黄香以降の黄氏 〜黄祖=黄承彦考2

前回は江夏黄氏について、戦国春秋時代の楚の春申君にまつわる、いささか伝説的な起源を紹介した。つまり江夏黄氏も中原の諸侯国に起源が求められ、また戦国春秋時代の大国の名門の流れをくむ、という事である。
この辺の話は、ヨーロッパの王室が起源をたどれば皆古代ローマの貴族の家系につながる”という事になっている”という、いささか信憑性に乏しい系譜とも似通った事情があるのだろう。
しかし北方から絶えず異民族の侵入を受け続けてきたのが大陸の歴史であり、中原の諸宗族が戦乱を避けて長江の南へ遷移していったのという点については信じてよいのではないだろうか。徽州製墨の起源も、もとは河北の易水に起源が求められるのもその一例である。
 
今回は時代を下って主に後漢(東漢)時代の名臣、黄香から三国時代までの黄氏の系譜をたどってみたい。結論的にいうと”黄氏宗譜”で特定人物の系譜をたどるのは、そのままでは正確性に問題があることがわかる。
 
後漢の黄香について述べる前に、黄姓で史書に名を残す人物として前漢の黄霸(前130-51年)について触れておこう。字(あざな)を次公といい、淮陽陽夏(現河南省太康県)の人である。漢書第八十九巻・循吏傳第五十九に名を連ねる人物であり、官位は丞相に登っている。
黄霸の事跡については別所に譲るが、黄霸は黄歇から数えて六代目の子孫にあたるという。しかしこの黄霸の家系は王莽の乱の際に途絶えたとされているので、次に述べる江夏黄氏とは一応別系統とみなされる。
 
江夏一帯の黄氏は、ひろくは江夏黄氏と呼称するが、江夏黄氏の中でも安陸を中心とした宗族は特に安陸黄氏とも呼ばれる。
安陸は三国時代は江夏郡に属していたが、現在の安陸市は武漢市の北西に位置し、孝感市の行政区画に入っている。また安陸市の北は随州市、南は雲夢県に接している。上流から随州、安陸、雲夢、武漢の順に府河という河川で連絡し、府河は武漢で長江に注いでいる。府河は多くの支流を持ち、この地域の水運物流に貢献しているが、三国時代においても安陸と江夏(現武漢)は府河によって互いに連絡の良い地域であったことがうかがえる。
後漢(東漢)時代、この安陸の黄氏から名臣黄香が出る。
 

黄香


黄香(68-122年)、字(あざな)は文強は江夏安陸の出身である。父は黄況といい、葉県(河南省)の県令を務めた人物である。
黄香はいわゆる”二十四孝”に数えられ、”扇枕温衾”の故事で知られる。九歳のころすでに”天下無双、江夏黄香”の名声があり、官位は尚書令にまで登った。
122年に魏郡太守に赴任したが、この年水害が魏郡を襲う。黄香は私財をなげうって救済にあたったが、結局災害復旧の責任を問われて免官となり、その数か月後に死去した。

”天下無双、江夏黄香”と称えられたことから、黄香は間違いなく江夏の出身であると言って良いだろう。あるいは安陸黄氏の祖、とみなしてもいい人物である。
この黃香は八人の男子をもうけたという。すなわち黃瓊(世英)、黃瑰、黃院黃琛、黃瓚、黃珂(世藻・冀州刺史)、黃珮(世尉)、黃理、である。
名に同じ”玉偏”の付いた字を当てているが、同じ宗族の同世代の子弟に同じ一字を使用したり、同じ偏旁をしようして命名する(拝名制)は当時ひろくおこなわれていた。

三国時代は一般的に名が一文字で字(あざな)は二文字である。二文字で構成される字(あざな)には、同じ一文字を使用することがある。黄香の息子すべての人物の字はわからないが、世英、世藻、世尉というように”世”の一字を共有しているのだろう。
黄香の息子のうち、黃瓊(こうけい・86-164年)、字は世英である。すなわち

黄況--黄香--黃瓊(世英)

である。

一家から傑物が二代続くことは稀であるが、黃瓊の栄達は父の黄香以上であった。この稿の目的から逸れるのでその功績は詳述しないが、官は司空、太仆、司徒、太尉等、いわゆる”九卿”と”三公”を歴任し、死後は車騎将軍を追贈され、謚号に”忠”の一字を許されたほどの顕臣である。
漢王朝はこのころから宦官の勢力が大きくなる。黃瓊はたびたび宦官の害を除くことを訴えたが、その弊害をただすことが出来なかった。
ともあれ県令どまりであった家庭から黄香、黃瓊の親子二代にわたって漢王朝の重臣をつとめ、ともに優れた業績を残した事が、漢代における安陸黄氏の名声を確立したことは間違いないだろう。
この”位人臣を極めた”黃瓊の孫に、ようやく”三国志”の序盤で著名な黄琬が出る。

黄琬

黄琬(141-192年)、字は子琰は、黄香の曽孫にあたるという。その父親は早世しており、黃瓊の息子のうちの誰の子であるかは「宗譜」によって諸説ある。

黃瓊には陳氏、顔氏、李氏の三人の夫人がいて、併せて14人の男子が生まれたという。このうち李氏の生んだ三人の男子、黄賁、黄賛、黄資のうち、黄賁、字は子貴が黄琬の父親であるという。
黃瓊の息子は”貝旁”を持つ一字を名の共通にしたのだろう。

黄香--黃瓊(世英)--黄賁(子貴)--黄琬(子琰・公琰)

という事になる。黄琬(141-192年)字は子琰(あるいは公琰)は幼い時に父を亡くし、祖父の黃瓊に育てられた。
黄琬の琬は、黃瓊の世代と同じ”玉旁”をもつ文字であるが、これは異例である。字が子琰と公琰のふたつがあるが、子琰は父親世代の字に使われる”子”の一字がある。これは祖父の黃瓊が育てた事に由来するのかもしれない。”公琰”の”公”は後述するが、黄琬の世代の字に共有する一文字と考えられる。
周知のとおり、黄琬は董卓の長安遷都に反対して罷免され、後に王允、呂布とともに董卓暗殺を画策して成功している。しかし李傕、郭椶陵陲虜櫃僕傕に捕らえられ、屈せずに獄死する。黃瓊に育てられただけに、黄香から黃瓊以来の黄家の男の硬骨を受け継いでいた、と言えるだろう。
しかし非常な権門の家系にかかわらず、黄琬の父親がはっきりしないというのは、後漢(東漢)末から三国時代の戦乱によって、記録が亡失してしまった事が察せられるのである。
 
ともあれ、黄香、黃瓊、黄琬については史書(後漢書)に傳をもち、生卒年もわかっている人物たちである。次に三国時代の黄姓の人物について述べてゆくが、『演義』の世界で大活躍する著名な人物であっても、その生卒は未詳で、また系譜もはっきりと確かめ難いのが事実である。そもそも「宗譜」ないし「族譜」によっても主張が違い、時代的に矛盾する記載もある。「宗譜」を盲信するのは危険という点は、注意しなければならない。
 

黄蓋


苦肉の策”で有名な呉の名将、黄蓋(字は公覆)についてみてみると、まず『三国志・呉書』の記載では、

「故南陽太守黃子廉之後也,枝葉分離,自祖遷於零陵,遂 家焉。」

とある。すなわち南陽太守の黃子廉という人物の後裔で、黄蓋の祖父の代から零陵に移り住んだ、という事である。
この黃子廉という人物の生卒年は未詳である。後に東晋陶淵明が”詠貧士”という連作の詩の其七に黃子廉の名があるが、陶淵明の詩の中の黃子廉は本当は別の人物であるという指摘もあり、はっきりしない。
『黄姓簡史』に拠れば、南陽太守黃子廉は名を”守亮”といったという。二文字の名はこの時代珍しい。”子廉”は字(あざな)とすると”子”の一字を共有する黃瓊の息子世代の人物のように思われる。
南陽は洛陽から南下し、襄陽へ至る途上に位置する。この地域の黄氏宗族の一派を特に”南陽黄氏”というが『黄氏宗譜』では南陽黄氏の祖が黃子廉であるという。

『黄姓簡史』に拠れば、『古今姓名辨証』という書籍では黃子廉は黄香の孫、と主張されているという。たしかに黃子廉の”子廉”が字とすれば、これは黄香の孫世代が字に共有するであろう一文字が”子”であるという拝名規則と一致する。
しかし別の「宗譜」では、黃子廉は黄香よりももっと前の世代であり、黄香こそが黃子廉の後代なのだという。

話を黄蓋に戻すと、『呉書』には「(黄)蓋少孤,嬰丁兇難,辛苦備嘗。」と、黄蓋が幼くして父親を失い、艱難辛酸を舐めた、と書いてある。また前述の『呉書』の記載をそのまま読む限り、黃子廉の後代にあたる黄蓋の祖父が零陵に移り住んだ、と読める。前述の『黄姓簡史』を参照すると、黄蓋の系譜は

黃香--黄瓚--黄安(孚仁)-黃蓋(公覆)

とある。つまり黄蓋は黃瓊の兄弟、黄瓚の孫ということになるのである。その場合、黄蓋の字は”公覆”であるから、黄琬の”公琰”と同じく”公”を共有する、とも考えられる。
黄蓋はともかく、その祖先の南陽太守黃子廉については、黄香より以前の人物なのか、黄香の孫なのかすら「宗譜」では判別しがたいのである。
 

黄権


また蜀から魏に仕えた黄権(?-240年)について考えてみたい。
先に『黄姓簡史』を参照すると、

黄香--黄瓉--黄?(孚智)--黄権(公衡)

とある。この系譜を真とすれば、黄蓋と黄権は祖父が共通する”いとこ”という事になるのだが......父親については、名が”孚智”である、という宗譜もあるが黄蓋の父黄安の字が孚仁であるというのだから、これはやはり字(あざな)ではないだろうか。この世代は”子”の字を共有するはずであるが、そのかわりに”孚”が充てられている、とも考えられる。しかし”名”については未詳である。
周知のとおり、黄権は劉備の東征の失敗によって孤立し、魏に降伏する。後に魏で曹丕に重用され、車騎将軍、儀同三司(三公と同等の待遇)にまで登り詰めるほどの人物である。また黄琬の子、という説もある。しかし字に”公”の一字を共有するという事は、黄琬や黄蓋と宗譜上の同世代であることを示唆している。
もっとも、宗譜上の同世代といってもかならずしも同年代を意味しない。今の時代より、兄弟ですら親子ほどの年齢の隔たりは珍しくない時代であることは注意が必要である。

また『三国志・蜀書』に拠れば黄権は益州(現四川省)の出身ということになっており、江夏黄氏とは縁がないようにも見える。しかし史書における「〇〇の人」という出身に関わる記載は、実際の出生地の場合もあるし、本籍地の場合もある。また歴史に登場した地域をもって、あたかも出身地であるかのように(編纂者の類推によって)記録されていると考えられる場合もある事は、注意しなければならない。
黄権の場合、はじめ巴西郡(現四川省と重慶間)の郡吏からキャリアがスタートしている。郡吏は現地採用が多かったから、黄権をこの地方の出身としているのかもしれない。
 

黄忠
 

さて、三国時代の黄姓の著名人というと蜀の名将、黄忠を外すわけにはいかないだろう。
まず『三国志・蜀書』の記載に拠れば「黄忠字漢升、南陽人也」とある。また『黄姓簡史』を参照すると(黄氏宗譜の幾つかに)まず黄忠は南陽の人であり、南陽太守、黃子廉の後裔と主張されているという。
黃子廉の子が黄瓉、その子に黃簪、その子に黄知頃(字は煌霖)という人物がおり、その黄知頃の長男が黄忠、次男が黃賁という人物だという。上記をそのまま整理すると、
 
黃子廉--黃瓚--黃簪--黃智頃--黃忠(漢升)

であるという。まず、黃子廉の子が黃瓚、とあるが黃瓚は黄香の八人の息子のうちのひとりに名がある。むろん、あるいは黄香と黃子廉が同世代で、偶然同じ名を男子につけた.....という可能性がゼロではない。しかしかなり不自然な見方であろう。
しかし黃子廉の子が黃瓚というのは、先の黄蓋の系譜における黃子廉と黃瓚との関係を思い起させる。
また『黄姓簡史』には別の主張があり、黃瓚には孚仁、孚義、孚礼、孚智、孚信という(いささか出来すぎでいるが)五人の子がおり、孚智の子が黄権、孚信の子が黄忠、であるという。それが真であれば、

黃瓚--黄孚信--黄忠

である。また先に黄蓋が孚仁の子である、という事は述べた。つまり三人は従兄弟同士、という事になるのだが.....

参照した『黄姓簡史』は複数の「黄氏宗譜」を参照して書かれているが、各地にちらばった黄氏がそれぞれに編纂してきた「宗譜」にはかなりの異同があり、いわゆる”正史”と対比すると矛盾するところが多い。

また三国時代も”養子”は頻繁に行われていたから(劉備の養子、劉封など)年齢や年代と世代が一致しないことも珍しいことではない。それを無理に血縁上の関係に辻褄あわせを行った可能性もあるのだから、まずうたがってかかるのが無難なのであり、宗譜・族譜を史料として盲信するのは問題がありすぎるのである。
 
「正史」に傳のある黄香、黃瓊、黄琬あたりは史実として差し支えなく、黄香以下の安陸ないしは江夏黄氏に属するとしても良いだろう。しかし黄蓋、黄権は黄香の宗譜上は黄香の後裔であるが、黄蓋はその祖が南陽太守黃子廉という事で、南陽黄氏の後裔という主張がある。さらに黄忠の系譜については、ひとまず参考程度に考えておくべきであろうが”南陽の人”と蜀書に記載があることから、黄蓋と同じ南陽黄氏という事もできるかもしれない。
また黄琬、黄蓋、黄権の三人については、字(あざな)に”公”を共有することから、宗譜上の同世代という可能性があるという事くらいは、留意していいのかもしれない。
 
ところで黄蓋、黄権、黄忠の三人は、有為転変の激しい人生を送っている。黄蓋は零陵から孫堅に従軍して涼州や中原を転戦し、また黄権は蜀に仕えながら魏に降伏して魏の重臣として生涯を終え、黄忠は劉備に従って蜀に入り、漢中の戦いで活躍している。
とはいえ黄忠の出身地である南陽郡は荊州に属し、史書に登場するのはやはり荊州南部の長沙への赴任である。また南陽太守の後裔である黄蓋は、その出生地とされる零陵も荊州の南部である。
 
黄権の出身地である巴西郡閬(ろう)中県は益州の管轄下であるが、夷陵の戦いで黄権が魏に降伏した当陽は、やはり荊州の南郡に属している。劉備は黄権に長江北岸方面の魏軍を防ぐ事を命じたのであるが、地理に暗いものには託せない任務である。またあるいは、そこに黄権と江夏黄氏との関係性にたいする配慮(疑念)が作用した可能性もある。江夏ないし荊州の黄氏は、黄蓋の例ではないが蜀と呉の両陣営に分かれていると考えられるからである。
宗譜上の関係はうのみに出来ないとしても、やはり「三国志」における黄姓の人物には、黄姓の多い江夏を含む荊州との関係がある、ということは言えるのではないだろうか。
 
江夏ないし安陸黄氏といい、宗譜をたどっておきながら、かえって宗譜が史料としてあてにならない事を示したようなものである。しかしあえて次回は黄承彦、黄祖について、やはり宗譜上の位置づけを考えてみたい。
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江夏黄氏縁起 〜黄祖=黄承彦考1

何回かに分けて、黄祖=黄承彦の考察を掲載しようと思うが、今回はまず江夏に栄えた一大宗族である黄氏の起源について概説したい。

詩詞を以て朝政を誹謗したと告発された「烏台档案」によって蘇軾は黄州に流罪となり、自ら荒れ地を開墾するなど辛酸をなめた。しかしこの地で文学上の成就を得、「東坡八首」「黄州寒食詩」「赤壁賦」などの傑作を残している。筆者も数年前に蘇軾が「赤壁賦」のモチーフにしたといわれる黄州“赤鼻磯”を訪ねた。かつての黄州は現在の湖北省の黄岡市の行政区内にあたる。
黄岡市以外にも、湖北省の武漢周辺には黃陂、黃安、黃梅、黃石、というように「黃」の字から始まる地名が多い。それは古来よりこの地に「黄」姓の一大宗族が栄えていたことに因(ちな)んでいる。
現在の武漢市、古くは江夏と呼ばれた地域に盤踞した“黄氏“の起源をたどれば、戦国春秋時代にまでさかのぼる。
” 潢川黄国“という小国が、現在の河南省潢川県にあたる地域に存在したという。この国はやがて南方の大国、楚の伸張にしたがって滅び、楚の版図に吸収された。黄国の支配者階級である”黄姓“をもつ一族は、ある者たちはこの地にとどまり、またある者たちは楚の国一帯に分散したといわれる。
この” 潢川黄国“に起源をもつ黄氏の中から、戦国四君のひとり、春申君こと黄歇(こうあつ)が現れる。
黄歇(こうあつ)ははじめ楚の襄王に仕える。考烈王の元年に(前262)楚の宰相に任じられ、春申君に封じられる。この春申君黄歇の封地はまたかつての“潢川黄国”は存在した土地であった。(ゆえに現在の潢川県は清朝にいたるまで”春申鎮“と呼ばれていた。)

「史記」では春申君は食客三千人の中の一人、李園の妹(李夫人)を寵愛し、李夫人は身籠る。やがて李園の献策で春申君の子を身籠った李夫人を、嫡子のなかった考烈王に献上する。李夫人が生んだ子が次代の楚王となれば、(実父の)春申君が楚を手に入れる、という計略である。李夫人は王后となり、外戚の李園は重職に抜擢されるが、この秘事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになる。そして考烈王の病没後、棘門で春申君は暗殺され、一族は皆殺しになったという。
ただこの話は、秦の始皇帝と呂不韋との関係にも類似の秘話がある。いずれにせよあまりにドラマチックな王宮秘話であり、春申君の最後についても実話とは考えにくいところがある。

ところで大陸における同姓の宗族の系譜を記した書物を「宗譜」という。いうなれば大家系図で、主だった祖先の事績も記されている。同姓の宗族といっても、時代を経ながら大陸全土に分居枝分かれしてゆき、たとえば”潮州黄氏”や”江夏黄氏”といったように分派してゆく。分派した宗族がそれぞれ「宗譜」を編纂し、また時代をへて加筆再編集を重ねるため、同姓の宗族の「宗譜」であってもいくつかのバージョンが存在する事が多い。さかのぼればそれぞれの「宗譜」に共通の祖先の事績が記載されているのであるが、その内容に異同があることも珍しくない。
「黄姓簡史(中華姓氏簡史叢書・江西人民出版社)」に拠れば、(仔細は省くが)黄氏には何種類かの「黄氏宗譜」が存在する。その「宗譜」のいくつかに、暗殺された春申君の長子の黄尚は、難を避けて江夏県城から三十里離れた黄鶴郷仁義村に遷居したという記載がある。また春申君は黄鶴郷仁義村に葬られたという。この黄鶴郷仁義村が、江夏(現武漢)を中心とする湖北省一帯に黄氏が繁栄する基礎になったという。
仮に複数の「黄氏宗譜」の記載が真とすれば、肝心要(かなめ)の長男が生きているのだから、史記にある「一族皆殺し」は疑わしいところである。
宗譜の記載が真、とは断定できないものの、その後もこの地方から黄姓の著名人が輩出していることから、黄氏が栄えていたのは事実である。春申君にしてもあるいは楚の宮廷における権力闘争に敗れるなり、老いるなりして郷里に隠棲した、というのが実情に近いのではないだろうか。
春申君がよほどの無道を行った、という事績は見当たらない。暗殺などすれば春申君の「食客三千人」が黙っているはずがなく、古くからこの地に勢力を張る一大宗族である黄氏一族も平穏ではいられなかっただろう。流れ者の食客に過ぎない李園が地元の大勢力を向こうに回すというのは、いささか飛躍が過ぎるのである。

『史記』に拠れば、楚は考烈王の死後、李大后の生んだ幽王が即位する。そして李園が宰相となり外戚として専横を振るった。ついで哀王の時代、(哀王の庶兄といわれる)負芻の反乱にあって哀王は殺害され、負芻が楚王に即位し、李園は李大后ともども殺されたという。負芻の簒奪後、ほどなくして秦の王翦、蒙武の侵攻で楚は滅びることになる。
あるいは楚の衰滅の原因を李園の専横に負わせるべく、ことさら李園の悪事を仕立てあげたのかもしれない。
もともと春申君・黄歇(こうあつ)の食客であった李園が春申君を殺害したとすれば、これほど仁義にもとる行為はなく、仁義にやかましい当時のこと、とても衆望は得られなかっただろう。

武漢の名勝“黃鶴樓”の“黃鶴”は、仙人が壁にミカンの汁で描いた黄色い鶴に乗って雲中に去る、という伝説に因む、とされる。しかしそれとは別に、江夏の南部一帯は黄鶴郷という地名で呼ばれており、「黄氏宗譜」のいくつかには、春申君は黄鶴郷の出身であったという記載がある。
通常、亡骸は故郷の一族の墓地に葬られる。黄歇が黄鶴郷仁義村に葬られたのだとすれば、黄歇の郷里はもともと黄鶴郷仁義村であったとも考えられる。
“黄”の字のつく地名が黄氏に由来するのだとすれば、”黃鶴”は黄氏の居住に由来する地名であり、春申君こと黄歇(こうあつ)がその地に本貫をもっていた可能性もある。

しかし春申君こと黄歇が江南黄氏の祖である、という説には異論も多い。あくまで黄氏宗譜の主張するところであり、多くの宗譜は起源を歴史上の著名人に求める傾向があるからである。
史料に「どこどこの人」と出身地が書かれていても、それは出生地とは全く異なる本籍地であったり、逆に本籍地がわからず出生地が記録されていると考えられる場合もある。黄歇の一族が河南から湖北の江夏の黃鶴郷に難を避けたのか、あるいは黄歇よりずっと前の代に黄鶴郷を本籍としていたのか、という点に関しては判断にたるだけの史料はみつからない。
しかし江夏を中心に、”黄”の字をもつ地域が散在しているところを見ると、「黄姓」をもつ宗族が中原に存在した小国に起源をもち、他の宗族がそうであるように、北方からの圧力を受けながら徐々に南下した、という事はいえるのかもしれない。同姓の宗族が集団で移住し、その移住地を姓をつけて呼称するという例は、南方によくみられる現象だからである。

さて黄氏の江夏安陸(現在の雲夢県東南一帯)中心に栄えた一派を安陸黄氏(または江夏黄氏)という。先の黄鶴郷とも重複する地域であるから、言うなれば安陸黄氏は黄歇の後代、という見方もできる。この安陸黄氏から、前漢の名臣、黄香が出る。
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さて、「例年」という言葉がありますが、今年はあらゆる方面で極めて”異例”な年となりそうです。
好天の下で部屋に閉じこもるのはなんとも気鬱なことではありますが、硯に向かって墨を磨っていると不思議と気分が落ち着きます。寫經や小楷など、しばらく遠ざかっていた手本に立ち返って臨書を繰り返すのも、外出できない連休のひとつの過ごし方かもしれません。
”松麝”という言葉があり、これは墨を磨ったときに立ち上る松煙の香りの事です。好みは分かれるかもしれませんが、純粋で良質な松煙にはたしかに特有の芳香があります。
また先の見えない時こそ、過去に立ち返るということで、じっくりと歴史に取り組んでもいいのかもしれません。

以前に訪れた武漢の事を調べていたのですが、武漢はかつて江夏と呼ばれた大陸南部における戦略上の要衝にあたる地域です。三国時代は”黄祖”という人物がこの地を守り、孫堅・孫策・孫権と三代にわたる”孫家”と戦いを繰り広げました。史料では野戦で度々敗北を喫していますが、結局黄祖の守る江夏は孫家によって攻略されることはありませんでした。
この黄祖は、三国志に登場する武将の中でもおそらくは人気の無い武将のひとりでしょう。孫堅を射殺し、名士の禰衡を処刑し、最後は甘寧に見限られて敗死しています。そんな黄祖ですが、実は諸葛亮の舅なのではないか?というような面白い話を見つけました。

諸葛亮は襄陽の名士の黄承彦という人物の娘を嫁にもらうのですが、この黄承彦が黄祖、すなわち黄承彦=黄祖、という事なのです。ちなみに黄承彦の承彦は字(あざな)であると考えられますが、名はわかりません。一方の黄祖の祖は名ですが、黄祖の字(あざな)はわかっていません。つまりは黄祖、字は承彦、という事で黄祖と黄承彦は同一人物ではないか?という事なのです。
「そんな、まさか!」と三国志を愛読する人は思うかもしれませんし、私も初めはそう思いましたが、中国のネットで見つけた文章の論拠を読む限り、あながちな話でもないな、と思うようになりました。
これは 南城太守(ペンネーム)という人が書いた「大爆料!諸葛亮的嶽父黃承彥其實就是黃祖」という文章なのですが、興味のある方は”百度検索”などで調べると出てくるので読んでみてください。
アウトラインはこの「大爆料!諸葛亮的嶽父黃承彥其實就是黃祖」を参照しながら自分なりの解釈も交えた文章を作っているところです。

『演義』では孔明こと諸葛亮は歴史の舞台に忽然と現れ、劉備に仕えるや大車輪の活躍を始めます。しかし晴耕雨読に日を送っていた人物が、何の経験もなしに行政や軍事に手腕を発揮するということは、現実的にはあり得ないことです。
前に「読留候論」で、劉邦の軍師張良が世に出る前の、いわば修業時代に関する蘇軾の考察を紹介しました。要は不思議な兵法書を学んだぐらいで天下の軍師になどなれるはずがない、という事を蘇軾は指摘していいます。それは三国時代の諸葛亮についても言えるでしょう。
襄陽の郊外で隠者のような青年時代を過ごしながら、とつぜん戦乱の表舞台に立って天下に采配をふるう姿には、『演義』やその元となった戯作の作者である読書人の夢と願望が色濃く投影されている、と考えられます。むろん、それは戯作の観衆や年若い読者の期待に沿うものでもあったでしょう。
しかし現実的には、孔明が行政や軍事について経験を積む機会や、力をふるう事が出来た背景があったことでしょう。
黄祖=黄承彦、という図式がもし成立するのであれば、当時の荊州の情勢や、その中での孔明の行動の理由が腑に落ちる点が多々出てくるのです。

ともあれ今は我慢の時期。ひとつ”臥竜”の心境で、そう遠くないであろう回復の時を、ここに雌伏して待つことにしたいと思います。
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随州の桜

湖北省の随州市。封鎖が解かれる数日前の3月9日、まだ外出禁止が敷かれていたころである。深圳から帰省した朋友は両親と自身の息子、また妹の家族五人で実家マンションに閉じ込められていたのであるが、一階の並木に桜が咲いたという。いくら何でも早いのではないか?と思ったのであるが、送られてきた写真を見る限り確かにソメイヨシノが咲いている。
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随州は武漢から襄陽に至る、ちょうど中間に位置している地方都市である。夏暑く冬は雪が降るほど寒くなるが、考えてみれば鹿児島と同じ程度の緯度であるから日本の近畿関東などよりは桜の開花時期は早いだろう。
もっとも、この当時は自室の玄関から原則一歩も出られない厳しい制限が敷かれていたから、写真はベランダに出て眼下の桜を撮影している。せっかくの桜をまじかで見られないのが残念だ、とこぼしていたが、その四日後の3月13日には小区と呼ばれるマンションエリア内の敷地には出ることが可能になり、近くから撮影した桜の写真を送ってくれた。さらにその二日後の3月15日には外出禁止令が解かれたという。
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3月23日には江西省贛州からの医療応援隊を随州市民が沿道総出で見送ったのである。その写真を見て、せっかく感染拡大が収束したにもかかわらず、このように大勢で送別するのはどうであろう?と思ったのであるが、朋友曰く「大丈夫、沿道の人々はみなマスクを着けています。」という。拡大してよく見ると、なるほどマスクを着けていない人はない。外出禁止は解かれたが、マスクをつけなければならない規則は継続しているという事だ。
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ところでこの随州の朋友の妹は若くしてなかなかのやり手であり、工場における検査治具をつくる会社を経営している。その顧客のうちの一社に、医療用マスクを製造する工場があるという事だった。それで朋友姉妹は深圳から湖北省に帰省する際にもかなりの量のマスクを持ち帰っていたので、政府による配給に頼らずとも一家がマスク不足に陥ることはなかったという。

その朋友が10日ほど前の3月17日「マスクを買わないか?」と打診してきた。日本でもマスクをなかなか購入できなくなって久しいが、自分用の分はある程度は確保している。安徽の朋友に送ってくれと頼まれていて、EMSの混雑ならびに大陸中国のマスクの流通制限によって、結局送ることが出来ないままになってマスクもある。
ゆえに当面、個人的にはマスクが足りないという事はないのであるが、熱心に進められるので付き合い半分で購入することにした。値段を聞くと、1枚2.15元だという。朋友曰く、これは工場出荷価格なのだそうだ。
1元を15.5元で計算すると1枚33円ほどである。50枚入りのパッケージで1666円である。こういった箱入りのマスクは、コロナウイルスが蔓延する以前は、ドラッグストアで1箱498円で買えたものである。それが工場出荷価格の時点で3倍以上になっている。

ちょっとうがった見方をすれば、この朋友がいくらかマージンを乗せているとかキックバックをもらっていると考えるかもしれない。ただ今までの付き合い上、個人的に信じるところでは、そういう細かい商売はしない人物である。また私は別段マスクを商っている人間ではないから量を買うとも向こうは思っていない。別口では数万単位でオーダーを受けているという。むろん、この朋友も普段はマスクなど扱ってない。電子部品の商社を経営しているのであるが、今は臨時で工場からオファーがあるのだという。
しかしこんなに高いのはどういう事情かと行くと、原材料の不織繊がコロナウイルス流行以前は1トン2万元であったのが、ピークで60万元まで高騰したという。それが若干おちついて50万元になっている、という事だ。
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マスクをみると、口元を覆う部分は機械で製造されるのだろう。おそらくは耳にかける紐の部分が、熱圧着などで人の手がかけられているのであろう。なので製造原価のほとんどは材料費のはずであり、それが25倍〜30倍まで高騰してしまうと、単価の上昇もやむを得ないのかもしれない。
朋友は何やら大量に購入して欲しいようで「最大で何枚買えますか?」と聞くのであるが、以前の3倍の値段のものを大量にさばく自信はないし、周辺で会社や工場を経営している人に聞いても当面間に合っている、という事である。何枚くらい買えるのか?と聞くと「60万枚。」という。さすがにそんなに買っても仕方がないので、最低ロットの2,000枚を付き合いで買う事にした。50枚入りのパッケージで40箱が、ちょうど段ボール一箱分である。

少しインターネットで値段を調べてみると、在庫があるとは限らないが、似たようなマスクが日本では安いところで2000円を切るくらいで販売している。こういったところは直接仕入れて薄利多売で売っているのだろう。他に4000円近い販売価格のところもあるが、工場出荷価格を考えれば、通常の卸しから小売りルートに載せれば、それくらいの値段になってしまうのだろう。

一応、”BFE99%以上”というのは、性能的には病院で普通に使えるレベルのマスクなのだそうだ。ちなみに感染患者と直接接するにはN95という規格が必要であるし、外科手術用のマスクはまた別であるという。要は一般病棟で使えるレベル、ということだろう。
しかし日本は医療用のマスクとして輸入する場合はPDMAという認証資格を持っていないと輸入は出来ない。むろん、そんな資格は持っていない。だから単にBFE99%とだけ書いた箱に詰めて送られ来るのである。
ちなみにアメリカに医療用のマスクとして輸出する場合は工場がFDA認証を持っていなければならない。輸出する国の医療関係の法律によってさまざまな規制や認証があるのだという。
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届いたマスクの品質や使用感を見る限り、使い捨てマスクとしては特に問題はなさそうである。そこで昨日、追加で買えるか?と聞いたのであるが「買える事は買えるが、価格は3.2元になった。」という。わずか一週間で五割増しのアップである。1個50円を超えるのはさすがに高い。50枚入りのパッケージで2500円を越えるのである。
しかしこの原因は言うまでもなくこの一週間で欧州とアメリカで感染患者が激増したことにある。すでにマスクは各国で奪い合いの情況で、特に医療用のN95規格のマスクはお金があっても買うことが出来ないのだという。
察するに3月17日時点で大量に購入を打診してきたときは、武漢を除く湖北省のほとんどの地域で封鎖が解かれ、一時的にマスクの需要が低減したのであろう。それがその後1週間に満たない間にアメリカやヨーロッパの情勢の急激な悪化で再び切迫した状況に変換した、と考えられる。
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幾分うがった見方をすれば、世界規模のでのコロナウイルスとの戦いの中で、今やマスクを初めとする医療用品や医療器材は第二次世界大戦における武器弾薬と同じであり、戦略物資でもある。
大陸中国では生産などの経済活動が徐々に回復しているとはいえ、厳しい封鎖が経済に与えるダメージは日に日に明らかになってゆくであろう。また欧州やアメリカなどの主要な市場が封鎖され、世界的に経済活動が劇的に鈍化している中で、通常の工業製品の需要は大幅に落ち込んでいるであろう。非公式の統計では失業率は6%を超えているという。
マスクの製造作業は原材料の不織繊さえあれば簡単なものであるから、工員を募集し、急速に製造ラインを増やすことも可能であろう。マスクの製造は、ひとつには雇用対策、ひとつには外貨獲得のための重点国策産業になっていると考えられる。
中国が武漢をはじめ大陸全土を封鎖していた期間、製造されるマスクはほぼすべて中国政府が買い上げ、必要な現場へ配給されていたのである。これはまさに社会主義的な統制経済の在り方である。それが大陸の封鎖が解かれ、海外へ輸出する段になるや、市場原理による原材料の価格高騰が直接反映されているのにはいささか閉口したくなる。

背後の事情はともかく、現場によって必要なものは必要なのであるから、これらマスクも必要な場所へ行き渡ることが望まれる。
日本は現在、欧州やアメリカからの帰国者に由来する感染の第二波の中にある。東京をはじめ、大都市に限らず「不要不急の外出」は自粛することが望まれる。せっかくの桜の季節ではあるが、西日本はあいにくの天候なのは「天の声」であろうか。
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感染拡大の第二波

........三月中旬あたりから香港における感染者数が急激に増加傾向を見せていた。
(騰訊新聞「新型冠状病毒肺炎・疫情実時追跡」) 三月中旬までは入院患者数が50〜60人で推移していたのがわずか一週間の間に280人にまで増えている。香港の友人に確認したところ「海外、とくにアメリカやヨーロッパから帰国した人の中で感染が確認された人が多い。」とのことである。
湖北省を別格とすると、現在の大陸における感染患者数ではいつのまにか香港が2位につけている。次いで、北京、上海と続く。北京や上海にしても、おそらくは香港と同じように海外との往来の人数の多さが影響しているのではないだろうか。
というような事をさっきまで書いていたら、東京でも本日3月25日に一日では最多の40人の感染が確認されたという。この件について小池都知事が20時から緊急記者会見を開くということだ。
おそらくは東京も香港と同じで、欧米からの帰国者の増加による感染者数の増加が要因ではないだろうか。
(新型コロナウイルス感染症患者の発生状況 厚生労働省) 2月から増加していった日本における感染者数は、クルーズ船の乗客の感染者を別にすると、3月中旬から収束傾向すら見せていた。この2月に入ってから今までの感染患者の増加は、言うまでもなく春節前後での大陸との往来に由来すると考えられる。
そして今回の感染者の増加は、いうなれば海外からの”第二波”で、感染が拡大するヨーロッパ、アメリカ、そのほかの世界各地からの帰国者に由来すると考えられる。

桜の開花が例年より早い今年であるが、日に日に気温があがり、日照時間も長くなり、紫外線量も増加している。これはウイルスにとっては環境が厳しくなってゆく事を意味しているが、油断は出来ないだろう。
感染はウイルス集合の中でも感染力の強いウイルスが感染してゆくわけで、いうなれば繁殖力の強い個体が増えるという事であるから、武漢で爆発したころよりも強い感染力を持つ可能性もある。

しかし個人レベルでは、風邪やインフルエンザの感染予防以上のことはできるわけではなく、それを念入りにやるしかない。しかしこのいわば全国民的な予防行動の徹底が、今や世界でも稀な感染の抑制を見せていたことも事実である。

新型肺炎の死亡率を低く抑えるのは病院など医師看護士医療機関、医療機器の仕事である。しかし感染症拡大の抑制は公衆衛生環境、衛生習慣の役割が大きい。生活様式に根差す衛生習慣は、その国固有の歴史、文化と不可分である。
”衛生観念”というが、衛生は観念に根差しているところがある。古代人はウイルスや細菌が目に見えたわけではない。しかし「ケガレ・ハライ・キヨメ」といった、日本古来の衛生観念が、やはりコロナウイルスの拡大を防ぐうえで力を発揮しているのではないだろうか?逆に考えると、古代の日本は疫病の流行に繰り返し悩まされてきた、という事でもあるだろう。それは史料に上る以上の被害を古代の日本社会にもたらし、それを防ぐための衛生習慣が、食器を共用しないなどの良くも悪くも「人と人との距離が遠い」日本人の生活文化、行動様式を生み出した、という事も考えたくなる。
古事記にある、黄泉の国にイザナギノミコトが下りて行った伝説も”愛しい者であっても死者は遠ざけねばならない”という事を教訓として知らしめているのかもしれない。

ともあれ、皆様におかれましても、今後も充分にご注意願いたい次第。
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