随州の桜

湖北省の随州市。封鎖が解かれる数日前の3月9日、まだ外出禁止が敷かれていたころである。深圳から帰省した朋友は両親と自身の息子、また妹の家族五人で実家マンションに閉じ込められていたのであるが、一階の並木に桜が咲いたという。いくら何でも早いのではないか?と思ったのであるが、送られてきた写真を見る限り確かにソメイヨシノが咲いている。
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随州は武漢から襄陽に至る、ちょうど中間に位置している地方都市である。夏暑く冬は雪が降るほど寒くなるが、考えてみれば鹿児島と同じ程度の緯度であるから日本の近畿関東などよりは桜の開花時期は早いだろう。
もっとも、この当時は自室の玄関から原則一歩も出られない厳しい制限が敷かれていたから、写真はベランダに出て眼下の桜を撮影している。せっかくの桜をまじかで見られないのが残念だ、とこぼしていたが、その四日後の3月13日には小区と呼ばれるマンションエリア内の敷地には出ることが可能になり、近くから撮影した桜の写真を送ってくれた。さらにその二日後の3月15日には外出禁止令が解かれたという。
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3月23日には江西省贛州からの医療応援隊を随州市民が沿道総出で見送ったのである。その写真を見て、せっかく感染拡大が収束したにもかかわらず、このように大勢で送別するのはどうであろう?と思ったのであるが、朋友曰く「大丈夫、沿道の人々はみなマスクを着けています。」という。拡大してよく見ると、なるほどマスクを着けていない人はない。外出禁止は解かれたが、マスクをつけなければならない規則は継続しているという事だ。
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ところでこの随州の朋友の妹は若くしてなかなかのやり手であり、工場における検査治具をつくる会社を経営している。その顧客のうちの一社に、医療用マスクを製造する工場があるという事だった。それで朋友姉妹は深圳から湖北省に帰省する際にもかなりの量のマスクを持ち帰っていたので、政府による配給に頼らずとも一家がマスク不足に陥ることはなかったという。

その朋友が10日ほど前の3月17日「マスクを買わないか?」と打診してきた。日本でもマスクをなかなか購入できなくなって久しいが、自分用の分はある程度は確保している。安徽の朋友に送ってくれと頼まれていて、EMSの混雑ならびに大陸中国のマスクの流通制限によって、結局送ることが出来ないままになってマスクもある。
ゆえに当面、個人的にはマスクが足りないという事はないのであるが、熱心に進められるので付き合い半分で購入することにした。値段を聞くと、1枚2.15元だという。朋友曰く、これは工場出荷価格なのだそうだ。
1元を15.5元で計算すると1枚33円ほどである。50枚入りのパッケージで1666円である。こういった箱入りのマスクは、コロナウイルスが蔓延する以前は、ドラッグストアで1箱498円で買えたものである。それが工場出荷価格の時点で3倍以上になっている。

ちょっとうがった見方をすれば、この朋友がいくらかマージンを乗せているとかキックバックをもらっていると考えるかもしれない。ただ今までの付き合い上、個人的に信じるところでは、そういう細かい商売はしない人物である。また私は別段マスクを商っている人間ではないから量を買うとも向こうは思っていない。別口では数万単位でオーダーを受けているという。むろん、この朋友も普段はマスクなど扱ってない。電子部品の商社を経営しているのであるが、今は臨時で工場からオファーがあるのだという。
しかしこんなに高いのはどういう事情かと行くと、原材料の不織繊がコロナウイルス流行以前は1トン2万元であったのが、ピークで60万元まで高騰したという。それが若干おちついて50万元になっている、という事だ。
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マスクをみると、口元を覆う部分は機械で製造されるのだろう。おそらくは耳にかける紐の部分が、熱圧着などで人の手がかけられているのであろう。なので製造原価のほとんどは材料費のはずであり、それが25倍〜30倍まで高騰してしまうと、単価の上昇もやむを得ないのかもしれない。
朋友は何やら大量に購入して欲しいようで「最大で何枚買えますか?」と聞くのであるが、以前の3倍の値段のものを大量にさばく自信はないし、周辺で会社や工場を経営している人に聞いても当面間に合っている、という事である。何枚くらい買えるのか?と聞くと「60万枚。」という。さすがにそんなに買っても仕方がないので、最低ロットの2,000枚を付き合いで買う事にした。50枚入りのパッケージで40箱が、ちょうど段ボール一箱分である。

少しインターネットで値段を調べてみると、在庫があるとは限らないが、似たようなマスクが日本では安いところで2000円を切るくらいで販売している。こういったところは直接仕入れて薄利多売で売っているのだろう。他に4000円近い販売価格のところもあるが、工場出荷価格を考えれば、通常の卸しから小売りルートに載せれば、それくらいの値段になってしまうのだろう。

一応、”BFE99%以上”というのは、性能的には病院で普通に使えるレベルのマスクなのだそうだ。ちなみに感染患者と直接接するにはN95という規格が必要であるし、外科手術用のマスクはまた別であるという。要は一般病棟で使えるレベル、ということだろう。
しかし日本は医療用のマスクとして輸入する場合はPDMAという認証資格を持っていないと輸入は出来ない。むろん、そんな資格は持っていない。だから単にBFE99%とだけ書いた箱に詰めて送られ来るのである。
ちなみにアメリカに医療用のマスクとして輸出する場合は工場がFDA認証を持っていなければならない。輸出する国の医療関係の法律によってさまざまな規制や認証があるのだという。
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届いたマスクの品質や使用感を見る限り、使い捨てマスクとしては特に問題はなさそうである。そこで昨日、追加で買えるか?と聞いたのであるが「買える事は買えるが、価格は3.2元になった。」という。わずか一週間で五割増しのアップである。1個50円を超えるのはさすがに高い。50枚入りのパッケージで2500円を越えるのである。
しかしこの原因は言うまでもなくこの一週間で欧州とアメリカで感染患者が激増したことにある。すでにマスクは各国で奪い合いの情況で、特に医療用のN95規格のマスクはお金があっても買うことが出来ないのだという。
察するに3月17日時点で大量に購入を打診してきたときは、武漢を除く湖北省のほとんどの地域で封鎖が解かれ、一時的にマスクの需要が低減したのであろう。それがその後1週間に満たない間にアメリカやヨーロッパの情勢の急激な悪化で再び切迫した状況に変換した、と考えられる。
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幾分うがった見方をすれば、世界規模のでのコロナウイルスとの戦いの中で、今やマスクを初めとする医療用品や医療器材は第二次世界大戦における武器弾薬と同じであり、戦略物資でもある。
大陸中国では生産などの経済活動が徐々に回復しているとはいえ、厳しい封鎖が経済に与えるダメージは日に日に明らかになってゆくであろう。また欧州やアメリカなどの主要な市場が封鎖され、世界的に経済活動が劇的に鈍化している中で、通常の工業製品の需要は大幅に落ち込んでいるであろう。非公式の統計では失業率は6%を超えているという。
マスクの製造作業は原材料の不織繊さえあれば簡単なものであるから、工員を募集し、急速に製造ラインを増やすことも可能であろう。マスクの製造は、ひとつには雇用対策、ひとつには外貨獲得のための重点国策産業になっていると考えられる。
中国が武漢をはじめ大陸全土を封鎖していた期間、製造されるマスクはほぼすべて中国政府が買い上げ、必要な現場へ配給されていたのである。これはまさに社会主義的な統制経済の在り方である。それが大陸の封鎖が解かれ、海外へ輸出する段になるや、市場原理による原材料の価格高騰が直接反映されているのにはいささか閉口したくなる。

背後の事情はともかく、現場によって必要なものは必要なのであるから、これらマスクも必要な場所へ行き渡ることが望まれる。
日本は現在、欧州やアメリカからの帰国者に由来する感染の第二波の中にある。東京をはじめ、大都市に限らず「不要不急の外出」は自粛することが望まれる。せっかくの桜の季節ではあるが、西日本はあいにくの天候なのは「天の声」であろうか。
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感染拡大の第二波

........三月中旬あたりから香港における感染者数が急激に増加傾向を見せていた。
(騰訊新聞「新型冠状病毒肺炎・疫情実時追跡」) 三月中旬までは入院患者数が50〜60人で推移していたのがわずか一週間の間に280人にまで増えている。香港の友人に確認したところ「海外、とくにアメリカやヨーロッパから帰国した人の中で感染が確認された人が多い。」とのことである。
湖北省を別格とすると、現在の大陸における感染患者数ではいつのまにか香港が2位につけている。次いで、北京、上海と続く。北京や上海にしても、おそらくは香港と同じように海外との往来の人数の多さが影響しているのではないだろうか。
というような事をさっきまで書いていたら、東京でも本日3月25日に一日では最多の40人の感染が確認されたという。この件について小池都知事が20時から緊急記者会見を開くということだ。
おそらくは東京も香港と同じで、欧米からの帰国者の増加による感染者数の増加が要因ではないだろうか。
(新型コロナウイルス感染症患者の発生状況 厚生労働省) 2月から増加していった日本における感染者数は、クルーズ船の乗客の感染者を別にすると、3月中旬から収束傾向すら見せていた。この2月に入ってから今までの感染患者の増加は、言うまでもなく春節前後での大陸との往来に由来すると考えられる。
そして今回の感染者の増加は、いうなれば海外からの”第二波”で、感染が拡大するヨーロッパ、アメリカ、そのほかの世界各地からの帰国者に由来すると考えられる。

桜の開花が例年より早い今年であるが、日に日に気温があがり、日照時間も長くなり、紫外線量も増加している。これはウイルスにとっては環境が厳しくなってゆく事を意味しているが、油断は出来ないだろう。
感染はウイルス集合の中でも感染力の強いウイルスが感染してゆくわけで、いうなれば繁殖力の強い個体が増えるという事であるから、武漢で爆発したころよりも強い感染力を持つ可能性もある。

しかし個人レベルでは、風邪やインフルエンザの感染予防以上のことはできるわけではなく、それを念入りにやるしかない。しかしこのいわば全国民的な予防行動の徹底が、今や世界でも稀な感染の抑制を見せていたことも事実である。

新型肺炎の死亡率を低く抑えるのは病院など医師看護士医療機関、医療機器の仕事である。しかし感染症拡大の抑制は公衆衛生環境、衛生習慣の役割が大きい。生活様式に根差す衛生習慣は、その国固有の歴史、文化と不可分である。
”衛生観念”というが、衛生は観念に根差しているところがある。古代人はウイルスや細菌が目に見えたわけではない。しかし「ケガレ・ハライ・キヨメ」といった、日本古来の衛生観念が、やはりコロナウイルスの拡大を防ぐうえで力を発揮しているのではないだろうか?逆に考えると、古代の日本は疫病の流行に繰り返し悩まされてきた、という事でもあるだろう。それは史料に上る以上の被害を古代の日本社会にもたらし、それを防ぐための衛生習慣が、食器を共用しないなどの良くも悪くも「人と人との距離が遠い」日本人の生活文化、行動様式を生み出した、という事も考えたくなる。
古事記にある、黄泉の国にイザナギノミコトが下りて行った伝説も”愛しい者であっても死者は遠ざけねばならない”という事を教訓として知らしめているのかもしれない。

ともあれ、皆様におかれましても、今後も充分にご注意願いたい次第。
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随州告急

騰訊新聞「新型冠状病毒肺炎・疫情実時追跡」で、一応は公式発表としての新型肺炎の感染情報が閲覧できる。

これによると2月7日現在、中国全土で感染が確認された患者数が前日から3163人増えて「31223人」感染が疑われる疑似病例が前日から4833人増えて「26359人」、治癒した患者が「1586人」、死亡者が「637人」となっている。まさに今世紀に限って言えば、未曾有の事態であるといえるだろう。
先月25日に「武漢封城」を掲載した際には、現場の医療関係者と思われる人々の間で交わされたと思われる、1月22日のタイムスタンプのついたSNSの発信情報を参照した。その会話内容では感染者は政府発表(当時400人)よりも二桁多い「四万人」と推定されていた。
感染が確定した患者数だけでも、おそらくはその時点での推定を上回るのは必至の情勢である。

湖北省、特に感染源とされる武漢市の状況はおそらく他の地域とは比較にならない事態にあると考えられる。武漢現地は病院も医師も看護士も足りないどころか、マスクや防護服などの医療用品の供給も不足し、したがって診断も治療も追い付いていない。
ゆえに感染者の総数について明らかになるまでは相当な時間を要すると考えられるのだが、かなり控えめな推測でも武漢市だけで少なくとも10万人、多くは25万人の感染者が存在する、という声がある。
新型肺炎による死者も正確にはカウントできていない。死者数に関する規模感は、後に武漢市の人口統計から推測するしかないのではないだろうか。
先日「随州封城」を掲載した時点で、深圳在住の朋友等が帰省した湖北省随州市には30名程度の感染者が発見されていたが、2月7日現在は915人にのぼり、死者は9人を数えている。
湖北省全体の統計でみると、感染患者数が11618人の武漢市、2141人の孝感市、1897人の黄岡市についで、随州の915人は四番目に多い。武漢市は別格としても、2番目に感染者の多い孝感市の人口は490万人、3番目の黄岡市は人口630万人に対して、随州は人口220万人である。行政区としては湖北省に12ある「地級市」の中では随州はもっとも人口が少ないのであるが、その随州の患者数は四番目に多く、すなわち武漢に次いで多い感染率である。
無論、湖北省における各都市各地域に感染者が多く分布するのは、武漢市内から帰省した人々が湖北省内に分散したためである。先日の武漢市長の発表では、武漢市内に900万人が残留し、500万人が武漢市内を出た、という事である。この500万人のうちの大半は湖北省の各地域に帰省し、さらにすくなからぬ人数が大陸全土、あるいは海外にまで分散したと考えられる。
残留者900万人にたいして武漢から離脱した人数が500万とすると、併せて1400万人である。武漢の戸籍人口は1000万、住民は1200万であるから、200万人は短期滞在者や武漢市を出入りした延べ人数の事であろう。武漢が交通の要衝たるゆえんであろう。
今年の旧正月は1月25日からであるから、武漢や随州が「封城」された時点では旧暦における「大晦日」であり、家族親戚そろって年越しの晩餐を過ごすのが習慣である。その晩餐の席で武漢市から帰省した者からの二次感染もあったであろう。そもそも、ほぼ帰省の大移動が終わってからの交通封鎖は遅きに失していた感は免れない。
あるいは圧倒的に病院の足りない武漢の状況を考えると、あえて帰省を許して感染者を分散させたのか?という疑念も残る。もし大多数が離れる前に武漢を封鎖していれば、武漢は今現在以上に過酷な状況になったのかもしれない。
大陸では1月の初めからがいわゆる年の瀬であり、忘年会等の行事も行われ、また年越しの買い物で各地の市場はごった返す。いうなれば年末のアメ横のような光景が武漢の市場や商店でみられたのであり、また大陸の宴会はたいていは個室の円卓を囲んで行われる。酒宴の後は個室のカラオケである。およそ大陸中国人であれば常識的にわかっている状況が見えていたにも関わらず、武漢市や中国政府当局の初期の対応はあまりにも疎漏に過ぎたといわざるを得ない。

大陸は旧正月には「拝年」という、各家庭を互いに訪問する年始参りの習慣があるが、今年は全国的に自粛されている。しかしあえて厳しい言い方をすれば「手遅れ」だったのではないだろうか。
確認される感染者が31253人、そのうち湖北省が22112人とすると、9000人程度が湖北省以外の地域に分散していることになる。しかし死者の総数637人のうち、湖北省だけで618人である。すなわち湖北省以外の地域での1万人あまりの感染者の間での死亡率はさほど高いものではない。湖北省以外の地域では患者数に対して医療機関の物量人員がまだ対応可能であり、適切な治療によって死亡率が低く抑えられているのであろう。
治癒者の総数は1640人であるが、湖北省全体の治癒者は840人である。およそ三分の二の患者を抱える湖北省の治癒者が全体の半数に過ぎないという事は、やはり湖北省の医療設備や人員、物資が不足しているという事を意味しているだろう。
もっともこれは公式発表を信じたうえでの推測である。おそらく、武漢市以外の地域の数値に関しては、ある程度の信頼を置いてもよいのではないだろうか。しかし武漢市に限って言えば感染患者の総数や志望者は依然不明確であり、現実の実際とはおそらくは桁を外れた差異があることが予想されるのである。

随州に話を戻すと、朋友の話では幸い随州は郊外に農村が多く、食糧品の供給には事欠かないという。しかし外出は厳格に制限される。大陸のマンション群はたいていは「小区」というエリアに区分されているのであるが、「小区」の入り口で保安要員に体温をチェックされ、発熱していないことが確認されてから初めて出入りできるのである。これはショッピングセンターやスーパーマーケットの入り口でも同じ措置が取られるのだという。
今のところ幸いに朋友家族に感染者は出ていないが、同じ「小区」から1名の感染患者が出たという事である。しかしその家族にはまだ感染者が確認されていないという事だ。

前述したように、随州は人口比で武漢に次ぐ感染患者が確認されており、すでに医療機関のキャパシティを超えそうな勢いであるという。随州市には「湖北省随州中心医院」が唯一の「国家三級甲等総合病院(最高格付けの総合病院)」であり、この病院が新型肺炎に対応する指定病院となっている。
現在中国各地から陸続と応援の医師看護士が湖北省に向かっているが、当然のことながら大半は武漢に集中して投入され、随州にはわずかに内蒙古から四名の医師が派遣されただけであるという。医療物資も不足し、現場では緊迫した状況が続いているという。

随州ではないが、大陸のほかの地域もほぼ交通が規制された状況にある。たびたび訪れている黄山市の朋友からも、マスクを送ってほしいという連絡が来た。安徽省は全体で665人の感染患者が確認されており、うち黄山市では9名の患者がいるという。湖北省の状況に比べればまだしもであるが、マスクなどの医療品は払底している。そこで少量ではあるが確保したマスクをEMSで送ろうと郵便局に行ったのであるが郵便局員さんが言うには「現在関空はマスクなどの荷物が多すぎて大渋滞中なので、しばらくしてから送った方が良い。」という事である。
ひとつには大陸中国では各企業が新型肺炎の蔓延をうけて春節明けの操業開始を2月9日から10日に延長しているため、物流、輸送も滞っているという事情もあるだろう。日本から中国側に届いても、中国側でもさばき切れていない可能性がある。また中国側通関をパスしても、その後の輸送がどうなるかはまったく不透明だ。
先日、京都の旅行会社につとめる友人から聞いたところでは、個々人が日本から送ったマスクも中国側ですべて強制的に開封、没収されて政府当局によって管理されている、という話である。ゆえに個人的な支援は届く見込みがない、ということだ。それほど大陸中国では医療品の欠乏が切迫している。

大陸中国の報道では、中国でのマスクの年間生産量は50億個であるという。日本の年間生産量を調べたら2018年の時点で55億個、というデータがすぐに見つかった。という事は日本のマスクの年間生産量と中国のそれがほぼ同じ、という事になる。日本でマスクの生産量ないし消費量が多いのは、花粉症の需要も相当量あるからだろう。
しかし日本のメーカーでも中国でマスクを委託生産しているところもあるから、中国の総生産のうち、どれほどが本来中国国内の需要分なのだろうか。なんにせよ、仮に10億人が毎日マスクを1個使い捨てにしていたら、10日で日本と中国の年間生産量のマスクが消費されてしまうことになる。それは仮定の話であるが、現実に大陸中国の最前線の医療機関でも防護服はおろかマスクが欠乏しているのである。本来は日本のメーカーが中国の工場に生産を委託していた分も中国政府の要請で中国国内向けに回されている。また日本の国産マスク工場は24時間フル稼働でマスクを量産しているという。それでも目下、大陸、特に湖北省や武漢では充足しているという話は聞かない。

そういう意味ではやっと入手して黄山市の朋友に送ろうとしていたわずかばかりの”DS2”規格の日本製マスクも、随州なりの大陸の医療機関で日夜苦闘を続ける医師や看護師に送りたい気持ちもあるのだが、確実に届く手段が今のところは見えない。
日本の薬局、ドラッグストア、コンビニからもマスクが消えた。もっとも新型肺炎の予防にはマスクよりも手洗いうがいが有効であるという。それはそうだろう。
日本ではまずしないが、大陸の生活習慣上の懸念としては、外履きのまま部屋にあがるというものがある。これも現在は外履きの靴は屋外に置くことが推奨されている。

日本の感染状況も予断を許さないものがあるが、今世紀に入って未曾有の大災害である。初動の問題など多分に人災の面が否定できないが、災害の規模でいえば2008年の四川省汶川の大震災に匹敵するものがある。日本は日本で国内での感染拡大を厳格に予防しつつ、余力があれば大陸中国、特に武漢市や湖北省への支援も行ってゆかなければならないだろう。早期に収束しなければ、中国のみならず東アジアと世界経済にもすくなからぬ影響が出るのは確実である。
そしてもし要路にあたる方がこの拙文をお読みいただいたのであれば、湖北省の随州という街の事も、気にかけていただければ幸いである。
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随州封城

......先に「武漢封城」を掲載した翌日、やはり懸念した通り随州も「封城」されてしまった。これで湖北省南部の過半が「封城」されたことになる。交通封鎖は湖北省に限ったことではなく、上海や北京、天津といった都市でも徐々に移動が制限され始めている。
浙江省温州のとある小さな村に帰省した知人がいるのだが、人口千人程度の小さな村も「封村」されたという事だ。もっともこれは感染者の流入を防ぎたい村人が自発的に行っている行動のようで、町から村に通じる道路を閉鎖し、検問のようなことを行っているということである。このような動きはおそらく大陸全土に及んでいるのであろう。

懸念されるのは感染の拡大もそうであるが、経済への直接的な影響である。春節後の中国経済は、少なからぬ混乱を呈するのは必至である。今や全国的に人の移動が制限されているのであるから、仕事どころではない。すでに海外旅行への団体旅行は当然のことながら、国内旅行も禁止されている。旅行業、宿泊業から小売、飲食にとどまらず広範な経済活動に影響するだろう。
SARSの際は香港の不動産は70%暴落した。普通に考えれば春節後に武漢を中心に湖北省一帯の不動産は暴落、余波は全国に広がるだろう。放置した場合に銀行が連鎖倒産するなどの金融危機は不可避である。金融危機を防ぐために強い資本規制、すなわち預金の引き出し制限や送金の制限などが実施される可能性が高い。
あるいは不動産の売買そのものを停止する可能性もある。今日現在で春節の休暇が2月2日まで延長されている。Uターンによる人の移動を抑制すると同時に、株式や不動産など、あらゆる”市場”の再開を延期させる措置ではないかと思われる。

自身はその道の専門家ではない、という事を断ったうえであるが、今後患者数の増加を注視しなければならないだろう。武漢市内で濃厚な接触をした人々の間での感染が感染経路の大半であり、「封城」後に二次感染が抑制されているとすれば、どこかで感染者の増加が頭打ちになるはずだ。現在の感染者の増加は感染が診断された患者数であり、医療機関側の検査体制が増強の状況に左右されるのである。とはいえ、感染力が増強しているという観測もあり、まったく予断は許さない。

武漢の医師はざっと3万人。また”官報”によれば北京からは一万人の医師が武漢に派遣され、また近く2万人の医師が全国から集められ、さらに武漢に向かうという。医師だけではなく、看護士の随伴も相当数に上るだろう。
以前に書いたが、武漢出身の作家である池莉の作品「不断愛情」は、医師の家庭に生まれ自身も医師になるエリートの男性と、下町”花楼街”に生まれた女性との恋愛・結婚がテーマである。武漢というと武漢大学医学部を筆頭に大学病院、病院、薬局が多く、医療の充実した都市として知られているのである。その武漢をしてベッドが足りない、医師も看護士も足りない、というのが現実なのである。
早い段階で武漢現地の医療機関関係者から漏れ出た情報では感染者は少なくとも4万人。現在では10万人の感染者の存在を肯定する声が高い。日本で報道されているような、武漢だけで数百人とか中国全土で2千人というようなオーダーの話ではない。

昨日26日付の武漢市長の声明によれば、武漢を離れた人の総数はおよそ500万人。900万人が残留しているという事である。武漢は戸籍人口1000万人、住人1200万人の都市であるが、一時滞在や春節前に通過した人の数の総数がそれくらいなのかもしれない。湖北省のみならず、大陸南西部における交通の要衝であるから、その数値はまったく誇張ではない。

湖北省随州に閉じ込められた朋友の話では、昨日今日は路上を走る車を多くみるという。自家用車を有する人々が脱出を図っているのではないか?ということである。こんな時は勧告される通り自宅でおとなしくして自身の感染を防ぎ、また感染の拡大を防ぐべきなのであるが、そうとは考えない向きも多い、という事なのだろう。先の温州の片田舎の「封村」も、そうした一部の人間の行動を受けての措置なのであろう。

随州の朋友には2歳の男の子がいるのだが、昨日から喉が痛いという。熱はまだ無いということだ。ただの風邪の初期症状なのかもしれないが、病院に行くこと自体が感染リスクを高める行為なので考え込んでいる。先日、随州市でも30名の感染疑いが確認されたが、いまや感染が確認された患者が30名を超えているのである。武漢から高速道路で2時間程度の距離にあり、武漢から帰省した人も多いのであるから感染者出ないわけにはいかない。今のところ「封城」が解除される見通しはない。

現在、日本で発見された感染者は武漢から来日した人に限られている。しかし潜伏期間が二週間と長いため、日本における二次感染の状況が見えてくるのは、早くとも2月上旬あたりなのかもしれない。武漢の人だけで10万人が日本への旅客申請をしていたという。中国政府は海外への団体旅行を禁止したが、個人の渡航がどこまで制限されているのかは不明である。ともあれしばらくは予断を許さない状況が続くだろう。
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武漢封城

......武漢肺炎と呼ばれる新型ウイルスによる肺炎が武漢を中心に猛威を振るっている。日本の報道と中国の朋友から紛々と入ってくる情報にはかなりの温度差がある。直感的ではあるが、事態はかなり深刻である。
22日から23日にかけて、公式発表でも患者は100人増加している。23日から24日にかけては200人の増加である。今後、加速度的に増加しないという保証はどこにもない。

現地の医療関係者からの発信を参照すると、武漢だけですでに数万人が感染していることがうかがえる。武漢肺炎については、まず診断を受け、ウイルス検査を経て初めて武漢肺炎と診断される。それはそういうものだろう。そして新型肺炎と診断されたのちに死亡した場合、新型肺炎による死者にカウントされる。
現地現場の医療関係者からの発信は微信を通じて回ってくるのであるが、多くはデマ扱いされ、場合によっては遮断されることもあるそうだ。しかし会話の内容や画像を見る限り現場ないし現場近くの医師か看護師の会話と思われ、これが捏造されたデマとすればかなり凝っている。その画像なりをここに掲載するのは控えるが、かなりショッキングな内容だ。もしこれがデマであればそれもよし、用心に越したことはないという意味で注意を喚起したい。

武漢は湖北省の省都であり、内陸屈指の大都市である。また武漢大学を中心に病院が多く、比較的医療体制の良い都市としても知られている。その武漢の病院はどこも発熱患者でいっぱい、ということだ。しかしウイルス検査を経ないと新型肺炎患者にはカウントされないのである。そして治療がまにあわず死亡した患者は新型肺炎による死者には数えられない。そのような治療を受けられず病院の廊下や待合室で死を待つ患者も大勢いるという。
新型肺炎は中国のCCTVでも連日大きく扱われているが、事態はさらに深刻である。中国当局による意図的な隠ぺいというよりも、CCTVにも正しい情報が伝わっていない、というような事も言われている。

13日に香港から帰国したが、帰国直前に香港でも27人の感染疑いが確認されていた。それが今日現在までは都合176人が感染疑いで検査をうけ、現在は2名の感染が確定している。109人は無関係とわかって退院したが、依然として67人が感染疑いで入院しているという。この時期、発熱をともなう疾病は多いもので発熱したからと言って新型肺炎とは限らないだろう。
しかし香港だけをみても発熱状態で受診し、検査を経て確定するまでそれなりの時間を要している。日々報道される感染者数は発熱し、診断を受け、ウイルス検査を経た患者数であり、発熱していないウイルスキャリアの増加をリアルタイムに反映した数字ではない、という事は注意が必要だろう。

今回は9日に深圳から香港に移動したが、8日の晩は深圳在住のS小姐の家で会食していた。S小姐は9日に湖北省武漢から車で2時間くらいの距離にある、随州という町に子供と妹、父親とともに帰省するという。今年は春節が1月25日からと早く、また不景気を反映して深圳でも帰省が早く始まっていた。子供を連れているから高速鉄道が良く、あまり遅いとチケットが採りにくくなるのである。
S小姐の旦那さんは深圳を本拠地とする華為(ファー・ウェイ)にお勤めなのであるが、彼はまだ仕事納めまで日にちがあり、深圳に残留して後から帰省するのだという。
それが昨日S小姐と連絡を取り合ったところ、深圳では大手を中心に、湖北省方面へのスタッフの帰省を止める企業が多いという。湖北省へ帰省するには、多く武漢を経由しないわけにはいかないのである。またすでに湖北方面に帰省したスタッフには、春節後のUターンを控えるように通達しているという。S小姐の旦那さんは帰省したら深圳に戻れなくなるおそれがあるから、そのまま深圳にとどまることになったのだという。
またS小姐は四姉妹であるが、S小姐と妹は故郷随州に帰省している。長女は武漢に在住しているのだが、武漢が「封城」されたため武漢市街からは出られない。

深圳は外省人の街であるが、比較的多いのが湖北省、湖南省、四川省、広西省、江西省の人である。ゆえに春節後も武漢肺炎に収束のメドが立たない場合、深圳経済への影響は必至である。いや、深圳のみならず、交通の要衝である武漢の封鎖が説かれない場合、大陸経済全般への影響も少なくないであろう。

随州はS小姐の結婚式に招かれたときに訪れたことがあるが、武漢から高速道路で2時間の距離にある街である。
1月23日付の随州政府の公式発表によれば、随州では発熱患者166人のうち、新型肺炎と疑われる症状の患者が27人出ているという。この時点では確定ではなく、検査の結果で感染が確定するわけだが、予断を許さない状況であるといえるだろう。
また23日の時点で交通封鎖の範囲が武漢から拡大し、鄂州、黄岡、仙桃、赤壁、荊門、咸寧、黄石、当陽、恩施、孝感、の範囲に拡大している。かつて東坡赤壁を訪ねた黄州は、黄岡市に属している。武漢から長距離バスで一時間程度、70Kmほどの距離にある街であるが........いずれS小姐の故郷の随州も「封城」されるかもしれない。皆、春節後に深圳に戻って仕事ができるかどうかを心配していたが、今はそれどころではないだろう。とはいえ、経済に与える影響は武漢や深圳といった一都市に限っても甚大であろう。

「人から人への感染」の可能性があるかないかはっきりしないうちに瞬く間に感染が拡大している。現場で治療にあたった医師等が十数人感染しているところをみても、感染力が強く、死亡率も決して低くはないのではないか?というのが正直な感想である。
もちろんこの時期はインフルエンザ等の疾病予防に注意しなければならない時期であり、うがい手洗いマスクをする、消毒に努める、といった日常の行動が新型肺炎の予防にも有効であるという事は確かなようである。
中国当局の地方政府の公式発表以外の、当方が接する情報がデマならデマでもいいのであるが、明日から春節に入るこの時期、ここに注意を喚起した次第。
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Jan.2020 HK

......今回は上海から深圳に移動し、香港から帰国しました。デモの影響が懸念された香港ですが、ところどころに痕跡を残すものの落ち着いていて、いたって平穏な雰囲気ではありました。
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一部ではデモが暴徒化したという見解がみられますが、地元香港の友人の話ではそもそも香港警察が平和なデモ隊へ向け、突然に三方向から逃げられないカタチで催涙弾を発射したのが発端、ということです。彼は6月12日と日付まで覚えていました。暴徒化した群衆鎮圧に催涙弾を使用するのはまだしも、法的に認められた平和的なデモに対し、警察が催涙弾を使用するのは過剰な対応と言えるでしょう。
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またデモ隊一部の地下鉄への破壊活動も報道されていましたが、これも地下鉄が突然停車し、警官が乗り込んできて乗客を無差別に殴りかかった、ということです。それで香港の地下鉄「MTR」は「体制側」とみなされ、破壊の標的になったということです。
警察の中には明らかに大陸から派遣された警官が入り込んでいて、広東語(香港語)を話せない警官も相当数いるということです。香港の警官は相手を制圧するときに左足で頭部を踏みつけるところを、右足を使用している警官もおり、これは大陸の公安のやり方だ、という話もありました。
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そうは言っても一部過激化したデモ隊に対しては香港市民にも賛否があり、現実的ではない要求を掲げて星条旗を振ったりするのは「やりすぎ」という意見もあります。
現実を理解しない若い学生が理想に凝り固まって過激化する、というのはかつての日本でも長期間にわたってみられた現象ですね。破壊活動は日本国内にとどまらず、世界へテロ活動を広げた顛末は日本の現代史から削除してはならない事実であるといえるでしょう。
しかし大陸政府の香港への干渉にはおおむね反発が強く、普通選挙の実施も含めて今後もデモは「平和的に」継続するだろう、という事です。

香港という都市は移民も外国人居住者も多く、多様な宗教や価値観が共存する社会です。いうなれば大昔のシルクロードのオアシスの都市国家のようなものでしょうか。そういう都市に画一的な価値観がフィットするか?というと確かに疑問に思えます。
香港と大陸中国の摩擦や軋轢の原因は、民主主義と全体主義の違いであるというように言われることが多いように思えます。表面的にはそういった面がありますが、より本質的には所有権、私有財産権の有無であると、香港の友人は言います。
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社会主義と、社会主義の理想形である共産主義は、あらゆる資産は事実上国家が所有します。
共産主義とは、かいつまんでいえば、国民全員が共産主義者であり全員が政治参加するゆえにもっとも民主的な国家の状態であるとします。半島北部国家の国名の意味がわかりますね。皆が同じ意見だから決め事はすべて全員賛成、という、これも理想の理論です。
また国民すべてのものであるところの国家がすべての資産を所有するがゆえに、すべての資産は国民すべてのもの、だから自由で平等、という一種の理想論です。社会主義は共産主義を理想としつつもその過程にある社会体制、というほどの意味になります。ゆえに中国には共産党の一党独裁でありながらも、社会主義国、という位置づけになります。
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以上を踏まえると、香港と大陸中国の社会制度の根本的な違いは私有財産権の有無にある、という言い方も可能です。私有財産が法的に保障されている、という事で大陸の富豪や官僚は香港にせっせと資産を移転し、身内に香港籍や外国籍とらせるなどして自分の資産の保全をはかるわけです。これはかつて大陸政府の治外法権であった外国人疎開地に、大陸政府の高官や富豪が資産を移転していたのと同じ動きであるといえます。一朝ことがあれば何が起こるかわからない大陸にあって、高い地位に上り詰めるほどに、また巨大な資産を築けば築くほど、逃げ出す算段は重要になってくる、という事になります。
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ゆえに香港の存在は大陸の社会主義、共産主義における”所有権”の矛盾を補完する地位にある、ともいえるでしょう。香港の特権的な地位が喪われるとすれば、大陸政府が香港と同質の透明度の高い社会システムと、司法の独立、等々の自由主義社会に必要な制度基盤を持つにいたったときになるでしょう。
逆に考えれば、香港の自由主義的な社会システムを否定し、大陸と同質のシステムにしてしまうことは現在の「特色ある社会主義」を危機に陥れる可能性をはらんでいるとも考えられます。

香港の友人の見解では、大陸政府が軍を派遣するなどの実力行使に出ることは、大陸政府が香港に積み上げた資産や権益が灰燼に帰すことを意味するだけに、これまでも出来ないと考えていたし、今後もできないだろう、という事でした。私もこの意見には同意できます。大陸の権力機構の現実において、権力を得るという事は資産を得ることであり、資産を喪うということは権力を喪う事でもあるからです。
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とはいえ香港は大陸と地続きという事もあり、台湾のように独立性を高めることにはある種の限界があると、現時点では思います。良くも悪くも香港には軍事力が皆無であり、独力で安全保障を担保する方法がありません。デモ隊の一部が主張するような香港の完全独立、自立はやや現実離れしているといわざるを得ないでしょう。
個人的には、香港の自由かつ透明で公平な制度はこのまま維持していってもらいたいと考えています。香港のデモが要求する「五大要求」は実現していませんが、今回一連のデモを通じて、大陸政府に香港の特異な地位の重要性と必要性を再認識させた、という事は言えると考えられます。
とはいえ香港の行政府や大陸政府の出方には予断を許さないものがあり、今後も注視してゆくことが必要でしょう。
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祝新元号 「万葉集 梅花歌併序」

万葉集 梅花歌併序

(原文)

天平二年正月十三日。萃於帥老之宅。申宴會也。
於時初春令月。氣淑風和。
梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。
加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。
夕岫結霧鳥封而迷林。
庭舞新蝶。空歸故鴈。
於是蓋天坐地。促膝飛觴。
忘言一室之裏。開衿煙霞之外。
淡然自放。快然自足。
若非翰苑何以攄情。
詩紀落梅之篇古今夫何異矣。
宜賦園梅聊成短詠。

(書き下し)

天平二年正月十三日。
帥老(しろう)の宅(たく)に萃(あつ)まり、申(かさね)て宴(うたげ)を會(かい)すなり。
時は初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)
気(き)は淑(しと)やかに風(か)和(やわらか)し
梅は披(ひら)く鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)
蘭は薫(かお)る珮後(はいご)の香(こう)
以って加(くわ)うるに曙(しょ)の嶺(やま)は雲を移(うつ)し、
松は羅(ら)を掛け蓋(がい)を傾く。
夕岫(ゆうしゅう)は霧(きり)を結び、鳥は封(とざ)して林に迷う。
庭に新蝶(しんちょう)舞い、
空に故鴈(こがん)帰(かえ)る。
是において天を蓋(がい)とし地を座(ざ)とし、
膝(ひざ)を促(つ)めて觴(さかずき)を飛ばさん。
一室の裏(うち)に言を忘れ、煙霞(えんか)の外に衿を開く。
淡然(たんぜん)として自から放(はな)ち、快然(かいぜん)として自から足る。
若(も)し翰苑(かんえん)にあらざれば何を以って情を攄(の)べん。
詩に落梅之篇(らくばいのへん)を紀(しる)す、古今(ここん)夫(そ)れ何ぞ異とするや。
宜(よろ)しく園梅(えんばい)に賦(ふ)して聊(いささ)か短詠(たんえい)を成さん。

(補足)
和製漢文なので、語順の感覚に注意が必要かもしれません。あくまで漢文として読んでみます。
「申」は重ねて、の意味があり、正月の宴の二次会を会のリーダー的年長者の邸宅で開いたと思われます。
氣淑風和」は、漢語風にいえば「淑気」「和風」ですが、意図的に逆転したのでしょうか。
「粉」ですが、ここは次の蘭の句と対句になっており、対応する「香」がおそらく香炉を表すことから対応して「白粉」という解釈が可能でしょう。「鏡前」とありますが、白粉から連想して「鏡台」を指すかのように思えますが、庭に向けて魔除けにおいた鏡のことでしょう。いわゆる照魔鏡は、鬼瓦と同様大陸から伝来しましたが、貴族の邸宅では一般的な風習でした。それに庭の梅花が映っているのを、鏡台の前の女性の化粧になぞらえたと考えられます。
「珮」はしめた帯。
「蘭」ですが、旧暦の正月13日といえばまだ2月下旬で、梅はともかく蘭の開花時期としてはギリギリです。庭に咲いたのではなく、室内で鉢植えで育てられた蘭を想定していると思われます。ゆえに「香」一字で「香炉」、ということになります。また蘭の花は単独で君子を表します。しめた帯のあたりから蘭の香が漂うというのですから、集まった者達がいずれ劣らぬ君子ぞろい、ということを暗示しています。
「曙」は日本語ではもっぱら「あけぼの」、朝の光を指しますが、漢語では明るい太陽の光のことでもあります。夕暮れに向かう前後の文脈から「朝陽」のことではなく、山際におちかけて最後の光芒を放つ陽の光をいうのでしょう。
「松掛羅」の「羅」を「うすもの」としている訳例がありますが、松に羽衣をかける文脈は前後にないですね。「松羅」は松に寄生する和名サルオガセという地衣類で、漢語では女羅といいます。また蓋(がい)を傾くというのは、天蓋(屋根)のように広がり茂った松の枝葉のことです。
「鳥封」は、鳥が霧に閉じ込められて林で迷子になる、ように訳している例がありますが、それなら「封鳥」のはずです。「封」は口を閉ざす、という意味があります。鳥は鳴くのをやめて、というように解釈しました。
「煙霞」は「紅塵」と同じく、世俗、俗世間のこと。「煙霞」の外、ということですが、あつまった者達の間にも階級や職位の区別はあるわけです。それを忘れて楽しみましょう、という事ですね。なので「開衿」の対句の「忘言」の「言」は、身分に応じた言葉遣い、という意味に解釈できます。
「淡然」はたんぱくな気持ち。名誉や利益から離れた心境。
「詩」とあるのは詩経。古く詩経にも梅を詠んだ詩があります。

(大意)

天平二年の正月十三日、頭(かしら)だつ人の家にあつまって二次会の宴会をひらいた。
時節は初春の(正月)めでたい月。空気もようやく温かく、風も穏(おだ)やかに吹いている。
鏡には、白粉のような白い梅の花が映り、集まった君子たちのしめた帯の背中からは、蘭の薫(かおり)が香炉(こうろ)を置いたようにかすかにただよってくる。
傾いた日が山際にさしかかり、山裾には雲がながれるのが見える。
女羅がさがった老いた松は、屋根のように大きなその枝葉を庭にかたむけている。
山にかかる夕靄はふもとにおりて霧となり、鳥は鳴くのをやめ、林をさまようかのように飛びわたる。
目の前の庭には生まれたばかりの蝶が舞い、遠くの空には故郷へ帰る雁が飛ぶ。
(ああ、美しいこの場所、)ここでもって天地の区別なく無礼講で楽しむことにした。
そこで席順を崩し、膝をつきあわせ、酒杯を応酬する。
一部屋の中で言葉遣いも忘れ果て、世俗の身分に関係なく、衿(えり)を開いて打ち解けあう。
名利を忘れて自由な気持ちになり、楽しい気分になって満足する。
もし、文学に拠らなければ、どうやってこの楽しい感情を表し残したらいいのだろう。
詩経に落梅花を詠んだ詩があるくらいだから、昔も今も(この季節に梅を詠むことに)違いはないのだ。
だから皆でもって庭の梅をテーマにして、すこしばかりの短歌をつくったのである。


ともあれ「令和」が良い時代にならんことを。
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桜と新元号

明日、新しい元号が発表になります。とはいえ明日をもって平成の時代が終わるわけではないですが、気持ちの上ではひとつの時代の区切りの日となりそうです。

今年は三月下旬に寒い日が続き、桜の開花が遅いように感じるのですが、昨年がやや早かったからかもしれません。今日は全国的に気温が低く、関西では小雨がパラつく地域が多かったと思います。大阪ないし東京周辺のお花見のピークはやはりこの週末、あるいは来週末、というところでしょうか。
和歌はあまり勉強したことが無いのですが.......桜と新元号にちなんで(ご愛敬までに)四首ほどつくってみました。

三十一(みそひとの)すぎゆく御代をおくらむと
散りぬるころをまてし花影

咲きそめし花をさそいて春雨の
ふりゆくままにうつる御代かな

御代やあらむ、花やむかしの花ならぬ
うつりにけるは人ばかりなり

たいらかになりてのどけき春の日に
新しき世を迎ふるよろこび

一昔三十年と言いますから、平成をもってひとまず一昔、というところでしょうか。散る花や、昭和も遠くなりにけり.............
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「祭姪文稿」見逃し残念記

........話題の顔真卿祭姪文稿、残念ながら2月は多忙で東京まで観に行く機会がとれなかった。その腹いせ、という意味では全くないが、祭姪文稿他、顔真卿の”三稿”の真実性には前から疑問があった。残念記念で少しその事を以下に。観に行かれた方には、あるいは水を差しかねまじき内容もあるかもしれないので、その点はお含みおきいただきたい。

個人的には、あの安禄山との激しい戦乱の最中、顔真卿ほどの能筆家が自己の感情もあらわに筆跡が乱れた(と言われている)草稿を残していただろうか?という疑問がある。また続く内戦と唐末の大乱の最中、石碑ですら原刻が喪われたもの数多という中、紙片が残るものだろうか?という点も。さらには1000年以上後まで伝存するような精良な紙を、草稿に使用するだろうか?という疑問がわくところである。
事実、現在知られる唐代の楷書の碑帖も原刻はすでに喪われているものが多い。また拓本も宋代より以前にさかのぼれない、というものが非常に多い。
唐代の筆書が実際どのようなものであったか?という点については、巷間言われているほどにはわかっていないことがまだまだ多いと考えている。ある意味、確実な史料がほとんどない王羲之の時代よりも、なまじ唐代の書と言われるものが多いため、かえってつかみにくいところがある、といえるのではないだろうか。

顔真卿はそれまで主流であった「二王」こと、王羲之と王献之の書風を超克するというところに問題意識があり、それを成し遂げたと通俗的書法史では評価されている。王羲之を越えないまでも、書の変革者であると。

これも私見で恐縮であるが、東晋の名門貴族として実在したであろう王羲之が、”書聖”であったというのは唐の太宗時代に創られた完全な虚像、と考えている。ゆえに現在みられる”蘭亭序”をはじめとする王羲之、王献之の書は、すべて隋唐から北宋にかけて創作されたものだろう、と。
それはごく少数の東晋時代の碑文や、先立つ漢代における隷書体の碑文をつぶさに検討すれば理解することは容易である。たとえば蘭亭序のような楷書を崩した行書体が、四世紀に存在したか?という問題である。さらに完成された楷書を崩した「蘭亭序」にみられる”行書”しかり、また草書の尺牘の類についても同じことが言えるのである。

顔真卿は四十四歳の作と言われる多宝塔碑で、北魏以来の楷書を集大成した、雄渾かつ端正な楷書体に到達しているとされる。しかしその後に書風を一変し、顔勤礼碑や顔氏家廟碑、麻姑仙壇記で”顔体”と称される独自の書風を確立している。これらをもって、王羲之以来の流麗な書風を革新したと、一般的には言われているのである。とはいえ王羲之の時代には完成した楷書体は存在しなかった。鐘繇や王羲之の小楷は、実際は北宋に入ってからの偽作と認められて久しい。

今日言う”楷書体”というのは、漢民族からみれば異民族王朝である北魏において大略完成した書体である。しかしそれは紙の上に毛筆で書かれた筆書として発展した書体ではなく、刻石の上で展開し、整理されていった書体であろうと考えられる。
北魏に先立つ漢代の碑、いわゆる漢碑における隷書体は、毛筆で書かれたであろう筆書の原型をかなり忠実に石に刻んでいる。それは毛筆書体のもつ美への深い理解と、それを後世に伝えんとする意識に支えられたものであると考えられる。
それが漢、西晋と時代を経て、北方に異民族王朝の北魏が成立すると、様相が大きく変化してゆく。おそらくは前後漢で成立した毛筆書の文化に疎い人々の手によって刻まれた刻字は、元の筆書を忠実にたどったものではなかったと考えられる。刻石の刀法の影響で筆書の曲線が直線に矯められ、隸書特有の右へ長い波磔が短縮される、という変化があったことだろう。
すなわち書がしるされる媒体の物性によって、書体が変化してゆくのである。たとえば木版印刷の上で彫りやすいように筆画が変化していった、活字書体である宋朝体、明朝体がある。また楷書体と同じく刻石の上で成立した、英数字のローマン書体と比較して理解されるところであろう。骨片に刻まれた甲骨文や青銅器上の篆文なども、書かれた媒体の性質を考えることで、書体の発展の必然性を説明することが可能である。
このような、文字を書く道具と材料の変遷が書体に影響を与える、といよりほとんど書体を決定してきた、という考え方は、西洋におけるアルファベットの書体の変遷の説明ではごく普通の見方である。しかし通俗的書法史によれば、すべて現代と同じような毛筆でもって紙の上で変化してきたかのようなとらえ方が主流になるところに、錯覚や誤解がみられる。これが東洋における書の歴史がそのまま能書家の列伝であり、あたかも英雄伝説のようなストーリーから脱し得ない原因ではないかと考えている。

漢代の竹簡や木簡の上で発展した隷書体は、一辺の木簡に一行が原則の書体として、より多くの文字を書き入れるために扁平になって行った。また可読性を高めるために、波磔が強調されるようになる。

文字を刻んだ石碑の製作が流行するのは漢代に入ってからである。それは硬い石に彫刻を施すのに適した、焼きを入れた鋭利な鉄器の精錬が可能になったからであると考えられる。その技術は、刻石の文化と同時に、西方から伝播したであろう。漢代は、それまで青銅器を主流とした戦国春秋〜秦時代から、鉄器の文化へと移行した時代でもあった。
摩擦に弱い青銅の刀では、硬質な石材に緻密な線を彫り上げることは難しい。春秋戦国時代にみられる画像石のような、ごく柔らかい石におおらかに図像を彫り上げるのが限界であろう。また硬い石でなければ、そもそも繊細な線を彫れないのである。ごく硬い石に精緻な文字が刻まれるようになるのは、道具の進化と無縁ではない。

文字が刻石上に多く刻まれるようになると、縦横の方眼の方が見た目には整然としている。さらには縦方向に文字を目で追う上で、隸書のような横広がりの文字よりは、正方、ないしやや縦長に構成されていた方が視線を移動して読みやすい。さらに漢字という文字の構造上、筆画の外側は直線的に彫りやすい。しかし内側の点画はやや慎重に彫らないと、内包された点画など、文字の構造を壊してしまう。こうして、顔真卿以前の楷書は、歐陽詢に代表されるように、いわゆる”外方内円”の字形をとるようになったと考えられる。

また刻石上の下書きは、多くは石の上に直接書かれたであろう。総じて字形が大きな魏碑の文字は、円錐状の筆ではなく、平たい刷毛のような筆で書かれたと考えられる。刷毛であれば、毛筆書の心得の薄い者でも、比較的容易に、縦横に整った線をえがくことが可能なのである。

ところで四世紀の東晋時代〜南朝宋時代までの、南方の碑文や墓誌の類というのは現存するものが非常に少ない。しかしはじめから無かったわけではなく、後世になって破壊されたり建材にされたり、新たな墓誌や碑帖の材料として刻面が削り取られてしまったからと考えられる。それは北朝に南朝が征服されてゆく過程での、意図的な破壊もあったと思われる。
五世紀の南方の筆書を伝える数少ない碑の一例を挙げれば、420年に東晋がほろんで後の南朝劉宋の時代、458年に造られた「爨龍顏碑」がある。これは清朝の乾隆年間に雲南省で発見されている。これは地元豪族の墓誌であるが、雲南省のような僻地であったからこそ、奇跡的に破壊を免れたのだろう。ゆえに南朝の支配地域において、墓誌を刻む習慣がなかったとは言えないのである。東晋〜南朝時代の南方の碑帖が異様に少ないのは、やはり北朝の征服過程と統治下で、相当な破壊があった事がうかがえるのである。
この碑の書体を見る限りでは、現代のゴチック体を思わせるところがあり、唐代の洗練された楷書にはまだ相当な距離がある。5世紀の時点では依然として、唐代の整理された楷書体への発展過程にあったのではないか。

北魏を中心とする北朝で楷書体が発展を遂げていた同じ時期、南朝では隸書の早書きである草書体が洗練の度を増していた、と考えられる。それは会稽を中心とした製紙業の隆盛が背景にあり、また筆や墨の質の向上も貢献していたであろう。草書の連綿の発展は、精良な紙と筆墨なしには到達できないものである。
ゆえに南朝貴族の自国文化に対する矜持は、草書の美に拠るところが大きい、と考えてよいだろう。それは平安朝における仮名の発達と対比して理解しても良い。
草書のような筆記書体は平安朝における仮名と同じく、書き手の個性を表現する事が可能であり、むしろ積極的に表現を試みたであろう。同時に、名手の筆跡の模倣も盛んにおこなわれるのである。
対して北朝の、いわゆる魏碑を中心とする碑帖群は、作者がほとんど分かっていない。北方騎馬民族を継承する異民族王朝であり、政権における軍事色の強い北朝にあっては、文字はあくまで通信や広報手段の道具である。そこに書き手の個性を表現する必要性は、おそらく認められなかったのであろう。

隋の楊氏も唐代の李氏も、もとは鮮卑族をルーツに持つ武川鎮軍閥の出身である。一方で、唐の太宗のブレーンの多くは漢王朝以来の南朝貴族たちある。虞世南、歐陽詢、褚遂良たちは互いに師弟関係にあり、その祖に王羲之の後衛と言われる智永がいたとされる。
彼等”唐の三大家”は、北朝で完成された楷書体(とおそらくは異字の統一など)が採用されることに、積極的に関与している。そこには隋唐王朝の成立と同時期に、楷書体が公文書における制式な書として定められたのであれば、その模範となる書体は、ぜひとも南朝文化の継承者の手によって、完成されなければならないという、ある種の危機感のようなものがあったのではないだろうか。
それと同時に、南朝文化を継承する運動として、おそらくは”書聖王羲之”を創造したのではないか?と考えられるのである。

書体の変遷に当時の政局が影響していることは、近代史における簡体字の採用、また文化大革命における独特なプロパガンダ書体などにも類例を見ることが出来るものであり、別段特殊な事ではない。

ゆえに楷書体はすでに王羲之の時代に完成していた、という物語の中に”蘭亭序伝説”を位置づけることで(楷書がなければ行書も生まれないので)、文化面での南朝の優越性を太宗以下の北方出身の貴族たちに認めさせたか、あるいは信じさせた可能性がある。あるいは太宗も南北融和のために積極的に王羲之を賞賛した、という事もありうるだろう。
智永は楷書と草書を併記した”真草千字文”を八百本も書き、寺寺に配ったといわれている。またその一本が日本に伝存していると考えられている。その真偽はさておくとしても、何故智永が数多くの真草千字文を書き、配布したか?という故事の謎がある。これも北朝の刻石文化と、南朝の豊富な紙の生産の上に洗練された草書体文化の融合、という文脈で説明できるのではないだろうか。あるいは歐陽詢等よりやや後代の、孫過庭の「書譜」における草書の美と、書論の内容についても、やはり南朝貴族文化の系譜の上で理解しなければならないのではないだろうか。

そこで顔真卿に話を戻すと、多宝塔碑以降に顔真卿が目指したのは、結論的にはおそらく漢代の筆書への回帰であったのではないか?
それは北魏以来の刻石における(おそらくは石刻職人の技量や筆書への理解の不足に基づく)直線的な楷書体から、漢碑の隸書体における曲線的な筆線や波磔への回帰ではなかったのかと。また”ネズミのしっぽ”とも呼ばれる、(おそらくは褚遂良を継承した)顔真卿の楷書体における独特な波磔や、外円内方の、まる味を帯びた筆画にあるのではないかと。そう考えたくなるのである。
ゆえに二王以来の流麗優美な書風に対抗し、雄渾な書風と確立した、というのはまったく後世のこじつけであり(そもそも王羲之の時代に完成された楷書体は認めがたいのだから)、むしろ顔真卿の意識は、北魏以来の北方異民族政権による中原文化への圧迫に対する、ある種の抵抗の感情があったのではないか。

唐代にいたり、碑帖における毛筆書体の再現性は、再び漢代における漢碑のごとく、精緻な技術を回復する。毛筆書特有の線の肥痩までもが忠実に刻まれるところには、碑帖の製作者と注文主が、筆書に深い理解を持たなければならない。
顔真卿の後期の楷書作品にみられる、"ねずみのしっぽ”とも呼ばれる特徴的な右の波磔は、それが毛筆による筆書であることを強調しているように見える。この点、おそらくは平たい刷毛のような筆で書かれたであろう、北魏の碑帖とは文字通り一線を画すことを宣言しているかのようである。

顔真卿は虞世南や歐陽詢、褚遂良といった南方貴族の出身ではなく、山東省に本貫をもち、魯の国の孔子の高弟、顔回の末裔と称する一族の出身である。山東には漢代以来の刻石刻碑の類が現在も多く残っている。はじめ褚遂良以来の唐楷を極めた顔真卿も、やがて故郷に残る漢碑の隸書や八分書の影響を受け、その味わいを唐楷に取り入れようとしたのではないか?というのが、ごく個人的な理解なのである。唐朝への忠誠心を後世称えられる顔真卿であるが、文化面ではまた別の感情があった事と察せられるのである。

顔真卿の草稿については、俗にいう”三稿”があり、そのうちの「争座位帖」については、北宋の米芾が”見た”と書いている。それ以前に記録文献には見られない。唐末から五代の動乱のすさまじさは、あまたの文物の亡失が想像されるのだが、文献資料すらほとんど残っていない事実からも、その損失の程が察せられるのである。
総じて、記録が残っているが実物は残っていない例はあるものだが、古い記録が無くて実物のみが残っている、というのはなかなかあり得難いところである。北宋の米芾からさかのぼること、唐代は二百五十年以上前の時代。今でいえば2000年代の人が乾隆年間の書を見たような、そういう時間の経過が横たわっていることは、意識しなくてはならないだろう。
実のところ顔真卿の書風は時代によって毀誉褒貶を繰り返してきているのであるが、まず北宋において再評価の時期を迎えている。北宋は毛筆書の即興性、いわゆる”卒意”が重視された時代である。そうした北宋人の美意識の下で顔真卿が評価されたところに、”三稿”の位置づけを考えてみてもよいだろう。それは唐代初期において、”卒意”の書とされる”蘭亭序”が創作され、称揚された経緯も参考になるのではないだろうか。
蘭亭序の真偽に象徴される”書聖王羲之”の実在性と併せて、唐代の筆書文化の全体像についても、再考の必要があるのではないだろうか。
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窮屈さを増す大陸旅

昨年の10月末の事。深圳から香港に移動する際の羅湖の入管で、中国に渡航を始めて以来、実に初めて指紋をとられたのである。これは原則、入国する外国人全員に原則義務付けられるようになったようである。
その昔の1980年代、日本でも一部の外国人への、指紋押捺の義務に対する反対運動が巻き起こったことがあった。その運動の是非はともかく、たしかに指紋をとられるというのは、正直あまりいい気分ではない。
むろん、いまでは民間企業が提供するシステムにも、”指紋認証”が普及しているのであって、そのデータもどこでどう管理しているかはわからない。要は悪いことをしなければいい、悪いことをするつもりがないならいいではないか?というのも確かにその通りなのである。しかしそうはいっても、ある組織や権力機構に、自分の身体のプロファイルが採られてゆくという事に、心の奥底の不快感はぬぐえない。

そもそも”悪いこと”が、ルールに違反しない、という明確な定義づけがあるなら良いし、処罰についても客観的な証拠に基づいて審理するという過程を経るなら、まあ良いのである。しかし時に政権の”恣意”に拠ることがあるのなら、話は全く別である。
品物などから簡単に指紋をスキャンすることが出来るセンサーを使い、あらゆる場所から指紋を採取できるようになれば、その情報を使って行動をトレースすることも容易になるのである。防犯カメラの顔認識の技術とあわせて、現代では、いつどこで誰がだれと会っているのか?という事も、比較的簡単に割り出せるようになった、ということでもある。それは犯罪捜査や、犯罪を未然に防ぐことに使われるのは結構なことではあるが、それ以外の事には使用しないでほしいと、切に願うものである。

それとは別に、11月に上海に渡航した際。上海の浦東の入管での出来事。入国カードの記載内容についてとがめられたのである。大陸では入国、出国の際に黄色いカードの記載事項を記入するが、これとていままではいい加減なものであった。生年月日とパスポート番号、サインがあればそれでOK、のようなものである。パスポート番号を間違えていても通った、という話も聞く。
”入国カード”には、入国時と出国時では記入内容に違いがある。入国時にはやや事項が詳細にわたり、宿泊先などを書く欄がある。この箇所などは書くのが面倒なので、いつも斜め線を引くだけで”未定”のような体裁で出していた。これでなんの問題も無かったものである。
それが今回、入管の女性の審査官に「宿泊先はどこですか?」と聞かれたのである。実のところ、この時点で宿泊先は確定していなかった。そういう事はままあるもので、とりあえず上海について、その日の宿は適当に朋友に予約を入れてもらう、という事もあるのだ。「今は決まっていません。」と中国語でいうと、女性の審査員は冷たく「宿泊先を書かないといけません。」という。それが書けない場合は一体どうするのだ?という感じであるが「これから友達に会う。友達が手配してくれているが、今は知らない。」というと「友達に電話で聞けませんか?」という。あいにく、携帯電話が充電されていない。そもそも大陸を訪れる外国人の大半は、中国で通じる携帯電話など持っていないだろう。それも出来ないというと「友達の住所は?」と聞くので、思い出す限りで適当に書いてやったらやっと通ったのである。面倒になったものである。
今でもそうだが、入国ゲートに「〇〇先生」とか「Mr.〇〇」と書いたカードを持った迎えの人がいて、それからホテルに案内する場合もあるであろうし、そのホテル名を事前に知らない、などという他人任せな話もあるだろう。宿泊先が突然変更になることだってあるし、今回は上海のほかに揚州で一泊している。昔、旅行にもビザが必要だった時は、日程と宿泊先ホテルを詳細に申告しなければならない時代もあったものであるが、その時代に逆行してゆくのだろうか。
上海の浦東では、簡易なビジネスホテルに宿をとってもらったのであるが、ここでも何やら顔を認証すると思しき機械を使い、パスポートの顔写真と照会していたようである。おそらくこのシステムはオンラインでデータが集められ、いつどこのホテルに、何者が泊ったか、即座に情報が届く仕組みになっているのであろう。むろん、今までも、宿泊の際はパスポートを見せ、番号を控えるなどしている。それは公安に報告されるのであるが、紙ベースでの作業であり、おそらく後でまとめて報告していたのであろう。それが現在はチェックイン時に即座に、である。どうも情報がどこかに送られ、当局のOKが出て初めて宿泊が許される、ような雰囲気である。
しかしそう考えると、大陸で最近増えている民泊などは、依然として適当なものである。宿帳に姓名とパスポート番号を書いてオシマイ、という形態が一般的である。これなども、今後は厳しくなってゆくのかもしれない。

地下鉄に乗る際の荷物検査も、近頃ではちゃんと検査機に荷物を通さないと通してくれない。少し前などは、みんな無視して通っていたものである。それがきちんと荷物を通さないと通過できなくなっただけではなく、実際に中身を改められるようなことが数度あった。
たくさんの筆を持って乗ろうとしたときなどは、爆竹の束を持ち歩いているかと疑われたし、数個の硯を持ち歩いたときなどもバッグをあけられて「これは何ですか?」と聞かれたものである。何ですか?って硯ですよ、と言っても通じない人もいるのである。墨、についても同様な事があったが、これらはX線の検査機には固体の爆薬にでも見えるのだろうか。真鍮製の筆帽をたくさん持ち歩いたときは、弾丸かなにかと勘違いしたらしい。
空港のセキュリティであれば致し方ないとも割り切れる。高速鉄道の駅でも、致し方ないとは思う。しかし日常乗る地下鉄でこれをやられると、これはたいそう難儀な思いがする。昔に比べて交通の便が良くなったはずなのに、なぜだか移動のストレスが高くなっているようなのは、気のせいばかりなのだろうか。自動改札の存在を打ち消して余りある。それは煩わしさ、である。
上海の朋友に言わせれば「比較的安全な上海で警戒を厳しくする理由はなんだと思いますか?犯罪ではないですよね?テロを警戒してのことだと思います。」という。
もちろん、実際に地下鉄で有毒ガスを使ったテロを経験した国の人間からすれば、起こりえない事ではないというのもわかる。場合によっては、航空機のテロ以上の犠牲者が出かねないわけである。

大陸政府では、個人の行動履歴を蓄積するシステムを構築し、特定個人に法令違反などがあれば銀行口座を開設できない、また航空券や列車のチケットを買えなくなるなどの、行動の制限を設けようとしている。これを”档案”制度というが、この制度は今に始まったことではない。古くは王朝時代に起源がある。しかし王朝時代の”档案”は一定身分の者が対象として限られていたが、中華人民共和国成立後ほどなくして実施されたのは、すべての人民が登録される国民管理制度である。
しかし書類で管理されてきた牧歌的な”档案”の情報を、データ化してオンラインで照会できるとなると、全く違った威力をもつシステムになる。飛行機や列車での移動にも身分証が必要なのが大陸の旅であるが、IDと档案を紐づければ、問題のある人物への乗車券、搭乗券の発券を止めること事が出来る。それは移動の自由だけではなく、さまざまな行政サービス、銀行、あるいは就業などの、あらゆる生活面に影響を及ぼすことが、原則として可能になるのである。

こうした管理の強化は、人民の総意を経たものではむろんないし、人々が反対か賛成かにかかわらず、政府の意思によってどんどんと進行してしまうのが、かの国の体制が民主国家ではない所以でもある。
このような国民総管理システムの構築は、犯罪捜査や、犯罪抑止、またはテロの抑止にも、たしかにある一定の効力はあるだろう。シンガポールが公共のマナー違反にこと細かく罰金を科していった結果、街が美しくなっていったごとくである。そういえば現主席は、シンガポールの統治を大いに称揚していたものである。

しかし当然、専制独裁国家におけるその種の制度は、国民の健康安全のためではなく、体制維持が主目的である。個人的な予測であるが、今後、この”档案システム”は、さらに広範に、精緻に構築が進むと考えている。人民は今までより一層、体制に従順であることを強いられるだろう。”档案システム”の強化は、逆の面から考えると、それだけ人民の体制への不満の高まりを、政府自身が予測している事実の表れであるともいえる。人民の不満の原因は、いつの時代も変わらず、経済、経済政策、である。
実際の所、昨年の大陸の経済情勢は思わしくないし、数々の施策によっても、劇的な改善はほとんど見込めそうにもない。どこを見渡しても過剰設備が山積しており、投資効果が著しく低下している。金融や財政出動の手段を講じても、もはや有効なカネの使い道が乏しいのである。各地の不動産価格は下落傾向を強めているが、大陸政府はきたるべき不動産バブルの本格的な崩壊に、身構えているようにさえ見える............

日本でも”マイナンバー制度”が施行されたが、どうもうまく普及が進んでいないようである。運用面でも疎漏が多いというが、本質的には、番号で個人が特定され、あらゆる情報と紐づけられることへの、本能的な忌避の感覚があるように思える。そうはいっても、現在はクレジットカード番号、電話番号、パスポート番号、運転免許証、そのほか生活上必要な様々な番号やデータで、個人情報の特定や関連付けは、可能といえば可能な時代である。それでもそれが(縦割り行政等等のおかげで)分散管理されて(いるとはおもうのだが)、しかも個人の意思で改変や離脱が出来るのと、それが出来ないというのは大きな違いがある。
番号で国家に一元管理される事への嫌悪感というのは、民主主義の社会の住人の感覚としては、至極真っ当とはいえまいか。
ある日突然、銀行口座も電話もカードもすべて解約放棄し、住民票を離脱し、見知らぬ土地に越してしまえば、追跡は実際上は少し困難である。自由主義を標榜するのであれば、行方知れずになる自由も、どこかに少しあってもいいのではないか?くらいに思うのである。制度とはすべて、便利な反面、弊害もあることは、忘れてはならないだろう。
落款印01

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