送料の改定につきまして。

今年は東日本を中心に水災害が多く、被害にあわれました皆様方に心よりお見舞い申し上げます。

さて消費税率の変更に伴い、一部送料を改定いたしました。ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承ください。

具体的には、今まで1万円以上お買い上げで送料無料とさせていただいておりましたところを、1万2千円以上お買い上げいただいた際に送料無料、というように変更させていただきました。商品の価格は据え置きいたします。内税にての営業のため、皆様方にはご理解のほど、お願い申し上げます。

昨年は大阪に台風が直撃し、私の自宅も四日ほど停電してしまいました。年々台風の威力が大きくなっているように思います。異常気象というよりも、なんらかの気候変動ともいうべき変化が地球上に起きているのかもしれません。

乾燥していた中国大陸の北部も今年は雨が多く、積年の水不足が解消しそうな勢い、という話も聞かれます。ひとつにはチベット高原で大規模な人工降雨が実施されている、という話もあります。スペインの国土面積に匹敵する範囲でヨウ化銀を揮発する装置を何百台も設置し、雨を降らせるというのです。いうまでもなくチベット高原は黄河の源流にあたり、チベットの降雨量が増加すれば黄河の水量が増え、北方の水不足が解消する、という仕組みです。

しかしながら気候の循環を人為的に修正することは思わぬ副作用を生むといわれています。そういった行為をも、ためらわず実行しようとする思想には、空恐ろしいものを感じます。
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消費税率変更に伴う、価格改定のお知らせ

いつもお世話になっております。
10月1日の消費税税率変更に伴い、一部の商品の価格、ならびに送料を改定するよていです。弊店は内税価格にての運用ですので、皆様方にはなにとぞご理解賜りますよう、お願い申し上げます。

今年はなかなか渡航のタイミングがとれないのですが、新しい筆や墨の制作の件もあり、年内のどこかで渡航することを画策しております。

ここ半年くらいでしょうか、中国では豚肉と果物の価格が高騰していることをよく耳にします。豚肉に関しては現在大陸ではアフリカ豚コレラが蔓延しており、果物に関しては天候不順や水災害が影響しているといわれます。とはいえ、物価上昇は豚肉や果物にとどまらず、食品全般に及んでいるようです。
これは米中貿易摩擦が影響しているという話があります。それもあるでしょうが、おそらくはここにきて大陸の金融緩和政策が影響しているのではないか?とも考えています。
2017年から大陸の不動産市場は下落を始めた気配があるのですが、実勢価格と公表価格に乖離があります。また高騰をあおりたい不動産デベロッパーは価格上昇の偽情報をわざと流したりもするので、大陸の報道や公表されているデータだけを見ていると、よくわからないところがあります。
しかし昨年1年間で香港の不動産市場は8%下落した、というデータがあります。香港の統計が信頼できるとすれば、大陸の不動産バブルも、少なくともピークアウトしたことは間違いないでしょう。香港の不動産市場に投資しているのは多くは大陸資本であり、香港の不動産相場の趨勢は大陸不動産市場の先行指標でもあります。

不動産バブルの崩壊は、その先に金融危機が待ち受けます。不動産バブルを延命ないしは安楽死させようと思えば、金融を緩和し市場に資金を流し込みつづけなければならないのですが、現にそれを人民銀行は実施しています。
凋落する不動産市場が吸収しきれない資金が、物価を押し上げている、という側面はあるでしょう。

大陸経済の先行きはともかくとして、筆や墨の製造原価も高止まりしています。筆でいえば兎毫や羊毫、筆管用の竹などが20年前の100倍ほどにも上昇してしまった、という事実があります。墨や、ある種類の筆などはもう日本で作った場合と大差ない状況でしょう。
そういった状況下で、あえて唐筆や唐墨を扱う意味については、これをさらに深めてゆかなければならないと考えています。

ありていに申せば、現在の日本で、書道用品店が廃業するなどして安値で放出される在庫品をキャッチした方が安い場合もあります。価格を見ると、その値段では今の大陸では工場の出荷価格をすら下回る場合もあり、まったくもってため息が出ます。
とはいえ、そういった過去に生産された品物もこれ以上増えることはないわけですから、やはり新しく作られる分も必要ではないかと思う次第なのであります。

引き続きご愛顧のほど、何とぞよろしくお願い申し上げます。
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四体筆勢 1. 〜蒼頡と沮誦

さて、宿題にしていた「四体筆勢」の読解を進めようと思う。別段、専門的な研究といったほどの知識も能力も持ち合わせていない者の解釈なのでいいたい放題であるが、読み物程度にお考えいただきたい。

しかし読むほどに四体筆勢が、現存する最古の書論のみならず、優れた内容を持っていることに気づかされるのであるが、今回は冒頭の以下の短い一節のみについて。

昔在黃帝、創制造物。有沮誦、倉頡者、始作書契以代結繩、蓋睹鳥跡以興思也。

書き下せば、

昔し黃帝(こうてい)あり、造物(ぞうぶつ)を創制(そうせい)す。沮誦(そよう)、倉頡(そうけつ)者あり、始(はじ)めて書契(しょけい)を作り、以って結繩(けつじょう)代える。蓋(けだ)し鳥跡(ちょうせき)を以って睹(もく)し思(し)を興(おこ)す也(なり)。
とりあえずの大意を示せば、

昔し黃帝が造物を創制された。沮誦(そよう)と倉頡(そうけつ)という者がいて、始(はじ)めて書契(しょけい=文章)を作り、それでもって縄の結び目による記録・伝達手段に代えた。おそらく鳥の足跡をみて文字を発想したのだろう。

というところか。
はるか太古の黄帝の時代、倉頡という人物が文字の創案者、ということを述べている。この倉頡はまた蒼頡ともかく。

「倉」は「クラ」すなわち”モノがたくさん集まったところ”を表すのが原義である。また「蒼」は「あおい」という意味があるが、もとは草が集まった色を表している。山は近くで見れば「みどり」でおおわれているが、遠くから見れば「あおい」ように、植物が密生した草原もまた「あおい」のである。
この「倉」ないし「蒼」という姓は、周の王室の姫姓とともに古くから存在し、もとは官倉の管理責任者の官職名が氏姓に転じたと考えられている。

四体筆勢の筆者の衛恒は三国時代末期から西晋にかけて生きた、西暦でいえばおよそ三世紀の人物である。一方で冒頭で触れた”蒼頡”による文字の起源説については、衛恒の時代からさかのぼることおよそ500年前、紀元前二世紀頃には知られていたようだ。

たとえば「荀子・解蔽」に“好書者眾(衆)矣,而倉頡獨傳者壹也”とある。また「韓非子・五蠹」には“昔者倉頡之作書也”とある。さらに「呂氏春秋・君守篇」にも”奚仲作車、倉頡作書”という記述がみられる。これらの書物はすべて紀元前2世紀ごろに書かれたと考えられている。
少し時代が下って紀元前1世紀の前漢時代、「淮南子·本経」には“昔者倉頡作書、而天雨粟、鬼夜哭。”という記載がある。
この淮南子の記述については、つまりは文字が出来たことを嘉(よみ)して天は粟(穀物)の雨を降らせ、鬼(神)は夜にむせび泣いた、ということである。
論語にはすでに「(孔子は)怪力乱神を語らず」という言葉がある。鬼神はここでいう神、のことである。文字の発明によって人間の知識が増加蓄積し、知恵の光に照らされることで怪異の立つ瀬がなくなることを嘆いた、という意味になるだろうか。

ともあれ紀元前2世紀から前1世紀ごろの知識人にとっては、文字の発明者として蒼頡の名は常識化していた、と考えていいだろう。だから三国時代後期の衛恒もその知識を踏まえて四体筆勢の冒頭に蒼頡の名を掲げているのである。
しかしこの2世紀の知識人たちの知識がどこから来たのか?という点は少し考える必要があるだろう。

呂氏春秋を編纂させた呂不韋も、韓非子、さらには荀子も、ほぼ同時代の人物である。韓非子は荀子の弟子であったという説もある。(これを否定する説もある。)
いうまでもなく呂不韋は秦の始皇帝に仕えた(始皇帝の実父という説もある)豪商であり、巨費を投じて知識人を集め、呂氏春秋を編纂させた。韓非子は後に秦に仕えるが、それは呂不韋の失脚の後である。
秦というのは戦国春秋時代のはじめは西方の後進国であったが、次第に強大となり、ついには六国を滅ぼして中原を統一する。
それまで中原における知識の先進地域というのは、孔子の出身地である魯を中心とする地域、中原の東方であった。しかし呂不韋のころには秦も相当に知識文化が進んでいることがうかがえる。むろん、秦の統一後に焚書坑儒によって膨大な文献が亡失したと考えられ、先に挙げた荀子や韓非子、呂氏春秋といった書物は秦にゆかりをもつだけに残存したとも考えられる。しかしそれとは別に、秦は西方との交易をひらき、西域経由で西アジアの文化を積極的に輸入していた事も無視できない。
秦が天下を統一できたのは、中原に対して黄河の上流に位置する地の利もさることながら、西域からの新知識の導入も貢献していたと考えられる。始皇帝は手を尽くして不老不死の法を求めたが、現代風に言えば最先端の知識・テクノロジーを求めてやまなかった、ということになる。
始皇帝陵がピラミッド構造をなし、復活再生を信じて壮大な死後の世界を地下に築くという発想、知識自体が、おそらくはエジプトを起源とする死生観に基づくという説もある。
推測の域を出ないが、この蒼頡の文字の起源説も、やはり西方由来の知識に基づくのではないか?と考えられるふしがある。

話が西に飛ぶが、人類最古の文明といえばメソポタミアに始まるとされる。ひとくちにメソポタミア文明と言っても、実際はメソポタミア地方に大小複数の文明が存在したことがわかっている。
そのメソポタミア文明における粘土板に刻まれた楔形文字は、その最古の部類は占いの結果を記すものであったという。これは古代中国において、甲骨文がやはり占いの結果を記録する用途において使用されてきた事に類似している。

先に掲げた「四体筆勢」の冒頭には『蓋(けだ)し鳥跡を睹(もく)し、以って思(し)を興(おこ)すなり』とある。すなわち「鳥跡」つまりは鳥の足跡をじっとみて、その形象に文字のアイデアを得た、ということである。

鳥が足跡を残すのは泥濘の上である。また湿地に降り立つのは、多くは足が長く首の長い水鳥を想起する。
メソポタミア文明における楔形文字は、粘土板にアシのペンでもって刻み付けることで筆記されたという。紙に比べれば重量もありかさばるが、乾く前なら修正が用意で再利用もできるうえ、焼成すれば焼失しにくい記録媒体である。
逆三角形が基調の鳥の足も、見る角度では楔形にも見える。基本的に同じ形象のクサビの数や配置によって記号の異同を表す楔形文字であるが、鳥の足跡が並んでいるようにも見える。
また水鳥が泥濘に残した足跡が文字になったという伝説は、どこか粘土板に葦のペンで刻まれたクサビ形文字を想起させるところがある。いうまでもなく葦は河岸に繁茂する植物である。
現代でいう篆書体と隸書体が中心であった衛恒の時代も、出土文物である青銅器や獣骨に刻まれた古代文字は知られていたと考えられる。後述するが「四体筆勢」には古文、つまりは古代文字が発見された事例が記述されている。
獣骨や亀の甲羅、あるいは青銅器に刻まれた甲骨文の形状が、鋭い水鳥の足跡の重ね合わせに似ているといえば、似ていないこともない。

ちなみにメソポタミアにおける知恵と文字の神はNabuといい、またはTutuともいう。そのイメージは、美髯の神人ないしは有翼神人として描かれている。
また古代エジプト神話における文字の神はThoth(トト)であり、水鳥のトキないしはヒヒの姿をしているという。一般にThothといえばトキの姿ないしは鳥面有翼の神人としての像が良く知られている。
ここでメソポタミア神話におけるNabuがエジプト神話におけるThothなのである、というのはまったくの早計なのであるが、人類最古の文明といわれるメソポタミア文明と二番目に古いとされるエジプト文明において、文字の起源に神が存在する、というのは示唆的である。神の意思を読むべき卜占を記録する文字の創案が、人間の手によるべきものではない、という考え方であろう。

以下は推測に過ぎないが、おそらく紀元前2世紀の中原の書物に言及されるところの”蒼頡”というのは、西域経由でこれら中東〜西アジア起源の神話が伝播した結果、その知識内容が翻訳変化したものではないか?と考えられるのである。

蒼頡の”頡”は、詩経(邶風・燕燕)に「燕燕於飛、頡之頏之」とあるように、鳥が(上方に)飛翔することを意味する語である。また「頡」には(まっすぐに硬直した)「首」という意味がある。また「頏」は飛び降りることと、さらにはやはり「首」という意味がある。
蒼頡の「頡」は首、ないしは鳥の飛翔にかかわる文字であり、鳥の足跡が文字の創案の契機となったという伝説と考え合わせると示唆的である。エジプトのThothが水鳥の格好をしているところにも、どこかつながりを感じさせるものがある。
Thothが水鳥の姿をしているのは、天空を舞う鳥に神の姿を仮託するという古代エジプト神に共通のイメージと同時に、筆記媒体であるパピルスがナイル川河畔に多く自生し、また筆記具として葦のペンが使用されることと無関係ではないだろう。鳥の中でも、特に水辺を想起させる水鳥、すなわちトキの姿をとるのではないだろうか。

蒼頡とならんでもう一人沮誦、という人物が出てくる。道教の説では沮誦は蒼頡とともに黄帝の四人の史官の一人であり、蒼頡の助手を務めた、といわれている。もちろんこれは「四体筆勢」よりさらに後世、道教の発展の過程で形成された伝説である。
ところが蒼頡に関しては2世紀頃の複数の書物にその名が現れているが、沮誦に関しては記載されている史料が見当たらない。四体筆勢には蒼頡の前に沮誦の名が挙げられているにも関わらず、先の韓非子や荀子、呂氏春秋には見当たらないのである。

沮誦は、また詛誦、ないしは沮頌とも書かれる。”沮”には流れをせき止める、という意味がある。”沮”のサンズイと”詛”とゴンベンは、草書ないし行書に約せばほぼ同じ字形になる。”詛”は呪詛、というように誓いや呪いを口にする、という意味がある。また”頌”は古くは祝願を表す字であるが、朗読という意味もあり、ほぼ”誦”と同意の文字である。
沮誦ないし詛誦、または沮頌という人物の名も、文字の発明と無関係ではないだろう。すなわち記録可能な文字の出現以前には、口伝による伝承の時代が長く続いていた、と考えられるからである。文字はなかったが言葉や会話はすでに存在していて、それが沮誦ないしは詛誦という人物の名に、痕跡として表れているのではないだろうか。

あるいは沮誦という人物の名称自体、西方から伝播してきた書物を誤訳した結果ではないか?という疑惑がある。なぜか?

文字の発明の後、”書契”でもって”結縄”にとってかわった、と述べている。
この書契は今でも”文章”という意味でつかわれる単語であるが、書契の契は古くは”鍥”と同意であり、”鍥”は刀でもって刻む彫刻する、という意味である。これはどことなく獣骨や亀甲に刻まれた甲骨文を想起させるところがある。
また”結縄”これは縄の結び方や、結び目の数によって記録や意思伝達をする手法である。

「老子道徳経」の中でも比較的有名な「小国寡民」の章に”使民復結縄而用之”とある。つまりは文章で複雑な事を記述する必要はなく、結縄くらいの簡単な記録や意思伝達で事足りるくらいの小さな国家が理想なのだ、ということである。また易経・周易・繋辭には”上古結繩而治,後世易之以書契。”とある。
易経・周易は東洋最古といわれるテキストであるが、その繋辞伝の成立は漢代であるといわれる。老子道徳経の成立年代は諸説あって定まらないが、遡れても紀元前2〜3世紀ごろであるから、早くとも蒼頡が文献に現れる時代とほぼ同じ時期である。

単純に考えれば、まず記号としての文字が発明され、やはり記号に過ぎない結縄にとってかわる、ということは理解しやすい。しかし”書契”すなわち文章が発達し、記号である結縄が表す単純な意思の伝達や記録に代わるというのは考えにくいものがある。
もし”書契”が置き換わったのだとすれば、結縄で表された単純な記号もむろんあったにはちがいないが、歌謡や言い伝えのような、ひとカタマリの内容を持った口伝、口承の類なのではないだろうか。
とすれば”沮誦”という”話す”あるいは”語る”行為に関係する文字のつながりは、もとは人物名ではなく、文脈上は”結縄”と同列の、文字の発明以前の情報の記録・伝達の手段をあらわしていたのではないだろうか?と考えたくなる。
”沮誦”の名が「四体筆勢」以前の”蒼頡”に触れた文の中には見当たらないのも、そのあたりに理由を求めることができるのではないだろうか。

衛恒がどのような書物を参考にして「四体筆勢」を記述したのか?今となっては確かめることができない。西晋の衛恒より前の時代の前漢の「淮南子」にも文字の発明者としては”蒼頡”の名ばかりで”沮誦”の名は見当たらない。
現在読むことができる「晋書・衛恒傳」の文が正しく衛恒の文を伝えているのであるとすれば、やはり衛恒は文字の起源について、当時の常識的な知識以上の何事かを伝えようとしている、という見方もできるのではないだろうか。
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新老坑硯五面 〜有眼荷葉硯

新老坑硯を五面、あらたに店頭にお出しした次第。今回、弊店にしてはややおおぶりな、ハスを模した荷葉硯もある。この新老坑硯、珍しいことに眼がある。
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......寶硯堂硯辨には、老坑水巌は大西洞の三層の石をさらに上下二層に分け、この上層の部分を”腰石”と呼び、よく眼が出ると述べている。手のひらに載るほど大きさながら、眼が必ず数個はあると。
正直、この"腰石"に相当するであろう大西洞の硯石については、恥ずかしながら過眼している自信がない。”かならず数個の眼が出る”というあたり、そのような老坑水巌の硯石が存在することが、やや信じがたい思いがする。
大西洞の三層であれば必ず佳材に違いない。いや大西洞に限らずとも、佳材にしてかつ眼が数個もあるような老坑水巌自体、記憶の中でも片手に満たない。
一般に老坑水巌に眼の出ることは極めてまれで、それは老坑水巌近傍で発見された新老坑においても同様なのである。

端溪を特徴づける石品として珍重される眼、ないしは石眼であるが、端溪だからと言って眼が必ずあるわけではない。
比較的よく眼がみられるのは坑仔巌であるが、坑仔巌の眼はおおむね丸くて黄色味の勝った色をしている。老坑水巌といえば淡い緑色、ないしはさらに青の勝った翡翠色をした、いわゆる鸜鵒眼(くよくがん)である。しかし現実、老坑系の硯石では鸜鵒眼はおろか、死眼ですらめったに見られるものではない。

端溪といえばやたらと石眼を珍重する向きがある。以前にも触れたが、夏目漱石の”草枕”では、田舎の温泉を訪問した主人公が寺の茶席に呼ばれ、蜘蛛を模した端溪硯を見せられる。じつに九つもの眼のあることをもって、非常に貴重な硯であるとしている。
 
「中央から四方に向って、八本の足が彎曲(わんきょく)して走ると見れば、先には各(おの)おの鸜鵒眼(くよくがん)を抱かえている。残る一個は背の真中に、黄(き)な汁(しる)をしたたらしたごとく煮染(にじん)で見える。 」

この石眼、蜘蛛の足上にひとつづつと、背中にひとつの、合計9つであったと描写されている。その眼のいちいちが蜘蛛の足の配列に従ってほぼ等間隔に並んでいる旨が”草枕”には描写されている。むろん自然に生まれた配列ではないだろう。後から別所の眼をもって補填した、いわゆる”嵌め眼”と考えられる。
背中の眼だけが黄色く、他が鸜鵒眼であるという。自然に表れたのは背中の黄色い眼であり、鸜鵒眼は”嵌め眼”に相違ない。およそ一硯の一面に現れる眼の、あるモノが黄色く、またあるモノが緑がかった鸜鵒眼、これらが混ざり合っているということはまずない。
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実のところ弊店で扱ってきた新老坑硯も、明瞭な眼の出るものはなかったはずである。眼の出た硯だけ秘蔵しているわけではなく、眼の出ていて、かつ材質のいい硯は滅多にお目にかからないからである。
硯としての性能を全うするだけの堅牢な鋒鋩であるとか、材の温潤さを重視して選別していると、眼の出る硯ははじかれてしまうことが多い。とはいえ眼だけを重視して硯を選んでいると、それなりの数の端溪硯が出てくるのである。しかしあいにくと材質が劣っていることが多いのである。
眼が出ているからと言って材質が悪い、ということではないが、材質が良くかつ眼が出ている硯は不思議と少ないのである。

石眼にかぎらず、硯に現れるさまざまな外見上の特徴、すなわち”石品”でもって硯石、とくに端溪硯の良しあしを判断するのは危険である。良い石品が出ているからと言って、鋒鋩が堅牢であるという保証はどこにもない。また確たる石品が現れていないからと言って、材質が優れていないとは限らない。硯をもっぱら観賞用の石の彫刻とするならば、石品をもって価値を決めるのもひとつの価値観であろうけれど、その見方を当方は採らない。
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しかし強いて石品を重視するのであれば、それは”青花”であろうか。寶硯堂硯辨でも、天青に続いて石品の筆頭に挙げている。また青花に付随して現れる蕉葉白や魚脳凍、などがたっとばれる。「寶硯堂硯辨」に限らず、幾多の『硯説』が述べるところでは、青花は硯石の精華であり、佳材の証であるとしている。
太陽の下において、水に沈めた時に青花が浮かび上がるさまは硯石が脈動するかの如く、生命力を感じさせて好ましいものである。
しかし注意を要するのは「寶硯堂硯辨」が説くのはあくまで老坑水巌において、という点である。青花は麻子坑や坑仔巌にも現れる。しかし青花が出ているからと言って、他の雑坑の硯石が老坑水巌に勝る、ということを意味しないのである。このたありは言葉の論理をよくわきまえておかなければならない。別段”必要条件”や”十分条件”を持ち出さなくてもいいが「逆、必ずしも真ならず」は、常々頭に置いておかなければならない。老坑水巌であり、かつ青花が出ている場合において、という意味である。

昨今、金線銀線や氷紋のあるをもって老坑水巌である、とみなす傾向がある。また眼の出る端溪硯を珍重する向きも、やはり根強いものがある。しかしながら金線や銀線は古くは石瑕として扱われた石品である。また石眼も同様、削り取られてしまっていた時代もあった。金線も石眼もともに、それらが現れていたからと言って硯石の温潤なことを担保しないからである。
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さて、この荷葉硯は写真には写りにくいのであるが、細かい青花が一面を覆っている。弊店が扱う硯としては、今までの中で最も大きい部類であろう。しかし一般に老坑ないし新老坑に巨材は少ない。面積にして小さく、厚さが薄く、かつ不定形をしていることが多い。不定形の天然石を四直の硯板状にカットしようとすれば、相当部分を捨てなければならないのである。
硯背と硯面に数条の金銀線が走っているが、それはハスの葉の葉脈に見立て、荷葉硯に仕上げているのである。墨池を持たない硯板状の硯はいささか玄人好みである。もっとも大きな眼の周囲を若干もりあげ気味に仕上げているのも、古来からの有眼硯の作硯手法である。ゆえに硯面は完全な平面ではなく、緩やかな起伏がある。大きさが大きさだけに値段も値段なのであるが、当面、店頭を飾ってもらえればヨシ、という次第である。
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新老坑硯数面

.......「四体筆勢」を自分で宿題にしておきながら、諸事情で立て込んでしまって内容が進まない。まずは近日中に、店頭の在庫も残り少なくなった新老坑硯を何面か追加したいと考えている。以下はそのうちの四面。
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宿題といえば、いつか何傳瑤の「寶硯堂硯辨(ほうけんどうけんべん)」も解説してみたいのであるが、いつになることやら。
愛硯家のバイブルと言われる「寶硯堂硯辨」が面白いのは、老坑水巌を説きながら他の雑坑の記述に及んでいるところである。すなわち大西洞の後に小西洞について述べられるわけではなく、大西洞と似た雑坑を列記し、しかる後に正洞について説き、続いて正洞に似た雑坑を列記......これを以下小西洞、東洞、として老坑四坑洞について述べている。
要するにそれだけ老坑四洞の特徴に似た端溪の雑坑が存在するというわけで、「寶硯堂硯辨」で老坑以外に言及される”雑坑”は三十一にも及んでいる。その中には現在ではどこの坑洞なのかわからないような坑洞もある。大西洞に近似の”雑坑”の中には坑仔巌も麻子坑も入っているから、ひとからげに雑坑と言ってしまうと語弊があるだろう。
しかし何傳瑤の価値観では、老坑水巌以外の諸坑にはとるべきところがないのである。宋坑に至っては砥石あつかいなのである。
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「寶硯堂硯辨」の初版は道光十年(1830年)であり、この時代にはむろん新老坑(戦後に開坑)はまだ開坑されていない。もし新老坑を見ていたら何傳瑤がどのように述べたことだろう。さらにいえば、70年代以降に大規模に開坑され、現在も採石が続いている、俗にいう沙浦石というものがある。沙浦は老坑のある斧柯山とは離れた場所の石であるが、なんと露天掘りで麻子坑、坑仔巌、老坑水巌に似た石が採れるのである。しかも巨材にも事欠かない。これも何傳瑤が知っていたら、どのように評価したであろう。
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雑坑でも老坑水巌の石品の特徴を持っていれば、これを強いて老坑として売れば高く売れるわけである。端溪の硯工達が雑坑の中から氷紋の出る硯石を老坑としている旨も「寶硯堂硯辨」には述べられている。
古今、硯にかけては百戦錬磨の硯工達がそのようなことをするからこそ、老坑水巌と雑坑の弁別が重要なのである。そこが何傳瑤をして「寶硯堂硯辨」をあらわしめさせた、主たる動機であるともいえるだろう。
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以前「金線があれば老坑なのか?」という記事で述べたが、たとえ金線銀線があっても、あるいは氷紋があっても、かならずしも老坑とは断定できない。このことはすでに「寶硯堂硯辨」の大西洞近似の雑坑の中で述べられている。
そもそも金線の類は石瑕(いしきず)とされている。また老坑にあっても特に佳材の出る二層三層の石層ではなく、四層以下、底の方の石層にこれが多いと述べられている。石品として珍重されるのはまず青花、魚脳、蕉葉白等であって、金線などではないのである。
大西洞は頂石、二層、三層、四層、と続き、五層をもって”底石”としてこれは硯材にならないと述べている。二層、ないし三層が佳材であり、大西洞の三層をさらに二つの層に分けて論じている。
何傳瑤は三層目を特に佳材としているのであるが、ここには金線や銀線の記述はない。また底石に近くなるにつれて金線銀線が増えるのは、大西洞以下の老坑全般の傾向であることが「寶硯堂硯辨」からは読み取れる。
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昨今、特に金線をもって”老坑の証”と主張する向きがある。これは近年、経験の浅い業者が多数参入した結果の”胡説(でたらめ)”である。古くから老坑水巌を扱っている者なら、魚脳や蕉葉白、青花、天青といった石品を珍重するが、金線をもって老坑水巌とみなす、という見方はまずしないものである。
また新老坑には金線が比較的多くみられるのは、経験にてらせば事実である。新老坑は老坑の近傍の石脈であり、老坑水巌の”底石”に近い性格を持っているということなのだろう。
しかし金線が出るからと言って、新老坑とは限らない。また金線が認められないような新老坑も存在するのである。
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新老坑を弁別する過程で、金線のある硯石を多く過眼することになる。冒頭に掲げた四面の新老坑硯にもすべて金線が認められる。

逆に金線がありながら新老坑ではない、といって、では逐一どこの坑洞であるか?というところまでは正直わからない。しかし少なくとも「新老坑ではない」と言い切れるのは、墨を磨るための基本的な特性である”鋒鋩”がまるで違うからである。

言うまでもなく、老坑水巌が何故貴とばれたかといえば、石品が美しいのは二の次で、緻密で強靭な鋒鋩を持つからである。新老坑は石品の美しさや温潤さという面では老坑水巌に及ばないものの、やはり強靭で密生した鋒鋩を持ち、墨をよく溌墨させてくれるのである。実用的価値において、新老坑を推す由縁である。
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金線、銀線、あるいは氷紋であっても、老坑水巌と比較した場合には、やはり雑坑や新老坑では微妙に違う形態が認めることができるのである。しかしそれは「おおむね」の話であって、中には非常によく似た格好で現れる場合もある。
以下の写真は、新老坑の金線に非常に似ているので悩ませるのであるが、この硯石は鋒鋩がまるでなく、つるつるしているだけで墨が全く下りない。詳細はつかみかねているが、あるいは端溪の硯石ではない可能性もある。
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また老坑水巌にせよ、新老坑にせよ、巨材はなかなか出ない。直方体をなすような、いわゆる四直の硯板をつくろうと思えば相当部分を捨てなければならない。手のひらに乗るような小さな硯板でも、もとは幼児の頭ほどの硯石であったと考えなければならない。
ゆえに材を惜しんだ結果、老坑ないし新老坑は天然の不定形をしている場合が多く、四直に切った硯板であっても、四辺のどこかに天然の趣をのこしているものである。また”四辺天然硯”といって、四辺のすべてに天然石の面影を残した形勢を貴ぶ向きもある。
なので硯板状の硯で8インチを超す大きさがあり、四直に切ってあって氷紋や金線が出ている硯材というのは、老坑水巌であれば珍しい部類といっていい。そんな硯材は始終お目にかかれるものではなく、少し疑ってかかった方がいいくらいである。特に沙浦は巨材を産し、氷紋や鸜鵒眼など、老坑水巌固有の石品が出ることがあるから注意が必要である。
新老坑にせよ、沙浦にせよ、何傳瑤の時代には開坑されていなかった点は改めて注意していいだろう。

以下の写真は新老坑硯であるが、天然の石の皮を残した作硯例である。
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新老坑を扱っていて、まれに老坑水巌に近い温潤な性格を示す硯に出会うことがある。老坑も四層以下の石は金線が多く出、その質はやや粗燥であるという。それでも同じ老坑水巌の二層や三層と比較した場合であって、新老坑に比べればもう少し温潤な性質をもつものかもしれない。
何傳瑤曰く「底石は硯にならない」というが、老坑は貴重である。底石ないし四層の石であっても、ある程度見どころがあれば、硯に仕立てられることもあっただろう。そのような材が新老坑硯のような顔をして世に現れていたとしても、それを弁別するのは相当難しいだろう。自身、そういった硯を新老坑に区分してしまっている可能性がないとは言い切れない。
巷間、老坑水巌と新老坑を区別している者は少ない。新老坑もすべて”老坑”にしてしまった方が、売るには都合がいいのは確かである。それ以前に区別ができない、というのが実際なのだろう。新老坑が区別できないのはすなわち老坑水巌がわからないのと同義である。新老坑と老坑水巌を混同している方面には、用心してかかった方がいいかもしれない。

ともかくも扱う硯は墨を繰り返し磨ってみて、鋒鋩の堅実なることを確かめたものに限っている。老坑水巌の端くれが混じっている可能性はあるが、沙浦そのほかの雑坑が入り込んでいる可能性はまずない、と考えている次第である。
落款印01

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