程幼博集はどこに?

明代の墨匠、程君房こと程大約のことを調べる上で、彼の詩文集である「程幼博集」をぜひとも読みたいのであるが、現在のところその存在を確認できていない。”幼博”は程大約の字であり、「程大約集」とも表記されることがある。

程君房と言えば「墨苑」の方がつとに有名で、こちらの方はいくつかの図書館で閲覧できるし、印影本を手に入れることができる。日本の国会図書館では、デジタルデータですべてのページを公開し、インターネット上で参照することも可能である。この「墨苑」、いくつかの版がある。日本各地の図書館に現存する「墨苑」の版については、中田勇次郎先生のが詳細に調べておられる。

また近年、中国のオークションでも時折「墨苑」が出品されているが、「墨苑」はその内容に方于魯への誹謗が含まれるとして、方于魯の庇護者であった汪道昆が大半を回収して焼いてしまった、という伝承がある。あるいは「墨苑」に関しては、状態のいい本は日本の方が多く残っているかもしれない。
「墨苑」については版はともかく、現代でも比較的容易に閲覧、入手が可能である。やはり程大約のひととなりや思想を深く知ろうと思えば、その詩文集を読むに勝ることはない。ところが「程幼博集」は、小生が現在知る限りにおいては、見つかっていないのである。

ひとつには程君房と、彼の旧友にして生涯の仇となった方于魯の確執の原因の一端を知りたい、ということがある。方于魯こと方建元については、「方建元集」という詩集が入手可能で、これは手元にある。方建元は詩集のほかに、特に文集は残していないようだ。またその庇護者の汪道昆「大涵集」や、友人の李維?の「大泌山人集」も入手している。しかし方建元側の資料ばかりを読んでしまうと、程大約に対してフェアな判断が下しにくくなるだろう。

「程幼博集」の存在については、「四庫全書」の「存目」に収録されていることでわかる。目録に書名を残しているだけで、その内容は四庫全書には収録されていない。そもそも「存目」というのは、清朝の政策を批評している内容や、思想的に問題ありと判定された書籍を整理、記録する目的で編纂されている目録集なのである。そこに名を連ねている以上「四庫全書」に収録されるどころか、清朝においてはオフィシャルには流通が認められないような本、ということになる。

乾隆帝が四庫全書を編纂したのは、純粋な文化事業という側面ばかりではなく、思想統制という政治的な目的も有している。先立つ明代においては、とくに後期に印刷、出版が盛んになった。明が滅んだ後も、清朝の政策にとって好ましからざる本も世間には多く残っていたのである。大陸における言論、思想統制というのは、何も今に始まったことではない、というところだろうか。

しかし「存目」に収録されたからといって、その本を徹底的にあつめて焼き捨ててしまうという事でなかったようだ。「存目」は、資料の整理・保存という目的も兼ねていたのである。ただし「存目」に入ってしまった以上、再版して流通させるのは難しかっただろう。事実上の発禁本ということになるが、あつめて焼き捨ててしまったわけではなかったようだ。そのあたりは始皇帝時代の焚書の暴挙と併称されることが憚られたからかもしれない。

「程幼博集」は、「卷一百七十九·集部三十二○别集類存目六」に「程幼博集・六卷(浙江孫仰曾家藏本)」としておさめられている。つまり「浙江の孫仰曾の家の藏本」ということで、存目が作られたときには少なくとも孫仰曾の家には程幼博集が存在したのだろう。

孫仰曾は字は虚白、号は景高。浙江仁和(現杭州)の人である。清朝、乾隆年間に生きた蔵書家である。無論、一代で書籍を集めたわけではなく、何世代かにわたって蒐集していて、父親の孫宗濂は”壽松堂”という図書館を建設して、数万巻の書物を納めていたという。

乾隆三十八年に四庫館が開館すると、全国の蔵書家は競って家蔵の秘籍珍本を献上したのであるが、このとき孫仰曾も家蔵の二百三十一冊の書籍を献上したという。無論献上という体裁であっても、”禁書狩り”としての側面も持っていた。ともかく四庫全書の「存目」に「程幼博集」があるということは、当然、献上した書籍の中に「程幼博集」があったということだろう。

「存目」には各書籍について簡単な書評があり、何ゆえこの書が「存目」に選ばれたか?その理由の説明を為している。「程幼博集」について、その書評の詳細は別の機会に述べたいが、要は程大約の文章の不羈奔放で矯激なところが疎まれたようだ。「禁書」といっても、かならずしも清朝を批判する内容を有していることが理由になるわけではない。ひとつには、清朝政府の政治統制上の支柱となるべき思想対して、批判的な書物が退けられたのである。また清朝政府が異民族の王朝であることから、あまりに偏狭な民族主義、排外主義、攘夷思想も警戒された。また自由奔放な内容の書物も問題視された。明代末期は民間経済が膨張したが、経済格差などの社会矛盾が拡大していた。また倭寇や女真族との戦いで朝廷の出費がかさみ、明王朝の財政は疲弊していた。在野の知識人の多くは「憂国の士」を自認するものが多く、民族主義が高揚していた時期でもあった。
「程幼博集」の書評には「多暢所欲言、不拘格律、如汎駕之馬、不可以羈勒範之。」という文があり、要は”言いたい放題、文章の格式を無視し、あたかも馬車の馬が勝手気ままに暴れまわっているかのようだ”と評されている。あるいはこのあたりが理由か?

「存目」に収録されている書籍は全部で6,793種、93,551巻にも上る。その多くはどこへ行ったのだろうか。1992年から中国東方文化研究会歴史文化会が提唱し、「四庫全書存目叢書」プロジェクトがスタートしている。これは「存目」に収録されているすべての書籍を収集し、閲覧可能なデータとして整理保存しようという計画である。この計画によれば、「存目」にある書籍は乾隆帝以来の動乱を経、今では四千種六万巻あまりしか確認できないという。またこれらの古籍は、中国全土200余りの図書館に分散保管されているということである。はたしてその中に「程幼博集」が入っているだろうか?

「存目」に入れた書籍を、乾隆帝が紫禁城のどこかに秘蔵しておいてくれればよかったのであるが、どうもそれらの書籍は持ち主に返却されたかあるいは処分されたか、ともかく紫禁城内には残っていなかったようだ。「程幼博集」が「存目」に収録後、孫仰曾に再び返却されたとすれば、そののちも孫仰曾の蔵書の中に眠っていたことになる。あるいは献上する際に、写しくらいは作っていたのではないだろうか。
仮にそうであれば孫仰曾の蔵書の所在がどうなったかが気になるところだが、残念ながら壽松堂は咸豊十一年(1861)の戦乱、つまりは太平天国の兵乱で散逸してしまったという。1861年といえば、太平天国軍が杭州を占領した年である。このとき杭州の文瀾閣におさめられていた「四庫全書」も散逸している(これは後に復元された)。壽松堂もその難にあったのだろう。

程大約は「程氏墨苑」のほか、「圜中草」という詩集の存在が確認できている。まだ手に取った事はないのであるが、日本の「全国漢籍データベース」で調べると、いくつかの研究機関に存在することがわかる。また「程氏墨苑」も、かなりの種類の版が日本に現存していることがわかる。「程氏墨苑」は、大陸で出版流通していたほぼ同時代に、日本にも日明貿易を経由してかなりの冊数が入ってきたと考えられる。ところが程大約の詩文集である「程幼博集」はどこにも見当たらない。
また「圜中草」は中国ではその所在を確認できていない。あるいは日本にしか残っていないのかもしれない。個人的には、「程幼博集」も残っているとすれば日本であろうと考えている。

「程幼博集」の所在について心当たりのある方は、ご一報いただければ幸甚の極みと思う次第。
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