筆四種

......昨今の物流事情にかかわらず、比較的順調に入荷が出来、一安心というところ。中国の地方都市から品物を送ってもらう場合、まずは深圳や上海の知り合いの元へ中国国内便で発送してもらいそこからDHLなりで送ってもらうと早い。地方都市から直接となると運輸会社も限られるうえに、余計に日数がかかる場合が多いのである。


前にご紹介した令月和風は純羊毫の長鋒筆であるが、他に三種類の筆を試みた。一種は羊毫と狼毫の兼毫筆、ほか二種は兎毫を芯とした兼毫筆である。


狼毫と羊毫の兼毫筆は李鼎和の羊狼毫大楷という筆をモデルにしている。芯は狼毫であるが、副毛の羊毫も弾性の調整と含水性に貢献している。昔の和筆には和様・唐様ともにこうした羊毫と狼毫の兼毫筆が多かったものであるが、最近はどうであろう。”大楷”としているが大楷といっても昔の大楷の事で、せいぜい5僖泪抗僂暴颪韻襯汽ぅ困瑠棺颪了である。
”楷書用”をうたっているが、何々用、というのは目安程度にお考えいただいた方がよく、行書や草書、あるいは仮名に応用されても好適であると思われる。


また、さる筆の収蔵家からお借りした兼毫筆の構造を調べ、再現したのがこの二種の兼毫筆である。
「紅豆」ないし「金不換」という筆については以前に述べた。静嘉堂文庫美術館の「唐筆一式」、あるいは「米庵蔵筆譜」には「水筆」ないし「京水」あるいは「京毫水筆」というような呼称の筆がある。これらの筆は科挙の受験用原稿を筆写目的で造られた筆であると推察している。
ほぐしてみると、芯には兎毫が使われ、羊毫を副毛としている。この羊毫は「京水」と称する場合は筆鋒の副毛が紅く染められている事が多いのであるが、単に水筆として場合は紅以外の着色もみられる。本来は筆鋒を赤く染めるべきなのかもしれないが、今回はあえて白い羊毫のままとした次第。いうなれば寫卷を大きくしたような筆であるが、科挙用の答案を筆写するならこれくらいの大きさがちょうどよかったのかもしれない。むろん、現代では科挙に挑む方もおられないであろうから寫卷を用いるよりもやや大きめの小楷や行草、尺牘などにお使いいただけると考えている。


「小龍爪」は兎毫を芯とし、これに兎毫をかぶせた純兎毫筆である。兎毫を芯とした場合、羊毫を副毛としたりあるいは狼毫を芯とし兎毫を副毛に用いる筆はあるが、兎毫のみで製せられた筆は昨今あまりみないかもしれない。強い弾性が特徴で、やはり寫卷に準じた使用法が合っているであろう。


こうした兼毫筆は江戸時代の日本にも多く輸入され、唐様をもっぱらとする書家の需要にこたえたと考えられる。日本では製筆材料となるような兎毫さらには製筆用の羊毫の入手が難しく、こうした水筆は輸入に頼っていたのかもしれない。実用の筆だけに現存するものは少ない。完整な品としては静嘉堂文庫美術館に収蔵された「唐筆一式」があるが、ほか、稀に散見される品にしても実際に使用するわけにはいかない。
羊毫全盛の現在ではあまり顧みられない筆であるが、昔の「唐筆」の書き味を試してみたい、という方もおられるであろう、いや自分自身が試してみたくて作ったような筆ではある。


今月はやや多忙で宿題もあり、ちょと文章やお店の準備が滞ってしまっている。販売までにはもう若干のお時間をいただきたい。他に新老坑の袖珍硯を数面リリースする予定である。今回の四種類の筆のリリースと併せて、もうしばらくお待ちいただければ幸いである。
 

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屯溪 鎮海橋の崩壊

連日の豪雨である。九州を中心に大きな被害が出ており、なお十分な警戒が必要であろう。
西日本の状況も全く楽観視できない今現在、となりの国の事を言うのもどうか?とみられる向きもあるやもしれないが、依然として九州北部に停滞を続けているこの線状降水帯は、気象衛星の画像を見ると、長く大陸の江南地方から内陸部まで続いている。ほぼ長江の流域に沿って長く厚い雲が覆っている。まさに東アジア規模の大豪雨であり、状況は予断を許さないものがある。

何度も訪れている安徽省黄山市の屯溪区は老街という古い商店街がある。老街はほぼ新安江に沿って続いているのだが、その一方の出口付近に、明代の嘉靖年間に創建された古い橋が架かっていた。今日7月7日、それが崩壊したという連絡が屯溪の朋友から入り、愕然とした。

痛心!黄山明代镇海桥被山洪冲毁 市民伤心抹泪:我走了50年
安徽黄山“镇海桥”遭山洪冲毁:始建于明代 国家级重点文物
黄山市近500年的屯溪老大桥(镇海桥)没了

屯溪老大橋とも呼称される鎮海橋は、省級保護文物に指定される文化財でもあるが、創建は明の嘉靖15年(1536年)という。その後毀損したが清の康熙15年(1676)に重修され、また康熙三十四年(1695)にふたたび水害で毀損し、康熙三十八年(1699)にさらに重修されている。長さ133m、幅15m七つの橋脚からなるアーチを連続した美しい石橋であり、当時の建築技術の高さを物語っている。安徽省に現存する古橋としては20番目の古さであったという。
また実見していないが、報道では安徽省旌徳県三渓鎮に残る明嘉靖22年(1543)創建の楽成橋も倒壊したという。


自身も屯溪訪問の折にはこの橋の上を何度も往来したものであるが、屯溪の歴史を象徴する建造物であり、今まで幾多の風雪に耐え、屯溪区の人々の生活を支えてきた橋であった。屯溪人で心痛まぬ者はないという。
以下は老街でカフェを営む今一人の朋友から送られてきた写真である。カフェの二階の窓から見える倒壊した橋が見えているが、終日茫然とした心地で眺めているという。

屯溪を含む徽州は盆地であるが、徽州盆地を貫流する新安江は平年の流量に対して非常に広い河道が建設されてきたため、暴雨に見舞われても比較的市街地への被害が少なかった地域である。それが7月7日未明、屯溪上流の新安江ダムの貯水量が限界に近づき、放流したため急激に増水し、ついに鎮海橋も激流を耐えることが出来なかったと考えられる。


実は長江南岸地域は昨年以来大干ばつに見舞われ、3月くらいまでは長江や鄱陽湖、洞庭湖が記録的な低水位に下がっていた。それが現在では鄱陽湖や九江市など、長江下流域のほとんどの観測点で警戒水位を超えてしまっている。今回の豪雨がいかに異常な規模であることか。その膨大な雲の連なりが、日本の九州にかかっているのである。

屯溪の鎮海橋の崩壊は、これが数百年に一度の洪水であることを物語ってるのかもしれない。

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夏口と鄂 〜黄祖=黄承彦考7

前回は、黄祖が呉軍の侵攻から守っていた拠点は現在の武漢市漢口(当時の夏口)ではなく鄂(城)だったのではないか?という疑問点についてあらましを述べた。結論的にいえば、『三国志正史』の記載における夏口はほぼ鄂なのである。今回はこの点をもう少し捕捉したい。
(今回は黄祖と呉軍の交戦についても概観したかったが、長くなったのでそれは次回に。)
夏口は夏水の河口、という意味であるが、異称の多いこの河川は漢水あるいは沔水とも呼ばれ、ゆえに沔口また漢口という呼称もある。また時代によって大陸の大小河川の河道はかなり変遷してきたようで、1800年前と今日では、河川と地名を安易に結びつけるのは注意が必要である。


呉軍と黄祖軍の最後の戦いの模様は『三国志正史・呉志』における董襲の傳にもっとも活写されているが、そこに”沔口”の名がみえる。すなわち以下の一節である。


建安十三年權討黄祖。祖横兩䝉衝挾守沔口以栟閭大紲繫石為矴上有千人以弩交射飛矢雨下軍不得前。襲與淩統俱為前部各將敢死百人。人被兩鎧乗大舸船突入䝉衝裏


黄祖は沔口を挟み込む格好に二隻の蒙衝を並べ、それを岩石に繋留し、千人の弩兵に雨あられと矢を放たせたため、呉軍は前進することが出来ない。董襲と凌統は鎧を二重に重ねた決死隊百人を率いて蒙衝の背後に進み、繋留を切断して蒙衝を動揺させ、ついに突破に成功する、というくだりである。
後に『演義』の赤壁の戦いの描写にも影響したであろう、この一節の精彩な戦闘描写のためか、呉軍は沔口(すなわち現在の漢口)で戦い、その県城を攻略した、という印象が強いのかもしれない。
しかしこの一節における”沔口”は、黄祖が二隻の蒙衝を浮かべて守備していることから、戦場における特定のポイントとしての”河口”を意味している、とも考えられる。


また『呉志』凌統の傳において


権統軍從討江夏入夏口先登破其前鋒輕舟獨進中流矢死


とある。凌統の父凌操が戦死したのも、夏口における黄祖との戦いに従軍した時(この戦いでは呉軍は攻略に失敗している)という事になっている。

『三国志正史・武帝紀』には、赤壁の戦いの直前に起きた呉軍と黄祖軍との最後の戦いを、


復征黃祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、盡銳攻之、遂屠其城。


と記述している。ここでは”屠其城”とある。”其城”とあるだけで、どこの城なのか?この武帝紀の文脈からは読み取れない。また”屠城”とある。屠城すなわち住民を皆殺しにすることであるが、人口・労働力・生産力が貴重な当時、実際にそれが行われたとは限らない。しかし少なくともその県城を攻略した事を示している表現である。


さらに武帝紀には、曹操が荊州攻略へ南下を開始した事がつづられ、


九月公到新野、遂降、備走夏口


とある。すなわち(劉)備が夏口に(敗)走する、という事が書かれている。呉軍が攻略しているはずの夏口城に劉備が敗走するというのはいささか不自然であるが、『呉志』の魯粛の傳には、夏口へ至る以前に孫権から派遣された魯粛が劉備と合流したことがわかる。呉の使者の手引きがあれば、それも可能だろう。
しかし蜀志・先主傳には劉備の敗走経路について、


先主、斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔。遇表長子江夏太守、衆萬餘人、與俱到夏口


とある。まず劉備は漢津へ斜趨(しゃすう)した、とある。斜趨とは東西南北に平行に進む(=横行)ことに対して、東南あるいは北東というように、斜めに移動することであるが、當陽の長坂(現在の湖北省宜昌市付近)から、南東方向の漢津(現在の武漢市漢陽区)へ敗走した、という事であろう。
”津(わたし)”というのは河川の渡し場という意味であり、漢津で先に襄陽から漢水伝いに脱出させていた関羽の船団と合流し、”沔を得濟”とある。”得濟”は保全するという意味であり、沔、すなわち沔水流域を掌握したという事であろう。
より端的には江夏郡の沔口周辺地域を抑えた、という事になると考えられる。さらに江夏太守である劉に遭遇し、一万の軍勢を率いて”夏口”に向かったのであるが、この夏口はすなわち呉が攻略した”鄂”をさすのであろう。
後に”沔”を含む地域に夏口鎮が置かれ、また現在は武漢市の漢口区になっている。そのため、この武漢市における漢口が夏口と考えがちである。孫策がやはり現在の武漢市に含まれる沙羨で黄祖と戦ったという(おそらく虚構の)歴史があるため、なおさらそう思ってしまうかもしれない。


諸葛亮傳には


先主至於夏口、亮曰”事急矣、請奉命求救於孫將軍”時、權擁軍在柴桑、觀望成敗


と、やはり先主(劉備)が夏口に至った事が書かれている。さらに呉主傳にも


備、進住夏口、使諸葛亮詣權


と、いずれも劉備(軍)が夏口に向かい、駐屯したという記述がある。これらの夏口もすなわち鄂のことであると考えられる。
この時劉備は襄陽以降の敗走兵を収容し、少なくとも1万人以上の軍勢を率いていたと考えられ、さらに諸葛亮が孫権に語ったところでは劉と併せておよそ2万の軍勢を率いているとされる。人口がそれほど多くない江夏郡の、さらに一部地域だけでは長くその補給を支えられない上に、漢水上流から曹操軍が攻め降ってくるおそれがある。ゆえに最低限の備えを残し、ほとんどの軍勢を率いて夏口(すなわち鄂)に向かったのであろう。


実のところ後漢書の劉表傳における李賢の注には


「夏口今之鄂也左傳吳伐楚楚沈尹戌奔命於夏汭杜預注曰漢水入口今夏口也」


とある。そこには”夏口今之鄂也”すなわち夏口とは今の(東晋時代の)鄂であり、”漢水入口今夏口”と漢水が長江に注ぐ場所が夏口なのである、と書かれている。


また欽定四庫全書の『吳志卷十七考證』には「胡綜黄龍見夏口於是權稱尊號」すなわち胡綜が黄龍を夏口において発見し、その瑞祥によって孫権が帝号を称したという故事について


按夏口毛本作舉口太平御覧作樊口舉口盖樊口之誤


と考証している。
”毛本”は明代の蔵書家、毛晋が刻版した一大叢書、汲古閣本のことであるが、その版本における呉志には、夏口ではなく”舉口”と書かれており、また太平御覧では樊口のことを舉口と記述している、という。樊口は鄂における長江沿岸の地名である。すなわち夏口ではなく舉口=樊口(=鄂)ということで、黄龍が発見されたのは夏口ではなく(鄂すなわち武昌の)樊口であろうと。
そう考えると、董襲の傳にある”沔口”とは、おそらく樊口をさすと考えられる。


さらに付け加えれば胡綜傳には「從討黄祖拜鄂長」とあり、胡綜が黄祖との戦いに従軍し”鄂長”すなわち鄂の長に任ぜられた記述がある。


また裴松之の注に引かれるところの『江表傳』には、曹操軍に追われて敗走する劉備に呉から派遣された魯粛が合流し、呉と同盟を結ぶ事を勧め、


備大喜、進住鄂縣、卽遣諸葛亮隨肅詣孫權、結同盟誓。


とあり、鄂県(城)に進駐した、と書かれている。さらにやはり『江表傳』の注には、

備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣吳未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望權軍。


とあり、劉備は魯粛とともに鄂県の樊口に至り、諸葛亮を呉に派遣した、と書かれている。樊口は現在の湖北省鄂州市の樊口街道にその名がみえる。後に孫権が長安という三千人乗りの大型船の進水式をやるのも樊口であるが、鄂州における港湾地域であったと考えられる。
少し歴史小説めいたところもある『江表傳』であるが、蜀の遺臣で魏に仕えた陳寿よりも、呉の支配下の地名に関する錯誤は少ないかもしれない。黄祖と呉軍の戦いの描写が『江表傳』にもあったはずであるが、残念ながら裴松之の注には引かれていないので未詳である。また魯粛と鄂城に至る前に劉備が夏口城へ入ったかどうか?この個所についても『江表傳』の引用はない。


劉表は長江北岸を防衛するため、漢水と長江の合流地点(すなわち沔)の北東に位置する西陵県の石陽にも黄祖に命じて築城させたという。これは安慶を攻略し現在の安徽省北部を制圧した呉軍が、長江北岸からの陸路伝いで夏口方面への侵攻する可能性への備えであっただろう。また最前線の鄂に対する後方基地の役割を負っていただろう。いうなれば呉に対する第二防衛ラインであり、鄂が陥落後に江夏太守となった劉が向かったのも、この地域だったと考えられる。


以上から黄祖が呉軍の侵攻を防ぎ続けてきたのは、やはり後に孫権が武昌と呼称を改める、鄂(城)であり、『三国志正史』における夏口とは鄂、また董襲傳における沔口というのは鄂の樊口である、そう結論付けて良いのではないだろうか。
大陸で通常”城”といえば万人以上の住民が住む地域を城壁で囲んだ都市をさす。日本の戦国時代における領主の居館、ないし純粋に軍事拠点としての砦の類ではない。江夏太守に任ぜられている黄祖の居城が、単なる前線の”砦(とりで)”に過ぎないという事は、考えられない事なのである。自給能力を持たない砦や山塞は後方から補給を受けなければ維持できない。そのような純粋な軍事拠点を長期にわたって”江夏太守”が守るのは不自然なのである。鄂(州)城が歴史的に江夏地方の首府となるべき地であったことをと考え合わせれば、孫権率いる呉軍が躍起になって攻略を目指し、後に呉の首都ないし副首都となった史実とも符合するのである。
黄祖が守る城が鄂城であったとすると、なぜ黄祖は呉軍の数次の侵攻を良く防ぎ、最後に敗れたか?その原因も見えてくる。

とはいえそこは後回しにし、次回は黄祖が歴史に登場する、孫堅との戦いについて概観したい。

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令月和風

.........令和を記念した筆の制作を依頼したのは昨年の晩秋の頃であったが、先日その筆がようやく完成したという連絡があった。これは現地から送られてきた筆の画像である。

「令和」のもとになった万葉集には「初春令月。氣淑風和。」とある。この語順に従えば「風和」であるが、ここはいささか和製漢文の気味がある。漢語的には「和風」でひとつの単語であり、「和風甘露」という瑞祥を表す語がある。「令月」という吉祥を表す名詞に接続する語としてはやはり漢語的に「和風」という名詞であるべきと考え「令月和風」とした次第。
完成したのは今年令和二年だが、製作は令和元年の冬に始まっているから正しく令和元年を記念している、とお考えいただいてよろしいかと思う。もともと良い筆の制作は冬季に行われるものなのである。

とりわけ長鋒の羊毫筆を”鶴脚”という。一般的な万能筆は”玉蘭蕊”であるが、玉蘭蕊の中鋒筆としては弊店には”飛花入硯池”がある。鶴の存在は長壽を祈念する吉祥でもある。新しい御代の始まりを記念する筆として、あえて鶴脚筆とした次第。
長鋒の鶴脚は長い筆鋒に墨を多く含むことが出来るので、行草仮名の連綿など、墨継ぎを減らしたい書体を条幅で書く場合に好適である。しかし痩金体の楷書や、隸書に用いても良い筆である。長鋒で楷書を書く場合、ゆっくりと丹念に運筆しなければならない上に、懸腕が安定していないと線が振れるものである。ゆえに運筆の力を付けるためにあえて長鋒で鍛える、という練習法もある。

昨今の情勢もあるが、それ以外にも諸般の事情があり、いつもよりだいぶ制作に時間を要している。同時期に依頼した新作の筆はあと3種類あり、羊毫狼毫の兼毫筆は現在刻字の最中であり、また2種類の筆はこれからラベルを送って筆に貼付してもらうので、全体が完成するのはもう少し先になる。
時期が時期なので焦らず仕事をしてもらって、確実に入荷を図りたいと考えている。何かあったときに現地に飛ぶ、というようなことは当面出来ない情勢であり、また次に依頼する筆のオーダーもどうなるかわからない中、気長に待つよりない。
とはいえなんとか7月中の入手が出来ないものかと考えているのであるが、現時点では確かなことは言いかねる有様。
他の三種の筆と同様、楽しみにお待ちいただければと思う次第である。
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鄂城の存在 〜黄祖=黄承彦考6

黄祖という、おそらくは後の諸葛亮と蜀の盛衰に少なからぬ影響を与えたであろう人物について調べてゆくと、そもそも黄祖について述べられた数少ない史料の内容そのものに多大な疑義が浮かんでくる。

中原をうかがう勢力の一角であった劉表の荊州も、その後は魏吴蜀に分割されてしまったためか、荊州の人士については信頼できる記録が乏しいものがある。
荊州については比較的豊富な記述がみられるのが『呉志』であるが、基本的に劉表と敵対する関係であったためか、客観的とはいいがたいところがある。もともと『三国志正史』の著者である陳寿は蜀の出身で、蜀滅亡後は魏に仕えたためか、魏や蜀に比べると『呉志』の内容はやや疎漏の感がある。また呉にたいする陳寿の筆致はやはりどこか冷淡である。そして『呉志』の注に多く引かれる『江表傳』『呉録』についてもいささか饒舌が過ぎ、講釈本のようなところが随所にある。

ともあれ『呉志』の記録を見る限り、黄祖は呉軍に敗戦を重ねていることになる。しかし呉軍の戦略目標の達成の可否を見る限り、鵜呑みにはしがたいものがある。結局、劉表に委任されて黄祖が守る”拠点”は赤壁の戦いの始まる建安十三年、劉表の没時の直前まで陥落していないのである。ただこの黄祖軍と呉軍が攻防を繰り広げた荊州(江夏)の拠点がいったいどこなのか?という問題については、いわれているほど自明ではないのではあるまいか。今回はその点について考えてみたい。

黄祖が守っていた拠点は、現武漢市区内の長江南岸の沙羨ないし北岸の夏口であると、一般には考えられているかもしれない。しかしこの点は、大いに疑問がある。むろん夏口や沙羨にも軍事拠点ないし県城が存在したであろうが、それでも沙羨が呉に対する荊州側の最前線であったと考えるのは難しい。以下に理由を述べたい。

現在の武漢市はかつての夏口とよばれた漢口を中心に繁華な大都会を形成し、この漢口の対岸地域が武昌区である。そこに孫権の軍事楼に由来する黃鶴樓が聳え立ち、これが武漢のシンボルとなっている。しかし後漢から三国時代まで、沙羨県(城)に属したこの地方一帯はそれほど開発が進んでいた形跡はないのである。

そもそも沙羨を含む地域が武昌郡となり、沙羨に治所が置かれたのは三国時代の後の晋代に入ってからである。
紀元前221年に呉の孫権がそれまでの鄂城(現鄂州市)を「以武治国而昌(武を以て国を治め栄える)」の意味を込めて”武昌”と改め、その首府を建業(現南京)から遷している(229年に帝号を称すと、ふたたび建業を都としている)。そして武昌へ建業から一千家を移住させたという。これが”武昌”という呼称の起源である。後の孫皓の時代には、再び呉の首都を建業から武昌に遷都しようとした。しかしこの時は群臣の猛烈な反対にあって頓挫している。
後の東晋時代に、それまで江夏郡であった地域を武昌郡とし沙羨にその群府が置かれて後に、現在の武漢市武昌区一帯が”武昌”と呼ばれるようになる。いわばこの”新武昌”が現在の武漢市の武昌なのであるが、たいして鄂城は”古武昌”とも呼ばれる。

この”古武昌”こと鄂城が、後に建業と呉の首都の地位を争うほどに発展したのは、むろんのこと孫権肝いりの再開発が奏功したからであろう。しかしもともと都市として発展する基礎と伸びしろのある土地でなければ、多大な労力と資力を投資する価値はない。その点、鄂城は後漢の荊州江夏郡に属する十四県(城)の一つであるが、歴史的にも経済的にも当時の江夏郡でもっとも重要な県城であったと考えられるのである。

歴史をたどれば、時代によって鄂州と呼ばれたこの地域は、さかのぼること堯帝の時代は樊国という小国があったとされる。また殷の時代には鄂国という国があったという。その後春秋戦国時代に楚が副首都に定め、楚が秦に滅ぼされた際には始皇帝はこの地まで遠征している。また漢王朝成立後は漢高祖によって鄂県が置かれ、樊噲がこの地に封じられ、灌嬰が鄂県城を築城したという。

重機などの無い古代社会においては、大都市、さらには一国の首都になるほどの地というのは、ほぼ決まっているのである。それは現在においては二線、三線級の地方都市に後退してしまったとしても、王朝時代を通じては、盛衰はあるもののそれなりの規模と人口を維持し、歴史文化を持つ街として継続してきているのである。
孫権が鄂城を武昌と改めて後、武昌が呉の滅亡まで首都、ないし副首都の地位を保った理由は何か?呉の支配下にはいってから急速に大土木事業を起こし、開発を進めた結果だけではないだろう。その地の重要性は戦国春秋時代からの鄂州の長い歴史を顧みれば明らかである。
たいして孫策が黄祖を破ったという沙羨の方面は、三国時代以前に一国の首都ないし副首都がおかれたというような、見るべき歴史はない。

結論を先に言えば、黄祖が劉表の信任をうけて守り、呉軍の攻勢を防ぎ続けてきたのは沙羨や夏口ではなく、この鄂城ではないか?と考えられるのである。
孫堅との襄陽防衛戦の後、江夏をめぐる黄祖と呉軍の最初の戦いを挙げると、孫策最後の戦いであった建安四年の”沙羨の戦い”が考えられる。しかしその呼称に反して、戦争の経緯と地理を照らし合わせれば、到底この戦いが”沙羨”で起こったとは考えられないのである。

鄂城から長江を東に下ると沿岸に柴桑(現九江市)があり、柴桑から鄱陽湖の西側を南下すると豫章郡(現南昌市)がある。いずれも孫策時代の呉の重要拠点である。呉が豫章郡と定めたこの一帯は呉郡、会稽郡ともにわずか数年で孫策によって平定された地域である。そしてこの地域を孫策が平定して間もない建安四年(199年)、呉軍と劉勲の間で戦いが起こるのである。

劉勲はもともと孫堅と同じく袁術の支配下にあり、袁術によって廬江郡(現安徽省合肥市)の太守に任命され、皖城(安徽省安慶市)を拠点にしていたという。
建安四年に袁術が死ぬと、孫策は劉勲にへりくだった書簡を送り、豫章近郊の上繚の賊を討つ援軍を求める。しかしこれは計略であったという。劉勲が軍を率いて長江を渡った隙に、孫策は留守になった皖城を攻めとってしまう。帰路をふさがれた劉勲は、柴桑からわずかに上流の西塞山に立てこもり、江夏の黄祖に援軍を求めたという。
孫策は劉勲の軍を撃破し、千艘の舟と二千の投降兵を得る戦果を挙げ、余勢を駆って黄祖を討たんとして起こったのが沙羨の戦いであったという。しかしこの”沙羨の戦い”ついては孫堅傳(孫破虜傳)に付随する孫策の傳の本文にはなく、注にひくところの『江表傳』また『呉録』にしか具体的な記載はみられない。
『江表傳』に拠れば、この時劉表は甥の劉虎と南陽人の韓晞に五千の兵を与えて黄祖軍の先鋒としたが、孫策に撃破された、とある。さらに『呉録』に拠れば、孫策は戦勝報告を朝廷に上奏している。上奏文の冒頭、戦いは(建安四年)十二月八日に行われた、とある。劉虎と韓晞以下二万が呉軍に討ち取られ、一万は溺死、また黄祖の家族七名が捕虜になり、六千艘の舟と無数の物資を奪ったという。戦いには周瑜、孫権、呂範、韓当、程普、黄蓋が従軍していたという。
むろん、上奏文は(もし上奏したのが事実としても)戦果を相当に誇張するのが常である。仮に沙羨で戦いがあったとすれば、いかにも江夏における長江南岸全域が呉軍の支配下にあるような印象を与える。
しかしこの”沙羨の戦い”については、(孫堅の傳に付随する)孫策の傳にはその地名の記載がない。孫権傳には「建安四年從策征廬江太守劉勲勲破進討黄祖於沙奸廚箸△蝓△泙芯普の傳に「從討劉勲於尋陽進攻黄祖於沙婀堋胆仂襦廚箸△襪世韻如△曚の諸将の傳には”沙羨”の地名は見られない。ただ”江夏”とあるだけである。

問題は、この時期に鄂城がどこの勢力の支配下にあったか?という事である。本拠地の皖城を攻略されてしまえば、劉勲は長江を渡って北岸に戻ることもできない。ゆえに柴桑からわずかに長江南岸をさかのぼった地点にある、西塞山に籠ったのは致し方ないだろう。
もしこの時ですでに鄂城が呉軍の拠点であれば、西塞山からみて長江上流も下流も呉の支配下という事であり、劉勲はほぼ敵中に孤立したことになる。江夏方面の経路を鄂城に遮断されているから、黄祖に支援を仰いだとしても合流することすら難しい。
しかし後に孫権が呉の首都にしたくなるほどの重要拠点である鄂城を、この戦い以前に呉軍が攻略したという記録はないのである。

もし鄂城が黄祖の拠点であり、西塞山に陣を構えた劉勲が鄂城の黄祖に援軍を仰いだのだとすれば、地理的距離的に沙羨などよりもずっと支援が得られる可能性が高い。襄陽や夏口の兵力を漢水や長江を下って鄂城に速やかに送り、そのうえで水陸を併進して劉勲を支援した、とすれば当時の輸送交通の技術でも可能である。
もし黄祖の拠点が沙羨であり、沙羨から江夏郡の中央部を通って反対側の西塞山へ向けて援軍を送ったとすれば、途中で大湿地帯である”雲夢澤”の無数の湖沼、沼沢、中小山岳地帯を行軍しなければならない。しかも食糧を徴発できるような大規模な集落もない。いかに自領内とはいえ、補給の確保の上でも当時の軍隊ではまったく現実的ではないのである。
それは孫策の軍から見ても同じことである。鄂城という敵の前線拠点を迂回する格好で、江夏郡を横断して沙羨を強襲するような作戦は、たとえ空軍が存在する20世紀であったとしても非常な冒険であっただろう。

先の大戦で日本軍はまず九江を攻略し、そこから南は南昌、西に漢口(武漢)へ侵攻している。(九江へいたるまでももちろんだが)漢口への進撃は長江に沿って行われ、鄂州と黄州を先に攻略している。鄂州はすなわち三国時代の鄂県であり、黄州は邾県である。いかに漢口、武漢を攻略したくとも、九江(すなわち柴桑)から鄂州を迂回して陸路を進む、というような”無謀”な作戦は20世紀の軍隊でも採らないのである。
 
戦争において補給の重要性を強調する文は少なくないが、実際にどのように補給を行ったか?を考慮していないと思われる分析が多くみられる。軍隊がある地点に到達したとすれば、その人数を食べさせるだけの食糧が必要なのであり、その食糧を供給した方法が必要なのである。

人口が稠密な時代であれば、みちみち物資を徴発(略奪)して進むことも不可能ではないだろう。しかし『後漢書・郡国誌』にある数字では江夏郡全体で、

十四城户五萬八千四百三十四、口二十六萬五千四百六十四

とある。つまり十四城(県)ぜんぶで戸数五万八千戸、人口二十六万五千人、ほどのわずかな人口が100km四方の地域に分散していた、という事になる。むろんこれは税を課せられる戸籍人口であり、農奴の類、流民や水上生活者も相当数生活していたであろう。しかしそのほとんどは、長江沿岸を生活圏としていただろう。ゆえに柴桑(九江)から沙羨(武漢)まで、直線距離で200kmを超える距離を行軍し、決戦し、帰還することが、もし可能であれば長江の水路を使用するよりない。しかしこの時点で呉軍が江夏周辺流域の制河権を掌握していた、という根拠もまたないのである。
むしろ、江夏郡一帯の長江流域の制河権を掌握するには、まず鄂城を支配下に置く必要があったと考えられるのである。

鄂城がおそらく黄祖軍と呉軍の攻防の中心であったと考えられる根拠についてはほかにもいくつかあるが、長くなるのでここでいったん回を区切りたい。
歴史をたどるには時系列もそうだが、地理関係も出来る限り明確にしておくことが重要であろう。また後漢〜三国時代の軍隊は陸路のみで長距離の行軍は補給に非常な困難を伴う。河川をうまく利用しなければたちまち食糧不足に陥るのは、はるか後世、20世紀においてさえ同様なのである。

次回は鄂城についてさらに補足したうえで、黄祖の戦歴を概観したい。

※※「黄祖=黄承彦」という命題から離れてゆくかのようであるが、黄祖について調べてゆくにつれ、諸葛亮と黄祖、あるいは諸葛家と黄家のつながりがうっすらと見えてくる。
注意しなければならないのは、(黄祖=黄承彦に真偽はともかく、すくなくとも)孔明が黄承彦の娘を娶ったことにより、蜀の諸葛家にとって江夏の黄家が外戚になる、という事である。それは後の黄忠や黄権の活躍、あるいは諸葛瞻と黄皓の関係など、孔明出蘆後から蜀の滅亡にいたる歴史の、あるいは伏流水なのではないだろうか。
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