蘇軾 「虔州八境圖八首並引」 「八境圖後引」

贛州(かんしゅう)は北宋の頃は虔州(けいしゅう)という地名でよばれていた。虔州の南康には「八境台」という章江と貢江の合流点を望む楼閣があり、北宋の昔から、江西南部の景勝として有名である。
北宋の嘉佑年間(1056〜1063)、この地に赴任した孔宗瀚(?〜1088年)は、南康(現在の贛州市北辺)にこの八境台を築いた。孔宗瀚は、その姓の示す通り山東は曲阜の人で、孔子の第四十六代孫である。孔宗瀚はこの地点の重要性を考え、軍民を動員し、単なる石塁であった場所を改修し、レンガと石でもって堅牢な石城を築いたのである。この石城は水害を防ぐと同時に、街の防衛機能をも併せ持っていた。完成した石城は壮麗な楼閣と城門を備え、孔宗瀚はここを「宋八境」と題した。また八境台を詳細な絵図に描かせた。孔宗瀚が転任する際には、この絵図を持ってこの地を去ったのである。
贛州 八境台後に元豊元年(1078年)、孔宗瀚が彭城(現在の江蘇省徐州市)に滞在していた際に、山東省の密州に知事として赴任していた蘇軾にこの絵図の題詩を依頼した。元豊元年といえば、その一年前の1077年には黄河が氾濫し、蘇軾は徐州周辺の住民救済に多忙であった年である。また堤防と河道の修復工事を併せて行っている。あるいは孔宗瀚の治水事業の絵図を観て、何か感ずる所があったかもしれない。また孔宗瀚がこの時何故(なにゆえ)徐州に滞在していたのかはわからないが、あるいは蘇軾による黄河の治水事業と何か関係があったのかもしれない。
八境図に詩を題した翌年の元豊二年、蘇軾は詩文でもって朝政を誹謗したと弾劾される、いわゆる「烏台詩案」が起こる。辛うじて死刑は免れたが、黄州へ流刑同様の左遷に処されるのである。

ともあれ、孔宗瀚の依頼に応じて詠まれた蘇軾の「虔州八境圖八首並びに引」が残っているが、つまり蘇軾は八首の詩を詠んだ時点では実際に八境台を見ていない。絵図だけを見て八つの詩を詠んだのである。それから十七年後、広東左遷の途上で虔州へ立ち寄ることになる。実際に八境台を観たうえで過去に詠んだ詩を振り返り、その感慨を述べた「八境圖後引」が残っている。
蘇軾が八境台について詠んだ八つの詩についてはしばらくおいておくとして、この前後の序文(”引”は序、叙、などと同じ。蘇軾は祖父の諱をさけて”引”の字を使うことが多い)を簡単に紹介したい。

詠八境臺引


南康八境圖者、太守孔君之所作也、君既作石城、即其城上樓觀臺榭之所見而作是圖也。東望七閩、南望五嶺、覽群山之參差、俯章貢之奔流、雲煙出沒、草木蕃麗、邑屋相望、雞犬之聲相聞。觀此圖也、可以茫然而思、粲然而笑、嘅然而嘆矣。
蘇子曰、此南康之一境也、何従而八乎?所自觀之者異也。且子不見夫日乎、其旦如盤、其中如珠、其夕如破璧、此豈三日也哉。茍知夫境之為八也、則凡寒暑、朝夕、雨旸、晦冥之異、坐作、行立、哀樂、喜怒之變、接於吾目而感於吾心者、有不可勝數者矣、豈特八乎。
如知夫八之出乎一也、則夫四海之外、詼詭譎怪、”禹貢”之所書、鄒衍之所談、相如之所賦、雖至千萬未有不一者也。後之君子、必將有感於斯焉。乃作詩八章、題之圖上。 八境臺。

(書き下し)
”南康(なんこう)八境圖(はちきょうず)”なる者、太守(たいしゅ)孔君(こうくん)の作るところなり。
君(くん)は既に石城を作り、即ち其の城の上に樓觀(ろうかん)臺榭(だいしゃ)の見ゆるところ、是(こ)の圖を作るなり。
東のかた七閩(しちびん)を望み、南かた五嶺(ごれい)を望めば、群山の參差(しんし)を覧(み)る。章貢(しょうこう)の奔流を俯(みわた)せば、雲煙は出沒し、草木は蕃麗(ばんれい)。その邑屋(ゆうおく)を相い望めば、雞犬(けいけん)の聲(こえ)相い聞ゆがごとし。
此の圖を観るや、以って茫然(ぼうぜん)として思うべく、粲然(さんぜん)として笑うべく、嘅然(がいぜん)として嘆(なげ)くべし。
蘇子(そし)曰く、此(こ)れ南康の一境なり、何に従(よ)りて八(はち)なる?自ずから之を観る者の異とするところならん。
且(か)つ子の夫(そ)れ日を見ずか?其の旦(たん)は盤の如く、其の中は珠(たま)の如く、其の夕は破璧(はへき)如く、此(こ)れ豈(あ)に三日(さんじつ)也哉(ならんや)。
茍(いずく)んぞ夫(そ)の境の八を為すを知らんや、則ち凡(およ)そ寒暑(かんしょ)、朝夕(ちょうせき)、雨旸(あめはれ)、晦冥(かいめい)の異(い)、坐を作(な)し、行(ゆ)き立ち、哀樂(あいらく)、喜怒(きど)の變、吾が目に接し、吾が心に感ずる者、數者(すうしゃ)に勝るべからざる有らんや。豈(あ)に特に八と(いわ)んや。
夫(そ)れ八の出ずるは一なりと知るが如く、則ち夫(そ)の四海の外、詼詭(かいき)譎怪(きつかい)、”禹貢(うこう)”に書かれる所(ところ)、鄒衍(すうえん)の談ずる所、相如(そうじょ)の賦(ふ)す所、千萬(せんまん)に至るといえども、未(いま)だ不一(ふいつ)の者(もの)有(あら)ずや。
後の君子、必ず將(まさ)に斯焉(いずく)にか感(かん)有るべし。乃ち詩を八章作り、之の圖の上に題す。八境臺。

(大意)
”南康(なんこう)八境圖”というこの絵図は、この地の太守(たいしゅ)である孔君(こうくん)がつくらせました。孔君はかつてこの地に石城を作ったのですが、その城の城楼(じょうろう)や臺(うてな)から見える景観を、この圖に描かせたのです。
絵図の東は福建の山がちな地方を望み、南は広東を隔てる五嶺(ごれい)が望まれ、山々の高いところ低いところがいちいち手に取るようにわかります。
章江と貢江の奔流を俯瞰すれば、たなびく雲煙が出沒するところ、草木(そうもく)が美しく繁る様子が描かれています。
また周囲の村の家々が描かれているところをながめていると、その細かく描かれているところなどは、あたかも雞や犬の聲(こえ)が聞こえてくるようです。
この絵図をながめていると、そこに描かれているところの広々とはるかな様子に思いがめぐり、その鮮明で生き生きとした描写に自然と笑みがこぼれ、またこのように素晴らしい景色を実際に見てみたいものだと、おもわず溜息をもらしてしまいます。
わたくし蘇軾がいうに「この図に描かれているところは、南康の一地方でありますが、どうして”八(はち)”というのでしょう?」ということがあります。この八境図を見る人は、自然とこのことを疑問に思うでしょう。
ところであなたは太陽をみたことがないでしょうか?早朝はお盆のようにまるく大きく見え、昼間は大空の上で真珠のように小さく光り輝いて見え、夕暮れには雲や山に遮られて砕けた玉璧のように見えますね。このような変化は、果たして”三つの太陽”とは言えないでしょうか。
もしこの図の地方の景観が八つあるということを知ろうとするのであれば、それはこういうわけです。すなわち、およそ冬の寒い日や夏の暑い日、朝方と夕方、雨の日と晴天の日、雲が厚く垂れ込めて空が暗い日、また座ってみる景色、歩くことで景色が変化してゆく様子、あるいは立ち尽くしてながめるやる景色、哀しい時と樂(たの)しい時、喜(よろこば)しい時、怒(いか)りを覚えている時、それぞれ場合の自分の目にうつる景色の違い、また自分の心の感じ方の違い、その変化はわずか数通りというわけではないでしょう(無数にあります)。それをあえて”八”だといえるでしょうか。(八つではとてもおさまりませんが、あえて”八”としたのです)
この八つの景観の出所が実はひとつなのだということを知るように、(その考え方をひろげれば)あるいは広大な世界の果てまで、本当とは思えないような話や、きいたこともないような不思議な話、怪しく奇妙な話があります。また書経の”禹貢”に書かれているような古代の地理のこと、あるいは春秋時代の鄒衍(すうえん)が語った大九州のような壮大な地理観、あるいは漢代の司馬相如(そうじょ)が上林賦で詠んだような、やはり地理にまつわる美しい詩賦があります。これら文章や詩に残っているような事柄を、いちいち数え上げれば千万にもおよぶでしょう。その内容に、いまだに語りつくされていない事柄があるといえるでしょうか。
後の君子たちは、必ずこの図を観て何か感じるところがあるでしょう。そういうわけで詩を八章作り、この圖の上に題しました。 八境臺。
贛州 八境台孔宗瀚が描かせ、蘇軾が題したという「八境図」は、残念ながら現存していない。
通常、景観を描いた絵であれば、たとえば「黄山十八景」のように題されていれば、黄山におけるさまざまな景観を十八箇所選び、十八枚の連作を構成しているのが普通である。そして画冊ないし、長巻の体裁になっているものである。
しかし蘇軾の「引」を読む限りでは、「八境図」はおそらく一方面のみを描いた一幅の画であり、連作のような体裁をとっていなかったのだろう。そこで当然起こる疑問として、この画に「八境」と題されている意味を説いているのである。

絵図から読み取れる景観から敷衍して思考を展開し、景物をその主観によってとらえることの意義を説き、さらに”四海の外”の広大無辺の天地に精神を遊ばせ、またそれを詩文によって表現するところの意味に触れている。後の黄州時代に詠まれた「赤壁賦」にも通じるであろう、蘇軾らしい名文である。

「八境台図」は現存しないが、蘇軾が詠んだ八首の詩を詠む限りでは、精細で現実感に富んだ描写がうかがえる。あるいは「清明上河図巻」のような、繊細緻密な絵図であったかもしれない。北宋絵画の力量をもってすれば、絵図をして蘇軾の眼前に実景を浮かばしめたであろうことも、それほど不思議ではないようにおもえる。
しかしその十七年後に、蘇軾は左遷の途上、実際に八境台を目にしている。その際に往時を想い、八首の詩に「後引」を付している。以下がすなわちそれである。

八境圖後引


南康江水、歲歲壞城。孔君宗翰為守、始作石城、至今?之。
某為膠西守。孔君實見代、臨行出”八境圖”求文與詩、以遺南康人、使刻諸石。
其後十七年、某南遷過郡、得遍覽所謂八境者、則前詩未能道其萬一也。
南康士大夫相與請於某曰「詩文昔嘗刻石、或持以去、今亡矣。願復書而刻之。」
時孔君既沒、不忍違其請。
紹聖元年八月十九日。

(書き下し)
南康江水、歲歲(さいさい)城を壊す。孔君(こうくん)宗翰(そうかん)守と為り、始めて石城を作り、今に至るまで之を頼む、某(それがし)は膠西の守と為る。
孔君(こうくん)實見(じつけん)代(か)え、臨行(りんこうして)”八境圖”を出して文と詩を求め、南康に人を遣(つかわ)すを以て、諸石(しょせき)に刻ましめる。
其後(そののち)十七年、某(それがし)南遷して郡を過ぎ、所謂(いわゆる)八境の者を遍(あまね)く覽(み)るを得るに、則ち前詩(ぜんし)は未(いま)だ其の萬の一を道(い)うあたわざるなり。
南康の士大夫、相い與(とも)に某(それがし)に請いて曰く「詩文(しぶん)は昔(むかし)嘗(かつ)て石に刻むも、或いは持して以って去り、今は亡(な)き。願くば復(ま)た書し之を刻(こく)せんと。」時、孔君(こうくん)既に沒し、其の請うに違(たが)えるに忍びず。
紹聖元年八月十九日。

南康の江の水は、毎年のように街に被害をもたらしていました。孔君(こうくん)宗翰(そうかん)が太守となったときに、始めてここに石城を作りました。そして今現在に至るまで、この石城に治水を頼っています。
私が山東省は膠西地方(密州)の太守となった歳に、孔君(こうくん)は実際に八境台を見せるかわりに、わざわざ私のところに出向いて”八境圖”を出してみせてくれました。そしてこの図に題する文と詩を私に求めたのです。さらに南康に人を派遣して、私の詩と文(を筆書したものを)を石に刻ませたのでした。
その十七年後、私は南に左遷されて虔州を通過したさいに、このいわゆる”八境”の描かれているところをすべて実際に観る事ができましたが、すなわち前に作った私の詩は、その素晴らしい景勝の万分の一も述べつくしていないと思いました。
南康の士大夫たちは皆、わたくしに要請するに「あなたの詩文(しぶん)はかつて石に刻まれていましたが、いつのまにかどこかに持ち去られてしまい、今はありません。お願いですから、再びあなたの詩を書に書いていただき、石に刻ませてください。」この時、孔君(こうくん)は既に亡くなっており、自分では十分に行き届かない詩であるとはおもいつつも(故人を偲ぶ気持ちからも)彼らの要請に応えないわけにはいかないのでした。
紹聖元年(1094)八月十九日。
贛州 八境台絵画に後から詩を題する事はよく行われるのであるが、実際にその景色を見てしまえば、やはり絵を観て詠んだ詩だけでは、思いが行き届いていない気がしてしまうものだろう。蘇軾はあらためて詩を作りたいと思ったかもしれないが、既に故人となった孔宗瀚との情誼を思えば、新たな詩で昔の詩を覆(おお)ってしまうに忍びなかったのかもしれない。

虔州(贛州)では八境のほかにも周辺にさまざまな景勝、名所旧跡があり、「廉泉」をはじめ、それぞれについて蘇軾が詠んだ詩や文章が遺されている。しかし八境台については、ついに絵図を観て詠んだ八首以外にないのである。
落款印01


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