郭嘉の予言 〜黄祖=黄承彦考12

前回は『呉志』における、孫策の死の場面の記述に関する矛盾点を考察した。

今回は『魏志』における孫策の死とその前後の出来事の記述内容について考えていきたい。


孫策の死の時期


まず『魏志・武帝期』には、


八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。


と、袁紹との官渡での対峙の進展の記述の後、


孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。


とある。その次に時期のわかる語としては


冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。


のように「冬十月」とある。武帝紀の記述が時系列に沿っていると仮定すれば、孫策は建安五年の八月〜十月に至る間に死去した、といえるだろう。また孫破虜傳と同様、武帝紀でも孫策はもっぱら許都襲撃を企てていた、と考えられている。


『魏志』の郭嘉の伝記にも、


孫策轉鬭千里、盡有江東。聞太祖與袁紹相持於官渡、將渡江北襲許。


江東を平定した孫策が、官渡の戦いの隙を突いて許都を攻撃しようとした事が書かれている。そして、


衆聞皆懼


「衆聞皆懼(衆は聞いて皆懼れた)」とある。衆は狭義には軍勢を指すが、広い意味では軍とその軍属を含む民衆、あるいは住民を指す。


孫破虜傳の孫策の伝記によれば、許都への進撃は秘匿されていた計画である。それを「衆聞」という事は、大衆に知れ渡ってしまった事を意味する。しかし同時にそれが風聞に過ぎなかった可能性も考えられるのである。”衆”はこの場合、許都の住民を指すのだろう。


この時期、袁紹は劉表に共闘を呼び掛けている。いわゆる「合従」の策として、孫策に対しても同様の働きかけをしていない道理はない。くわえて曹操の本拠地である許都に対し、孫策や劉表が曹操軍の留守を狙うという噂を流布するのも、牽制の為の常套手段である。

また孫策が任命した李術によって、揚州刺史の嚴象が討たれた事件の影響も考えられる。嚴象については、孔融の推薦文が残っている。非常な名士であり、それが李術に殺害されたという大事件は、すくなからぬ衝撃を曹操に与えたであろう。

さらに言えば、孫策に敗れ曹操へ帰順した劉勲の一党が、積極的に”孫策脅威論”を吹聴した、という事も考えられるであろう。


郭嘉の予言


このような状況に対し、郭嘉はこう述べる。


策新幷江東、所誅皆英豪雄傑。


すなわち孫策が江東を併合する過程で誅殺した者はみな英雄豪傑であるといい、(そういった者達の縁者には(仇討ちのために)死力を尽くす者も大勢いるであろうから)


若刺客伏起、一人之敵耳。


もし、刺客が待ち伏せをしていたら(軍勢を率いる孫策といえども)”一人之敵耳”つまりはひとりの標的にすぎないのであり、


以吾觀之、必死於匹夫之手。


ゆえに郭嘉が状況を推察するに、必ず”匹夫”の手にかかって死ぬであろう、と言っている。続いて、


策臨江未濟、果爲許貢客所殺。


孫策は長江を渡らぬうちに、果たして許貢の食客の手によって殺害された、とある。

つまりは郭嘉は孫策暗殺を予言し、的中させた、というのだ......


郭嘉の孫策暗殺については裴松之は注で「殺害される時期までは予測していない。」と、郭嘉の予言の欠点を指摘している。孫策による許都侵攻を恐れる曹操としては、袁紹を撃破する前に孫策が「匹夫」の手にかかって落命しなければ意味がない。


郭嘉は、曹操の脅威にならない早い時期に孫策は落命するだろう、という意味で述べたのだろうか。いささか出来すぎである。

仮に郭嘉が刺客を放った、という話であれば、これもひとつの策略として理解できなくもない。

しかし強力な銃火器や爆薬の無いこの時代である。軍勢を率いる立場にあり、かつ武勇に長けた要人の暗殺は成功が期し難い。呂布ですら、近侍しているからこそ丁原や董卓の暗殺が可能だったのである。身内と信じる位置にいるものが実行しなければ、返り討ちに遭う可能性の方が高い。


曹操は嚴象によって孫権を茂才に推挙させ、また孫家と互いに姻戚関係を結んでいる。一貫して懐柔策に出ているのであり、その一方で成功し難い暗殺を計画していたとは考えにくい。失敗すれば激怒した孫策に背後を討たれかねないからである。仮に懐柔策で油断させておいて、ひそかに刺客で命を狙う、というような計略を荀や郭嘉が進言し、曹操が採用しただろうか。


もちろん中世のイタリアのように、後漢末当時も暗殺計画は多く立案されたのかもしれないが、結果的に敵対勢力から放たれた刺客によって殺害された群雄はいないのである。


孫破虜傳には、孫策がひそかに兵を部署した、とある。『呉志』の記述を追う限り、宿将の程普を始め、周瑜以下、ほとんどの武将と軍団は豫章を中心とする江東の平定に動いている。この時代に限らないが、あらかじめ相当な準備をしなければ大軍の遠征など出来るものではない。豫章の平定が単なる陽動であり、油断させておいて許都を奇襲できるような距離ではないのである。


結論的に言えば、『魏志・武帝紀』に記述される孫策の許都襲撃は、袁紹の情報工作に刺激された曹操側の憶測が”史実化”した、という可能性が考えられる。『呉志・孫破虜傳』における孫策の死の経緯も、『魏志』の記述と矛盾しない。これは孫策の死に関する”ソース”が、ほぼ同一のものしかなかった結果ではないだろうか。


『呉書』の空白


事実、孫破虜傳における孫策の伝記部分に関しては、裴松之の注に引用される文献に、呉の史官が編纂した『呉書』からの引用がない。


『呉志』を撰するにあたって陳壽がもっとも参考にしたのが『呉書』と言われる。孫破虜傳の孫堅の伝記部分の注釈には『呉書』からの引用がみられるが、孫策の伝記部分は『江表傳』や『呉録』『呉歴』等、『呉書』以外の文献の引用しか見られない。

付け加えれば『呉主傳』においても、建安四年から赤壁の戦いの前年の建安十二年までの期間、叙述内容が非常に少ないのである。


未完に終わったという『呉書』であるが、孫策の時代と孫権時代の最初の数年間についてはほとんど空白だったのではないだろうか。ゆえに陳壽は、孫策については魏側に残った記録や伝聞をもとに、その死の場面を構成したのではないか?という疑惑が残るのである。


さらに踏み込んでいえば、郭嘉が孫策の死を予言した言葉については、少なくとも『以吾觀之、必死於匹夫之手。』の部分などは、陳壽の創作ではないだろうか。

郭嘉の言葉としては”孫策は急速に江東を平定する過程で地域の有力者の反感を買っており、そうすぐに許都に攻め上ることは出来ないでしょう”というくらいの事は言ったのかもしれない。そうであれば『呉志』の将軍たちの行動から推測される状況と矛盾しない。しかし刺客、それも”匹夫”の手にかかるというのは言い過ぎで、陳壽をして”語るに落ちた”感すらある。

要は”匹夫”に殺される孫策もまた”匹夫”である、という事を言いたいのであるが、現実に孫策を恐れる曹操が過大評価に過ぎるとしても、孫策を”匹夫”というのは、これも過小評価に過ぎるのである。

このように、好悪の感情で状況を観る者は、参謀実務にはまったく不向きである。果たして荀や郭嘉がそのような人物であろうか?


全体、陳壽の呉、特に孫策に対する筆致は冷淡なものがある。それは黄巾賊や董卓の討伐に参戦し、国家に功績のあった孫堅との扱い方の違いにも表れている。

孫堅の死後、後に帝号を僭称する袁術の”走狗”となって転戦した事が、孫策のキャリアを暗くしているのは事実である。袁術から自立した後も、江東の平定は己の所領の拡大に努めていただけで、これといって漢室の為に働いた形跡はない。ゆえに陳壽としては、孫策に対して好意的である理由が無いのであろう。

加えて、許都を襲って献帝を迎える計画を立てていたという、孫策の死によって確かめようがなくなる”秘密の計画”の存在を記述している。これも孫策が権力の為に漢帝を利用する、あの董卓と変わらない野心家である、という事の表現に他ならない。


優れた文章家が必ずしも優れた実務家であるとは限らない。陳壽は史書の記述に優れた才能を持っていたとしても、人物の批評についていえば、いささか浅薄の感が免れないところがある。

『三国志正史』は魏に仕えた蜀の旧臣による著作である。当然、魏ないし蜀の史料や伝聞の収集には有利な立場にあるが、呉のそれにたいしてはいささか不利である。また滅んだ蜀に対する心情と、魏に仕える身としての陳壽の立場が、記述の軽重に影響しなかった、という事は無いであろう。

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新老坑袖珍硯三面

新老坑袖珍硯を三面、近日店頭にお出ししようと思う。

”袖珍(しゅうちん)”の文物、というものがある。袖の中に入れて楽しむ、小さな文物を言うが、硯では特に小型のものを”袖珍硯”と呼ぶことがある。
このように小さな硯が実用になるのか?とみる向きもあるが、王朝時代の佳墨は10gを切るような小型の墨が珍しくない。小指より細いくらいの墨を少量磨って用を足すのであるから、大きな硯は必要ないのである。

携帯用の文房四寶セットというものがあり、中国の有名観光地でお土産品として売られていたが、かつては日本人観光客によく売れたという。また日本の書道用品店でも見かけることがある。見た目は整って可愛らしいのであるが、実用に耐えうるかというと疑問である。墨も硯も良いものはない。やはり自分で筆も墨もえらび、出先での用をまかなうようにそろえた方が良いだろう。
そこで問題になるのは硯である。小さな硯、特に唐硯はなかなか良い品に出会えない。どこかに有るようでいて、探すと無いのがこの種の硯なのである。携帯しやすい方が良いから、適度に小さく、厚みは薄い方が軽くて良い。しかし硯材の質まで求めると、難しいものがある。

老坑水巌や新老坑など、老坑系の硯石はあまり大きな硯材は採れない。それでは小さな硯がたくさん作られるか?というと、そうでもないのである。一つには大陸中国の現代的な好みとして、小さな硯は好まれない。その昔の文人たちが、小さな文物を自慢しあった文化が無いのである。大きければ大きいほど良い、といった価値観である。たしかに老坑系の硯石に関しては大きな材は希少であるから、希少性をもって貴とし、とすればそのような話になるのであるが。

今回ご紹介する三面は、小さく瀟洒に造られた硯であるが、小さいながらもいずれも氷紋が認められる。そのような石品の見どころがある材だから小さいながらも硯にしてもらえた、という事情も想像されるのである。

氷紋が出た老坑系の硯となると、ある程度の大きさのあるものは、現在とても高価で手が届きにくい。四直の硯板で薄意の彫琢が施され、長辺が20儖幣紊發△襪茲Δ文Г箸いΔ里蓮△發系傾水巌であれば大変に珍しいものである。そもそも長方形の硯というのは、元の硯材の面積は倍ほどあったと考えて良い。それは非常な高値が付いても致し方ない。
しかしこまった事に硯材として質の劣った沙浦からも氷紋の出る硯は採石されるので、老坑の氷紋硯板として多数流通しているような現実がある。

老坑水巌ないし新老坑であるからといって、必ずしも氷紋が出るわけではない。むしろ氷紋の出る新老坑硯は珍しい。また氷紋があるからといって新老坑や老坑水巌とは限らない。文物においても「逆必ずしも真ならず」という真理をつねに念頭において考えないと、単純な言葉のすり替えに騙される事になる。しかし巷間、そのように言って、まがいものを売る者達があとを絶たないのも事実である。

実に物憂い昨今であるが、選び抜かれた精良なる文房四寶が、皆さまのひとときの慰めとなれば幸いである。
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刺客は実在したか 〜黄祖=黄承彦考11

前回見てきたように、『呉志』の記述を追う限り、客観的な状況としては、孫家の軍勢は新たな支配地域の掌握と荊州軍への防備に注力しており、北上する余力がなかったことが見えてくる。

また裴松之が注に引く『呉録』に拠れば、江夏を守る黄祖との”沙羨の戦い”の戦勝報告の上奏文において、孫策は諸将を荊州南部各郡の太守に任命している。すなわち周瑜は江夏太守に、呂範は桂陽太守に、程普は零陵太守に任命されている。
『呉録』を鵜呑みにするにはいささか問題があるが、『三国志正史・呉志』の周瑜の伝記には皖城の劉勲を攻撃するより以前に

頃之、(孫)策欲取荊州、以(周)瑜爲中護軍、領江夏太守

とあり、孫策は周瑜を江夏太守に任じていたことがわかる。それは「(孫)策欲取荊州(孫策、荊州を取らんと欲し)」すなわち孫策の荊州を手に入れようという意思の表明に他ならない、と書かれている。
また程普の伝記にもやはり皖城攻撃前に「領零陵太守」とあり、同じ時期に零陵太守に任ぜられた事が書かれている。呂範の伝記には桂陽太守に任ぜられた記載は無い。しかし分身ともいうべき周瑜と、孫策軍最年長の宿将である程普をいずれも荊州の太守に任じた意味は軽いものではないだろう。この時点で江夏はもちろん、荊州南部の零陵も劉表の支配下なのである。にも拘わらず、腹心の将を荊州各郡の太守に名目上とはいえ”任命”したのは、孫策ならびに孫家の軍勢の、荊州侵攻への強い意思の表れ以外の何物でもない。

さらには、孫策は後に(帝位についた)孫権によって「長沙恒王」と諡(おくりな)されている。これも孫策の目標は一貫して荊州であったことを示唆している。それは袁術の麾下にあって劉表を攻め、戦死した父孫堅の遺志を継ぐものであったのではないか?という事も考えられる。孫堅もまた、かつて自身が義勇軍を興した荊州長沙郡を目指して南下を図った、とみられるからである。

『呉志』における孫策の死

豫章郡は江夏を攻撃する足掛かりとして重要であり、事実孫策軍は”沙羨の戦い”の後、軍勢の多くを豫章郡の平定に投入しているのである。しかし、『魏志』の武帝紀の記載を見る限り、建安五年の遅くとも八月には孫策は死ぬ。

その最後については『呉志』にまず

建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。

とある。すなわち曹操と袁紹が官渡で対峙しているスキをついて許都を襲い、献帝を迎えようと孫策は画策し、隠密裏に諸将を配置していた。

未發、會爲故吳郡太守許貢客、所殺。

ところが軍を進める前に、すでに故人となった元呉郡太守、許貢の(食)客によって殺害された、とある。続いて、

先是、策殺貢。貢小子、與客、亡匿江邊。

とあり、先に孫策は(時期は未詳であるが)許貢を殺害し、許貢の食客と子供はともに江辺(長江沿岸のどこか)に逃れ隠れた、という。そして、

策、單騎出、卒與客遇、客擊傷策

孫策は単騎で外出したさい、”卒”すなわち唐突にその食客に遭遇し、食客は孫策を撃って傷を負わせた、という。

一読して、曹操が恐れたほどの孫策の最後にしては、時期も場所も定かではない、随分と疎漏な記述であることが感ぜられるのである。また内容そのものにも不自然な点が多々ある。この場面については、孫盛、裴松之が議論しているが、それは後述する。先に孫策が殺害したという、許貢について考えてみたい。

許貢の事跡

呉郡太守許貢なる人物が、いつどこで孫策に殺害されたか『三国志正史』の本伝では明らかではない。許貢については、『呉志』の朱治の伝記に

治、從錢唐、欲進到吳。吳郡太守許貢、拒之於由拳。治、與戰大破之。貢、南就山賊嚴白虎。

とある。呉郡は現蘇州一帯であるが、許貢はそこの太守であったという。朱治は銭塘、つまりは現在の杭州付近から呉郡(現蘇州付近)に進撃するが、許貢は由拳(現嘉興)に拠ってこれを阻止しようとする。しかし朱治は許貢を攻め、大いにこれを破る。許貢は南に逃れ、山賊の嚴(白)虎に就いた、とある。

蜀書の許靖の伝記に拠れば、許貢はさらに孫策に追われた王朗とともに許靖を頼るが、なおも追撃されて皆で交州(現広東省南部)まで逃げた、とある。以降、本伝では許貢の消息は不明である。許貢を孫策が殺害した、という事実は本伝からは見つからないのである。

ただ裴松之が注に引く『江表傳』には、呉郡太守の許貢が孫策を項籍のような野心家であるとたとえ、彼を警戒するよう漢帝に上奏しようとした、とある。ところがその文が孫策の手に渡り、孫策は許貢に出頭を命じたという。孫策は許貢を問責したが、許貢が何も弁明できなかったので、武士に命じて許貢を絞殺させた、という。ゆえに孫策は許貢の子(や食客)の仇となった、というわけである。

しかし呉郡太守としての許貢は朱治に敗れ、遠く交州まで逃れていると『蜀志』の許靖の伝記に記されている。許靖は後に交阯(ベトナム北部)にまで逃れた後に劉璋に仕え、さらに劉備入蜀後にも重んじられたほどの人物である。許貢はひとり許靖と別れ、自分を追いやった孫策のいる江南へと戻ったという事は考えにくい。許靖の伝記が真とすれば、やはり『江表傳』における許貢の最後は虚構であろう。

もとより歴史小説のような『江表傳』であるが、許貢の最後から、孫策が許貢の食客に討たれる場面の下りは実に歯切れが悪い。呉郡太守の許貢が、自身が項羽のように危険視している孫策に、呼ばれたからといってのこのこと面前に出頭すること自体、非常に不自然なのである。

孫盛と裴松之の評

『江表傳』には許貢の死に続いて、孫策が刺客に襲撃される場面が描かれているが、以下に大意を示せば、

貢奴客潛民間、欲爲貢報讐。獵日、卒有三人卽貢客也。策問「爾等何人?」答云「是韓當兵、在此射鹿耳。」策曰「當兵吾皆識之、未嘗見汝等。」因射一人、應弦而倒。餘二人怖急、便舉弓射策、中頰。後騎尋至、皆刺殺之。

許貢の使用人と食客は民間に潜伏し、許貢の復仇の機会をうかがっていた。猟の日に、(孫策は)三人の兵卒(を認めたが、彼らこそが)が許貢の食客であった。孫策は「なんじらは何者か?」と問うたところ「韓当様の兵で、ここで鹿を射ていただけです。」という。孫策が言うには「韓当の兵なら俺は皆知っている。お前らをみたことはない。」といい、そのうちの一人を射たが、(孫策の)弦(の音に)応じてその男は倒れた。あとの二人は急に怖気づき、弓をとって孫策を射たところ、(孫策の)頬に当たった。すぐに(随伴の)騎兵が追い付き、(残りの二人を)刺殺した、とある。

また裴松之は『九州春秋』という書を注に引いている。すなわち

策聞曹公北征柳城、悉起江南之衆、自號大司馬、將北襲許、恃其勇、行不設備、故及於難。

孫策は曹操が北に柳城へ遠征したと聞き、江南の軍勢を総動員し、自ら大司馬と号し、北に許都を襲撃しようとしたが、その武勇を過信して防備が行き届かなかったため、(刺客に襲われる)難にあったのだ。

とある。

裴松之はさらに『孫盛異同記』における孫盛の評を引用している。

(孫盛と裴松之の評を詳述していると長いので大略のみを記すが)その中で孫盛は「黄祖が長江の上流に陣取り、陳登が徐州を固め、また支配下の諸郡の険阻な地域にも、帰服しない宗賊が多い状況で、孫策が許都を襲い、献帝を迎える意図があったとは考えにくい」と述べている。さらに『江表傳』にあるように、孫策が韓当軍の兵卒のことごとくを知っていることなどありえない(むろん、そうであろう)と、孫策襲撃の場面に疑問を投げかけている。また柳城の戦役は建安十二年であるから『九州春秋』の説はまったくの誤りだ、と述べている。

裴松之は以上を踏まえながら、さらに批判を加えているのだが、まず孫盛と同じく『九州春秋』の錯誤は甚だしい、としている。
しかし孫策の北征については否定していない。すなわち黄祖の軍勢は”沙羨の戦い”で壊滅的打撃を受けているし、またそもそも劉表とその配下には”兼幷の志”、つまりは領土拡大の野心などない(ので心配には及ばない)と。また嚴虎や祖郎などの賊も覆滅し、山賊風情はどうでもいいのであるから、北方へ遠征するにあたって懸念には及ばないと。そして

策之此舉、理應先圖陳登、但舉兵所在、不止登而已

孫策は直接許都を急襲するのではなく、まず徐州の陳登を攻撃するが、その矛先は(陳)登に留まらないだろう(許都へ進撃するだろう)という。裴松之はさらに、

許貢客。無聞之小人、而能感識恩遇、臨義忘生、卒然奮發、有係杜矣。詩云「君子有徽猷、小人與屬。」貢客其有焉。

すなわち、許貢の食客は小人などではなく、許貢に受けた恩義を忘れず、義の前に自分の生を忘れ、発奮して孫策を撃った事、古代の烈士に等しい行いであり、云々、と称賛の言葉を並べている.......しかし見てきたように、朱治に攻められて後の許貢の消息は定かではなく、ましてその食客がどのような人物であったかも、確かめようがない。まして『江表傳』に現れる三人の兵卒はあたかも雑兵のようで、孫策を討つほどの豪傑には程遠い。

孫盛の『江表傳』と『九州春秋』をめぐる評と、それらをひとくくりにして裴松之が述べている議論は、直接的には孫策に許都侵攻の意図があったのかどうか?それが可能であったのかどうか?という事である。しかしその主眼は『江表傳』や「九州春秋』の史料としての信頼性への批判である。孫盛は孫策襲撃の場面にも疑問を投げかけているのであるから、より端的に言えば孫策の死の原因へ疑義を呈しているのである。

「当時の孫策軍に北方侵攻は情勢的に不可能である。だから許都を襲わんとする孫策が、許貢の刺客に襲われた傷が元で死んだ、という史料は信じがたい」と主張する孫盛に対し、裴松之は「黄祖も劉表も、江東の情勢も懸念には及ばないのであるから、孫策は北方への遠征は可能である」という。ただし先に徐州を攻め(徐州を足掛かりに)許都なりへと侵攻する計画であったのだろうと述べている。だから(孫破虜傳の伝記は江表傳が述べるような)孫策が刺客に襲われて死亡したという記載は間違っていない、という。その考えに基づき、名も残らぬ刺客の行為を称賛すらしているのである。

前回見てきたように、”沙羨の戦い”の後の孫策軍の配置と行動を見る限り、北方侵攻を不可とする、孫盛の情勢判断の方が理に適っているように見える。裴松之は江東の情勢、とくに劉繇の死後に孫家の支配が及び始めたばかりの豫章の情勢と、大敗したはずの荊州軍の反撃を『呉志』から読み取っていないのである。

裴松之は孫策の死の原因について、信憑性に乏しい『江表傳』や『九州春秋』、さらに『孫盛異同記』まで引いたうえで自説を述べている。この裏を返せば、孫策ほどの勇将が無名の刺客の手にかかって落命することに、裴松之自身も疑念を払拭しきるだけの根拠を本伝の中に見出せなかった、という事がうかがえる。

以上を整理すれば、

1.建安五年の情勢を見るに、孫策軍は江東の平定に注力する必要があり、北上する余力はない。

2.江夏太守に周瑜、零陵太守に程普を任じ、後に長沙恒王と諡されたように、孫策には荊州併呑の強い意思があったとみられる。

3.許貢が孫策に殺害されたとする経緯を『三国志正史』本伝中の、許貢に関わる事跡から追えない。

4.裴松之が注に引く『江表傳』も『九州春秋』も史料としては信憑性に乏しい。


という事が言えるだろう。許貢が孫策に殺害されていなければ、許貢の食客による孫策への暗殺実行も起こりえない。また許都襲撃を主張する史料自体、当時の孫策周辺の事情に通じていた人物の手に拠る記録とは考えられない。

しかし以上は全て「孫策は刺客によって斃れた。」という命題を否定するための、およそ必要条件に過ぎない、という事は注意を要する。

以下、孫策時代から赤壁の戦い前夜までの期間の、孫権に関する呉側の史料の空白の存在と、魏側の孫策の死に関する記述の信憑性、また暗殺成功の可能性の低さなどについて述べたいが、長くなったのでまた次回にしたい。

江夏太守として生涯を終えた黄祖であるが、荊州主観の史料はほとんど残っていない。敵側の史料にしか事跡が記されていないため、その人物像は相当に偏向している、と考えられる。加えてこの時期の呉側の史料自体がどういうわけか非常に少ないのである。孫策の死の真相について考えてゆく過程で、その事情がより明らかになってゆくであろう。

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豫章の平定 〜黄祖=黄承彦考10

瞬く間に江東を席巻した孫策であったが、その支配はまさに”点と線”であり、建安五年初頭の時点で、充分な基盤が形成されていたとは言い難い。支配しているといっても、そこで円滑に生産が行われ、徴税が滞りなくできているとは限らないのである。

 

劉勲・黄祖との戦いには、孫家の有力諸将の大半が参戦していたと考えられる。しかしそのほとんどは江夏郡の西に隣接する豫章郡に留まり、劉繇の死後、不安定化したこの地域の平定や鎮圧に動いている。それは孫策の死後もほぼ継続されているのである。

 

豫章の情勢

 

ここで”沙羨の戦い”が起こる以前の、豫章の情勢を概観したい。

 

孫家にとって、豫章(郡)は江夏を攻撃する際には、重要な策源地となる地域である。現在の江西省とほぼ同地域であるが、その支配は目まぐるしく変わる。『蜀書・諸葛亮傳』には

 

從父玄、爲袁術、所署豫章太守。

 

とあり、袁術によって諸葛亮の叔父の諸葛玄が豫章太守に任ぜられたという。ところが、

 

會漢朝、更選朱皓代玄。

 

漢の朝廷により、朱儁の子の朱皓が豫章太守として送り込まれる。

 

李傕・郭椶陵陲亡き込まれ朱儁が憤死したのが興平二年(195年)であるが、翌年の建安元年に曹操は献帝を迎えている。朱皓の豫章赴任時期は、曹操の力で漢の朝廷が機能を回復して後の事であろう。また漢朝に節義を貫いて死んだ朱儁の功績が嘉された、という面がうかがえる。そして、


 玄、素與荊州牧劉表有舊、往依之。


漢の権威に拠った朱皓の赴任を機に、諸葛玄は旧知の劉表を頼って荊州へ行く、といった経緯になる。

 

当時の群雄は勝手に太守を任命し始めるが、事後にせよ朝廷には上奏(と献金)の上で承認をもらう形式を踏む。とはいえ僭逆の傾向を強める袁術による太守任命は、諸葛玄にとっても居心地の良いものではなかったのであろう。しかしながら命令を断れない事情もあったのかもしれない。あるいは漢朝による朱皓の太守任命自体、諸葛玄の働きかけがあった可能性すらある。諸葛玄としてはこれを機に袁術から距離を置こうと考えたのかもしれない。

 

一時にせよ、諸葛玄と孫策は袁術の麾下で同僚だったことになる。

 

諸葛玄の豫章太守をめぐっては異説があり、裴松之が注に引く『獻帝春秋』では劉表が諸葛玄を豫章太守に任命したことになっている。そして朝廷から揚州刺史に任ぜられた劉繇は、同じく朝廷から豫章太守に任命された朱皓を支援し、諸葛玄を攻める。諸葛玄は西城に撤退し、建安二年にそこの住民蜂起に遭って殺害された、とある。

 

しかし『献帝春秋』も『江表傳』と同じく史料としては信用し難い小説本の類である。『蜀書・諸葛亮傳』の記載通り、諸葛玄は劉表を頼って荊州へ行った、という理解で良いであろう。

 

ともあれ、豫章太守になった朱皓であるが、これが徐州から流れてきた笮融という佛教を信奉する人物に殺害されるのである。その笮融を劉繇は攻め、敗走した笮融は最後は民に殺される。

 

劉繇は漢朝のお墨付きを得た揚州刺史であったが、袁術は孫策とその軍勢を使って劉繇を攻撃する。見方を変えれば、江東を支配したい孫策が袁術の後援の下に劉繇を攻めた、ともいえる。また袁術と曹操が支配する漢の朝廷との間に起きた、”代理戦争”という側面もある。

 

孫策は曲阿(現鎮江近郊)を根拠地に、西へ西へと劉繇を追いつめる。最後に劉繇は豫章の支配権を維持しつつ、長江南岸の彭澤に拠り、そこで病死したと考えられる。これが”沙羨の戦い”の直後の出来事である。

 

孫家諸将の行動

 

以上の”沙羨の戦い”前の豫章をめぐる情勢を踏まえ、以下、孫家諸将の行動を概観してみたい。前回と重複もあるが、劉勲・黄祖との戦いに従軍した諸将の行動は以下のようなものである。

 

まず孫策の兄弟分の周瑜は

 

破劉勳、討江夏、還定豫章、廬陵、留鎭巴丘。五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留吳。

 

すなわち”沙羨の戦い”の後、軍を”還(かえ)し”、豫章、廬陵(江西吉安)を平定し、巴丘(ほぼ廬陵と同地域)に留まり、鎮(しず)めた、とある。だいたい現在の江西省の範囲で活動していた、といえるだろう。

 

”鎮(しず)める”とは、単に軍を駐屯させるのではなく(武力を用いて抑圧し)その地を安定させる、あるいは鎮圧する、という意味である。これは豫章、蘆陵、巴丘が江夏の戦い直後に、不安定化していた事を示している。

そして「策薨、權統事。」とある。すなわち孫策が薨去し、(孫)権が「事を統べる」すなわち家督を継いだ、という事である。そして周瑜は将兵を率いて(呉に)喪に赴き、そのまま呉に留まった、とある。

 

「(孫權)統事」という語については、複数の人物の伝記に見られ、時に「策薨」のすぐ後の文脈にみられる。特に孫策の死後間もない頃を表していると考えられ、文脈上の時期を特定するために注目すべき語である。

 

孫堅以来の宿将の中でも最年長の程普は

 

從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。策薨、與張昭等共輔孫權、遂周旋三郡、平討不服。

 

やはり軍を還(かえ)して、石城を鎮(しず)めた、とある。そして「策薨」の後、張昭と共に孫権を補佐し、三郡を”周旋”して不平分子を討伐した、とある。

この”石城”という地名は江西省贛州近郊に石城県があり、宣城近くに石城県があり、また現南京近郊の古称でもある。

 

しかし程普の伝記には”沙羨の戦いより以前に「従丹楊都尉、居石城。」とあるから、この石城は丹楊(現安徽省宣城)にほど近い地域を指すのであろう。やはり”鎮”の字を用いているから、単に軍をとどめたのではなく、鎮圧のための軍事行動を起こしているのである。

 

孫堅以来の古参武将の韓当は

 

從征劉勳、破黃祖、還討鄱陽、領樂安長、山越畏服。

 

やはり軍を還(かえ)して鄱陽(の賊)を討ち、海昏(南昌)から撫河を南東に下った楽安(江西撫州)に駐屯し、山越(山岳地帯の異民族)はみな畏服した、とある。鄱陽、とあるのは鄱陽湖の水賊ことで、海昏から長江へ連絡する鄱陽湖を掌握した、と考えられる。

 

周泰は

 

後從攻皖、及討江夏、還過豫章、復補宜春長、所在皆、食其征賦。

 

豫章を過ぎ「復補宜春長」とある。宜春は現江西省宜春市で、南昌から贛江を南西に下り、袁河を経由して至る。豫章郡南部地域であり、その西方に荊州の長沙がある。

 

孫策と古くから兄弟同然の付き合いをしてきた呂範は

 

征江夏、還平鄱陽。策薨、奔喪于吳。

 

おそらく韓当と合同で鄱陽(湖)を平定し、孫策の死を聞くと呉に喪に奔(はし)った、とある。

 

董襲の伝記には、

 

從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。策薨、權年少、初統事。太妃憂之、引見張昭及襲等

 

とある。董襲はおそらく孫策や孫権と共に呉に帰還したのであろう。ゆえに「權年少、初統事」とあり、孫権が年少にして「事を統べる」つまりは孫家の家督を継いだ時、孫権の母親から今後について下問を受けたのである。

 

以上のように、孫権以外の諸将は石城の鎮定に動いた程普や、呉に帰還した董襲等を除いて、豫章郡で活動していた、という事がいえるだろう。

 

孫策の行動

 

さて、肝心の孫策については、劉勲との戦いの後の行動と所在については『孫破虜傳』中の、孫策の伝記の中では明確に記述されていない。その伝記中では、

 

勳衆盡降、勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

 

と、劉勲の衆(軍勢)が孫策に下り、劉勲以下数百人は曹操の下へ帰順した、とある。続いて、

 

是時、袁紹方彊、而策幷江東。曹公、力未能逞、且欲撫之。

 

すなわち袁紹と対峙していた曹操は江東を平定した孫策を制する余力がなく、「欲撫之」すなわち懐柔策に出る。

 

乃以弟女、配策小弟匡。又、爲子章、取賁女。

 

姪を孫策の末弟の孫匡に嫁がせ、曹操の子の曹章には孫賁の娘を娶せた、とある。

さらに、

 

皆禮辟策弟權、翊。又命揚州刺史嚴象、舉權茂才。

 

孫策の弟の孫権、孫翊を”禮辟(れいへき)”したとある。禮辟は朝廷に征召、すなわち召し出す、という意味である(必ずしも応じるとは限らないが)。また曹操は揚州刺史の嚴象に命じ、孫権を”茂才”に推挙させている。(茂才はすなわち”秀才”の事で、光武帝劉秀の諱を避けたのである。)

 

続いて、

 

建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。

 

とあり、孫策は許都を襲撃し漢の皇帝を迎え入れようと画策し、ひそかに兵と諸将を配置していた、とある。

 

以下、許貢の食客による孫策暗殺の場面が記述されるのであるが、それについてはひとまず置く。

 

 

『魏志・武帝紀』には

 

八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。

 

と、袁紹との戦闘経緯が記述され、続いて

 

孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。

 

とある。

 

すなわち孫策は袁紹と曹操が対峙している状況に乗じ、許都を襲撃しようとしたが、出発前に刺客に暗殺された、というように書かれている。

 

『魏志・武帝紀』の記述が時系列を正しく反映していたとすれば、孫策は建安五年の八月以前に死去していることになる。

 

孫策がどこで死去したか?については、前述の周瑜の伝記に

 

將兵赴喪、遂留吳。

 

とあり、また呂範の伝記に

 

奔喪于吳。

 

とある。ほぼ呉で死去したと考えて良いだろう。

 

以上、ある程度はっきりしているのは、孫策は建安四年の12月に沙羨で黄祖の軍勢と戦い、建安五年の8月に呉で死去した、という事である。

 

沙羨の戦いの後の孫策の行動については、劉繇・太史慈の伝記にいくらかの手掛かりがある。

 

劉繇の伝記には

 

繇、尋病卒、時年四十二。

 

とあり、劉繇は四十二歳で病死した事がわかるが、没年についての情報はない。しかし劉繇の伝記には

 

後、策西、伐江夏、還過豫章、收載繇喪、善遇其家。

 

とあり、孫策が”伐江夏”(すなわち沙羨の戦い)の後に豫章を過ぎた時、劉繇の喪を”收載(聞き)”し、劉繇の家族を慰撫した旨が記載されている。

 

また孫賁の伝記には

 

賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。軍旋、聞繇病死、過、定豫章。

 

劉勲との戦いから沙羨の戦いに従軍し、軍を撤収させた際に劉繇の病死を聞いた、とある。ゆえに劉繇の死は建安四年の12月ないし建安五年の1月と推測される。

「上賁、領太守」とあるのは、上奏して孫賁豫章

 

そして太史慈の伝記には、

 

後、劉繇亡於豫章、士衆萬餘人未有所附。策、命慈、往撫安焉。

 

劉繇の死後、帰属が定まらない豫章の”士衆”1万人余を慰撫し、孫家の味方につけるために、孫策はもともと劉繇の配下であった太史慈を豫章へ派遣するのである。その際に

 

左右皆曰「慈、必北去不還」策曰「子義、捨我、當復與誰?」餞送昌門

 

『演義』でも有名な場面であるが、左右の諸将はみな「太史慈は北に去って還ってこないでしょう。」と言うところ、孫策は「俺を捨ててどこへ行こうというのか?(きっと帰ってくる)」と言い、「餞送昌門」とある。

 

「昌門」というのは、「呉越春秋」に拠れば

 

 闔閭所建。闔閭欲西破楚,故又名 破楚門。

 

すなわち(戦国春秋時代の)呉王闔閭が建設した呉の都城の西の大門であり、闔閭はまた(西方の)楚を破らんと欲し”破楚門”とも呼ばれた、という門である。

 

つまり孫策は呉にあって、太史慈を豫章へ送り出しているのである。「餞送」とは酒宴をひらいて送る、という事である。むろん太史慈が豫章で将兵を集めるといっても単身で行かせたはずがなく、ある程度の軍勢を率いて出発させたのであろう。

 

以上から、”沙羨の戦い”からそう遠くない時期、諸将を豫章の平定に残したまま孫策は呉に帰還していた、という事がわかる。

 

また太史慈を派遣するにあたり、

 

把腕別曰「何時能還」答曰「不過六十日」果如期而反

 

孫策は太史慈の腕をとりながら「いつ帰ってこれるか?」と聞くと、太史慈は「六十日とかかりますまい」と答え、その約束に反しなかったという。

 

もっともこの時太史慈は豫章で帰参させた軍勢を率いて、一度は呉に帰還したとは限らない。豫章の情勢はそれほどまでに緊迫していたのである。なぜなら”沙羨の戦い”で大敗したはずの荊州軍は、早々に反撃に出ているからである。すなわち、

 

劉表從子磐、驍勇、數爲寇於艾西安諸縣。

 

劉表の甥で勇猛で知られた劉磐が、艾、西安の諸県(いずれも豫章郡)に侵入したため、

 

策於是、分海昬建昌左右六縣、以慈爲建昌都尉、治海昬。幷督諸將、拒磐。

 

とある。建昌は海昏に隣接する県であるが、孫策は太史慈を建昌都尉に任命している。そして海昏を含む周辺の諸県を統括させたうえで、諸将を監督させ、劉磐を防がせた、とある。「幷督諸將」とあるが、宜春の周泰、楽安の韓当はこのとき太史慈の指揮下で働いたのであろう。

 

劉表の従子、すなわち甥の劉磐は長沙の攸県に黄忠と共に赴任している。攸県は現在の株洲市轄県に位置するが、その東には前述の周泰の守る宜春がある。劉表は甥の劉磐を長沙の太守ではなく、当時としても大きな街ではなかったであろう、最前線の攸県に行かせている。副将格で付けられた黄忠とともに、よほどその驍勇を見込んだのであろう。

 

豫章は、北部で江夏に、南部で長沙に接している。南部は山がちな地域であり、大軍を移動し、長期間にわたって補給を続けるのは困難である。劉磐は少数部隊を率いてゲリラ戦を仕掛け、山間部の不服従宗族の反乱を使嗾したのであろう。しかし太史慈と配下の諸将は劉磐の侵入をよく防いだようで、

 

磐、絕迹、不復爲寇。

 

劉磐の侵攻は止んだ、とある。太史慈の伝記にはさらに、

 

孫權統事、以慈能制磐、遂委南方之事。

 

とある。ここで再び「孫權統事」とあり、孫権が家督を継いで後、太史慈の対劉磐の実績を鑑み、継続して南方(すなわち豫章郡南部地域)を任せた、とある。

 

以上でわかるのは、太史慈と劉磐との戦いは、沙羨の戦いから孫策の死までの間に起きた出来事である、という事である。すなわち建安五年の1月から8月までの間の出来事である。

 

以上をまとめると、沙羨の戦いの後、周瑜、孫賁、韓当、呂範、周泰はほぼ豫章郡(江西省)の各地で戦い、そこへ太史慈も派遣されることになる。程普は石城の鎮定に動いている。劉勲への遠征軍が分散して各地の平定にあたっており、個々の戦闘の規模は大きなものではないかもしれないが、孫策軍全体では大規模な軍事行動である。にもかかわらず、沙羨の戦いの後のかなり早い時点で孫策は(おそらく孫権とともに)呉に帰還しているのである。そして死去するまで、呉から動いた形跡はない。

 

孫策には許都侵攻の意図があったのか?

 

『魏志・武帝紀』や『呉志・孫破虜傳』にあるように、孫策に許都へ侵攻する意図があったとしても、いったい諸将のうちの誰を従軍させるつもりであったのだろうか?

 

北方へ侵攻するなら、孫堅とともに河北で戦った歴戦の将兵を連れてゆきたいであろう。ところがそのほとんどが豫章の平定に分散しており、最年長の程普は要衝の石城の掌握に努めている。また朱治は会稽方面の鎮定にあたっていたと考えられる。孫策はあるいは孫権と張昭だけを頼りに、許都ないし徐州へ侵攻するつもりであったのであろうか?北方、とくに徐州方面に通じていたであろう太史慈まで、豫章に投入してしまっているのである。

 

また許都へ侵攻する計画があったのだとすれば、孫策は致命的なミスを犯している。劉勲を計略で誘い出し、その留守を急襲して奪った皖城であるが、この地域をおさめる廬江太守に、李術という、信用ならない淮南の男を任命するのである。

その李術が、曹操が任命した揚州刺史の嚴象を殺害する。『魏志』の劉馥の伝に

 

後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象

 

とある。嚴象は曹操の命で孫権を”茂才”に推挙した人物である。これより以前に、孫権は朱治によって”孝廉”に挙げられている。孝廉も秀才も優秀な人材を意味する名誉称号であるが、孝廉は各郡に一名、郡太守によって推挙される。”茂才”すなわち秀才は各州に一人だけ孝廉の中から選ばれ、刺史によって推挙される。

 

ところが、あろうことか李術は孫権を茂才に推挙してくれた嚴象を攻めて殺害してしまうのである。

形式の上であっても孫権すなわち孫家は嚴象に恩義があり、それを孫家の武将が攻撃するというのは、当時の義理の感覚から言っても容認されることではない。これは李術の独断専行の気配がある。当然、この行動は曹操を刺激し、孫家との間に摩擦を生じる結果を生んだであろう。

 

劉馥の伝記には続いて

 

廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江淮間、郡縣殘破。

 

とある。

 

すなわち廬江郡は梅乾や雷緒、陳蘭といった独立勢力が数万の衆を率いて攻伐を繰り返し、郡や縣は荒廃した、とある。

 

おそらく孫策が廬江太守に任じた李術は孫家古参の武将ではなく、袁術の死後、廬江郡に割拠する軍閥の有力者だったのではないだろうか。あるいは孫策と同じくかつて袁術の支配下にあり、孫策と旧知の間柄であったのかもしれない。

 

李術は孫策の死後、孫権に対して反乱を起こし、結果敗亡している。このように信用ならない男を廬江郡の太守に残しながら、古参の武将率いるほぼ全軍を劉勲の討伐と江夏の戦いに投入したのである。

 

皖城は現在の安徽省潜山市に位置し、後に孫軍と曹軍が死闘を繰り広げる合肥の南方の要衝である。孫策軍がこの時点で合肥を掌握していないのであれば、許都を目指す第一の策源地として皖城は非常に重要である。皖城を足掛かりに廬江郡を掌握していなければ、許都への進撃は困難である。

 

もし孫策が北方へ勢力を伸ばす意思を持っていたのであれば、戦略上重要な皖城すなわち廬江郡には信頼のおける武将を太守に置いたはずであるが、それをしていない。

 

ひとつには有力な武将と軍団を皖城へ置くことで、曹操を刺激したくなかった事が理由に考えられる。

いまひとつの理由は、皖城の守備に削くだけの兵力の余裕がなかった事が考えられる。”沙羨の戦い”の後早々に太史慈を豫章へ送り、劉繇の残党の掌握に努めているのもそのためかも知れない。

 

『呉志』徐盛の伝記を見ると、

 

孫權統事、以爲別部司馬、授兵五百人、守柴桑長、拒黃祖。

 

とある。「孫權統事」の語が見えるが、孫策の死後、孫権が軍を統率して間もないころであろう。徐盛にわずか五百の兵で柴桑を守らせるのである。

そもそも徐盛は諸葛氏などと同じ琅琊の出身で、戦乱を避けて江東へ移住してきた人物である。その武勇を見込んで兵を預けたというが、柴桑は当時は対江夏の最前線である。後の赤壁の戦い前夜、孔明は柴桑で孫権と会談するが、鄂城を攻略するまで呉軍の重要な前線基地であった。

 

建安五年当時、まだそれほど大きな規模の拠点ではなかったにせよ、それまで実績のない徐盛に五百の兵で守備させているのである。皖城を李術に委ねた事と併せて、当時の呉軍には人材も兵員も払底しつつあったことがうかがえる。そこへ、黄祖は黄射率いる数千の兵で襲撃させるのである。

 

(黄)祖子(黄)射、嘗率數千人、下攻盛。盛、時吏士不滿二百、與相拒擊、傷射吏士千餘人。已乃、開門出戰、大破之。

 

とある。「嘗率數千人」の「嘗」は”かつて”ではなく、”こころみに”と読む。すなわち黄射はためしに数千人の兵で徐盛の守る柴桑に”ひとあて”、いわば威力偵察を試みたのである。ところが五百の兵を与えられているはずの徐盛の手元には、この時「時吏士不滿二百」と、二百人足らずの兵しかいない。しかし少数ながらも精鋭であったのだろう。徐盛は撃退に成功する。

 

そして、

 

射、遂絕迹、不復爲寇。

 

後ふたたび黄射は来寇しなくなった、という。

 

この徐盛の伝記の「拒黃祖〜射、遂絕迹、不復爲寇。」は。前述の太史慈の「拒磐。磐、絕迹、不復爲寇。」とは修辞が酷似している点は注意を要する。太史慈による劉磐の撃退からそれほど遠くない時期に、徐盛は黄祖から派遣された黄射の軍勢と交戦していることが察せられる。すなわち建安五年の冬ないし建安六年の早い時期に黄射は来寇したのであろう。

 

注目すべきは、”沙羨の戦い”から1年足らずの間に、数千の兵を前線の敵拠点に送って試しに戦わせ、実勢をはかる軍事行動をとる余力が黄祖側にはあった、という事実である。この点からも”沙羨の戦い”が孫策軍の大勝に終わった、という主張には疑問符が付く。

 

”沙羨の戦い”の後に孫策は劉繇の病死を知り、この機に豫章郡の完全支配を目指したのであろう。ゆえに諸将のほとんどはこの方面に投入されるのである。豫章郡を掌握するという事は、西の江夏郡を攻める際の足がかりを得ることになる。そこに注力しているという事は、孫策の意思はあくまで”西”にあって”北”にはなかった、という事が考えられる。さらに建安五年当時の孫策の戦力事情を考えると、曹操が恐れたように、許都へ向かって進撃するだけの別動隊を編成出来たとは考えにくい。

 

孫策の死の真相は?

 

それにしても”山越”、つまりは山間の小部族の討伐にも陣頭に立つほどの孫策の姿が豫章の戦線には無い。”沙羨の戦い”の後に早々に呉に帰還し、死去するまで呉から動かなかった、と考えられる。孫家の諸軍が一方面を任せられるほど熟練された、という事もいえるのだが、まだ二十代半ばの極めて”好戦的”な孫策がその戦場に出なかったのはなぜだろう?

 

ここでひとつの仮説が考えられる。孫策は呉から動かなかったのではなく、動けなかった、のではないか?端的に言えば”沙羨の戦い”で孫策はすでに負傷し(弩の矢の可能性が高い)......おそらくはその負傷が元で死去した、という事である。

 

たしかに劉繇の伝記では孫策は”沙羨の戦い”の後、豫章を過ぎる際に劉繇の病死を聞き、その遺族を手厚く見舞った、とある。しかしこれは孫策自身が行わなくとも、しかるべき人物に名代(たとえば孫賁)をたてれば充分である。(事実、なぜか孫賁の伝記にだけ”聞繇病死”の語がみえる)

また呉都の昌門で太史慈を見送ったのも建安五年の早い時期であれば、それほど傷の状態が悪化していなかったとすれば可能である。

 

孫策は呉で曹操との外交、そのほかの内政面に忙殺されていた、という事は考えにくい。呉には張昭がおり、また当時は何より軍事が最優先である。曹操とて、官渡で袁紹と対峙しながら孫家との婚姻以外にも、膨大な外交諸事を処理しているのである。孫策が呉に長期間滞在しなければ政務が滞る、といった体制ではなかったであろう。

ゆえに孫家の最高の戦術家である孫策が、孫権のみを伴って呉に居続けたのは不自然なのである。(手に入れた大喬とつかの間の休暇を楽しむためであった、というのは周瑜の手前、無いであろう。)

 

実のところ、建安五年から赤壁の戦いの前年まで、呉側の方には信用にたるだけの記録に乏しいものがある。『三国志正史』の見方の全般に言えることであるが、裴松之が引用した『江表傳』や『呉録』あるいは『献帝春秋』といった架空戦記や歴史小説の類を、足りない時系列を埋めるのに使用するとわけがわからなくなる。

『呉志』の伝記、裴松之の引用では呉の史官が編纂したという『呉書』あたりにひとまず信を置きつつ、『魏志』や『蜀志』と比較しながら、現実的に考える必要があるだろう。

 

周知のとおり、『呉志』の孫策の伝記では、許都を襲撃する計画を準備中だった孫策は、許貢の刺客に襲撃されて重傷を負い、死去した事になっている。『呉志』でも『魏志・武帝紀』でも、建安五年の孫策には許都を襲う計画があった、と記述されているが、今回見てきたように孫家の軍勢の実情はそれと程遠い。

結論的に言えばこの”許都襲撃〜刺客暗殺説”は、おそらくは憶測混じりの伝聞が当時の魏側に伝わって出来た、かなりいいかげんな記録内容を陳壽が採用したものであり、真相は呉の政権によって秘匿されていた(ないし早期に記録が亡失した)と考えられるのである。

 

次回はその点について考えてみたい。

落款印01

沙羨の戦い〜黄祖=黄承彦考9

黄祖と孫家の二度目の戦争は、孫堅の死後、孫家を継いだ孫策との間に起きている。これは孫策にとって最後の大規模な軍事行動であったことは留意する必要があるだろう。そして孫策の死後、孫家の棟梁となった孫権の最初の外征も、黄祖に向けられているのである。

建安四年の冬に発生した、このいわゆる”沙羨の戦い”で孫策軍が黄祖の軍勢と戦った事は、『呉志』孫破虜傳の後半の孫策の伝記には記されていない。孫策の伝記中には劉勲と戦い、これを破った事しか記されておらず、江夏や黄祖の名すら見られないのである。

しかし孫権の伝記である『呉志・呉主傳』には

建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙奸

とある。また『呉志』程普の伝記には

從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。

とある。また『呉志・宗室傳』の孫賁の伝記に

賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。

周泰の伝記には

後從攻皖、及討江夏

とある。また韓当の伝記には

從征劉勳、破黃祖

董襲の伝記に

從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。

呂範の伝記に

征江夏、還平鄱陽。

とある。内容に若干の異同があるものの、おおむね、劉勲を討ち、江夏の黄祖と戦った、という事がわかる。

呉主傳と程普の伝記には「沙羨」の地名が見えるが、他の諸将の伝記には「江夏」とあるのみである。この”沙羨の戦い”については、豫章郡の柴桑と江夏郡の鄂の中間地帯の、長江南岸地域で起こった戦いと考えられる事は以前に述べた。

”沙羨”と呼称するのは、『呉志』の地理の記載が誤っている、というように以前は考えていた。しかし後漢の時代は江夏郡における長江南岸一帯を(広義の)”沙羨”と呼称していたようで、江夏郡下の(現武漢市市区の)沙羨県(城)という場合の(狭義の)”沙羨”とはまた別の意味がある、という事のようである。

南宋時代の王應麟によって編まれた『通鑑地理通釋・武昌』の項に拠れば、

鄂州春秋時謂之夏汭漢為沙嫻慧豢

とあり、漢代は鄂州を以て沙羨の東の境としていた事がわかる。さらに

沙婪n申L乕霈燦療跪榛州東北八十里武昌山在縣南百九

つまり沙羨はすなわち鄂州であり、鄂州はすなわち武昌である、と考証している。つまり江夏>沙羨>鄂州(=武昌)、という事であろう。また”沙羨”と記されているのは、交戦はあくまで平野で行われ、後のように黄祖の守る鄂城(夏口)の攻略戦には至っていないことを暗示している。

もともと劉勲を追撃する延長上に起きた”沙羨の戦い”であるから、鄂城の攻城戦の準備などあるはずがない。また孫策にとって豫章は支配が及び始めた不安定な領域であり、豫章を策源地として隣接する江夏(鄂城)の攻略に乗り出せる時期ではなかったであろう。

同じ時期に北方官渡では袁紹と曹操の対陣が始まっている。曹操・袁紹両陣営は群雄諸侯へ盛んに同盟や協調の働きかけを行っていた時期であり、そういった全般状況の中で孫策は劉勲を攻めることを決断する。この建安四年の戦いの帰趨が北方の情勢に若干の影響を与えるのであるが、また一方で劉勲と孫策による、袁術の”跡目争い”という側面がある。

かつて袁術は孫策に廬江郡(安徽省合肥一帯)の攻略を命じ、成功したら廬江太守に任ずると約束する。先に孫策は袁術から九江太守を許されていたが、これは名ばかりである。
孫策は廬江の攻略に成功するが、廬江太守に任命されたのは劉勲であった。袁術配下の貫目からいえばNo2の劉勲を要地の太守にしたかったのだろうが、約束を反故にし、戦功を取り上げなかった事実は重い。あるいは袁術配下きっての”武闘派”である孫家の棟梁を廬江の太守などにしたら、制御するのが難しくなる、という懸念が勝った可能性もある。とはいえ袁術の”食言”は孫策と孫家の軍勢を大いに失望させたであろう。
この事ひとつをとっても、袁術が乱世を生き抜ける男ではなかった事がわかる。
(それでも大人口を抱える南陽を支配し、かつ名門の血筋に生まれた袁術は、その後もしばらくはその僭越を昂進させることが出来たのであるが、これも環境と時流のなせる業である)

この時、孫策が袁術に”サカヅキを返す”ことをしなかったのは、抱える軍勢を養うだけの確たる根拠地を持たなかった事によるであろう。父親の孫堅はかつて義勇軍を結成し北上する途上、荊州刺史王叡と南陽太守張咨を次々と殺害していったが、要は彼らが兵糧を支給しなかったからである。孫堅が袁術の客将として終わったのは、袁術が孫堅の軍勢に食糧を支給し続けたからである。(孫堅が太守を殺した南陽を袁術は本拠地にしてしまっている)
その後、孫策は母方の伯父である丹陽太守呉景を頼って丹陽へ遷る。しかし丹陽だけでは孫策の全軍を養えなかったようで、大半は孫賁に預けて袁術の下に残留させている。そして揚州刺史となった劉繇との戦いを通じ、江東の掌握に努めるのである。(劉繇との抗争の経緯は複雑で興味深いのであるが、話が逸れるので割愛する。)
ともあれ袁術の死後、劉勲が袁術の軍勢と所領の大半を継承し、独立した勢力となる。袁術の妻子が劉勲に身を寄せた事からも、袁術の正統な後継者は劉勲、とみなされていたのであろう。

その劉勲は皖城(安徽省合肥近郊)を本拠地としていたが、孫策の計略によって長江南岸に誘い出され、留守にした皖城を孫策軍に奪われるのである。

豫章郡の海昏県に上繚城という城塞があり、そこの宗賊の討伐を孫策は持ちかけるのである。当然、攻略のあかつきには劉勲が上繚一帯を支配する。海昏県は現在でいうところの江西省南昌市の一部であるが、豫章郡が呉軍の支配下に入って後は太史慈がここを治めている。孫策は言辞をへりくだった手紙を劉勲に送り、併せて”珠寶葛越”つまり真珠宝石の類と、植物繊維で編んだ布を送って劉勲を喜ばせたという。

劉勲の下には揚州の名士、劉曄という武将がいた。劉勲以下衆人皆出兵に賛成する中、彼一人は孫策の意図を見抜いて上繚の形勢を説き、これに反対したという。『魏書』の劉曄の伝記には、

策乘虛而襲我、則後不能獨守。

とある。劉曄は劉勲に帰順する前に集めた数千の軍勢を握っていたのだが、孫策軍に留守を襲われたら自分の軍勢だけでは守り切れないと述べ、出兵を止めたのである。しかし劉勲は劉曄の忠告には従わず、長江を渡って上繚へ向かう。おそらく皖城から安慶に南下し、そこから長江北岸を遡上し九江付近で南岸へ渡江したのであろう。孫破虜傳には、

勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江。勳衆盡降。

すなわち孫策が軽装備の少数部隊で廬江を急襲したところ、(留守部隊の)劉勲の軍勢はことごとく降伏し(窮した劉曄は曹操に下へ奔る)さらに

勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

(海昏へ向かった)劉勲は数百人の配下とともに、曹操の下へ帰順した、とある。

海昏へ向かった劉勲の軍勢と孫策の軍勢が戦ったのは程普や董襲の伝記には「尋陽」とある。尋陽は現在の九江市の市区である。また”柴桑”も現在の九江市の市区内である。劉勲は尋陽からさらに南の(現在の南昌市)海昏の上繚城へ向かおうとしたのであろうが、まだ長江南岸に留まっているうちに孫策軍に補足され、敗北したのであろう。

実のところ『孫破虜傳』の本伝に戦いの経緯が書かれているのはここまでで、江夏で黄祖と戦った事までは『孫破虜傳』の中では述べられていない。しかし諸将の戦歴を見る限り、黄祖の軍勢と戦ったのは事実なのであろう。問題は戦場となった場所である。

黄祖の根拠地と考えられる鄂城から尋陽までは、長江を使えば比較的早く軍勢を送り込むことは出来る。後、孫権の時代に黄祖は柴桑に軍を派遣している。しかしこの時は黄祖派遣軍との合流より早く、劉勲は孫策に撃破されていたであろう。長江を上流に、鄂城へ向かって敗走する劉勲を孫策が追撃し、柴桑から鄂城へ至る長江南岸のどこかで両軍は衝突したと考えられる。

裴松之が注に引く『江表傳』によれば、孫賁は劉勲を彭澤で撃破し、敗れた劉勲は西塞山にこもり、劉表と黄祖に援軍を要請する。黄祖は長子の黄射に五千の軍勢を与えて支援するが、孫策に破られ、劉勲は曹操を頼って北方へ敗走する。投降兵を吸収した孫策はさらに黄祖の守る夏口(すなわち鄂城)へ侵攻するが、劉表は従子の劉虎と南陽の韓晞という武将に五千の兵を与えて援軍に遣る。しかし孫策はこれを打ち破って大勝した、というように『江表傳』には記述されている。

『江表傳』は描写が精彩で、饒舌な歴史小説のような面白さがある。ゆえに後世の三国時代を題材にした戯作や『演義』にも影響を与えているのであるが、裴松之も認めているように史料としての信憑性には乏しいものがある。たとえば、この劉勲との戦いについて引用された文の頭には

江表傳曰。策被詔敕、與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等幷力討袁術、劉表。

とある。すなわち劉勲・黄祖をめぐる孫策の一連の軍事行動は、曹操や董承、劉璋らと協力し、袁術・劉表を討て、という朝廷からの詔勅を受けて実行された事になっている。しかし当時の状況から見て(この時袁術はすでに亡い)、さすがに孫策に朝廷から詔勅が下っていたとは考え難い。

さらに裴松之が注に引く『呉録』には、孫策が黄祖との戦勝を上奏した文が記載されている。これに拠れば、この戦いには江夏太守周瑜、桂陽太守呂範、零陵太守程普、孫權、韓當、黃蓋、等が従軍し、黄祖の軍を完全に打ち破り、その妻子七名を捕虜にし、劉虎、韓晞以下二万人を斬り、一万人を溺死させ、六千艘の船と多数の財貨を奪った、とある。

しかし、この『呉録』の資料としての信憑性、またこの上奏文の内容も(戦果は過大に誇張されているとしても)鵜呑みには出来ないところがある。従軍の諸将に黄蓋の名がみられるが、黄蓋の伝記にはこの戦いに参加した旨、記述がない。また周泰、董襲の名が上奏文に見られないのはひとまず置くとしても、孫賁の名が見られないのはいささか疑問である。

孫賁は孫堅の同腹の兄であり、すなわち孫策の伯父である。また孫堅死後の孫家の軍勢をまとめ、外戚の呉景とともに孫策をよく後見している。前述のように孫賁の本伝に「賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖」とあるにも関わらず、上奏文に孫権の名があって孫賁の名がないのは、これは少し不自然なのである。孫堅を討った黄祖との戦いが、孫家の復仇戦、という意味があるとすれば、そこに孫賁の名が無ければならない。

(さらに言えば、上奏文にしてはその文章に格調が欠けるのである。)

戦いの時期については『呉録』の上奏文に拠れば建安四年の12月8日である。『魏書・武帝紀』には「十二月公軍官渡。」と、曹操が官渡に進軍したという記述の後に、

廬江太守劉勳率衆降、封爲列侯。

とあり、その後「五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。」とあるから、戦いのあった時期については『呉録』の上奏文が示す通り、建安四年の冬の事であったのだろう。

しかし『三国志正史』の本伝中には、劉勲が劉表および黄祖に援軍を要請した旨の記載はない。

もともと袁術と劉表は敵対していた。袁術の跡目を劉勲がうけついだといっても、劉勲と劉表の関係が良くなった、という記録は見当たらない。しかし隣接する劉表に対し、劉勲がなんらかの外交を行っていた可能性はあるだろう。劉勲は劉表のように歴とした漢室の連枝、というわけではないようである。しかし袁術と代替わりしたことで、劉表と休戦ないしある程度の友好関係を築いていた事が考えられる。

『魏書』には「劉勳率衆降」とある。劉勲は救援した劉表にはつかずに、曹操を頼って北方に落ち延びている。劉表がみすみす劉勲を曹操のもとへ行かせたのは、劉表と曹操の関係も、このときはさほど緊張していなかった事を意味するだろう。袁紹から曹操の背後を突くように催促されていた劉表であり、曹操からも援軍を要請されていたという。しかし劉表は結局は動かない。官渡での袁紹との対峙に精一杯の曹操としては、劉表が曹操に援軍を送らずとも、荊州から動かないだけでもありがたいのである。そこへ劉勲が衆(つまり軍勢)を率いて帰順してくるのであるから、厚遇するよりない。

また荊州の劉表に対して袁紹、曹操の両陣営から支援要請がなされたように、劉勲や孫策に対しても袁紹や曹操から協力の要請があったはずである。袁紹としては孫策に許都を突くか、曹操の支配下の徐州を攻撃するように働きかけ、また曹操は孫策に劉表、劉勲を牽制するように依頼したであろう。と同時に曹操は劉勲に対しては孫策の北上を抑止するよう要請し、袁紹は劉勲に許都に進撃するよう使者を送るくらいの事はしたであろう。
そういった状況下で劉表が劉勲に援軍を送ったというのは、敗北した劉勲との関係によるというよりも、劉表が(あまり積極的ではないにせよ)曹操を利する行動をとった、とみることが出来る。また劉勲を皖城から排除した孫策に、曹操は脅威を覚えることになる。

劉勲は『魏略』に拠れば、諸葛氏と同じ琅琊出身の人物であるが、徐州郡は沛の建平で長官を務めたことがあり、やはり沛出身の曹操とは旧知の間柄であったようだ。曹操に帰順してからは征虜將軍に任ぜられ、また列侯に封ぜられた。劉勲の兄は豫洲刺史に任ぜられ、その兄が病没すると、またひとりの兄を後任にしたというから、曹操としてはよほどの厚遇である。もっとも曹操との縁故をかさに着て無法な振る舞いが多かったようで、告発され免官されている。(司馬芝の伝には”誅”とある)
ともあれ”率衆”とあるのは、いくばくかの軍勢を率いて降った、という事になる。『呉録』にあるように、江夏の軍勢が数万の死者を出すような大敗であれば、加勢を頼んだ劉勲の軍勢も、その形骸すら保てなかったであろう。

戦いの場所については『通鑑地理通釋・武昌』の説に従えば、当時の”沙羨”の東端が鄂城であったのだから、鄂城近郊であった、と考えられる。そして劉勲の撤退支援という意味では、劉表(黄祖)の援軍は劉勲とその軍勢の最低限の収容に成功した、という事が言える。劉勲とその手勢を鄂城に収容し、そこから黄祖の手配した軍船に搭乗し、長江をさかのぼって沔水(漢水)に至り、襄陽を経由して南陽、さらに許都に至ることはさほど困難ではなかったであろう。

袁術の”跡目争い”における最大のライバルである劉勲については、孫策は討ち取るなり捕らえるなりしたかったはずであるが、それには成功していない。しかし皖城の攻略時に袁術の妻子を保護することには成功している。後に孫権は袁術の息子を取り立て、娘は孫権の子に娶せている。袁術の子等は漢室から見れば”叛臣”の子である。しかし袁術の僭逆ぶりから距離を置いたとはいえ、孫堅・孫策と二代にわたって孫家が袁術の”世話になった”のは事実であり、その”義理”は果たすあたり、この一族の価値観の一端を表してもいる。

”沙羨の戦い”の諸記録では、黄祖の軍勢は大敗した事になっている。しかし孫策軍はそのまま鄂城を攻略することなく豫章に撤収し、これが孫策最後の大規模な軍事行動になるのである。後に示されるように、鄂城は充分な準備なしに攻略できるような拠点ではなかった、ということもあるだろう。しかし劉勲がある程度の衆を率いてまんまと逃げおおせた事と、その後も黄祖がこの方面を固守し続ける事を考え併せると、一方的に黄祖の軍勢が敗れた、とは考えにくい。

 

『呉録』の上奏文にあるように、黄祖の軍勢が三万もの犠牲を出したとすれば、荊州の江夏方面軍はほぼ全滅、と考えなければならない。そうであれば翌年の建安五年も孫策は継続して江夏を攻撃しようとしたはずであるが、次に孫家が鄂城の攻略に遠征するのはさらに丸三年が経過した建安八年の事なのである。そして孫策は”沙羨の戦い”翌年建安五年の早ければ四月、遅くとも八月には死去すると考えられるのであるが、その間の孫家の軍勢の行動は、江東領内、特に豫章郡の平定に集中している、という点も注意する必要があるだろう。

ここで”沙羨の戦い”の結果を考察するうえで、何故か孫策の死が関係してくるのである。”孫策は許貢の刺客に襲われた”という主張は『三国志正史』の本伝、また裴松之の注、ないし裴松之の評にみられるのであるが、いずれも孫策は許都を襲撃しようとしていた、事になっているのである。

しかし(長くなるので次回に回すが)その後の孫策の諸将の行動、また前後の孫策の行動を見る限り、とてもの事、許都を襲撃し献帝を迎える、というような意図を孫策が抱いていたとは考えられないのである。

 

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