李白と数値表現

李白の「秋浦歌十五」に

白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何処得秋霜

白髪(はくはつ)三千丈、
愁いに縁(よ)りて箇(か)くの似(ごと)く長し。
知らず明鏡(めいきょう)の裏(うち)、
何(いず)れの処(ところ)より秋霜(しゅうそう)を得(え)たる

という五言絶句があります。白髪三千丈というのは、文字通り白髪(しらが)が三千丈の長さということですが、唐代の一丈はおよそ3mなので、九千メートル、全長9kmにも及ぶ白髪、ということになります。もちろん、白髪が9キロもあるわけではなく、歌われている秋浦という長江沿岸の情景を、白髪に喩えています。すなわち延々と続く白髪は、眼前の長江の河岸のことです。また「愁いに縁(よ)りて」とありますから、憂愁の念が、この長江の流れのように延々と長く続き、頭もすっかり白くなってしまった、ということです。
ただし、この句は日本では「中国的誇張表現」の代表として、「誇大な表現」の代名詞になってしまいました........確かに中国の詩歌の世界では雄大な誇張表現は多いものなのですが、物理的な距離や大きさのことではなく、精神のひろがりの中での”尺度”なのですから、それは「文学的スケール」として理解する必要があるでしょう。心の広がりは無限、という事も出来ます(狭い人もいるかもしれませんが)。
長江下流域の川幅が、瀬戸内海の幅よりも広い、ということを実感してないと想像できないかもしれません。霞ヶ浦か利根川、ないし淀川の岸辺ぐらいを想起していたのではわかりませんね。
また似たような数値、ないし数字表現の使い方に「桃花譚水深千尺」という句があります。「桃花譚」は私も数年前に訪れたことがありますが、実際はごく浅い、船をこぐ棹(さお)がさせてしまうくらいの水深です。しかしここで李白は、この地で仲良くなり、いつまでも見送ってくれている友達の「情」の深さを「水深千尺」とうたっています。

それはともかく、李白の作詩の特徴のひとつに、「三千丈」のような数値表現、数字表現があります。李白は数字を使って印象的な句を上手に作ります。特に「三千」は頻出します。

唐代以降の近体詩は平仄を整えることを原則的に求められますが、よく使われる漢数字「一二三四五六七八九十百千萬」の中で、「平」音は”三”と”千”だけです。ほかは全部「仄」音になります。有名な「白髪三千丈」は「仄仄平平仄」と、ちょうどいい具合に「平平」が入っています。あるいは廬山を詠んだ「飛流直下三千尺」も「平平仄仄平平仄」となって具合がいいです。他にも「学道三千春」とか「十月三千里」「座客三千人」「堂中客有三千士」などがあります。すべて数え上げたことはありませんが、「三千」が入る句だけで、十数首くらいはあるのではないでしょうか。

李白以前にも、孟嘗君は「食客三千人」、阿房宮には「美女三千人」、孔子は「弟子三千人」、李衡「木奴三千本」というのがあります。
新聞の見出しで「上海佳麗三千人」というので何のことかと思ったら、博覧会のコンパニオン達の事なのでした。
ちなみに私の小さいころは「中国三千年の歴史」なんていうフレーズがよくつかわれていたのですが、その後これが”四千年”になり、最近では「中国五千年の歴史」が定着しているようですね。現代の考古学、歴史学の研究結果を反映した表現に代わってきたようです。しかしそもそも「三千」は、仏教でいう「三千世界」と同じように、広大無辺、悠久な、という意味で用いられますから、もともとの「中国三千年」は「悠久の歴史」という気分が表現されていたのだと思います。いまの中国の人は、そういう文学的気分よりも科学的な厳密さを好むように、感覚が変化してきているのかもしれません。

また「三千」のような大きな数字を単独で用いるだけではなく、数を対比した表現も巧みです。有名な「長安一片月、萬戸搗衣声:長安一片の月、萬戸(ばんこ)衣を搗く声」は、「一」と「萬」を対比させながら、ひとつにすぎないが永遠の存在である月と、萬を数えながらもはかない存在である人間の営みを凝縮して表現しています。
「驚風一起三山動:驚風(きょうふう)一(ひと)たび起(お)こり三山(さんざん)動く」という句もありますが、これも「一」が「三」に作用することで、いかに強い風であるかを表現しています。

「百年三萬六千日」というのもあります。1年は陰暦では年によって日数がかわりますが、平均して360日なので、古代の人は一年間をおよそ360日と認識していました。掛け算すれば確かにあっています。こういう一見安易な句を平然と使うあたり、まさに李白の天衣無縫なところですね。
この「百年三萬六千日」には「一日須傾三百杯」と続きます。つまり百年間、毎日毎日三百杯の酒を飲み続けるよ、ということです(いいですねえ)。これは二句14文字のうち、8文字を漢数字で占めています。ほとんど数字の句になりますが、百日×三百六十日×三百杯=?という計算をしたくなります。
これに似た句に「聖君三万六千日」というのもあります。天子の長寿を願うわけですね。また「廣張三千六百釣」というのもあります。太公望が、80歳で文王に出会うまで、毎日毎日釣りをしていたことを詠っています。またさらに数字の大きな句では「天台四万八千丈」、「爾来四万八千歳」などがあります。

あるいは「三三五五映垂楊」。”三三五五、垂楊に映ず”、あちらに三人、こちらに五人(の遊び人が娘を覗き見している)、といったぐあいですね。この「三三五五」は、日本で今でも慣用句として使われますね。

他に数字をうまく配した対句で面白いのは

一叫一回腸一斷
三春三月憶三巴

猿が一声叫ぶと一回ごとに断腸の思い、三年もの間毎年春(三月)に故郷(三巴)を想う、という叙情をうたっています。猿の鳴き声は、古来から旅愁をかきたてるものとされます。
この句も平仄を調べると

仄仄仄平平仄仄
平平平仄仄平平

となって表裏はあっています。「一」と「三」を同じ位置に使うことで、軽快ながら深い印象を残すリズムを生み出しています。

そういえば李白の友人である杜甫も、李白の数字好きを知ってか知らずか「飲中八仙歌」では李白のことを「李白一斗詩百篇」、「一」が「百」を生むと、数字を使った表現でうたっています。苦吟(長い間考えて詩を作る)タイプの杜甫は、スラスラと詩を作るタイプの李白のことを、酒好きとあわせてこう表現しているのですが、あるいは李白の作詩の特徴を意識したのかもしれません。
ところで律詩に本領のある杜甫が苦吟するのは当然で、絶句よりも律詩のほうが前後八句をつくらないといけませんし、うまい対句をつくらないといけない分だけ考えないといけません。絶句の方が作りやすいといえば作りやすい。ただ、作りやすいからと言って良い詩が作れるかどうかは別問題。絶句に本領のある李白が即興に優れていたのは、絶句という短い詩形に拠る部分もある、と考えていいでしょう。あるいは数字表現をうまく使いこなす能力も貢献しているのかもしれません。もちろん、数字を使えば簡単に良い詩が作れる、ということではありませんが。

ちなみに「白髪三千丈」が誇張表現を皮肉る慣用句になっているのは日本だけで、中国の人に「そりゃ、”白髪三千丈”式だね」と皮肉っぽく言ってみても通じません。大陸の人はそんな話は織り込み済みの承知済みです。実際に大陸では”白髪三千丈式”の大げさな言い回しが多いのですが、そういうところにいちいち噛みついてみても始まらないわけです..........とはいえ、「中華の歴史」が「三千」から「四千」「五千」と変わっていったあたり、唯物史観の影響で、かの国でも意識の変化があるのかもしれません........しかし個人的には、やはり李白の「白髪三千丈」に現れる、気宇の大きな気分が好きですね.........無論、それは文学の世界に限らなければならないのでしょうけれど。
落款印01


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