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周囲の木々の背が低い為、岩壁がいっそう高く大きく見える。この景観はどことなく范寛の『溪山行旅図』を思わせる、といえば言い過ぎであろうか。しかし巨石に低木というのは、北宋の山水画の代表的なモチーフであり、なるほど、眼前にその組み合わせを見ると妙であると感じるものである。
滝の上を見上げると、これから登る稜線がはるかに見える。風化した花崗岩の岩峰が屹立した、見方によっては荒涼とした景観は、どこか徽州の白山を想起させ、これが日本の山中である事を忘れさせる、おそらく表土が薄く、風が強いためなのだろう、ブナに混じって松や杉が見られるものの、大樹と言えるほどには育っていない。
この独特な景観は、自然環境のせいばかりではないそうだ。この山域は、古代は美しいヒノキの樹林におおわれていたそうである。しかし奈良時代から寺院建立等の為に伐採が繰り返され、また植物が成長し難い花崗岩質の為に、江戸時代の頃にはすっかり”はげ山”になってしまっていたのだと言われている。
そう考えてみると、北宋の山水画に描かれる、樹木が少なく岩山ばかりが峩々然とした光景も、あるいは樹木を伐採し過ぎた結果なのかもしれない。
金勝山系は陽を遮る程の高い樹影もあまりないから、いたって明るい山道である。奈良の山々のように、樹齢数百年もの杉の巨木も珍しくない。金剛山を縦貫する”ダイヤモンドトレイル”の、昼尚暗き山道とは様相が全く違っている。低木を圧するかのように、剥き出しの巨岩が続いている。まさにひと続きの巨大な岩盤の上を、小さな人間が歩いている事が思われる。
楚々とした水の流れに沿って登りに登る。灰褐色の岩肌を、清水が滴りおちている。あまり樹齢の経っていないであろう、若木のような木々の間を行くと、自然の山の中というよりは、さながら広大な庭園の中を行くようである。考えてみれば、大陸や日本の庭園は、こうした山水を住居に取り込む事を目指して設計されているわけである。
風化した花崗岩の岩肌からは、細かい砂利ほどの沙が絶えず剥がれ落ちている。この山域一帯から、膨大な沙が下流に流れてゆくだろうから、放っておけば、河床を埋めて水害の元になりかねない。ところどころに小規模な砂防の堰堤が築かれている。それもコンクリート造りの現代的な構造のものではなく、人頭大の石を垣に組んで造りあげられているのは、よどほ古いものであろうか。
登りを詰めて稜線に出ると、北峰縦走線出合に出る。ここから左に行くと鶏冠山(けいかんざん)であり、右に行くと天狗岩である。N氏によると鶏冠山(標高491m)は山頂でも全く眺望がない、という事だ。いってもつまらないから疲れていたら行かなくても良い、と言われたのだが、せっかくだからピークハントはしてゆきたい(どうもN氏はこの日は少々お疲れだったようだ)。北峰縦走線出合からピストンすることにした。たしかにここはなかなかの急登だったのだが、それまでが緩かったので、汗をかいておくのは悪くない。
山頂はN氏が言う通り木立に囲まれ、眺望が無かったが、ブナの林相が美しい。この山域は今年の酷暑をある程度は免れたのだろうか、ブナやナラの類の葉が綺麗な黄色に色づいている。
それから北峰縦走線出合に戻り、天狗岩をめざして北峰縦走線を歩く。前に天狗岩を頂く奇峰、右手には琵琶湖南湖をはるかに見渡す絶景が続いている。
天狗岩(標高509m)は、天狗が山頂に運んできた岩、というほどの意味になるが、日本の各地に「天狗岩」ないし「天狗」を冠し地名があるのだから面白い。自然の中に超自然を見たとき「天狗」の仕業、という事になるのだろうか。
風化した花崗岩の岩肌が午後の強い光を受けて白く光っている。高校生の頃に登った、北アルプスの燕岳を思い出した。
登山客の多くはこの天狗岩を目指すから、若干人の密度が高くなっている。岩の頂きに向かってよじのぼるわけだが、風雨の侵食で岩がえぐれて細い岩石の通路が幾筋か走っており、それが錯綜して小さな迷路のようになっている。
岩登りが得意であれば、どんなルートでも頂にいたるわけだが、そこは登りやすいルートを選びたい。ただ、どこから登ればいいか、明確な指示のようなものは見当たらない。
N氏は久しぶりに来たということで、登りやすい経路を見つけるのにやや迷っていたが、二度ほど行きつ戻りつを繰り返したうえで、最後はあまり手掛かりのない岩肌に取り付いて、背丈ほどの高さをよじ登り、三畳くらいの広さの天狗岩の頂きの上に至った。北を望めば、青くかすむ琵琶湖南湖と、大津の街並みがみえる。素晴らしい眺望である。
頂には先客がおられて「こちらから登れば楽ですよ」といって、我々が登ってきた方面から、さほど離れていない一方を指さして教えてくれた。そこは階段状に岩がえぐれていて、拍子抜けするほど楽に登れるのだった。
天狗岩からはおおむね下りであるが、よく整備されていて快適な山道ではある。山頂の眺望をおもえばずいぶんと高い山に登ったような感覚になるが、天狗岩でも標高500メートルほどの高さであるから、30分も下ると傾斜も緩やかになり、狭い山道から開けた麓の林道に出ると、巨大な三尊像が刻まれた岩壁が現れる。
この狛坂摩崖佛は、作風から奈良時代後期、渡来人の手による造像であると考えられているという。やはり徽州の白山でも多くの摩崖佛を観たが、東アジアにおけるごく初期の仏教の伝播、山岳信仰と不可分であったことを思わせる。
さらに歩くと「オランダ堰堤」が現れる。明治二十二年、オランダから招かれた砂防工事の技術者ヨハネス・デレーケ氏の指導の下に作られた砂防堰堤で、「割石堰堤」としては日本最古のものであるという。
堰堤の両袖が下流に対してわずかに凹面に湾曲し、水通しの直下、透過部から滴る水がつくる青い淵を、美しい曲線が囲んでいる。方形に切り出した石で組まれた堰堤は「鎧積み」と呼ばれる組み方で、流水の勢いを石垣の表面の凹凸が緩和し、堰堤直下の洗堀を防止する構造になっているという。
冬至を控え、陽が短い。
「オランダ堰堤」の前に渡された沈下橋を渡り、傾いた陽に照らされた美しい樹林を抜けると、車を停めた駐車場に戻った。今回の山歩きも終わりである。思いがけず、良い週末を過ごせたものである。お誘いをいただいたN氏に今回も感謝である。
先日、京セラ美術館に『竹内栖鳳展』を観に行った。栖鳳が使用していたという硯が展示されていた。かなり使い込まれていて、表面を宿墨が厚く覆ったままなので、石質はよくわからなかったが、ともあれあまり大きな硯ではない。むろん、ほかにも大きな硯を所有していて、大作に用いていたかもしれないが、大作ばかりを描いていたわけでもないだろう。宿墨が遺る硯面は、それが画の制作に使用されていた事を想像させる(洗った方が良いとは思うが)。
竹内栖鳳は早くから洋行し、西洋画の技法や主題、構図を取り入れ、バラエティに富んだ作品群を遺しているが、どうも本領はやはり水墨画だったのではないか?というように感じられる。南画、あるいは近代の大陸の山水画の技法を取り入れた水墨による風景画に伸びやかさがあって、楽しんで書いていたように思われた。
竹内栖鳳は墨の蒐集にも凝っていて、かなりの数の明墨を所有していた事が伝わっている。その一部を実見したことはあるが、今の目線で見れば、本当に明代の唐墨だったのかは、正直なところ疑問が残る。むろんその事が、画家としての評価に影響するものではない。
明治大正昭和に生きた大家の一人は「明墨に非ずんば墨の非ず」とまで言い切ったとかいないとか。そういう時代だった、というよりない。明代の墨に関しては、徳川美術館の収蔵品が基準になっているところがあるが、このあたりもそろそろ再検討が必要なのかもしれない。
「骨董は、欲しい人の数だけある。」という古人の言は、古い時代のものを求めるときは常に念頭に置くべきであろうし、日本では明墨が長く茶道具の文房飾りとして需要があった事も注意すべきところだろう。
それはさておき。
硯を集めるのも難しい時代になってきた。特に端溪は、旧坑がすべて閉鎖されてかれこれ20年は経過した。沙浦など、あまり質の良くない北嶺の硯石は依然として採掘されているものの、新老坑や坑仔巌、麻子坑といった旧坑系の硯石は、硯匠のもとにある在庫ないし流通在庫以外にないわけである。
むろん、硯が必ず端溪である必要はないかもしれないが、石硯の歴史とともに続いてきた端溪硯を求める声は、絶えることがないものである。しかしながら、そろそろ歙州硯も考えていかなければならないだろう。それほどまでに、端溪の良材は払底している。
今回お出しする硯は、期せずして、類似したモチーフの硯がそろってしまった。梅花や青鸞は、古典的な吉祥図案である。ほぼ同様の主題が並ぶと、硯の意匠に関する解説も同じようになってしまうかもしれないが、そこはご了承いただきたい。
日本だと「梅に鶯」という事になる。大陸でも時代が下ると「梅に鶯」という事になってしまうのであるが、梅花に戯れる小さな鳥は必ずしも鶯とは限らない。おそらく古代において大樹をめぐる小さな鳥は青鸞であり、梅も桃樹だったのだろう。すなわち、西王母の使者である青鸞が桃を運ぶ「青鸞献壽」が、もともとの主題であったと考えられる。それが時代を経るごとに、より身近なモチーフにイメージが置き換わる、という事も、珍しくはない。
また竹との組み合わせもあるが、これは梅花が四君子のひとつであることから生じたバリエーションで、やはり四君子の竹に添わせたものであると考えられる。
ただ意匠だけではなく、石品にも見どころのある硯たちで、それぞれ特徴がある。また荷葉硯を除くと、まずまずの深さの墨堂と墨池を備えているから、半紙、条幅などの作品作りや、やや大きめの水墨画の制作にも適しているであろう。
ちなみに硯の写真を撮るときは、すべて自然光で撮る事を心掛けている。太陽光も晴天と曇天、午前と午後では光線のスペクトルが変わるものであるから、晴天の午前中に撮るようにしている。
現代は昔のように白熱電球が普及していた時代ではなく、LED照明が広く使用されている。このLED照明は、白熱電球に比べて消費電力が格段に小さいから、省エネに大きく寄与している。また紫外線を100%カットした光を作り出すことが出来るから、文物の保護という観点では非常に優れた面がある。(白熱電球、蛍光灯は紫外線が出ている)
ただLED照明にも欠点があり、それは製品によって色味にばらつきが大きい、ということだ。特に安価なLED照明は色味が貧弱で、明るい事は明るいが、青に偏った見え方をしてしまう。色味を改善したLED照明もあるにはあるが、それは黄色、ないしややオレンジがかった、昔のエジソン電球に近い色になる。その色味には温かみはあり、青に偏った電球よりはいいが、やはり必要以上に赤味が出てしまうのも問題である。
人工照明の場合、選び方によっては、必要以上に石品を良く見せる事も可能だ。しかし、所有される方が皆々、同じ条件の光源を用意できる事を期待する、というのは無理な話で、悪い言い方をすれば「写真に騙された」という事も起こりうる。。。イメージキャラクターに起用されたタレントなら、いくら美しく撮ってもそれが商品というわけではないから問題ないが、商品写真、しかも外観もポイントになる品物であれば、良く見せすぎるのも問題ではないだろうか。
昔から「硯は陽の下で観よ」と言われるように、太陽の光がベストであり、もっとも公平な光源である。必ずしも石品を明瞭に見せるわけではないかもしれないが、もっとも嘘が少ない、という事は言えるだろう。現実に、太陽の光はあらゆる光の波長がバランス良く分布しているから、これ以上の光源はないのである。
(むろん、カメラのイメージセンサーの性能も関係するのであるが)
この光源の問題に関しては、実は10年以上前にLED照明が普及し始めた時から考えていて、試行錯誤を繰り返してきた(自分自身は実は工学系の出身なので、墨や硯の事よりも、むしろ専門に近いといえば近いかもしれない)。最近ようやく成果が出そうなのだが、その件についてはまた機会を改めたい。
以下、賦を掲げ、ついで書き下し、大意を示す。語彙の注釈は適宜書き下しに加えてみた。
登樓賦
漢・王粲
登茲樓以四望兮 聊暇日以銷憂
覽斯宇之所處兮 實顯敞而寡仇
挾清漳之通浦兮 倚曲沮之長洲
背墳衍之廣陸兮 臨皋隰之沃流
北彌陶牧 西接昭丘
華實蔽野 黍稷盈疇
雖信美而非吾土兮 曾何足以少留
遭紛濁而遷逝兮 漫踰紀以迄今
情眷眷而懷歸兮 孰憂思之可任
憑軒檻以遙望兮 向北風而開襟
平原遠而極目兮 蔽荊山之高岑
路逶迤而脩迥兮 川既漾而濟深
悲舊鄉之壅隔兮 涕?墜而弗禁
昔尼父之在陳兮 有歸歟之歎音
鍾儀幽而楚奏兮 莊舄顯而越吟
人情同於懷土兮 豈窮達而異心
惟日月之逾邁兮 俟河清其未極
冀王道之一平兮 假高衢而騁力
懼匏瓜之徒懸兮 畏井渫之莫食
步棲遲以徙倚兮 白日忽其將匿
風蕭瑟而並興兮 天慘慘而無色
獸狂顧以求群兮 鳥相鳴而舉翼
原野闃其無人兮 征夫行而未息
心悽愴以感發兮 意忉怛而憯惻
循堦除而下降兮 氣交憤於胸臆
夜參半而不寐兮 悵盤桓以反側
(書き下し)
茲(こ)の樓(ろう)に登り以って四望(しぼう)し、暇日(かじつ)に聊(よ)りて以って憂(うれひ)を銷(け)さん
斯(こ)の宇(うてな)の處(よ)る所(ところ)を覧(らん)ずれば、實(まこと)に顯敞(けんしょう:明るくひろびろとしている)にして、仇(たぐひ)寡(すく)なし
清漳(せいしょう:漳江)を挾(たばさ)みて浦(ほ)を通じ、曲沮(きょくそ:沮江)の長洲に倚(よ)る
墳衍(ふんえん;水涯と低地)たる廣陸(こうりく)に背き、皋隰(こうしつ:湿地)の沃流(よくりゅう)に臨む
北のかた陶牧(とうぼく:陶朱公の墓)に彌(わた)り、西のかた昭邱(しょうきゅう:楚昭王の墓)に接す
※『荊州記』に「江陵县西有陶朱公冢 其碑云是越之范蠡而终于陶」とある
華實(かじつ:花と果実)、野を蔽(おお)い、黍稷(かしょく)は疇(うね)に盈(み)つ
信(まこと)に美(び)なると雖(いえど)も吾(わ)が土に非ず、曾(すなわ)ち、何ぞ以て少留(しょうりゅう)するに足らんや
紛濁(ふんだく:戦乱、混乱)に遭(あ)って遷逝(せんせい:移り住み)し、漫(まん)に紀(き:12年)を逾(こ)え以って今に迄(およ)ぶ
情は眷眷(けんけん;恋々)として懷歸(かいき:帰郷したいと思う)するも、孰(たれ)か憂思(ゆうし)を任(ま)かすべし
軒檻(けんらん)に憑(よ)り以って遙(はるか)に望み、北風に向かい開襟(かいきん)す
平原(へいげん)遠く目を極(きわ)むるも、荊山の高岑(こうしん:高い山)に蔽(さえぎら)る
路は逶迤(もごよう;くねくねつづく)修迥(しゅうけい:はるか)、川は既漾(きよう:水流長い)而深(ふか)きを濟(わた)る
舊鄉(きゅうきょう:故郷)の壅隔(ようかく:隔てられている)を悲み、涕(なみだ)?墜(おうつい)するを禁ぜず
昔(むかし)尼父(ちゅうほ:孔子)の陳(ちん)に在(あ)りて、歸歟(きよ:かえろうよ)の嘆音(たんいん)有り
鐘儀(しょうぎ)は幽(ゆう)せられ楚奏(そそう)し、莊舄(しょうせき)は顯(あらわ)れて越吟(えつぎん)す
※春秋左氏傳:楚囚南冠(そしゅうなんかん)史記:莊舄越吟(しょうせきえつぎん)
人の情は同(おしなべ)て土を懷(なつ)かしむに、豈(あ)に窮達(きゅうたつ)の心(こころ)異(こと)ならんや
惟だ日月(じつげつ)の逾邁(ゆまい:すぎてゆくこと)、河清、其の未だ極まらずを俟(ま)たん
王道の一平を冀(こいねが)い、高衢(こうく:おうどう)騁力(ていりく:効力)を假(たの)む
匏瓜(ほうか)の徒(いたずら)に懸くるを懼(おそ)れ兮、井渫(せいせつ)の食なしを畏(おそ)る
※論語:匏瓜空繫(ほうかくうけい)易経:井渫不食(せいせつふしょく)
步んで棲遲(せいち:ゆったりと)、以って徙倚(しい:さまよう)すれば、白日、忽(こつ)として其(そ)れ將(まさ)に匿(かく)れんとす
風は蕭瑟(しょうしつ)として並興(へいこう:一斉に起こる)し、天は慘慘(さんさん:いたましい)として無色(むしょく)
獸は狂顧(きようく:あわててふりかえる)し以って群を求め、鳥は相い鳴きて翼を舉(あ)ぐ
原野は闃(げき:静か)として其れ人無きに、徵夫(ちょうふ)行、未だ息まず
心は淒愴(せいそう)以って感發(かんぱつ)し、意は忉怛(とうだつ:憂い悲しむこと)して慘惻(さんそく)す
階除(かいじょ:階段)を循(めぐ)りて下降(かこう)するも、氣は胸臆(きょうおく)に交憤(こうふん:ふんまん)す
夜(よる)參半(さんぱん)にして不寐(ふび)、悵(ちょう)として盤桓(ばんかん:ぐずぐずとする)以って反側(はんそく:ねがえり)す
(大意)
この楼閣に登って四方を見渡し、休日を過ごしながら、(胸中の)憂いを(いささかでも)まぎらわせようか
この高い建物が建てられた地をひとわたり眺めると、まことに明るく広々としていて、(よそに)くらべられるところがない(すばらしい景観だ)
清らかな漳江を帯び、曲がりくねった沮江に流れを通じる、長い中洲(の上に)に建っている(漳江と沮江の流れが合流するあたりの中洲の上に建っている)
ひろびろとした水際の低い土地を背後に控え、水辺の湿地の肥沃な流れに臨んでいる
北には陶朱公(すなわち越を去った范蠡)の生活した地である(という)江陵に続き、西には楚の昭王の墓のある昭邱に接している
花や果物が平野をおおい、穀物の実りが畝(うね)に満ち溢れている
ほんとうに(豊穣で)美しい景観であるが、(しょせんは)私の故郷ではないのだから、どうしたって(本来なら)わずか(の間)だって留まるべきところではない
(不本意にも)混乱と戦乱に遭って、(土地を)遷(うつ)り、たいしたこともしないままに(滞在は)十二年をこえて、今日にいたってしまった
故郷に帰りたいという気持ちは恋々としてあるが、誰にこの憂鬱な思いを打ち明けたらよいだろうか
(楼の)欄干(おばしま)によりかかり、遥か遠く(北の故郷の方角を)を望み、(せめて故郷から吹く風にあたろうと)北風にむかって襟を開く
(故郷のある)平原は遠く、(見えないものかと)目を凝らしてみるも、荊州の高い山々にさえぎられてしまう
(故郷への)道はくねくねとまがりくねりながらはるかに続き、川は延々と長く深い流れがつづいている
(そのような光景をみるにつけ)故郷から遠く隔てられている事をおもって悲しくなり、涙があふれながれることを止めることができない
昔、孔子は陳国に(志をえないまま)とどまっていたが(ついに)「(故郷に)かえろうよ」と嘆いた(歌をつくった)
鐘儀(しょうぎ)は晋で幽閉されても(故郷の)楚の曲を奏で、莊舄(そうせき)は(楚で重く)用いられても(家では)越の言葉で語った(という)
人情はおしなべて故郷を懐かしむもので、窮迫したり栄達したりという事で(故郷を想う)その心が変わってしまう事はない
ただ月日がすぎてゆき、濁った河の流れが清くなる(ように、戦乱が収まる)のを待つしかないのだろうか
王道によって(戦乱が)平定されることを心から願い、大いなる(ご政)道の威力にたよるばかりである
ひさごが用いられることもなくむなしく軒にぶらさがっている(ように能力を発揮できないまま朽ちてゆく)ことをおそれ、ごみを浚った井戸があるのに飲み水としてもちいられない(ように、勉強してもやはりもちいられない)ことをおそれる
(楼上を物思いにふけりながら)ゆっくりと歩きながらさまよっているうちに、太陽はたちまちのうちに(まさに)沈もうとしている(時刻になっていしまった)
(ひゅうひゅうと)さびしい音をたてながら風が一斉に起こり、天は(陰鬱な雲が覆って)いたましい(ほどの)無彩色(に暗くなってゆく)(このように瞬く間に漢朝の威光がかげり、長い戦乱の時代が訪れた)
(嵐の到来をおそれて)獣があわてふためいて(走り去りながら)群れをもとめ、鳥は互いに鳴き声をあげながら、(飛び立とうと)翼をひろげている(この光景に、長安から逃げ惑う自分や民衆の姿が思い起こされる)
原野は人がいないかのように静かだが、(ただ)徴集された男子が(いずこかの任地へ)休みなく向かっている(うち続く争いに終わりが見えない)
(眼前の景色にかつての恐怖が思い出され)心はさびしさと痛ましさにうちふるえ、意気は憂いと悲しみによってみじめにくじかれる
(楼閣のらせん状の)階段を(まわり)めぐって降りてゆきながら、胸中には(やるせない)憤懣の気が沸き起こる
(宿舎に帰るも)夜半ばに至っても寝付くことができず、ぐずぐずと恨み嘆いては寝返りをうっている(ばかりである)
(後記)
王粲についてはくだくだしく述べるまでもないだろう。王粲は曾祖父王龔が太尉、祖父王暢が司空に登っており、二世代にわたり三公(太尉、司空、司徒)を輩出した名門の家に生まれた。また長安で蔡邕に蔵書を託されたほどの、将来を嘱望された早熟の天才であった。しかし董卓の死後、長安の動乱を避けて劉表の統治する荊州へ避難する。王粲の祖父王暢(おうちょう)は南陽に滞在していた時、まだ15歳の劉表に学問を教えており、その縁を頼ったのだろう。
劉表は自分の娘を王粲に嫁がせることを考えていたが『三国志・王粲傳』に「表以粲貌寢而體弱通侻」とあり、王粲が身体が弱く容貌が貧相なこととから王粲の従兄に嫁がせてしまったという。加えて王粲の「通侻」世俗にこだわらない性格を嫌ったのか「不甚重也」と、あまり重く用いなかった、という。
この『登樓賦』がつくられた時期、場所については諸説ある。
まず、賦がつくられた場所については、漳江と沮江が合流し、また江陵の南、昭邱の東という事から、当陽の麦城(現湖北省当陽市両河鎮)であると考えて良いだろう。伝承では麦城は楚の昭王が築いた城であるという。
『水經註・沮水』によれば周の敬王十四年(前506年)には吳の伍子胥が楚の麦城を攻め、麦城の近郊に驢、磨というふたつの城を築き、麦城を攻め落とした。ゆえに「東驢西磨,麦城自破」ということわざが出来たという。その城が後漢末にも続いていたとすれば、やはりこの地方の要衝であったといえるだろう。
王粲は『登樓賦』を襄陽近郊でつくった、という説も見られるが.....『三国志・潘濬傳』の裴松之の注にある『呉書』には「山陽王粲見而貴異之」とあり、武陵郡は漢壽出身の潘濬は王粲に見いだされた、という事が書かれている。武陵は麦城よりさらに南であるが、王粲が荊州南部の諸郡に赴任していたことをうかがわせる。ゆえに王粲は襄陽で荊州南方の様相を想像してこの賦をつくったのではなく、実際に現地でつくったと考えて良いだろう。
当時の荊州南部は蛮族が跋扈し、しばしば反乱を起こす難治の地であるが、その統治は重要である。とはいえ、華麗な文才を誇る王粲が、襄陽で劉表の秘書官をつとめるではなく、地方の県令ないし巡検をしていたとすれば、いささか不遇といえようか。王粲には袁紹の息子らに劉表が送った外交文書が遺っており、劉表も王粲の才能をよくわかっていたはずであるが『三国志・王粲傳』にあるように、やはりどこか劉表の好みに合わない性格があったのかもしれない。
後年、建安二十四年に関羽がこの麦城で孫権に敗北するが、王粲に推挙された潘濬は関羽の指揮下にあったものの、最後は呉に降伏している。
賦の造られた時期であるが、賦中に「漫踰紀以迄今」とあり、荊州に来てから「紀」すなわち12年が経過した、とある。王粲が長安の戦乱を避けて荊州に至ったとすれば、王粲が20代半ばの初平三年(192)、ないし遅くとも四年(193)のはずである。蔡邕が初平三年に処刑されている事も影響しているだろう。それから12年後とすれば、建安九年ないし十年のころだろう。このころ王粲は30代も後半で、当時でいえば中年、という年齢である。本来なら漢朝に仕え、いずれ曾祖父、祖父と同じく三公に登ろうかという才能の持ち主が、群雄のひとりにすぎない劉表に冷遇され、荊州の片田舎で無聊をかこっていたのだとすれば、これは辛い。
賦がつくられた季節を考えると「華實蔽野,黍稷盈疇」とあるから、おそらく秋。「暇」とあるのは休日で、節句の休日であり、重陽(旧暦の九月九日)ではないだろうか。
重陽(旧暦の九月九日)に「登高」する風習があるが、郊外の小高い山や丘に登って遠くを眺めるのである。この風習は魏晋時代にはすでに行われており、後漢の桓景が九月九日に「登高」して難を避けた故事に由来するらしきことが南朝梁の吳均『續齊諧記』に書かれているが(これは小説本の類であり)定かとは言えない。
『登樓賦』には、終わらない戦乱を深く悲しみ、何もできない自分の無力を嘆く気持ちがうたわれている。
王粲は『七哀詩』でも、動乱の犠牲となる民衆の悲惨な様相を写実的に描いているが『登樓賦』においては、原野をかける禽獣の動揺の描写でそれを喩えている。
王粲は一目で碑文を暗誦したり、バラバラになった碁石を棋局通りに碁盤に並べなおすなど、いわゆる「映像記憶力」を持っていたと考えられる逸話が残っている。自身が体験した凄惨な記憶のトラウマに、苦しめられる夜も少なくなかったのだろう。眼前の光景が、過去を生々しく想起させる様子が、この賦にもうたわれている。
賦に「王道の一平を冀(こいねが)い」「高衢(こうく:王道)の騁力(ていりく:効力)を假(たの)む」とあるのは、戦乱を終息させる力が自分はもとより、仕える劉表にも無い事を暗に言っている、ともよめる。王粲は後年、曹操に「士之避亂荊州者、皆海內之儁傑也。表不知所任、故國危而無輔」荊州に乱をさけた人士は俊傑揃いであったが劉表は用いるすべを知らず、ついに国が滅んだ、と痛烈に批判している。
建安十三年、河北を平定した曹操は荊州に南征を開始するが、曹操が至る前に劉表は病死する。王粲は劉表の息子劉?を立て、曹操への降伏を勧めたという。劉表の長子劉?は劉備に担がれ、孫権と連合し、曹操との決戦に挑むのである。
曹操が南征に先立ってうたった『短歌行』には、荊州へ避難した知識人達に帰参を呼びかける内容がうたわれているが、より端的には、王粲に向けられたものだ、という説がある。いわば『登樓賦』に応えた、という読み方もできるかもしれない。
(終わり)
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非常に寒い日もありましたが、印象としては今年はそれほど寒くはないように感じます。
金剛山から水越峠にくだり、そこから大和葛城山へ登るのがいつものコースなのですが、日の短い冬場は、登り始めるのが遅い場合、水越峠からそのまま奈良側に降りてしまう事があります。日が傾くと山道は急に暗くなるものなので、安全のためには明るいうちに山道を抜けるのが無難です。山歩きに慣れているようでも、単独行は倍は慎重に行動する必要があります。
水越峠からはJR御所駅まで2時間ほど歩くのですが、途中の田野の様子も、趣深いものがあります。
電柱や舗装道路が写らないと、ほとんど江戸時代と変わらないのではないか?と思えるような家屋のそばを通ります。
付近に歴史の古い神社も多いです。お寺もあるのですが、当然ですが仏教は伝来したものなので、神社の建立時期には及びません。
傍を通り過ぎて感心している分にはいいのですが、現実にこういった家屋に住んで、修繕しながら維持してゆくのは非常に大変なのだろうなあ、とは思います。
実は中国の友人が日本で買った家屋の面倒を時々みているのですが、これほど古い家でなくても、なかなか骨が折れる事もあります。住んでいないと、家というものは廃れてゆく一方であると言いますが、その事を実感しています。
冷え込んだり、寒さが緩んだり、を繰り返す季節ですが、くれぐれも体調にはお気を付けてお過ごしください。
店主 拝
]]>お店の営業を再開いたしました。ご不便をおかけいたしまして申し訳ございません。
どうぞご利用ください。
思えば大陸へ自由に渡航が出来たころは、年末年始は渡航していて、お店は10日〜2週間ほど休業していたものでした。実は関東にいたのですが、用件が済んで帰りしな、三島によることになりました。その様子はまた後日拙い文章に書こうとしているのですが、三島は街の中のいたるところ富士山の融水が流れていて、それがどこか江南の水郷が思い起こされて懐かしい気持ちになりました。日本人が日本の街の光景を観て大陸を懐かしむ、というのも少しおかしい事かもしれませんが、久しく行っていないとそういう気持ちになりますね。そこで2019年の11月の終わりに訪れた紹興の街の写真を観返したりしていました。
写真家ではないので、もとより良い写真を撮る自信はありません。ただごく初心者的な心得ですが、なるべく余計な物は写らない様にする、という事は意識しています。これは写真に限らず、絵画や文章にも言える事でしょう。
日本に観光に来る外国人が、写真を撮っていて不満に思うのが、日本の”電信柱と電線”だそうです。曰く京都の古都の景観も、電線が縦横に走っているから台無しだと。それで最近ではこの”電線だけを消す”アプリなんかもあるそうです。
確かに電線や電柱というのは、古都にしても、自然の景色の中にあっても、余計なものに観える事があるでしょう。欧米では、地下に電力網が埋設されている国が多いようです。ただ地震が多い日本ですから、地下に電線が走るとなると、地震で断線した場合に復旧に時間がかかると思います。電柱と電線は、台風で被害を受ける反面、復旧作業も早く終わる、というあたりに理由があるのかもしれません。
紹興で撮った写真を観ていると、紹興の街にも電信柱と電線があります。たしか上海の老街でも、冬になると電線に鶏肉や魚を吊るして干していたような記憶があります。
この電柱と電線が無ければ、本当に明清の街のように観えるかもしれない、とするとやはり少し惜しい気持ちもしてきます。電線と電柱を避けて街を撮るのはなかなか難しい。江南の街の場合、地下に電線を埋設するとなると、縦横に走る水路を避けるのが難しかったのでしょう。そこには現在住んでいる人々の生活の、さしせまった要求あるわけですから、のんきな旅人の願望は聞いていられない、というところでしょうか。
今年の春節は1月22日からで、大陸ではこれからいよいよ”年の瀬”になります。今月の21日はちょうど土曜日で、大陸では”越年(年越し)”という事になります。この日くらいはできなかった年越しを改めてしようかと、画策している次第。
時節柄、皆様方におかれましては、くれぐれもご自愛のほどをお願い申し上げます。
店主 拝
関西にいると特にそうかもしれないが、夕刻の西の空が美しい朱に染まる日が多い。周知のごとく、朝夕の空が赤いのは、大気を通した光が特に赤い光を届けるためであるが、それは大気中の細かい塵などで、短い波長の光、青がカットされてしまうからである。要は地平線近くの大気に微粒子が多い、という事になる。
関西から見て日が没する方角にはむろん、大陸があり、察するに大陸上空の空気中に、活発な人間活動に由来する微粒子が多く浮遊しているのであろう。大陸上空の大気で赤い光線主体にフィルターされた光を、日本の澄んだ空気越しに見ているのであるから、とりわけ紅に観えるのかもしれない。特に地平線のかなたの大陸から投げかけられたであろう赤い光線が、日本上空にかかる薄い秋の雲を焼き上げると、これも尋常でないほどの茜雲が現れる。美しいが、ここまで紅いと、いささか不安を覚えるほどである。
古来、紅い夕映えは美しいものとされるが、そうしばしばみられるものではなかったように思う。たそがれ....は「黄昏」と書くように、本来は夜空の濃い藍色が、東の空から西の地平近くの明るい黄色へ向かう調子が、だんだんと光量を減じながら没してゆくものだ。それが近年、時に禍々しいまでの濃い紅色の空を目にする事が多いように感じるのは、気のせいばかりなのだろうか。
夏の低山歩きは、晴れて気温が高いと何倍も体力を要するものである。例年にない暑さで体調も今一つ、という事もあって、今年の夏はほとんど山には行かなかった。
ともかく今年の夏は、酷暑の上に、週末に天気が悪い日が多かった。夏の低山山の場合、朝方は晴れていても、午後には激しい雷雨が山頂から山麓までを覆う事は珍しくない。特に、しばしば出かけている金剛山から大和葛城山一帯は、午後に”雨雲レーダー”が豪雨を示すように、レーダーがとらえた雨雲の分布画像が真っ赤になっていることが多かった。これは間違いなく激しい雷雨である。雷雨は低山といえども侮れないものだ。雷にあたらなくとも、煙り立つような豪雨は視界を悪くし、狭い山道はたちまち小川のようになって、足を滑らせる危険が倍増する。
週末は天気予報を調べて、体調と都合が許せば、土曜日か日曜日か、なるべく天気の良い方を選んで山に行くようにしている。10月の半ばから六週続けて、少なくとも金剛山の山頂には登頂できているから、それだけでもまずまずの秋ではあると思う。
片付かない用件があったとしても、短い秋の貴重な好天の週末に、じっと家で作業しているというのは、天の好意を無下にするように感じる。それ「天の与うるを取らざれば反って其の咎めを受く」のだから、たとえ朝から何かをしているうちに山登りには少し遅い昼近い時刻になってしまっていても、ともかく出かけるようにしている。
先々週だったか、登山口から登り始めたのが午後1時、という日だった。タカハタ谷にルートをとって、およそ1時間と10分くらいで山頂に出るのであるが、そこから水越峠におりて大和葛城山へ登るには、時間が少し足りない。
大和葛城山山頂から御所に下る”北尾根”という登山道は、東向きの斜面であるから、ちょうど夕日を山にさえぎられ、暗くなるのが早い。この”北尾根”は葛城山ロープウェーの駅付近の登山口に至る、比較的利用者の多い登山道であるが、かなり傾斜のついたところもあり、また存外、道が荒れて足場が悪い箇所がある。そういった山道というのは、登るときは何でもないものだが、下山するときには思わぬ事故に遇いかねない。
早く帰ろうと思えばそのまま大阪側に下山すればよいのであるが、1時間もしないで元の登山口に戻るのも、それはそれで遠出した甲斐がない。そこで金剛山の山頂から南へ少し稜線を歩き、展望台を過ぎたあたりから奈良側へ延びる山道を下る。この登山道は、奈良の御所と五条の間にある北宇智というところに出るのだが、植林された杉が鬱蒼として暗い。あまり人が通らないのか、道もやや不明瞭になっている。ゆえに明るいうちに下りきってしまわなければならないことは、葛城山の北尾根以上なのだが、金剛山から奈良側に降りる登山道としては山頂からもっとも近く、早く麓に降りる事が出来る。それでしばしば利用している。かつては(今も?)修験の古道だったのだろう、途中、麓近くに真言宗にまつわる巨石が現れる。
山道を下りると集落の山際に出て、そこからJR和歌山線の北宇智駅まで1時間程度、舗装された道をゆるゆる下りながら歩くことになる。この日、時刻は午後4時を回ったころであるが、すこぶる大気が澄んでいて、紅葉の木々が路上に濃い影を落としていた。
山道もいいが、舗装された道路をのんびりと下ってゆくのも、あたりの田畑や人家の様子も秋めいていて、これもいいものである。
西へ向かう道路を歩いていると、ふと前方の丘陵の上に、虹のかけらのような光が見えた.....虹ではなく、傾いた太陽の光が薄い雲を透かして回析し、五彩を呈している.....いわゆる彩雲であろう。また、光彩を放つところから、二筋の傾斜した雲が左右に伸び上がっている。ちょうど五色の頭部をもつ大鳥が、翼を広げたような形勢である。鳳凰.....にも観える。
雲を観て吉凶を占うことは古くからおこなわれていたようで『周禮・春官』「保章氏以五雲之物,辨吉凶水旱之祲象」とある。この場合の五雲とは、雲の形の事ではなく色であるという。また『史記·天官書』にも『雲氣有獸居上者勝』とあり、高祖劉邦も、その居場所には常に雲気がわだかまっていた(と妻の呂氏が言った)という。
虹のような五色を呈する雲を特に彩雲と言い、これは慶雲、瑞雲とも呼ばれ、吉祥、瑞兆であるとされる。『呉書・孫破虜傳』に「冢上數有光怪、雲氣五色、上屬于天、曼延數里」とあり、この「雲氣五色」も彩雲であろう。
古い文献に「鳳凰雲」という語は聞かないが、大きな鳥に似た雲を「鳳凰雲」と称した画像がインターネット上には散見され、話題になっていることがあるようだ。彩雲だけでも瑞兆であるとされるのに、それが鳳凰の恰好をしているとなると、空恐ろしいほどの吉祥ではある。同じ時刻に、果たしてどれほどの人がこの彩雲を目撃できたであろうか。
彩雲は太陽光が奇跡的な角度で雲に入射したときにおこる現象であるだけに、この時もほんの数分で五彩は失われ、後には澄んだ青空に白い大きな鳥の翼のような雲だけがたなびいている........しばし茫然として見入っていたが、電車の時刻があるので再び北宇智駅に向かって歩き始めた。単線のJR和歌山線は、本数が少ないのである。
北宇智の駅に近づくと、稲の借り入れが終わった、乾いた水田が広がっている。さらに向こうに高速自動車道の高架が観えるが.....その上に透けるように薄く、北から南に強い風で吹き散らされたような雲がかかっている。ちょうど、サルノコシカケのような、カサを重ねたように見える雲は「霊芝」に観えなくもない......これも瑞兆であろうか。
霊芝に観える雲.....いわゆる「霊芝雲」は図案化されて、古代から王朝時代にかけて、工芸品や絵画に多く見られる。唐草模様と人気を二分する存在であるが、霊芝雲も唐草模様の変形である、という人もいる。
霊芝雲は鳳凰雲と違い、瑞兆としては現在はあまり人気がないのかもしれない。インターネットでしらべると図案の画像はたくさん出てくるが、それらしい実物の雲の画像が出てこない。たまにあると、キノコ状に盛り上がった入道雲の画像が出てくるが、それは現実に観えるサルノコシカケの姿からの連想ではないだろうか。本来の「霊芝雲」はそうではないだろう。それは「天高く」といわれる秋に観られる、高層にかかる薄い雲の形状からの連想であり、図案化された「霊芝雲」の末端が、必ず細くとがって尾を引くように伸びていることからもわかる。
高空を霊芝に似た雲が飛び交う様相は、図案の世界にとどまらず、時にこうして現実の光景として古代人の眼前に現れることがあっただろう。そこへ龍が翔け、鳳凰が舞い、神仙が飛翔するイメージは、墨や硯にも好んで用いられてきたモチーフでもある。
この日は山に行こうか作業をしようか迷っていたのであるが、出かけたおかげで良いものを観られたものである。人に同じ山に何度も登って飽きないか?と聞かれることもあるのだが、同じ道であっても自然に近いところでは、このように季節や天候でまったく違った様相があり、新しい発見もある。
近年、気候が極端になってゆき、春と秋が短くなった、という事はよく言われる。印象としては短くなったうえに、変化が急なので、秋に関して言えば初秋と晩秋がなくなったような雰囲気ではある。とはいえ、秋はあくまで秋である。夏とも冬とも違う。兎にも角にも、せめて11月いっぱいくらいは秋らしくしてもらえれば、ひとまず御の字というべきではないだろうか。
何意秋天掛彩雲
鳳頭燦然五色分
神異祥瑞須臾去
唯見紅葉落日曛
かつて大阪には数十軒もの筆屋があり、大手電機メーカーなどに数百〜千本単位でそうした版下筆が卸されていたという。書道や絵画用の筆の他に、製造業からくる一定の需要が、日本の製筆業を支えていた時期があったのである。
正確さを求められる、いわゆる”職人仕事”に筆が使用される場合、一本一本の精度が高いことももちろんであるが、筆によって性質のバラつきが少ないことも重要になる。消耗した筆を換える毎に、クセが違って調子が変わるようでは、使い勝手が悪いであろう。
その点、日本の版下筆は優れていたようだ。”版下”の制作は日本に限らないから、海外にも日本の版下筆は盛んに輸出されていた。毛筆というと、現代ではもっぱら美術、工芸用途に需要が限られるようであるが、かつては巨大な電子産業を支えていた重要な工具のひとつだったのである。
むろん、コンピューターの発達により、製版作業が電子化され版下筆の需要は急速に消滅する。それは、日本の製筆業の衰退の、大きな要因であった。
以前から、超微細な筆線の描出に堪えうる、専門家を満足させる、精度の高い筆を販売したかった。大陸でも狼毫のゼロ号、という極小の面相筆をまとめて買ったことがあり、販売しようかと考えていた時期もあった。しかし惜しいかな、筆の出来にやはりバラつきが大きい。インターネットを通じた販売であると、買い手が手に取って選べるわけではない。またまとめて買って調子のよいものだけ選り出していただく、というわけにもいかない。ほとんどの場合、一本一本購入されるのであるから、試しに買って気に入って次に買ったら調子が違う、というような筆では販売しにくいのである。
その点、日本の”昔の”版下筆は優れている。が、自用に少しづつ集めるのがせいぜいである。なので、懇意の日本の筆匠に依頼し、制作されたのがこの三種の筆である。正確には一種はいわゆる面相筆で、二種が、昔でいう版下筆の部類に入る。
製筆には、原毛に浸透した油脂を抜く、脱脂の工程がある。伝統的には、毛に灰をまぶし、脱脂する。大陸中国もかつてはそのような手法だったようだが、現在は薄い石灰水を使用する。日本も、大陸から筆用に加工された毛を仕入れ、筆鋒を造っている筆匠も、実際のところ少なくない。しかし、まだわずかに藁灰を用いて脱脂し、筆を制作している筆匠がおり、この筆の筆鋒にはこの伝統的な手法が使われている。
現代中国の石灰水を使用する手法も、ごく薄い石灰水を使用する場合は良いが、中には工期を短縮しようと濃い石灰水を用いる工場もある。そうすると毛の含水性能が損なわれるため、墨含みの悪い筆になってしまう(毛も痛むので筆の寿命も短い)。それでも、筆鋒にある程度の太さがあり、多く墨を含む分には影響が少ないように感じるが、極小の筆となると、墨含みが極端に悪くなる。
極小の筆を使用する場合、短く細かい線を何本も引きたい、あるいは細い線をなるべく長く引きたい、という要求がある。そうした筆で墨含みが悪い、というのは致命的である。かなりうまく石灰水を用いた場合でも、やはりわずかに藁灰で脱脂した処理の方が毛の痛みが少ないもので、これが細い筆になるほど影響してくる。
小型の面相筆の二種、”梅花”の中と小は、その遺伝子は版下筆のそれである。しかし今時「版下筆」と言っても、わからない人が多数派であるから、極小の面相筆、という体裁をとったものである。
大陸中国でも”点梅”とか”小紅圭”、”凝香”、”葉筋”、”衣紋”といった、小型の面相筆があった。しかし”版下”に相当する筆は見当たらない(あるかもしれないが)。
書道用の筆は戦前から中国より盛んに輸入されていたが、版下筆だけは、やはり高い精度が必要なためか、日本で作られていたようである。
電子機器産業も、今や日本は見る影もなく凋落し、代わって中国で隆盛を極めている。しかし考えてみれば、中国で印刷業や電子機器産業が盛んになってゆく時期には、すでに製版作業はデジタル化されていた。なので、大陸中国に版下筆というジャンルが見当たらないのかもしれない。
いわば版下筆はかつての日本の”お家芸”を支えた筆なのであり、大陸に同等の筆がないあたり、版下筆は日本の製筆業の”お家芸”と言えるかもしれない。その精度の高い事は、仮名や浮世絵、あるいは漆器や陶磁器などの、伝統工芸品の需要にも理由を求めることが出来るであろう。
面相筆は仮名にも使用されるが、痩金体など、漢字への応用も面白いものである。版下筆といっても、前述のように構造的には面相筆を小さくしたもので、用い方によっては字も書ける。極小の題箋などを書くには重宝するのであるが、そういった需要もあまり多くはないであろう。やはり、画用が主な用途になるであろうか。
この面相筆の特徴は、墨持ちが良い事もさることながら、柔軟な粘りを持っていることである。円弧や、輪郭の曲線を描くときに重宝するだろう。いろいろな面相筆を試しているが、このように描ける筆はなかなかない。
微細な”梅花”は、たとえば睫や鬢など、繊細な人の毛を書くのには最適である。髪の毛などは、細かく何本も線を引かなければならないので、極小ながらも墨含みの良い筆というのは使い勝手がすこぶるいいものである。(むろん、にじまない紙に書いた場合であるが)
最近はデジタル・アート、デジタル・イラストレーションが隆盛を極めているようである。ソフトウェアの進歩により、きわめて多彩な表現力を手にすることが出来る、様々なツールが開発された。デジタルの世界は、今の時代のクリエイターの創造性を発揮する主要な場となっている。
とはいえ、手書き(手描き)の、いわゆるアナログアートも廃れてはいない。デジタルと比較すると、やはりユーザーの規模が小さいが、アナログしかなかった時代と比較すると、描き手(=ユーザー)の絶対数は確実に増えている。それはデジタルの方が参入が容易ゆえにクリエイターが増えすぎ、飽和しつつある現代、アナログへの回帰、という現象としてはあるだろう。
また美術市場として考えた場合も、(NFTなどは考えないとして)理論的に複製が無限に可能なデジタル・アートより、物理的に実体がひとつしかないアナログ・アートの価値はなくならないだろう。
デジタル・ツールは、たとえば線ひとつをとっても、パラメーターの調整をすれば、練習しなくてもゆがまず、きれいな線を引くことが出来る。しかし手描きの場合はそうはいかず、やはりある程度の修練は必要なものである。それはいくらいい道具を持っていても変わらないが、精度の良い道具は、やはり助けてくれるものである。
アナログ・アートには、デジタルにない実在性、質感、という魅力がある。それは今後も本質的に変わらないであろうし、人の手で道具(筆)や材料(紙、顔料)に触れながら”書く、描く”という行為も、デジタルにはない面白さがあるものだ。今後日本でも、手書きの書や画を楽しむ人が、再び増えればよいと思う。
こうした極小の筆を長持ちさせるためには、やはり磨った墨を使った方が良いだろう。利便性から墨汁を全否定するものではないが、墨汁はてきめんに筆が痛む。最近は、墨汁と同じ成分で出来た墨などもあるようだから、買うときはよく選んだ方が良いだろう。また筆の穂先を整えるときは、硯の上ではなく、陶器の絵皿などを使うと良い。筆舐、という穂先を整えるための道具も、かつてはあった。そして使用したら、よく洗う事である。
これは筆匠に教えてもらったことなのであるが、筆は石鹸で洗って良い、という事だ。ただし”純石鹸”など、なるべく保湿剤などの添加物の無い石鹸が良い。シャンプーなどはダメだろう。試しにやってみたら、なるほど良く墨が落ちるし、穂先が痛むこともない。いつか”石鹸で洗ってはいけない”と述べたことがあったかもしれないが、ここに訂正しておきたい。
弊店で日本製の筆を扱うのは初めてであるが、従来の唐筆と区別するために”成花軒”という、別のブランドを冠することにした。”成花”は”妙筆生花”からとった。今後も、随時拡充してゆく予定である。むろん、唐筆もさらなる充実を図ってゆく。
乞うご期待を、願う次第である。
「実用硯」とよばれる硯の形式(硯式、などとよぶ)がある。厳密な定義はないのであるが、およそ彫琢が施されていない、四直、ないし楕円形の硯であり、かつある程度の深さの墨池を備えている硯をそう呼ぶのである。硯板や、彫琢の施された、鑑賞に堪えうるように作られた硯は、ふつうは実用硯とは呼ばれない。しかし美麗な彫琢が施されていたといっても、実用的ではない、という事を意味しない。また墨池をもたない硯板も、少量の墨液を用いる用途によっては十分に実用的ではある。
ただある程度の大きさの条幅などを書こうとすると、中鋒の筆に十分に墨液を含ませる必要があり、そうなるとやはり墨池や墨堂にも容積が必要になってくる。
とは言え新老坑ないし老坑水巌で実用硯として作硯された硯というのは、実のところあまり見ないものである。
特に近現代、墨汁を大量に使用するようになってからは、硯は墨汁をたたえる容器であれば十分とみる向きも増えた。墨を磨るための鋒鋩や石質は関係がないとなると、わざわざ優れた新老坑や老坑水巌を実用硯式に作る必要もない、という事にもなる。
それよりも老坑特有の石品を生かし、調和のとれた彫琢を施して、古硯と見まごうような鑑賞価値を高めた方が(高く売れて)良いのである。
だから実用硯というと、ここ半世紀ほどで制作された硯でいえば、石質が粗慢な羅紋硯や端溪であれば沙浦など、あまり良い硯石が使われていないのが常である。その代わり安価であるから、学生や初学者が一面くらい持っている分には十分だった。
大きさがあり、かつ実用硯式でありながら”老坑”をうたっている硯は、少し疑ってかかってもいいかもしれない。それくらい、新老坑の実用硯は少ない。
今回リリースするのは、新老坑の実用硯なのであるが、彫琢を施していない硯となると三面しか準備できなかった。三面ではいかにも寂しい。なので一面を加えたのだが、この硯、十分な墨堂と墨池を持つと同時に、硯頭に愛らしい青鸞竹葉が彫られている。それでも墨池墨堂の十分な容積からして、実用硯、と呼んでも差し支えないであろう。
これらの硯は皆、硯石としても、ある程度の大きさがある。しかし新老坑にしても水巌にしても、大きな硯石自体がそれほど多くない。さほど多くもない、適度な大きさを持った硯石を、わざわざ実用硯にしてしまうのは、作硯する側からすれば「もったいない」という事になるのだろう。ただ、硯を使う側からすれば、このような実用硯式こそが「硯らしい硯」という事にもなるのかもしれない。
以前より「もう少し実用的な硯はありませんか?」と聞かれることが時折あったのだが、硯は使い方次第である。小さくて墨池が狭くとも、小品の制作などにはかえって重宝するものである。
とはいえ、条幅や半切に使用できる程度の新老坑の硯が欲しい、という需要があるのも現実であろう。この墨池を満たすだけの墨を磨るのも結構な労力が必要だが、そこは新老坑、鋒鋩が優れている。
粗悪な硯石で制作された多くの実用硯は、前述したようにもっぱら墨汁の入れ物であり、実際に墨を磨ろうとすると、すぐに鋒鋩がヘタるものである。それが今日「墨が磨れる硯がない。」という状況を生んでしまった、ひとつの要因かもしれない。
新老坑ともなるとそれなりの石品が出ているものであるが、そこへ墨汁を使用すると、工業製油烟によって硯がてきめんに暗くなってしまい、魅力が半減する。ゆえに墨を磨る人にのみ、所有をお勧めしたいものである。墨汁は実際に筆も痛めてしまうもので、実用上使用するのは致し方ないが、良い硯や大事な筆での使用はお勧めできない。しかしこれもあまり大声で言うと、ある方面からはお叱りをうけるかもしれない。だから小声でそっと言い置く事にする。「墨を磨りましょう。」と。
]]>週末、土曜日か日曜日のどちらか、天気と体調と都合が許す限り山歩きをするようにしているのだが、季節の花々を観るのも目的のひとつになった。
まだ暑さが来る前の五月、山の中を歩いている時は鶯に不如帰、雲雀の鳴き声も愛らしく、また空気の湿度もほどよく非常に気持ちが良い。いつまでも歩いていたくなるほどだ。
それでも登山口まで下山し、硬いアスファルトの道路に降りると、なぜかホッとする感覚がある。歩きなれた低山とはいえ、やはり山道というのは、心身を緊張させるところがあるのだろう。
現実に、大和葛城山で有名なカタクリの群生が花開くころ、北尾根の途中でレスキューされている登山客を観た。5〜6人のレスキュー隊員に、上空にはヘリコプター、麓には救急車に消防車である。救助されていた人は意識もはっきりしていて、仲間もいたのであるが.......現場は難所でも何でもないのだが.......平易な低山と侮ると、思わぬ事故に遭遇しかねない。単独行だけに、そこには意識を払っている。
舗装した道路をあるいていても、そこかしこの家の生垣や畦道に、自生したり植えられたりした花々が美しい。
金剛山に登り、コンディションがよければ水越峠におり、そこから大和葛城山に登り、北尾根から奈良側へ下山。葛城山ロープウェイの乗り場の近くの登山口に出るのだが、そこから御所駅まで歩く途中で花々を楽しめる。
また天候や体調によって採用する、比較的短いコースが、金剛山山頂から北宇智へ下る道である。この日は北宇智の登山道から北宇智駅へ至る途中、赤い虞美人草(ヒナゲシ)がきれいに咲いていた。人家の敷地ではなく、まったくの道路わきの茂みなのだが、誰かが種をまいたのだろうか。
夏目漱石の初期の作品に『虞美人草』(1907年発表)がある。これは『草枕』(1906年発表)の後に書かれた作品だが、いろいろ比較して読むと興味深い。『草枕』も『虞美人草』も、主人公が山道を歩いている場面から始まるのだが、自身も山歩きをしているとよく思い出す小説である。
まれに栽培が禁止されているケシが山麓なので見つかることがあるというが、実見したことはない。図鑑等で見る限り、阿片を採取できるようなケシというののは、花にも茎にも、やはりどこか禍々しい雰囲気があるものだ。眼前で可憐に揺れているケシはそのようなところが微塵もなく、”虞美人草”という別称が似つかわしい。
阿片を採取するケシは”罌粟(けし)”と表記され、現代は”虞美人草”とは区別されているが、古代においてもそのような区別があったのかはわからない。
虞美人、というのは無論、劉邦と覇権を争った項籍の妻、虞姫のことである。垓下の戦いで、剣で自決した虞姫の血からこの花が生じた、あるいは虞姫の墓に生じた、という説があるが......
ケシの原産地は実のところ明確ではなく、中東、ないし欧州と言われる。古代ローマの博物学者、ガイウス・プリニウス(23年〜79年)は、ケシとその薬効、毒性について、著書『博物誌』に記述しているから、紀元後の地中海沿岸地方では知られた植物だったのだろう。
清の?之誠は著書『冷齋夜話』で考証するに、南朝晋の医学者・陶弘景(456〜536年)の『仙方註』を引いて”斷腸草不可知。其花美好,名芙蓉花”とあり、また李白の詩に“昔作芙蓉花,今為斷腸草”とあるとして、この斷腸草がすなわち罌粟花なのである、としているが.....これも定かではない。仮にそうであっても、項籍と虞姫の生きた秦朝末期にはまだ伝播していないことになる。
阿片戦争の原因となった阿片は、イギリスが植民地インドで栽培した阿片を中国に輸出したもので、中国で栽培されていた阿片はそれほど多くない。
もっぱら鑑賞にたえる虞美人草と、阿片の原料になる罌粟が、元は同じ植物を指す言葉なのか否かは判然としない上に、中国への伝播の時期もよくわからない。しかし阿片は中毒性もあるが、用い方では薬効もあり、そういった植物というのは人為的に拡散するものである。
そもそも虞美人草と虞姫を結びつける詩詞や伝承も、それほど古くはさかのぼれない。
南唐の李後主・李?(961〜976年)に『虞美人・風迴小院庭蕪?』という詩があるが、これは李?の辞世の詩であるといわれる。この李?の『虞美人』は、詞牌のことで、詩の主題ではない。もとは唐の宮中の楽人や妓女に楽曲を教える”教坊”で使用された”エチュード”の一つであるが、のちに韻文の形式のみが詞牌に用いられるようになった。”虞美人”というのは、項籍のために虞姫がうたった曲にちなむという。
宋の瀋括『夢溪筆談·樂律篇』には”舊有虞美人草,聞人作『虞美人曲』則枝葉皆動,他曲不然”とあり『虞美人曲』をうたうと、枝葉がみな動いた、とある。この場合の『虞美人曲』も、特定の楽曲ではなく、曲調の事であろう。
南宋の辛棄疾(1140〜1207年)の『虞美人・賦虞美人草』では、虞美人草と虞姫の伝説を結び付けている。同じく南宋の姜夔(1155〜1221年)の『虞美人草』、ややはり南宋の易士達の『虞美人草』も虞美人草に虞姫をなぞらえている。
ところがさかのぼって唐代の詩賦には虞姫のイメージと重ねた『虞美人草』の詩は見られない(見つけられていないだけかもしれないが)。
虞美人草......歌と舞踊に巧だったという虞姫にちなんだ楽曲がつくられ、曲調として残り、詞牌になるなどして伝えられていくうちに、西方から伝播した美麗な花にそのイメージが重ねあわされたのかもしれない。
古代の舞姫にとって、紅裙(赤いスカート)は定番の衣装だが、この花弁の色は確かにそれを彷彿とさせるものがある......しかし光線の加減なのか、この花は不思議なほどに赤い。
こうした路傍の花は、あるとき突然消えてしまうことも少なくないのだが.......来年も同じ場所で美しく咲いてくれている事を今は祈りたい。
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先日紹介した張懐瓘『二王等書錄』が収録されている張彦遠の『法書要録』に『論書表』という著作が収められている。著者の虞龢(ぐ・か)は南朝宋の泰始年間(465年 - 471年)の書法家で、會稽餘姚(今屬浙江)の人である。官は中書侍郎にのぼったという。
『論書表』には王羲之(303年〜361年)・王献之の書の蒐集に関する初期のころの事情が書かれており、張懐瓘が『二王等書録』を書く際にも参考にしたと考えられる記述内容がある。虞龢は王羲之が長く滞在した会稽の出身であり、また王羲之の没後100年くらいに生まれた人物であるから、比較的確かな伝承を取材出来たであろう。
全体、興味深い内容だが、特に王羲之の書の集合離散の事情について述べられた個所を今回は読んでゆきたい。
以下、時代的にはおおむね、東晋の末年の桓玄の反乱(399年〜404年)と劉裕によるその平定、南朝宋の開闢と孝武帝(在位:453年〜464年)の時代について書かれているから、東晋の末期から60年間くらいの事情、という事になる。
(原文1)
桓玄耽玩不能釋手、乃撰二王氏跡、雜有縑素、正行之尤美者、各爲一帙、常置左右。及南奔、雖甚狼狽、猶以自隨、擒獲之後、莫知所在。劉毅頗尚風流、亦甚愛書、傾意搜求、及將敗、大有所得。
桓玄(かんげん)耽玩(ちんがん)して釋手(たくしゅ)能(あたわ)ず、乃ち二王氏の跡を撰(えら)び、雜(まじ)るに縑素(けんそ)有り、正行の尤も美なる者、各(おのお)の一帙を為し、常に左右に置く。
及ち南に奔(はし)り、甚だ狼狽(ろうばい)すると雖(いえど)も、猶ほ以って自隨(じずい)し、擒獲(きんかく)の後、所在(しょざい)知る莫(な)し。
劉毅は頗る風流を尚(たっと)び、亦た甚だ書を愛し、意を傾けて搜(さが)し求(もと)め、將(まさ)に敗(やぶ)るに及び、大いに得(う)る所あり。
(大意1)
(東晋安帝から禅譲を受けた)桓玄(369-404)は(王羲之・王献之の筆跡への)愛玩に耽って(片時も)手放すにしのびず、二王(王羲之・王献之)の筆跡を選んで、(中には)絹布(に書かれた書)も混じっていたが、正書と行書のもっとも美しいもので、それぞれ一帙に表装し、常に左右に置いていた。
(劉裕への反乱に敗れて)南に敗走したが、たいへん狼狽してはいたにしても、それでも(王羲之・王献之の書帙を)身に帯びていたが、捕らえられ(処刑され)た後、その所在を知る者はいない。
(桓玄を倒した桓玄の元配下、劉裕のまた配下であった)劉毅は非常に風流をたっとび、また大変書を愛していたから、意を傾けて(王羲之・王献之の書を)探し求めていたが、(桓玄を)敗ったときに(桓玄の収蔵していた書跡を)たくさん手に入れた。
(原文2)
盧循索善尺牘、尤珍名法。西南豪士、鹹慕其風、人無長幼、翕然尚之、家贏金幣、競遠尋求。
於是京師三吳之跡頗散四方。羲之爲會稽、獻之爲吳興、故三吳之近好、偏多遺跡也。
盧循(ろじゅん)善き尺牘(せきとく)を索(さが)し、尤(とりわけ)名法を珍(たっと)ぶ。
西南の豪士、鹹(ことごと)く其の風を慕い、人に長幼(ちょうよう)無く、翕然(きゅうぜん)して之を尚(おも)んじ、金幣(きんへい)を贏(あま)す家は、競(きそ)って遠きに尋ね求むる。
於是(これにおいて)京師(けいし)三吳(さんご)の(書)跡、頗(すこぶ)る四方に散ず。羲之の會稽に為し、獻之の吳興に為す、三吳の近好ゆえに、偏(あまね)く多く(書)跡を遺(のこ)す也。
(大意2)
(406年に反乱を乱を起し、劉毅に平定された五斗米道の一派の首領であった)盧循(〜411年)も善い尺牘を捜索し、とりわけ名家の書法を珍重した。
西南(:楚)の豪士はみなその(文人的な)気風を慕い、長幼の区別なく、寄り集まって(王羲之や名家の書法を)重んじ、財産を余しているような家は、あらそって遠くまで探し求めた。
こうしたことで、京師(建業:南京)と三吳(呉郡、呉興、会稽)に遺っていた書跡は、ほとんど四方に散逸してしまった。王羲之が会稽で書いたものや、王献之の呉興で書いたものは、(当時殷賑な)三吳が互いに近くにあったため、その地方にまんべんなく多くの書跡が遺っていたのである。
(原文3)
又是末年遒美之時、中世宗室諸王尚多、素嗤貴遊、不甚愛好、朝廷亦不搜求。
人間所秘、往往不少、新渝惠侯雅所愛重、懸金招買、不計貴賤。而輕薄之徒銳意摹學、以茅屋漏汁染變紙色、加以勞辱、使類久書、真僞相糅、莫之能別。故惠侯所蓄、多有非真。然招聚既多、時有佳跡、如獻之『吳興』二箋、足爲名法。
孝武亦纂集佳書、都鄙士人、多有獻奉、真僞混雜。
又是れ末年(まつねん)遒美(いうび)の時、宗室(そうしつ)諸王(しょおう)尚(な)を多き世に中(あた)り、素(も)とより貴遊を嗤(わら)う、愛好にはなはだしからず、朝廷また搜し求めず。
人間の秘する所、往往(おうおう)にして少なからず、新渝惠侯の雅(つね)に愛重するところ、懸金(けんきん)して招買(しょうばい)し、貴賤(きせん)を計らず。
而して輕薄(けいはく)の徒、銳意(えいい)摹(も)を學び、茅屋(ぼうおく)の漏汁(ろうじゅう)を以て染めて紙色(ししょく)を変じ、加えて勞辱(ろうじょく)を以て、久書(きゅうしょ)に類せしむ、真僞(しんぎ)相い糅(まじ)り、之を能(よ)く別(わ)かつ莫(な)し。
故に惠侯の蓄する所、多く真ならざるあり。然れども招聚(しょうしゅう)既に多く、時に佳跡(かせき)有り、獻之『吳興』二箋の如きは、名法と為すに足る。
孝武(こうぶ)亦た佳書(かしょ)を纂集(さんしゅう)し、都鄙(とひ)の士人、多く獻奉(けんほう)する有り、真僞(しんぎ)混雜(こんざつ)す。
(大意3)
また(書跡の蒐集熱の昂じたのは)東晋の末期で、(そのころはまだ晋王朝の)質実剛健の気風のあった時代で、晋朝の宗室や(王家の血筋をひく)諸王はまだ多い世の中であった。(武人であった司馬氏出身の)彼らは、もともと貴族特有の風流な遊びを(文弱として)軽視しており、(したがって書跡にたいして)愛好の念は強くはなく、(したがって)朝廷では(名家の筆跡を特に)探し求めなかった。(よって臣下の間や民間で流通し、亡失、散逸していったのである)。
俗世間で秘蔵されてる書跡は往々にして少なくなかったが、南宋の新渝惠侯(劉義宗〜444年)はつねに(書跡を)愛好し、大金を懸けて招いて買い求め(持ち込む者の)貴賤を問わなかった。
そういうわけだから(お金目当ての)軽薄な者達は、鋭意して雙鉤填墨の技法を学び、古い茅葺(かやぶ)きを煮出した汁を用いて紙を染めて色を変え、(故意に)ぞんざいに扱うなどして、古い書跡のように見せかけ、真贋がまじりあってしまい、これらをよく鑑別出来る者がいないほどになった。
ゆえに(新渝)惠侯の収蔵したものには、多く真筆ではないものがあった。しかし招き集めたものが多かったので、時に良い筆跡があり、王献之の『呉興』二箋のごときものは、名法というに足るだろう。
(さらに南朝宋の)孝武帝(劉駿:430-464)はまた佳い筆書を蒐集し、都や田舎の人士は、多く献上するものがいたから、(ここでもまた)真偽が混雑してしまった。
(後記)
王羲之の没後40年ほどで東晋の滅亡に至る混乱期が始まり、その中で王羲之・王献之の書が散逸しまた亡失し、さらに真贋が混雑するに至る過程が述べられている。
東晋の安帝から禅譲を受けて楚(桓楚)を建てた桓玄であるが、武人であるものの、文芸を愛した人物であった。陶淵明も桓玄の幕僚を務めた時期がある。彼が王羲之・王献之の「正行之尤美者」を書帙におさめたのが、二王の蒐集の記録上の始まり、とはいえる。
「正行」は「正書」と「行書」、それぞれを別々の帙に表装した、と解釈できる。「正書」は「楷書」という意味があるが、王羲之の時代の「正書」は、唐代以降のいわゆる「楷書体」とは、また別の書体であったと考えられる事は注意を要する。
「西南豪士」とあるのは、桓玄の建てた”楚”の地方を指すのだろう。王羲之・王献之の筆跡は”三吳”と呼ばれる呉郡、会稽、呉興という、近接した地域に残っていたという。むろん、王羲之は会稽に、子の王献之が呉興で生活した事によるだろう。おおむね、今の浙江省の一部くらいの地域である。それが”桓楚”の人士によって競って求められ、長江以南の地域に分散してしまったという。
興味深いのが、東晋の王室は筆跡の蒐集にあまり熱心ではなかった、という事である。東晋に先立つ西晋は、司馬氏が曹魏から禅譲を受ける形で開かれるが、その祖というべき司馬懿は曹操・曹丕・曹叡に仕えた人物である。
王朝時代は、政治行政に軍務が当然含まれるから、文官・武官(内政・軍事)という区別は実はあまり適切ではない。『三国志演義』の成立した明代には、内政・外交をもっぱらとする文官と、武勇に長けた武官、というステレオタイプが成立していたようであるが、漢代から少なくとも唐代あたりまでは、文武両道でなければ有能な人物とは認められていなかった。軍事に疎ければ、地域の治安・防衛に責任を持つ行政官にはなれないのである。
しかし司馬懿は巨大な軍功によって司馬氏の基礎を築いた人物であり、司馬氏、また司馬氏の開いた晋王朝も、あるいは質実剛健にして武断的な性格を帯びていた気配がある。それは曹操・曹丕・曹植に観るように、文事にも熱心でかつそれに長じていた曹氏が結局は滅んでしまった反省に基づくのかもしれない。
また東晋の皇室は、王羲之等琅琊王氏の勢力の大きさを警戒し、その力を抑えようとしていた。ゆえに王氏の筆跡を重んじなかった、という政治的理由も考えられる。
ともあれ「嗤貴游」と、晋の皇室ないし皇族の間では、詩賦や筆書といった、文雅な貴族文化を軽視する、という姿勢があったのだと『論書表』では述べられている。ゆえに王羲之・王献之の書は東晋王朝の宮中に集中して収蔵される事なく、桓玄を代表する臣下や民間で流通し、散逸していった、というのである。
後漢末から三国時代の能書家といえば鐘繇がいる。また皇甫嵩や衛瓘など、大きな軍功を挙げた人物の中にも能書家は少なくない。ゆえにここに出てくる桓玄や劉毅のように、軍功によって出世しやがて反乱を起こして亡ぶにいたるような、もっぱら武事に生涯を送ったような人物であっても、筆書を愛し文事に耽ったとしても不思議な事ではない。
晋王朝の皇室が率先して王羲之の書を蒐集しなかった反面、臣下の有力者が熱心に蒐集していた、というのが王羲之没後の筆跡を取り巻く初期の状況だったのであろう。
それが南朝宋になってようやく、宋の皇族であった新渝惠侯こと劉義宗(〜444年)は王羲之・王献之の書の蒐集に熱心になったという。晋王朝と、南朝宋王朝の性格の違いであろうか。
しかし劉義宗は「死馬の骨を買う」式に金銭を惜しまず、怪しげなものまで集めたたという。そこに付け込んだ者達が雙鉤填墨(透ける紙で輪郭をとり、塗りつぶす)の技法を用いたり、紙に古色を付けるなどした贋作が多く造られ、真贋が混雑する要因になったと言っている。こういった「欲しい人の数だけ文物は作られる」という事情は、すべての文物について時代を問わずいえる事でもある。
しかしながら膨大な蒐集の中に、観るべきものもあったのであろう。”如獻之『吳興』二箋、足爲名法”とあるのは、おそらく劉義宗のコレクションを虞龢自身が実見した上での感想ではないだろうか。
そして南朝宋の四代皇帝孝武帝(430-464年)にいたり、孝武帝が皇帝として熱心に王羲之・王献之の書を蒐集するようになった。ついに皇室のコレクションに取り込まれるようになったのである。しかし皇帝が蒐集するということで、ここでさらに多くの人士が献上した結果、真贋の混乱に拍車がかかったのだという。虞龢はおおむね孝武帝の時代に生きた人物であるから、この記述は当時の様相を良く説明しているのだろう。
民間で流通すれば筆跡は散逸、亡失、贋作の混入が進むが、とはいえ宮廷の権威・権力でもって蒐集に努めれば、筆跡は宮廷に一局集中することになる反面、その過程でも贋作が多く紛れ込むという...........このような事情が王羲之の没後百年たたないうちに起こり、以降の歴史で集合離散を繰り返すのである。王羲之の”真筆”を論じる困難は、十二分に伺えるであろう。
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なので気温があがると先に大和葛城山山頂の雪が消え、泥濘に覆われる。ついで金剛山山頂の雪や氷結した地面も解け始めるのだが、そのころには大和葛城山の泥も乾き始めている、という具合である。
大和葛城山の麓では白い梅花が咲き始めていた。
......あるいは事実上、第三次世界大戦の世界を生きている、という認識が必要かもしれない。今回のクリミア併合からウクライナ戦争へいたる経緯は、第二次大戦に突入していった経緯によくに似ている。
今回も第二次大戦前夜と同じく、国際機関も、各国首脳の連携も、結局は戦争抑止に効果は無かった。いまのところウクライナとロシアとの間に戦火が限定されているのは、ロシア軍が想像以上に無計画で、かつウクライナ軍が効果的な準備をしていたからに過ぎない。世界大戦への発展が阻止されているのは、国際政治や外交のチカラではなく、ウクライナの軍事力に拠っている、という見方も可能かもしれない。
開戦前、キーウ北方のベラルーシに集結したロシア軍はわずか3万人だったという。ウクライナ軍は常備軍20万に予備役20万を動員し、合計40万。少なくとも5万〜6万は首都キーウの防衛に置くことが可能であっただろう。市街戦は最後は人対人の戦いになる。数にも地の利にも劣るロシア軍が攻略できる見込みは薄い。ゆえにロシア軍の計画というのは、やはりゼレンスキー大統領が亡命するか拘束され、キーウが短期間に開城するだろう、という”甘い”見通しに拠っていたのだろう。作戦が成功した場合、ロシア軍の戦車や装甲車はキーウやその郊外の街や村に急速に進駐し、支配の実効を図る程度の準備しかしていなかった、と察せられる。
キーウの初動作戦が頓挫した後、急遽北東から部隊を呼び寄せた。しかしこの方面の増援は補給線も戦線も細く長く伸び、各所で待ち伏せ攻撃を受けて寸断されている。
当初の計画の失敗に糊塗に糊塗を重ねたところで、組織だった抵抗を見せるウクライナ軍を撃破することは不可能であろう。
しかし第二次大戦の際に、ドイツ国防軍がポーランドやフランスをあっという間に制圧したように、ロシア軍がウクライナを短期間で制圧出来ていたとすればどうだったであろう?
隣接するチェコやハンガリー、ルーマニア、ポーランドに圧力をかけ、NATO脱退を促し、傀儡政権の樹立をはかる。それが出来なければ親ロシア派と称する団体を武装蜂起させ、介入する。これを繰り返すであろう。69歳のプーチン氏の余命があと何年あるかはわからないが、おそらく彼が死ぬまで、ヨーロッパに平和は訪れない。
それがわかっているから、ウクライナに隣接するポーランドやルーマニアなどのNATO加盟国は、強い当事者意識を持って支援を継続している。特にEU諸国からの防空システムや対戦車兵器などの武器供与は、大きな力になっているだろう。
しかしアメリカやEUの指導者は、当初はプーチン氏の核の脅迫(ブラフ)に乗った体ではある。とくにアメリカ合衆国大統領バイデン氏の言動は、開戦前から首をかしげる事が多い。
ではどうするべきだったのか?(という事をここに書いても仕方がないが)プーチン氏が恐れているのは、NATO諸国、特にアメリカの軍事介入である。それを実際に行わないまでも、プーチン氏の脳裏に”もしNATOやアメリカが直接軍事介入してきたら”という疑念を、不確定要素として貼り付けておくくらいの事はしても良い。それがむしろ、プーチン氏の懸念を払拭するような言動が多くみられるのである(ポーランドからの戦闘機29機の間接譲渡を拒否した事等々)
攻撃兵器供与なら「第3次大戦」 与党会合で警告―米大統領
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022031200384&g=int
上記のような事を懸念するのは構わないが「第三次世界大戦の勃発」懸念していることが相手に伝わるという事は、相手にとっての懸念(アメリカ参戦の可能性)がひとつ払拭される、ということである。
”アメリカは世界の警察官ではない”事自体は構わないかもしれない。それをわざわざ宣言し、非道な野心家を安心させる必要もなかったのである。
目下、世界はロシアへ空前の経済制裁を実施している。厳しい経済制裁は、後方のロシア経済を破壊する、いわば戦略爆撃に等しい。充分な効果をあげるであろう。ただその措置は、(国情によるのだろうが)各国に温度差がある。
またロシアは手持ちの資源を使い切ってしまうまで戦争を継続することが出来る。特に天然資源に恵まれたロシアは、差し当たって原油、天然ガスなどのエネルギーの問題は無い。ロシアがいつまで戦争を継続できるかは不明であるが、続く限り、ウクライナの都市は破壊され、市民と両軍の犠牲者は増え続ける。
経済制裁は、最終的にプーチン氏にウクライナ併合を諦めさせる効果をあげるだろう。しかし可能な限り早期に戦争を終結させるためには、もっと踏み込んだ対処の仕方が必要なのであるが、それをする意思は見られない。
今や戦況を概観すれば、ロシア軍は常備27万人の地上軍のうち20万人をウクライナに投入しながら、首都キーウはおろかハルキウ、マリウポリなどの主要都市をひとつも攻略できていない。ウクライナ戦線のロシア軍は戦力が枯渇しつつあり、国内から新兵を動員し、果てはシリアから傭兵をかき集めて前線に送ろうとしている。この上さらに、ウクライナと同じくらいの戦力をもつ国家を相手に、戦線を拡大する余力はないのである。
ゆえに第二次大戦において、西部戦線でイギリスと交戦中のドイツ国防軍が、東部でソ連に対し開戦したような、際限のない戦線拡大はもはや現実的ではない。
ウクライナ戦争開戦前はわからなかった、ロシア軍とウクライナ軍の実力の差が明らかになり、ウクライナ軍の優勢が明確になった。しかしポーランドの戦闘機供給提案を蹴ったことにみられるように、バイデン大統領は、ウクライナ軍がロシア軍を完全に撃退する方向への支援を行わない。のみならず、アメリカとしては交戦国とみなされるような支援はしないと明言し、やはりプーチン氏にとっての不安要素の払拭に努めているかのようなのである。これもかつてヒトラーが、アメリカ参戦の意思がない事を確信し、ソ連侵攻に踏み切った経緯によく似ている。
もちろんプーチン氏は、バイデン大統領他、西側主要国首脳の人物をよく見て戦端を開いたのであろう。
アドルフ・ヒトラーはベルリン陥落直前に自殺した。文字通り破滅したのであるが、プーチン氏はそこまでして”大ロシア主義”に殉じる気持ちは無いだろう。ヒトラーは家庭を持たなかった。プーチン氏には家庭があり、権力のほかに12兆円とも20兆円ともいわれる莫大な資産がある。
ヒトラーは美術品を強制的に蒐集したり、ユダヤ人の資産を没収するなどしたが、私生活は当時の欧州の指導者としては質素である。特にベジタリアンであったことは知られている。貴族社会を嫌悪し、反ブルジョワを掲げただけに、貴族的な贅沢に耽る趣味はなかったのである。しかしプーチン氏(だけではなくソ連の歴代書記長)には明らかにそれがある。独裁者という地位を楽しみ、権力を利用して資産を築ける人間というのは、それを失うのが何より怖いのである。
核兵器という、いわば”最後の切り札”を脅迫に使い、侵略という”ゲーム”を仕掛けるような独裁国家、独裁者と渡り合う方法は、歴史に例を見る事が出来る。
例えばキューバ危機における、アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ書記長の対峙があるだろう。フルシチョフはキューバにミサイル基地を建設し、アメリカ全土をミサイル射程圏に収めようとした。ケネディは一歩も引かず、いわば史上最大の”チキン・レース”に勝利した。
両者が譲らない事で”一触即発”にまで緊張が”エスカレーション”する。しかし両者破滅が必至ゆえに、引くに引けない相手が、周囲を納得させた形で手を引けるのである。
ウクライナのゼレンスキー大統領は外交に失敗した、だから戦争に突入した、という批判がある。しかし彼に開戦前の失敗があるとすれば、むしろあくまで外交に努めた事、すなわちアメリカやNATOを頼ろうとしたことであろう。アメリカやNATOは結局ゼレンスキー大統領の外交努力に応えなかった。これがプーチン氏に”弱腰”に見え、実力行使に傾いた事は否定できない。
開戦前からウクライナが徹底抗戦の決意をみせれば、軍事的緊張は高まり、ゼレンスキー大統領がむしろ緊張を煽っていると批判する声も上がったかもしれない。しかし、プーチン氏のような、いわば”マフィア”そのものの手法を使う”無法者”相手に、外交や国際法だけでは対峙出来ないのである。
馬鹿馬鹿しいかもしれないが、脅迫、恫喝をしてくる相手に弱気を見せるのは禁物で、逆に恫喝が効くのである。むろんそれは実力(=軍事力)が、相手より上位にある者が行うのが効果的である。
最近(でもないが)の例では、2002年に当時のブッシュ大統領が北朝鮮を”ならず者国家”に指定し、日本の首相が「ならず者国家!」と叫んだら、何十年も認めなかった拉致を認め、拉致被害者の一部が還ってきた。
軍事力、核を背景に脅迫に拠る”瀬戸際外交”する者は、やはり脅迫や恫喝に屈するよりない。それは最高権力、莫大な富と贅沢な生活、一族の繁栄を犠牲にできないからである。
ただこうしたアイデアは、”国際法を順守しましょう”という向きには到底認められないであろう。仮に周囲にアドバイスをする人間がいたとしても、実行する指導者が、それが相手の”ブラフ”であることを確信できなければ出来ない。”万が一の懸念”にとらわれ、何も出来ない。弁護士出身のバイデン大統領には、特にその性向を強く感じるのである。そういった指導者、権力者の性格を見抜けるプーチン氏の洞察は、やはり鋭いものがあるだろう。
ロシア軍の大半、キエフの25キロ圏内に到達か 各地で「町が消滅」
https://www.cnn.co.jp/world/35184797.html
ロシア軍がキーウ北方に集結しているというが、これは部隊を再編成し、補給を行って戦闘力を回復する行動である。チェチェンやシリア、あるいはロシア国内から増援が送られているという。
しかしロシア軍がウクライナ軍に勝てないのは軍の「数の問題」ではなく、装備や編成、補給、通信といった「システムの問題」なのが明らかである。だから増援を送って数を増やしても、戦局を挽回するにはいたらないだろう。改善するには装備を一新し、編成、訓練からやり直さなければならない。それはもはや不可能事だ。
ウクライナ紛争、「戦略的転換点」迎える=ゼレンスキー大統領
https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-zelenskiy-war-idJPKCN2L82BZ
ウクライナのゼレンスキー大統領は一昨日にこう宣言し、初めて”勝利”という語を口にした。これは停滞を始めたロシア軍に対し、ウクライナ軍が守勢から攻勢に転じる時期が到来した、という事を示唆している。事実、前述のキーウ北方で再編成を進めるロシア軍に対し、ウクライナ軍は砲撃や空爆を実施している。車輛に偏ったロシア軍は、いったん移動が止まると、砲爆撃の標的になるよりない。
とはいえ、このウクライナ戦争の帰結がどうなるか?については予断を許さないものがある。西側諸国の対応が武器供与と経済制裁に限定され、軍事介入を仄めかす事すらしないとすれば、ウクライナは自力でロシア軍を撃退するしかない。少なくともプーチン氏が絶対に失いたくないであろうクリミア半島を奪還するか、奪還可能な形勢になるまで、戦い続けなければならない。戦況を見る限り、それは実行可能である。ウクライナ軍にはロシア軍を撃退するだけの能力がある。
しかし空軍力の不足により、充分な制空権を握れないということは(ロシア軍もウクライナ側の防空システムの機能で、制空権を掌握できていないが)反撃に出る際のウクライナ軍の損害を大きくし、かつ急速にロシア軍を追い込むことを難しくさせるだろう。ウクライナ軍の空軍力は限定的で、黒海の制海権も持たないとなると、クリミア半島の奪還には困難を伴うだろう。
一方で”落としどころ”を探り始めたプーチン氏は、ウクライナに展開するロシア軍には、どんなに不利でも戦闘の継続を厳命しているだろう。それは交渉で優位に立つというよりは、もはや劣位に立たないためで、そのためには自軍の将兵の死傷などは意に介さないだろう。
またウクライナ軍に対して有効な打撃を与えられないロシア軍は、ウクライナ市民を標的にし、クラスター爆弾などの無差別殺戮兵器を使用し始めている。生物化学兵器の使用も懸念されているが、NATOは化学兵器を使用した場合、軍事介入すると警告している。しかしロシア軍は、通常戦力が枯渇しはじめた場合、ためらわず使用するだろう。それはシリアで(当時のオバマ大統領の警告にも関わらず)実際に実行されたことだ。(そしてオバマ氏は結局軍事介入しなかった)
無論、毒ガスや細菌兵器を使用しても、戦局をロシア軍優勢に導くことは出来ない。冷酷であるが、ウクライナ市民がいくら死傷しても、ウクライナ軍に損害を与えない限り、戦況がロシア側に傾くことは無いのである。
しかしウクライナ共和国の大統領、ゼレンスキー大統領は、プーチン氏のように市民の死傷を意に介さない人物ではないだろう。それだけに苦悩は深いものがあると察せられるのである。
ロシア地上軍がウクライナで戦争継続の能力を喪失した時、アメリカではなくても、たとえば周辺国のポーランドやトルコであっても、軍事介入を念頭にロシアに強く停戦を迫ることが可能かもしれない。前述したように、ロシア軍にはもはやNATO加盟国のうちの一国とすら、戦う余力は残っていない。
現に、トルコはウクライナとロシアに交渉の場を提供している。開戦直後、ハンガリーが交渉を提案して蹴られているが、その時からは状況が変わった事を示している。またゼレンスキー大統領はエルサレムでプーチン氏と会談することを提案しているという(プーチン氏が現在地球上でもっとも会いたくない人物はゼレンスキー大統領であろうが)。
事態は際限ない拡大から、収束へ方向を転じた兆しがある。
日々刻刻と市民の生命と財産の破壊は続いている。やはり一刻も早い終結を願わずにはいられない。
登山道から寺に向かう路上に、愛らしい狸地蔵が並んでいるので、いくらかの小銭を置くのを常としている。いつの時代に出来たのかわからないが、昨日今日ではなさそうである。最近まで夫婦狸かと思っていたが、兄弟だそうだ。まわりを良くみるべきである。
実際に、この付近で狸を目撃した事がある。登山道の終わり、車道が見えるころに、道をふさぐように狸がこちらを見ていたのである。スマートフォンのカメラで撮影しようと取り出しているうちに、くるり、と踵を返して逃げ出てゆき、狸地蔵の裏手の畑を横断して繁みに消えていった.......察するに、昔からこの付近には狸が住み着いていて、狸地蔵の由来もそれに基づくのであろう。
ウクライナの戦火は止まない。ロシア軍は攻撃目標を民間人や民間施設にシフトし、日に日に被害が積み重なっている。
ここ数日、ロシア連邦大統領、ウラジミール・プーチン氏の戦争の動機について考えてみたのだが、前回投稿した際に触れた”大ロシア主義”というのは、おそらく本音ではないだろう。つまり自らが信奉するイデオロギーに殉教するつもりで、戦争を始めたわけではない。
そもそもこの”大ロシア主義”は、かいつまんでいえば、おそらく第二次大戦前において、アドルフ・ヒトラーが信奉した”大ドイツ主義”の粗悪なパロディに過ぎない。さしずめオーストリアはウクライナ、ウイーンはキーウ、民族学が地政学、というところだろう。こうした雑な思想がロシア国内に存在し、ある程度の支持を受けているのは事実だろう。これはソ連邦崩壊後の思想の空白を埋めようとするロシア知識人の中で生まれたか、ソ連時代からすでに存在し、共産主義思想の瓦解の後に広がったものと考えられる。
核兵器に言及するプーチン氏の精神状態を危ぶむ声もあるが、考えてみれば”核”というカードを使ってまだ”ゲーム”をしているのであるから、打算する思考は働いている。つまり核兵器を実際に使う意思はない、と考えられる。
数日前、ロシアの航空会社のスタッフを相手に、会談した姿が報道された。
プーチン大統領「戒厳令、考えていない」 国際女性デー前に航空職員らと会談
https://www.sankei.com/article/20220306-6UGAOL3WX5NMRLWZXVBOZHJVZE/
こういう事が出来る人物というのは、まだ周囲が視界に入っている、という意味で判断力は残している。精神が異常な状態で核ミサイルの発射ボタンに手をかけるような人物は、このような事は出来ない。(さすがにロシア軍内部でも、大統領が”発狂”して核戦争にならないよう、考えられた手続きやシステムになっているはずだ)
しかし”切り札”を脅しに使っている時点で、実のところ余裕がないのはプーチン氏のほうなのである。
世界は第三次世界大戦、核戦争の懸念から、その”脅し”に乗った体である。多くの人間は”万が一”の事を”懸念”する。それに自身の責任が加わると、もう動けない。プーチン氏はそこをつき、ブラフをかけている。
プーチン氏は理想や思想に、自身の地位や生命を捧げる気などまったくないだろう。ゆえにむしろ、戦争の動機は真逆のところにあるのではないだろうか。つまりもっと実利的なところである。
リアリストの仮面をかぶったプーチン氏が、隠れた理想家、夢想家で(贅沢にも飽き)人生の最後にその実現にひとつ命をかけてみよう、という気になったのであれば、実に厄介な事である。しかし本音では”利益”を求めているのであれば、どこかで交渉や妥協を強いる余地はある。(むろん、ウクライナ側が要求を呑む必要は、原則無いが)
察するにプーチン氏のクリミア半島、さらには黒海沿岸への異様な執着は、帝政ロシア貴族〜ソ連時代の共産党特権階級、いわゆる”赤い貴族”達に共通する”暖かい海”への憧憬の念に通じるのだろう。
ソ連邦の創始者、レーニンの王侯のような生活は有名だが、歴代の書記長たちも例外なく豪壮な私邸のほかに、”ダーチャ(庭園付き別荘)”を持った。ゴルバチョフ氏すら、黒海沿岸に豪奢な別荘を建てる事をためらわなかった......プーチン氏も、正しくこの系譜に連なる人物なのだ。
クリミア半島には、ロマノフ王家が夏を過ごしたリヴァディア宮殿がある。またセヴァストポリ要塞、ヤルタ.....帝政ロシアの栄光と歴史が眠っている。それらへの強い憧れと欲求が、プーチン氏の今回の行動の根底にあるのではないだろうか?
ある意味”王様になりたい”というような子供じみた”夢”であるが、プーチン氏の言動を追ってゆくと、そうした子供じみた事をする証拠が出てくる(長くなるので挙げないが、犬嫌いのメルケル氏の前に大きな犬を連れてくるところなど)。
ともあれ換言すれば、プーチン氏はロシア連邦という民主国家の大統領ではなく、若いころに目指したソ連邦の書記長、いうなればかつての”赤い貴族”達の頂点になりたがっている、と私は勝手に推察している。
プーチン氏のそれもある意味で”夢想”であるが、求めているものは思想上の理念ではなく、もっと具体的な形や価値をもったものである。また苦心を重ねてロシア連邦大統領になることで、彼はそれを半ば達成した事になる。しかし満足できなかったのだ........おそらく。
プーチン氏にとって何より許せないのが、ウクライナ大統領府であるキーウのマリア宮殿に、コメディアン出身の男が座っている(故に民主国家なわけだが)ことかもしれない。作戦上のキーウへの執着、開戦当初のゼレンスキー大統領の逮捕・処刑の宣言、繰り返される(と報道される)暗殺計画は、どうもそのあたりに理由が求められるような気がしてならない。(それが矛盾に満ちた作戦計画に現れている。)
しかしそういったおのれの欲望の為に戦争を起こし、自他国の市民や軍に多大な犠牲者を生んではばからないとすれば、現代の国家指導者としてのみならず、人間としても”異常”と言っていいだろう。そこには確実に”自制心”の衰えがみられるのである。また戦争の経緯にみる、楽観、矛盾、杜撰な準備を見る限り、思考能力の低下は否定できないところであろう。
20万という少ない動員兵力を分散したため、戦線がひろく薄くなり、キーウ(キエフ)はおろかハルキウ(ハリコフ)も攻略できていない。東部ドンバスとクリミアを結ぶ黒海沿岸に位置するマリウポリすら、包囲しながら依然として攻略のメドはたっていない。
長くなるので今回は省くが、ロシア軍の編成、能力というのは、そもそもウクライナの諸都市を制圧できるものではないのである。唯一、可能性があるとすれば、ゼレンスキー大統領の逃亡(亡命)であった。しかしその機会はやって来ないだろう。
プーチン氏の衰えた理性でも、軍事的にウクライナを制圧できない事を理解しつつあるのかもしれない。度重なるフランス大統領との長時間に及ぶ電話会談は”落としどころ”を探っている事を表している。理想の殉教者であれば交渉にならないが、とどのつまり”欲望”、”損得”であれば、わずかな光はある。
しかしプーチン氏は交渉で少しでも優位に立つため、軍事行動は止めないだろう。攻撃目標は民間人にシフトし、残忍性が高まっている。
実のところロシア地上軍は編成上、守備を固めた大都市を攻略するに十分な装備や訓練は無い。ゆえにほかの手段、クラスター爆弾、散布地雷、など、一般市民にも多く被害をもたらす戦術を使用し始めている。さらには化学兵器の使用も噂されている。原子力発電所の占拠も懸念事項である。
ウクライナの懸命の防戦と犠牲を無駄にしないためには、各国首脳の結束したリーダーシップが期待されるところであるが...........現在のところ、戦況はともかく、プーチン氏から交渉の主導権を奪回するには至っていないようである。
その前の週は雪で覆われていた山頂も、この日はいくぶん気温があがり、凍結した地面が泥濘に代わっていた。
積もった雪があると、ロープウェイで登ってきてそり遊びをする子供連れの家族などもみられるのであるが、雪が融けて泥沼になると訪れる人もほとんどいない。登山道もぬかるんで登山靴も汚れるから、わかっている人は登らないのだろう。我ながら物好きである。
現在もウクライナの首都キーウ(ロシア語キエフ)は陥落せず、戦闘は継続している。ウクライナとロシアの交渉が始まっているというが、ロシア軍によるウクライナ都市への砲爆撃と戦闘は継続し、ウクライナ市民にも多くの死傷者が出ている。
開戦直後、当初多くのメディアが、短期間にキーウが陥落するだろう、という予測を立てていた。
「首都キーウ、ロシア軍の攻撃で数時間内に陥落も−西側情報当局」
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-02-24/R7TOCST0AFBB01
「キーウ陥落は数日以内(米当局者)」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/02/post-98156.php
アメリカ国防省の予想すら、当初はこの通りである。
ロシア軍がキーウを強襲し、短期決戦を想定した作戦を立てていたことは確からしく、アメリカ国防省の予測もあるいはその情報に基づいていたかもしれない。
個人的には、むしろロシア軍はキーウを強襲するという事は無いだろう、と考えていた......開戦翌日の投稿に書いたように、キーウ方面のロシア軍の兵力が、どう見積もってもキーウの攻略には少な過ぎるのである。
アメリカ国防省の予想の通り、非常に短期間にロシア軍が勝利する可能性があったとすれば、ウクライナ共和国・ゼレンスキー大統領が亡命するか、捕らえられるか、あるいは暗殺されるか、しかなかっただろう。
事実、ゼレンスキー大統領の談話で、アメリカから亡命の提案を受けたが、これを拒否したという。またロシア軍によって誘拐される可能性があったことも述べている。プーチン氏は、開戦前にウクライナ政府要人の”処刑者リスト”の用意があると述べ、その筆頭にはゼレンスキー大統領の名があった。
ロシア軍はキーウを強襲することで、恐怖に駆られたゼレンスキー大統領が逃亡するか、ロシア軍特殊部隊によって誘拐に成功するか、あるいは抵抗のすえに殺害されてしまう可能性を考えていたのではないか?
仮にゼレンスキー大統領が亡命しても、キーウは抵抗を継続したかもしれない。しかしプーチン氏はウクライナ領内のどこかで”ウクライナ新政府”を樹立し、事実上の勝利宣言を行い、抵抗を続けるウクライナ軍を「反乱軍」として討伐することが出来ただろう。プーチン氏の事実上の勝利である。
(そういった意味では、アメリカの亡命提案はプーチン氏をアシストしようとしたことになる)
それがゼレンスキー大統領が亡命を拒否し、24日〜25日にかけての、少数部隊によるキーウ強襲も撃退された。ウクライナ軍服や警察、警備員、あるいは市民にまぎれた工作員も多数潜入していたようであるが、多くは逮捕され、大統領の暗殺や誘拐のような手段も封じられたようである。
また、時間の経過とともに、ロシア軍の士気は予想以上に低く、補給物資も前線に充分に行き渡っていない事が明らかになっている。
Twitterのウクライナ語の記事を(自動翻訳で)読んでいると、数多くの戦車や装甲車、軍用トラックが炎上している画像や動画がみられる。3月1日の時点のウクライナ軍の発表に拠れば、ロシア軍は1400両の軍用車輛(戦車・装甲車・他)と5710名を失ったという。目を疑うような損害である。
「Ukraine destroys 198 Russian tanks, 29 helicopters; kills 5,710 soldiers」
https://www.theweek.in/news/world/2022/03/01/ukraine-destroys-198-russian-tanks-29-helicopters-kills-5710-soldiers.html
またロシア兵が遺棄した車両や、装備を捨てて徒歩で移動するロシア兵、食糧を求めて商店を略奪する姿の動画などがみられる。
むろん、こうした投稿や報道内容というのは、ウクライナ軍による情報工作、という可能性もあるだろう。しかし24日から25日の時点ですでに、食糧を求めてキーウ郊外の農村に入り込むロシア兵や、脱ぎ捨てられたロシア軍服、空っぽの車輛、捕虜の証言、さらには現実の戦闘の進捗を見る限り、総じてロシア軍の士気は元から高いものでなかった、という事がうかがえる。
そもそもロシア人の多くがウクライナ人から多年にわたる差別や圧迫、搾取を受けていたというような(ウクライナ人の優越意識は確かにあるというが)積年の恨みがあるという話は聞かない。ウクライナのGDPはロシアの10分の1に過ぎず、一人当たりGDPでもロシアのそれの4割程度である。美しいが経済的には”貧しい小国”であり、軍事的にも決して強国ではない。それがNATOに加盟するにせよ、少なくとも一般のロシア人が、敵愾心を抱く相手ではない。
ところでアメリカ国防省の当初の予想は、ロシア軍の意図とも一致していたようである。あるいはアメリカ政府は、事前に作戦計画を察知していた可能性もある。
報道によればロシア国営通信の掲載予定の記事がリークされ、ロシア軍は48時間でキーウを陥落する作戦を立て、「勝利記事」を用意していたという。
ロシア国営通信が「勝利記事」の予定稿を誤送信
https://courrier.jp/columns/280659/
ロシア語は読めないので、以下の(素晴らしい)翻訳を読んだのだが、
露国営通信記事全訳「ロシアは歴史的完全性を回復する」
https://buu245.blog.fc2.com/blog-entry-160.html?sp
ここでは記事内容の詳細には触れないが、ご興味ある方はご一読を。
ともあれ、もしロシア連邦大統領、ウラジミール・プーチン氏がこの記事に書かれているような、いわば「大ロシア主義」とでもいうべきロマンに浸っているのであれば、早期の戦争終結の希望は薄いであろう.....欲得ならどこかで手を打つものであるが、イデオロギーで戦争を始める者につける薬はないのである。思えばウクライナとの開戦前のプーチン氏の夢想家のような発言、
プーチン氏、ウクライナは「私の美しきもの」
https://www.afpbb.com/articles/-/3389198
これもリークされた記事の内容に照らすと腑に落ちる。また開戦前、フランスのマクロン大統領と何度も会談を重ねていたが、
「プーチン氏、2年で態度に変化 よりかたくなに 仏大統領」
https://www.cnn.co.jp/world/35183985.html
とある。これにも少し奇異な印象を覚えたものであるが、プーチン氏が”復古主義”の夢想に憑りつかれ、為政者としての理性を喪失しつつあるとすれば、マクロン大統領の大きな徒労感がそれを裏付けている。
おそらくクリミアに執着し、キーウに固執するのは、もはや政治的・経済的理由ではなく、畢竟、プーチン氏のロマンチシズムなのかもしれない。類似の例は第二次大戦における『大ドイツ主義』や『大東和共栄圏』に観る事が出来るだろう。
ゆえにこの戦いは”米ソ冷戦時代の遺物”が根本ではなく、それよりも古い時代の、プーチン氏自身が生まれるはるか前の”帝政ロシア時代”ないし(クリミアへの執着を生む)”ロマノフ家の栄光”への郷愁と、そこへ立ち戻る事を阻む”西側勢力”への憎悪が根差している、とも考えられる。その場合、経済・政治に戦争の理由を求めるのは、もはやナンセンスである。
いうなれば中世の甲冑をまとい、槍を振り上げて風車に向かって突進する”中世騎士物語”に浸った老人の姿、とでもいうべきか。しかし”ドン・キホーテ”は無力だが、これが膨大な軍事力をもつ国家の支配者であるとすれば、まさに人類史的な災害である。しかしその例を、我々は近代史に例を採ることが出来るであろう。
当然であるが、このような”ロシア夢”は、ロシア軍のほとんどの将兵、とくに若い兵士が共感し、そのために生命を捧げられるような理由ではないだろう。
プーチン氏の脳裏を支配するイデオロギーは”大ロシア主義”ないし”帝政復古主義”とでもいうべきか。そういった思想が存在する事自体は認めなければならないのであろうが、一国の元首がそれに染まり、現実を見失うとすればどうであろう?これが一般人であれば、わかる者同士のつどいで語りあうなりすればいいであろう。程度がひどければ、しかるべき場所で何らかの治療を受けるべき案件かもしれない。
ともあれリークされた記事の内容が事実であり、プーチン氏の開戦動機を正しく表現しているであれば、非常に暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
現在、ゼレンスキー大統領等、ウクライナの代表団とロシア側代表団が話し合いにはいり、合意に至らないものの協議の継続は約束されている。しかしそれが”無駄な努力”という事を意味しているからだ。
もし、プーチン氏に理性、つまり”そろばん”をはじく思考が残っているのであれば、失敗が明らかになりつつある戦況を前に、政権の存続と自身の保身を図り、ウクライナ側と妥協点を探るだろう。最悪でも亡命の確約はしたい。しかし”大ロシア主義”という、途方もない虚妄に取りつかれているのであれば”All or nothing”なのである。このような人物を相手に、交渉は無意味なのである。
交渉中にもかかわらず、ロシア軍はウクライナの都市を砲爆撃し、市民に多数の死傷者が出ている。こうした行為も、極めて卑劣ではあるが、ゼレンスキー大統領を焦らせ、少しでも交渉を優位にしようとする、いうなれば交渉術である......と考えてしまいそうだ。が、核心はそうではなく、おそらくプーチン氏は戦争を止める気がまったく無い、という事を意味しているのだろう。すくなくとも”ウクライナ”を手に入れるまでは。
ゆえにウクライナ側の条件内容は流れてくるが、ロシア側のそれは不明確である。停戦交渉のロシア側代表団にプーチン氏の姿は無く、軍関係者はひとりもいないという。停戦交渉の場は、ロシア側にとって単なる時間稼ぎですらなく、軍事行動とはおそらく関係のないひとつの事象に過ぎないかもしれない。
目下、プーチン氏の政治的立場は危険である。独裁者あるいは独裁体制は、国民の支持を失っても倒れないが、軍事的失敗により軍の支持を失えば滅びざる得ない。アフガニスタンから撤退してソ連邦が崩壊したように、もしウクライナからロシア軍が撤退する事があれば、プーチン体制は崩壊するだろう。しかしながら、プーチン氏の脳裏には、自らの保身を計算する思考ももはや無いのかもしれない。なぜなら軍の首脳が健全に機能していれば、ロシア軍の当初の作戦失敗は明らかで、かつ挽回は非常に困難、という事がわかるはずだからだ。
現在、極東から陸続とロシア軍の増援が送られているという。それは当初ウクライナに配備されていたロシア軍の戦力が枯渇しつつあることを意味している。しかし古来、士気が低く、補給に難を抱えた軍隊が、住民が武器をとる大都市を攻略出来た例は無い。ゼレンスキー大統領、ウクライナ政府が放棄しない限り、キーウが陥落することは無いだろう。しかしロシア軍の戦力が枯渇するか軍隊が反抗するなどして、物理的に戦争継続が不可能になるまで戦争は続くと考えられる。
初期の”キーウ強襲作戦”の無謀さ、杜撰さと、その後の拙劣な作戦を見る限り、プーチン氏側近の軍事の専門家たちは思考が硬直し、官僚的な義務感と保身によってプーチン氏に従っているのであろう。もっとも、もはや諫言しても意味のない状況ではあろうけれど。
(このような軍首脳部も、やはり近代史に”既視”する事が出来る。)
ひとつ希望があるとすれば、春に近づき、ウクライナの気温が上昇してきた事である。広大な湿地帯に覆われたウクライナの大地は、冬季に固く凍結する。それがゆるみ、泥濘に覆われるようになれば、重い軍用車両の移動は緩慢にならざるを得ない。事実、ぬかるみに深く車輪をうずめて停止しているロシア軍の車輛もみられるようになった。主要な幹線道路は重い戦車の重量に耐えられるようであるが、郊外の農村などは道路が舗装されていないところも多いのである。かつてナポレオンが苦しみ、ヒトラーを阻んだのは”冬将軍”だけではなく、暖かい時期の行動の困難でもある。
プーチン氏が自身の政治生命、あるいは生命すら考慮していないとすれば、経済制裁によってロシア経済が破綻しても、動かせる兵力があるうちは戦闘を続けようとするだろう....そして戦争の続く限り、軍民ともに犠牲を積み重ねるだろう......何らかの手段を講じてプーチン氏を逮捕する以外に、短期的に戦争を終息させることは難しいかもしれない。
秘密裏にロシア側からゼレンスキー大統領にプーチン氏の拘束を協力する申し出があり、それに動いている可能性はないか.......あるいは側近の造反か、大規模な軍のサボタージュか.....。
しかしプーチン氏が為政者として正常な判断が出来る、という前提でこれ以上交渉を重ねるのはおそらく無意味であり、軍の攻撃が止まない以上、犠牲者はさらに増えるだろう.......重い気持ちにならざるを得ない。
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※11月29日再開のところ、12月29日と誤記入しておりました。当方の手違いです。失礼いたしました。
久しぶりに香港を訪れました。
というのは嘘で、熱海です。急峻な岩山にそそり立つビル群と、海岸へ降りる急な階段に、少し香港を思い出しました。
先週は決算・棚卸もそうですが、用件で東京方面に行っておりました。少々....かなり疲労を覚えたので、在来線で熱海まで行き、日帰り温泉に少し浸かってから、”こだま”で大阪に帰りました。熱海の駅前はかなりの人出でした。これは混雑しているだろうと思ったら、目指す日帰り温泉「日航亭・大湯」はそれほど訪れる人はおらず「源泉かけ流し」にゆっくり浸かることができました。
ここは徳川家康が湯治場を築いた温泉で、近くに湯前神社があります。お湯はさすがに熱量ゆたかで芯からあたたまり、戦の傷でもあれば癒してくれそうな良いお湯です。食事などは出来ませんが、建物の造りも古く、昭和情緒があります。思えば熱海に立ち寄ったのは何十年ぶりかもしれません。そこかしこに、日本が景気の良かった時代の名残が見られます。途中下車で数時間寄り道し、入浴代千円のささやかな温泉旅行でした。
またぞろ変異したウイルスが流行の兆しを見せているようです。
『旧約聖書』に書かれる「バベルの塔」......太古はあらゆる人間が統一された言語を使用していましたが、天を目指して高い高い塔を建設しようとした人間達の傲慢を罰するため、神は人の話す言語を変えてしまいました。それで人々は混乱し、建設は中止され、ついには同じ言語同士の者達が集まって、分かれて住むようになりました。
コロナウイルスの世界的な、かつ繰り返される蔓延をみるにこの神話を思い出すのですが........『旧約聖書』の神は人類の統一を阻止し、分割して住むようにした、という解釈も出来ないでしょうか。今風に言えば「神はグローバリズムを終わらせ、ローカリズムにリバランスされた」という”寓意”ではないか。
世界は統一が常態なのか、分裂が常態なのか......大陸中国の歴史を見るに、分裂時代と統一時代はおよそ半々です。統一されているように見える時代も、中身は封建制というローカリズムに根差した統治だったりします。しかし昨年から時々扱っている”三国志”の時代は、漢王朝という、封建制ながら統一された大帝国の矛盾の限界が、統治を分裂に向かわせた、という見方も出来るかもしれません。
ウイルス対策についていえば、グローバリズムの産物たる”国際機関”は実のところあまり役に立たず、結局は各国の国情に合わせた様々な対策があり、それが適切であったり、あまり適切ではなかったり、それぞれ比較検討しながら、より良い対策が講じられている過程にあると思います。日本でも、国だけではなく都道府県によって対策に差異があり、良い悪いを比較しながら、地域にあった対策が練られて行っているところではないでしょうか。
もし世界が同じ政府に統一されていて、統一して同じ対策を取った場合、大正解なら素晴らしい結果になりますが、大失敗なら最悪人類滅亡の危機に瀕していたかもしれません。多様性を前提とするローカリズムというのは、リスク分散(ポートフォリオ)あるいは生存戦略としては優れているのかもしれません。そういう観点では、統一と平等という、あたかも絶対的正義であるかのような「理念」は、人間が全知全能で無謬であること前提とした「理想論」に過ぎないと言えるのではないかと考えたくなります。
コロナウイルス蔓延に人類社会史的な意味があるとすれば、グローバリズムの矛盾と限界が顕在化した、という事なのかもしれません。「グローバル化は素晴らしい」「世界は統一されてしかるべき」という、理想論を唱える人間の傲慢さが露呈した、と言い換えることも出来るでしょう。
「選ばれた最高の知性をもつ人々による理想の政府によって人類が統一された時、理想の社会が実現する」という、テーゼの荒唐無稽(=ナンセンス)さを、コロナウイルスという自然の脅威が暴いた、という見方は早すぎるでしょうか。ここまで極端な思想でなくても、社会のあちらこちらに「矛盾」を見つけては排斥したがる向きも、考え方としては同じベクトルですね。
グローバリゼーションは今や天文学的な資産を持つ富裕者を生み出し、彼らは宇宙.....天を目指す....やはりどこか「バベルの塔」を思わせるところがあります。
しかし『旧約聖書』の神は人類を滅ぼそうとしたのではなく、分割することにより、生き延びる道を与えた、とみる事も出来ないでしょうか。
コロナが完全に収束した後は、世界はふたたびグローバリズムに向かうのでしょうか。それともローカリズムにリバランスしてゆくのでしょうか........
店主 拝
ところで硯が使用された時代というのは言うほど自明ではないのである。前漢の漢墓からも硯らしき文物が出土するが、果たしてこれは筆記用具の一部として使用されていたのかはわからない。漢墓から出土する、松烟をまるめたという”墨丸”は、本当に顔料としての墨だったのだろうか、という疑問がある。しかし遅くとも後漢時代には上流階級の間で使用されてた事が、文献上からもうかがえる。
陳壽三国志、『魏志・后妃傳」に裴松之が注に引く「魏書」には甄逸の娘で「文昭甄皇后、中山無極人、明帝母」の事が記載されるが、そこに「年九歲、喜書、視字輒識、數用諸兄筆硯」とある。
甄妃は文事を好み、九歳にし「喜書」書物を好み「視字輒識」目にした文字はたちまち覚え「數用諸兄筆硯」兄たちの筆や硯をたびたび用いて、字を書くなどしたという。
魏の明帝曹叡の母、すなわち文帝曹丕の側室であり、著名な美人であったという甄妃の故事であるが「筆硯」とあるから、硯で墨を磨っていたと考えられる。
曹植は彼女に擬して「洛神賦」を書いたといわれる。その真偽には諸説あるが、文学的才能豊かな甄妃に、建安七子の筆頭を為す天才文学者である曹植が心惹かれた、という事はありそうな話である。
また『魏志・倉慈傳」の注に引く「魏略」には顏斐、字文林の故事が記載され、そこに「爲冬寒冰炙筆硯」の語が見える。冬の寒い時期には「炙筆硯」筆や硯を炙って温めて用いた、とある。北方には「暖硯」といって、硯面の下部に空洞があり、そこへ炭に火を入れて温めながら使用する硯があるが、その類であろうか。
「硯」は古くは「研」であり「研ぐ」ことが原義である。いうなれば刀を研ぐ砥石の類も「研」なのであるが、すくなくとも後漢末には筆記用具としての「硯」が使用されていた、と考えて良いだろう。文献上に見える「硯」も、後世の校正の過程で「研」が「硯」に変じたかもしれないが、筆と併記されている以上は墨を磨る道具としての「すずり」と考えて良いのではないだろうか。
後漢における硯の普及は、紙の普及と本格的な使用と不可分であるが、その事についてはまた別の機会に論じたい。
さて今回の新老坑硯であるが、大きさに大小があるが、どことなく形状が似通った硯達である。一般にこうした天然形ないし不定形の硯の形状は、硯頭にかけて狭くなり、硯尾にかけて広くなるものであるが、作硯するときにそのような方向が選ばれて作硯される。
使用する場合、墨堂が広い方が使い勝手がいい事もそうであるが、卓上に置いたときに、硯頭にかけて狭くなる方が落ち着きが良いという事は、試しにさかさまに置いてみるとよくお判りになるとおもわれる。
いずれも、金線や水線を持ち、氷紋と認められるものもある。金線・氷紋は老坑の証、などというように言われるが、必ずしもそうではない。そうではないが、比較的多くみられるのは事実である。
とはいえ、他の坑洞にも金線や氷紋のような石品の現れることがある。ここで何度も繰り返していることであるが、石品に頼って硯石の種類を鑑別するのは要注意である。
前述の後漢の硯や、下って西晋東晋の硯には、陶器で造られた硯が多くみられる。先立つ前漢時代の漢墓からは、板状の石の硯(?)のような道具が出土しているが、これが姿を消し、陶製の硯が主流となる。
察するに、紙の量産と流通によって多量の筆記が可能になり、「墨を磨る」という需要の全体量の増大に応じて、陶製の硯が量産されたのではないだろうか?硯に適した硯石というのは限られた場所でしか採掘されないのにたいし、陶器は安価に量産が可能でかつ軽量である。
ただし陶製の硯は、良質な硯石に比較すれば研磨に弱く、また鋒鋩の緻密さにも限度がある。後漢〜東晋のころの墨は、まだそれほど硬い墨ではなく、時代を経て墨の製法が改良工夫され、硬質で質の高い墨が作られるようになると、次第に石硯が使われるようになったのではないだろうか?
唐代の李賀に「楊生青花紫石硯歌」があり、ここにおそらく端溪硯と思われる石硯の事がうたわれている。遅くとも唐代に至って石硯が広く使われ、賞玩の対象になっていたのだろう。唐代には易水で佳墨が製せられていたというから、硯石も精良なものが選ばれたのであろう。北方の人士からすれば、端溪ははるか南方の珍しい天然の硯石、という面もあったのかもしれない。
とりとめのない話ばかりで恐縮であるが、墨の香りには”リラクゼーション”の効果がある、と言われる。薬効としてそううたわれているというわけではないが、良質な墨の香りを心地よく感ぜられる方も少なくないのではないだろうか。
いわゆる”松麝”というのは、現代では松烟と麝香を混ぜた香りと言われているが、本来は炊いた松烟そのものの芳香であり、添加した麝香のような香料の香りとは異質なものである。
弊店に玄松脂、松滋侯という松煙墨があるが、販売した当初「この匂いはなんだ?」というような声をお寄せいただいた事がある。中には不快に感ぜられる方もおられたようで「なんだか石油系の有機溶剤の匂いがする」というご意見もあったものである。
確かに、昔の黄山松烟などとは違った香りがするので「これはなんだ?」と考えていたが、石油などを燃やした工業製の煤などは混ぜていないはずで、墨匠に聞いても「それは松煙の香りだ」というばかりである。
墨廠では油烟の採取現場は何度も目にしていたが、桐油を燃やした油煙と松烟とでは匂いが違う。自身で松烟を採取する場所に行ったことが無いので確信が持てなかったが、後に墨匠が自前で松烟を焚くようになり、墨廠で製したばかりの松煙を嗅いで得心がいった。この香りである。しかし香りは揮発性のものなので、古い松烟は消えてしまったのかもしれない。
松脂を焼くとわかるのであるが、松脂を焼く人も今やあまりいないであろうから、一般的にはあまり嗅いだことのない香りであり、好き好きはあるだろう。個人的にはいかにも墨香といったところがあり、油烟墨とはまた違って良いものであると考えている。墨を磨ることでより香りが立ってくるが、一般的に松煙墨は硯を煤けたようにしてしまうので、石品が温潤が、というような硯では磨るのを避けた方がいいかもしれない。いまひとつの方法は、少量であれば硯背、つまり硯の裏面を硯板のように使用して松煙墨を磨る、という法がある。別段、硯の裏面を使用してはならない、という決まりはない。素性の知れない墨を試すときなどに良くこの方法を使うのだが、松煙墨を磨る際にも、硯背は使い勝手の良いものである。
新老坑から話が逸れた。疫病の流行もやや落ち着いたこの秋の夜長に”松麝”の香りを添え、ひとときの安息を得るのも、良いものではないだろうか。
]]>私事で恐縮ですが、別段、命にかかわることではないのですが、若いころにやった椎間板ヘルニアが再発し、しばし円滑な出荷作業を出来ない状況でした。
ヘルニアというのは実は8割くらいの人がなるそうなのですが、人により症状が出るかでないか?の違いだけなのだそうです。
ヘルニア、要は坐骨神経痛なのですが、これはお尻や脚の筋肉が硬くなり、突出した椎間板が神経を圧迫することで起こるといいます。筋肉を柔らかくすることで神経が引っ張られなくなり、症状が出なくなるという事です。20代の半ばで発症して以降、普段はプールで泳いだり歩いたり、柔軟などを行う事で症状がでなくなっていたものでした。しかし昨今の情勢下で通っていた市営プールが長く休業に入ってしまい、ケアが滞ってしまった、という事があったと思います。加えて昨年から週末はなるべく近郊の低山を徘徊していたのですが、徐々に負荷を増やしていったところ、これが古傷にたたったようです。3日ほどはほとんど起きれず、痛み止めを2時間おきくらいに服用しながらも、断続的にしか睡眠がとれない有様でした。
歩行が困難な事に加え、椅子に座ることも出来なかったため、パソコンを操作するのも難儀し、詳しい状況をお知らせするのが遅くなりました。ありがたい事にロキソニンが通販で買えるために助かりました。
病院に行った方が良いという向きもあるのですが、そもそも病院まで独力でたどり着けないので、ヘルニアの直し方を解説している整体師の方の動画を参考に、リハビリに励んだ結果、まずまず短期間で回復出来たと思います。
現在は快方に向かい、出荷作業も出来るめどが立ったため、再開させていただきました。
けがの功名、とは言いますが、どこか悪い部分があってもそれをケアしようと意識的に運動したり柔軟に心がけるようになる、という事で前向きに考えるようにはしています。
近日中に、新しい筆を1種類、リリースいたします。他は在庫の積み増しをしたため、新作は羊毫櫃筆1種、という事になりました。また、新老坑を何面か並べようと考えています。
そうそう「禰衡考」終わらせたいですね。次回から黄射、そして黄祖とのかかわりを述べてゆきたいと考えております。ただまだあまり長い時間は机に向かえないので、しばし時間を要するかもしれません。
今後とも、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
店主 頓首拝
]]>近日中の再開を目指しております。皆様方におかれましては、何卒ご了承いただきますよう、お願い申し上げます。
店主 拝
]]>そもそも「四体筆勢」について検討しようということで、後漢末の衛恒という人物について調べているうちに何故か「黄祖=黄承彦」を調べているという次第。
ただ後漢という時代も文房四寶や書の歴史にとっては重要な時期で、この時期に紙が量産され、書簡によって流通される情報量が飛躍的に増大する。木簡竹簡よりも紙の方が媒体としては重量体積当たり多くの情報量を記録できるのは当然で、それは知識の通信量と記憶量を飛躍的に高めたであろうし、また書簡のやりとりによって生まれるネットワークの上に「名士」という社会的存在が重きを為すようになる。その流れの中で筆書の巧拙が知識人の重要な素養のひとつとされるようになり、張芝や蔡邕、韋誕、あるいは張昭のような、能書家という存在が認められるようになった、と考えられるのである。
新しいメディアの誕生が新しい社会的存在を生み出す例は、動画配信サービスが普及した昨今にも容易に例を求めることが出来る。
とはいえ、後漢〜三国時代の紙に書かれた筆書が現存する例は僅少である。察するに当時の紙は製法に未発達の部分が多く、さほどの耐久性を持たなかった、という事もあるだろう。
漢代〜唐末に至る時代に書かれた膨大な書籍のほとんどが亡失しているのは、北宋に至って活版印刷技術が普及するより以前の時代、という事が大きな要因であろう。書籍の複製の絶対数が桁違いに少ないのである。
しかし書籍の複製を筆写に頼ったと同時に、紙や墨そのものの保存性・耐久性の問題もあったのではないかと考えられる。希少で高価であるが故に、大事にされたであろう割には、その損失はあまりに多い。羊皮紙に書かれた西洋の古代の文献は、恐らく紙以上に写本が少なかったにも関わらず、それなりに分量を残し、活版印刷の時代まで生き延びている。
紙の脆さは漢代人も良く認識していたのであろう。それを補完するかのように、後漢時代には多くの碑刻が行われる。その平面の石板に縦書きの文字を横に並べてゆく、という構成自体が、紙の広範な使用を暗示しているのである。
しかし後の唐代に頻繁におこなれたような、碑刻を墨拓に転写する、というような事は、漢代にはあまり行われなかったようだ。それは墨拓を行い得る大面積にして良質な紙の製造が出来なかったからかもしれないし、また良質な墨がそれほど多く製造できなかったからかもしれない。
唐代の九成宮醴泉銘などは、完成し、披露目を見た当初から貴顕の車馬が列をなして墨拓が採られたという。そのため唐碑の多くは刻線が摩滅し、翻刻が行われて原刻の精彩が薄れてしまっている。
その点、漢碑は翻刻が疑われるものもあるが、隸書の豊麗な筆致を遺すものもみられる。北魏以降の碑帖に比較すると、漢碑は元になった筆書の面影を多く伝えているのではないだろうか。
黄祖=黄承彦?という命題については、調べ始めた当初は黄祖と黄承彦はせいぜい血縁関係にあった、というあたりが着地点と考えていた。しかし調べるにつれて、論証は難しいものの、やはり黄祖と黄承彦は同一人物ではないか?という確信のようなものを得るに至っている。
当時の荊州で父子でそろって太守と務めたほどの大貴族、黄祖というイミナしか分からない人物。また一方で蔡諷の長女を妻に持ち、劉表蔡瑁の義兄ながら孔明の岳父という以外に事跡の無いアザナしか分からない黄承彦という人物。2人が重ならないという、理由を見つける方が難しいのである。
もっとも、ジグソーパズルの最後の1ピースを紛失したように、そこへどんな形のピースが当てはまるかまではわかってはいるものの、その1ピースが決して見つからないがゆえに完成しない、ような結果に終わるかもしれない。
話が逸れるが、コナン・ドイルに「シャーロック・ホームズの冒険」という推理小説があり、その熱心な読者を「シャーロキアン」という。シャーロキアン達はこの架空の物語について、あたかも歴史的事実であるかのような詳細な考証を試み、多くの論文を発表するなどしているが、いわばそのような「研究ごっこ」もひとつの文学の楽しみ方である。
「黄祖=黄承彦」もいうなれば「研究ごっこ」のつもりなのである。何かを論証しようなどという大それた意図はないのであって、あくまで古典の楽しみ方だと考えている次第。
文房四寶とどう関係するのか?と思われる向きもあるやもしれないが、そもそも文房趣味というのは文人の趣味であり、文人とは必ずしも官吏ではなく、あくまで文学を愛好する者である、という考えがある。おもえば歴世の文人も、古典の詩賦や散文についてさまで厳密な考証論考をものしてきたわけではないのであるから、これくらいの考察を文章にするくらいはご容赦いただきたい。
さて黄祖、という人物について調べるにあたって、禰衡(でいこう)という人物は避けて通れない。本来は建安五年の孫策の死より後の事について書こうと考えていたのであるが、それ以前に起きた禰衡と黄祖とのかかわり、またその死について考える必要があると考えた。この禰衡については「黄祖=黄承彦」と別に、何回かに分けて述べてゆきたい。
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