鎮木製の牌坊がある。石でできた牌坊を見慣れている眼には、牌坊というよりも、全体で建物の入口のように見える。木製の牌坊に向かい合って、廊橋が築かれている。そこでは村人たちが昼食の準備をしていた。歙南の昌溪鎮内部はまだ公開されておらず、入ることができなかった。幼稚園が併設されているが、この建物自体が、昔は昌溪の子弟の教育の場であった。
歙南の昌溪鎮呉氏宗廟に辿り着いた。中には入ることができない。ここには赤い星が掲げられ、かつてはここが党の本部として使用されていたことを物語っている。これに伴って、封建時代を想起させるような意匠や彫刻が破壊された可能性があるが、一方で党本部として使用されたことにより、宗廟全体の破壊は免れた、という見方もできるのである。
歙南の昌溪鎮「聖旨」と掲げられた小屋が隣接している。こういった建物は、王朝時代の昔、宮廷から派遣された使者が皇帝の布告文、いわゆる「聖旨」を読み上げるところなのである。党本部のすぐ近くであるが、おそらく文革中などはこの「聖旨」の扁額は外されるか、上に粘土などをかぶせて隠匿していたかもしれない。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮赤い色の文字で「民兵の家」とある。ここも元来は宗廟であったと思われるが、中には入れない。ある時期に地元の民兵の施設として使われていたのだろう。脇には毛沢東語録が筆書されている。
歙南の昌溪鎮「三眼井」である。その名の通り、三つの穴が穿たれている。中はひとつにつながっている。こうした三つの井戸の口がまとまっている式の井戸というのは、中国各地にみられるものである。由来はよくわからないのであるが、ひとつひとつの口が小さいので、動物などが入り込みにくいという理由もあるのかもしれない。南屏を訪問した際には、子供が落ち込まないようにするためだ、と聞いた。安全性を考えると、この方がいいかもしれない.........井戸に人の死体を投げ入れたとか、突き落として殺したとかいう話は昔からあるわけだが、こうした井戸ならそれも難しいわけである。とはいえ、水桶がひとつやっと入る程度の穴がもし一つしかなかったら、水汲みの順番待ちができてしまうだろう。三つくらい空いているのが、丁度いい、とも考えられる。
歙南の昌溪鎮昨夜は氷点下を優に下回る気温だったのだろう。水槽に厚く氷が張って、中の魚は哀れにも凍死してしまっている。が、店の人は気にとめた様子はない。
歙南の昌溪鎮谷間の入口を塞ぐように壁が築かれている。「衆志成城」という名がついているが、防風墻(ぼうふうしょう)である。(どうも衆志成城という名称には文革の臭いがするのだが)これは谷から吹き下ろす風が村落に入り込まないように防いでいるのである。この防風墻の外側に出ると、気のせいか寒気が厳しい。この寒気がそのまま昌溪に流れ込んできたら、村落を凍らせてしまうかもしれない。
歙南の昌溪鎮あるいは夏場などは、風向きによっては熱気が流れ込んでくるだろう。良く見ると、アーチ状に穿たれた防風墻の一部が瓦礫でふさがれているから、時代によって風量の調整が変わってきたのかもしれない。あるいはその昔は、匪賊の侵入を防ぐ拠点となっていたかもしれない。ここにも井戸が穿たれている。
歙南の昌溪鎮清冽な流れの中で、女性が青菜を洗っている。野菜に限らず、徽州の女性というのは、真冬でも清流に手を浸して炊事や洗濯をしている。慣れているのかもしれないが、大変なことであると思うわけである。呉越の戦いに登場する絶世の美女西施も、川で洗濯をしていたところを見出されたという。古代から洗濯は女性の重要な労働だったのだろう。

再び村落の中に戻る。昌溪の家々から、唐辛子を炒める香ばしい匂いが漂ってくる。徽州の家庭料理の基本的な調理法なのであるが、油を強く熱し、そこへ唐辛子をいれて焦げるほどに強く炒める。そうすると、ごま油よりもさらに香ばしい香りが出るのだが、そこへ適当な野菜を入れて塩で味付けすると、それだけで簡単なお惣菜になるのである。これに少量の肉や大蒜を加えることもあるが、やはり農村らしく野菜が中心である。どんぶり茶碗に御飯を盛り、上から総菜を乗せて出来上がりなのである。上に載せるのはほかに作り置きの煮物や漬物が加わることもあるが、たいていは2,3品である。
歙南の昌溪鎮昼時に差し掛かり、宗廟の広場にはどんぶり茶碗を抱えた村人たちが集まってくる。頻繁に見られる江南農村の昼食の光景である。この昼食のスタイルというのは、小生の見た限り、江南一帯の農村では共通ではないかと思われる(雲南でもおおむねそうだというから、ご飯を食べる地域全般かもしれない)。
歙南の昌溪鎮香りにそそられて、急に空腹を覚えた。昌溪で食事ができる店がないかと探したが、開けた雰囲気の割に飯屋の一軒もない。運転手の胡氏の話では、隣の深渡の街は、魚が美味いこと事で知られているそうだ。この提案には一議に及ばない。昌溪を後にして、深渡へ向かうことにした。

 

昌溪南歙邑
峽水繞村鄰
歲歲雙樟老
年年古廟新
堆墻寒露隔
石路碧流淪
但聽奔湍響
既无轉木輪

落款印01


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