衛恒「四体筆勢」について

...........2月、3月は多忙で、しばらく間が空いてしまいました。当面の目標として、西晋時代の衛恒の書論である「四体筆勢」を読解してゆこうと思います。今回はその前書きのようなものを以下に。


 
三国時代も末期、魏に衛瓘(えいかん 220-291年)という武将がいた。父親は魏の尚書衛覬(えいき)である。衛瓘は263年、蜀漢の征伐に軍監として従軍する。まず遠征中に独断専行が目立つようになった艾を、鐘会の命令でとらえることに成功する。
鐘会は劉禅を降伏させ蜀漢を滅ぼすが、そのまま成都にとどまって魏への謀叛自立をはかる。このとき衛瓘は偽の詔勅を作成して諸将に鐘会を討つように説得し、諸軍を率いて鐘会を破ることに成功する。
艾、鐘会ともに魏末期の名将である。蜀漢を滅ぼしたのは鐘会であるが、魏王朝から見れば蜀漢併合の実質的な最高功労者は、謀叛した鐘会を討った衛瓘である。艾・鐘会という知将をともに降した衛瓘も、また名将と言ってよいだろう。
やがて魏がほろんで晋が建国されると、衛瓘は晋(西晋)に仕える。しかし司馬氏の骨肉の政争に巻き込まれ、衛瓘は子の衛恒とともに殺されている。

衛瓘は索靖とともに張芝に書を学んだ。「晋書・衛瓘傳」には

二人草書同師法於張伯英(張芝)。大家認為衛瓘書法得到張伯英的筋、索靖得張伯英的肉。衛瓘自稱“我得伯英之筋、(衛)恒得其骨,(索)靖得其肉。

(衛瓘と索靖の)二人は張芝を師として草書を学び、皆は衛瓘(の書法)が張芝の書法の筋を、また索靖は肉を得ていると認めた。衛瓘が自ら言うには、”私は張芝の筋を得、(息子の)衛恒はその骨を得、索靖はその肉を得た”

とある。このように息子の衛恒もまた書法に優れ、唐代に編纂された「晋書」に別傳を立てられている。また書法を論じた「四体筆勢」が衛恒の傳に収録されている。
この「四体筆勢」は、まとまった書論としては最古のものであり、書法史上重要な資料なのであるが、省みられることが少ないように思っている。

ちなみに「蘭亭序」が書かれた東晋の「永和九年」は353年である。衛恒の生年は未詳であるが、衛瓘・衛恒が殺されたのが291年である。衛瓘がこのとき71歳だとすると、息子の衛恒は没時40代〜50代というところだろう。ゆえに「四体筆勢」が書かれた時代から「永和九年」まで、60年〜90年の時代の開きがあるとみていいだろう。
「四体筆勢」が「晋書」に収録されたのは、その内容と文章が優れているからであろうことは、読解を進めているとわかってくる。衛瓘、衛恒ともに卓越した教養の持ち主であったことがうかがえる。

結論をひとつ言えば、「四体筆勢」論じられている書体の中に、今日的な意味での楷書や行書は含まれていない、ということがある。古代の文字から論じて、隸書に至り、隸書の捷(はやがき)としての草書で結ばれている。
もし、蘭亭序の摸本や、集字聖教序ないし興福寺断碑にみられるような楷書に準ずる書体が「永和九年」に存在したとすると、それは一世紀に満たない間に起きた書体の変化ということになる。その可能性はさておくとしても、すくなくとも衛瓘の父親の世代である、三国時代の鐘繇の小楷作品などは、すべて後世の偽作であるということが史料の面からも言えるのである。

”蘭亭序”を筆頭に、王羲之・王献之が書いたとされる筆跡が後世に与えた影響は非常に大きく、唐代以降の筆書は、大なり小なりその影響の下にあると言っていいだろう。のみならず、筆書の歴史を考えるにあたっても、虚像であろう”書聖・王羲之”の存在のために、多くの矛盾が解消しないままなのである。

西晋から王羲之の生きた東晋の時代に至るまでの筆書が、実際にどのような姿であったのか?という点については、非常に限定的な史料しか残されていない。漢碑に始まる碑帖については、刻石の姿で傳存するものも認められる。しかしそこに刻まれているのは、当時のフォーマルな書体であるところの隸書、八分書、あるいは篆書体に限られている。
木簡や紙の上で発展したであろう筆記書体である草書については、史書に残るほどの著名な書法家の筆跡は現存するものが絶無である。地方の官吏によって書かれた行政文書などの木簡の出土例があるのみで、それらから衛瓘から王羲之に至るまでの、”名流”の書法を推察するのは難しい。

ともあれ「四体筆勢」は、西晋時代までの筆書の歴史を総括しており、当時どのような書体が認められていたか?という事実が整理されている重要な資料であるといえる。
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「祭姪文稿」見逃し残念記

........話題の顔真卿祭姪文稿、残念ながら2月は多忙で東京まで観に行く機会がとれなかった。その腹いせ、という意味では全くないが、祭姪文稿他、顔真卿の”三稿”の真実性には前から疑問があった。残念記念で少しその事を以下に。観に行かれた方には、あるいは水を差しかねまじき内容もあるかもしれないので、その点はお含みおきいただきたい。

個人的には、あの安禄山との激しい戦乱の最中、顔真卿ほどの能筆家が自己の感情もあらわに筆跡が乱れた(と言われている)草稿を残していただろうか?という疑問がある。また続く内戦と唐末の大乱の最中、石碑ですら原刻が喪われたもの数多という中、紙片が残るものだろうか?という点も。さらには1000年以上後まで伝存するような精良な紙を、草稿に使用するだろうか?という疑問がわくところである。
事実、現在知られる唐代の楷書の碑帖も原刻はすでに喪われているものが多い。また拓本も宋代より以前にさかのぼれない、というものが非常に多い。
唐代の筆書が実際どのようなものであったか?という点については、巷間言われているほどにはわかっていないことがまだまだ多いと考えている。ある意味、確実な史料がほとんどない王羲之の時代よりも、なまじ唐代の書と言われるものが多いため、かえってつかみにくいところがある、といえるのではないだろうか。

顔真卿はそれまで主流であった「二王」こと、王羲之と王献之の書風を超克するというところに問題意識があり、それを成し遂げたと通俗的書法史では評価されている。王羲之を越えないまでも、書の変革者であると。

これも私見で恐縮であるが、東晋の名門貴族として実在したであろう王羲之が、”書聖”であったというのは唐の太宗時代に創られた完全な虚像、と考えている。ゆえに現在みられる”蘭亭序”をはじめとする王羲之、王献之の書は、すべて隋唐から北宋にかけて創作されたものだろう、と。
それはごく少数の東晋時代の碑文や、先立つ漢代における隷書体の碑文をつぶさに検討すれば理解することは容易である。たとえば蘭亭序のような楷書を崩した行書体が、四世紀に存在したか?という問題である。さらに完成された楷書を崩した「蘭亭序」にみられる”行書”しかり、また草書の尺牘の類についても同じことが言えるのである。

顔真卿は四十四歳の作と言われる多宝塔碑で、北魏以来の楷書を集大成した、雄渾かつ端正な楷書体に到達しているとされる。しかしその後に書風を一変し、顔勤礼碑や顔氏家廟碑、麻姑仙壇記で”顔体”と称される独自の書風を確立している。これらをもって、王羲之以来の流麗な書風を革新したと、一般的には言われているのである。とはいえ王羲之の時代には完成した楷書体は存在しなかった。鐘繇や王羲之の小楷は、実際は北宋に入ってからの偽作と認められて久しい。

今日言う”楷書体”というのは、漢民族からみれば異民族王朝である北魏において大略完成した書体である。しかしそれは紙の上に毛筆で書かれた筆書として発展した書体ではなく、刻石の上で展開し、整理されていった書体であろうと考えられる。
北魏に先立つ漢代の碑、いわゆる漢碑における隷書体は、毛筆で書かれたであろう筆書の原型をかなり忠実に石に刻んでいる。それは毛筆書体のもつ美への深い理解と、それを後世に伝えんとする意識に支えられたものであると考えられる。
それが漢、西晋と時代を経て、北方に異民族王朝の北魏が成立すると、様相が大きく変化してゆく。おそらくは前後漢で成立した毛筆書の文化に疎い人々の手によって刻まれた刻字は、元の筆書を忠実にたどったものではなかったと考えられる。刻石の刀法の影響で筆書の曲線が直線に矯められ、隸書特有の右へ長い波磔が短縮される、という変化があったことだろう。
すなわち書がしるされる媒体の物性によって、書体が変化してゆくのである。たとえば木版印刷の上で彫りやすいように筆画が変化していった、活字書体である宋朝体、明朝体がある。また楷書体と同じく刻石の上で成立した、英数字のローマン書体と比較して理解されるところであろう。骨片に刻まれた甲骨文や青銅器上の篆文なども、書かれた媒体の性質を考えることで、書体の発展の必然性を説明することが可能である。
このような、文字を書く道具と材料の変遷が書体に影響を与える、といよりほとんど書体を決定してきた、という考え方は、西洋におけるアルファベットの書体の変遷の説明ではごく普通の見方である。しかし通俗的書法史によれば、すべて現代と同じような毛筆でもって紙の上で変化してきたかのようなとらえ方が主流になるところに、錯覚や誤解がみられる。これが東洋における書の歴史がそのまま能書家の列伝であり、あたかも英雄伝説のようなストーリーから脱し得ない原因ではないかと考えている。

漢代の竹簡や木簡の上で発展した隷書体は、一辺の木簡に一行が原則の書体として、より多くの文字を書き入れるために扁平になって行った。また可読性を高めるために、波磔が強調されるようになる。

文字を刻んだ石碑の製作が流行するのは漢代に入ってからである。それは硬い石に彫刻を施すのに適した、焼きを入れた鋭利な鉄器の精錬が可能になったからであると考えられる。その技術は、刻石の文化と同時に、西方から伝播したであろう。漢代は、それまで青銅器を主流とした戦国春秋〜秦時代から、鉄器の文化へと移行した時代でもあった。
摩擦に弱い青銅の刀では、硬質な石材に緻密な線を彫り上げることは難しい。春秋戦国時代にみられる画像石のような、ごく柔らかい石におおらかに図像を彫り上げるのが限界であろう。また硬い石でなければ、そもそも繊細な線を彫れないのである。ごく硬い石に精緻な文字が刻まれるようになるのは、道具の進化と無縁ではない。

文字が刻石上に多く刻まれるようになると、縦横の方眼の方が見た目には整然としている。さらには縦方向に文字を目で追う上で、隸書のような横広がりの文字よりは、正方、ないしやや縦長に構成されていた方が視線を移動して読みやすい。さらに漢字という文字の構造上、筆画の外側は直線的に彫りやすい。しかし内側の点画はやや慎重に彫らないと、内包された点画など、文字の構造を壊してしまう。こうして、顔真卿以前の楷書は、歐陽詢に代表されるように、いわゆる”外方内円”の字形をとるようになったと考えられる。

また刻石上の下書きは、多くは石の上に直接書かれたであろう。総じて字形が大きな魏碑の文字は、円錐状の筆ではなく、平たい刷毛のような筆で書かれたと考えられる。刷毛であれば、毛筆書の心得の薄い者でも、比較的容易に、縦横に整った線をえがくことが可能なのである。

ところで四世紀の東晋時代〜南朝宋時代までの、南方の碑文や墓誌の類というのは現存するものが非常に少ない。しかしはじめから無かったわけではなく、後世になって破壊されたり建材にされたり、新たな墓誌や碑帖の材料として刻面が削り取られてしまったからと考えられる。それは北朝に南朝が征服されてゆく過程での、意図的な破壊もあったと思われる。
五世紀の南方の筆書を伝える数少ない碑の一例を挙げれば、420年に東晋がほろんで後の南朝劉宋の時代、458年に造られた「爨龍顏碑」がある。これは清朝の乾隆年間に雲南省で発見されている。これは地元豪族の墓誌であるが、雲南省のような僻地であったからこそ、奇跡的に破壊を免れたのだろう。ゆえに南朝の支配地域において、墓誌を刻む習慣がなかったとは言えないのである。東晋〜南朝時代の南方の碑帖が異様に少ないのは、やはり北朝の征服過程と統治下で、相当な破壊があった事がうかがえるのである。
この碑の書体を見る限りでは、現代のゴチック体を思わせるところがあり、唐代の洗練された楷書にはまだ相当な距離がある。5世紀の時点では依然として、唐代の整理された楷書体への発展過程にあったのではないか。

北魏を中心とする北朝で楷書体が発展を遂げていた同じ時期、南朝では隸書の早書きである草書体が洗練の度を増していた、と考えられる。それは会稽を中心とした製紙業の隆盛が背景にあり、また筆や墨の質の向上も貢献していたであろう。草書の連綿の発展は、精良な紙と筆墨なしには到達できないものである。
ゆえに南朝貴族の自国文化に対する矜持は、草書の美に拠るところが大きい、と考えてよいだろう。それは平安朝における仮名の発達と対比して理解しても良い。
草書のような筆記書体は平安朝における仮名と同じく、書き手の個性を表現する事が可能であり、むしろ積極的に表現を試みたであろう。同時に、名手の筆跡の模倣も盛んにおこなわれるのである。
対して北朝の、いわゆる魏碑を中心とする碑帖群は、作者がほとんど分かっていない。北方騎馬民族を継承する異民族王朝であり、政権における軍事色の強い北朝にあっては、文字はあくまで通信や広報手段の道具である。そこに書き手の個性を表現する必要性は、おそらく認められなかったのであろう。

隋の楊氏も唐代の李氏も、もとは鮮卑族をルーツに持つ武川鎮軍閥の出身である。一方で、唐の太宗のブレーンの多くは漢王朝以来の南朝貴族たちある。虞世南、歐陽詢、褚遂良たちは互いに師弟関係にあり、その祖に王羲之の後衛と言われる智永がいたとされる。
彼等”唐の三大家”は、北朝で完成された楷書体(とおそらくは異字の統一など)が採用されることに、積極的に関与している。そこには隋唐王朝の成立と同時期に、楷書体が公文書における制式な書として定められたのであれば、その模範となる書体は、ぜひとも南朝文化の継承者の手によって、完成されなければならないという、ある種の危機感のようなものがあったのではないだろうか。
それと同時に、南朝文化を継承する運動として、おそらくは”書聖王羲之”を創造したのではないか?と考えられるのである。

書体の変遷に当時の政局が影響していることは、近代史における簡体字の採用、また文化大革命における独特なプロパガンダ書体などにも類例を見ることが出来るものであり、別段特殊な事ではない。

ゆえに楷書体はすでに王羲之の時代に完成していた、という物語の中に”蘭亭序伝説”を位置づけることで(楷書がなければ行書も生まれないので)、文化面での南朝の優越性を太宗以下の北方出身の貴族たちに認めさせたか、あるいは信じさせた可能性がある。あるいは太宗も南北融和のために積極的に王羲之を賞賛した、という事もありうるだろう。
智永は楷書と草書を併記した”真草千字文”を八百本も書き、寺寺に配ったといわれている。またその一本が日本に伝存していると考えられている。その真偽はさておくとしても、何故智永が数多くの真草千字文を書き、配布したか?という故事の謎がある。これも北朝の刻石文化と、南朝の豊富な紙の生産の上に洗練された草書体文化の融合、という文脈で説明できるのではないだろうか。あるいは歐陽詢等よりやや後代の、孫過庭の「書譜」における草書の美と、書論の内容についても、やはり南朝貴族文化の系譜の上で理解しなければならないのではないだろうか。

そこで顔真卿に話を戻すと、多宝塔碑以降に顔真卿が目指したのは、結論的にはおそらく漢代の筆書への回帰であったのではないか?
それは北魏以来の刻石における(おそらくは石刻職人の技量や筆書への理解の不足に基づく)直線的な楷書体から、漢碑の隸書体における曲線的な筆線や波磔への回帰ではなかったのかと。また”ネズミのしっぽ”とも呼ばれる、(おそらくは褚遂良を継承した)顔真卿の楷書体における独特な波磔や、外円内方の、まる味を帯びた筆画にあるのではないかと。そう考えたくなるのである。
ゆえに二王以来の流麗優美な書風に対抗し、雄渾な書風と確立した、というのはまったく後世のこじつけであり(そもそも王羲之の時代に完成された楷書体は認めがたいのだから)、むしろ顔真卿の意識は、北魏以来の北方異民族政権による中原文化への圧迫に対する、ある種の抵抗の感情があったのではないか。

唐代にいたり、碑帖における毛筆書体の再現性は、再び漢代における漢碑のごとく、精緻な技術を回復する。毛筆書特有の線の肥痩までもが忠実に刻まれるところには、碑帖の製作者と注文主が、筆書に深い理解を持たなければならない。
顔真卿の後期の楷書作品にみられる、"ねずみのしっぽ”とも呼ばれる特徴的な右の波磔は、それが毛筆による筆書であることを強調しているように見える。この点、おそらくは平たい刷毛のような筆で書かれたであろう、北魏の碑帖とは文字通り一線を画すことを宣言しているかのようである。

顔真卿は虞世南や歐陽詢、褚遂良といった南方貴族の出身ではなく、山東省に本貫をもち、魯の国の孔子の高弟、顔回の末裔と称する一族の出身である。山東には漢代以来の刻石刻碑の類が現在も多く残っている。はじめ褚遂良以来の唐楷を極めた顔真卿も、やがて故郷に残る漢碑の隸書や八分書の影響を受け、その味わいを唐楷に取り入れようとしたのではないか?というのが、ごく個人的な理解なのである。唐朝への忠誠心を後世称えられる顔真卿であるが、文化面ではまた別の感情があった事と察せられるのである。

顔真卿の草稿については、俗にいう”三稿”があり、そのうちの「争座位帖」については、北宋の米芾が”見た”と書いている。それ以前に記録文献には見られない。唐末から五代の動乱のすさまじさは、あまたの文物の亡失が想像されるのだが、文献資料すらほとんど残っていない事実からも、その損失の程が察せられるのである。
総じて、記録が残っているが実物は残っていない例はあるものだが、古い記録が無くて実物のみが残っている、というのはなかなかあり得難いところである。北宋の米芾からさかのぼること、唐代は二百五十年以上前の時代。今でいえば2000年代の人が乾隆年間の書を見たような、そういう時間の経過が横たわっていることは、意識しなくてはならないだろう。
実のところ顔真卿の書風は時代によって毀誉褒貶を繰り返してきているのであるが、まず北宋において再評価の時期を迎えている。北宋は毛筆書の即興性、いわゆる”卒意”が重視された時代である。そうした北宋人の美意識の下で顔真卿が評価されたところに、”三稿”の位置づけを考えてみてもよいだろう。それは唐代初期において、”卒意”の書とされる”蘭亭序”が創作され、称揚された経緯も参考になるのではないだろうか。
蘭亭序の真偽に象徴される”書聖王羲之”の実在性と併せて、唐代の筆書文化の全体像についても、再考の必要があるのではないだろうか。
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読 蘇軾「范増論」


蘇軾に、范増を論じた「范増論」がある。以前に張良を論じた「留侯論」を紹介したが、この「范増論」も蘇軾の興味深い視点がうかがえる史論である。”蘇子曰く”と、書き出しに自己問答の体裁をとっている。文中の”義帝”は、范増が項羽の叔父の項梁に勧めて擁立した、楚の懐王の孫(一説に曾孫)の心(しん)であるが、当初は懐王を名乗らせた。秦で幽閉の後に死んだ懐王の再来としたのである。鴻門の会の後に項羽が論功行賞を行う際、その名義を立てるにあたって”義帝”に尊称を引き上げた。しかし蘇軾の文中ではすべて義帝で通している。

以下に大意を示したい。

(一)

漢用陳平計、間疏楚君臣、項羽疑範瘍亟鼠私、稍奪其權。畭臈樂、”天下事大定矣、君王自為之、願賜骸骨、歸卒伍。”未至彭城、疽發背、死。

漢は陳平(ちんぺい)の計を用い、楚の君臣(くんしん)を間疏(かんそ)す。項羽、范瓠覆呂鵑召Α砲魎繊覆ん)と私(わたくし)ありと疑い、稍(しばら)く其の権(けん)を奪う。瓠覆召Α紡隋覆お)いに怒りて曰く”天下の事は大いに定まるかな、君王(くんおう)自(みず)ら之(こ)を為(な)せ、願くば骸骨を賜わり、卒伍(そつご)に帰せん。”未だ彭城(ほうじょう)に至らずに、背に疽(そ)を発し、死す。

漢(の高祖)は(謀臣)陳平の計(略)を用い、楚の君臣の離間をはかった。項羽は范増が漢と内通していると疑い、しばらくその(軍における)権限を剥奪した。范増は(疑われたことを)非常に怒って言った「天下取りの計画はおおよそ定まりました。我が君はご自分でそれを実行してください。わたしくは骸骨を賜(たまわ)り(謀臣を引退して)、(彭城を守る)一兵卒(あるいは庶民)に落としていただきたい。」そして彭城にたどり着く前に、背中に壊疽を起こして死んだ。

(二)

蘇子曰:”畴卦遏∩奄磧I垉遏羽必殺瓠獨恨其不早爾。”然則當以何事去。痃葦殺沛公、羽不聽、終以此失天下、當於是去耶。曰、”否。畴畦濟沛公、人臣之分也。羽之不殺、猶有君人之度也。痙為以此去哉。『易』曰、‘知幾其神乎’『詩』曰、‘如彼雨雪、先集為霰。’畴卦遏≡脹羽殺卿子冠軍時也。”

蘇子(そし)曰く”瓩竜遒襦∩韻かな。去らざれば、羽は必ず瓩鮖Δ后獨り其の不早(はやからず)を恨むのみ爾。”然則(しからば)當(まさ)に何事を以て去らん。
瓩榔に沛公を殺すを勧める、羽は聽かず、終に此を以て天下を失う、當(まさ)に是に於いて去らん耶(や)。曰く”否。瓩塁鏝を殺すを欲するは、人臣の分なり。羽の殺さざるは、猶ほ君人の度(ど)有るなり。瓩麟為(なんすれぞ)以此去哉。『易』に曰く‘知幾其神乎’『詩』に曰く‘彼の雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。’瓩竜遒襪蓮≡弔鳳の卿子冠軍を殺す時に於いてなり。”

(わたくし)蘇軾は言う「范増が去ったのは(范増自身にとって)良いことである。去らなければ必ず項羽は范増を殺したであろう。ただ(范増が項羽の下を去るのことが)遅かったことが残念である。」と。そうであるなら、では(范増は)どのような事があったときに、(項羽の下を)去るべきであったのか。
范増は(鴻門の会において)項羽に沛公(劉邦)を殺すことを勧めたが、項羽は聞き入れなかった。(劉邦を生かしておいたという)この出来事をもって最終的に天下を失うにいたるのであるから、まさにこの時(失望して項羽の下を)去るべきであったのだろうか?(わたくし蘇軾が心中おもうに)「否(いな)。范増が沛公を殺したがったのは、(このときは項羽に対する)臣下の本分をつくしたからである。項羽が(沛公=高祖を)殺さなかったのは、まだ君主としての度量があったのである。(君臣の本分がおのおの機能しているのであるから)范増はどうしてこのタイミングで去らなければならないのだろうか。」
易経にいう、”幾(き)を知るは其(そ)れ神や”(わずかな予兆を見て、その先の出来事を予見する)、あるいは詩経にいう「雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。」(物事は、雨や雪のように、まずあつまってから拡散するのである。)
(本来)范増が去るべき(時)は、項羽が卿子冠軍(宋義)を殺した時なのであった。


 
(三)

陳涉之得民也、以項燕。項氏之興也、以立楚懷王孫心。而諸侯之叛之也、以弒義帝。且義帝之立、甍挧甜艪磧5祖詛径庫粥豈獨為楚之盛衰、亦畴圭裹估渦卻〔蕁Lね義帝亡而痼彷週彗玄毀蕁

陳涉は項燕を以て民を得る。項氏の興(おこ)るは、楚の懷王の孫の心を立たせるを以てなり。而(しこう)して諸侯の叛(そむ)くは、義帝を弑(ころす)を以てなり。且(か)つ義帝の立つは、瓩遼邸覆呂りごと)を主に為す。義帝の存亡、豈(あ)に獨り楚の盛衰(せいすい)を為さん、亦た瓩硫卻,鯑韻犬紊Δ垢襪箸海蹐覆蝓5祖襪遼瓦咾凸い煎瓩類廚蠻修久しく存(ぞんす)る者にあらざるなり。

(そもそも)陳涉(ちんしょう)が(楚の)民心を得たのは、(かつて秦軍に抗戦して敗死した、楚の名将)項燕(こうえん)を名乗ったからなのだ。項氏が(反秦勢力の筆頭に)勃興したのは、(范増のすすめを項梁が採用して)楚の懐王の孫にあたる心(しん)を(楚の懐王、のちに義帝として)擁立したからである。しかしながら諸侯が(項羽に)反逆したのは、(項梁が擁立した)義帝を弑逆したからなのである。
(そもそも)義帝を擁立したのは、范増がその計画の中心にあった。義帝の存亡は、ただ(項羽の)楚の盛衰を決定しただけではなく、また范増の禍福の行く末と同じ意味をもっていたのである。義帝が殺されたというのに、(義帝を擁立した)范増が、長いこと無事でいられる道理など、絶対にないのである。

(四)

羽之殺卿子冠軍也、是弒義帝之兆也。其弒義帝、則疑畴桂槎蕁豈必待陳平哉。物必先腐也、而後蟲生之。人必先疑也、而後讒入之。陳平雖智、安能間無疑之主哉。

羽の卿子冠軍を殺すや、是れ義帝を殺す兆(きざ)しなり。其の義帝を殺す、則ち瓩遼棔覆發函砲魑燭μ蕁豈(あ)に必しも陳平を待たんや哉。物は必ず先ず腐る也、而後に之に蟲を生ずる。人は必ず先まず疑い也、而後讒入之。陳平、智と雖(いえど)も、安んぞ能く無疑之主を間(さか)んかな。

項羽が(懐王が総大将に任命した宋義こと)卿子冠軍を殺したのは、これは義帝を弑逆する前兆であった。項羽が義帝を殺すのは、范増の本分が(義帝と項羽の)どちらに向いているかを疑ったからでもあった。どうして必ずしも陳平(の離間工作の実行を)待つ必要があったであろうか。物は必ず、まず腐ってから、しかるのちに蟲がわくのである。(同じように)人はかならずまず(その人物を)疑い、しかるのちに(その人物への他者の)讒言(ざんげん)を信じるのである。陳平が知恵者であるといっても、どうして(讒言を言わせて)信頼関係のかたい君臣(の間)をさくことができるであろうか(それ以前から、項羽が范増に多かれ少なかれ、疑惑を抱いていたのである)

(五)

吾嘗論義帝、天下之賢主也。獨遣沛公入關、而不遣項羽。識卿子冠軍於稠人之中、而擢為上將、不賢而能如是乎。羽既矯殺卿子冠軍、義帝必不能堪、非羽弒帝、則帝殺羽、不待智者而後知也。

吾(わ)れ嘗つて義帝を論じるに、天下の賢主(けんしゅ)なり。獨り沛公を遣り關に入らしめ、而して項羽を遣らず。卿子冠軍を稠人(ちゅうじん)の中に識り、擢(あ)げて上將と為す、賢ならざれば而能く如是乎。羽の既に矯(きょう)して卿子冠軍を殺すは、義帝は必ず堪うる能わず、羽の帝を弑(ころ)すに非(あら)ざれば、則ち帝は羽を殺す、智者を待たずして後に知らんや。

私はかつて義帝について評論してみるに、天下(に恥じないだけ)の賢明な君主といえると(考えた)。(なぜなら)ただ(穏健な)沛公のみに(秦の首都の咸陽のある)函谷関を越えさせ、(危険な)項羽を(その方面に)派遣しなかった(項羽を差し置いて、劉邦に功績を立てさせ、野心家の項羽を牽制しようとしたのである。)。卿子冠軍(こと宋義)を多くの人の中から(能力ありと)抜粋し、抗秦諸軍の総大将に任命した。これは賢明でなければどうしてなしえたことだろうか。項羽が矯激(きょうげき)に走って卿子冠軍を殺害し(軍権を奪っ)たのは、(宋義を総大将に任命した)義帝はかならず(内心)これに耐え難い思いをしたはずである。(もし後になって)項羽が義帝を殺さなければ、すなわち義帝が項羽を殺していたことくらいは、知恵者ではなくてもあたりまえにわかることである。

(六)

畛碗姐猯体義帝、諸侯以此服從。中道而弒之、非畴薫嫐蕁I恁園徃鸞彊奸將必力爭而不聽也。不用其言、而殺其所立、羽之疑疉自此始矣。

瓩六呂痃阿瓩胴猯造傍祖襪鯲たしめる、諸侯は此を以て服從す。道に中(あた)りて之を弑(ころ)す、瓩琉佞鉾鵑兇襪覆蝓I廚跛院覆◆砲摩廚蠡兇琉佞鉾鵑兇譴弌將に必ず力爭(りきそう)して聽(き)かず也。其の言(げん)を用いず、而して其の所立てるところを殺す、羽の瓩魑燭Δ鷲ず此(ここ)自(よ)り始まるかな矣。

范増は始めは項梁に勧めて義帝(当時懐王)を擁立させたが、諸侯はこの行いを見て(項梁個人に野心はなく、秦に滅ぼされた楚や列国の再興を目指すのであるという大義を信じ、また抗秦の名将項燕と、楚国最後の王の懐王を思い出し、心をまず懐王として立てた項梁を盟主として)服従した。その(楚国再興の)途中で義帝を弑逆したのは、(この計画を発案した)范増の意思ではなかった(はずである)。(この重大事が)范増の考えでないとすれば、(范増は事前に)かならず項羽に強く諫めたうえで聞き入れられていないのである。(すなわち)范増の意見を用いず、范増が擁立した義帝を殺したのである。項羽の范増を疑いはじめるのは、かならずこの(卿子冠軍と義帝を殺した)ことから始まっているのである。

(七)

方羽殺卿子冠軍、瘍弍比肩而事義帝、君臣之分未定也。為畄彈圈⇔惑暑榔則誅之、不能則去之、豈不毅然大丈夫也哉。畴七十、合則留、不合即去、不以此時明去就之分、而欲依羽以成功名、陋矣雖然、瓠高帝之所畏也。疉垉遏項羽不亡。亦人傑也哉

方(まさ)に羽の卿子冠軍を殺すや、瓩榔と比肩(ひけん)し義帝に事し、君臣(くんしん)の分は未(いま)だ定(さだ)まらざるなり。瓩侶彈圓飽戞覆え)て、力めて能く羽を誅(ちゅう)すれば則ち之を誅し、能(あた)わざれば則ち之を去る、豈(あ)に毅然たらざる大丈夫にあらざりしかな。瓩稜七十、合すれば則ち留(とど)まる、合せざれば即ち去る、此の時を以て明(めい)に去らずして之の分に就き、而して羽に依りて以って功名を成すを欲す、陋(おろか)かな。雖然(しかれども)、瓩痢高帝(こうてい)之を畏(おそれ)るところなり。甬遒蕕兇譴弌項羽はほろびず。亦(ま)た人傑(じんけつ)なるかな。

まさに項羽が卿子冠軍を殺したときは、范増は項羽と(同僚として)肩を並べて義帝に仕えていたのであり、(項羽と范増の間に)君主と臣下の関係はまだ定まっていなかったのである。范増は(義帝に対する忠誠の上からいえば、総大将を殺害した)項羽を誅殺しうるのであれば項羽を誅殺し、それが出来ないのであれば(楚軍を)去る、それであってこそ毅然たる士大夫だったといえるのである。范増は歳も七十を越えたのであれば、(楚の王室を再興しようという志に)合致していればそこにとどまり、合致していなければ去る(べきところを)、この時にいさぎよく去らず、項羽によって自身の功名を成し遂げることを欲したというのは、おろかなことではないだろうか(名を惜しむべきであった。)しかしそうであるとはいっても、范増は漢の高祖が畏れはばかった人物であり、范増が項羽の下を立ち去らなければ、項羽も滅びることはないだろう(と高祖は考えたほどである)。また(范増も)傑物であるとはいえるのである。


 
(後記)

項羽の軍師として名高い范増であるが、歴史に登場したのは、項羽の叔父の項梁に楚の懐王の孫である(熊)心を楚王として擁立するべき、と説いたところに始まる。
項梁は楚における抗秦の最後の名将、項燕の末子であるといわれる。秦に最後まで抵抗したのが南方の大国、楚であった。楚の総大将の項燕は、李信に大勝するも、王翦率いる秦軍六十万の前に大敗する。なおも項燕は楚の王族の昌平君を立て、抵抗をつづけたが、王翦、蒙武に追撃され敗死している。項燕の生死の定かではないという民間伝承を陳涉が利用し、はじめ陳涉は項梁を偽称して民心を得たのである。
項燕の末子の項梁は、項燕と同じく楚の王族を立てて秦軍に向かうべき、というのが范増の計画であった。項燕を詐称した陳涉は、のちに王を自称したとしても所詮は私兵集団の域を出ず、国家としての体を為していない、ということでもあった。楚王を立てることで、人々に項燕の再来を想起させ、また項梁の個人的野心ではなく、亡国の再興という”大義”を旗印にしたのである。その言をいれて、項梁は心を楚の懐王として建てた。懐王は秦に幽閉の後に死去しているが、陳涉が項燕を名乗った如く、反秦勢力の旗頭として、秦を恨んで死んだ、懐王の再来を名乗らせたのである。
項梁存命時の范増の立ち位置は微妙である。項梁は最高実力者であるといっても、大義名分上としては義帝に従属する存在である。その義帝を立てよと勧めたのが范増であるとすれば、義帝から見れば范増は羊を放牧して世を送っていた自分を引き上げてくれた恩人でもある。項梁にそうするように勧めた范増は、立場上は項梁に次ぐ存在であったと言えるだろう。
当時はまだ懐王であった義帝にしてみれば、代々楚の将軍の家柄であった項氏の軍は、その実際の戦闘力の高さから見ても別格の、親衛隊のような存在であったであろう。宋義にとっても、最強の予備軍を手元に置いておくのは、別段不思議な事ではない。
寄せ集めのような劉邦の軍を咸陽に向かわせたのは、劉邦に手柄を立てさせるというよりも、仮に途中で劉邦軍が壊滅したとしても、項羽の一軍があれば十分に秦軍と渡り合えると踏んだからではないだろうか。それは後に項羽によって証明されている。
項羽は兵が雨に濡れ、飢えていたことを見かねて宋義を斬ったという。これは軍を停滞させていたから兵が飢えたのではなく、兵が飢えたから停滞した、という事も考えられる。
この時代の軍の行動は補給は現地調達に頼りきりで、停滞していると周辺に食料が無くなるので軍を移動した、というように書く人もいる。むろん、現地調達もある規模で実施したかもしれないが、根拠地からの組織的な補給無しには、さほど人口が稠密ではない当時の大陸で、大軍を移動させるのは不可能である。多くは水運に拠ったであろう。この時代の大規模な会戦は、河川の付近で行われている。事実、項羽ですら、鉅鹿の戦いではまず秦軍の補給線を断つ行動に出ているのである。
宋義は軍を停滞させているうちに食料、補給物資を集積して力を蓄え、諸軍の包囲と劉邦の後方遮断によって、飢えた秦軍を討とうとしたのだろう。手元には項羽率いる精鋭も控えている。たしかに負け難い作戦であり、項梁の敗死を予見した宋義は、やはり凡庸ではないのである。

しかしここで項羽、である。項羽にしてみれば、項梁の敗死を予言した、卿子冠軍こと宋義を総大将にすることには、愉快であったはずがない。親代わりに育ててくれた叔父の項梁、のみならず項氏の武勇を否定されたようなものである。武門の誇りにこだわりぬいた項羽にしてみれば、これには非常な屈辱を感じていたことだろう。このことが、当時はまだ懐王であった義帝への疑念の元となっていることも、想像に難くない。
そしてその宋義の立てた作戦によって、みすみす手柄を奪われることは、項羽の性格からいっても到底我慢できることではなかったに違いない。宋義を斬り、手勢を率いて鉅鹿に向かわせたのは、かならずしも劉邦への対抗意識ばかりではなかったであろう。この時点で戦に弱い劉邦などは、項羽の意識の端にも上らぬ存在なのである。
宋義を斬る、という事について、項羽は范増に相談したであろうか?もし相談していたのであれば、蘇軾の述べる通り、范増はきっと強く項羽をとめたであろう。この時点では、蘇軾の言う通り、范増は項羽に完全に従属する関係ではなかったのである。范増にしてみれば、懐王を盟主として楚国の再興を目指すのが当初の計画であり、秦軍と戦って勝利するのは、かならずしも項羽である必要はないのである。
しかしいわば親衛隊長である項羽が、総大将の宋義を斬り、手勢を率いて秦軍に猛進を始め、これを打ち破ってしまうのである。

蘇軾は「宋義が殺されるのは、義帝が殺される前兆であり、義帝が殺されるのであれば、范増も無事では済まない」趣旨を述べている。
范増は義帝が殺害された翌年、韓王成の殺害(前205年)を進言している。韓王成は張良が初め項梁に進言して擁立した、韓の王族である。その前年に義帝は英布によって殺害されているが、義帝の殺害については范増の進言とは明記されていない。項羽が義帝を疎んじた、とあるが、韓王成の殺害に范増がかかわっているのであれば、その前年の義帝の殺害の相談に、范増が預かっていないということはないだろう。義帝の殺害を英布にやらせたのも、范増が義帝殺害には、少なくとも前向きではなかった傍証ともとれる。義帝の死により、范増の当初の楚国再興のプランは完全に瓦解するのである。翌年、張良によって擁立されていた韓王成を殺害するように進言したのは、あるいは毒食らわば皿まで、というところなのだろうか。たしかに、項梁によって擁立された義帝が項羽の手で殺された以上、張良によってやはり項梁に擁立されていた韓王成が残り、それを劉邦が支援しているとなると、名分の上で項羽の陣営は不利である。とはいえ、韓王成の殺害は、張良を完全に劉邦陣営に走らせ、また諸侯の反感を高めただけであった。

後に范増は項羽の下を去る時「骸骨を賜りたい」と言い、彭城に向かったという。”骸骨を賜わる”、あるいは”骸骨を乞う”というのは、引退して故郷に帰り、先祖の墓に骨を埋めたい、という意味であり、廷臣が引退を願うときの言葉である。なぜ楚軍の根拠地である彭城に向かったか?であるが、敵方へ走る気配が見えれば、項羽はきっと范増を殺したであろう。しかしその途上で范増は落命している。

蘇軾は、范増自らが立案し、懐王を立てたプランに忠実であれば、項羽が卿子冠軍こと宋義を殺害し、楚の軍権を奪った時点で、反逆者として項羽の誅殺を図るべきであった、と述べている。そして誅殺が不可能であれば、この時去るべきであった、と言っている。それはいずれ項羽が懐王を害し、自立することが予測出来ていたはずであるからだ、という事である。
ここで蘇軾は、范増に懐王への絶対的な忠誠心は期待していない。あくまで自らが推した懐王に忠実であれ、という事であれば、宋義が項羽に殺されたのちも、項羽から懐王こと義帝を守り抜くべきである、という結論に至らなければならないからである。蘇軾はそうは言っていない。宋義が殺した項羽を誅殺出来ないのであれば、所詮は義帝を守ることもかなわないのであり、范増も義帝とともに項羽に殺されるのが見えている。そうまでして懐王に従うべき、とは論じておらず、あくまで懐王を立てて行く、という自らのプランが崩れた段階で、去るべきであったと言っているのである。

項梁にとっても懐王は所詮は大義名分をたてるための、いわば傀儡に過ぎないのであるが、その名分を守り抜く事が、この際は重要なのである。それは春秋戦国時代のあまたの名将名臣にしても、簒奪を計れば非常な汚名を歴史に残すことになる。懐王(心)を楚の王として、後に皇帝として、自らが擁立した存在を殺害するというのは、天下の信を失いかねない行為なのであり、現実に項羽はこれを行った事で滅びるのである。范増はそれを阻止するべきであったにも関わらず、かえって弑逆者の項羽に従い、自らの功名を為そうとした。これは当初の自らのプランの正当性を否定する行為であり、単に状況に応じて身の振り方を転々とする世間師と、節義において大きな違いはない。策士であっても、志や節操は大事であろう、というのが蘇軾の価値観なのであろう。それはそうである違いない。謀略のみに頼って信がなければ、やはり国家は成り立たないのである。この点、老齢まで人に仕えたことが無かったという范増と、韓の宰相の家に生まれた張良の、違いと言えるのかもしれない。
しかし、あらゆる史論がそうであるように、過去の人物や事跡を後世の価値観をもって批評、論断するのは安易な行為である。ゆえに蘇軾は范増を高祖を恐れさせた”人傑”と評価し、范増が項羽の下を去らなければ、項羽も滅びることがなかっただろう、というように結んでいる。しかしこの点にしても、果たしてそうであろうか。

戦国春秋時代に、秦が六国を次々に征服することが出来たのは、函谷関以西の関中平野の肥沃と要害を生かしたからであった。西から東に流れる大小河川を利用し、東方の前線へ容易に補給物資を送り届けることが出来た、この利点は計り知れない。北を渭水、南を漢水に挟まれ、西辺を秦と接していた韓の国の宰相の家系に生まれた張良などは、そのことを痛感していたであろう。張良の持久戦略は、咸陽を首都とし、関中平野を掌握した時点で急速に完成に向かうのである。
項羽は鴻門の会の後、秦の首都であった咸陽を略奪するや、故郷に近い彭城に帰還してしまっている。咸陽に遷都するべきと進言した者がいたが、聞きいれず、その者を煮殺してしまうありさまであった。この時范増は、咸陽に留まるべきと進言したのであろうか。
史記では、劉邦を蜀に追いやり、函谷関以西の秦の故地である関中を三分割し、楚に降伏した章邯、司馬欣、董翳、の三将に統治させた計画は、范増の案という事になっている。そうとすれば、范増には、この秦発祥の肥沃な盆地の地政学的な重要性をあまり認識していなかったということである。
鉅鹿の戦いで降伏した秦兵二十万は項羽によって皆殺しにされたといわれ、秦軍を率いていた章邯等三将は秦の人の恨みを買っていたという。章邯以下の関中統治がうまくゆくはずがなく、また投降したばかりの秦の旧将を信用し過ぎでもある。仮に関中が離反しても、大きな問題ではない、と考えていたのだろうか。この点、范増の戦略には疑問が残る。

(秦軍二十万は、項羽は英布を派遣して穴埋めにして皆殺しにしたというが、これは事実であろうか?投降した秦軍二十万は楚軍より圧倒的に数が多かったというが、近代兵器もない時代、圧倒的少数側が多数側、それも屈強な兵士達を、短期間に虐殺する方法があれば知りたいものである。秦兵達は従順に殺されていったのであろうか?項羽は攻略した城の軍民をしばしば皆殺しにしたというが、これも漢軍の諜報作戦の一部だったというのが実情ではないだろうか。)

ともあれ戦略という面では、関中を手に入れ、そこを根拠地に持久戦を採った、張良を筆頭とする劉邦のブレーンの方がはるかに上手であった。春秋戦国時代においても、秦以外の国々にも多くの謀臣名将が現れたが、結局は地の利を占めた秦の前に屈服せざるをえなかった。漢楚の勝敗の趨勢は、かつて秦が富国強兵につとめ、東方の列強を次々に滅ぼしてゆく、その再現であったともいえるのである。
范増が進言し手を下した韓王成の殺害も、項羽への諸侯の反感を助長しただけである。七十歳になるまで人に任えず、奇策を好んで世を送っていた范増は、張良や陳平に比べると、人事にやや疎いところがあったのではないだろうか。項羽の下に范増が留まり続けたところで、勝敗の帰趨を変えることが出来たとは、やはり考え難いと思われるのである。
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窮屈さを増す大陸旅

昨年の10月末の事。深圳から香港に移動する際の羅湖の入管で、中国に渡航を始めて以来、実に初めて指紋をとられたのである。これは原則、入国する外国人全員に原則義務付けられるようになったようである。
その昔の1980年代、日本でも一部の外国人への、指紋押捺の義務に対する反対運動が巻き起こったことがあった。その運動の是非はともかく、たしかに指紋をとられるというのは、正直あまりいい気分ではない。
むろん、いまでは民間企業が提供するシステムにも、”指紋認証”が普及しているのであって、そのデータもどこでどう管理しているかはわからない。要は悪いことをしなければいい、悪いことをするつもりがないならいいではないか?というのも確かにその通りなのである。しかしそうはいっても、ある組織や権力機構に、自分の身体のプロファイルが採られてゆくという事に、心の奥底の不快感はぬぐえない。

そもそも”悪いこと”が、ルールに違反しない、という明確な定義づけがあるなら良いし、処罰についても客観的な証拠に基づいて審理するという過程を経るなら、まあ良いのである。しかし時に政権の”恣意”に拠ることがあるのなら、話は全く別である。
品物などから簡単に指紋をスキャンすることが出来るセンサーを使い、あらゆる場所から指紋を採取できるようになれば、その情報を使って行動をトレースすることも容易になるのである。防犯カメラの顔認識の技術とあわせて、現代では、いつどこで誰がだれと会っているのか?という事も、比較的簡単に割り出せるようになった、ということでもある。それは犯罪捜査や、犯罪を未然に防ぐことに使われるのは結構なことではあるが、それ以外の事には使用しないでほしいと、切に願うものである。

それとは別に、11月に上海に渡航した際。上海の浦東の入管での出来事。入国カードの記載内容についてとがめられたのである。大陸では入国、出国の際に黄色いカードの記載事項を記入するが、これとていままではいい加減なものであった。生年月日とパスポート番号、サインがあればそれでOK、のようなものである。パスポート番号を間違えていても通った、という話も聞く。
”入国カード”には、入国時と出国時では記入内容に違いがある。入国時にはやや事項が詳細にわたり、宿泊先などを書く欄がある。この箇所などは書くのが面倒なので、いつも斜め線を引くだけで”未定”のような体裁で出していた。これでなんの問題も無かったものである。
それが今回、入管の女性の審査官に「宿泊先はどこですか?」と聞かれたのである。実のところ、この時点で宿泊先は確定していなかった。そういう事はままあるもので、とりあえず上海について、その日の宿は適当に朋友に予約を入れてもらう、という事もあるのだ。「今は決まっていません。」と中国語でいうと、女性の審査員は冷たく「宿泊先を書かないといけません。」という。それが書けない場合は一体どうするのだ?という感じであるが「これから友達に会う。友達が手配してくれているが、今は知らない。」というと「友達に電話で聞けませんか?」という。あいにく、携帯電話が充電されていない。そもそも大陸を訪れる外国人の大半は、中国で通じる携帯電話など持っていないだろう。それも出来ないというと「友達の住所は?」と聞くので、思い出す限りで適当に書いてやったらやっと通ったのである。面倒になったものである。
今でもそうだが、入国ゲートに「〇〇先生」とか「Mr.〇〇」と書いたカードを持った迎えの人がいて、それからホテルに案内する場合もあるであろうし、そのホテル名を事前に知らない、などという他人任せな話もあるだろう。宿泊先が突然変更になることだってあるし、今回は上海のほかに揚州で一泊している。昔、旅行にもビザが必要だった時は、日程と宿泊先ホテルを詳細に申告しなければならない時代もあったものであるが、その時代に逆行してゆくのだろうか。
上海の浦東では、簡易なビジネスホテルに宿をとってもらったのであるが、ここでも何やら顔を認証すると思しき機械を使い、パスポートの顔写真と照会していたようである。おそらくこのシステムはオンラインでデータが集められ、いつどこのホテルに、何者が泊ったか、即座に情報が届く仕組みになっているのであろう。むろん、今までも、宿泊の際はパスポートを見せ、番号を控えるなどしている。それは公安に報告されるのであるが、紙ベースでの作業であり、おそらく後でまとめて報告していたのであろう。それが現在はチェックイン時に即座に、である。どうも情報がどこかに送られ、当局のOKが出て初めて宿泊が許される、ような雰囲気である。
しかしそう考えると、大陸で最近増えている民泊などは、依然として適当なものである。宿帳に姓名とパスポート番号を書いてオシマイ、という形態が一般的である。これなども、今後は厳しくなってゆくのかもしれない。

地下鉄に乗る際の荷物検査も、近頃ではちゃんと検査機に荷物を通さないと通してくれない。少し前などは、みんな無視して通っていたものである。それがきちんと荷物を通さないと通過できなくなっただけではなく、実際に中身を改められるようなことが数度あった。
たくさんの筆を持って乗ろうとしたときなどは、爆竹の束を持ち歩いているかと疑われたし、数個の硯を持ち歩いたときなどもバッグをあけられて「これは何ですか?」と聞かれたものである。何ですか?って硯ですよ、と言っても通じない人もいるのである。墨、についても同様な事があったが、これらはX線の検査機には固体の爆薬にでも見えるのだろうか。真鍮製の筆帽をたくさん持ち歩いたときは、弾丸かなにかと勘違いしたらしい。
空港のセキュリティであれば致し方ないとも割り切れる。高速鉄道の駅でも、致し方ないとは思う。しかし日常乗る地下鉄でこれをやられると、これはたいそう難儀な思いがする。昔に比べて交通の便が良くなったはずなのに、なぜだか移動のストレスが高くなっているようなのは、気のせいばかりなのだろうか。自動改札の存在を打ち消して余りある。それは煩わしさ、である。
上海の朋友に言わせれば「比較的安全な上海で警戒を厳しくする理由はなんだと思いますか?犯罪ではないですよね?テロを警戒してのことだと思います。」という。
もちろん、実際に地下鉄で有毒ガスを使ったテロを経験した国の人間からすれば、起こりえない事ではないというのもわかる。場合によっては、航空機のテロ以上の犠牲者が出かねないわけである。

大陸政府では、個人の行動履歴を蓄積するシステムを構築し、特定個人に法令違反などがあれば銀行口座を開設できない、また航空券や列車のチケットを買えなくなるなどの、行動の制限を設けようとしている。これを”档案”制度というが、この制度は今に始まったことではない。古くは王朝時代に起源がある。しかし王朝時代の”档案”は一定身分の者が対象として限られていたが、中華人民共和国成立後ほどなくして実施されたのは、すべての人民が登録される国民管理制度である。
しかし書類で管理されてきた牧歌的な”档案”の情報を、データ化してオンラインで照会できるとなると、全く違った威力をもつシステムになる。飛行機や列車での移動にも身分証が必要なのが大陸の旅であるが、IDと档案を紐づければ、問題のある人物への乗車券、搭乗券の発券を止めること事が出来る。それは移動の自由だけではなく、さまざまな行政サービス、銀行、あるいは就業などの、あらゆる生活面に影響を及ぼすことが、原則として可能になるのである。

こうした管理の強化は、人民の総意を経たものではむろんないし、人々が反対か賛成かにかかわらず、政府の意思によってどんどんと進行してしまうのが、かの国の体制が民主国家ではない所以でもある。
このような国民総管理システムの構築は、犯罪捜査や、犯罪抑止、またはテロの抑止にも、たしかにある一定の効力はあるだろう。シンガポールが公共のマナー違反にこと細かく罰金を科していった結果、街が美しくなっていったごとくである。そういえば現主席は、シンガポールの統治を大いに称揚していたものである。

しかし当然、専制独裁国家におけるその種の制度は、国民の健康安全のためではなく、体制維持が主目的である。個人的な予測であるが、今後、この”档案システム”は、さらに広範に、精緻に構築が進むと考えている。人民は今までより一層、体制に従順であることを強いられるだろう。”档案システム”の強化は、逆の面から考えると、それだけ人民の体制への不満の高まりを、政府自身が予測している事実の表れであるともいえる。人民の不満の原因は、いつの時代も変わらず、経済、経済政策、である。
実際の所、昨年の大陸の経済情勢は思わしくないし、数々の施策によっても、劇的な改善はほとんど見込めそうにもない。どこを見渡しても過剰設備が山積しており、投資効果が著しく低下している。金融や財政出動の手段を講じても、もはや有効なカネの使い道が乏しいのである。各地の不動産価格は下落傾向を強めているが、大陸政府はきたるべき不動産バブルの本格的な崩壊に、身構えているようにさえ見える............

日本でも”マイナンバー制度”が施行されたが、どうもうまく普及が進んでいないようである。運用面でも疎漏が多いというが、本質的には、番号で個人が特定され、あらゆる情報と紐づけられることへの、本能的な忌避の感覚があるように思える。そうはいっても、現在はクレジットカード番号、電話番号、パスポート番号、運転免許証、そのほか生活上必要な様々な番号やデータで、個人情報の特定や関連付けは、可能といえば可能な時代である。それでもそれが(縦割り行政等等のおかげで)分散管理されて(いるとはおもうのだが)、しかも個人の意思で改変や離脱が出来るのと、それが出来ないというのは大きな違いがある。
番号で国家に一元管理される事への嫌悪感というのは、民主主義の社会の住人の感覚としては、至極真っ当とはいえまいか。
ある日突然、銀行口座も電話もカードもすべて解約放棄し、住民票を離脱し、見知らぬ土地に越してしまえば、追跡は実際上は少し困難である。自由主義を標榜するのであれば、行方知れずになる自由も、どこかに少しあってもいいのではないか?くらいに思うのである。制度とはすべて、便利な反面、弊害もあることは、忘れてはならないだろう。
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豚<猪<彘

新年、あけましておめでとうございます。今年も何とぞよろしくお願い申し上げます。
型通りの挨拶で恐縮でございます。干支は”猪”、ですが、感覚的には干支の更新は旧正月以降(2月5日)にしたいものです。ちなみに”猪”は日本では文字通り”イノシシ”ですが、中国語ではいわゆる”ブタ”です。現代中国語だけではなく、昔からそうであって、蘇軾の有名な”猪肉頌”も、ブタ肉を使った料理のことです。いわゆる”イノシシ”のことは野猪、といいます。”野生のブタ”くらいの意味ですね。
では”豚”は何を指すかというと、小さなブタ、ブタの子供、子ブタのことです。フグを”河豚”と書きますが、”河の子ブタ”、という意味になります。小さいので”河猪”ではないわけですね。説文解字に「豚,小豕也」とあり、親ブタを”豕”とする場合もあるようです。”亥年”の”亥”はこの”豕”と字源を同じくすると言われます。

また古くは「彘(テイ)」という字もあり、これは「大きなブタ」を指すのが原義です。鴻門の会で樊噲が食らったのが「彘肩(テイケン)」、ですから大きなブタの肩肉、という事になります。並みのブタの肩肉では壮士にふさわしくないわけですね。また高祖の死後、戚夫人が処されたのは「人彘」、であります............大きさの順に豚<猪<彘、ということになり、成長段階によって別称があり、それぞれに文字が用意されているところから、古代から人間にとって身近かつ重要な動物であった事がうかがえます。

ともかく、伝統的には今年は”ブタ年”であって、”イノシシ年”ではないということですが、干支の人を”ブタ”呼ばわりするのは、さすがにいかがなものか、というところです。

本年も重ね重ね、よろしくお願い申し上げます。

店主 拝
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