武漢封城

......武漢肺炎と呼ばれる新型ウイルスによる肺炎が武漢を中心に猛威を振るっている。日本の報道と中国の朋友から紛々と入ってくる情報にはかなりの温度差がある。直感的ではあるが、事態はかなり深刻である。
22日から23日にかけて、公式発表でも患者は100人増加している。23日から24日にかけては200人の増加である。今後、加速度的に増加しないという保証はどこにもない。

現地の医療関係者からの発信を参照すると、武漢だけですでに数万人が感染していることがうかがえる。武漢肺炎については、まず診断を受け、ウイルス検査を経て初めて武漢肺炎と診断される。それはそういうものだろう。そして新型肺炎と診断されたのちに死亡した場合、新型肺炎による死者にカウントされる。
現地現場の医療関係者からの発信は微信を通じて回ってくるのであるが、多くはデマ扱いされ、場合によっては遮断されることもあるそうだ。しかし会話の内容や画像を見る限り現場ないし現場近くの医師か看護師の会話と思われ、これが捏造されたデマとすればかなり凝っている。その画像なりをここに掲載するのは控えるが、かなりショッキングな内容だ。もしこれがデマであればそれもよし、用心に越したことはないという意味で注意を喚起したい。

武漢は湖北省の省都であり、内陸屈指の大都市である。また武漢大学を中心に病院が多く、比較的医療体制の良い都市としても知られている。その武漢の病院はどこも発熱患者でいっぱい、ということだ。しかしウイルス検査を経ないと新型肺炎患者にはカウントされないのである。そして治療がまにあわず死亡した患者は新型肺炎による死者には数えられない。そのような治療を受けられず病院の廊下や待合室で死を待つ患者も大勢いるという。
新型肺炎は中国のCCTVでも連日大きく扱われているが、事態はさらに深刻である。中国当局による意図的な隠ぺいというよりも、CCTVにも正しい情報が伝わっていない、というような事も言われている。

13日に香港から帰国したが、帰国直前に香港でも27人の感染疑いが確認されていた。それが今日現在までは都合176人が感染疑いで検査をうけ、現在は2名の感染が確定している。109人は無関係とわかって退院したが、依然として67人が感染疑いで入院しているという。この時期、発熱をともなう疾病は多いもので発熱したからと言って新型肺炎とは限らないだろう。
しかし香港だけをみても発熱状態で受診し、検査を経て確定するまでそれなりの時間を要している。日々報道される感染者数は発熱し、診断を受け、ウイルス検査を経た患者数であり、発熱していないウイルスキャリアの増加をリアルタイムに反映した数字ではない、という事は注意が必要だろう。

今回は9日に深圳から香港に移動したが、8日の晩は深圳在住のS小姐の家で会食していた。S小姐は9日に湖北省武漢から車で2時間くらいの距離にある、随州という町に子供と妹、父親とともに帰省するという。今年は春節が1月25日からと早く、また不景気を反映して深圳でも帰省が早く始まっていた。子供を連れているから高速鉄道が良く、あまり遅いとチケットが採りにくくなるのである。
S小姐の旦那さんは深圳を本拠地とする華為(ファー・ウェイ)にお勤めなのであるが、彼はまだ仕事納めまで日にちがあり、深圳に残留して後から帰省するのだという。
それが昨日S小姐と連絡を取り合ったところ、深圳では大手を中心に、湖北省方面へのスタッフの帰省を止める企業が多いという。湖北省へ帰省するには、多く武漢を経由しないわけにはいかないのである。またすでに湖北方面に帰省したスタッフには、春節後のUターンを控えるように通達しているという。S小姐の旦那さんは帰省したら深圳に戻れなくなるおそれがあるから、そのまま深圳にとどまることになったのだという。
またS小姐は四姉妹であるが、S小姐と妹は故郷随州に帰省している。長女は武漢に在住しているのだが、武漢が「封城」されたため武漢市街からは出られない。

深圳は外省人の街であるが、比較的多いのが湖北省、湖南省、四川省、広西省、江西省の人である。ゆえに春節後も武漢肺炎に収束のメドが立たない場合、深圳経済への影響は必至である。いや、深圳のみならず、交通の要衝である武漢の封鎖が説かれない場合、大陸経済全般への影響も少なくないであろう。

随州はS小姐の結婚式に招かれたときに訪れたことがあるが、武漢から高速道路で2時間の距離にある街である。
1月23日付の随州政府の公式発表によれば、随州では発熱患者166人のうち、新型肺炎と疑われる症状の患者が27人出ているという。この時点では確定ではなく、検査の結果で感染が確定するわけだが、予断を許さない状況であるといえるだろう。
また23日の時点で交通封鎖の範囲が武漢から拡大し、鄂州、黄岡、仙桃、赤壁、荊門、咸寧、黄石、当陽、恩施、孝感、の範囲に拡大している。かつて東坡赤壁を訪ねた黄州は、黄岡市に属している。武漢から長距離バスで一時間程度、70Kmほどの距離にある街であるが........いずれS小姐の故郷の随州も「封城」されるかもしれない。皆、春節後に深圳に戻って仕事ができるかどうかを心配していたが、今はそれどころではないだろう。とはいえ、経済に与える影響は武漢や深圳といった一都市に限っても甚大であろう。

「人から人への感染」の可能性があるかないかはっきりしないうちに瞬く間に感染が拡大している。現場で治療にあたった医師等が十数人感染しているところをみても、感染力が強く、死亡率も決して低くはないのではないか?というのが正直な感想である。
もちろんこの時期はインフルエンザ等の疾病予防に注意しなければならない時期であり、うがい手洗いマスクをする、消毒に努める、といった日常の行動が新型肺炎の予防にも有効であるという事は確かなようである。
中国当局の地方政府の公式発表以外の、当方が接する情報がデマならデマでもいいのであるが、明日から春節に入るこの時期、ここに注意を喚起した次第。
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Jan.2020 HK

......今回は上海から深圳に移動し、香港から帰国しました。デモの影響が懸念された香港ですが、ところどころに痕跡を残すものの落ち着いていて、いたって平穏な雰囲気ではありました。
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一部ではデモが暴徒化したという見解がみられますが、地元香港の友人の話ではそもそも香港警察が平和なデモ隊へ向け、突然に三方向から逃げられないカタチで催涙弾を発射したのが発端、ということです。彼は6月12日と日付まで覚えていました。暴徒化した群衆鎮圧に催涙弾を使用するのはまだしも、法的に認められた平和的なデモに対し、警察が催涙弾を使用するのは過剰な対応と言えるでしょう。
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またデモ隊一部の地下鉄への破壊活動も報道されていましたが、これも地下鉄が突然停車し、警官が乗り込んできて乗客を無差別に殴りかかった、ということです。それで香港の地下鉄「MTR」は「体制側」とみなされ、破壊の標的になったということです。
警察の中には明らかに大陸から派遣された警官が入り込んでいて、広東語(香港語)を話せない警官も相当数いるということです。香港の警官は相手を制圧するときに左足で頭部を踏みつけるところを、右足を使用している警官もおり、これは大陸の公安のやり方だ、という話もありました。
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そうは言っても一部過激化したデモ隊に対しては香港市民にも賛否があり、現実的ではない要求を掲げて星条旗を振ったりするのは「やりすぎ」という意見もあります。
現実を理解しない若い学生が理想に凝り固まって過激化する、というのはかつての日本でも長期間にわたってみられた現象ですね。破壊活動は日本国内にとどまらず、世界へテロ活動を広げた顛末は日本の現代史から削除してはならない事実であるといえるでしょう。
しかし大陸政府の香港への干渉にはおおむね反発が強く、普通選挙の実施も含めて今後もデモは「平和的に」継続するだろう、という事です。

香港という都市は移民も外国人居住者も多く、多様な宗教や価値観が共存する社会です。いうなれば大昔のシルクロードのオアシスの都市国家のようなものでしょうか。そういう都市に画一的な価値観がフィットするか?というと確かに疑問に思えます。
香港と大陸中国の摩擦や軋轢の原因は、民主主義と全体主義の違いであるというように言われることが多いように思えます。表面的にはそういった面がありますが、より本質的には所有権、私有財産権の有無であると、香港の友人は言います。
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社会主義と、社会主義の理想形である共産主義は、あらゆる資産は事実上国家が所有します。
共産主義とは、かいつまんでいえば、国民全員が共産主義者であり全員が政治参加するゆえにもっとも民主的な国家の状態であるとします。半島北部国家の国名の意味がわかりますね。皆が同じ意見だから決め事はすべて全員賛成、という、これも理想の理論です。
また国民すべてのものであるところの国家がすべての資産を所有するがゆえに、すべての資産は国民すべてのもの、だから自由で平等、という一種の理想論です。社会主義は共産主義を理想としつつもその過程にある社会体制、というほどの意味になります。ゆえに中国には共産党の一党独裁でありながらも、社会主義国、という位置づけになります。
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以上を踏まえると、香港と大陸中国の社会制度の根本的な違いは私有財産権の有無にある、という言い方も可能です。私有財産が法的に保障されている、という事で大陸の富豪や官僚は香港にせっせと資産を移転し、身内に香港籍や外国籍とらせるなどして自分の資産の保全をはかるわけです。これはかつて大陸政府の治外法権であった外国人疎開地に、大陸政府の高官や富豪が資産を移転していたのと同じ動きであるといえます。一朝ことがあれば何が起こるかわからない大陸にあって、高い地位に上り詰めるほどに、また巨大な資産を築けば築くほど、逃げ出す算段は重要になってくる、という事になります。
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ゆえに香港の存在は大陸の社会主義、共産主義における”所有権”の矛盾を補完する地位にある、ともいえるでしょう。香港の特権的な地位が喪われるとすれば、大陸政府が香港と同質の透明度の高い社会システムと、司法の独立、等々の自由主義社会に必要な制度基盤を持つにいたったときになるでしょう。
逆に考えれば、香港の自由主義的な社会システムを否定し、大陸と同質のシステムにしてしまうことは現在の「特色ある社会主義」を危機に陥れる可能性をはらんでいるとも考えられます。

香港の友人の見解では、大陸政府が軍を派遣するなどの実力行使に出ることは、大陸政府が香港に積み上げた資産や権益が灰燼に帰すことを意味するだけに、これまでも出来ないと考えていたし、今後もできないだろう、という事でした。私もこの意見には同意できます。大陸の権力機構の現実において、権力を得るという事は資産を得ることであり、資産を喪うということは権力を喪う事でもあるからです。
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とはいえ香港は大陸と地続きという事もあり、台湾のように独立性を高めることにはある種の限界があると、現時点では思います。良くも悪くも香港には軍事力が皆無であり、独力で安全保障を担保する方法がありません。デモ隊の一部が主張するような香港の完全独立、自立はやや現実離れしているといわざるを得ないでしょう。
個人的には、香港の自由かつ透明で公平な制度はこのまま維持していってもらいたいと考えています。香港のデモが要求する「五大要求」は実現していませんが、今回一連のデモを通じて、大陸政府に香港の特異な地位の重要性と必要性を再認識させた、という事は言えると考えられます。
とはいえ香港の行政府や大陸政府の出方には予断を許さないものがあり、今後も注視してゆくことが必要でしょう。
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年明け1/3-1/13臨時休業のお知らせ。

例年より暖かい冬といわれていますが、今日の大阪はグッと冷え込んできました。令和元年残り僅かの師走の時候、いかがお過ごしでしょうか。
1月3日から1月13日まで、大陸渡航のため臨時休業いたします。ご不便をおかけいたしますがなにとぞご了承いただければと思います。

今年は何かと多忙で、新しい商品の企画も文房四寶の研究も滞りがちだったことを反省しております。特に渡航回数と期間がここ10年で一番少なかったように思えます。
思い起こせば開店から10年を経過し、文房四寶の世界も様変わりしてまいりました。さらにさかのぼること20年前は、古典的趣味世界で遊ぶ、という事がまだしも理解されやすい時代だったと思い起こされます。それが今では「かなり珍しい趣味」のひとつになりかかっているような気配すらあります。

ところで外国人観光客が増えたのもここ10年ですが、「日本文化を深いところまで体験したい。」というニーズが高まっているという事です。単に食事や買い物、清水寺を観て帰るだけでは満足しきれていない、という事のようです。日本文化というと国を挙げてもっぱらポップカルチャーばかりを推しますが、どうもそういうことではなくなっているようです。消費の早いポップカルチャーでは、物足りなさを覚え始めたのかもしれません。
とはいえその国の文化を短期間に深いところまで体験するというのは、当人によほどの素養があらかじめない限り、所詮は無理な話なのではないかと思います。しかし外国人観光客、特に富裕層にそういったニーズが高まっているということで、すわ商売に結び付けようというわけなのでしょう。
しかしそういわれてみても、そのような外国人が求める日本の古典的な趣味性を理解しながら上手に案内できる日本人自体、非常に少なくなってしまっている、というのが現実なのではないかと思います。現代の中国に文人がいないように、現代の日本にニンジャやサムライはいないわけです。
その国の文化を知りたい体験したいという事であれば、相当期間滞在し、学ぶしかないというのが本来ではあります。

いや、本物である必要はない。それらしくその気にさせるくらいの演出で十分、という考え方もあるでしょう。しかしそういった演出が可能なのは、やはり演出する側が相当に造詣が深くないとなかなか難しい。日本式のおもてなしといっても、茶の湯で接待できる人はどれほどいるでしょう.......そう考えてみると、ちかごろ日本ではめっきり衰退気味の茶道華道、そして書道もまんざら捨てたものではない、という事なのかもしれません。

自国の文化の価値を他国の人から評価されて初めて気づくという事は、文化史上、何度も起こってきたことであります。あるいはこれが日本の古典文化の復興の契機になるのであれば、やはり歓迎したいと考える次第であります。

店主 拝
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黄ヒョウ、氷紋、金線

今回発売する硯の二面には氷紋が、もう一面には氷紋状の金線が認められる。日頃、氷紋金線があるからといって老坑とは限らないし、氷紋金線がないからといって老坑(ないしは新老坑)ではないとは限らない、と述べておきながら恐縮ではある。
硯癖を持つ玄人が重視するのは青花や天青、ついで蕉葉白、魚脳凍、さらに火捺をともなうかどうか?なのであるが、なぜかといえばこういった石品を持った硯石というのは、材質が優れているからなのである。しかし困ったことに、こうした石品はほかの諸坑でもままみられるものであるし、特に多量の硯石が砕石される山岩の沙浦では豊富にみられるものである。つぶさに観察すれば、老坑水巌と沙浦とでは、青花にせよ火捺にせよ、似て非なる様相を持つものなのであるが、そこまでわからないと”青花”の存在をもって佳材である、としてしまいがちなのである。
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石品に惑わされるのは硯の選び方としてはあまり良くないのである。しかし老坑水巌、ないしは新老坑間違いない硯材に豊富な石品が現れていると、それはそれで見どころなのは事実である。

今回は三面とも”黄膘(こうひょう)”すなわち黄いろ味を帯びた、薄い皮状の表皮をどこかに持っている。老坑や新老坑のような狭い坑洞の薄い層状の鉱脈から硯材が採掘されたとき、表面はほぼこのような黄色い皮目でおおわれており、それを取り去って初めて硯になるわけであるが、その硯材の出自を痕跡としてとどめるように作硯するのである。
新老坑の小硯は数多くここで扱ってきているが、やはりある程度の大きさにならないと、この黄膘はあらわれない。昔は黄膘を持っているから水巌だ、という早合点もあったくらいなのであるが、もちろん諸坑にも表れる。
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ところで硯背硯面を水平に、四辺を直交するように四直に落とした硯板を作る際は天然の不定形を平面直角にそろえる過程でこうした黄膘や不定な部分を切り落としてしまうのであるから、四直の硯板がいかに大きな硯材からしか作られないか?お判りいただけると思う。この三面をもし四直にそろえようとすれば、面積にして軽く三分の一以下になるであろうことは間違いないし、それでもどこかに若干は、不定形の痕跡を残さないわけにはゆかない。
よって四直の硯板で、四辺にも硯背にもどこにも天然の痕跡やノミ跡を残していないような硯板というのは、老坑水巌や新老坑では極めて珍しい硯板である。
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老坑をうたった四直硯板が陸続と現れたことがあるが、寸法や縦横の比率がほぼ同じであるという、あり得ない状況からそのほとんどが巨材のとれる沙浦や宋坑といったいわゆる山岩であると知れるのである。
逆に四辺天然硯といって、硯面硯背を除く四辺のすべてに黄膘が残るように作硯された硯をとくに”四辺天然硯”と呼ぶことがある。これも稀にしか見られない。無理に四辺に天然を残そうとすると、多くの場合は造形的にバランスが悪かったり、良くない部分を残さざるえなかったりするものなのである。
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鶴と松の硯は氷紋こそ認められないが、無数の金線が氷紋状に現れている珍しい硯である。この金線があつまるところが左側面の一隅にのこされた黄膘と連結しており、金線がというのは基本的に黄膘と同質の鉱物成分でできていることをうかがわせる。すなわち硯石の造岩の過程で地中の高い圧力が加わってできた細かい亀裂に、黄膘の成分が浸透して形成されたのではあるまいか。氷紋に関しては、同じく亀裂に魚脳凍や蕉葉白といった、白色に近い成分が浸透して出来たのではないだろうか。
いずれにせよ元も亀裂を完全にふさいで同質化しており、触れたり墨を磨ってもそこに異物があるようには感ぜられない。天然自然がもたらす造化の作用の神巧なるゆえんであろうか。
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様々な石品が現れる端溪の硯材であるが、石品や石品の境界に異物感を覚える硯材もあり、たいていの場合あまりいいものではない。華麗な石品を持ちながら、墨を磨っていてもそこはおしなべて細潤緻密ですこぶる心地よいもの、それでなくては新老坑とすら認めがたいものなのである
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2019紹興行 列車と宿

........今回は合間を縫って1泊だけの日程で紹興に足を延ばすことにした。紹興を訪問するのは三度目で、6年ぶりである。仕事道具が詰まったスーツケースを1泊目に泊まった上海桂林路のビジネスホテルに預け、小型のリュックひとつに一泊分の着替え備品をつめてから駅に向かう。

南北に珠玉を連ねたように点在する江南の諸都市であるが、上海からさほど遠くない距離にあり、個人的に気に入っているのが揚州と紹興である。
江南で「地上の天堂」と併称されるのが「蘇州・杭州」であるが、蘇州の旧市街は今や繁華に傾きすぎたきらいがある。また人が多くて渋滞し、夕方は移動に難儀する。杭州の昔の中心市街はすっかり開発されてしまって、西湖周辺も近代的で趣にかけるものがあるうえに、やはり移動に難儀する。
その点、目覚ましい経済発展からはすっかり取り残された体であるが、それだけに揚州と紹興は古い江南水郷都市の雰囲気を濃厚に残している。もちろん嘉興からほど近い烏鎮など、江南水鎮をそのまま残したような場所もあるにはある。それはそれで情緒風情にあふれる場所なのであるが、中国史に残る古くからの都会というわけではない。
なんといっても紹興は紀元前の呉越の時代、会稽と呼ばれた昔から栄えた江南屈指の古都であり、三国時代の呉の主要都市を経て、さらには東晋政権の首都として、隋によって統一されるまで南方に依った漢民族政権の根拠地であり続けた。
杭州といえども、北宋に入りかの蘇軾が知事として赴任する時期に前後して大規模な開発が進み、南宋政権が根拠地とするに至って江南屈指の大都市に成長したのであり、江南にあっては新興の都市なのである。

いつもは上海の朋友に交通機関から宿泊先の手配まで依頼するのであるが、今回はインターネットの予約サイトを利用して、上海から紹興までの高速鉄道と宿を予約した。高速鉄道の予約はTrip.comで、宿の予約はBooking.comで、あっけないほど簡単にできてしまったものである。
高速鉄道が開通するよりずっと前の大陸の列車の旅といえば、まず乗車券の入手がひと仕事であった。予約システムなどないから駅の券売所にならぶ。それも1時間も2時間も、どんどん横入りされる切符売り場の窓口で並ばなければならない。乗車券の取得が半日仕事になることさえあった昔に比べれば、いまや格段に手軽になった。

高速鉄道の乗車券のオンライン予約は、中国国内では以前から可能だったが、駅で窓口に並んで乗車券と引き換える必要があった。人民のIDカードがあれば自動の発券機を利用することもできたが、パスポートの外国人は窓口に並んで乗車券と交換しなくてはならない。これも面倒なもので、30分前後は並ぶことを覚悟しなくてはならないから、広大な駅を移動する余裕を見て1時間前には駅に到着するように時間を見計らって移動していた。
しかし、今では予約サイトの予約番号とパスポートを改札で見せればそのまま乗車できるという。もちろん座席は予約時に決定している。そのような説明が予約番号を記載したメールに書いてあるにはある。しかしそこは大陸旅である。
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念のため、上海から行きの列車は上海虹橋の切符売り場の窓口にならぶ。上海虹橋駅には外国人専用の窓口もある。そこで予約番号の記載されたメールの画面とパスポートを窓口で渡すと、従来の磁気用紙の切符と交換してくれたのである。
しかし結論から言えば、このような手続きは不要だったのである。帰りの紹興の駅で再び切符売り場にならぶと、窓口で「切符との交換は不要だから、改札で予約番号とパスポートを見せなさい。」と言われ、切符と交換はしてくれなかった。そうは言われてもイザ乗車する段になって「切符がないと乗れません」ということはなかろうな?と乗る直前まで疑ってしまうあたりが習性であろうか。

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ともあれ大陸の高速鉄道の予約から乗車までは格段に速くなった。以前は高速鉄道の駅が空港並みに離れていることと、窓口に並ぶ時間のロスから近距離の利用では都心から出発する高速バスとトータルの所要時間が大差ないのではないか?と思うくらいであったのだが、これも改善されたことになる。また上海起点の高速鉄道の本数もだいぶ増えた様子で、連休や週末にかからなければ当日でも座席が確保しやすくなっている。数年前は数日前に予約しないと「无座」といって立っていかなければならないこともあったのであるが。
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高速鉄道の駅の構内に入るにはパスポートを提示し、荷物を検査機に通す必要がある。これなども以前は形式的なものであったのだが、だんだんと空港並みに厳しいチェックになってきている。
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高速鉄道になる際は、外国人はパスポートを機械にスキャンする必要がある。しかし、今回は紹興往復と、また別途湖州に行く際に嘉興を往復したのであるが、都合四回の乗車機会に際して一度もこのパスポートスキャンの機械が正しく動作しない。そこには駅の係員が立っており、結局は係員にパスポートと予約番号を見せて無事乗車することができたのである。パスポートのスキャンがうまくいかないことを見越して、あらかじめ人員を配置しているような恰好である。
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高速鉄道の改札は、乗車時と降車時の2回通るのであるが、以前からうまく動作しないことが多い。乗車時はともかく、降車時では機械の不調で渋滞したころ合いで、駅員がゲートを開放して降車した乗客を通してしまうようなこともある。
磁気用紙の切符が不要になって便利になったのであるが、この外国人はパスポートチェックを降車時にもしなくてはならない。たいていは改札の右側に一か所だけ専用のゲートがあり、そこで機械にかけるなり駅員に確認してもらうなりしないといけないので要注意である。
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さて、高速鉄道で上海から紹興までは1時間半程度の旅であるが、そこは取り立てて書くこと事はない。
紹興北という高速鉄道専用の駅に到着し、それから市内に向かう。宿は魯迅故里にほど近い場所に位置している。かれこれ20年近く前の昔は、列車の駅から中心市街の魯迅故里まで歩こうと思えば歩ける距離にあったのだが、高速鉄道の駅は例にもれず旧市街地からは相当な距離がある。地下鉄が建設中であるが、まだ開通していない。市内へは”BRT”という直通バスが通っていて、3元で市内に移動できる。これに乗るのが便利である。いくつか路線があるが、多くは魯迅故里に停車するので問題はない。
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旧市街地へ向かう途中、郊外の開発区や建設中の高層ビル群を目にするのは今や江南諸都市共通の光景である。
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日本でも今や”民泊”経営が盛んであるが、大陸の観光地にも昔はなかった民宿が増えている。
今夜の宿の「老台門魯迅故里青年旅舎」も江南の故民居を改装した民宿であり、京都でいえば「町屋旅館」といったところであろうか。「青年旅舎」といっても別段年齢制限があるわけではない。紹興観光の中心地ともいうべき魯迅故里の通りを中興中路から反対側に通り抜けた出口付近に位置していて、ほど近くには咸亨酒店や紹興には少ないSTARBUCKSがある。観光の拠点としてはすこぶる便利である。
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受付で日本で予約した際の予約確認メールとパスポートを見せるとあっさり受付が完了した。1泊の宿賃は日本円で2千円しない。部屋は二階である。
カードを二枚渡され、部屋に案内される。部屋は二階である。中庭を囲んで軒をめぐらした建物の構造は、もちろんのことこの家がある程度の格式を備えた物件であったことを意味している。
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若い人達が宿泊客の中心なのであろう、壁には無数の落書きがみられる。廊下の柱や壁面は、現代的な樹脂塗料ではあるが赤く塗られている。王朝時代であれば「紅楼朱閣」というように、建物を赤く塗装できるのは官舎や貴族、寺院などの限られた身分格式の建物だけである。日本でいえば加賀藩に由来する東大「赤門」といったところである。
紹興にあっては中産階級の邸宅であったであろう建物ではあるが「朱閣」にするのはやや大げさである。しかし古い建物を改修する際に何か塗装しようということで”赤”になったのであろう。
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中庭を見下ろすように取り囲んだ廊下の手すりに沿って長い腰かけがあるが、これを「廊椅」あるいは「飛来椅」といい、また別名「美人欄」という。いわゆる「欄干」の一種なのであるが、夏の暑い日はここに座って涼むこともできるし、刺繍や裁縫など、明るい光が必要な作業もここで行われるのである。
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詩詞で「斜倚欄(欄にななめによりかかる)」というと美女の形容であるが、橋の欄干のように立って寄りかかる恰好というよりも、このように座れる欄干に座りながら背もたれ部分によりかかってくつろぐ風情である。腰掛けながら体をひねって欄干に体を預け、中庭や夜空を眺めるのであるから、ほっそりとしなやかな女性の体つきが想起される、というわけである。
このような座れる欄干は日本の建物にはあまり見られないから、日本人の描いた美人画には橋の欄干にもたれた美女が登場する、ということになる。
唐代までは床に敷物を敷いて座る習慣があったが、北宋から徐々に椅子に座る習慣に変化したといわれる。初めは縁台や濡縁のような場所に低い欄干をめぐらせていたのが、椅子に座る習慣が浸透するにつれてこのような座れる欄干に変わっていったと考えられるが、このような「飛来椅」が建築に流行したのは元代だという。日本にある楼門や五重塔の手すりは低いが、五重塔の建築様式が渡来したのは大陸でいえば唐の時代で、まだ椅子に座る習慣はない。
この中庭に面した「美人欄」は往来から人にのぞかれることはない。座りながら琵琶も弾けるし笛も吹く。明清のころの都会の中流以上の家庭では”纏足”が当たり前だった昔、立っている姿勢というのは女性にとって楽ではなかった、ということは思い返す必要があるだろう。
あいにくこの日は気温も低く、曇天である。たとえば暖かい季節の月の明るい晩などに、この「飛来椅」に座ってみたいものである。
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方形の回廊の一辺の中ほどにある扉をカードキーで開ける。正面左右にトイレとシャワールームがある。そして左手右手にそれぞれ部屋があり、もう一枚のカードキーで入室するのである。右手の部屋が自分の部屋であったが、左手の部屋には若い二人連れがが宿泊しているようだ。
中庭を挟んで対面のちょうど同じ位置にも部屋がある。ほぼ東西南北対称に家屋が造られているようである。
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古民居であるから、当然広い部屋ではない。四畳半ほどの部屋には窓と反対側に頭を向けた広いベッドと、枕の頭上にエアコンが一台。ベッドわきに木製のサイドボード、廊下に面した窓の下には机と椅子が置かれている。いたって質素な部屋だが、かえって読書人の家を思わせる。
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いわゆる「明窓浄机」とはこのように窓のすぐそばに机が置かれる事で、室内照明などあまりなかった昔の家屋では、机はかならず明るい窓に面しておかれていたのである。
また道路がアスファルトで舗装されていなかった時代、屋外からはしばしば風に乗って粉塵が舞い込むものである。砂埃が硯に落ちては厄介であるから、硯と窓の間に「硯屏」が置かれることがある。江南はまだしも、北方の冬などは必須であろう。
日本のように縁側や濡縁を挟んで座敷に机を置く場合はさまでほこりは入り込まないから、硯屏の必要性は薄い。ゆえに単なる文房の装飾品と解釈している向きもあるが、大陸式の家屋や家具の構造を理解していればその必要性もわかるだろう。
また蓋ができる構造の硯があるのは、墨が蒸発することを防ぐと同時に、やはり砂埃を避けることが理由である。
前述のように椅子と机に座る習慣は北宋からで、これが徐々に広まり、筆書に向かう姿勢が変化する。これが筆の持ち方に作用し、ゆえに書体にも影響したのである。北宋の蘇軾が筆を寝かせる斜筆、ないしは偏筆なのは、蘇軾の故郷の四川省にはまだ椅子と机の習慣が浸透していなかったことを示唆している。
また床に置かれていた硯が次第に机の上に置かれるようになり、勢い小型化し、硯の高さも低くなるわけである。
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屋内の壁や梁は塗装をし直してあるが、故民居特有の曲線的に削り出された梁の形状が見て取れる。
塗料を塗ってしまっているのはもったいない気もするが、このように改修しながら観光用に利用されるからこそ、建物として残ってゆくのかもしれない。
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翌朝、格子窓を通して白い朝の光が差し込んでくる。この机で何か書き物でもしたいくらいであるが、文房用具はすべて上海に置いてきている。午前中はさらに紹興の街を散策の予定であるから、ほどほどに準備して宿を後にすることにする。
隣の部屋と共同のシャワーとトイレ、というのは民宿ならではである。しかしそういった点を気にしないのであれば宿賃もいたって廉価であるし、利用してみるのも一興であろう。すくなくとも紹興観光の拠点として、場所は非常にいい。
ただし夜間は12時の門限があるので、夜更けまで遊びたい向きは注意が必要であろう。しかし今の紹興は夜はひっそりと静かである。昔の、それこそ夜通しの喧噪がうそのようである。ちなみにこの宿にはテラスをしつらえたレストランカフェ&バーもあり、朝食から昼食、夕食もここでとることができる。
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とはいえさすがは古代から知られた銘酒の産地であり、地元の人でにぎわう酒と料理の店はある。その話題はまた稿を改めたい。





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