当方の目的にかなうペンライトの制作には高性能なLEDが必須であるが、それはいうほど簡単なことではなかった。明るいLEDは安価なものでもいくらでもあるが、前述したように、明るければ良い、というわけではない。
少し入手は難しいが、演色性が高く、色温度の高いLEDが全くないわけではない。費用はかかったが、特注で何度か試作してもらったこともある。しかし単純に演色性Raという記号であらわされる数値が高いLEDが良い、というわけではない。ここでいう良い、というのは自然光に近いか否か?という事である。
LEDの色に関する様々な指標を見、スペクトルを分析し、回路や流す電流量、使用するリフレクタ、レンズなど、実に多くの組み合わせをテストし、試作を繰り返してきた結果、ようやく満足できるものが出来たところである。
以下に、使用の一例を示す。
上は今回開発したLED美術灯の色。iPhoneのカメラで撮影している。
上は、市販の安価なペンライト。美しくも見えるが、青が強くなりすぎている。
これは「高演色」をうたった市販のペンライト。色温度が低く、赤味が強く出過ぎている。
以上は青味の強い青磁に対して照射した場合の例だが、暖色系の対象に対して使用したのが以下の例。
LED美術灯
安価なペンライト。青色の光線が強いので、印象がかなり変わってしまっている。
市販の高演色ペンライト。色温度が低いので、赤が強調されている。
骨董や古美術品がお好きな方々は、ペンライトを携行されている方も少なくないかもしれない。日本の骨董店は今やそれほどでもないかもしれないが、大陸の骨董デパート”古玩城”は薄暗いところも多く、照明があったとしても十分ではないことが少なくないから、ペンライトは必携である。
市場に、LEDの小型懐中電灯、ないしペンライトはあふれかえっている。安価なLEDペンライトは、演色性よりも輝度の高さを重視しており、かつ安価な部品で構成されている。ゆえに非常に明るい製品も少なくないが、色は良いものではない。そもそも色にこだわった製品は、一部の医療用を除けば見られない。
文物を観る場合、明るければ良い、というものではない。明るすぎると、光が反射してかえって見難いものである。むしろ適度な光の量で、色の良いものが適しているのである。もう少し例をしめす。
LED美術灯。
安価なペンライト。色のバランスが青に偏る。
市販の高演色ペンライト。色のバランスが赤に偏る。
(今回は焼き物の写真ばかりであるが、硯に照射すると、肉眼では違いがはっきり分かるのであるが、写真に撮るとあまり違いが現れないのである。iPhone13 Proのカメラで撮影しているが、色のバランスはセンサーが勝手に補正してしまうらしいので、肉眼で見るほどの差が現れていない。)
光源はこれでいい。ただペンライトのボディがどうあるべきか?という事も考えた。市場には、金属製の、削り出し加工されたボディのペンライトをよく目にする。ステンレスやチタン合金を削り出し、それなりに高級感を帯びた製品もある。より安価にするなら樹脂製が良いが、樹脂にするなら大量生産の必要がある。金属加工であれば、それほど多くないロットでも量産可能である。なにより光量を大きくしようとすると、大電流を流す必要があり、LEDは発熱する。放熱という観点では、金属製が良いのである。
ただ、個人的には、この金属製のボディというのは、文物を観るときはあまり良くないと考えていた。いうまでもなく、モノを瑕付けるリスクが高くなるからである。光を当てるためにモノにライトを近づける際に、目測をあやまって、ライトの先端がモノにあたる、という事が考えられないことではない。端溪硯なども、金属で軽くこすられると、薄く白い瑕が遺ってしまう事がある。文物を観る際に、指輪や腕時計など、金気のあるものは外すのが基本的なマナー、というよりルールなのである。そうであるのに金属製の、製品によってはそれなりの重さのあるペンライトをかざすというのは、いかがなものか?という事は考えていた。
そこで少し加工は難しくなるが、ボディを木で造ることにした。木製であれば、硯や陶器、ガラス類に接触しても、瑕を付けてしまうリスクはずっと少ないものになる。そうかといって、あまり脆弱な木材では駄目である。丈夫な木材も種類が多いが、どのような種類の木を使っても同じような加工が必要なのである。いっそのこと唐木を使いたいと考え、紫檀を使う事にした。いささか贅沢であるが、飾り棚や台、硯箱などに、唐木を使用したものは古来少なくない。使用される場面にふさわしい素材であると言えるだろう。紫檀には唐木の家具と同様、保護のために薄く漆を塗っている。
尾部にあるスイッチは、耐久性を考えて金属製であるが、目立つものではないし、観る対象に向ける部分ではない。
こういったペンライトに需要がどの程度あるか、正直わからない。だいぶコストの高いものになってしまったのも事実である。
たとえば、墨色、と一口に言っても、一般的にはただの”黒色”と認識されているだけだろう。60gで3,000円程度の墨と、1万円の墨で、墨色の何が違うのか?という向きも当然あるだろう。単純な”黒さ”の違いを数値で表せば、95と100という違いかもしれない。ただ人間の視覚、認識というのは、おそらくそう単純なものではない。自分でも気づかない、あるいは言葉に表現できないほど、深く複雑なものなのである。
市場にLED照明は無数にあるが、ひとくちに高演色である、高色温度である、といっても、実際にどこまで用途を考えて開発されているか?という問題がある。
このペンライトは、むろん、太陽の光には及ばない。ただ、屋内の照明の影響を低減し、様々な照明環境下で、モノの見え方をフラットな方向に補正するのに、役に立つであろうと確信している。構造上、あまりたくさんは作れないので受注生産になると考えている。ご興味のある方々には、ご期待を乞う次第である。
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周囲の木々の背が低い為、岩壁がいっそう高く大きく見える。この景観はどことなく范寛の『溪山行旅図』を思わせる、といえば言い過ぎであろうか。しかし巨石に低木というのは、北宋の山水画の代表的なモチーフであり、なるほど、眼前にその組み合わせを見ると妙であると感じるものである。
滝の上を見上げると、これから登る稜線がはるかに見える。風化した花崗岩の岩峰が屹立した、見方によっては荒涼とした景観は、どこか徽州の白山を想起させ、これが日本の山中である事を忘れさせる、おそらく表土が薄く、風が強いためなのだろう、ブナに混じって松や杉が見られるものの、大樹と言えるほどには育っていない。
この独特な景観は、自然環境のせいばかりではないそうだ。この山域は、古代は美しいヒノキの樹林におおわれていたそうである。しかし奈良時代から寺院建立等の為に伐採が繰り返され、また植物が成長し難い花崗岩質の為に、江戸時代の頃にはすっかり”はげ山”になってしまっていたのだと言われている。
そう考えてみると、北宋の山水画に描かれる、樹木が少なく岩山ばかりが峩々然とした光景も、あるいは樹木を伐採し過ぎた結果なのかもしれない。
金勝山系は陽を遮る程の高い樹影もあまりないから、いたって明るい山道である。奈良の山々のように、樹齢数百年もの杉の巨木も珍しくない。金剛山を縦貫する”ダイヤモンドトレイル”の、昼尚暗き山道とは様相が全く違っている。低木を圧するかのように、剥き出しの巨岩が続いている。まさにひと続きの巨大な岩盤の上を、小さな人間が歩いている事が思われる。
楚々とした水の流れに沿って登りに登る。灰褐色の岩肌を、清水が滴りおちている。あまり樹齢の経っていないであろう、若木のような木々の間を行くと、自然の山の中というよりは、さながら広大な庭園の中を行くようである。考えてみれば、大陸や日本の庭園は、こうした山水を住居に取り込む事を目指して設計されているわけである。
風化した花崗岩の岩肌からは、細かい砂利ほどの沙が絶えず剥がれ落ちている。この山域一帯から、膨大な沙が下流に流れてゆくだろうから、放っておけば、河床を埋めて水害の元になりかねない。ところどころに小規模な砂防の堰堤が築かれている。それもコンクリート造りの現代的な構造のものではなく、人頭大の石を垣に組んで造りあげられているのは、よどほ古いものであろうか。
登りを詰めて稜線に出ると、北峰縦走線出合に出る。ここから左に行くと鶏冠山(けいかんざん)であり、右に行くと天狗岩である。N氏によると鶏冠山(標高491m)は山頂でも全く眺望がない、という事だ。いってもつまらないから疲れていたら行かなくても良い、と言われたのだが、せっかくだからピークハントはしてゆきたい(どうもN氏はこの日は少々お疲れだったようだ)。北峰縦走線出合からピストンすることにした。たしかにここはなかなかの急登だったのだが、それまでが緩かったので、汗をかいておくのは悪くない。
山頂はN氏が言う通り木立に囲まれ、眺望が無かったが、ブナの林相が美しい。この山域は今年の酷暑をある程度は免れたのだろうか、ブナやナラの類の葉が綺麗な黄色に色づいている。
それから北峰縦走線出合に戻り、天狗岩をめざして北峰縦走線を歩く。前に天狗岩を頂く奇峰、右手には琵琶湖南湖をはるかに見渡す絶景が続いている。
天狗岩(標高509m)は、天狗が山頂に運んできた岩、というほどの意味になるが、日本の各地に「天狗岩」ないし「天狗」を冠し地名があるのだから面白い。自然の中に超自然を見たとき「天狗」の仕業、という事になるのだろうか。
風化した花崗岩の岩肌が午後の強い光を受けて白く光っている。高校生の頃に登った、北アルプスの燕岳を思い出した。
登山客の多くはこの天狗岩を目指すから、若干人の密度が高くなっている。岩の頂きに向かってよじのぼるわけだが、風雨の侵食で岩がえぐれて細い岩石の通路が幾筋か走っており、それが錯綜して小さな迷路のようになっている。
岩登りが得意であれば、どんなルートでも頂にいたるわけだが、そこは登りやすいルートを選びたい。ただ、どこから登ればいいか、明確な指示のようなものは見当たらない。
N氏は久しぶりに来たということで、登りやすい経路を見つけるのにやや迷っていたが、二度ほど行きつ戻りつを繰り返したうえで、最後はあまり手掛かりのない岩肌に取り付いて、背丈ほどの高さをよじ登り、三畳くらいの広さの天狗岩の頂きの上に至った。北を望めば、青くかすむ琵琶湖南湖と、大津の街並みがみえる。素晴らしい眺望である。
頂には先客がおられて「こちらから登れば楽ですよ」といって、我々が登ってきた方面から、さほど離れていない一方を指さして教えてくれた。そこは階段状に岩がえぐれていて、拍子抜けするほど楽に登れるのだった。
天狗岩からはおおむね下りであるが、よく整備されていて快適な山道ではある。山頂の眺望をおもえばずいぶんと高い山に登ったような感覚になるが、天狗岩でも標高500メートルほどの高さであるから、30分も下ると傾斜も緩やかになり、狭い山道から開けた麓の林道に出ると、巨大な三尊像が刻まれた岩壁が現れる。
この狛坂摩崖佛は、作風から奈良時代後期、渡来人の手による造像であると考えられているという。やはり徽州の白山でも多くの摩崖佛を観たが、東アジアにおけるごく初期の仏教の伝播、山岳信仰と不可分であったことを思わせる。
さらに歩くと「オランダ堰堤」が現れる。明治二十二年、オランダから招かれた砂防工事の技術者ヨハネス・デレーケ氏の指導の下に作られた砂防堰堤で、「割石堰堤」としては日本最古のものであるという。
堰堤の両袖が下流に対してわずかに凹面に湾曲し、水通しの直下、透過部から滴る水がつくる青い淵を、美しい曲線が囲んでいる。方形に切り出した石で組まれた堰堤は「鎧積み」と呼ばれる組み方で、流水の勢いを石垣の表面の凹凸が緩和し、堰堤直下の洗堀を防止する構造になっているという。
冬至を控え、陽が短い。
「オランダ堰堤」の前に渡された沈下橋を渡り、傾いた陽に照らされた美しい樹林を抜けると、車を停めた駐車場に戻った。今回の山歩きも終わりである。思いがけず、良い週末を過ごせたものである。お誘いをいただいたN氏に今回も感謝である。
先日、京セラ美術館に『竹内栖鳳展』を観に行った。栖鳳が使用していたという硯が展示されていた。かなり使い込まれていて、表面を宿墨が厚く覆ったままなので、石質はよくわからなかったが、ともあれあまり大きな硯ではない。むろん、ほかにも大きな硯を所有していて、大作に用いていたかもしれないが、大作ばかりを描いていたわけでもないだろう。宿墨が遺る硯面は、それが画の制作に使用されていた事を想像させる(洗った方が良いとは思うが)。
竹内栖鳳は早くから洋行し、西洋画の技法や主題、構図を取り入れ、バラエティに富んだ作品群を遺しているが、どうも本領はやはり水墨画だったのではないか?というように感じられる。南画、あるいは近代の大陸の山水画の技法を取り入れた水墨による風景画に伸びやかさがあって、楽しんで書いていたように思われた。
竹内栖鳳は墨の蒐集にも凝っていて、かなりの数の明墨を所有していた事が伝わっている。その一部を実見したことはあるが、今の目線で見れば、本当に明代の唐墨だったのかは、正直なところ疑問が残る。むろんその事が、画家としての評価に影響するものではない。
明治大正昭和に生きた大家の一人は「明墨に非ずんば墨の非ず」とまで言い切ったとかいないとか。そういう時代だった、というよりない。明代の墨に関しては、徳川美術館の収蔵品が基準になっているところがあるが、このあたりもそろそろ再検討が必要なのかもしれない。
「骨董は、欲しい人の数だけある。」という古人の言は、古い時代のものを求めるときは常に念頭に置くべきであろうし、日本では明墨が長く茶道具の文房飾りとして需要があった事も注意すべきところだろう。
それはさておき。
硯を集めるのも難しい時代になってきた。特に端溪は、旧坑がすべて閉鎖されてかれこれ20年は経過した。沙浦など、あまり質の良くない北嶺の硯石は依然として採掘されているものの、新老坑や坑仔巌、麻子坑といった旧坑系の硯石は、硯匠のもとにある在庫ないし流通在庫以外にないわけである。
むろん、硯が必ず端溪である必要はないかもしれないが、石硯の歴史とともに続いてきた端溪硯を求める声は、絶えることがないものである。しかしながら、そろそろ歙州硯も考えていかなければならないだろう。それほどまでに、端溪の良材は払底している。
今回お出しする硯は、期せずして、類似したモチーフの硯がそろってしまった。梅花や青鸞は、古典的な吉祥図案である。ほぼ同様の主題が並ぶと、硯の意匠に関する解説も同じようになってしまうかもしれないが、そこはご了承いただきたい。
日本だと「梅に鶯」という事になる。大陸でも時代が下ると「梅に鶯」という事になってしまうのであるが、梅花に戯れる小さな鳥は必ずしも鶯とは限らない。おそらく古代において大樹をめぐる小さな鳥は青鸞であり、梅も桃樹だったのだろう。すなわち、西王母の使者である青鸞が桃を運ぶ「青鸞献壽」が、もともとの主題であったと考えられる。それが時代を経るごとに、より身近なモチーフにイメージが置き換わる、という事も、珍しくはない。
また竹との組み合わせもあるが、これは梅花が四君子のひとつであることから生じたバリエーションで、やはり四君子の竹に添わせたものであると考えられる。
ただ意匠だけではなく、石品にも見どころのある硯たちで、それぞれ特徴がある。また荷葉硯を除くと、まずまずの深さの墨堂と墨池を備えているから、半紙、条幅などの作品作りや、やや大きめの水墨画の制作にも適しているであろう。
ちなみに硯の写真を撮るときは、すべて自然光で撮る事を心掛けている。太陽光も晴天と曇天、午前と午後では光線のスペクトルが変わるものであるから、晴天の午前中に撮るようにしている。
現代は昔のように白熱電球が普及していた時代ではなく、LED照明が広く使用されている。このLED照明は、白熱電球に比べて消費電力が格段に小さいから、省エネに大きく寄与している。また紫外線を100%カットした光を作り出すことが出来るから、文物の保護という観点では非常に優れた面がある。(白熱電球、蛍光灯は紫外線が出ている)
ただLED照明にも欠点があり、それは製品によって色味にばらつきが大きい、ということだ。特に安価なLED照明は色味が貧弱で、明るい事は明るいが、青に偏った見え方をしてしまう。色味を改善したLED照明もあるにはあるが、それは黄色、ないしややオレンジがかった、昔のエジソン電球に近い色になる。その色味には温かみはあり、青に偏った電球よりはいいが、やはり必要以上に赤味が出てしまうのも問題である。
人工照明の場合、選び方によっては、必要以上に石品を良く見せる事も可能だ。しかし、所有される方が皆々、同じ条件の光源を用意できる事を期待する、というのは無理な話で、悪い言い方をすれば「写真に騙された」という事も起こりうる。。。イメージキャラクターに起用されたタレントなら、いくら美しく撮ってもそれが商品というわけではないから問題ないが、商品写真、しかも外観もポイントになる品物であれば、良く見せすぎるのも問題ではないだろうか。
昔から「硯は陽の下で観よ」と言われるように、太陽の光がベストであり、もっとも公平な光源である。必ずしも石品を明瞭に見せるわけではないかもしれないが、もっとも嘘が少ない、という事は言えるだろう。現実に、太陽の光はあらゆる光の波長がバランス良く分布しているから、これ以上の光源はないのである。
(むろん、カメラのイメージセンサーの性能も関係するのであるが)
この光源の問題に関しては、実は10年以上前にLED照明が普及し始めた時から考えていて、試行錯誤を繰り返してきた(自分自身は実は工学系の出身なので、墨や硯の事よりも、むしろ専門に近いといえば近いかもしれない)。最近ようやく成果が出そうなのだが、その件についてはまた機会を改めたい。
以下、賦を掲げ、ついで書き下し、大意を示す。語彙の注釈は適宜書き下しに加えてみた。
登樓賦
漢・王粲
登茲樓以四望兮 聊暇日以銷憂
覽斯宇之所處兮 實顯敞而寡仇
挾清漳之通浦兮 倚曲沮之長洲
背墳衍之廣陸兮 臨皋隰之沃流
北彌陶牧 西接昭丘
華實蔽野 黍稷盈疇
雖信美而非吾土兮 曾何足以少留
遭紛濁而遷逝兮 漫踰紀以迄今
情眷眷而懷歸兮 孰憂思之可任
憑軒檻以遙望兮 向北風而開襟
平原遠而極目兮 蔽荊山之高岑
路逶迤而脩迥兮 川既漾而濟深
悲舊鄉之壅隔兮 涕?墜而弗禁
昔尼父之在陳兮 有歸歟之歎音
鍾儀幽而楚奏兮 莊舄顯而越吟
人情同於懷土兮 豈窮達而異心
惟日月之逾邁兮 俟河清其未極
冀王道之一平兮 假高衢而騁力
懼匏瓜之徒懸兮 畏井渫之莫食
步棲遲以徙倚兮 白日忽其將匿
風蕭瑟而並興兮 天慘慘而無色
獸狂顧以求群兮 鳥相鳴而舉翼
原野闃其無人兮 征夫行而未息
心悽愴以感發兮 意忉怛而憯惻
循堦除而下降兮 氣交憤於胸臆
夜參半而不寐兮 悵盤桓以反側
(書き下し)
茲(こ)の樓(ろう)に登り以って四望(しぼう)し、暇日(かじつ)に聊(よ)りて以って憂(うれひ)を銷(け)さん
斯(こ)の宇(うてな)の處(よ)る所(ところ)を覧(らん)ずれば、實(まこと)に顯敞(けんしょう:明るくひろびろとしている)にして、仇(たぐひ)寡(すく)なし
清漳(せいしょう:漳江)を挾(たばさ)みて浦(ほ)を通じ、曲沮(きょくそ:沮江)の長洲に倚(よ)る
墳衍(ふんえん;水涯と低地)たる廣陸(こうりく)に背き、皋隰(こうしつ:湿地)の沃流(よくりゅう)に臨む
北のかた陶牧(とうぼく:陶朱公の墓)に彌(わた)り、西のかた昭邱(しょうきゅう:楚昭王の墓)に接す
※『荊州記』に「江陵县西有陶朱公冢 其碑云是越之范蠡而终于陶」とある
華實(かじつ:花と果実)、野を蔽(おお)い、黍稷(かしょく)は疇(うね)に盈(み)つ
信(まこと)に美(び)なると雖(いえど)も吾(わ)が土に非ず、曾(すなわ)ち、何ぞ以て少留(しょうりゅう)するに足らんや
紛濁(ふんだく:戦乱、混乱)に遭(あ)って遷逝(せんせい:移り住み)し、漫(まん)に紀(き:12年)を逾(こ)え以って今に迄(およ)ぶ
情は眷眷(けんけん;恋々)として懷歸(かいき:帰郷したいと思う)するも、孰(たれ)か憂思(ゆうし)を任(ま)かすべし
軒檻(けんらん)に憑(よ)り以って遙(はるか)に望み、北風に向かい開襟(かいきん)す
平原(へいげん)遠く目を極(きわ)むるも、荊山の高岑(こうしん:高い山)に蔽(さえぎら)る
路は逶迤(もごよう;くねくねつづく)修迥(しゅうけい:はるか)、川は既漾(きよう:水流長い)而深(ふか)きを濟(わた)る
舊鄉(きゅうきょう:故郷)の壅隔(ようかく:隔てられている)を悲み、涕(なみだ)?墜(おうつい)するを禁ぜず
昔(むかし)尼父(ちゅうほ:孔子)の陳(ちん)に在(あ)りて、歸歟(きよ:かえろうよ)の嘆音(たんいん)有り
鐘儀(しょうぎ)は幽(ゆう)せられ楚奏(そそう)し、莊舄(しょうせき)は顯(あらわ)れて越吟(えつぎん)す
※春秋左氏傳:楚囚南冠(そしゅうなんかん)史記:莊舄越吟(しょうせきえつぎん)
人の情は同(おしなべ)て土を懷(なつ)かしむに、豈(あ)に窮達(きゅうたつ)の心(こころ)異(こと)ならんや
惟だ日月(じつげつ)の逾邁(ゆまい:すぎてゆくこと)、河清、其の未だ極まらずを俟(ま)たん
王道の一平を冀(こいねが)い、高衢(こうく:おうどう)騁力(ていりく:効力)を假(たの)む
匏瓜(ほうか)の徒(いたずら)に懸くるを懼(おそ)れ兮、井渫(せいせつ)の食なしを畏(おそ)る
※論語:匏瓜空繫(ほうかくうけい)易経:井渫不食(せいせつふしょく)
步んで棲遲(せいち:ゆったりと)、以って徙倚(しい:さまよう)すれば、白日、忽(こつ)として其(そ)れ將(まさ)に匿(かく)れんとす
風は蕭瑟(しょうしつ)として並興(へいこう:一斉に起こる)し、天は慘慘(さんさん:いたましい)として無色(むしょく)
獸は狂顧(きようく:あわててふりかえる)し以って群を求め、鳥は相い鳴きて翼を舉(あ)ぐ
原野は闃(げき:静か)として其れ人無きに、徵夫(ちょうふ)行、未だ息まず
心は淒愴(せいそう)以って感發(かんぱつ)し、意は忉怛(とうだつ:憂い悲しむこと)して慘惻(さんそく)す
階除(かいじょ:階段)を循(めぐ)りて下降(かこう)するも、氣は胸臆(きょうおく)に交憤(こうふん:ふんまん)す
夜(よる)參半(さんぱん)にして不寐(ふび)、悵(ちょう)として盤桓(ばんかん:ぐずぐずとする)以って反側(はんそく:ねがえり)す
(大意)
この楼閣に登って四方を見渡し、休日を過ごしながら、(胸中の)憂いを(いささかでも)まぎらわせようか
この高い建物が建てられた地をひとわたり眺めると、まことに明るく広々としていて、(よそに)くらべられるところがない(すばらしい景観だ)
清らかな漳江を帯び、曲がりくねった沮江に流れを通じる、長い中洲(の上に)に建っている(漳江と沮江の流れが合流するあたりの中洲の上に建っている)
ひろびろとした水際の低い土地を背後に控え、水辺の湿地の肥沃な流れに臨んでいる
北には陶朱公(すなわち越を去った范蠡)の生活した地である(という)江陵に続き、西には楚の昭王の墓のある昭邱に接している
花や果物が平野をおおい、穀物の実りが畝(うね)に満ち溢れている
ほんとうに(豊穣で)美しい景観であるが、(しょせんは)私の故郷ではないのだから、どうしたって(本来なら)わずか(の間)だって留まるべきところではない
(不本意にも)混乱と戦乱に遭って、(土地を)遷(うつ)り、たいしたこともしないままに(滞在は)十二年をこえて、今日にいたってしまった
故郷に帰りたいという気持ちは恋々としてあるが、誰にこの憂鬱な思いを打ち明けたらよいだろうか
(楼の)欄干(おばしま)によりかかり、遥か遠く(北の故郷の方角を)を望み、(せめて故郷から吹く風にあたろうと)北風にむかって襟を開く
(故郷のある)平原は遠く、(見えないものかと)目を凝らしてみるも、荊州の高い山々にさえぎられてしまう
(故郷への)道はくねくねとまがりくねりながらはるかに続き、川は延々と長く深い流れがつづいている
(そのような光景をみるにつけ)故郷から遠く隔てられている事をおもって悲しくなり、涙があふれながれることを止めることができない
昔、孔子は陳国に(志をえないまま)とどまっていたが(ついに)「(故郷に)かえろうよ」と嘆いた(歌をつくった)
鐘儀(しょうぎ)は晋で幽閉されても(故郷の)楚の曲を奏で、莊舄(そうせき)は(楚で重く)用いられても(家では)越の言葉で語った(という)
人情はおしなべて故郷を懐かしむもので、窮迫したり栄達したりという事で(故郷を想う)その心が変わってしまう事はない
ただ月日がすぎてゆき、濁った河の流れが清くなる(ように、戦乱が収まる)のを待つしかないのだろうか
王道によって(戦乱が)平定されることを心から願い、大いなる(ご政)道の威力にたよるばかりである
ひさごが用いられることもなくむなしく軒にぶらさがっている(ように能力を発揮できないまま朽ちてゆく)ことをおそれ、ごみを浚った井戸があるのに飲み水としてもちいられない(ように、勉強してもやはりもちいられない)ことをおそれる
(楼上を物思いにふけりながら)ゆっくりと歩きながらさまよっているうちに、太陽はたちまちのうちに(まさに)沈もうとしている(時刻になっていしまった)
(ひゅうひゅうと)さびしい音をたてながら風が一斉に起こり、天は(陰鬱な雲が覆って)いたましい(ほどの)無彩色(に暗くなってゆく)(このように瞬く間に漢朝の威光がかげり、長い戦乱の時代が訪れた)
(嵐の到来をおそれて)獣があわてふためいて(走り去りながら)群れをもとめ、鳥は互いに鳴き声をあげながら、(飛び立とうと)翼をひろげている(この光景に、長安から逃げ惑う自分や民衆の姿が思い起こされる)
原野は人がいないかのように静かだが、(ただ)徴集された男子が(いずこかの任地へ)休みなく向かっている(うち続く争いに終わりが見えない)
(眼前の景色にかつての恐怖が思い出され)心はさびしさと痛ましさにうちふるえ、意気は憂いと悲しみによってみじめにくじかれる
(楼閣のらせん状の)階段を(まわり)めぐって降りてゆきながら、胸中には(やるせない)憤懣の気が沸き起こる
(宿舎に帰るも)夜半ばに至っても寝付くことができず、ぐずぐずと恨み嘆いては寝返りをうっている(ばかりである)
(後記)
王粲についてはくだくだしく述べるまでもないだろう。王粲は曾祖父王龔が太尉、祖父王暢が司空に登っており、二世代にわたり三公(太尉、司空、司徒)を輩出した名門の家に生まれた。また長安で蔡邕に蔵書を託されたほどの、将来を嘱望された早熟の天才であった。しかし董卓の死後、長安の動乱を避けて劉表の統治する荊州へ避難する。王粲の祖父王暢(おうちょう)は南陽に滞在していた時、まだ15歳の劉表に学問を教えており、その縁を頼ったのだろう。
劉表は自分の娘を王粲に嫁がせることを考えていたが『三国志・王粲傳』に「表以粲貌寢而體弱通侻」とあり、王粲が身体が弱く容貌が貧相なこととから王粲の従兄に嫁がせてしまったという。加えて王粲の「通侻」世俗にこだわらない性格を嫌ったのか「不甚重也」と、あまり重く用いなかった、という。
この『登樓賦』がつくられた時期、場所については諸説ある。
まず、賦がつくられた場所については、漳江と沮江が合流し、また江陵の南、昭邱の東という事から、当陽の麦城(現湖北省当陽市両河鎮)であると考えて良いだろう。伝承では麦城は楚の昭王が築いた城であるという。
『水經註・沮水』によれば周の敬王十四年(前506年)には吳の伍子胥が楚の麦城を攻め、麦城の近郊に驢、磨というふたつの城を築き、麦城を攻め落とした。ゆえに「東驢西磨,麦城自破」ということわざが出来たという。その城が後漢末にも続いていたとすれば、やはりこの地方の要衝であったといえるだろう。
王粲は『登樓賦』を襄陽近郊でつくった、という説も見られるが.....『三国志・潘濬傳』の裴松之の注にある『呉書』には「山陽王粲見而貴異之」とあり、武陵郡は漢壽出身の潘濬は王粲に見いだされた、という事が書かれている。武陵は麦城よりさらに南であるが、王粲が荊州南部の諸郡に赴任していたことをうかがわせる。ゆえに王粲は襄陽で荊州南方の様相を想像してこの賦をつくったのではなく、実際に現地でつくったと考えて良いだろう。
当時の荊州南部は蛮族が跋扈し、しばしば反乱を起こす難治の地であるが、その統治は重要である。とはいえ、華麗な文才を誇る王粲が、襄陽で劉表の秘書官をつとめるではなく、地方の県令ないし巡検をしていたとすれば、いささか不遇といえようか。王粲には袁紹の息子らに劉表が送った外交文書が遺っており、劉表も王粲の才能をよくわかっていたはずであるが『三国志・王粲傳』にあるように、やはりどこか劉表の好みに合わない性格があったのかもしれない。
後年、建安二十四年に関羽がこの麦城で孫権に敗北するが、王粲に推挙された潘濬は関羽の指揮下にあったものの、最後は呉に降伏している。
賦の造られた時期であるが、賦中に「漫踰紀以迄今」とあり、荊州に来てから「紀」すなわち12年が経過した、とある。王粲が長安の戦乱を避けて荊州に至ったとすれば、王粲が20代半ばの初平三年(192)、ないし遅くとも四年(193)のはずである。蔡邕が初平三年に処刑されている事も影響しているだろう。それから12年後とすれば、建安九年ないし十年のころだろう。このころ王粲は30代も後半で、当時でいえば中年、という年齢である。本来なら漢朝に仕え、いずれ曾祖父、祖父と同じく三公に登ろうかという才能の持ち主が、群雄のひとりにすぎない劉表に冷遇され、荊州の片田舎で無聊をかこっていたのだとすれば、これは辛い。
賦がつくられた季節を考えると「華實蔽野,黍稷盈疇」とあるから、おそらく秋。「暇」とあるのは休日で、節句の休日であり、重陽(旧暦の九月九日)ではないだろうか。
重陽(旧暦の九月九日)に「登高」する風習があるが、郊外の小高い山や丘に登って遠くを眺めるのである。この風習は魏晋時代にはすでに行われており、後漢の桓景が九月九日に「登高」して難を避けた故事に由来するらしきことが南朝梁の吳均『續齊諧記』に書かれているが(これは小説本の類であり)定かとは言えない。
『登樓賦』には、終わらない戦乱を深く悲しみ、何もできない自分の無力を嘆く気持ちがうたわれている。
王粲は『七哀詩』でも、動乱の犠牲となる民衆の悲惨な様相を写実的に描いているが『登樓賦』においては、原野をかける禽獣の動揺の描写でそれを喩えている。
王粲は一目で碑文を暗誦したり、バラバラになった碁石を棋局通りに碁盤に並べなおすなど、いわゆる「映像記憶力」を持っていたと考えられる逸話が残っている。自身が体験した凄惨な記憶のトラウマに、苦しめられる夜も少なくなかったのだろう。眼前の光景が、過去を生々しく想起させる様子が、この賦にもうたわれている。
賦に「王道の一平を冀(こいねが)い」「高衢(こうく:王道)の騁力(ていりく:効力)を假(たの)む」とあるのは、戦乱を終息させる力が自分はもとより、仕える劉表にも無い事を暗に言っている、ともよめる。王粲は後年、曹操に「士之避亂荊州者、皆海內之儁傑也。表不知所任、故國危而無輔」荊州に乱をさけた人士は俊傑揃いであったが劉表は用いるすべを知らず、ついに国が滅んだ、と痛烈に批判している。
建安十三年、河北を平定した曹操は荊州に南征を開始するが、曹操が至る前に劉表は病死する。王粲は劉表の息子劉?を立て、曹操への降伏を勧めたという。劉表の長子劉?は劉備に担がれ、孫権と連合し、曹操との決戦に挑むのである。
曹操が南征に先立ってうたった『短歌行』には、荊州へ避難した知識人達に帰参を呼びかける内容がうたわれているが、より端的には、王粲に向けられたものだ、という説がある。いわば『登樓賦』に応えた、という読み方もできるかもしれない。
(終わり)
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非常に寒い日もありましたが、印象としては今年はそれほど寒くはないように感じます。
金剛山から水越峠にくだり、そこから大和葛城山へ登るのがいつものコースなのですが、日の短い冬場は、登り始めるのが遅い場合、水越峠からそのまま奈良側に降りてしまう事があります。日が傾くと山道は急に暗くなるものなので、安全のためには明るいうちに山道を抜けるのが無難です。山歩きに慣れているようでも、単独行は倍は慎重に行動する必要があります。
水越峠からはJR御所駅まで2時間ほど歩くのですが、途中の田野の様子も、趣深いものがあります。
電柱や舗装道路が写らないと、ほとんど江戸時代と変わらないのではないか?と思えるような家屋のそばを通ります。
付近に歴史の古い神社も多いです。お寺もあるのですが、当然ですが仏教は伝来したものなので、神社の建立時期には及びません。
傍を通り過ぎて感心している分にはいいのですが、現実にこういった家屋に住んで、修繕しながら維持してゆくのは非常に大変なのだろうなあ、とは思います。
実は中国の友人が日本で買った家屋の面倒を時々みているのですが、これほど古い家でなくても、なかなか骨が折れる事もあります。住んでいないと、家というものは廃れてゆく一方であると言いますが、その事を実感しています。
冷え込んだり、寒さが緩んだり、を繰り返す季節ですが、くれぐれも体調にはお気を付けてお過ごしください。
店主 拝
]]>お店の営業を再開いたしました。ご不便をおかけいたしまして申し訳ございません。
どうぞご利用ください。
思えば大陸へ自由に渡航が出来たころは、年末年始は渡航していて、お店は10日〜2週間ほど休業していたものでした。実は関東にいたのですが、用件が済んで帰りしな、三島によることになりました。その様子はまた後日拙い文章に書こうとしているのですが、三島は街の中のいたるところ富士山の融水が流れていて、それがどこか江南の水郷が思い起こされて懐かしい気持ちになりました。日本人が日本の街の光景を観て大陸を懐かしむ、というのも少しおかしい事かもしれませんが、久しく行っていないとそういう気持ちになりますね。そこで2019年の11月の終わりに訪れた紹興の街の写真を観返したりしていました。
写真家ではないので、もとより良い写真を撮る自信はありません。ただごく初心者的な心得ですが、なるべく余計な物は写らない様にする、という事は意識しています。これは写真に限らず、絵画や文章にも言える事でしょう。
日本に観光に来る外国人が、写真を撮っていて不満に思うのが、日本の”電信柱と電線”だそうです。曰く京都の古都の景観も、電線が縦横に走っているから台無しだと。それで最近ではこの”電線だけを消す”アプリなんかもあるそうです。
確かに電線や電柱というのは、古都にしても、自然の景色の中にあっても、余計なものに観える事があるでしょう。欧米では、地下に電力網が埋設されている国が多いようです。ただ地震が多い日本ですから、地下に電線が走るとなると、地震で断線した場合に復旧に時間がかかると思います。電柱と電線は、台風で被害を受ける反面、復旧作業も早く終わる、というあたりに理由があるのかもしれません。
紹興で撮った写真を観ていると、紹興の街にも電信柱と電線があります。たしか上海の老街でも、冬になると電線に鶏肉や魚を吊るして干していたような記憶があります。
この電柱と電線が無ければ、本当に明清の街のように観えるかもしれない、とするとやはり少し惜しい気持ちもしてきます。電線と電柱を避けて街を撮るのはなかなか難しい。江南の街の場合、地下に電線を埋設するとなると、縦横に走る水路を避けるのが難しかったのでしょう。そこには現在住んでいる人々の生活の、さしせまった要求あるわけですから、のんきな旅人の願望は聞いていられない、というところでしょうか。
今年の春節は1月22日からで、大陸ではこれからいよいよ”年の瀬”になります。今月の21日はちょうど土曜日で、大陸では”越年(年越し)”という事になります。この日くらいはできなかった年越しを改めてしようかと、画策している次第。
時節柄、皆様方におかれましては、くれぐれもご自愛のほどをお願い申し上げます。
店主 拝