公募展と書の在り方

某大型公募展、N展の審査が今年は中止になったそうだ。その理由を聞けば、N展への入選が会派の力関係や審査員への謝礼の多寡で決まっていたからだそうである。つまりは「談合」と「贈賄」が、権威あるN展の入選を決めていたというわけである。これを聞いて「何をいまさら」と思った人も多いだろう。そんなことはいわば「公然の秘密」であった。
この記事を掲載したのがA新聞であって、Y新聞やM新聞ではないところも意味深なのであるが、A新聞にしても今まで知らなかったとすれば不可思議なくらいである。しかしこの問題、いきなり本丸に内通者が出て火の手が上がったのが興味深い。いずれ二の丸三の丸にも飛び火するのだろうか。いやいや、本丸どころか権威づけの”奥の院”である、書芸院や芸術院にまで飛び火するかもしれない。
公募展は出品料と称して出品者からお金を取っていたのだから、公正な審査をしていなかったのだとしたら、お金を取ることの正統性も疑われかねないところだ。まあ、あくまで会場費用と展示のための手間賃ですよ、と開き直ってしまえばそうかもしれないが、そうであれば落選者には返金したっていいだろう。

しかし物事には表裏があり、光と影がある。N展の在り方に問題があったとしても、N展を頂点とする大型公募展や社中展が、書道会と書道用品業界を支えてきたのも、これまた事実なのである。この構造が崩れてしまうと、書道用品業界の市場は極端に縮小してしまうだろう。現代の日本社会においては、書には実用性はほとんどなくなってしまっている。実用性の無いにも関わらず、まがりなりにも「産業」として余喘を保っていたのは、大型公募展の存在が文字通り”大きかった”といえるだろう。
N展以外にもM展やY展、各社中展、都道府県市町村の公募展などなど、日本は書展が多い。これは明治の昔からそうである。大陸でも書展は行われているが、日本に比べるとこじんまりとしているし、権威ある大型公募展、というような存在はみられない。

日本と大陸での、”書”の社会における在り方の違いについて少し考えてみた。

日本の場合、書の作品そのものが”売れる”、という事はまずない。著名な書家の作品であっても、二束三文の値である。書道家としての生計は、周知のとおり、教室を開いて月謝をとることで賄われる。あるいは学校の書道教諭としての職もあるが、要は作品を売って収入を得るのではなく、授業料が収入のほとんどである。お手本を書いて「お手本代」を求められるところもあるが、「お手本」はあくまで指導の一環であって、独立した作品としての価値が認められているわけではない。
書道以外にも、茶道や華道や日本舞踊など、伝統文化を教える教室が日本にはある。茶道にせよ華道にせよ舞踊にせよ、作品がカタチとして残るものではないから、師匠が”束脩”をとって弟子に教えないことにはどうしようもない。書道は作品が残るわけであるが、本質的には茶道や華道と同じような文化の在り方であるといえるだろう。
故に大型公募展での受賞は、会派の師範や教室の「権威付け」のためにあるといえる。社中展は身内の書展であるから、内輪の評価の域を出ない。会派を超えた書展での受賞が、権威付けには必要である。しかし賞を乱発すると、賞そのものの権威が失墜する。限られた数の賞は、どこの会派も欲しいのであるが、そこにある種の「談合」が生まれ、賞を譲る代償として「謝礼」が必要になる、という構造が造られたというわけである。

..........大陸の場合は、書でも画でも、作品が売れる”市場”が存在している。国家レベルの有名作家を頂点として、省レベル、市町村レベルの有名作家が存在している。主に公的機関の建物を飾る作品が発注されたり、政府幹部の贈答需要で作品を書いている。これ以外にも、民間の蒐集家もいれば、企業家のオフィスを飾る需要もある。また各家庭でも、書や絵を飾る習慣が今尚続いているのである。
なので大陸で書画を習う場合は、先生が弟子から”束脩”を徴収することはあまりない。書法家の収入源は”作品”であり、”束脩”ではないのである。たまに授業料をとって教えている人もいるが、小生が昔大陸の書法家に聞いたのは「上達したければ、授業料を取る人に教えてもらっていてはいけない。」ということだった。
また大陸では日本のように「段・級」を設けて、10年、20年かけて昇級昇段を目指す、というような事もない。先生に教えてもらうのはほんの基礎的な技法であり、あとは自習するようになっている。
また先生は弟子に「お手本」を書かないので、弟子の作品は先生には基本的には「似ない」。書法の鍛錬の見本にするのは、王朝時代の書法家の筆跡であって、それ以外にない。古典の名跡のいくつかの作風を組み合わせ、そこに自分の工夫を加えて独自の書風をつくってゆく。「書は人を表わす」ものであり、大陸書法の究極的な目標は、その人なりの書風を創り上げる事なのである。
もっとも「作品を売れる」ようになるほどの人はほとんどいない。また将来的に作品を売って生計を立てることを考えているのであれば、やはり作品を売って生計を立てられるほどの作家の弟子になる必要があるといわれる。

昔は優れた作品であれば、書き手の経歴など、ほとんど問われなかったものである。しかし最近は大陸でも「学歴志向」というか、有名な先生についたとか有名な美術大学を出た、と言うような事が評価されているフシもある。
それでも、まったく無名であっても、優れた作品には値段が付く。まったくの趣味でやっているような人の作品でも、数百元〜数千元(数千円〜数万円)くらい値段がつくものはある。日本だと書壇のトップクラスの作品が、せいぜいそれくらいの値段だろうか.......無論、無名でも売れるほどの書き手や作品は大陸でも稀なのであるが、そのような市場が存在するのは事実なのである。また”専業”ではなく、”兼業”というのも「アリ」で、他の職業につきながら作品をつくって収入を得ている人も少なくない。
無論「プロ」以外にも、純然たる個人的な趣味として書をやっている人も多いのである。愛好家が数人あつまって「好好」と講評しあうような、ごくごく狭い範囲で自足するような楽しみ方である。別段、大きな書展で賞をもらったりしなくても、それくらいで「事足れり」としているのである。
ともあれ「書」という、形式はほぼ同じでありながら、その社会的な在り方は日本と大陸でまったく異なる文化があるというのは、興味深い点である。

大陸でも書壇なり、画壇なりというのは、確たるものがある。たとえば今の上海画壇のトップは物故された有名作家の御内儀なのであって、彼女の作品はまあ、夫であった近現代の大家ほどではないとおもうのだが、そういう事になっている。正直なところそれはいかがなものか?というところなのだが、そういうこともあるにはある。有名作家の周りに群がる有象無象も多いわけで、式典や行事などの仰々しい場も多く設けられるし、政治的な力学も働く。単に有名だからということで高い値が付いたり、つまらない作品がぬきんでて評価されているという、胡散臭い話も多くある。また現在の大陸の書画の市場の大部分は”官製”の市場であり、作品の内容とは別次元のところで評価される向きもある。
また大陸では弟子は先生の作品に「似ない」と述べたが、「似る」人もいる。いや、積極的に「似せる」人もいる。あるいは師匠の作品の代作をするような人もいる。近現代の作家についていえば、二代目三代目がそっくりな書や画を描いていることも珍しくない。また「売れっ子」作家の作風は、積極的に模倣される。気づいたら同じような作品ばかり、という事もある。あるいは師匠の贋作を作ることもある。言うまでもなく、そすれば「売れる」からである。しかし師匠に作風が似た弟子の作品と言うのは、とどのつまりは二番煎じ三番煎じであり、ついに評価は師匠を超えることが無い。弟子自身が一家を構えるには、やはり独自の作風を生み出さないと難しいのである。それほどの才能はやはり多くは無いのだが、これはどこの国、いつの時代でも同じかもしれない。

しかし「食わんがため」に模倣が行われる一方で、わりと自由気ままにやっている人も多い。別段、売るために書をやっているわけではないが、その中から優れた作品が生まれてくることもある。流行や書壇の評価を頼りに買う人も多いが、自分の主観でパッと買う人もいる。書き手も気ままなら、買い手も気ままに買っている人がいるのである。大陸の個人主義的な気質が、こと芸術の面、特に主観が支配するようになった現代の美術作品の世界で言えば、これがプラスの方向で作用しているという事かもしれない。

やりがいや達成感をどこで感じるかは人それぞれである。公募展で賞をもらって達成感を得る人もいれば、誰かが収蔵して部屋に飾ってもらうことで満足感を得る人もあるだろう。
日本の場合、公募展や社中展が無くなってしまうと、書をやるモチベーションの維持に困るようになってしまう人が多いかもしれない。日本で現在の大陸にみられるような書画の作品市場を日本に求めるのは、すでに難しくなっている時代である。

ここで話が少しそれる。小生は漫画は全く読まないが、日本でも大陸でも、漫画好きの若者に出会う事は多い。若者というよりも、かなりの年配の人でも読むのはもっぱら漫画、という人も珍しくない。特に日本では漫画を読むばかりではなく、趣味で描く人も多いそうな。そしてそういった愛好家があつまって、同人誌を作り、それを販売する会も盛んなのだという。日本の年若い知人のひとりにその趣味があり、話を聞いたことがある。
彼も会社に勤める傍で、同好の士とともに会を作り、漫画を描いて同人誌を作っている。そして毎年季節ごとに開かれる同人誌の配布会で、つくった同人誌を販売しているのであるが、その売り上げによる収入は、会社からもらう年収を超えているのだという........ちゃんと確定申告しないさいよ、というところだが、これにはちょっと驚いた。つまり会社辞めても食べてゆけるじゃない、という事である........話ではその収入はすべて趣味に投じる、ということなのだそうだが。
小生は漫画家というのは、雑誌に掲載して原稿料をもらい、漫画本の印税で収入を得ているものと考えていたのだが、今やそればかりではないらしい。いうなればセミプロ、兼業作家も少なくないのだという。
配布会は国際見本市会場のような、非常に大きな会場で数百の店が出店するのだという。であれば、作家の人数は数千は下るまいと思われる。もちろんそのすべての会が黒字経営ではないであろうし、それだけで生計を立てられる作家も多くは無いのだろう。しかし兼業にせよ専業にせよ、作品を販売する「市場」があるというのは面白い。

話を戻す。この漫画市場の在り方は、大陸の書や画の市場の在り方に少し似ていると思った。趣味が支える作品の市場である。日本でもこうした趣味世界の作品市場が成立する余地があるという事実は、考えさせられるものがある。しかし今更、日本の書道の世界で、同じような”作品市場”を成立させるのは無理がある。なので今後も日本の書道の世界が成立するためには、大型公募展は必要なのかもしれない。先に述べたように、日本の書道における書展というのは、茶道における茶会と同じで、その場限りのものなのである。その作品は枯れたら無くなってしまう、華道における作品と同じといえようか。書展の時期が過ぎたら、無いも同然のものなのである。作品の保存性など初めから考えていないから、紙の質や耐久性もどうでも良い事であるし、墨汁を使っても良い、ということになる。それをどう考えるか?
何はともあれ、今回の件を契機に大型公募展が衰退すれば、ただでさえ少子高齢化で凋落傾向の書道用品業界は大打撃を受けるだろう。

大型公募展における「談合」「謝礼」の事実は、いうなれば「公然の秘密」ではあったが、それを知るのは書道会である程度の段位、師範クラスに進んだ人である。もっとも「謝礼」を支払えばだれでも入選出来るわけではなく、会派に属し、会派の中での実力を上げ、推薦されるくらいの力が無ければ入選することはできない。会派としても、他の会派への手前、あまりに力のない人物を推薦する事はできないわけである。
しかしN展を観に來る大勢の人の中には、この「公然の秘密」を知らない人の方が多かっただろう。公募と信じて毎回1万円の出品料を支払って出し続けていた人もいるかもしれない。また今回の告発によって、「特選何回」の権威付けは意味が無くなってしまっただろう。「特選一回一千万円」とも言われる投資が”パー”になってしまったのであれば、それは泣くに泣けない人もいるだろう。これからどうなるのだろうか。

大型公募展が今後も続くとして、一つ思うのは、「談合」なしに今後どのように特選を決めるのかな?ということである。完全な目隠し審査。しかしN展の作品といえど、師匠の手本を使って書いているのがほとんどであるから、どこの会派に属するかは見る人が見れば一目瞭然であろう。そうなると、勢力の大きな会派から入選が多く出て、弱小会派などは一点も入選できなくなるかもしれない。
いや、そもそもやはり、今回の件で大型公募展そのものが衰亡に向かうかもしれない。まず会派に属さない一般の人が出品しなくなる。会派に属していても、入選に価値がないのだから、無理算段してまで出品することもしなくなる.......”賞”というのは”名実”における”名”であって、審査の公平性に拠ってきた(と信じられていた)権威の有無がすべてなのである。それを喪失してしまったということは、その公募展の存在理由が無くなってしまったに等しい。たとえば「ノーベル賞」の審査員が「謝礼」を受け取って受賞が決まっていたとしたら、受賞者を国を挙げて、また世界中が讃える事もないだろう。いや、ノーベル賞といえど、とある国の学術団体が決めている賞であって、そこに「思惑」が皆無とは言えないのである。
しかしもし「ノーベル賞」が無くなっても、物理学界や文学界が無くなってしまうということもないだろう。しかし大型公募展の権威が無くなった時、日本の「書道界」は果たして維持されるのであろうか。また大型公募展に支えられていた書道用品の市場は、どのように変わってゆくのだろうか........まあ書道会派の中でも、社中展のみで大型公募展にはまったく無縁の会もある。今後はそういった会派ごとの書展の活動や、自治体レベルの公募展のみになるだけのことかもしれない。それでも、書道用品業界にとってはすくなからぬ痛手になるではあろうけれど。

蘇軾は「石蒼舒酔墨堂」という詩の中で、書の面白さを

自言其中有至樂
適意無異逍遙遊

自ら言う、その中に(書を書く行為の中に)至楽ありて
意にかなう事、逍遙遊に異なる無し

と詠っている。「逍遙遊」は荘子で言うところの別天地にあそぶ、精神が解放された楽しみである。書の真の面白さと言うのは、受賞や入選、段位などで得られる達成感とは別次元の愉悦なのである。それを知る者こそが、真の書の愛好者というものであろう。
落款印01


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