黄ヒョウ、氷紋、金線

今回発売する硯の二面には氷紋が、もう一面には氷紋状の金線が認められる。日頃、氷紋金線があるからといって老坑とは限らないし、氷紋金線がないからといって老坑(ないしは新老坑)ではないとは限らない、と述べておきながら恐縮ではある。
硯癖を持つ玄人が重視するのは青花や天青、ついで蕉葉白、魚脳凍、さらに火捺をともなうかどうか?なのであるが、なぜかといえばこういった石品を持った硯石というのは、材質が優れているからなのである。しかし困ったことに、こうした石品はほかの諸坑でもままみられるものであるし、特に多量の硯石が砕石される山岩の沙浦では豊富にみられるものである。つぶさに観察すれば、老坑水巌と沙浦とでは、青花にせよ火捺にせよ、似て非なる様相を持つものなのであるが、そこまでわからないと”青花”の存在をもって佳材である、としてしまいがちなのである。
20191203_R0057442.jpg
石品に惑わされるのは硯の選び方としてはあまり良くないのである。しかし老坑水巌、ないしは新老坑間違いない硯材に豊富な石品が現れていると、それはそれで見どころなのは事実である。

今回は三面とも”黄膘(こうひょう)”すなわち黄いろ味を帯びた、薄い皮状の表皮をどこかに持っている。老坑や新老坑のような狭い坑洞の薄い層状の鉱脈から硯材が採掘されたとき、表面はほぼこのような黄色い皮目でおおわれており、それを取り去って初めて硯になるわけであるが、その硯材の出自を痕跡としてとどめるように作硯するのである。
新老坑の小硯は数多くここで扱ってきているが、やはりある程度の大きさにならないと、この黄膘はあらわれない。昔は黄膘を持っているから水巌だ、という早合点もあったくらいなのであるが、もちろん諸坑にも表れる。
20191203_R0057433.jpg
ところで硯背硯面を水平に、四辺を直交するように四直に落とした硯板を作る際は天然の不定形を平面直角にそろえる過程でこうした黄膘や不定な部分を切り落としてしまうのであるから、四直の硯板がいかに大きな硯材からしか作られないか?お判りいただけると思う。この三面をもし四直にそろえようとすれば、面積にして軽く三分の一以下になるであろうことは間違いないし、それでもどこかに若干は、不定形の痕跡を残さないわけにはゆかない。
よって四直の硯板で、四辺にも硯背にもどこにも天然の痕跡やノミ跡を残していないような硯板というのは、老坑水巌や新老坑では極めて珍しい硯板である。
20191203_R0057443.jpg
老坑をうたった四直硯板が陸続と現れたことがあるが、寸法や縦横の比率がほぼ同じであるという、あり得ない状況からそのほとんどが巨材のとれる沙浦や宋坑といったいわゆる山岩であると知れるのである。
逆に四辺天然硯といって、硯面硯背を除く四辺のすべてに黄膘が残るように作硯された硯をとくに”四辺天然硯”と呼ぶことがある。これも稀にしか見られない。無理に四辺に天然を残そうとすると、多くの場合は造形的にバランスが悪かったり、良くない部分を残さざるえなかったりするものなのである。
20191203_R0057428.jpg
鶴と松の硯は氷紋こそ認められないが、無数の金線が氷紋状に現れている珍しい硯である。この金線があつまるところが左側面の一隅にのこされた黄膘と連結しており、金線がというのは基本的に黄膘と同質の鉱物成分でできていることをうかがわせる。すなわち硯石の造岩の過程で地中の高い圧力が加わってできた細かい亀裂に、黄膘の成分が浸透して形成されたのではあるまいか。氷紋に関しては、同じく亀裂に魚脳凍や蕉葉白といった、白色に近い成分が浸透して出来たのではないだろうか。
いずれにせよ元も亀裂を完全にふさいで同質化しており、触れたり墨を磨ってもそこに異物があるようには感ぜられない。天然自然がもたらす造化の作用の神巧なるゆえんであろうか。
20191203_R0057427.jpg
様々な石品が現れる端溪の硯材であるが、石品や石品の境界に異物感を覚える硯材もあり、たいていの場合あまりいいものではない。華麗な石品を持ちながら、墨を磨っていてもそこはおしなべて細潤緻密ですこぶる心地よいもの、それでなくては新老坑とすら認めがたいものなのである
落款印01

2019紹興行 列車と宿

........今回は合間を縫って1泊だけの日程で紹興に足を延ばすことにした。紹興を訪問するのは三度目で、6年ぶりである。仕事道具が詰まったスーツケースを1泊目に泊まった上海桂林路のビジネスホテルに預け、小型のリュックひとつに一泊分の着替え備品をつめてから駅に向かう。

南北に珠玉を連ねたように点在する江南の諸都市であるが、上海からさほど遠くない距離にあり、個人的に気に入っているのが揚州と紹興である。
江南で「地上の天堂」と併称されるのが「蘇州・杭州」であるが、蘇州の旧市街は今や繁華に傾きすぎたきらいがある。また人が多くて渋滞し、夕方は移動に難儀する。杭州の昔の中心市街はすっかり開発されてしまって、西湖周辺も近代的で趣にかけるものがあるうえに、やはり移動に難儀する。
その点、目覚ましい経済発展からはすっかり取り残された体であるが、それだけに揚州と紹興は古い江南水郷都市の雰囲気を濃厚に残している。もちろん嘉興からほど近い烏鎮など、江南水鎮をそのまま残したような場所もあるにはある。それはそれで情緒風情にあふれる場所なのであるが、中国史に残る古くからの都会というわけではない。
なんといっても紹興は紀元前の呉越の時代、会稽と呼ばれた昔から栄えた江南屈指の古都であり、三国時代の呉の主要都市を経て、さらには東晋政権の首都として、隋によって統一されるまで南方に依った漢民族政権の根拠地であり続けた。
杭州といえども、北宋に入りかの蘇軾が知事として赴任する時期に前後して大規模な開発が進み、南宋政権が根拠地とするに至って江南屈指の大都市に成長したのであり、江南にあっては新興の都市なのである。

いつもは上海の朋友に交通機関から宿泊先の手配まで依頼するのであるが、今回はインターネットの予約サイトを利用して、上海から紹興までの高速鉄道と宿を予約した。高速鉄道の予約はTrip.comで、宿の予約はBooking.comで、あっけないほど簡単にできてしまったものである。
高速鉄道が開通するよりずっと前の大陸の列車の旅といえば、まず乗車券の入手がひと仕事であった。予約システムなどないから駅の券売所にならぶ。それも1時間も2時間も、どんどん横入りされる切符売り場の窓口で並ばなければならない。乗車券の取得が半日仕事になることさえあった昔に比べれば、いまや格段に手軽になった。

高速鉄道の乗車券のオンライン予約は、中国国内では以前から可能だったが、駅で窓口に並んで乗車券と引き換える必要があった。人民のIDカードがあれば自動の発券機を利用することもできたが、パスポートの外国人は窓口に並んで乗車券と交換しなくてはならない。これも面倒なもので、30分前後は並ぶことを覚悟しなくてはならないから、広大な駅を移動する余裕を見て1時間前には駅に到着するように時間を見計らって移動していた。
しかし、今では予約サイトの予約番号とパスポートを改札で見せればそのまま乗車できるという。もちろん座席は予約時に決定している。そのような説明が予約番号を記載したメールに書いてあるにはある。しかしそこは大陸旅である。
20191203_IMG_4497.jpg
念のため、上海から行きの列車は上海虹橋の切符売り場の窓口にならぶ。上海虹橋駅には外国人専用の窓口もある。そこで予約番号の記載されたメールの画面とパスポートを窓口で渡すと、従来の磁気用紙の切符と交換してくれたのである。
しかし結論から言えば、このような手続きは不要だったのである。帰りの紹興の駅で再び切符売り場にならぶと、窓口で「切符との交換は不要だから、改札で予約番号とパスポートを見せなさい。」と言われ、切符と交換はしてくれなかった。そうは言われてもイザ乗車する段になって「切符がないと乗れません」ということはなかろうな?と乗る直前まで疑ってしまうあたりが習性であろうか。

20191203_IMG_4500.jpg
ともあれ大陸の高速鉄道の予約から乗車までは格段に速くなった。以前は高速鉄道の駅が空港並みに離れていることと、窓口に並ぶ時間のロスから近距離の利用では都心から出発する高速バスとトータルの所要時間が大差ないのではないか?と思うくらいであったのだが、これも改善されたことになる。また上海起点の高速鉄道の本数もだいぶ増えた様子で、連休や週末にかからなければ当日でも座席が確保しやすくなっている。数年前は数日前に予約しないと「无座」といって立っていかなければならないこともあったのであるが。
20191203_IMG_4496.jpg
高速鉄道の駅の構内に入るにはパスポートを提示し、荷物を検査機に通す必要がある。これなども以前は形式的なものであったのだが、だんだんと空港並みに厳しいチェックになってきている。
20191203_IMG_4504.jpg
高速鉄道になる際は、外国人はパスポートを機械にスキャンする必要がある。しかし、今回は紹興往復と、また別途湖州に行く際に嘉興を往復したのであるが、都合四回の乗車機会に際して一度もこのパスポートスキャンの機械が正しく動作しない。そこには駅の係員が立っており、結局は係員にパスポートと予約番号を見せて無事乗車することができたのである。パスポートのスキャンがうまくいかないことを見越して、あらかじめ人員を配置しているような恰好である。
20191203_IMG_4506.jpg
高速鉄道の改札は、乗車時と降車時の2回通るのであるが、以前からうまく動作しないことが多い。乗車時はともかく、降車時では機械の不調で渋滞したころ合いで、駅員がゲートを開放して降車した乗客を通してしまうようなこともある。
磁気用紙の切符が不要になって便利になったのであるが、この外国人はパスポートチェックを降車時にもしなくてはならない。たいていは改札の右側に一か所だけ専用のゲートがあり、そこで機械にかけるなり駅員に確認してもらうなりしないといけないので要注意である。
20191203_IMG_4508.jpg
さて、高速鉄道で上海から紹興までは1時間半程度の旅であるが、そこは取り立てて書くこと事はない。
紹興北という高速鉄道専用の駅に到着し、それから市内に向かう。宿は魯迅故里にほど近い場所に位置している。かれこれ20年近く前の昔は、列車の駅から中心市街の魯迅故里まで歩こうと思えば歩ける距離にあったのだが、高速鉄道の駅は例にもれず旧市街地からは相当な距離がある。地下鉄が建設中であるが、まだ開通していない。市内へは”BRT”という直通バスが通っていて、3元で市内に移動できる。これに乗るのが便利である。いくつか路線があるが、多くは魯迅故里に停車するので問題はない。
20191203_IMG_4510.jpg
旧市街地へ向かう途中、郊外の開発区や建設中の高層ビル群を目にするのは今や江南諸都市共通の光景である。
20191203_IMG_4513.jpg
日本でも今や”民泊”経営が盛んであるが、大陸の観光地にも昔はなかった民宿が増えている。
今夜の宿の「老台門魯迅故里青年旅舎」も江南の故民居を改装した民宿であり、京都でいえば「町屋旅館」といったところであろうか。「青年旅舎」といっても別段年齢制限があるわけではない。紹興観光の中心地ともいうべき魯迅故里の通りを中興中路から反対側に通り抜けた出口付近に位置していて、ほど近くには咸亨酒店や紹興には少ないSTARBUCKSがある。観光の拠点としてはすこぶる便利である。
20191203_R0056956.jpg
受付で日本で予約した際の予約確認メールとパスポートを見せるとあっさり受付が完了した。1泊の宿賃は日本円で2千円しない。部屋は二階である。
カードを二枚渡され、部屋に案内される。部屋は二階である。中庭を囲んで軒をめぐらした建物の構造は、もちろんのことこの家がある程度の格式を備えた物件であったことを意味している。
20191203_R0056960.jpg
20191203_R0056978.jpg
20191203_R0056980.jpg
若い人達が宿泊客の中心なのであろう、壁には無数の落書きがみられる。廊下の柱や壁面は、現代的な樹脂塗料ではあるが赤く塗られている。王朝時代であれば「紅楼朱閣」というように、建物を赤く塗装できるのは官舎や貴族、寺院などの限られた身分格式の建物だけである。日本でいえば加賀藩に由来する東大「赤門」といったところである。
紹興にあっては中産階級の邸宅であったであろう建物ではあるが「朱閣」にするのはやや大げさである。しかし古い建物を改修する際に何か塗装しようということで”赤”になったのであろう。
20191203_R0056965.jpg
中庭を見下ろすように取り囲んだ廊下の手すりに沿って長い腰かけがあるが、これを「廊椅」あるいは「飛来椅」といい、また別名「美人欄」という。いわゆる「欄干」の一種なのであるが、夏の暑い日はここに座って涼むこともできるし、刺繍や裁縫など、明るい光が必要な作業もここで行われるのである。
20191203_R0057275.jpg
詩詞で「斜倚欄(欄にななめによりかかる)」というと美女の形容であるが、橋の欄干のように立って寄りかかる恰好というよりも、このように座れる欄干に座りながら背もたれ部分によりかかってくつろぐ風情である。腰掛けながら体をひねって欄干に体を預け、中庭や夜空を眺めるのであるから、ほっそりとしなやかな女性の体つきが想起される、というわけである。
このような座れる欄干は日本の建物にはあまり見られないから、日本人の描いた美人画には橋の欄干にもたれた美女が登場する、ということになる。
唐代までは床に敷物を敷いて座る習慣があったが、北宋から徐々に椅子に座る習慣に変化したといわれる。初めは縁台や濡縁のような場所に低い欄干をめぐらせていたのが、椅子に座る習慣が浸透するにつれてこのような座れる欄干に変わっていったと考えられるが、このような「飛来椅」が建築に流行したのは元代だという。日本にある楼門や五重塔の手すりは低いが、五重塔の建築様式が渡来したのは大陸でいえば唐の時代で、まだ椅子に座る習慣はない。
この中庭に面した「美人欄」は往来から人にのぞかれることはない。座りながら琵琶も弾けるし笛も吹く。明清のころの都会の中流以上の家庭では”纏足”が当たり前だった昔、立っている姿勢というのは女性にとって楽ではなかった、ということは思い返す必要があるだろう。
あいにくこの日は気温も低く、曇天である。たとえば暖かい季節の月の明るい晩などに、この「飛来椅」に座ってみたいものである。
20191203_R0056959.jpg
方形の回廊の一辺の中ほどにある扉をカードキーで開ける。正面左右にトイレとシャワールームがある。そして左手右手にそれぞれ部屋があり、もう一枚のカードキーで入室するのである。右手の部屋が自分の部屋であったが、左手の部屋には若い二人連れがが宿泊しているようだ。
中庭を挟んで対面のちょうど同じ位置にも部屋がある。ほぼ東西南北対称に家屋が造られているようである。
20191203_IMG_4529.jpg
古民居であるから、当然広い部屋ではない。四畳半ほどの部屋には窓と反対側に頭を向けた広いベッドと、枕の頭上にエアコンが一台。ベッドわきに木製のサイドボード、廊下に面した窓の下には机と椅子が置かれている。いたって質素な部屋だが、かえって読書人の家を思わせる。
20191203_R0056945.jpg
いわゆる「明窓浄机」とはこのように窓のすぐそばに机が置かれる事で、室内照明などあまりなかった昔の家屋では、机はかならず明るい窓に面しておかれていたのである。
また道路がアスファルトで舗装されていなかった時代、屋外からはしばしば風に乗って粉塵が舞い込むものである。砂埃が硯に落ちては厄介であるから、硯と窓の間に「硯屏」が置かれることがある。江南はまだしも、北方の冬などは必須であろう。
日本のように縁側や濡縁を挟んで座敷に机を置く場合はさまでほこりは入り込まないから、硯屏の必要性は薄い。ゆえに単なる文房の装飾品と解釈している向きもあるが、大陸式の家屋や家具の構造を理解していればその必要性もわかるだろう。
また蓋ができる構造の硯があるのは、墨が蒸発することを防ぐと同時に、やはり砂埃を避けることが理由である。
前述のように椅子と机に座る習慣は北宋からで、これが徐々に広まり、筆書に向かう姿勢が変化する。これが筆の持ち方に作用し、ゆえに書体にも影響したのである。北宋の蘇軾が筆を寝かせる斜筆、ないしは偏筆なのは、蘇軾の故郷の四川省にはまだ椅子と机の習慣が浸透していなかったことを示唆している。
また床に置かれていた硯が次第に机の上に置かれるようになり、勢い小型化し、硯の高さも低くなるわけである。
20191203_R0057268.jpg
20191203_R0057267.jpg
屋内の壁や梁は塗装をし直してあるが、故民居特有の曲線的に削り出された梁の形状が見て取れる。
塗料を塗ってしまっているのはもったいない気もするが、このように改修しながら観光用に利用されるからこそ、建物として残ってゆくのかもしれない。
20191203_R0056949.jpg
翌朝、格子窓を通して白い朝の光が差し込んでくる。この机で何か書き物でもしたいくらいであるが、文房用具はすべて上海に置いてきている。午前中はさらに紹興の街を散策の予定であるから、ほどほどに準備して宿を後にすることにする。
隣の部屋と共同のシャワーとトイレ、というのは民宿ならではである。しかしそういった点を気にしないのであれば宿賃もいたって廉価であるし、利用してみるのも一興であろう。すくなくとも紹興観光の拠点として、場所は非常にいい。
ただし夜間は12時の門限があるので、夜更けまで遊びたい向きは注意が必要であろう。しかし今の紹興は夜はひっそりと静かである。昔の、それこそ夜通しの喧噪がうそのようである。ちなみにこの宿にはテラスをしつらえたレストランカフェ&バーもあり、朝食から昼食、夕食もここでとることができる。
20191203_R0056982.jpg
とはいえさすがは古代から知られた銘酒の産地であり、地元の人でにぎわう酒と料理の店はある。その話題はまた稿を改めたい。





落款印01

新老坑硯 三面

.............近々、新老坑硯を三面、リリースの予定。
若干寂しい数であるが、なかなか数をそろえるのが難しくなっている昨今。先日渡航の際にも上海の南京東路にある某店をのぞいたが、店頭には老坑水巌はおろか新老坑すら見当たらない。むろん、値札には「老坑」と表記してあって、それなりの値段がついているのであるが。金線のある硯も散見されるが、新老坑には届かない。また作硯も軒並み凡庸である。
20191203_R0057421.jpg
新老坑が何たるものか?についての説明はいまさらこの場では不要であろう。以下、少し脱線。

大陸の景気でいえば、実のところ地方都市はかなり厳しい状況がみられるのが事実である。しかし北京、上海、深圳といった大都市はやや別格で、少なくとも表面的には景況感の悪化はそれほど見られない。市街地の商店がやや閑散としているのは、消費のかなりの部分がインターネットに重点が移っているということも割り引いて考える必要があるだろう。
大陸中国でインターネットによる通販が突出して伸びているのは、物流から小売りに至る消費財の流通のインフラが、たとえば日本ほど成熟していなかった、ということも考え合わせる必要がある。
これは中国でスマートフォンによる電子決済が爆発的に普及した事情とも似ている。小銭を含めた現金決済のシステムが便利に普及している日本では、少額の買い物にいたるまでカード決済で済ませるという習慣が根付きにくい。貨幣や紙幣を選別するメカニズムを、メンテナンスを含めて管理運用するノウハウが、そもそも大陸中国にはほとんどなかったのである(中国に限らないかもしれない)。それは大都市の地下鉄の券売機が始終故障しているような現状を見ているとよくわかる。

大規模小売店舗が地方にいたるまで出店している現在の日本では、地域による価格差はほとんどないといっていいだろう。しかしその昔、日本でも地方から秋葉原に家電を買いに行く、ような時代があったのである。地方の家電用品店にも品物があるにはあるが種類も少なく価格も割高、というような昭和の時代に、突如としてインターネットの小売網が出現し、全国どこでも平準化された価格で品物が買えるのだとすれば、地方の小売店などはひとたまりもなかっただろう。(日本の場合は法改正による大規模小売店の出現により商店街が衰退する、という過程を踏んでいる)。

大陸の不動産バブルを象徴する、万達集団という商業不動産を中心とする不動産デベロッパーがある。万達を率いる王健林は連年大陸中国の「首富」つまりは富豪ランキングの首位であったが、今は十数位に陥落し、かえってその負債総額の巨大さから「首負(借金王)」と揶揄されている。
この万達集団の中核事業である”万達広場”という複合商業施設については、すでに”富力”という他の大手不動産デベロッパーに売却済みである。その売却が2017年あたりから始まっていたというから、大陸の不動産バブルがピークアウトする予兆はそのころだったのかもしれない。

今後の万達集団がどのような道をたどるかは不透明であるが、日本の昔でいえばかつての某私鉄グループの盛衰に例えられるのではないだろうか。そう考えると大陸の不動産バブルもすでに不可逆的な低迷の過程に入っているとみていいだろう。

とはいえ、全般的な統計データを見ると、大陸各都市の不動産価格は表面的にはさまで下落を見せていない。マイナス1〜2%がせいぜいである。しかし「有価無市」という言葉があり、要は「価格はあっても市場がない」という意味であるが、公表価格と実勢価格で大きな乖離がある、ということである。
実際、公表価格の2〜3割引きで不動産を売りに出しても、1年たっても買い手がつかない、というような話が多い。今や売れるのは有名小学校の近傍など、結婚して新しく家庭を築くうえ切実な需要のある物件のみで、郊外の豪華な別荘や別邸の類や、交通インフラや学校、病院などが未整備なエリアの不動産はまず買い手がつかないのが実情である。
20191203_R0057435.jpg
.............という硯と関係ない話題が長々と続いて恐縮であるが、文房四寶の需要や価格の動向を占ううえで、やはり大陸全般の景況感は気になるところなのである。特に硯に関しては不動産ならぬ”動産”としての側面と切り離せない部分があり、扱う側としては動向を注視せざる得ないのである。
実際、大陸の文房四寶市場の全般的な傾向を見ると、硯はやや停滞気味である。要はあまり売れない。しかし価格は下がるどころか騰がっている。これも不動産と同じ「有価無市」に近い状態なのかどうか。
一方で消耗品である筆、墨、紙の需要は底堅いものがあるが、これも一般的な普及品はあまり売れず、専門家仕様の高級品の需要が伸びているようなところがある。この傾向は数年前から見られたのであるが、今年に入っていよいよ顕著になってきている。

上海の福州路にも多くの書道用品店があったが、現在は書道用具を販売しつつも、筆や墨の陳列がめっきり少なくなっている。これは販売の主流がインターネットに移行した、ということもあるだろう。しかし実際のところ福州路では、以前からごく一部の店舗を除いて安価なだけの粗悪な筆や墨が売られていたものであるが、その程度の品ではユーザーの需要を満たせなくなっているのだろう。
20191203_R0057427.jpg
やや取り残された感のある硯であるが、その原因として、墨汁の使用は今に始まったことではないから理由にはならない。近年、大陸中国では専門家を中心に固形の墨の使用が広まっている。とはいえ硯への認識はまだそれほど深くないのかもしれない。またよほどの硯癖の持ち主でない限り、複数の硯を所有して楽しみたいという人は稀、ということもあるだろう。
しかし筆や墨のように、生産者がその気になればある程度の水準の製品が継続して生産されるのと違って、硯に関しては原材料である硯石の問題がある。特に老坑を含む旧坑系の硯石は採石が事実上不可能になって已に十年が経過している。いよいよ市場に払底してきたのかもしれない。とはいえ、世上に老坑をうたった硯は多く流通しているのであるが、大半は沙浦などのいわゆる山岩であろう。沙浦は70年代から老坑に似た硯石を輩出してきた硯坑であるが、閉鎖されてしまった旧坑洞と違い、現在も採石が続けられている。むろん硯石の性能は著しく劣っているのであるが、硯を置物にしたい向きには好適なのであろう。
70年代から80年代にかけて空前の硯ブーム(背景には空前の書道ブーム)に沸いた日本市場に対して、沙浦より採石された大硯が猛威を振るったものである。しかし現在は相当にスケールダウンしてはいるものの、その再演がみられるのである。
「悪貨が良貨を駆逐する」状況は消費の早い紙や筆墨よりも耐久消費財たる硯において顕著なのであるが、供給する側としては、選別をより厳正にしながらこの時期をやり過ごすよりないと考えている。
20191203_R0057429.jpg
ワインはやウイスキーは、製造して数年で販売、消費されることを前提にしたものと、10年、数十年と寝かせることを想定して造られたものでは、材料・製法ともに違いがある。安いウイスキーを12年寝かせれば12年物になるかといえばそうではない。
同じように、これも文房四寶全般に言えることであるが、年数が経過したからと言って悪いものが良いものに化けることはない。筆などは、寝かせることで毛質にコシが出て書き味がよりよくなるのは事実であるが、粗悪な古い筆が精良な現在の筆に勝ることはない。墨や紙にしても同様である。
インフレギャップの錯覚や、消費されて希少価値が出て相場があがるのは事実であるが、品物が本質的によくなるわけではない。
硯は硯石の時点ですでに勝負が決まっているのだから、古いからと言って良い硯ではなく、新しいからと言って悪い硯ということでは決してない。しかし質の劣った硯が供給過多気味な現在、割合でいえば良い硯がどんどん少なくなっている。
何事につけ変化の激しい時代ではあるが、その点については供給者としてよくよく注意していかなければならないと考えている。
落款印01

おしらせ 2019年12月

寒くなってまいりました。
実は短期決戦で仕入れと調査のために渡航していたのですが、出発前までドタバタでうっかりお店の休業告知と休業設定をしないまま渡航してしまいました。渡航中ご注文いただいたお客様には、お詫びの上で帰国後直ちに発送する旨ご連絡差し上げましたが、大変ご迷惑をおかけいたしました。改めてここで深くお詫び申し上げます。

企画していた新しい筆の注文をなかなか出せなかったのですが、ようやく発注にこぎつけました。今や仕様書を送ってもそれなりのレベルの筆が仕上がってくることも期待できますが、やはり顔を合わせて相談しないと、モノというのは思いがゆきとどくようには作られないと考えております。
発売は来春になるかと思いますが、ご期待ください。

近日中に、新老坑硯を若干リリースしようと考えております。老坑、ないし新老坑を求める方もだんだんと増えてきている昨今ですが、確実な新老坑、しかも使い勝手の良い硯は探し始めると少ないのが現実です。新老坑は老坑水巌にみたててこれ見よがしな名硯風に仕立て上げられている硯も多く、価格面を考えても実用的にはどうか?というものもあるものです。
紹興
今回は少しだけ紹興を再訪しました。醸造で有名な紹興は江南屈指の古都で、越とよばれた戦国春秋時代から連綿と続く歴史ある街です。上海は近代に入って発展した都市ですが、蘇州と併称される杭州も大きく発展したのは宋代ですから比較的”新しい”とさえいえるかもしれません。
書法でいえば王羲之、思想家でいえば王陽明、明代には徐渭、近世には魯迅、というように、日本人と日本文化に多大な影響を与えた人物、文化を生み出した街でもあります。紹興酒でも有名ですが、とはいえ現在はあまり日本人が訪問しないようです。
紹興
およそ、江南観光というと上海を起点に北に蘇州・南に杭州に尽きる、というようなことが言われます。個人的な見解ですが、北なら揚州、南なら紹興がいいように思います。蘇州や杭州にくらべると市街の規模も小さく、経済発展も段違いに立ち遅れているようなところがありますが、それだけに「おや?」とおもうような発見もあるものです。
追ってご紹介できれば、と考えております。
落款印01

2018年11月の揚州行

.......旅の風情とか街の情緒というものは、あるいは旅人の得手勝手、というようなところがあるのかもしれない。そこの住人にしてみれば不便きわまりないものであり、できれば近代的な利便性に置き換えたくて仕方がない、というようなものなのかもしれない。
京都の町屋や奈良の山奥の木造瓦葺の日本家屋が、外国人にどんどん買われている昨今なのである。日本の、特に若い世代にとっては不便に思える家屋であっても、文化の違う外国人の目からすれば、修復保善に多少の苦労をしつつも所有したい、住みたいと思える何かがあるのだろう。

幾度か訪れてる揚州は、江南地方で古い都の風情を今に残す数少ない街である。江南の都というと蘇州・杭州を想起する日本人は多いと思われるが、杭州の西湖周辺も近代的なテーマパークのような整備にあって、交通渋滞をぬってまで行きたいとおもわせるような何かがない。強いて言えば蘇州はまだしも、なのであるが、それでも”蘇州駅”を中心に、だいぶん様変わりしてしまっている。

揚州に行くには上海から直通三時間のバスか、鎮江まで高速鉄道で行き、鎮江からバスかタクシーで行くのが通例であった。列車の駅があるにはあるが、南京を経由しなければならず、本数も少ないので利用したことがない。今年になってようやく高速鉄道が開通した。揚州は兄弟のように隣接する江都に広範な工業地帯があるにはある。しかし江南屈指の古都にして、大陸の高度成長には完全に乗り遅れた格好である。
そのおかげもあってか、揚州の旧市街地は初めて揚州を訪れた20年近く前とあまり変わっていないような雰囲気がある。もちろん商店は入れ替わり、変わるところは変わったのであるが、旧市街は大略は変わっていない様子がある。
巨大な鉄筋コンクリート建築や、郊外に層層と林立する無人の高層マンション群が織りなす人造の前衛山水画にいささか目が疲れを覚えるころ、歩きたくなるのが古い町並みなのである。

さて、令和に年号が代わってからは、諸事情あって残念なことに大陸には渡航できていない。以下は昨年の11月の揚州行の模様である。上海から蘇州を経由し、蘇州市街で若干の要件を果たした後、揚州へ向かう。揚州で一泊して翌日要件を片付け上海へ戻るという、ごく短い旅程である。

蘇州までは上海から高速鉄道で移動したが、蘇州から揚州へは今回は車である。同行してくれた上海のD君が、”滴滴”という配車アプリによって車を手配してくれるのである。
この日の蘇州は晩秋の冷たい細雨。そろそろ夕闇が迫ろうかという時候、獅子林近くの人民路に面したコンビニエンスストアのイートインスペースで、D君がアプリを使って車を探すことしばし。運よく蘇州から揚州へ帰る車が見つかった。
現れたのは江南の地方都市に多い、フォルクスワーゲンの黒いセダンである。私とD君をピックアップした後、蘇州旧市街のはずれでもう一人の客を待つことさらに暫時。蘇州の大学に通う揚州出身の女子学生を一名助手席に乗せ、揚州へ向かったのである。
案の定というべきか、この日の揚州への高速道路の車の流れはあまりよろしくない。急速に整備された大陸の高速道路網であるが、大陸有数の人口密集地帯を南北に移動する車両の数量を考えればドイツのアウトバーンよろしく8車線位にするべきところを、規格の上では日本の高速道路を模したかのような車線と道幅であるから、曜日時間帯によっては渋滞は避けられない。ひとつには昔の日本でもやっていた、車線変更で前を追い抜く車が多いのである。それが全体の車の流れを悪くする一因でもある。
20191117_IMG_2510.jpg
D君は上海の出身であるが、江蘇の方言も話すことができる。完全なる蘇州弁、揚州弁というわけではないが、曰く上海語を横滑りさせると近い雰囲気に聞こえるのだそうだ。大阪弁ならぬ関西弁、というところなのかもしれない。D君曰く、なるべく方言に近い発音で話した方がいい、ということである。それはそういうものだろう。

日本では無許可の個人が旅客を運ぶ、いわゆる”白タク”行為は禁止されているが、そもそも日本はタクシーが過剰なくらい多い、という前提がある。大陸はどこの都市もタクシー業界は台数が規制されていて、正規のタクシーはまったく足りないのである。それで従来から白タク行為が横行していたのであるが、配車アプリが公認されることで堂々と、かつ効率的に白タク経営が可能になった、という事情がある。
そうは言っても、見ず知らずの運転手に頼っての長距離移動であるから、運転手と親しんでおくに越したことはないのである。
20191117_IMG_2511.jpg
日没の車窓から広大な江蘇の田園を眺めると、田畑や水濠や一叢の木立のかなたに。一群の鼠色の高層マンションが現れては遠ざかる。車のヘッドライトが点灯し始めたほどにあたりは暗くなってきているが、みえるマンションの一棟一棟、夕もやの中に暗くたたずんでいるだけである。
建設途中のマンションの上部には、さまざまな角度で首をかたむけた巨大な水鳥のくちばしのようなクレーンが数基、静止している。それは聳え立つ岩峰のいただきに根づいた松が蓋を傾けているようでもあり、これが現代の大陸の”江南高楼図”ということなのかもしれない。

レーニンの時代『社会主義とは全国の電化である』というスローガンがあった。1972年にソ連で製作された『電化を進めよ』という短編アニメーション映画がある。
現代の中国を見る限り『社会主義とは全国を高層マンションで覆いつくすこと』ということなのかもしれない。確かに大陸は慢性的な住宅不足の時代がかつてあった。それが解消され、あまつさえ過剰な現在の様相を呈するようになったのは、鉄筋建築工法とエレベーターの国産化によるところが大きいのである。
近現代史において、もっとも経済に影響を及ぼした科学技術は自動車でも電気でもなく、鉄筋建築工法ではないか?と最近は考えている。鉄と石灰、砂でもって無尽蔵かつ急速に資産を増やせる建築法は、どこか人間の理性を集団的に麻痺させ、狂わせる何かがあるのだろうか。

ともあれ、揚州についたときは時計は20時を回っていた。まず旧市街から外れた揚州郊外の住宅街で女子学生を下ろし、揚州市街地へ向かう。この日の宿はD君が手配してくれた”東関街”の路地にある一軒の民泊である。
東関街は、その名の通り揚州旧市街の東門から街の中心に向かって伸びる通りに面して展開する商店の多い街並みである。東関街を東に、昔の城壁を抜けたあたりに昔の揚州の東門があり、その先には運河と船着き場もある。この揚州の運河は一方では市街に続き、一方では長江にまで連絡している。江南地方はその昔は水路伝いに主要な都市を行き来できたわけであるが、その名残をとどめているというわけである。
以前に『唐解元一笑姻緣』の解釈を試みたが、蘇州で秋香を見初めた唐解元が無錫まで船で跡を追いかけ、城門近くで船を降りる場面があった。このような場所は江南の都市のそれぞれに存在したのだろう。

もちろんのこと東関街も東門も多分には観光地化を目的に再建された姿なのであるが、古い建築材料を使うなど工夫を凝らしているためか、それなりに良い塩梅に古色を帯びた風情がある。
通りから垂直に枝分かれする路地が”小巷”ということになるが、迷路のように入り組んだ路地の中の民家で最近民泊を開業する家が多いのである。
東関街には自動車を乗り入れることはできないから、東関街とほぼ平行に走る文昌中路の皮市街付近で車を降り、東関街の裏側から路地に入る。
東西南北に道路が交錯するのが大陸の都市構造の基本である。区々たる”小巷”とて計画当初、大略は東西碁盤の目のように整備されたはずなのであるが、それが長い年月で敷地権なり所有権なりの交代を経、消滅する道もあり新たに通り抜け可能な道もできるといった具合で、結果的に迷路のようになってしまうのである。
11月の揚州は気温もすでに低い。小巷の小路や家々の”磚”や漆喰にまでしみこんだ冷気が左右足元から迫るところを、小さなスーツケースの車輪をガラガラと響かせながら、目的の家まで急ぐ。
”磚”すなわち青いレンガを敷き詰めた路地をぐるぐると廻り、民泊の小さな看板を掲げた一件の民家にたどり着く。
古民家を外から見ると”磚”と漆喰、それに瓦といった無機質で単調な色彩が印象に残るものだが、この民家の建物の内部は木材が多用され有機的で色調も暖かい。外界と対蹠的な雰囲気である。
20191117_R0053978.jpg
しばしそこの女主人とD君が話をしていたが、話がかみ合わない。どうも宿の場所を間違えたようである。気を取り直してあらためて女主人から目的の宿の場所を教えてもらい、そこへ向かう。初めの宿からいくたりかの辻々をまがり、ようやく今宵の宿にたどり着く。
20191117_IMG_2523.jpg
20191117_IMG_2518.jpg
時間が遅いためか扉には閂がかけられている。
先ほどの「客桟」よりも、より普通の民家に近い格好である。
大陸のホテルは「酒店」「飯店」「賓館」という。大規模な国営ホテルは「酒店」ないしは「大酒店」、やや規模の小さなホテルが「飯店」「賓館」というように、ホテルの規模によって呼び名が分類されるという話もあるが、現在はあまり関係ないような印象である。そこへ民泊は多く「何々客桟」というような呼称を用いるところが多い。「客桟」は時代劇で使われる単語である。
予約された二部屋のうち、D君は一階、私は二階の部屋と決まった。一階の玄関すぐの広間から狭いらせん状の木の階段を上って二階に上がると、民家らしく人ひとりが通れるくらいの、左手に画欄、右手に画額の迫った短い廊下があり、その奥に今宵の寝床の部屋がある。6畳ほどの部屋は広いベッドが占有している。1畳ほどの空間をガラス戸で仕切ってシャワールームがしつらえられている。この設備は客桟のために新たに設置されたものだろう。
20191117_IMG_2525.jpg
揚州は夜が早い。少し正確に言えば早くなった。大陸の経済が沸騰していた以前は、夜半まで料理屋の明かりがついていたもので、それでも足りなければ市街のいたるところ路傍で屋台が盛んに炊煙をあげていたものである。
20191117_R0053981.jpg
民泊の家人に近郊の店を教えてもらう。ここは地元の人しか行かないような小さな店であるが、一通りの揚州料理が提供されている。地元の人が家族で行くようなお店というのはたいていは一皿の量が多いのであるが、はたしてこのお店もそうであった。
こうした地元の人が来る料理屋というのはラストオーダーの時間も閉店時間も曖昧で、顔なじみの近所の人が家族で宴会をしていれば、彼らが引き上げるまで閉店時間は延長される。我々が店に入った9時過ぎは、そろそろ終わりという時刻だったようなのだが、まだ2〜3の宴席が残っていて、しかしそれもそろそろお開きに近いのであろうか、食後の歓談が続いている風情である。店の人は快く空いたテーブルに案内してくれた。
20191117_R0053983.jpg
20191117_R0053984.jpg
20191117_R0053989.jpg
20191117_R0053990.jpg
ここで定番の揚州炒飯、獅子頭、蟹黄湯干絲、蟹黄豆腐、それに魚香肉絲....は久しぶりにせよ、二人の人数にしては少し注文し過ぎだったかもしれない。D君に言わせると獅子頭が淡泊すぎるとか、揚州炒飯がここは正宗ではない、というのであるが、総じて味は悪くない。揚州料理は総じて薄味で、油脂も控えめなので量が食べられるのである。王朝時代、何日も宴会が続くような繁華な大都会の料理というのは薄味淡泊で、消化がいいように作られているのである。たとえば揚州名物の「獅子頭」は豚の脂身をたっぷり肉餡に練りこんでいるのだが、時間をかけて蒸しあげてはわざわざ脂を抜くのである。
ともあれほどほど食べ過ぎたところで店を後にする。
20191117_R0053994.jpg
恒例になりつつあるが、皮市街(ぴー・すー・じえ)で少しお茶を飲んでいこうということになり「皮市街」へ足を向けると、どことなく通りが暗い。10時近い時刻であるが、店の明かりがまばらである。
なんどか訪れている「浮世記」に行こうとおもったのであるが、文昌中路から皮市街に入り、まっすぐあるいて右手に見えてくるはずの「浮世記」が見当たらない。皮市街中ほどを過ぎておかしいと思い引き返すと、店はあったのだが今日はすでに店を閉めた後のようだ。記憶では11時くらいまで開いていたはずなのであるが。いささか残念である。
20191117_IMG_2544.jpg
20191117_IMG_2549.jpg
そこで開いていたもう一軒のカフェに入った。明るいテラスを意識したようなインテリアに、観葉植物を多く置いている。Wifiを完備し、室温もほどよく調整されていて、外の冷気と世界を別にしている。何度か述べているが、江南の寒い季節に上着を脱いでくつろげる場所というのは、ホテルの自室以外ではあまりないのである。
20191117_R0053999.jpg
20191117_R0054008.jpg
ここで私は自家製の果実酒、D君は珈琲を頼み、しばしの休憩である。果実酒は安徽の農村の酒屋で飲めるような、コケモモを度数の強い酒に漬けたほのかに甘い酒である。値段はどちらも30元くらいで、邦貨にして500円を超えない程度である。
メニューをみていると、この店は洋食を出すレストランカフェのようで、たとえば150gのステーキと羊のリブ・ロースト二本、チキンの手羽が二本というボリュームのあるセットがひとり158元である。もちろん、こういったお店で過ごすお値段というのは、揚州の一般的な消費の感覚からすれば高めであるが、ある程度の需要があるのだろう。
揚州の夜の街が最も繁華であった2008年〜2010年を想起すると、現在の揚州の夜は相当に静かである。東の空が白むころにようやく屋台が店じまいを始めるといった、あの夜更けの喧噪はいったいどこに行ってしまったのだろうか。
店の中には若干の若者がくつろいでいたが、全般に閑散としている。この店でD君と1時間ほど今後の事を相談し、店を出た。宿に帰ると門が閉まっていたのであるが、呼び鈴で帰宅を知らせると家人が開けてくれたのである。こうした民宿は門限があるので、帰宅時間と夜間外出には注意しなければならない。家人はほとんど寝静まっているようなので、我々も早々に自室に退散し、寝についた。
20191117_R0054014.jpg
翌朝。朝の白い窓から、晩秋の揚州の光が部屋に淡く滲みだしている。家屋が密集しているためか、窓に曇りガラスがはめ込まれているので、寝る前に厚手のカーテンを閉めなかった。せっかくなら朝の光で目を覚ましたかったからでもある。
20191117_R0054022.jpg
20191117_R0054018.jpg
昨夜までの冷たい細雨からは案に反して、この季節の江南にしてもいささか珍しい、念入りに掃いたような青い空である。窓外の景観を鉄筋コンクリートの白い建物がふさいでいるのは致し方ないとして、手前にはここにあること幾星霜といった風情の、黒く薄い甍が魚のうろこのように重なっている。眼下には路面も壁も新旧のレンガに囲まれた路地が見える。伝統的には”青磚”、つまりは青灰色のレンガであるが、ところどころ他所から運ばれたのか赤いレンガが見えている。

話がそれるが、三島由紀夫の「文章読本」には、上手な文章の書き方の原則として「形容詞を多用しない」というものがある。形容詞というのは名詞にくらべて不安定で、時代や地域によって変化しやすいものだから、ということである。言い添えれば、形容詞の多い文章というのはたしかに主観的に偏った印象を受ける。何でも「美しい」では何が美しいかわからない。
「青い」や「赤い」のような色彩にかかわる形容詞も要注意で、たとえば大陸中国で「青い」といった場合は、かなり黒に近い色が想起される。日本人がイメージする「ブルー」は「藍」である。だから「青磚」といっても、ほとんど暗灰色のレンガである。墨に「青墨」があるが、いわゆる”ブルー”ではない。
三国志における「赤壁」の「赤」についても、「赤」が「レッド」を指すことは稀である。通常は「レッド」は「紅」である。「赤」は「赤子」ないしは「赤裸々」というように「むきだしの」という意味が原義であるから、赤壁というのは「あかい壁」ではなく、むき出しの河畔の岸壁の事なのではないだろうか.......話がそれた。
20191117_R0054029.jpg
20191117_R0054030.jpg
20191117_R0054019.jpg
部屋は民宿にする際に改装したのであろう、白い壁紙の壁面は新しいが、窓の木桟には時代のついたつやがにぶい光を放っている。墨色にも通じる話であるが、手沢にまみれた翳りを帯びた光は好ましいものである。大陸の都心というのは昔も今も人工物で囲まれており、地面が露出したところが少ない。その隙間隙間に工夫を凝らして住人が植物を植えこんでいる。
こういった民宿に逗留しながら2〜3日ゆっくり滞在したいところであるが、今日の夕方には上海に戻らなければならない。
20191117_R0054043.jpg
20191117_R0054044.jpg
20191117_R0054045.jpg
朝食はいつもの国慶路沿いの「五亭吟春茶社」へ。文思豆腐(10元)をふたつ、三丁包(3元)と五丁包(8元)を二つづつ、虾仁蒸餃(3.5元)をふたつ、小籠蟹黄湯包(15元)をひとつ、蟹黄獅子頭(15元)ふたつ、を注文する。このお店もわずかづつであるが値段が上がっていて、数年前は1.5元だった三丁包が3元に上がっている。しかし湯干絲の小皿が6元、普通の小籠湯包(五個)が8元、あるいは麺とスープだけの陽春麺が4元というのは、物価高騰の著しい江南にあってはまだしも穏やかな方である。
”蟹黄”はこの季節が旬である淡水の蟹肉と蟹味噌を肉の餡に混ぜたもので、普通の湯包や獅子頭(肉団子)より少し値が張るがたまにしか来られないのでいいだろう。この店は観光客にも有名になってしまったのであるが、地元の人にとっては依然として忙しい朝に朝食をとったり、包子をテイクアウトして職場に向かう店なのである。

朝食後、午前中に用件を済ませると、少し空いた時間を使って揚州文物商店をひやかす。揚州文物商店は、硯の売り場が大きく縮小し、ながらく二階にあったの硯のショーケースが書画とともに1階に移ってきている。むろん、買おうと思うモノには出会えないし、相場もずっと高くなってしまっている。
20191117_R0054054.jpg
ついで文物商店から程近い、銀杏の巨木が色づいた天寧寺の骨董街の散策で過ごすことにする。昔は地方都市の骨董街は上海の骨董街よりずっと安かったのであるが、今や情報化によって相場が変わらなくなってしまっている。高い家賃を払って古玩城(骨董ビル)に店を構える業者も減り、インターネットでの取引をもっぱらとする方が主流なのである。ここでもモノを買うというよりは、秋の天寧寺の境内散策と合わせて、骨董街をのぞいてみる、くらいの趣向である。
20191117_R0054048.jpg
そこで骨董ではないが、なかなかよく焼けた釣窯のティーセットが一式売られていた。価格は50元と破格である。どこかに瑕疵があるのだろうが、普段使いには申し分ない格好である。とはいえ、釉薬には発色のため鉛や重金属が使用されている可能性がある。
釣窯は基本的に酸化銅、酸化チタン、酸化錫などが使用される金属であるが、発色の隠し味に何を使用しているかは定かではない。使用にあたっては注意が必要である.....と思いながら買ってしまう。怖いのは鉛であるが、たまに酒器につかうくらいは大丈夫であろう。

その後軽く昼食をとり、やはり”滴滴”で車を探す。今度はなんと上海まで帰る車が見つかったということで、一息に上海に戻ったのである。帰途は車中で眠りっぱなしであったので、取り立てて書くべきことがない。それにしても手軽になったものであるが、滴滴を使うには現地の携帯電話番号を持ち、決済の口座がないと利用することができない。その点、改善してほしいところでもあるが、当局者としてはトラブルの発生を考えると、外国人にはあまり利用してもらいたくないのかもしれない。
ともあれ今回もD君には感謝感謝、である。
落款印01

<< | 2/229PAGES | >>

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
<< February 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM