華強北電子市場の蒸菜店

深圳は華強北にある巨大な電子市場の中、お昼ご飯を食べようと思った。一人で行動していたので食事は簡単に済ませたい。大勢の人があつまる電子市場には、実際に飲食店が多数存在する。昼食の需要が最大であるためか、麺類やどんぶり等、軽食中心の店が多い。また弁当を売る店も多い。弁当といっても、中国の場合は出来あえの温かい惣菜を選んで、ごはんと一緒に弁当容器につめてもらうのである。
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しかし12時過ぎから食堂の類はどこも混雑している。午後1時をまわったあたり、混雑のピークを過ぎたころ合いに、電子デパートの一棟の六階にある食堂街をのぞいてみる.........行列の出来ている一角に懐かしい光景が........蒸し器の中の多数の小皿。湖南省は長沙で味わった、長沙蒸菜”である。

深圳は外省人の街である。つまりは広東省以外の地域から集まった人々が人口の大半を占めるのであるが、北方の人は少なく、長江流域、湖北、湖南、四川、広西、江西、福建などの人が多い。福建をのぞけば、およそこれらの地域の料理は辛いのである。辛い料理の雄といえば、湖南料理である。日本人が想起する辛い中国料理といえば四川料理かもしれないが、四川料理は辛さのなかにも様々な香辛料が加わる。しかし湖南料理はずっと直接的な、唐辛子の辣さである。この湖南料理は深圳の外省人の味覚における公約数なのか、実際に湖南料理の店は多い。
この”蒸菜”の店も、華北強の電子市場、すなわち深圳屈指のオフィス街には必須の種類の店なのであろう。一人の昼食には丁度いい店でもある。
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トレイをとって、学食よろしく列にならぶ。下からゆるく蒸気のあがる、四角いステンレス製の巨大な蒸し器の中に、小さな白い深皿にはいった料理が所狭しと積み重なっている。長沙では皿を指さして指示すると、従業員がハサミで皿をとってくれたものであるが、手で持つにはやや熱いからでもある。深圳のこの店では、さまで熱くないのか、自分でとるのである。皿は料理の汁や油脂で滑ることもあるので要注意である。ご飯も、陶器の深皿にすりきりで入って蒸された白飯である。たくさん食べたい人は、二皿のご飯をもってゆく。(ランチタイムから少し時間が過ぎると、陶器の蒸した白飯ではなく、普通に炊いたご飯が盛られる)
もっとも、トレイを持って料理を選んで、付近のテーブルで食べる人はそれほど多くない。ほとんどの人は料理を選んで、店員にテイクアウト用のランチボックスに入れてもらい、ビニール袋に下げて持って帰るのである。自分の店舗なりで食べるのだろう。
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”長沙蒸菜”は、湖南人の好みなのだろうが、辛い味付けの料理が多く、赤や緑色の生の唐辛子がふんだんに使われていた。これに黄色いコーンやニンジンのオレンジといった緑黄色野菜、あるいは淡い色合いのキノコ類やイモ類などの料理が加わり、目に鮮やかな印象が残っている。
対して、この深圳電子市場の”蒸菜”は、やはり地元の味の好みであろうか、はじめから辛い味付けの料理は少ない。色合いも若干地味である。よくみれば、湖南料理の特徴をもった料理は少なく、ごく一般的な広東の家常菜、のようである。長沙であればかならず一隅を占めている、赤唐辛子と青唐辛子の塩漬けのみじん切りを乗せた、淡水魚の頭の蒸し物「剁椒魚頭(トウジャオユイトウ)」がない。内陸の長沙とちがって、広州湾に臨む深圳らしく、小型のマナガツオの蒸し物である。またスープは、これも広東でよくみる、豚のスペアリブにクコなどの漢方薬をいれて蒸しあげたスープである。
日本だとマナガツオは高級魚の部類であるが、広州湾では小型のものが良く採れるのか、日本におけるアジ、のような位置づけで、わりと庶民の魚なのである。これを生姜とネギと一緒に蒸して醤油と香味油をかけた料理は、まったく広東の家常料理である。深圳の電子市場ともなれば、中国南西部のみならず、海外も含めていろいろな地域の人が集まるからだろう。野菜の小皿と、豆腐(油揚げや湯葉など)料理、それに一品くらいで充分である。
むろん、湖北や湖南、四川の人など、辛い料理を好む人も多くいる。大陸南西部の、農村の料理は概して辛い。辛い味が好きであれば、清算するレジの前に、真っ赤な辣醤が置いてある。好きなだけどうぞ、というわけである。
”蒸菜”は、食べたい分だけ料理を見ながら頼めるので、あまり現地語に詳しくない旅行者にも便利かもしれない。
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さて、こうした昼食をとる簡便な店も、今や携帯電話での決済が一般化している。またこのフード・コーナーは共通のプリペイドカードがあり、それにいくらかキャッシュをチャージして、決済時に支払っている人が多い。しかしいずれにせよ、短期滞在の外国人にはかえって不便である。実のところありがたいことに、現金での決済も可能なのである。さすがに深圳の電子市場、出張で来ている外国人も多いのであろう。
「現金決済が併用なのは当たり前では?」と言われるかもしれないが、さにあらず、である。少し大きなショッピングセンターの中にある、麺などの軽食を出す小さなテナント店では、オーダーも決済も、スマートフォンで”微信”という(日本のLINEのような)メッセージツールを使わないと、出来なくなっているところも多いのだ。いや、出来ない、といっても強いて言えば出来ることもあるのだが、なんとも面倒である。
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そういった店では、席についてからまずはバーコードを読み取り、その店の微信のアカウントを登録する。そして微信からメニューを開き、注文と決済を同時に行うのである。こうすると、小さな飲食店などでは、スタッフが注文を取りに来る必要もないし、清算時のレジを打つ必要もない。究極、人件費が削減できることであろう。ファストフードや、ファストフード化したチェーンの飲食店などは、こうした仕組みでも使わないと、回らないのかもしれない。
実際に、宿泊したシェアハウスの近くのショッピングセンターの地下で、昼食でひとりで麺を食べようとしたところ、これが微信を使わないと注文も出来ない店なのである。微信は持っているが、あいにくまだ決済機能の”微信支付”の準備がない。登録するには、引き落とす銀行口座の登録が必要なのである。中国人民銀行の口座はあるにはあるが、口座に登録した電話番号が必要なのであった。昔の携帯番号は長いこと使わない間に廃止されてしまったので、登録を終えることが出来ない........というわけで、10元ほどの麺ひとつ、食べられないのであった。
おもえばその昔、大陸を初めて旅した時などは、庶民的な店で簡単に食べようにも、言葉も今よりはるかに未熟であったし、注文の要領がわからなくてずいぶん難儀したものである。往時よりもはるかに便利になった現在に、ふたたび難儀しようとは、これは想像の埒外である。もちろん”微信支付”の登録を完了すれば、むしろ簡単に食事がとれるかもしれない。しかしいかんせん、短期滞在の外国人がこのシステムから疎外されていること、はなはだしいと思うのは自儘というものであろうか。
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10年位前は、小さな飲食店などは、地方から来た若いスタッフが大勢で切り盛りしていたものである。ところが現在は、人件費の高騰、さらに不動産の暴騰のために、スタッフ用の住居の確保もままならなくなってきている、という現実がある。
こうなってくると、都市部の飲食店は、ある程度の規模の資本力のあるチェーンや、フランチャイズの飲食店ばかりが増えてくる。たしかにある種の清潔感はあるし、味も悪いわけではない。しかしおしなべて大味で、個性がないのはいかんともしがたい。あの街に行ったらあの店に行こう、というような、惹きつける魅力には乏しいのである。それは、日本でも大手資本の巨大ショッピング・モールなどでもみられる光景かもしれない。資産インフレが昂進すると、こうしたつまらないことが起こってくるのである。
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実のところ、この”蒸菜”の店はむかし経験した”長沙蒸菜”というよりは、広東の家庭料理の”蒸菜”だったわけであるが、利用しやすいので電子市場を歩いた日の昼食は毎回ここにしていた。値段も、スープと魚料理をつけても、300円しないくらいである。”長沙蒸菜”ほどの料理のバラエティはなかったものの、辛くないので食べやすい。おしなべて平凡な味付けの”家常菜(家庭料理)”であるが、もちろん、華強北の電子市場は食に期待してゆくところではないのである。
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まず贋物よりはじめよ?

先日、香港で行われた”クリスティーズ”のオークションに「蘇軾木石図」が出品され、邦貨にして68億円で落札された。これは東洋の絵画としては史上最高の落札価格だそうだ。敬愛する東坡翁の作品とて、多少の関心はあった。この絵は1930年代から行方不明であったが、今年になって日本で発見され、今回のオークションに出品されたという事だ。
また日本から文物が流出したと、これを嘆く向きもあるようである。しかし私が不可解におもうのは、なにゆえこのような疎漏だらけの(せいぜい清朝あたりに作られたであろう)贋作が、アジア古美術品市場、史上最高値で落札されたのか?という点である。

日本の報道では、確実に蘇軾の絵と断定できる、数少ない作品のひとつと、オークション会社の紹介をそのまま流しているような内容ばかりで、それ以上突っ込んだ解説はない。仔細は省略するが、この絵が蘇軾の画であることを、断定できるような証拠は絵の上にどこにもないのである。これは科学的な分析とか、絵画に関する知識以前の問題で、最初の跋文を読んで、ほんの少し考えれば「蘇軾の真筆と断定できる」という命題が”偽”ということは、わかるのである。初歩的な論理学の問題とさえいえるのであるが。
落札したのは、個人ではなく何らかの機関であろうけれど、それにしてもお世辞にも名品とはいいがたい、参考にもならないような作品をよくぞ落としたものである。「蘇軾木石図」が真筆であるということに客観的な証拠は存在しないのであるから、68億円という大金は、誰ぞの主観に対して支払われた、という意味になる。
もっとも、落札者は未詳であるし、本当にお金が支払われたかもわからない。ともあれ、作品の真贋は同時に、鑑定した人物や組織の真贋を明らかにしてしまうのである。
もし本当に落札者がいて、お金が支払われたのだとすれば、これをどう考えるべきであろう.........と考えていて「まず隗より始めよ」という、戦国策に出てくる故事を思い出した。燕の昭王に郭隗が就職面接の際にひいた、たとえ話である。

君主に一日に千里を走る名馬をさがすように命令された家臣が、死んだ一日千里の名馬の骨を五百金で買って戻ってきた。君主が激怒すると「千里の名馬なら、その骨さえ五百金で買うのならば、まして生きていれば。」とその家臣はこたえる。はたして一年の間に、三頭もの千里の馬がやってきた、という話である。
有能な家臣を求める昭王に、郭隗が「まず私を採用してください。この私ごときが採用されると聞いたら、能力のあるものが次々と燕国にあらわれるでしょう。」というわけである。果たして楽毅が魏から、鄒衍が齊から、劇辛が趙から燕国にいたり、多士済々となった燕は富国強兵に成功し、大国斉を打ち破ったのである。

...........贋作すら買う、まして本物であれば、いったい幾らで落札されるのだろう?「まず贋物よりはじめよ」というわけで、本物の名品が陸続と出品されることを期待しての”自作自演”だったのかもしれない。とすれば多少は腑に落ちるのである。もっとも「あの程度でも通るのか。」と、現実にはコマシな贋物が、続々と現れてきそうではあるのだが.......千里の馬のたとえにしても実際は「骨が売れるのか?」と言うわけで、大量の馬の骨をかついで来るものが絶えなかったのかもしれない。むろん、どこの馬の骨なのか?わかったものではない。
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新老坑硯五面をリリースいたしました。

先日お伝えの、新老坑硯五面をリリースしました。
新老坑と一口に言っても、老坑水巌と区別がなかなか難しい硯もあります。じゃあ、老坑水巌として、もっと高く値段をつければいいじゃない?とみる向きもあるようですが、それもいかがなものかと。老坑水巌は老坑水巌として、やはり新老坑と違った性質があるものなのです。
新老坑硯
ちなみに、老坑や麻子坑、坑仔巌といった歴史ある坑洞を有する斧柯山から西江を挟んでの対岸、北嶺とよばれるところから出る硯石もあります。北嶺も古くから採石が行われてきましたが、歴史のある所では、宋坑や梅花坑があります。
近代にあって、ともかく量が採掘されたのが沙浦です。沙浦からは大量の硯石が採石され、旧坑洞がすべて閉鎖された斧柯山に代わって、現在もここで硯石の採石が行われています。

沙浦は硯石としての性能はまったく劣るものの、華麗な石品を持ち、一見すると老坑や麻子坑、坑仔巌といった、旧坑洞の硯石に似た硯材が採石されます。これらの硯石は旧坑洞と区別され、新麻子坑や新坑仔巌、そして新老坑というような区別がされる事もありますが、流通の過程で意図的に混同され、老坑や麻子坑という名で店頭に並んでいる状況が現在も続いています。
弊店や、一部玄人筋の言うところの”新老坑”は、あくまで旧坑洞、斧柯山の老坑水巌近傍の坑洞で採れた硯材です。斧柯山とは距離のある、沙浦や北嶺の諸硯石のことではありません。巷間、沙浦の石でも、新麻子坑や新坑仔巌とならんで、新老坑を呼称する硯も流通しているようなので、ここで注意を喚起しておきます。

硯が実用を離れ、もっぱら鑑賞に供されるようになった現在、彫刻用の石材としてみれば、沙浦で採石された材料でも良いのかもしれません。しかし沙浦の硯石は、巨大で価格も高いわりに、墨を磨ってもいいところが無いのが実際のところなのです。とはいえ、硯で墨を磨らず、部屋の装飾として硯を置いておきたい、というニーズが現在は多いのでしょう。観賞用のために、限りある旧坑洞の資源を浪費するよりは、そういった用途向けにたくさん採石される硯材を提供するのも一法でしょう。沙浦が無ければ、とっくに旧坑洞の硯石は枯渇し、価格が暴騰していたかもしれません。そういう意味では、沙浦の石も、存在価値があるとはいえるのでしょう。
しかしながら一方で「悪貨が良貨を駆逐する」状況が見受けられないとは限りません。そういった意味では、北嶺と沙浦、そして斧柯山の硯石を区別し、旧坑でも老坑水巌と新老坑を区別することは、意味のあることだと考えています。
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寫奏という筆

”寫奏”という筆がかつて造られていた。........木村陽山氏の「筆」によると、文化大革命の時代、それまでの”寫奏”が封建時代を想起させるという理由で、すべて”寫卷”に改められたという。寫奏”あるいは”寫卷”という筆の呼称の変遷についてはすでに何度か述べているかもしれないが、結論からすれば文化大革命以前にも”寫奏”と”寫卷”が同じく存在し、文革勃発の影響により”寫奏”という呼称のみが使われなくなった、と考えられる。
文革に先立って”合資合営”の時代があり、李鼎和や老文元といった上海の筆店は上海筆店に統合され、個人名を冠したブランドの筆が造られなくなった。さらに上海工芸という工芸品貿易をもっぱらとする、国営商社の名称に統一されている。すなわち李鼎和や老文元といった、筆店の名称が刻まれた”寫卷”が多数存在するということは、文革の嵐が吹き荒れる以前にも”寫卷”という筆が存在していたことを意味している。文革以前はすべて”寫奏”であった、ということではないだろう。
ところで文革前にもたしかに”寫奏”という筆が存在したに違いないのであるが、”寫卷”にくらべてかなり少数にとどまっていたと考えられる。自身、”寫奏”に縁がないのか、手ごろな値段で見つかることがない。以下の李鼎和寫奏、および双料寫奏の画像は知人からの借用である。
李鼎和寫奏
”寫奏”に”寫奏”のみの筆銘と”双料寫奏”があるのは、”寫卷”にやはり”双料寫卷”があるのと同様である。”寫奏”も”寫卷”も、兎毫を芯に、羊毫を副毛に巻いた筆である。”寫卷”のみを冠した筆は、毛先が黄色い、いわゆる兎毫の黄尖のみが使われている。たいして”双料寫卷”は、筆の芯が黒い、いわゆる花毫が使用されている。この区別は、”寫奏”と”寫卷”と同じである。すなわち”寫卷”と”寫奏”で筆の構造に差異は無く、基本的に呼称が異なる同じ筆、という理解で良いかと考えている。
李鼎和寫奏
李鼎和寫奏
さて、”寫奏”の”奏”は日本でいえば奏上文のことであるが、清朝ではこれをとくに”奏折”といった。あるいは”折子”、”奏帖”、ないし”折奏”ともいうが、”折子”はすなわち折冊子のことで、官吏が皇帝にお伺いを立てる際に、浄書した書類を決まった形式に製本してささげたことによる。
この”奏折”によって、すくなくとも制度上は、貴臣権門に拠らずとも、末端の官吏や場合によっては寺院の僧侶すらも、”奏折”によって皇帝に直接訴えることが出来たという。いうなれば規模の壮大な”目安箱”、というところであろうか。
清朝の歴代皇帝はこれに朱筆でもって意見を書き入れ(”朱批”)、政策判断の材料とした(この際に皇帝が用いた筆が純紫頴筆であるといわれる)。むろん、皇帝ひとりではすべての奏折の処理にとても追いつかないから、大后、あるいは朝廷の重臣の代理が許された。しかし雍正帝などは、膨大な奏折をすべて自分で”朱批”したというから、相当なハードワークであっただろう。
また奏折は陳情の他、皇帝への謝恩に際してもささげられている。

話を筆に戻せば、”奏折”を寫(か)く、ための筆が”寫奏”という事になるのだろう。兎毫を羊毫で巻いた筆に”寫奏”の呼称があったという事実は、”奏折”が実際にこのような構造の筆で書かれていた可能性を示唆している。もちろん皇帝相手に、臣民が筆記書体である行書や草書で書かれた文章をたてまつることなどゆるされない。翰林体に代表されるような、かならず端正な楷書体で書かれていなければならなかった。寫奏はそのような整った楷書体を書くのに適している、ということでもあるだろう。
老文元寫卷
しかし”奏折”という制度は、清朝の終焉とともに幕を閉じているから、文革に拠らずとも民国時代の早期に”寫奏”という筆が造られなくなっても不思議ではない。しかし筆といい、墨といい、伝統的な呼称は意味を離れてしばらくは継続するものである。日本でいえば”奉書紙”という呼び方が残っているようなものであろうか。
また、1932年に満州国が建国されたが、すくなくとも制度上は満州国皇帝溥儀の聖旨、ないしは奏折という制度が継承されている。この国家に向けて”寫奏”が造られ続けた、というのは考えすぎであろうか。
ともあれ”寫奏”も文化大革命の早期に姿を消した、というわけである。代わってもっぱら寫卷”、という呼称が使われるようになったということであるが、”経巻”に寫(か)く、という意味からすれば、”寫卷”が清朝や中華民国時代にすでに存在したとしても不思議はない。”寫奏”と”寫卷”の両者が併存したことについては、”寫奏”の”奏”と”寫卷”の”巻”の字形が似通っていることも、ひとつの理由になるのではないだろうか。以下は文革前の李鼎和寫卷(下)と、80年代に李鼎和の呼称が復活した後の寫卷(上)。
李鼎和寫卷
今回は久しぶりに兎毫の黄尖を用いた寫卷形式の筆をリリースする次第であるが、名称をあえて”寫奏”にしている。現代からすれば奏折を書くのも経巻を書くのも、ほぼ過去の行為である。であれば、かの文化大革命によって喪われた筆銘を、ここに復活させるのも一興であろうと考えた。
文革の一時期に”寫奏”という筆銘が廃止されるに至った明確な過程は知るすべもないが、高位高官から直接のお達しがあったわけではなく、察するに筆店が時代の風潮を忖度してのことではないだろうか。しかし一応断っておかなければならないが、私がこの、筆を探す人が検索することもほとんどないであろう、”寫奏”という呼称を復活させようと考えたのは、ただの懐古趣味である。

頭が痛いのは価格であるが、こうした筆に使われる兎毫は、もう絶望的に高騰してしまっている。資源の枯渇もそうであるが、材料を採る人が、少なくなってしまっているのだという。
安価な寫卷などはナイロンで出来た毛を芯に使っているのだが、本物の兎毫を使うとなると、いまやそのコストはなかなか厳しいものがある。一昔前はこうした実用の兼毫筆は安価でまとめ買いが可能であったが、現在では浄書用に一本一本、大事に使うよりないのかもしれない。
確かに一昔前、寫卷がとても安かった頃がある。90年代から2000年の初頭にかけての時期であるが、その当時の日本と大陸の経済ギャップと為替レートの関係で、むしろその頃が安すぎた、ともいえるだろう。清朝期においても、”奏折”という特別な筆書のための筆が、もとよりありふれた筆であったはずがなく、兎毫の希少性から言っても、安価に使い捨てに出来た筆ではなかったのだろう。同時代にあまたに存在した多種多様の実用の小筆があまり残っていないにも関わらず、寫卷や寫奏といった筆が使用済みも含めて残っている例が比較的多くみられるのも、おろそかにできる筆ではなかった可能性を示唆している。
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兎毫は一般に毛が堅いので切れやすい。粗悪な硯でもって筆先を整えていると、すぐに芯が使えなくなってしまう。穂先を整えるには小さな陶製の絵皿などが良いだろう。また筆を長持ちさせるためには、墨汁の使用は絶対的にお勧めできない。もとより、小楷を書く筆なのであるから、墨液もそれほど必要ではないはずである。ぜひとも、固形の墨を磨ってお使いいただければと思う。
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揚州文物商店の硯

......揚州に行った際に、天寧寺近くの文物商店に立ち寄った。天寧寺は昔は揚州市博物館があった場所であるが、現在は博物館は郊外に移転している。その代わり、境内には古玩店が軒を連ねている。
大陸の博物館の近くというのは、場所柄、昔から骨董街になっている場合が多く、国営の文物商店もおおむねそこに位置しているものであった。しかし近年、新設の博物館が建設されるに及び、博物館と骨董街の位置関係も変わってきている。
この揚州の文物商店は、はじめて揚州を訪れた十数年前にもこの場所にあったものである。以来、行くたびに少しのぞいてはいるが、買った記憶があまりない。

ここの文物商店、硯や書画は長いこと二階にあったように記憶している。ところが今回、これらが1階に並べられている。また、硯と扇面などの小さめの書画の数量がだいぶん減っているようだ。
話を聞くと、北京から来た人が大量に硯や書画を買っていった、という事だ。むろん、一度にまとめ買いしたという事は、つけている値段よりもいくらか値引きをさせたのであろう。しかしこの数年間、揚州の文物商店では、少なくとも硯にはみるべきものがあったかどうか。
現在に限らないが、ここの硯や印材は”いい値段”をつけている。ザッと見ても数千元から数万元である。ちょっとした大きさの端溪硯が1万元を超えている。値札に10万、とある大硯が目に入る。10万円、ではなく、10万元、である。1元およそ17円で計算できるところだろうか。ここで数千元程度の硯は、十数年前であれば数百元がせいぜいのレベルである。まったく、資産インフレとは恐ろしいものである。

物価の高騰は仕方ないとしても、数千元、邦貨にして数万〜十数万円するのであれば、端溪であればせめて新老坑であってほしいものである。しかし、一見して老坑の端にもかかりそうな硯はただのひとつもない。歙州硯はまだしもとしても、端溪硯は端溪も怪しいような硯ばかりである。端溪石のような、紫ないしは赤味のかかった硯石というのは福州石や金沙江も含めて幾種類かある。それが粗悪な墨で黒ずんでいると、一見、端溪に見えない事も無いのである。こういった硯は、使い物になればまだいいのであるが、硯石としての性能もがっかりすることが多い。
無論、どういった硯が良いかというのはもちろん人の好みであろうけれど、それにしても、たしかにこの程度の硯がこの値段であれば、硯、特に端溪硯は日本で探したほうがはるかに安価である、とは言えるだろう。業者目線で逆に考えると、日本で硯を販売する事を考えた場合、大陸ではもはや仕入れにならない、という事でもある。作硯家に依頼すれば、新硯であっても古硯より高いくらいである。

日本のインターネットのオークションでも最近は端溪硯が多く出ているようで、中には老坑ないしは新老坑であろう硯も散見される。しかし困ったことに、老坑でない硯も老坑のような顔で出品されている、という実情がある。
実のところ(新)老坑か否かの弁別は、骨董を少し扱った程度の経験では十分に出来ないものなのであるが、その辺は等閑視されているようである。なので老坑であればたしかに割安かもしれないけれど、老坑でなければ高い買い物、のようなのが多いのが現状なのである。たまにこれは老坑ですか?という質問が来ることもあるのだが「実物をみないとわかりません。」と答えることにしている。老坑でない、という事までは写真だけでもかなりの確度で判別する自信はある。しかし確実に老坑ないし新老坑か?という事になると、それなりに高い値段がついているし、責任は取りかねる、というところである。

端渓硯の高騰ぶりを確認されるのであれば、揚州までいかなくても、上海に行く機会があれば南京東路の朶雲軒や福州路沿いの古玩城をご覧になっても良いかもしれない。北京は久しく見ていないが、値付けはそれ以上だという。もっとも、その価格で品物が動いているかどうかまではわからない。実際問題、大陸では今回はっきり「不景気」という言葉を耳にするようになった。しかし大陸の不動産の価格もそうであるが、しばし売れていないからと言って、値札を簡単に付け替えないのである。

これから値段があがるので、買うなら今のうちですよ、という事はあまり言いたくないものである。ただ、年々仕入れが厳しくなっている現実は、ご紹介する必要があると考えている。筆の価格などは、今までの筆匠の工賃が安すぎたという事もあり、致し方ない面もある。しかし、文房四寶全般の高騰は、おおむね大陸の資産インフレに引っ張られている面がある。当面継続するのかもしれない。
揚州文物商店や天寧寺の骨董街は、のぞいてみる分には面白いかもしれないが、ちょっと掘り出し物を、というわけにはいかないくらいの値段がついている。昔は地方都市の骨董街は、たとえば北京や上海あたりの古玩城と比べれば、比較的安価なものであった。情報化の影響であろうか、大都市と地方都市でも、骨董の相場はさまで変わらなくなってしまった。当面、硯などは日本で探すのが無難なのかもしれない。
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