石榴の村 〜徽州石家村

石家村


墨や硯の用件の合間に、安徽省績溪県にある石家村を訪問した。石家村は績渓県西方に位置し、車で30-40分程度の距離にある。その名の通り、村人は皆石姓を名乗るという。50戸程度のごく小さな村落であるが、創建は明代初期にさかのぼるといわれる。
北面の村 〜石家村村の入り口に石榴(せきりゅう:ざくろ)の赤い実が重たげに揺れている。村の入り口だけではなく、この村のあちこちに石榴が植えられているのだが、すなわち”石榴”は”石”ということで、”石氏”の村であることを表わしているのだという。つまり”石榴が繁る”村という事で、子孫繁栄の意味も込められているだろう。

 

象棋盤上の村


石家村は龍川ほどの広さはなく、また呈坎や宏村のような外壁もない。しかし家々はやはり徽派故民宅の特徴を備えている。またこの村落の構造の面白いところは、道路と区画がちょうど碁盤の目のように直交しているところである。
徽州石家村よく知られているように、古くは洛陽や長安、中世以降は北京や南京といった大都市の道路は基本的に道路や区画が直交して街が作られている。しかし徽州の古鎮の多くは、地形に沿って、あるいは水の流れに沿って、緩やかに湾曲した経路が交錯している。これは小さな村落であれば、道路が錯雑していないと外敵の侵入を防ぎにくいからである。意図的に死角を造るわけである。古鎮の多くは内部が迷路のようになっていて、外敵に侵入されても地の利を生かせるというわけだ。
北面の村 〜石家村ところが石家村は、本当に小さな村であるのにも関わらず、道路が直交しているのである。そのような街の構造はよく”碁盤の目”に喩えられるが、石家村の街路は”棋盤”、つまり将棋盤に喩えられる。将棋と言っても、もちろん9マス×9マスの日本の将棋盤ではなく、中国将棋、いわゆる”象棋(シャン・チー)の将棋盤である。
中国将棋の将棋盤は、マスで勘定すると横に8マス、縦に9マスになる。しかし中国将棋は日本将棋と違い、駒はマス目ではなく、線の交点を移動するのである。横に8マスだから、線は9本になり、自陣の最後列には9個の駒が整列する。また両陣営の間には”河界”という、河を模した境界が存在している。また王将が鎮座する左右一マス、前方2マスは対角線がひかれ、”九宮”とよばれている。つまり本陣ということになる。
この石家村は、縦に三本、横に五本の道路が直交しており、将棋盤にはちょっと線が足りないようであるが、宗廟を九宮になぞらえ、村落の前を流れる桃花溪を”河界”になぞらえて、将棋盤の形勢にみたてているのである。
実際には道は完全に直線ではないのであるが、たしかに交差する箇所ではほぼ直交している。

 

 

石守信の後裔


石家村は北宋創建の功臣、石守信の後裔の一族が、明代初期にこの地に移り住み始めたのが起源といわれる。また後に将棋盤状に整備されたのは明代中期といわれる。
石守信は宋朝きっての名将のひとりであったが、太祖趙匡胤と仲が良く、かつその将棋相手、”棋友”でもあった。ゆえにこの地に石家村を築いた石一族は、道路や区画の配置を、将棋盤のように整備したというわけである。ひとつには石守信以来の軍略の伝統への意識もあっただろう。また村には決まりがあり、それぞれの家の構造物は、決して道路の通行を妨げることがないように作らねばならなかった。

 

 

白雨一洗


徽州石家村徽州石家村観光地というほどの場所ではないものの、村の建物の名を示す案内板があるのは、部外者の参観を受け入れるという意味である。とはいえ、参観料を取られるわけでもない。北面の村 〜石家村石氏宗廟のある叙倫堂は”師府”とも呼ばれ、つまりは軍陣における”本営”という事であるが、象棋の盤における”九宮”ということになる。実際にこの村が外敵に襲われた場合も、ここが本営とされることが想定されていたのだろう。師府の前方には方形の池塘、”師印塘”がある。この池の中央には”師印”つまりは、将軍の”しるし”である印に見立てた”印墩”があり、柏の木は印の柄を表わしているという。
北面の村 〜石家村北面の村 〜石家村この日は日差しの強い晴れた日であった。盛夏の白日が、宗廟前の師印塘に眩く照り返しているかとおもえば、陽を遮る雲もないままに、時ならぬ驟雨が村を見舞う。石路に突きささるような大粒の雨が降り注ぐや、水面に映る日輪が砕けて水が白く湧きかえる。

 

 

南座北面


この村の家はすべて敷地内の南側に位置し、北を向いている。日本でもそうだが、大陸でももちろん家というのは敷地内の北川に位置し、南を向いている。誰が好んで北向きの家に住むだろうか?と思うところなのだが、石家村の家々は北に面している。何故か?
石守信は河南省は開封の出身であり、さらに開封の石氏はもとは甘粛省武威の発祥であるという。つまりかつての石守信の故郷である北方の中原を想い、またさらにさかのぼって石氏の発祥地である朔北を偲ぶ、という意味なのだそうだ。むろん、宗廟も(現在は廃墟になっているが)北を向いて建てられている。
北面の村 〜石家村北面の村 〜石家村幾度となくみてきた徽州の欄窗の木彫であるが、このように顔が削り取られているものをよく見かける。これも文革時代の爪痕なのである。
北面の村 〜石家村石一族も、家譜、つまり家系図がある。淵源をたどると石守信にさかのぼれるという。ただし家譜というのは、同姓の英雄豪傑功臣を、たとえ血縁関係が無くともあとから系譜の源に書き加えてしまうものなのである。ただ600年前の建設時に、石守信や北方起源の由来を村の構造にまで反映させて建設したとなると、案外とこれは本当なのかもしれない。
この村にかつて墨の工房があったというが、それも民国時代くらいまでの話で、今はないそうだ。家屋の一部にその名残があったそうだが、今は面影も残っていない。

 

 

枕山面水


石家村は、北側は旺山という山が位置し、また黄山に源を発する桃花溪が村を巡って西向きに流れている。いわゆる”枕山面水”という形勢であり、風水にもかなっているが、兵法上でいう”不敗の地”を占めている。つまり川を挟んで敵を迎え撃つのは防御に適しており、山を背にするのは高所からの敵の動きの見通しが良く、また背後を襲われにくい。さらには敵軍に正面を圧迫された時も、味方が崩れにくいのである(背後が平地では逃げ散ってしまう)。
徽州古鎮の多くは、天然の要害の地に建設されて、小さな城塞都市を形成している。この小さな石家村も例外ではない、というところだ。またこの石氏が宋朝の名将を祖先にもつというのも、やはりあながちではないと思わせるものがある。
北面の村 〜石家村雨があがった。一洗された石路が濡れて光っている。徽州の古鎮を歩くと、四方が石や漆喰の高い壁に塞がれて、昼間もやや暗く、若干の圧迫感を覚えるところもある。近代建築ではないにせよ、人工物に囲まれた空間というのは、どこか息苦しさを感じるものだ。
北面の村 〜石家村この石家村は規模が小さいためでもあろうが、路を囲む壁面が低く、重苦しい感じが無い。午後の陽の光も、路地まで差し込んでくる。濡れた石路を風が通り抜ければ、思いのほか清涼である。
北面の村 〜石家村小さな村なので、二時間ほどで参観が終わった。とはいえ、やはりそれなりの歴史を有しているものである。村の入り口で揺れる石榴に見送られながら、石家村を後にした。


依山傍水石榴繁
線路縱横桔中村
毀廟南據惟故地
人家北面念祖恩

 

落款印01


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