黄州赤壁行

武漢から黄州への移動はバスに拠った。武昌駅近くの中長距離バスターミナルから、大小の湖水と河川の上を一時間ほどひた走ると、黄州こと湖北省黄岡県に到着する。ホテルに荷物を置き、暑かったので少し休憩してから「赤壁」へ向かう。
ホテル前の通りで捕まえたタクシーの運転手に「赤壁(チー・ビー)」といえば、すぐに案内してくれる。黄岡県は小さな街である。十数分ほどで、「東坡赤壁」に到着する。牌坊前のひろい駐車場で私を下すと、タクシーは走り去っていった。
201607黄州赤壁行
ふとみると、入り口のすぐ右手の方が崖になっているのであるが、(写真では白っぽく写ってしまっているが)その色が果たして赤い。崖にそって、赤レンガの崩れかけた城壁のような構造物も見える。すわ赤壁かとおもいきや、それはもう少し先の方である。ビニールシートで覆っているのは、雨で崩落する事を防ぐためだろう。訪問する直前、湖北省一帯は長雨で氾濫の被害が出ている。岩と言っても、粘土質の地層であり、崩壊の危険性はある。そのうちコンクリートで固められるのかもしれない。

以前、徽州の岩寺鎮で、”岩寺”の名称の元となった巨石を探しに行ったことがある。それもやはりこのような赤い色の粘土岩であった。徽州ではところどころでこうした赤い粘土層が露出しており、この粘土を原料として煉瓦を焼くと、真っ赤な煉瓦になる。聞くところでは、太古、巨大な湖の底であった時に、土砂が堆積して出来た地層なのだそうだ。それは安徽、江西、湖北など、大陸内陸部にまたがる広範な地域に及んでいるという。
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もとより黄州赤壁は、三国時代の赤壁の古戦場ではない。古戦場の”武赤壁”に対して、詩賦に読まれたことから”文赤壁”とも呼ばれる。古い地誌では赤鼻磯(せきびき)ないし赤鼻山(せきびざん)などと呼ばれている地形である。また赤鼻磯という呼称から、黃鶴樓のあった現武漢の黄鵠磯と同じく、長江の流れに突き出た岩礁であったことがうかがえる。しかし現在の黄州赤壁は、長江からは完全に分離し、江岸から1kmほど内陸の池水に浮かんだ岩崖として残っているのみである。
麻姑のいう「桑田蒼海」ではないが、長江流域では長い年月の間に流れが陸地になったり、また陸が水底に沈むことも珍しくはない、ということなのだろう。
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史跡の名称としては「東坡赤壁」である。しかし黄州赤壁を古戦場にみたてて詩をよんだのは蘇軾が初めてではない。一般に、それは唐代の杜牧にはじまるとされている。ただ、杜牧より少し先輩の李白にも、赤壁の戦いを詠んだ詩がある。これが黄州で読まれた詩であるかどうかは不明であるが、注意をひく。李白の「赤壁歌送別」は

二龍爭戰決雌雄、赤壁樓船掃地空。
烈火張天照雲海、周瑜於此破曹公。
君去滄江望澄碧、鯨鯢唐突留餘跡。
一一書來報故人、我欲因之壯心魄。

と、赤壁の激戦を勇壮にうたい上げている。
ではどこでこの詩がよまれたか?についてであるが、李白の詩は年代日時を特定できるものがすくない。この詩も開元二十二年(734年)ごろ、李白が江夏を旅していたころの作品であると言われている。主題が赤壁の戦いなのであるから、江夏周辺で読まれたのは間違いないだろう。ただし李白はその前後十年ほど、江夏(現武漢)を中心に漂泊していたというから、いつどこでだれを相手によまれた詩なのかは、実のところ特定しがたいのである。

「赤壁(せきへき)樓船(ろうせん)地を掃いて空」「烈火張天(ちょうてん)雲海を照らす」という二句には、呉軍の火計によって魏の水軍が破られた様が活写されている。また「周瑜於此破曹公」から、呉の周瑜が戦勝の立役者であったという認識がうかがえる。「於此」とあるから、範囲はともかく、歌をよんでいるこの場所が赤壁な戦い場だったのである、というように読める。第五句には「君去り滄江(そうこう)澄碧(ちょうへき)を望む」とあり、「君去る」ということは、送別の友人はこの地から去ってゆく、というように解釈できる。

戦史上の赤壁の場所については諸説あるが、武漢から岳陽へ長江をさかのぼる中間、現在の赤壁市付近であるといわれる。そこは近代に入るまで、蒲圻県という、ごく小さな街があるだけであった。
李白は洞庭湖、嶽陽樓の詩も多く読んでいるから、江夏(武漢)から長江をさかのぼる途上の蒲圻近郊で、古戦場としての赤壁を目にしていたかもしれない。しかし蒲圻に李白が長期滞在した形跡はなく、この「赤壁歌送別」が蒲圻で歌われた、というのはやはり考えにくい。当時ほかの李白の送別詩と同じく、江夏の中心、現在の武漢あたりでよまれたのではないだろうか。

このころの李白の送別詩では、年代がはっきりし分かるものとして開元二十二年(734年)に宋之悌が驩州へ赴くのを見送る「江夏别宋之悌」がよく知られている。

楚水清若空、遙將碧海通。
人分千里外、興在一杯中。
谷鳥吟晴日、江猿嘯晚風。
平生不下淚、於此泣無窮。 

唐詩選にもいくつかの詩が集録されている著名な宮廷詩人であり、五言律詩の完成者と目される宋之問がいるが、宋之悌はその弟である。
「平生不下淚、於此泣無窮」とある。”ふだんは涙を流さないのに、ここで泣けて泣けてしかたがない”という、友を送る真情にあふれている。それは表現上の誇張にとどまらない。宋之悌が行く先の驩州(かんしゅう)は交祉ともよばれた現ベトナム北部で、当時は大変な蛮地であったからである。驩州への赴任は事実上の流刑で、様々な風土病や蛮族が跋扈し、生還は期しがたいと考えられていた。
宮廷で宋之悌の兄の宋之問と併称された沈佺期(しんせんき)も、やはり驩州に流刑の憂き目にあった。その「初達驩州」という詩で、蛮地に送られた絶望感をうたっている。

個人的には、李白の「赤壁歌送別」は、宋之悌に向けてよまれたのではないだろうか?と考えている。前四句の赤壁の戦いを描写する、いささか過剰なまでの激しい筆致は、これから友が行く先での戦いを暗示させる。また後半四句と比べての前半四句の壮烈さは、友人を鼓舞するためと考えれば腑に落ちる。それは”江夏の地で起こったこの壮大な戦いに比べれば、南の蛮族相手の戦いなどモノの数ではない”と励ましているかのようによめるのである。
事実、宋之悌は驩州へ赴任後、現地の蛮族の蜂起に遭う。しかし勇士八人を鼓舞して力戦し、ついに反乱を退けたという。とすれば、勇猛な人物であったのだろう。撃剣の使い手で任侠肌の李白とは、ウマの合った人物であったに違いない。
李白の「赤壁歌送別」が江夏で読まれたとすれば、具体的には何処であろう?と考えると、それは黃鶴樓のあった現武漢中心地ではなく「春風三十度、空憶武昌城」とうたわれるように、武昌城のあった現鄂州市あたりとも考えられる。
もっとも李白にはほかに「江夏贈韋南陵冰」という詩がある。その末尾四句は

我且為君槌碎黃鶴樓
君亦為吾倒卻鸚鵡洲
赤壁爭雄如夢裡
且須歌舞醂ネ

である。
大意を示せば”私は君をもって黃鶴樓をうちこわすから、君はわたしを鸚鵡洲におしたおしてみなさい。赤壁の両雄の戦いだって夢の中の出来事のようなもの、なにもかも歌い舞って別離の憂いをくつろげようじゃないか”という、酔いに任せた体の、実に奔放な内容である。ひろく”江夏”と言った場合、そこに黃鶴樓も赤壁も含まれるという、李白らしい気宇の大きな詩である。
ただ、李白は神仙世界のような、現実に存在しない世界を主題とする以外は、目に見た景物から空想を膨らませて詩をよんでいる。この「赤壁歌送別」も、想像の契機となるような、李白が目にした景観が、どこかにあったのかもしれない。
黄州に李白の足跡は確認できないが、対岸の武昌城ではいくつか詩を残している。李白は黄州の赤鼻磯を目にしたことがあっただろうか。
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現在の東坡赤壁は、史跡の中に入る前にも公園がある。色あせて放置された近代的な遊具の姿にやや興を削がれる思いがしたが、ともあれ入場料を払って史跡の中に入る。
昼過ぎに黄州に到着し、午後3時ごろに東坡赤壁に到着している。七月初旬の昼下がりのこととて、日差しも強く気温も湿度も高い。史跡の中に入ると、きれいに整備された園庭があらわれる。正面に向かえば、赤壁の岩崖上に構築された楼閣へのぼるようになっているが、まずは蘇軾が遊んだ赤壁をみたいものである。入って左手に見える、蓮の葉の繁茂する池に沿って歩いてゆく。
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淡水を蒸らした沼池の匂いが漂い、大きな蓮の葉が湖面をおおいつくしている。そのところどころに紅いハスの花が揺れている。小さな鴨が泳ぎながら、水にもぐったり、蓮の葉をくぐったりしている。池水の上に人の影が動くのに応じて、時折大きな魚が身を躍らせる水音が聞こえる。園内の低い木々には、蝉の声が喧しい。
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木の桟道をわたってゆくと、開けた池水の上に白い亭閣をいただいた岩崖が見える。この岩色は東坡赤壁入り口右手の岩肌と同じ色調であり、連続した地層なのであろう。なるほど、赤壁というだけあって、たしかに赤いのである。池水には白い壁と赤い岩がさかさまに映し出されている。
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唐代の杜牧は、蘇軾に先立って赤鼻磯を古戦場にみたてる詩をつくっているが、蘇軾のように、赤壁の元で船遊びを楽しんだという形跡はない。
杜牧は当時斉安郡ともよばれた黄州に、刺史として赴任している。それは杜家の長子として、失明した弟の家族も含めた大家族を養うために、なにかと役得の多い(かつ都会のような社交上の出費もすくない)地方官への転出を希望したと言われる。また一説には、牛李の党争と呼ばれる、宮廷党争から距離をおく為であったとも言われる。その「赤壁」は

折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郎便
銅雀春深鎖二喬

史学家でもあった宰相を祖父にもつ杜牧は、若いころの出世作である「阿房宮詞」にみられるように、史料に精通していた。また歴史上の事件を巧みに絶句にダイジェストして読み込む、”詠史詩”に長けている。

「赤壁」でも「東風(とうふう)周郎に便ぜずんば」と、赤壁が火攻めによる戦いであったこと、周瑜が主な功労者であったことにふれ、「銅雀春深鎖二喬」として、曹操が二喬を銅雀臺に侍(はべ)らすことを夢想した故事を織り交ぜながら、歴史の一場面を短い絶句に凝縮している。
しかし銅雀臺の建設は赤壁の戦いの後であり、袁紹の残党を掃討し、河北を完全に掌握してからの事である。”赤壁の戦い”と”二喬”を結びつけるのは、おそらくは当時すでに戯曲化された”三国志”の脚本に拠ると考えられる。

杜牧は黄州赤鼻磯付近で、川砂の中から「折戟(せつげき)」を拾った、とされる。杜牧自身がひろったのではなく、魚の網にでもかかったものだろう。赤鼻磯が古戦場でなくとも、武昌城付近では戦いが繰り返されたから、河底から古い武器が現れても不思議ではない。無論、これ自体が創作であるとも考えられる。
ここで杜牧は、赤鼻磯を古戦場の赤壁に見立てる構想に及んでいるが、この詩がいつどこで作られたか?については、実ははっきりしていない。一説には、この詩は杜牧と同時代の李商隱の作であるとも言われている。
たしかに二喬という絶世の美女に曹操・周瑜といった英雄の故事をからめてうたいあげるのは、恋愛詩に長けた李商隱の範疇としてもよさそうではある。とはいえ、李商隱が黄州に滞在した形跡はない。李商隱の作とすれば「折戟」をひろったというのも、まったくの空想という事になる。
”ハッピーエンド”で詩が終わるのは、悲劇性と残酷ともいえる描写を好んだ李商隱の作としては、少し物足りない感じも否めない。李商隱であれば.......周瑜の戦勝によって小喬は救われたけれど、その後すぐに周瑜は夭折してしまい、小喬は寡婦となって晩年寂しく過ごしたのである........というような、哀調に満ちた詩を作るのではないだろうか..........

杜牧がやはり黄州でよんだ「齊安郡晚秋」には

柳岸風來影漸疏 使君家似野人居
雲容水態還堪賞 嘯誌歌懷亦自如
雨暗殘燈棋散後 酒醒孤枕雁來初
可憐赤壁爭雄渡 唯有蓑翁坐釣魚

「憐れむべし赤壁(せきへき)雄を争いし渡(わたし)」として、黄州赤壁をモチーフに選んでいる。
「渡(わたし)」は船着き場のことであるが、黄州城外に付帯した赤鼻磯近くには長江に臨んだ城門がある。あるいはそこには船の停泊地もあったのだろう。齊安郡は黄州の別称であるから、この詩は杜牧の黄州刺史時代の詩であることがわかる。他「齊安郡偶作」など、黄州刺史時代の杜牧は佳品を多くのこしている。
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赤壁を違う角度から眺めようと、赤壁に向かって左手方向、池に沿って歩いてゆく。途中で赤壁下の池とは分離された、一面萍(うきくさ)に覆われた緑色の水面が現れる。その奥には、斜めに池水に滑り込もうとするような、巨大な赤い岩石が鎮座している。なるほど、池水に斜めに突出した赤い岩を人の鼻梁とみたてれば、赤鼻磯ないし赤鼻山という呼称もうなずける。
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この赤壁正面からみて裏手に当たるこのあたりの池は、魚の養殖でもしているのであろうか。水に近づくと、一面の浮草の間からフツフツと魚の吐くあぶくがはじける音がする。時折、池の真ん中のほうでは大きな魚が銀色の鱗をきらめかせて跳躍し、須臾のまにまに浮草の暗い破れ目から水中に消えてゆく。
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それにしても水面下をうかがいがたい、一面の緑である。杜牧の「齊安郡后池絶句」では

菱透浮萍儷喘
夏鶯千囀弄薔薇
盡日無人看微雨
鴛鴦相對浴紅衣

とよんでいるが、うき草が一面におおった池水を「緑錦」と形容している。あるいはこのような水面であろうか。
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ところで岩波文庫「杜牧集」における「赤壁」の解説には、黄州赤鼻磯が赤壁の古戦場ではないことを杜牧は知ったうえでの創作であろう、と述べている。しかし現在の大陸では、杜牧や蘇軾は、黄州赤鼻磯を赤壁と”誤解”していたのだ、とする人も少なくない。この点については多くの論考がある。
仔細はともあれ、地理や戦史に精通していた杜牧が、史上の赤壁を取り違えたままにしていたとは考えにくい。
杜牧は「早春寄嶽州李使君李善棋愛酒情地閑雅」という詩で

烏林芳草遠
赤壁健帆開

とよんでいる。「早春寄嶽州李使君李善棋」というから、早春に嶽州にいる李使君と李善棋の両氏にむけて寄せた詩であろう。嶽州(岳州)は、嶽陽樓のある現在の岳陽市で、長江の洞庭湖への注ぎ口にあたる。
赤壁の古戦場の現実の場所については諸説あるものの、概ね、武漢から長江をさかのぼり岳陽へいたる途上であると考えられている。また赤壁付近の長江北岸の烏林は、曹操が陣を敷いた場所として「三国志・魏書」ないしは「呉書」に記述がある。優れた史家であり、軍事家であった杜牧は、すくなくとも黄州の赤鼻磯が、三国時代の”赤壁”ではない、という事は認識していたに違いない。

自身すでに病んでおり、また大家族を養い難く、地方官に進んで転出した杜牧である。黄州刺史は歴とした地方長官であるが、いかんせん小さな街である。経世救民の理想からすれば、中央政官界から距離をおくのは辛い。しかし対抗勢力の監視と弾劾にさらされがちな中央にあるよりも、地方官の方が何かと役得が多いのも事実であったようである。また都会にあって社交に日を送るのは、出費の上からも、消渇(糖尿病)を患う杜牧の身体の上からも、負担が大きかったのかもしれない。

実入りが多いと言っても、杜牧の場合は貪官汚吏のそれとは違い、当時の慣行以上のものではなかっただろう。黄州での杜牧は旧弊を改めながら、善政に努めたことが伝わっている。またこの地から中央官界の友人に向けて、西方異民族への対処をめぐる献策をしきりにおこなっている。
軍事家の杜牧としては、ふと、大軍を前に存分に采配を振るう自身を夢想することがあったかもしれない。それが赤鼻磯を赤壁にみたてる奔放な発想につながっているというのは、考え過ぎであろうか。
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白い亭閣をいただいた正面からの赤鼻磯よりも、裏手の景観の方が、杜牧や蘇軾が目にした赤壁に近い自然な形をたもっているのではないだろうか。もとより、赤鼻磯の上には、さほどの建物などなかったようである。
”後赤壁賦”では蘇軾は舟を下りて断崖によじ登り、岩の上から長嘯(ちょうしょう)する。これは腹からしぼりだすように、長く連続した発声法で、野外でしばしば興にまかせて行われたという。蘇軾の長嘯に応じて草木が振動し、崖下の水は沸き返る、と描写される。赤壁の岸壁上にはハヤブサが巣食っていたというが、それはあの岩の上の鬱蒼としたあたりであろうか。
池を横断して橋があったが、途中で道が切れている。可能であれば岩崖をよじ登ってみようとも考えていたが、道もなく危険であろうから断念する。外国人が史跡に無断でよじ登った、という騒ぎになるのは有り難くないので、ここは自重である。

杜牧のように依願しての転出ではなく、流罪として黄州に左遷された蘇軾である。罪人だけに、黄州を勝手に離れることはできないし、政治行政上の権限も何もない。形ばかりの官職は、杜牧が任じられた刺史とは比較にすらならない。”黄州団練副使”という、地方の自警団の、それも副団長である。文字通り役得もない名ばかりの地位である。それでもいくばくかの俸給があったようであるが、自嘲交じりに「官家圧酒嚢」とうたったように、ほとんど現物支給のような薄給であった。ゆえに蘇軾は、昔の軍営のあった土地を借りて自ら耕作し、ほとんど自給自足の生活を強いられるのである。

ところで身分制度の時代、地位に応じた出費がつきまとう。地位と利権が与えられる代わりに、相当な支出も義務付けられたのである。それは節約すればいい贅沢、などというような性格のものではなく、怠れば罰せられる、という”制度”なのである。たとえば喪中の禁は死者との関係によって細かい決まりがあり、禁を犯せば罰せられたのである。

日本の江戸時代で言えば、大名には地方の収税権が認可される代わりに、石高に応じて人数格式を整えた参勤交代が義務付けられ、どこの藩もその支出に苦しんだ。旗本御家人であっても、石高によってやしなうべき人数があり、また武具馬具などは自弁の必要があった。
清朝の紅樓夢では、膨大な利権を与えられた屈指の大貴族の家でも、身分格式に伴う莫大な出費や、それにともなう経済観念の麻痺による浪費により、ついには没落する様が描かれる。紅樓夢のモデルとなった江寧織造の曹家も、江南の織物や塩業を仕切るという巨大な利権の見返りに、清朝皇室の御用金の調達を命じられていた。それが出来なくなったことが”お家断絶”の直接の理由になっている。

黄州は地方であるとはいっても、それなりの交際があり、なにより蘇軾は左遷されたとしても名士である。当時節句には、官府で官吏を集めた宴会が催される。流罪の身の蘇軾は参加できないか、またある程度は辞退することもできたであろうが、一応の官職があり、時宜に応じた最低限の交際は求められたであろう。

当時の黄州には李宜という名妓がおり、黄州を離任する間際の蘇軾に詩をねだった故事がある。「贈黄州官妓」という詩が残っている。当時は地方にあっても官設の妓楼があり、官選の妓女、いわゆる官妓がおかれていた。彼女たちは罪にあって断絶したり、破産没落した士大夫の家庭の子女達から選ばれ、官府で催される宴席に侍って歌や舞を供したのである。蘇軾の「贈黄州官妓」は

東坡五載黃州住
何事無言及李宜
卻似西川杜工部
海棠雖好不吟詩

概要を示せば「東坡が五年も黄州にいて李宜について何も言い及んでいないのは、あたかも蜀で杜甫が(蜀におけるすばらしい)海棠の詩をよんでいないかのようだ。」
という事で、逆説的に李宜のすばらしさを形容しているという詩である。杜甫が西川(蜀)に滞在したのも、蘇軾の黄州滞在と同じく五年間であった。

またこの詩からうかがうに、左遷の身とはいえ黄州にあって一応の官職を持っていた蘇軾は(なにより当代の名士でもあり)、官府の宴や当地の官吏との社交に、まったく無縁であったという事ではないのだろう。しかしそれは経済的に困窮していたのに妓楼で遊んでいた、というような事ではなく、なかば仕事なのである。蘇軾は離任までしばしば李宜の出る宴席に出ていたであろうにも関わらず、彼女に詩を贈らなかったのは、謹慎しての事であろう。
宴会費用は官費から出るにしても、それなりの容儀や祝儀など、自弁の支出も少なくなかったはずである。晴耕雨読の清貧の生活をしたくとも、官界の端に身を置く以上は避けられない社交や出費があり、それにくらべて現金収入はあまりに少なかったのが、黄州の蘇軾の生活であったのだろう。
しかし”前後赤壁賦”に描かれるように、気の置けない友人と連れ立って、妻の用意してくれた自家醸造の酒や簡単な酒肴を携え、船を雇って気ままに遊ぶ楽しみもあった。その方が、気楽に楽しめたに違いない。
201607黄州赤壁行
東坡赤壁の史跡の外縁に沿って、楼閣が築かれ、そこに赤壁賦を書いた歴代名家の筆跡の墨拓が掲示されている。もとより、この史跡の整備に伴って作られたものであろう、時間を割いて見るべきものはない。
201607黄州赤壁行
赤壁の正面に戻り、岩崖上の亭閣に登る。このあたりの岩を切り出して壁をつんだのであろうか、赤い人工の壁の上に白い壁の亭(あずまや)が建てられている。頂には、極彩色の楼閣が見えるが、この景観には蛇足の感がある。
201607黄州赤壁行
下の池水から立ち上って来るのか、湿度の高い熱気に蒸しあげられるようであったが、岩壁上に乗ると多少の風があり、暑さを和らげてくれる。
201607黄州赤壁行
”前後赤壁賦”が書かれた同じ年の十二月の蘇軾の誕生日に、蘇軾たちはまた赤壁に遊んでいる。”後赤壁賦”の”十月の望”のさらに後の時期である。赤壁下に舟を出して遊ぶのは一度や二度の事ではなく、お気に入りの遊び場であったようだ。この誕生日の宴の様子を記した「李委吹笛並引」がある。以下に大意を示せば

元豊五年十二月十九日、東坡の誕生日であった。赤壁磯(せきへきき)の下に宴席を張り、高峰に踞(うずくま)り、鵠巣(こくそう)を俯(あお)ぐ。
酒も酣(たけなわ)になったころ、江上に笛の音が鳴り響いた。客に郭氏、石氏の二人がいて、とても音楽に詳しかった。彼らが東坡に言うには「この笛の音には新しい趣があり、きっと非俗の者の工夫でしょう。」そこで人をやって奏者を訪ねさせると、すなわち進士の李委という者で、東坡の誕生日であると聞き、新たに曲「鶴南飛」をつくり、これを献じたというのである。
そこで李委を呼んで前にすると、青い頭巾と紫の簡素な服に、笛を携えただけであった。既に新曲を演奏し、またたちまちいくつかの曲を即興で演奏した。それは音節明瞭で、雲をうがち石をさくといったような激しくも優れた音色である。客は皆な演奏に酔いしれて倒れ伏すという有様であった。李委は、袖からすこぶる良い紙を一幅を出していうに
「私はあなたさまに特に求めるものはありません。絶句をひとつ、いただければ充分です。」東坡は笑ってたのみをきいてやった。 その詩に曰く

山頭孤鶴向南飛
載我南遊到九疑
下界何人也吹笛
可憐時復犯龜茲

という様子である。
このときの赤壁の游は、時系列で言えば”前後赤壁賦”よりも後の出来事なのであるが、どことなく”前後赤壁賦”の内容と重なる部分がある。このときは舟は出さず、赤鼻磯付近の陸上に野外の宴をはったようである。ともあれ、蘇軾とその気心の知れた友人たちとのうちとけた遊びの様子がうかがえ、また地位は低くとも蘇軾が当地の人士に重んじられていた、その気分のようなものが伝わる内容ではある。

蘇軾は元豊二年の十二月に黄州へ至り、元豊七年の四月にここを離れている。”前後赤壁賦”や、この「李委吹笛並引」の出来事は黄州生活の半ば、元豊五年の事である。この年の四月には「黄州寒食詩」が詠まれ、その困窮ぶりが切々とうたいあげられている。
ただ蘇軾の黄州赴任も三年が経過し、その間耕作に勤めた甲斐あって、あるいはこの年が豊作に恵まれたのだろうか、その晩夏から秋にかけての赤壁賦には若干の余裕が感ぜられるところである。

蘇軾が黄州で「赤壁」を詠んだ詩といえばまず「念奴橋・赤壁懐古」がある。

大江東去、浪淘盡、千古風流人物。
故壘西邊、人道是、三國周郎赤壁。
亂石穿空、驚濤拍岸、卷起千堆雪。
江山如畫、一時多少豪傑。
遙想公瑾當年、小喬初嫁了、雄姿英發。
羽扇綸巾、談笑間、強虜灰飛煙滅。(檣櫓 一作:強虜)
故國神遊、多情應笑我、早生華髮。
人生如夢、一樽還酹江月。

これは唐代の李白や杜牧の後を受けて、さらに民間での戯曲化が進んだ三国志世界が念頭に置かれているのだろう。特に「羽扇綸巾、談笑間」というくだりは、これよりはるか後世、明代の”三国志演義”を読んだ者からすれば、あたかも諸葛孔明を描写しているかのようでもある。しかし北宋のこのころは、赤壁の戦いの主役はあくまで周瑜なのである。それは三国志・呉志に引用される”江表傳”などの描写が、ひろく定着したためかもしれない。
宋代までに民間の戯作世界において確立された”周瑜像”の何割かが、”赤壁の戦功”と同時に、おそらく後世の”孔明像”に移行しているのだろう。周瑜としてはずいぶんと割を食った格好ではある。

黄州に赴任するにあたり、蘇軾が唐代の杜牧を意識しなかったという事はまず考えられない。しかし不思議と、黄州における蘇軾の詩賦に、杜牧に直接言が及ぶ作品は見当たらないのである。無論、蘇軾の赤壁懐古や”前後赤壁賦”は、杜牧の詩にはじまる着想を踏まえたものであろう。”前後赤壁賦”より以前に作られた「念奴橋・赤壁懐古」には、それが顕著に現れている。
しかし蘇軾が友人の文同との間に交わした「和文與可洋川園池三十首・竹塢」には

粗才杜牧真堪笑
喚作軍中十萬夫

という句があり、「粗才の杜牧、真に笑うに堪えたり。軍中十万夫にあたって喚作するとは」と、杜牧を笑っている。「喚作」は、「わめく」こと。軍事家であった杜牧は兵事に関する詩も多く遺しており、あるいはそれを皮肉ったものか。
また「將之湖州戲贈莘老」では

亦知謝公到郡久
應怪杜牧尋春遲

とある。謝公は蘇軾が敬慕する東晋の謝安。湖州には墓がある。これに対置して「應(まさ)に杜牧の春を尋ねるに遲きを怪しむ」とよんでいるが、杜牧はその晩年、大中四年(850年)に湖州刺史として赴任し、ここで多くの詩を残す。湖州刺史は、杜牧が幾度か請願した任地であった。しかし1年足らずで中央に召喚され、長安で没している。
蘇軾のこの詩は、読みようによっては「かの謝安は湖州のような素晴らしいところに久しく住んでここで没したのに、杜牧はその最晩年になって湖州に赴任し、それが遅すぎたのが不思議なくらいだ。」という、杜牧に対してはやはり若干の皮肉が感じられるところである。
どうも杜牧は蘇軾が範とする詩の先達者の中には、含まれていなかったかもしれない。とはいえ、蘇軾は杜牧の詩をよく読んでいた、という事でもあるだろう。
蘇軾の時代、その師の欧陽脩が提唱した古文復古が定着しており、蘇軾はその中心人物のひとりである。当時の古文復古の価値観からすれば、唐代よりも古い、漢代から南北朝の文学に重きが置かれている。その見方をもってすれば、杜牧は東晋の謝安の下に位置せざるえない、とも見られる。もっとも蘇軾は、唐代の詩人のうち、白居易や杜甫に、強い影響を受けており、唐代の詩詞を否定していたわけではない。

先の「贈黄州官妓」では杜甫に触れているが、杜甫は蜀(四川省)で五年の間、黄州における蘇軾と似たような半ば自給自足の生活を送っている。杜甫は蜀の成都にたどりつくや、諸葛孔明を祀った”武侯廟”に詣で、孔明の事跡をよんだ「蜀相」という詩をたてまつっている。また成都郊外に”浣花草堂”をむすび、農事のかたわら詩作に耽っている。
黄州へ流刑に等しく左遷された蘇軾にとって、以後は未体験の生活である。蜀の中産階級の家に生まれた蘇軾にとって、農事は親しみやすいものであったかもしれないが「東坡八首」にうたわれるように、これで家族を養ってゆけるのかと、不安に駆られることもあったに違いない。蘇軾はある部分で、故郷の蜀に流寓の生活を送った杜甫に、模範を求めたのかもしれない。それが”雪堂”の建築や、あるいは杜甫と同じく、三国時代の英雄に想いを寄せた詩賦の創作につながった、という見方もできるだろう。おなじく黄州に滞在したとはいえ、歴とした地方長官として赴任した杜牧などには、倣うという気持ちにはならなかったのかもしれない。

「念奴橋・赤壁懐古」が作られたのは、元豊五年の七月(旧暦)である。”前赤壁賦”にいう「七月既望」と同月同日であるが、この「七月既望」は赤壁下で遊んだ日付であり、”前赤壁賦”が成立したのはもう少し後であろう。
「念奴橋・赤壁懐古」もよく知られた佳作であるが、この作品で終わっていれば、内容の上では杜牧(あるいは李商隱)の「赤壁」の範疇を出てはいない。
また月の美しい夜の江上に遊び、楽曲を聴ききながら、自己の運命のはかなさを嘆くという構想において、”前赤壁賦”は白居易の”琵琶行”と重なる部分がある。事実「泣孤舟之嫠婦:孤舟の嫠婦(りふ)を泣かしむる」と、”琵琶行”における琵琶の名手の妓女に触れ、”前赤壁賦”が”琵琶行”を一部下敷きにしていることを表している。

言語が生む旋律の、このうえない美しさをもつ”琵琶行”である。しかし主題としては零落した妓女の哀愁と、それに自己の落魄ぶりを重ねて深い同情を寄せるにとどまっている。それは貴賤を越えた人生の哀歓の存在をうたいあげてはいるが、それ以上のものではない。
”前赤壁賦”では、人の運命の儚(はかな)さを、理知によって積極的に克服しようと試みる。無論、”前赤壁賦”における「洞簫を吹く客」の悲嘆は、そのまま蘇軾の心中の悲痛な嘆きであり、それを天地自然の運動に昇華することで乗り越えようとさとす「蘇子」とあわせて、自己問答による自己超克の賦なのである。
蘇軾はこの”前赤壁賦”によって、白居易や杜牧を凌ぐ文学的成就にいたっているが、それはおそらく意識的な挑戦であっただろう。その根源的な動機としては、多く指摘されるように、やはり黄州左遷の要因となった「烏台詩案」における、死を意識しながらの辛い獄中生活のトラウマであったのではないだろうか。それは蘇軾にとって、たんなる三国時代の英雄賛美や、貴賤を越えた同情や共感といった主題では、もはや癒しきれないほど深い部分の傷であったことがうかがえる。

黄州へ赴任してからの2〜3年は、目前の生活との戦いが、蘇軾を傷心から遠ざけていたのかもしれない。それが「東坡八首」に見られる耕作の成果によって安定を見せた時、将来への展望の兆しと踵を接して、陰惨な過去が胸に去来するようになったのではあるまいか。黄州での蘇軾は、まだ官界復帰の望みを捨てきってはいない。しかしそれは「烏台詩案」で経験したような、あわや凄惨な末路をも伴いかねない道である。
神宗皇帝が在位した元豊のこのころ、宮廷からは旧法派が駆逐されていたとはいえ、各地で連絡を取り合いながら巻き返しを図っていた時期である。事実、神宗の没後、蘇軾を含む旧法派は復権するのである。

”後赤壁賦”では、”前赤壁賦”で楽天的に肯定した天地自然に対し、一転して深い畏(おそ)れと慄(おのの)きがうたわれている。
ひとり断崖をよじ登る”蘇子”の姿は、何かを乗り越えようとする強い意志の表れであが、それは「二客の從うに能わざる」というような、近しい者といえど一緒に登っては来られない孤独な、そして虎や豹、龍や蛟がひそむような、危険で険しい道である。やっと断崖に立って長簫すれば、自然は親しむどころか逆に”蘇子”を圧倒し恐れさせ、震え上がるような孤独感をもって”蘇子”を襲うのである。
そこで人間存在の小ささ、はかなさにふたたび思索が及び、自らもいまだ神仙を夢見る者であることを告白して結んでいる。それは”前赤壁賦”で「吾生の須臾なることを哀しみ、羨長江の無窮なるをうらやむ」と嘆いた客に仮託された蘇軾の傷心が、解消されていないことを表明してもいる。

”前後赤壁賦”は、内容の上からも描写の上からも対照的な一対の作品で、相互に補完する関係にある。
”前赤壁賦”における”赤壁の游”では、おもむろに舟遊の情景があらわれ、それがあたかも神仙世界に遊ぶような、夢幻的なまでに美しい筆致によって描写されている。なかば理想化された”赤壁游”なのである。”桂の竿、蘭の櫂”は賦の中で朗詠される詩であるが、あたかも富豪の舟遊びであるかのような豪奢な印象を添えている。
それが”後赤壁賦”では一転し、月の美しい晩をいかに過ごすか?その動機からはじまる。そして友人の捕った魚を手に、妻の用意してくれたとっておきの酒一壺を携え、つつましく赤壁の下に遊ぶ写実的な叙述は、”前赤壁賦”にくらべて空想的な表現が控えられ、日記のような現実感にあふれている。
また”前赤壁賦”では後半の思索部分を、まずは史上の英雄の事跡を詩賦を交えてたどる。つづいて”主”から”客”へと、まるで清談のように美しく理想化された弁証によって、苦悩の昇化が試みられる。そして抒情豊かな想念のうちに、あたかもそれが成就したような印象で閉じている。
しかし”後赤壁賦”では対話に拠らず、”主”による孤独かつ肉体的な困苦をともなう行動によって、乗り越えようとする意志が表現される。そしてそれは惨めな失敗に終わり、夢にみた神仙への空しい問いかけによって結ばれる。

つまり”前赤壁賦”で解消されたかに見えた悲嘆は、”後赤壁賦”で再び振出しに戻るのである。言い換えれば、”後赤壁賦”の”主”は、”前赤壁賦”の”客”の立場に立ち戻る。以降は”前後”の繰り返しが予想される。それは”前後赤壁賦”による”主”と”客”の入れ替わりの、あるいは”前赤壁賦”の「問答」を”仮”、後赤壁賦を「行動」を”真”とした場合の虚実の循環であり、その矛盾の運動そのものがこの世界の実相なのだという、蘇軾自身の表明なのであろう。

また”前後赤壁賦”は、蘇軾の生き方に沿って、”苦悩”の内容をさらに具体的に解釈することも可能である。たとえば”後赤壁賦”における、”険しい断崖を登攀する”という行為は、直接的には官界への復帰の道を暗喩していると考えられる。
”前後赤壁賦”の書かれた前年の元豊四年の四月、神宗皇帝は西夏討伐の軍を起こすが惨敗し、その衝撃によって病に倒れる。そして元豊八年に没するまで、安定をみせない西夏情勢とともに、神宗の容体は悪化してゆくのである。こうした政変の兆しは、蘇軾のもとへも情報として入って来ていただろう。

仲秋の歌として有名な、蘇軾の”水調歌頭”でうたわれる、美しいが冷たい月世界は、宮廷、あるいは中央政官界の比喩である。当時密州知事の任にあった蘇軾は、歌の中でその月の宮殿は「長くとどまってはいられない、地上にいた方がましだ」と、皮肉るのである。
この”水調歌頭”が作られたのは「烏台詩案」(元豊二年:1079年)の前、神宗熙寧九年(1076年)の頃である。当時の官界人からすれば、蘇軾の皮肉の矛先は明らかであっただろう。こうした点も「烏台詩案」では”不敬である”として、徹底的に追及されたのである。
黄州に左遷されてからも”東坡八首”に「我久しく官倉を食らう,紅腐(こうふ)して泥土に等し」と、官製の倉に長く貯蔵されたような古い穀物はまずくて食えたもんじゃない、とうたっている。これとて「宮仕えなんてやってられないよ」という、かるい皮肉を込めているともよめるのである。

”後赤壁賦”での断崖の登攀も、崖の上のような高みにある世界は、”水調歌頭”と同じく宮廷と置き換えられる。そこへ至るには虎や豹がうずくまり、龍や蛟が潜むような危険な道しかなく、また”二客”のような在野の友人達が一緒については来られない場所にある。しかしもひとたび宮廷に登って”長簫”すれば、草木や江水に象徴される宮廷社会からの反撃に遭い、ふたたび「烏台詩案」のような恐怖を味わう事になりかねないのである。
その救いを道士に求めたところで、道士は笑って答えない。そして前赤壁賦の「洞簫を吹く客」の嘆きに立ち戻る。「洞簫を吹く客」は、過去の英雄の事跡と自己のとるにたらない境遇を対置しているが、そこには世俗的な成功への欲求があらわである。それを哲理を動員して諭すのも、また蘇軾自身なのである。
「烏台詩案」を経たためであろう、前後赤壁賦における宮廷政界の暗喩は、たくみに韜晦されている。

歴世、官界を目指す士大夫達は、栄辱(えいじょく)の理(ことわり)の矛盾の中で葛藤を強いられるのであるが、蘇軾もそれに無縁ではない。蘇軾は、官をなげうって潔く帰農してしまった陶淵明への敬慕も抱き続けながら、一方では官途での成功と晩年の安逸を得た、白居易の中庸な生き方を理想としていたようである。
能力があって仕事がしたい人間の、世から必要とされる事への渇きや焦燥が、当時の晩年と言える年齢にさしかかった蘇軾に、なかったとは言えないだろう。それは時代や国を越えて、複雑な人の世に生きる事に絶えず付きまとう命題でもある。
”野狐禅”に陥ることのない、奥深い思索の力を持った蘇軾ではあるが、一方で世俗的な欲求にも多大な関心を隠さない。それがこの人物の魅力でもある。

その華麗かつ饒舌な筆致ゆえか、歴世の評価は前赤壁賦に比重を置きがちであるが、本来は前後併せてよみ味わうべき作品であろう。

”前後赤壁賦”によって苦悩を克服しようとした蘇軾であるが、”後赤壁賦”の結末から察するに、それに成功してはいない。しかし一方では治らない病との向かい合い方を見出したかのような、平明な希望がそこに開けたことが期待できる。
”前後赤壁賦”は大変な評判を呼んだばかりではなく、蘇軾自身のお気に入りの作品でもあった。後年になって、黄州と比較にならないほど劣悪な海南島に左遷された際も、この前”後赤壁賦”を愛唱していたという。このように人生を他人任せにすることなく、”悟り”によらずとも自己を再建し、再び生きようとする蘇軾は、やはり強靭な人格であると言わざるを得ない。
201607黄州赤壁行
赤壁上の亭閣を一通り見終わると、裏手の山へ続く方面に出口がある。ここで東坡赤壁の史跡を出る格好になる。この赤鼻磯ないし赤鼻山の裏は龍山という小高い山になっている。山上にもいくつかの史跡があるようであるが、さしたる案内もなく、日が傾き、探索の時間はなさそうである。
坂道を下りながら、東坡赤壁の入り口付近にそびえる城門につらなる城壁の端に出る。どうも補修工事中のようであるが、入場料を払えば中には入ることが出来るようだ。
201607黄州赤壁行
ところで赤壁賦の成立にあたり、やはり蘇軾も赤壁を古戦場と誤認していた、という人もいる。勘違いなのか、知ったうえでそれと見立てたのかでは大きな違いなのである。しかし杜牧と同じく、史料に精通していた蘇軾が誤認していたとは考えにくい。この問題を巡っては、多くの論考があるようなので仔細はそちらに譲りたい。ここでは「念奴橋・赤壁懐古」で「人は道(い)う、是れ三國周郎の赤壁と」とうたっている部分、「人は道(い)う」から蘇軾の認識を伺うにとどめたい。

蛇足なようであるが、”前赤壁賦”では

西望夏口,東望武昌。
山川相繆,郁乎蒼蒼,
此非孟之困於周郎者乎

とある。

すなわち「西に夏口を望み、東に武昌を望む」とあるが、夏口は現在の武漢市漢口区、あるいは三国時代の夏口城とするならば武漢市武昌区になる。またここで言う武昌は、現在の武漢市武昌区ではなく、黄州対岸の鄂州にあった武昌城を指すのであろう。蘇軾には「過江夜行武昌山聞黃州鼓角」という作品があり、長江を挟んで対岸にあった武昌山を遊覧していることがわかる。
三国時代の孫権は、江夏へ進行する足掛かりとして、黄州対岸の鄂州に城を築き「武を以て昌(さか)える」という意味でここを「武昌城」と名付けている。
ゆえに黄州赤鼻磯から見て長江上流、すなわち西方には夏口があり、下流の東には武昌(城)があることになる。地理の上では「西望夏口,東望武昌」は紛れもなく蘇軾が遊んだ赤鼻磯を指している。ただし賦の中で「此(ここ)孟の周郎にくるしめられしところにあらざるや?」という問いかけにとどめられ、それに対して「蘇子」は「然り」とは答えてはいない。ここから「客」と「蘇子」の話題は過去の英雄や神仙世界へと遷ってゆくのである。この問答の転機に地理上の位置を正確に記すことで、現実と想像の接点を際立たせる効果をあげている。
しかし、なにゆえ杜牧や蘇軾が黄州赤鼻磯を赤壁に見立てたか?という問いを煎じ詰めれば.......それはここの岩崖がたしかに”赤い”ためだったのではあるまいか。地元の訛伝があったという話もあるが、確かめるすべがない。
黄州の赤鼻磯とよばれた岩崖は、喩えでもこじつけでもなく、池水や草木の緑と対照するまでもなく、赤、という以外に形容しようのない色をしているのである。もしこの岩が黒かったり白かったりしたならば、かの名作も生まれていなかったに違いない........
201607黄州赤壁行
東坡赤壁近くのこの城楼には、城門から長い石段が下りている。これはかつてこの城門が、雨季と乾季では、かるく十数メートルの水位差があるという、長江の流れに面していたことをしのばせる。階下には桟橋が築かれ、そこから舟で赤壁下に遊ぶことが出来たのであろう。その遊びは前”後赤壁賦”が晩夏以降の出来事であるように、秋から冬にかけての乾季に限られたであろう。
城壁下には、明〜宋代にかけての亀や馬の石像が並んでいる。このあたりで出土したものであるというから、あるいは蘇軾の黄州時代につくられたものもあるかもしれない。
この城楼も再建を繰り返しているはずであるが、長江に向かって右手に山を背負うこの地勢をみるかぎり、防衛上ここに城楼を築いておくのは理にかなっている。とすれば、宋代にもこの場所に城門があったのかもしれない。現在、市内から東坡赤壁にいたる道路は低地にあり、昔は長江の流れがあったのではないだろうか。
201607黄州赤壁行
城楼に登れば、東坡赤壁を見下ろす高みにある。城楼から地平を望むと、日が沈んでゆく西の方角に長江が横たわる。日の入りの遅いこの季節、雲か水面の照り返しだろうか、地平はまばゆいばかりに白く光っている。どこまでが陸なのか江なのか、はては空と地上の境までも判然としない。


猶似海成田  城邊古渡銷

陽斜巖謐謐  影落水迢迢

丹崖連畫閣  池水渡平橋

倚苑樹蟬鳴  破儷嗄敖

魚沫青萍透  浴鳥荷花搖

孟初威挫  公瑾竟矜驕

子瞻夢一鶴  牧之懐二喬

浮舟暫酔吟  憑崖獨長簫

月懸前後賦  沙埋漢魏朝

星月回幾度  空餘壁似燒
 
落款印01

登黄鶴樓

今回は黃鶴樓のある蛇山(黃鵠山)の近く、臙脂路という小さな通りにあるホテルに宿ををとった。臙脂路からつながる民生路の歩道上から、屋根越しに黃鶴樓が見える。
武漢黄鶴楼
さて、黃鶴樓といえば崔(704〜754年)の「黃鶴樓」が有名である。

昔人已乘黃鶴去
此地空余黃鶴樓
黃鶴一去不復返
白雲千載空悠悠
晴川歷歷漢陽樹
芳草萋萋鸚鵡洲
日暮鄉關何處是
煙波江上使人愁

解釈はここに掲げるまでもないだろう。
第一句「昔人已乘黃鶴去」は、岩波文庫「唐詩選」では「昔人已乘白雲去」とある。岩波の解説では、ここを「白雲」とすることで第一句と第四句の「白雲千載空悠悠」が対応し、また第二句と第三句の「黄鶴」が対応するという構造を想定している。それも一理あると思うが、現在の大陸では「昔人已乘黃鶴去」で通っている。
そもそもこの「黃鶴樓」は一応は七言律詩に分類されるが、近体詩の格律は相当逸脱している。通常、第一句と第二句は押韻せねばならないが、第一句は韻を踏んでいない。また第一句と第三句は「二四不同」「二六対」の原則を破っている。また五句と六句は完整な対句をなしているが、三句と四句は「不復返」と「空悠悠」の対応がやや逸脱の気味がある。さらにいえば、ひとつの詩中で同じ語句はなるべく重複するべきではない、という原則があるが(もっともこれを破る佳作も少なくないが)「黄鶴」を三度も使うほか、「去」「空」を二度づつ使用している。
武漢黄鶴楼
詩の原則である格律を無視するからには、無視するに足るだけの効果を挙げていなければ駄作のそしりは免れない。崔曚痢黃鶴樓詩」は、それに成功している稀有な傑作のひとつだろう。良い詩句が浮かべば、必ずしも平仄格律に拘泥しなくても良い、という見本のような詩である。唐代の詩には、格律を踏み越えた名作が少なくないが、平仄重視の日本における漢詩作法では、なかなか発想することが難しいであろう。もともと「逸格」の詩なのであるから、あるいは岩波の解釈のような構造をあえて意識する必要はないのかもしれない。
後年、黃鶴樓に登った李白が詩をもとめられた際、崔曚里海了蹐鮓て「とてもこれだけの詩は造れない」と、筆を擲(なげう)ったという。
とはいえ李白は「黃鶴樓」にまつわる詩を幾つもつくっている。まず日本でも有名な「送孟浩然」

故人西辭黃鶴樓 
煙花三月下揚州  
孤帆遠影碧空盡  
惟見長江天際流
 

がある。また「與史郎中欽聽黃鶴樓上吹笛」

一為遷客去長沙
西望長安不見家
黃鶴樓中吹玉笛
江城五月落梅花

も著名であろう。
さらには五言古詩の「送儲邕之武昌」にも黃鶴樓が登場し、また五言排律の「望黃鶴樓」や「江夏送友人」も黃鶴樓が登場する良く知られた佳品である。しかしいずれも崔曚痢黃鶴樓」のような、七言律詩ではない。
李白にはほかに「登金陵鳳凰臺」という詩があり、これは崔曚痢黃鶴樓」を意識して作った七律の詩であるという。

鳳凰臺上鳳凰遊
鳳去臺空江自流
吳宮花草埋幽徑
晉代衣冠成古丘
三山半落青天外
二水中分白鷺洲
總為浮雲能蔽日
長安不見使人愁

たしかに崔曚痢黃鶴樓詩」を換骨奪胎して作ったようなフシが感ぜられる詩である。
また「全唐詩」には李白の詩として「醉後答丁十八以詩譏余捶碎黃鶴樓」という詩が集録されている。冒頭四句のみ示せば、

黃鶴高樓已捶碎
黃鶴仙人無所依
黃鶴上天訴玉帝
卻放黃鶴江南歸

つまり、黃鶴樓はすでに壊れてしまって仙人は寄る辺を喪い、黄鶴は天帝に訴えて江南に帰してもらった、という内容である。以下、どこか崔曚了蹐鬚ちょくったようなところがある詩なのであるが、これは偽作とする説が支持されている。崔曚了蹐鬚靴里飴蹐作れなかった李白が、悔し紛れに作った詩というところだが、たしかに李白の詩としても格調が低過ぎるところがあり、彼の作とするには無理があるだろう。
武漢黄鶴楼
黃鶴樓は現在の武漢市武昌区の、武漢市蛇山にある。この蛇山はむかし黃鵠山といい、その西北の長江江岸に黃鵠磯(こうこくき)があった。”磯(イソ)”と言っても河川の流れに臨んだ岩礁としての”磯”である。このような地形は大陸の大河川の流域ではしばしばみられるもので、黄州のいわゆる文赤壁も、もとは”赤鼻磯”とよばれる岩礁である。”鵠”は白鳥の古名である。また黃鵠山は黃鶴山とも呼称される。
「南齊書・州郡誌」には“夏口城據黃鵠磯,世傳仙人子安乘黃鵠過此上也。”とある。
「南齊書」は南朝斉の蕭子顯(489〜537年)によって書かれた。蕭子顯は梁の皇族で、斉高帝蕭道成の孫にあたる。史学家であり、多くの著作を為したが「南齊書」以外は失伝して残らない。
「南齊書」の記載によれば、黄鶴ではなく、黃鵠、すなわち”黄色い白鳥”という記述である。後の黃鶴樓の伝説は、黃鵠が訛(なま)って黃鶴に変じたとも言われる。
また蕭子顯より少し前の南朝梁の任掘460〜508年)の「述異記」に拠れば“荀瓌憩江夏黃鶴樓上,望西南有物飄然降自雲漢,乃駕鶴之賓也。賓主歡對辭去,跨鶴騰空,眇然煙滅。”とある。大意を示せば
「荀瓌(じゅんかい)が江夏の黃鶴樓上で憩いをかこっていとき、西南を望むと雲の中から飄然とおりてくるものがあった。すなわち”駕鶴之賓(鶴に乘ったお客さん)”である。お客を主(すなわち荀瓌)は歓待し、かくして別れ去り、(客は)鶴に跨り空へ騰(あ)がった。渺然として煙のように消えていった。」
「述異記」の著者は祖沖之ともいわれ、また全文は早くに喪われているが、この話は「述異記」からの引用として唐の高祖が編纂を命じた「藝文類聚」に採録されている。
現在良く知られている”老人がみかんの皮で鶴を描いた”という伝説は、だいぶ時代が下がって清の乾隆年間に編纂された「江夏県史」に「報応録」からの引用としてそれが見られる。「報応録」は世間の「因果応報」を採録した書物であろうが、もとがどんな本であったのかは伝わらない。銭を持たない老人に、ただで酒を飲ませ続けた結果、店が大繁盛したという「因果応報話」として伝わったのだろう。
「蜜柑」は神仙の話には良く出てくるのであるが、唐代より前の南北朝時代の黃鶴樓伝説には登場しない。したがって唐代の崔曚簍白による黃鶴樓にまつわる詩詞にも「蜜柑」までは登場しない。神仙に関するモチーフとしては鶴だけである。

武漢黄鶴楼
三国志・呉志に拠れば、孫権が夏口城を築いたのは「黃鵠山」とある。黃鵠山は三国時代は江夏山、あるいは紫竹麓といい、北魏に到って黄鶴山、などと呼ばれたという。
南齊書の記述に「黃鵠磯に拠る」とあるのは、黃鵠山から長江河岸の黃鵠磯にいたる山麓に沿って城が築かれていた、という事であろう。山といっても、現在でも海抜85mほどの小高い丘なのである。しかし湾曲する長江の内周にあって、周囲の陸地の大半は堆積によって形成された平地である。長江に臨んで見晴らしがよく、要害となりそうな地形はこの黃鵠山の他にはない。
黃鶴樓は、湖南省の嶽陽樓と同じく、当初は城塞に付建された、見張りを目的とした”軍事楼”であったといわれる。それは蛇山の山頂付近ではなく、江流に面した「黃鵠磯」の上にあったという。対岸の夏口を監視し、また接近する敵を矢弾で防ぐための、切り立った岩の上に建設された城楼ないしは櫓(やぐら)だったのだろう。
南北が統一され、長江の険、さらには孫権の築いた夏口城の軍事的な価値が消滅した時代、黃鵠磯や黃鵠山には数々の楼閣が築かれ、宿泊や宴席に供せられたようだ。黃鶴樓の近傍には”南楼”という建物があり、周囲は妓楼や酒楼が立ち並んで賑わっていたそうだ。李白はその繁華な様子を「武昌夜飲懐古」で「清景南樓夜,風流在武昌」と詠んでいるし、杜牧は「南楼夜」という詩で「玉管金樽夜不休,如悲晝短惜年流」と詠んでいる。
歴世、黃鶴樓は十数回にわたって修建、再建が繰り返されたといわれる。もとより、崔曚簍白が登った黃鶴樓ですら、元の姿ではないのである。しかし少なからぬ建設費を投じて再建が繰り返されたのは、やはり「黃鶴老人」の伝承と共に崔曚簍白の詩が後世ひろく愛詠されたからであろう。

武漢黄鶴楼
ところで孫権が黃鵠山に城を築く前は、黄祖という人物が荊州の劉表に任命されてこの地を治めていた。一方で、北方に禰衡という文名を知られた若い名士がおり、曹操から劉表の元に派遣されて、荊州にわたってきた。さらに劉表から黄祖の子の章陵太守の黄射の元に送られたが、そこで黄射と禰衡は友人関係となる。
あるとき黄射は賓客を招いて宴会を催した席で、禰衡に”鸚鵡”を主題とした賦をもとめた。禰衡が席上で一気呵成に書き上げた「鸚鵡賦」は(長いのでここには掲げないが)万座の人士の間で大変な評判を呼んだという。文才あふれた禰衡とて、あらかじめ練りに練った作品に違いなく、とすれば禰衡を世に出そうとする黄射の厚意も感ぜられるところである。
そして黄射によって黄祖に推薦されて江夏にきたものの、あるとき黄祖の怒りに触れて処刑されてしまう。黄射は禰衡の死を悼み、手厚く夏口から望む長江の中洲に葬ったという。禰衡はこのとき26歳。才気と若さに任せた、いささか傍若無人な振る舞いがあったのかもしれない。
武漢黄鶴楼
禰衡の友人はほかに孔融や楊脩といったいずれも知られた名士がいたが、孔融も楊脩も結局曹操に殺されている。どうもこの交友関係には、権力者とソリの合わない共通した性向があったのだろうか。
ともあれ、黃鵠山から見下ろす位置にあったといわれる中洲は、禰衡にちなんで鸚鵡洲と呼ばれるようになった。崔曚「芳草萋萋鸚鵡洲」と詠んだのも、非業に斃れた三国時代の若者を悼んでのことだろう。また李白にも「望鸚鵡洲懐禰衡」という詩があり、禰衡を悼む気持ちを詠んでいる。
他にも李白の「経乱離后天恩流夜郎憶旧游書懐贈江夏韋太守良宰」という、長い五言古詩の中に

一忝青雲客、三登黃鶴樓
顧慚禰処士、虚対鸚鵡洲

とある。すなわち”自らを顧みれば、禰衡に対して慚愧を覚える”という気持ちを詠んでいる。鸚鵡洲に臨んで三国時代の硬骨の士を悼むというのは、当時の人士の間で共感を呼ぶ表現であったのだろう。
禰衡といえば”三国志演義”では、硬骨あまって矯激さが誇張された奇人のように描かれ、殺されても仕方ない人物のようなイメージが定着してしまっているかもしれない。「鸚鵡賦」とともに、禰衡の事跡も見直されても良いだろう。
その鸚鵡洲であるが、現在は黃鶴樓から望んで西の対岸に陸続きとなっているという。

武漢黄鶴楼
現在の黃鶴樓は1985年に鉄筋コンクリートによって再建された建物であり、訪問した際は使用されていなかったが、エレベーターもついている。
この黃鶴樓は、1975年に長江大橋の建設に伴って撤去された、長江河岸の元の黃鶴樓から1000mほど離れた距離にあるという。史跡としての黃鶴樓とは、建物も場所も違うことになる。
黄鶴楼内には、明代や清朝の黃鶴樓の模型が展示されているが、せいぜい三層の建物であり、規模は嶽陽樓と同程度であろう。
武漢黄鶴楼
武漢黄鶴楼
近代建築による黃鶴樓であるが、もとより建物自体には、歴史的価値は薄いであろう。むしろ詩賦に繰り返し詠われた、黃鶴樓からながめた景観の保存、と言うところに価値があるといえる。とはいえ黃鶴磯も鸚鵡洲も既になく、対岸の漢陽の方面にも樹林はない。長江江岸に沿って高層ビルが林立しているという有様である。
折しも武漢は気温、湿度共に高く、どことなく重たい色の空が覆っている。いずこの方角の空にも、黄鶴は見出せそうにもなかった。

 

黄鶴還雲漢

存亡回歳華

詩成懸紫極

覇略空江沙

芳渚連西岸

碧江去際涯

樓臺風拂瓦

望遍江城家
落款印01

三国争覇の地 江夏

武漢は漢口、武昌、漢陽の三鎮を統合した、広い都市圏を持つ内陸有数の大都会である。この広大な一帯は、その昔の後漢〜三国時代では、”江夏”と呼ばれた地域である。江夏区という武漢市の行政区画に地名が残っている。

武漢市街を長江の流れが貫いているが、”赤壁の戦い”が行われた古戦場は、武漢より南方の上流、岳陽より北方に位置するとされている。また蘇軾が”赤壁賦”を詠んだ黄州(現在の黄岡市)は、武漢からは長江に沿って下流に位置している。長江を挟んだ黄州の対岸に鄂州があり、現在は鄂州市として武漢の東側で接している。
漢口は漢水が長江に注ぐ河口に位置しており、ゆえに漢口という。漢水は三国時代は沔水(べんすい)とも呼ばれ、ゆえに漢口は沔口(べんこう)と呼称された。また沔水は夏水という別称もあり、ゆえに夏口とも呼ばれる。概ね、漢水(口)=夏水(口)=沔水(口)というわけである。

 

この江夏と呼ばれた武漢は、歴世の係争の地である。三国時代でも、赤壁の戦いのみならず、激しい争奪戦が繰り返された。夏口を北上すれば魏の都、許昌がある。また漢水を遡上すれば荊州、長江を遡上すれば長沙、下れば呉越に到る要衝に位置しているからである。大小の河川と無数の湖水沼沢の上に浮かんだ武漢は、要害の地であるが、水陸の連携がなければ守ることも攻める事も難しい。
長江に漢水がほぼ直行して注ぎこむことで、”T”字に地域が分割される。ここに武漢の基礎となった漢口鎮、漢陽鎮、武昌鎮の領域に三分されるのである。三国時代にこれらの大河川に架橋する技術はなく、すべての領域を支配するには水上輸送と水軍の力が必要である。勢い、この地域を支配する勢力には、水上戦力が養われることになる。

 

夏口・武漢

 

後漢末から三国時代にかけて、赤壁の戦い以前に、夏口を含む江夏を支配していたのは黄祖という人物である。
黄祖というと、”演義”では粗野で愚かな人物として描かれている。傍若無人とはいえ、聞こえた名士の禰衡を処刑したり、甘寧を冷遇して離反を招いてこれが敗北につながるなど、優れた人物とは程遠いように描かれる。とくに英雄孫堅を待ち伏せして殺害した点なども、後世にわたって悪名を招いた理由にあるかもしれない。
黄祖は江夏土着の豪族、安陸黄氏の族人である。また後漢の名臣、黄香(68年〜122年)も江夏安陸を出身とする同じ宗族であるといわれる。安陸黄氏は江夏一帯に大きな勢力を持っていた。ちなみに「苦肉の策」で有名な呉の黄蓋の父は、黄香の第五子黄瓚の長男であるとされる。ということは黄祖と黄蓋も、まるで無縁とは言えない間柄である。

 

黄祖に処刑された禰衡は”演義”では、その権威をものともしない高慢な振る舞いが曹操に疎まれた。奇人であるが、当時高節の名士とはそうした態度をとるものであった。ゆえに曹操から荊州の劉表の使者に出された。ついで禰衡を持て余した劉表が、黄祖の粗野な性格を知ったうえで禰衡を害させようと、江夏へ派遣されているのである。案の定、禰衡の傍若無人な振る舞いが黄祖やその部下の怒りにふれ、処刑されてしまう。曹操、劉表としては、自身が名士を殺害した汚名をかぶらずに済んだというわけである。

 

史料の”三国志”によれば、禰衡を黄祖に紹介したのは、黄祖の子の黄射であるとされる。黄射は、やはり劉表の支配下で章陵の太守に任ぜられている。つまり一時期、黄祖・黄射の父子はそろって太守に任ぜられているのである。親子ともども、やはり地元に勢力をもった豪族の出身であることを裏付けている。
人物を酷評する事で知られた禰衡が黄射と交友関係を結んだのは、黄射が章陵太守の時である。この黄射もやはりひとかどの人物であったのだろう。とすれば、劉表は禰衡を黄祖の下ではなく、黄射のいる章陵に送ったと考えられる。あるいは黄射と禰衡の相性がよさそうだと考えたのかもしれない。文事を好んだ劉表としては、禰衡を害する意図が必ずしもあったのかどうか。人選びが激しすぎる禰衡は、黄射とよほど意気投合したのだろう。
その黄射が父の黄祖に禰衡を紹介しているのである。禰衡は結局、黄祖の下で傲慢不遜な態度をとり、黄祖にもその部下にも恨まれたため処刑されてしまう。黄射は禰衡が殺されると知って、それを止めるために父のもとへ走ったが、間に合わなかったという。はじめから父に殺させるつもりで紹介したわけではなかろう。禰衡が相手によってガラリと態度を変えるという事を、交際して日が浅かった黄射はよく認識していなかったのかもしれない。黄祖も後に処刑したことを深く後悔した。禰衡は黄射によって夏口から望む長江の中州、鸚鵡洲に手厚く葬られたという。

鸚鵡州といえば、唐代の崔曚「黃鶴樓」詩で「芳草萋萋鸚鵡洲」と詠んでいる。”芳草”は芳しい香のする植物という意味であるが、君子の有徳を象徴する。この”芳草萋萋”は、ここに埋葬された三国時代の名士を意識しての表現ではないだろうか。

 

黄祖は黄氏の地盤と共に、劉表によって呉国に対する最前線を任されている人物である。史料に記載されるその戦績をみる限り、江夏を奪おうとした孫堅を落命させた戦いに始まり、その後幾度も呉軍を苦しめている。水軍の扱いにも長けた、老獪な戦上手であったことがわかる。江夏の要害、また黄祖自身の手腕もさることながら、その族党である安陸黄氏にとっては、水軍戦がお家芸だったのだろう。水軍の精強ことは、日常的に船を使用しなければ生活が成り立たない地域特有の文化が基礎になっているのだろう。

初平二年(191年)の孫堅との戦いでは、野戦では敗走するものの、追撃してくる孫堅を待ち伏せして弓で射殺している。これで黄祖は孫家の仇敵となり、孫策、孫権と継承される呉軍の攻撃を受け続けるのである。しかしその後も、五度にわたる呉軍の侵攻を防いでおり、野戦に挑む武勇も持ち合わせている。凌統の父である凌操や、呉の武将の徐琨がいずれも黄祖の部下に射殺されている。
”呉志”の記載では、凌操の父を射殺したのが甘寧であるという。またこの甘寧が黄祖を見限った事が、黄祖の敗死につながっているとされる。
甘寧はもとは益州の出身であるが、はじめ劉表の元へ行ったが任用されず、自身の食客数百人を連れて黄祖の下にとどまったという。しかし黄祖は度重なる戦功にも関わらず甘寧を礼遇せず、かえって食客を自分の配下に加えようとする有様であった。この点、江夏の地方豪族である黄祖の門閥意識は否めない。
そこで呉に走り、黄祖を「今年老、昏耄(こんもう)已に甚し」と、その衰えを語り、「舟船戦具、頓廃(とんはい)修(ととのわ)ず、耕農を怠り、軍に法伍無し」と語り、今攻めれば必勝であると説いた。

甘寧の進言を入れて軍を起こした孫権であるが、この戦いでも黄祖は「祖墹戚愍忸兌沔口,以栟閭大紲系石為廫,上有千人,以弩交射,飛矢雨下,軍不得前」と描写される戦術を展開し、呉軍をさんざんに悩ませている。
すなわち「兩(りょう)蒙衝(もうしょう)を横たえ沔口(べんこう)を挟守(きょうしゅ)す」とあるが、蒙衝は当時の軍船。おそらく黄祖は二隻の蒙衝をもってこの河口を挟み込むように配置し、「栟閭(しゅろ)」の縄を石につないで係留し、船上の櫓(やぐら)に射手を配置し、散々に射かけて呉軍の前進を阻んだのであろう。

周瑜は董襲と凌統に決死隊を率いさせ、両船の間の縄を切らせた。係留する縄を切ると、蒙衝は流れの中で動揺する。呉軍はその隙に進撃し、沙羨県で黄祖を討ち取っている。羨沙県は夏口の対岸であり、現在の武漢市江夏区のあたりある。
すなわち黄祖は長江を挟んで両岸に根拠地を築いており、呉に一方を攻められれば両岸が呼応して支援しあったのであろう。夏口にもおそらく江水に接して城塞が築かれていたであろう。しかし黄祖が敗死したこの戦いでも、結局のところ夏口は陥落していないのである。

夏口・武漢

 

夏口の対岸の羨沙県が呉軍の勢力下にはいると、孫権はここの黄鹄山(蛇山)に城を築いて”夏口城”としている。夏口城といっても、夏口の対岸である。この夏口城には、呉の黄武二年(223年)に改修された際に、物見の軍事楼が築かれ、後の”黃鶴樓”につながるとされる。
ともかく黄祖の敗死後、長江を挟んで現在の武漢の東側、武昌区、江夏区を孫権が支配したのであろう。対岸の夏口(現在の漢口)には、劉表のもとから劉が赴任し、ここを守っているのである。

 

前述したように、”江夏”と言った場合、三国時代は長江を挟んで夏口とその対岸を含んだ領域がそう呼ばれている。魏が荊州を降伏させた後は、夏口は魏の勢力下にはいり、長江両岸でそれぞれ魏と呉の支配領域にわけられたのである。魏では荊州の降将文聘が江夏太守に任ぜられ、また呉では程普が江夏太守に任ぜられているから、魏にも呉にも”江夏太守”が存在したことになる。
また孫権の築いた夏口城は、夏口の対岸あるのと同様、混同には注意が必要なところである。

 

東岸一帯の陥落で、西岸の夏口は呉に対する最前線となった。これが建安十三年(208年)の事である。黄祖の敗死後、劉表の子の劉が諸葛亮の献策によって夏口を守ることになる。演義では有名な、孔明を二階に上げておいて”梯子を外す”という場面である。
このとき劉表は既に病んでおり、この年の初秋に没するが、その直前から曹操の荊州侵攻が始まっている。また劉表の病中から、その後継を巡って荊州には”お家騒動”が起こっていた。主流派の蔡瑁一派に担がれる劉に対して、長男劉は不安を感じていたのである。そこで一計を案じて孔明に相談したところ、夏口に難を避けろと助言され、それに従うのである。
この際の”梯子を外す”の故事は、蜀志・諸葛亮傳にも記述がある。”演義”では、あの孔明が一本取られた体である。しかし蜀志・諸葛亮傳の記載では、劉は一緒に楼上にあがっており、梯子を外すのは余人を入れぬためで合った事が伺える。諸葛亮伝でも、諸葛亮は劉の相談を何度も断っているという記述があるが、これは蔡瑁派閥の耳目への配慮があったためではないだろうか。

 

夏口・武漢

 

荊州の実力者、蔡瑁は、襄陽蔡州の人であり、出身地名からわかるように土着の豪族である。蔡瑁の父、蔡諷の二女は劉表の継室である。三国志演義では劉の母親はこの蔡諷の娘、というようになっているが、史実ではこの点に確証はない。むしろ蔡瑁の娘が劉の後妻にはいった、という話もある。劉表の長男の劉は劉表の前室の子である。長子が継ぐのが通常であるが、蔡瑁としては自分の姐の子、あるいは娘婿に継がせたいところである。
ともあれ、蔡家は荊州の僭主として、荊州劉家とは濃厚な関係を形成していたのである。中原から赴任した劉表にとっても、荊州を統治する上で蔡家の協力は欠かせない。
また蔡諷の長女は、襄陽の名士、黄承彦の妻である。黄承彦といえば諸葛孔明の岳父である。当時は妻がひとりとは限らなかったし、死別して後妻を娶ることも珍しくなかったから、孔明の姑が蔡諷の長女であるとは限らない。もしそうであれば、蔡瑁は孔明にとって伯父にあたる関係になる。しかし血縁はともかく、当時の義理の感覚で言えば、孔明は蔡瑁に親戚の挨拶を交わす仲であり、また劉表とも親類つながりがあったことになる。

曹操の南下は、”お家騒動”への外部勢力の介入を計った、蔡瑁の手引きを匂わせるところがある。しかし張允は劉を推していたにしても、全荊州が魏に降るところまではあずかり知らず、これを潔しとしなかったのかもしれない。後述する文聘など、荊州の独立を保とうとする意識を持った人士もいたようである。

 

張温が蔡家の娘を娶ったのであれば、やはり孔明とは親戚関係に当たることになる。孔明が劉備に出仕するまで、襄陽近郊で悠々隠棲の生活が営めたのも、蔡瑁との親戚関係を通じての劉表との関係を考えればうなづける。

 

夏口・武漢

 

劉表の長男、劉が孔明に相談を持ち掛けたのは、”演義”では「孔明の智謀を頼れ」と、劉備に勧められた事になっている。しかし孔明は他家の”お家騒動に”口をさしはさむみたくはないとして、すげなく断っている。それゆえ劉は”梯子を外す”一計により、孔明をして相談に応ぜざる得ない状況に置いている。
しかし実際は孔明は劉表や蔡瑁との縁戚関係にあり、劉表の後継者問題においても、無関心ではいられない立場にある。”演義”で書かれているような”他人事”ではない。

魏志・劉表傳では、蔡瑁・張允の一派によって、劉は夏口太守へ追いやられたと書かれている。とすれば、孔明は蔡瑁派の意を後押しした格好であるとも見ることが出来るのである。

 

孔明が劉に黄祖敗死後の夏口の守備を勧めたのは、蔡瑁派閥からの迫害を避けると同時に、黄祖死後の国境線の軍勢を掌握させる意図もあったのかもしれない。事実、曹操が南下するや、劉備は劉を頼って夏口へ走るのである。
しかし夏口の劉は、劉表の死後に劉が立てられたと聞いて激怒し、劉を討つべく兵を起こす。ところが劉表の死と前後して曹操が南進して、全荊州が魏に降ってしまう。それを聞いて劉は江南に避難したのであるが、江南といえば少なくとも江夏ではない。このとき夏口は放棄されたのだろう。
 

 

曹操の南進自体、蔡瑁あたりの手引きがあったフシがある。魏に降った荊州人士は、蔡瑁をはじめとして大変な厚遇を受けるのである。”演義”では呉の離間によって、蔡瑁は赤壁の戦いの前にあえなく処刑されてしまう。しかし”正史”では曹操によって列侯に取り立てられ、爵位を与えられている。曹操と蔡瑁はもとより旧知の間柄であったようで、荊州降伏後に曹操は蔡瑁を妻子ともども、親しく訪れているのである。
”戦わずして勝つ”のは最上の兵法である。難戦の末に袁紹を破った官渡の戦いを想起すれば、荊州の降伏は曹操にとって慶事であっただろう。降伏した荊州人士に対して曹操は寛大であり、破格と言って良い待遇を与えている。
また曹操の南進自体、劉表の後継者争いに介入した、という見方もできる。劉表の死に先立ってのタイミングの良さは、蔡瑁当たりの画策を思わせる。

身内の権力闘争に外部の力を利用するというのは、大陸では常套手段なのであり、そのためしばしば惨禍がまねかれる。とすれば、劉の夏口守備も、その頃からすでに呉と結ぶ意図が見え隠れするのである。まずは黄祖の死後、残った軍を掌握する事に始まり、劉備の協力や呉の後押しを利用しながら荊州を奪う、という戦略である。その筋書きがあったとすれば、それを書いたのはやはり孔明であろう。孔明は姻戚関係からすれば蔡瑁派閥に属するとみなされるところであるが、劉備に出仕して以降、すでに別の存念があったことがうかがえる。

赤壁戦後、劉備軍の荊州攻略の際には劉を劉表の後継として名文を立てており、劉の死にともなって名実ともに荊州を支配している。また「草蘆対」に書かれているように、後に劉章から益州を奪うのである。根拠地を持たない劉備が存率基盤を形成するまでの基本戦略は、魏や呉のような列強との直接対決は避け、劉表や劉章のような”地方劉家”を乗っ取ることから始まるのである。それは曹操や孫権などの気鋭のそろった新興国よりも、皇室の傾いた権威と門閥が支配する国の方が”組みし易し”というところであろう。

 

夏口・武漢

 

「草蘆対」は孔明がまだ襄陽で隠棲生活をしていたころ、劉備が訪れた際に語られた内容であるとされ、蜀志・諸葛亮傳に内容の記述がある。ただ劉表に新野を任されるかどうかの時期に、益州に目を向けるというのはいささか飛躍が過ぎるようでもある。益州攻略のための足掛かりとしても、先に荊州の一部なりをとる事が必要であり、劉表の後継者をめぐるなかで、劉に接近していた劉備・孔明の思惑がそれではないだろうか。
とはいえ「草蘆対」の頃は、劉備は劉表の世話になっているところであり、孔明もまた劉表とは縁戚関係にある。「草蘆対」に、荊州を乗っ取る意図は、あったとしても(仁義の建前から言って)述べられるところではない。
ともあれ、曹操の南下は孔明の予測を超えて捷(はや)かったようである。劉備は劉と合流すべく夏口へ向かうが、途中で劉と合流し、夏口に入っている。ただし赤壁の戦いの後、夏口は魏の文聘が守っているから、どこかの時点で夏口を放棄したのだろう。夏口は背後から迫る曹操軍を、陸続きで防がなければならないからである。

 

呉というと水軍戦がお家芸のように言われるが、孫堅も孫策もその戦歴はほぼ陸戦なのである。孫策の代から、野戦でしばしば黄祖を破りながら夏口を落しきれなかったのは、ひとつには水軍戦に不慣れであったのかもしれない。これは夏口流域の制河権を、掌握しきれていない事実にも表れている。しかし孫策の死後は孫権に継承された対黄祖の戦いの過程で、敗残兵を吸収するなどして徐々に水上戦力を整えたものとみられる。
そして黄祖を敗死させ、江夏の東側を勢力下に入れるや、呉軍はこの地の水軍を掌握したのだろう。とはいえ、これが赤壁の戦いの同年の出来事である。
そこへもって劉・劉備との共闘である。劉は夏口の軍勢1万を率いていたとあり、おそらく黄祖の敗死後も夏口側に残存していた、少なからぬ水軍戦力がこれに含まれていたであろう。呉としては、彼等と結ばない手はなかったわけである。

 

赤壁の戦いは夏口からみて長江の上流域で起きているのだが、赤壁の戦闘の時点で夏口の帰属が明らかではない。魏に投降した文聘は劉に従う、と言っているから夏口を守る劉とは決別したのだろう。曹操は文聘にも兵を与えて当陽の劉備を追撃させているが、これは劉備が夏口に入る前である。赤壁戦後、文聘を沔口に駐屯させた、とあるから赤壁の前後で夏口は魏に帰属したことがうかがえる。

この文聘もなかなかの名将である。後に夏口の守備を任され、以後数十年にわたって、江夏太守として夏口を守りぬいたという。
また文聘は荊州降伏の際、曹操の前で荊州を守れなかった事を恥じて涙を流したという。これに感じた曹操は文聘を江夏太守に任じて夏口を守らせ、上奏して関内侯の爵位を授けるなど、非常な厚遇を与えている。

あらためて地理をみると、夏口を含む江夏は荊州と江南・呉越の間に位置している。後に荊州を劉備が取った後は、東を孫権、西を劉備に挟まれる格好になっている。魏にとっては長江北岸に突出した、最前線の橋頭保である。夏口をそのまま北上すれば魏都許昌であるから、夏口の守備は非常に重大な任務である。
文聘は荊州の関羽との戦いでも、楽進等と共に夏口を良く守った。糧秣や軍船を焼くなどして、関羽軍を苦しめている。また後の呉の侵攻を防ぎ、孫権率いる五万の大軍に包囲されるも落ち着いてこれを撃退している。
文聘が江夏太守になって以降は、東に孫権、また背後の荊州に関羽を控え、黄祖の時代に比べれば、夏口をとりまく形勢がより厳しくなっている。それでも数十年も夏口を守り続けた文聘の手腕は、三国時代の武将の中でも傑出したものと言って良いだろう。

 

後年、西晋時代に呉が滅ぼされた際(280年)は、魏は夏口を攻めている。これは夏口対岸の夏口城のことではないようだ。とすれば、どこかの時点で夏口が呉の支配下に置かれたことになるのだが、時期が判然としない。

 

呉志・陸遜傳によれば、呉の嘉禾三年(234)、陸遜は諸葛瑾とともに襄陽を攻めている。戦いは不利で襄陽は落ちなかったが、帰途陸遜の計略で江夏の新市・安陸・石陽を急襲したという。石陽は夏口の北、現在の武漢市黄陂区に位置している。このときは住民が殺戮されただけで、石陽の攻略には至っていない。
またこのころ魏の江夏太守は逯式という人物であったが、文聘の子の文休とは仲が悪かった。文聘の没年は未詳であるが、このころすでに没して養子の文休が後を継いでいたのであろう。陸遜は逯式に「久しく文休とは隙があり云々」という内容の、あたかも逯式が内通しているかのような手紙を送った。これを逯式の兵が拾って逯式に見せると、逯式は恐れて妻子を人質として洛陽に送ったという。このことで兵士の間に疑心がわき、結局逯式は罷免されたという。

 

魏の嘉平年間(249年〜254年)、桓禺が江夏太守を努め、文聘と並び称される手腕を発揮したという。しかし江夏太守といっても、夏口を含むすべての領域を支配していた、とは限らない。
魏は250年に、武漢から随州へいたる途上、現在の雲夢県に上昶城を築き、ここに江夏郡府を置いたという。これは夏口から見れば北西の方角、江夏から襄陽へいたる途上にある。襄陽は魏が支配しており、上昶城は対呉の新たな最前線基地となる。268年には孫皓が施績にここを攻めさせている。
また270年には、呉の孫皓が夏口へ猪狩りと称して派兵し、この地を守っていた孫秀は謀殺される事を恐れて魏に投降している。遅くともこのころには、夏口は呉の支配下に置かれていたのではないだろうか。
279年から280年にかけて、魏は上昶城から夏口を攻め、最終的に呉を滅ぼしているのである。

 

夏口・武漢

 

現在の鄂州市にあった武昌は漢口の対岸の地名となり、本来は武漢全域を包含するような”江夏”という地名は武漢の一部の地名として残っている。現在の武漢市街の行政区の名称をそのまま三国時代にあてて考えると、思わぬ誤解を招きかねない。とはいえ「およそこのあたり」というような、あるいは「地名が残っていればいい」というような、至極おおらかな意識も見て取れる。武漢の東方に位置する黄州で杜牧や蘇軾が赤壁の戦いを偲んだのも、そういったおおらかな文学的気分で眺めるもので、厳密な地理の詮議立ては意味を成さないところなのであろう。
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楚舞と編鐘

湖北省は随州に朋友の婚礼に招かれた時の事。新婦の親戚が「お客人、”楚の国の舞”をご覧になったことはござらぬかな?」という。楚の国の舞、つまりは”楚舞”の公演を観に、随州博物館へ行くことになった。博物館では午前と午後の二回、”楚舞”の公演が行われるのであった。

 

随州は西周時代にすでに「随」という国名で侯国が存在し、戦国春秋時代では楚の国に属して随県がおかれている。現在は湖北省随州市であるが、「随」は、はるか西周時代から悠久と続く地名である。
1978年に戦国春秋時代(東周時代)に随国を治めていた曽侯乙(紀元前475年〜433年)の墓が発掘され、六十五点ひと揃いの”編鐘”が完全な形で出土している。編鐘とは、青銅でできた大小の鐘を音階順に横木につるして配列し、これを叩いて音色を出す楽器である。従来は9個ないしは13個を1セットとして鐘が配列されると考えられていたが、曽侯乙の編鐘はこれを大きく上回り、編鐘という楽器の概念の更新を迫る発見であった。この編鐘は、鐘に鋳込まれた銘文から、紀元前433年に楚の恵王が曽侯乙の逝去を知って追贈したことがわかっている。ゆえに曽侯乙の墓の副葬品として遺ったのだろう。

 

随州博物館

 

古代の楽器の中でも最大の音域を持つであろう編鐘は、礼楽の基礎をなし、もっとも重要な楽器とされる。周礼・春官では、楽器をその素材に拠って、金、石、土、革、絲、木、匏(ひさご)、竹の八つに分類し、”八音”としている。そのうち金属(主に青銅)でできた楽器を八音の首とし、編鐘は”金”楽器の首である。ゆえに編鐘はあらゆる楽器の首とされる。

 

随州博物館

 

曽侯乙の編鐘は、古代の音階を知る上で貴重な史料であり、他のおびただしい副葬品と共に非常に重要な発見である。その多くが随州博物館に収蔵されているが、出土した編鐘や曽侯乙の棺は、現在は武漢の湖北省博物館に収蔵されている。随州博物館にはその複製がある。これまでに展示用以外にも演奏用として、いくつかの編鐘の複製が製造されている。また編鐘の演奏用に、古代に主題を採った楽曲が作られ、併せて舞踊がつくられ、各地で公演されるようになった。
無論、紀元前の楽曲が残っているわけではなく、あくまで現代の舞踊なのであるが、古典舞踊や民族舞踊の要素が取り入れられ、古代の”楚舞”の再現が試みられているのである。

また曽侯乙の墓からは、周王朝の天子にのみ許されるはずの「九鼎八簋(き)」も出土している。「簋(き:下写真)」は穀物などを盛る器である。この「九鼎八簋」は曽侯乙が僭越にも周の天子の格式に倣ったという事で、東周時代の周王室の権威の衰えを証拠付けているともいわれる。ともあれ「九鼎八簋」が完全にそろってひとつの墓から出土した例はなく、やはり貴重な史料であるといえる。
随州博物館

 

随州のある湖北省は、春秋戦国時代は”楚”と呼ばれた、中原から見て南方の大国における、その北部地域にあたる。もともと楚の国は、殷代に中原に住んでいた人々が、商の時代になって北方から侵入してきた部族に押されて南下し、この地に国を建てたと言われている。およそ大陸における人々の移動は、北辺からの異民族の侵入にともない、中原の住民たちが次々に南下してゆく、という流れが続いてきている。現在の広東語や福建語に、古代の発声が保存されているという事情からもうかがえる。

楚といえば、春秋戦国時代には南の大国であった。始皇帝の大陸制覇の戦役でも、最後まで抗戦をつづけた強兵の国でもある。始皇帝は楚の征服に、老将王翦率いる六十万の大兵力を要した。天下平定間近の秦といえども、これは総力戦であった。後に秦を滅ぼす項羽は、楚の将軍家の後裔である。
また楚といえば、呉越も包含した、漠然と長江両岸以南の地域を指していう事もある。狭義には現在の湖北省と湖南省をいうが、江蘇省や浙江省、安徽省と江西省の一部も含むこともあり、河川や無数の沼沢を擁する、境界も定かではない広大な地域が想定されることもある。
秦滅亡〜楚漢の戦いの頃、”楚”という国に強烈な自負を抱いていた項羽の根拠地は今の江蘇省北部である。
”楚”には湖南と湖北にまたがって”雲夢沢”と呼ばれる大湿地帯が存在したといわれ、”雲夢”というだけに、どこかとらえどころのない、漠とした領域が想起される。現在は武漢から随州へいたる途上に、雲夢県という地名にその名が残っている。
現在の湖北省や湖南省の山岳地帯には様々な少数民族の部落があり、やはり昔中原から南に追いやられた、という伝説を持つ部族が多い。
楚の国は、中原とは異なった、独特な文化が発展した地である。中原を中華とするならば、楚は蛮地とみなされがちであるが、屈原や宋玉を出し、中原の文化にも大きな影響を与えている。もともと中原で発達した文化が、北方異民族の侵入に押されて南下し、楚の国に残った、という見方もあるが、実のところ楚で発祥し、独自に栄えた文化も広範に存在したであろう。

 

 

こうした”楚”の国で太古から歌や舞踏が盛んなのは、”鬼神”を信仰する文化に根差しているといわれる。おそらくは鬼道、さらには道教とも関連があるのだろうが、巫女(ふじょ)が歌謡と舞踏をもって神に祈念する風習である。
そもそも”巫”という字は、羽飾りを両手に持って立つ人の形をしている。羽飾りを両手に持つ姿は”羽人(うじん)”すなわち神仙の原型に通じるイメージでもある。後にそれが軽快な長い袖の衣装に変化しながらも、”飛翔”を表現するのが、その舞踏の根源的なイメージにあるのではないだろうか。

 

随州博物館

 

詩賦も無論、楽曲と舞踏に沿ったかたちで発展する。屈原の”楚辞”の”九歌”は、演奏を歌謡、舞踏を併せた、戯曲として表演された、とも言われる。ほかにも屈原の弟子の宋玉の作とされる”招魂”も、内容は”たまよばい”の祈祷文そのものであるが、楽曲と巫女の舞と共に歌唱されたと考えられる。
”楚辞”では、楚の壊王が、夢で巫山の神女と情を通じたことがうたわれている。壊王は屈原を登用した王でもある。巫山はいまの湖北省と重慶の間に位置する山であるが、”巫山”という呼称自体が、巫女との関係を想起させる。

 

随州博物館

 

歴史上、楚の楽曲にまつわる故事といえば、項羽の「四面楚歌」が特に有名であるが、”楚歌”に併せて無論”楚舞”が存在した。故郷を愛した項羽の愛妾虞姫の舞も、やはり楚舞であったことだろう。
後に高祖劉邦の愛妾戚夫人は、自分の子を後継者に出来ないと決まったことで、高祖にすがって泣いた。高祖は戚夫人に「為我楚舞,我為若楚歌」と言い、わしが楚の歌を歌うから、わしのために楚の舞を舞ってくれ、とだけ語ったという。このとき劉邦は垓下の戦いを思い起こしながら、戚夫人は自分にとっては項羽における虞姫の如く最愛の存在であるが、今は”四面楚歌”の如く皆に反対されたから、世継ぎの事はあきらめてくれ、と言って慰めたのであろう。しかし北方出身の戚夫人が楚の舞を能くしたという事は、漢代初期の当時、相当広範囲に”楚舞”が流行している事が伺える。

 

随州博物館

 

時代が下って後漢の成帝に愛された趙飛燕も、楚舞を得意としていた。「飛燕外伝」に拠れば、趙飛燕が成帝の伴奏で高台で舞ったとき、風が強く吹き付けた。風は飛燕を吹き飛ばす勢いであったが、飛燕は吹きすさぶ風に身を委ねながらますます軽やかに舞ったという。趙飛燕が飛び去る事を恐れた成帝は、左右のものに命じて飛燕のスカートを抑えさせた。飛燕は”昇仙”の機会を逸したと言って泣いたという。楚舞は飛翔する神仙のイメージと不可分である。
また楚舞は「楚腰繊細」と杜牧の詩にあるように、踊り手の細い腰を、”折腰”というように、前後に仰臥するように折り曲げる姿勢に美しさがあるという。荒川靜香の”イナバウアー”を仿彿とさせるポーズである。さらに長く軽い生地の袖を旋回し、気流を表現する。たとえば映画「十面埋伏(邦題”LOVERS”)]で章子怡が長い袖で踊るのも、楚舞を基底として創作された舞踊であろう。

 

随州博物館

 

随州博物館の編鐘と楚舞の公演は、三十分ほどの内容である。楽器は編鐘を中心として、古琴や琵琶、笙や龍笛など、さまざまな楽器が登場する。演奏者は衣冠装束を整えて位置についている。あるいは起源を一にするのかもしれないが、雅楽に通じるような、いくぶん厳かな雰囲気がある。
踊り手たちの古代の装束をイメージした衣装はやはり軽やかで、明るく華やかな色使いである。

 

随州博物館

 

まさに、

 

 

羅裙舞轉仙姿爭

紅袖風翻彩雲生

將欲招魂夢澤畔

惠王六十五鐘聲

 

 

というところ。

 

 

曽侯乙(紀元前475年〜433年)に六十五点組みの編鐘を贈った楚の恵王(紀元前?〜432年)は、呉越の戦いにも関わる楚の昭王の子(母は越王勾践の娘)である。楚の昭王(在位紀元前515〜489年)と言えば孔子(紀元前552年〜479年)の存命中に楚に在位した王であり、孔子を招聘しようとしたほど傾倒していた王であった。孔子の楚への旅は、楚がより強大になる事を恐れた他国の謀略で、その一行は道中七日間の包囲を受ける。
曽侯乙は、孔子の晩年近い時期に生まれた人物であるが、楚恵王と並んで孔子や昭王の息子世代である。楚の恵王が曽侯乙に六十五点組みの大編鐘を贈ったという事は、おそらくは父の昭王の時代にはすでに同規模程度の編鐘は存在していたであろう。

 

 

2011年、随州の葉家山墓地で、曽侯乙の時代から500年ほどさかのぼる、商代末期から西周時代初期のものとみられる墓から青銅の編鐘が発見された。これは編鐘の起源を少なくとも五世紀は前倒しする発見である。湖北より北方、陝西や河南でも編鐘の出土例はあるが、いずれも周代後期のものとみられている。最古の編鐘も、最大規模の編鐘もいずれも随州から出土しているのである。この事実は、”随国”の古代における繁栄と地位を表しているだろう。あるいは湖南湖北の少数民族の伝承にあるように、太古の時代は中原に住んでいた人々が、北から圧迫されて楚に移り住んだ、という話を裏付けているようでもある。さらには編鐘の起源と発展も、中原ではなく長らく後進地帯とみなされていた楚にあったのではないか?という可能性をも考えさせられる。
すくなくとも、曽侯乙から100年ほど後の屈原(紀元前343年〜278年)の”楚辞”に見られる文学上の達成を考慮すると、当時の楚の国が、言われるほどの後進地域であるとは考えられないところがある。
孔子も楚の国が蛮地であるから教化しに行こうなどとは語っていない。むしろその王を”大道を知る”と絶賛しているほどなのである。

随州博物館

随州博物館

 

孔子は故郷魯の西、現在の山東省の付け根部分に位置する斉の国でその国の音楽を聴き、「三月不知肉味」と、三か月の間、肉を食べても味が分からないほど感動したという。
また孔子は顔淵に国を治める法を問われたとき、「放鄭聲」と、鄭の国の音楽は淫らであるから退けよ、と言っている。この鄭聲は、「詩経・鄭風」の内容を指してその奔放な恋愛詩を批判しているとされるが、”聲”と言った場合、その詩を含む鄭の歌謡全般を指しているといえる。歌詞も駄目なら、楽曲も怪しからん、というわけである。
礼楽においては、音楽は”まつりごと”の根幹を為す行いであり、厳しい倫理が求められていた。
後の「呂氏春秋・侈楽」には”宋之衰也,作為千鍾。齊之衰也,作為大呂。楚之衰也,作為巫音”とあり、古来からの礼楽が乱される事を憂いている。千鐘はすなわち”鐘律”であり、とくに編鐘による音律のことであるといわれる。大呂も古代の音律を言い、また巫音は巫觋(巫は女、觋は男の巫師)が舞う際の楽曲を指す。要は古典に無いような楽曲の乱れが国の衰微を表す、という思想であり、楚の国の巫に関わる音楽を批判している。宋の千鐘も、奢侈にまかせてやたらと編鐘の音階を増やす事を指弾しているとも読める。
ただし呂氏春秋は孔子より200年ほど後の時代の書物であり、孔子の思想よりも法家、道家の影響が強い。

 

 

孔子の母親は身分の低い巫女であったと言われる。孔子自身、若いときは葬儀の仕事を手伝い、巫術や鬼道に通じていたという。その巫術の、いわば中心地である楚の国に大編鐘があったとすれば、その楽曲と孔子の行動に、どこかでつながりが無かったのかと考えたくなる。

「身分の低い巫女」というが、巫女そのものが、身分が高い者ではなかった。当時の身分制の埒外にあったとも考えられる。それは神と交感する巫女は、人間世界の身分制度にあてはまるものではないからとも考えられるし、一種の”畏れ”のような意識も働いていたのではないだろうか。

後の戚夫人も趙飛燕も、ともに舞を能くする事で帝王に愛された。巫女かどうかは未詳であるが、やはり低い身分の出自である。それは唐代の楊貴妃も同様であるが、楊貴妃が得意としたのは西域から伝わった、体を激しく旋回させる”胡旋舞”であると言われる。李白は楊貴妃を趙飛燕になぞらえて賞賛する「清平調詩」を即興で詠んだというが、かえって自身の出自の低さをあてこすったと楊貴妃に恨まれ、それがもとで宮中から追放されたという。あるいは豊満美人の楊貴妃は、”楚腰”と言われるような、細腰の趙飛燕と比較されて怒ったのかもしれない.........話がそれるが、紅樓夢でも宝玉が宝釵を楊貴妃に喩えている。やはり豊満美人の宝釵ではあるが、自分が太っている事を指摘されたと思って、温厚な彼女には珍しく腹を立てている。歴史上の絶世の美女だとて、安易になぞらえるものではないのである。

 

ところで孔子は昭王が治める楚の国で、後の恵王が曽侯乙に追贈したような大規模な編鐘から成る音楽を聴く機会がなかったのであろうか.......?また当時の中原に、楚の国にあるような規模の編鐘が存在しなかったのだろうか。陝西や河南の出土例では、その規模は曽侯乙の大編鐘には遠く及んでいない。
楚の国への道中、策謀で包囲を受け、七日の間絶食するほどに困窮した際、子貢を昭王のもとへ派遣し、兵を派遣してもらって包囲を解かせている。その後ほどなくして孔子一行は楚の国を去っているのは、昭王が呉に攻められた陳を救援に行った先で、没したからである。とすると孔子が包囲されていた時期、昭王は陳へ向けた援軍を率いており、孔子一行の包囲も、あるいは呉と陳との間の紛争が関係しているかもしれない。ともあれ孔子が待ち望んだ、昭王への謁見はついにかなわなかった。

孔子の著作とされる春秋左氏傳では「楚昭王知大道矣(楚の昭王は大道を知れり)」と、孔子としては君王に対する最大級の賛辞を残している。編鐘は賓客の接待の際にも演奏されるものであったから、もし孔子が昭王に謁見していれば、饗応の席でこのような大編鐘での演奏を聴くことが出来たであろう。はたして孔子はどのような感想を残しただろう......奢侈が過ぎるとしりぞけたであろうか。あるいは.......多少の想像が許されようか。
 

 

 

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武漢の花楼街

武漢に池莉という作家がいる。「生活秀」という作品が、邦題「ションヤンの酒家(みせ)」として映画化され、日本でも「生活秀」や「不談愛情」などの代表作を含む作品集の翻訳が出ているのでご存知の方も多いかもしれない。武漢を舞台に、庶民感情、とくに女性目線で代弁している作品が多い。武漢の庶民生活の細部に筆が及び、生彩富んだ描写に関心をひかれる。もっとも「生活秀」や「不談愛情」などは、70年代の終わりから80年代初頭に書かれた作品であり、現在の武漢の様子にそのまま当てはめられるものではない。
 

「不談愛情」では、主人公の若い女性は武漢の下町、「花楼街」の出身である。それがインテリ階級出身の若い医者と出会い、結婚にいたる事で起こる「家同士の付き合い」をめぐる騒動が描かれている。旧い階級社会を打倒する事で成立したはずの新中国、あるいは知識人階級を徹底弾圧した70年代を経てなお、結局のところは”階級意識”というものが根強く残っている事を感じさせるお話なのであるが、暗い結末ではない。
 
武漢の花楼街
それはそうと「花楼街」であるが、その知識人階級の若い医者の家庭から見ると、ずいぶんと見下された地域なのである。「花楼街」はその名からうかがえるように、戦前は駐在する外国人を主な顧客とした妓楼が立ち並んでいた、漢口中心部の歓楽街であった。その地域も新中国成立後は住宅として開放され、庶民が移り住んだのであるが、どうもあまり良い印象が持たれる地域ではなかったようだ。とはいえ、治安の悪いスラム街といった意味ではなく、そこには料理屋、仕立て屋から茶葉屋から、生活に必要な店が一通りそろった、歴とした生活区なのである。
 
そうではあるが、武漢という古い街の”階級社会”の中では、底辺近くに位置していたのであろう。主人公の女性はこの「花楼街」の家庭の出身である事をひどく恥じているのである。そしていつか「花楼街」から抜け出して生活する事を、固く決心し、結婚によってそれを実現するのである。また夫となる若い医者は、出身地を理由に結婚を取りやめるような事はないのであるが、それでも知った時には軽いショックを受け、また彼の家族は猛反対することになる......
武漢の花楼街
武漢の花楼街
家同士のつり合い、みたいな話は現代の日本ではもはや寡聞かもしれないが、無いこともないだろう。差別感情ないしは階級意識というのはやっかいなもので、子供のころから意識する必要もなく大きくなれればいいのであるが、たいていは周りの大人がそういった意識を植え付けるのである。さらにいえば、そのような意識から自由になれるほどの人生経験、あるいは人文の教養を積める人間というのは稀、という事なのかもしれない。
現代中国はというと、この階級意識というものが、やはりまだまだ根強く残っている、という印象がある。ここ十年の経済成長を経て、総じて豊かになったはずの社会にあっても、かえってこの意識が強化されているような気配すら感じるものである。階級という縦のベクトルと、地域という横のベクトルが交錯しながら、立体的な差別感情が形作られている、と理解される。それが今のところ深刻に見えないのは、まだ多少の流動性が残されているからなのかもしれない。

池莉の小説に描かれるところの女性達の理想は、具体的な生活像の中にあるのであって、思想や理念の中などにはない。換言すれば”自由”とは欲しい物を自由に買えることであり、”平等”とは他人が買っている不動産を自分も買える、ということである。その意味では、池莉の作品は、たしかに現代中国の庶民感情の公約数のある部分を代弁している、と言えるかもしれない。あるいは庶民に限らず、”近代化”とは近代建築を山ほど建てることだ、と思い込んでいるに違いない、本来知識人であるはずのこの国の官僚群とも、もしかすると大差ないのかもしれない。

なにがなんでも唯物論的、なのである。


別段その事を皮肉っているわけではなく、肯定的に書いているのが池莉の作品なのであるが。無論、人は理想や思想に対するよりもはるかに多く、現実生活の中で挫折を味わうものなのだろう。池莉の作品は観念としての”理想”に対しては、一貫してシニカルな姿勢をとりながら”触って、口にできる現実”に対しては、やや甘い夢を見る事が許容されている。その挫折に対する対処法もセットになっている。別の言い方をすれば、池莉作品の主人公達(多く女性は)、阿Q以来の”精神的勝利法”の現代風アレンジに長けているだけなのであるが、そのことへの問題意識は池莉には希薄なようだ。ゆえに池莉は作家として今や(政治的にも)武漢の文壇の重鎮なのも、わからなくもない。このあたりの態度が受け入れられるかどうかで、池莉文学への好みが分かれるのではないかと思う。

武漢の花楼街
武漢の花楼街
その花楼街である。江漢路という、上海の南京路を少し細くしたような通りから、少し離れた路地に位置している。その雰囲気としては、やはり上海豫園の近くの、城皇廟付近の上海老街と似た格好である。建築当時はモダンであったであろう、西洋風の古い建物に改修を重ね、人々が住み続けているような街である。上海と雰囲気が似通っているというのは、やはり早くから各国の疎開地が建設され、西洋文化の影響を受けてきた、という経緯を感じさせる。長江というのは、河川というよりも、あるいは非常に長く深い港湾、という見方も出来るのではないだろうか。いうなれば武漢もはるか内陸とはいえ、長江を経由して海外に面した港湾都市なのである。
武漢の花楼街
この花楼街のような街は、武漢特有の下町、という事でもなく、大陸の古い都市にはどこでも、一か所くらいは残っているような通りである。市街の中心部にあって、場所の価値は高いと思うのであるが、不思議と再開発などが起こらないのである。こうした下町は土地建物の権利関係が複雑過ぎる上に、古い住民はしたたかで補償の交渉もままならない。なので市の政府も手が出せない、というような事を聞いたことがある。
武漢の花楼街
武漢の花楼街
時刻は夜の10時に近かったが、飲食店、惣菜や果物を売る店、あるいは雑貨を売る店などはほとんど開いている。武漢も、中心市街の夜は遅いのだろう。路地にクツや生活雑貨などを並べて売る露店などもあり、狭い通りがさらに細くなっている。
池莉の別の作品、映画化された「生活秀」に出てくる吉慶街ものぞいてみたかったのであるが、あいにく体調を崩していたこともあって果たせなかった。もっとも、吉慶街も「生活秀」で描写されている時代からは、ずいぶんと様変わりしているという事だ。
この夜の武漢もとても暑く、長い事歩いてはいられなかったのであるが、地元の人はさすがに慣れているのか、花楼街には平然とした活気があった。溢れかえる生活の色彩と喧騒....暮しの匂い、そのものである。
武漢の花楼街
武漢に立ち寄った際は是非足を運ぶべき、というほどの場所でもないのであるが、池莉の作品を読まれたことがあれば、少し足を延ばして作品世界の一端を知るのも悪くはないのではないだろうか。
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武漢夏日

..........今回初めて滞在したのが湖北省の武漢。夏の武漢というと、中国四大火炉(重慶、武漢、南京、南昌)に数えられる暑熱の街である。武漢近郊の朋友の婚礼に招かれたためにこの方面へ往くことになったのであるが、音に聞こえた武漢の酷暑にいささか怯(ひる)みを覚え、出席を辞退しようかと考えたほどである。
中国四大火炉のひとつ、真夏の南京は経験があるのだが、それはそれは酷い暑さであった。寒さにはいささか耐性を自負しているが、夏の暑さ、とくに湿度の高い暑さには弱いという自覚がある。加えて蒸し暑い時期には紙墨の調子が出ないものなのである。
 
今や大阪も相当暑い都市である。夏が暑いのは当たり前だが、小生が生まれ育った東京西部とは異なる、大阪の湿気をはらんだ暑さはどうにも耐え難いものであると、毎年思いながら過ごしてきた。大阪も水路が縦横に走り、水の上に浮かんだような恰好の街であり、海も近い。どうしても湿度が高く、暑さをさらに耐え難いものにするのである。
武漢も、地図で見るとよくわかるが、武漢、漢口、武昌といった都市が湖水の上に切れ切れに浮かんでいるような連鎖複合式大都会である。都市の規模と広がりで言えば、お隣の湖南省の省都、長沙などよりもずっと大きい。まさに内陸屈指の大都会なのである。
夏の武漢2016
まず香港から深圳に移動し、そこから武漢へ向かう。深圳から武漢へは、飛行機か高速鉄道のルートがある。飛行機では2時間、高速鉄道では深圳北から5時間かかる。折しも台風が接近しており、飛行機は空港へのアクセスと、遅延ないし欠航の可能性を考慮して高速鉄道で行く事にした。
深圳からの高速鉄道は途中、広州、韶関、衡陽、長沙、岳陽などを経由して武漢に到るわけである。
夏の武漢2016
高速鉄道のキャビンでは、文字情報のメッセージが流れるのであるが、現在速度や次に到着する駅の名前のほかに、外気温が表示される。この外気温、広州東駅で「40度」が表示された。列車は午後1時過ぎに深圳を出て、1時間くらいで広州であるから丁度昼下がりの最も暑い時候である。それにしてもこれは非常な暑さであるなと思ったら、次の韶関でも40度。続く衡陽、長沙、岳陽も40度......終点の武漢は夕方6時を回ってたのであるが、やはり40度.........さすがに何か不自然なものを感じなくもない。とはいえ、前途の酷暑を予感させる出来事ではあった。
夏の武漢2016
武漢駅に朋友の親類が迎えに来てくれており、まずは随州へ直行。婚礼の後で武漢へ戻り、二日ほど滞在する事にした。やはりここまで来て黃鶴樓に登らないわけにはいかない。が、黃鶴樓の様子はまた別の機会に。
夏の武漢2016
ともかくはじめての武漢滞在であったが、果たせるかな、名にし負う、夏の武漢のこの暑さ、聞きしに勝る暑さなりけり、なのである。
.......真夏の大阪は、夕方近くのある時間帯、風が”凪(な)ぐ”時間帯がある。気温上の暑さのピークは午後の2時3時であるが、風が凪いで空気の流れが止まった時候がもっとも暑さを感じるものである。たとえていうなら、武漢は一日中、この大阪の暑熱のピークが続くような雰囲気であろうか。
夏の武漢2016
そもそも7月初めの武漢は、日没が7時半と遅い。太陽が出ている時間が長い分、暑さが夜に持ち越されるような感じがある。
朝7時くらいに気温を見ると、すでに30度である。午後2時前後に33度まで上がり、午後8時になっても32度である。暑さが続いたまま夜を越して、そのまま朝に継続しているような、それはもう未来永劫、永久機関のように続く暑さなのである。しかも道路やビルの壁面が熱せられ、四方八方からの熱気に圧迫される。濃い霞をひろげたようなうす曇りの空は、太陽の熱を遮るというよりも、熱気をはらみながら頭上にのしかかってくるような、重い重い雲の色である。蒸されたところに白いお椀でフタをされたような、そのお椀を地上から見上げているような、そのような心地である。
気温が33度であれば、大阪あたりでは木陰に入ればしのげなくもない。しかし武漢は空気の温度がほぼ一様なのか、日陰でもさほどの変化がない。一歩外に出れば、逃げ場のない暑さなのである。
夏の武漢2016
武漢では、黃鶴樓の付近のビジネスホテルに投宿した。このホテルは黃鶴樓沿いの民主路から折れた臙脂路という、二車線ほどの通りにある。同じビルの一階は、生地や糸など、裁縫関連の小売店が詰まっていた。

ホテルから出て臙脂路の歩道を民主路に向かって歩く。ふと見ると、歩道の路面が濡れている。にわか雨の気配もなく車道は乾いているのでいぶかしく思うや、頭上からシトシトと水滴が滴り落ちてくる。ビルの壁面に設置された、室外機からの水滴である。
大陸のビルにはベランダがついた建物が少ないため、壁面に貼り付けるように、空調の室外機が取り付けられている。そこから漏れ落ちる水滴が時に頬に当たって、雨の降り始めを疑わせることがある。しかしここ武漢のように、歩道の路面が濡れて水たまりが出来るほど、かくも盛大に漏れ落ちてくるのを見るのは初めてである。さぞかし各部屋の空調はフル回転している事だろう。
良く利用する台湾資本のチェーンのビジネスホテルは、安価であるが、部屋は清潔であるし、設備も比較的新しい。部屋ごとにエアコンが設置されているので、夏場も快適である。全館型の冷暖房を採用しているホテルなどは、設備が古いと除湿機能が無かったり、細かい温度調整が出来ないとか、なかなか冷えないとか暖まらないとか、不便な事がままあるものである。
有り難い事に部屋の空調は除湿機能があり、よく効いた。部屋の中にいる限りにおいては、すこぶる快適なのであるが、一歩外へ出るとやはり大変な暑さである。
夏の武漢2016
夏の武漢2016
こうした武漢の暑い夏、街の路傍では蓮の実が売られている。蓮の実を売るのは武漢に限らなにのであるが、武漢はとりわけ多い印象がある。街角辻々のいたるところで、蓮の実売りを目にするのである。暑い街中にあって、蓮の子房の緑が目に鮮やかで涼し気である。
夏の武漢2016
武漢は無数の湖や池、沼沢の類に囲まれており、いたるところ蓮が湖水を覆っている。その青い実を売るのである。実は表皮を剥いてそのまま生食する。薄皮に渋みがあるが、ごくかすかな甘さと、軽い食感を楽しむものである。また蓮の実は体を冷ますので、暑い夏には良い食べ物とされる。
また実をとった後の蓮の子房は、昔は器物の洗浄にも使われた。硯も、ヘチマないしは蓮の子房で洗うべし、というように記されている文献もある。
夏の武漢2016
夏の武漢2016
また武漢の蓮の実売りの屋台の上には、「土匪烟」「土豪烟」などと書かれて、葉巻のようなものが売られていることがある。これは、蓮の葉で作ったタバコなのである。蓮の葉のみで作られているのか、中にタバコの葉が巻き込まれているのかはよくわからない。小生、タバコは吸わないのであるが、面白いので土産に少し買って帰ることにした。
夏の武漢2016
武漢の軽食といえば、ゆで上がった麺を胡麻ダレで和えた「熱干麺」が有名でなのであるが、夏場は「涼麺」も良く出ている。この「涼麺」はゆで上がった麺をさらして、麺同士がくっつかないように油を打ちながら、扇風機をかけて盛大に冷ましている。
夏の武漢2016
夏の武漢2016
冷やした麺、というよりは常温の麺なのであるが、この麺と刻んだきゅうりを酢と醤油で和えた麺は、いわゆる冷やし中華によく似た味である。ネギや香菜などの薬味は各自好きなだけかけるのであるが、皮を剥いていないにんにんくもおいてある。
そのままかじるのだそうだ。昼間から生のにんにくをかじるのもどうかとおもうところであるが、こうも暑いと、生にんにくでも摂取しないと体が持たないというのもわからなくはない。酢の効いたタレに、生のにんにくを少しかじりながら食べるのは、まったくもって悪くない。
夏の武漢2016
有り難い事に、こうした麺屋でも、冷たいビールを置いている。度数もせいぜい2.5度くらいなので、水替わりにビールももらう事にした。「涼麺」をつつきながらビールを飲んでいると、少し暑さも和らいでゆく気がするものである。
 
暑いとき、体を冷ますには「西瓜を食べる」というのが常道である。ほかにもキュウリやメロンなど、いわゆる「瓜」の仲間ならよいわけである。日本も都会だと西瓜も高くなってしまい、そうそうふんだんに食べるというわけにはいかなくなってしまったが、大陸では年中出回っている上に、非常に安価である。大陸も果物をちょっとした贈答に用いる習慣がある。値段は少し高めであるが、吟味された果物を置いている店も多い。こうした店では買ったフルーツをカットするサービスをしてくれるところもある。
夏の武漢2016
夏の武漢2016
西瓜を買ってホテルで切りながら食べるのは難儀なので、花楼街近くで目にした「ちょっと良い果物屋」で西瓜を買ってカットしてもらう事にした。自分で選んだ西瓜を切ってくれるのであるが、美味しくなければ、無償で他のものに交換してくれるという。実際、1個目を切って少し試食してみたのだが、見立てが悪かったのか甘味が薄く少し酸味を覚える。そう言ったら、アッサリと別の西瓜に取り換えてくれた。切ってくれたのは学生のアルバイトであるが、なかなか良い手際で、流暢な英語で親切に応対してくれたものである。
夏の武漢2016
夏の武漢2016
暑いなら暑いなりにさすがに過ごし方はあるものである.............が、道々冷たい水を買って飲み、涼麺や冷えたビール、そして西瓜をエアコンの効いた部屋で食べていたら、当然というべきか、見事にお腹を壊したのである。あいにく携帯している薬の中にも、その方面の薬が切れていた。仕方ないので現地の薬屋で適当な薬を買う事にしたのであるが、良くできたことに、武漢と言う街はなぜか病院や薬局が数多い。ホテルを出てすぐのところの薬局で薬を買い、とりあえずは事無きを得たのである。ホテルに停滞出来るのであれば、部屋でじっとしているのもひとつの手であるが、翌日は黄州へバスで移動である。お腹を壊したままの長距離移動というのは、たとえトイレのある高速鉄道や航空機であっても非常に難儀である。
 
大陸の薬は基本的に漢方薬が多く、有効成分がなんだかよくわからないところがあって、あまり効かない場合も多い。なので1回に服用する錠数を若干増やすのであるが、ともかく効いて、明朝黄州へ立ったのである。
暑熱が続けば、厚い雲が呼ばれるのが天の理である。黄州へ立つ日の朝方、雷鳴とともに豪雨が降り注いだ。ごく短い時間、熱い路面が雨で洗われた後は、濃い湿気が立ち上って蒸されるようであるが、それでも暑気がいくぶんはやわらいだ気配がする。
夏の武漢2016
この武漢の暑さ、他所者にはやはりすぐに順応するのは難しかったようだ。勝手がわからない初めての街だと、移動や休憩にも要領を得ないものであるから、多少暑さに自信があったとしても、油断は出来ないところであろう。秋と夏では、行動の制約がだいぶ違うという実感がある。中国では歳月を「春秋」とも言うが、「夏冬」ではないのである.......嗚呼、せっかくの武漢、再訪の機会あれば春か秋にしたいものだ。武漢にかぎらず、真夏に内陸の大都市に行かれるのは(第一におすすめできないが、やむを得ないときは)体に充分ご注意いただければと思う次第。
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随州麻将

朋友の婚礼に招かれた。湖北省の地方都市、武漢から車で二時間ほどの距離にある随州という小さな街である。
この随州、炎帝神農の発祥地とされ、また隋朝を開いた楊堅が北周時代に随国公に封じられたというゆかりをもつ。梁から禅譲をうけた楊堅は、国号を当初”随”としたが、この字は「めぐる」という意味を含んで縁起が悪いということで”隋”という字に改めた、と言う説がある。また春秋戦国時代にこの地をおさめた諸侯、曽候乙の墓が発掘され、おびただしい青銅器の副葬品が出土しており、とくに古代楽器”編鐘”が完全な形で現れ、大陸古代史上、重要な発見となっている。

 

ともあれ、今は湖北省の省都武漢近郊の田舎街である。田舎の結婚式らしく、婚礼の前日の宴会、婚礼の宴会、その夜の宴会、次の日の昼の昼食会、その夜の親戚の食事会.....と、延々と会食が続くのである。が、その合間合間で、地元の大人たちが打ち興じるのが”麻将(マージャン)”なのである。

随州麻将

随州麻将

傍目で見ているとこの麻将、とにかく牌が大きい。聞くところでは、お年寄りなどが見やすいように大型化していったということであるが、重さもかなりのものである。これでは手業を使ったイカサマもやりようがないだろう。
また四人が卓を囲んでいるが、なぜか三人打ちである。全自動卓であるが、使われる牌は二組あって、A組の牌を使った一局が終わった後、B組の城壁が機械仕掛けで卓上にあがってくる。A組で打っている間に、自動卓の中でB組が洗牌されるという仕組みなのだろう。またドラ、カンドラというものはない。点棒の代わりに小額紙幣が使われている......等等

随州麻将

随州麻将
麻雀にも多様なルールがある。小生、日本の”麻雀”は付き合い程度に覚えたくらいで、打てなくもない、というレベルである。”マージャン”自体がおそらく10年ぶりである。無論、大陸式”麻将”の経験はない。また似たようで違うルールのゲームと言うのは、慣れるのが意外と難しい。そういうわけでもっぱら傍観を決め込んでいた。ところが宴会の合間に休んでいた新婦の実家で、とうとう”麻将”に参戦することになってしまったのである。


「博打であっても、何もしないよりマシ」と、孔子サマもおっしゃられたとか。

 

子曰”不聞夫麻将者乎?亦尤賢乎已”

 

というところであろうか。

随州麻将

面子は新婦の両親、爸爸(パパ)媽媽(ママ)と、その長女である。新婦は四姉妹であり、このたびご婚礼の三女が朋友なのである。一人っ子政策時代にどうして四姉妹なのかは、ここでは省く。長女は「姐姐(ジエジエ)」と呼ばれ、二女は「二姐(アルジエ)」、三女と四女は「三四姐」ではなく、それぞれ名前をつづめた愛称で呼ばれている。
姉姐は今は武漢に住んでおり、二児の母である。ご両親は昔このあたりで米を作る農家をしていたそうだ。いたって質朴な人達である。

 

大陸式「麻将」は初めての経験である。しかもルールは数ある麻将のルールの中でも比較的新しい「卡五星」というもので、武漢を中心に近年非常に流行しているらしい。その発祥地が実はこの随州で、2005年に随州近郊の村で120牌のルールで始まったそうだ。その後、三人打ちの84牌のルールが出来て、2009年の春節ごろから湖北省一帯に爆発的に流行しているのだという。
今回小生が参加したのは、原初的な120牌の随州ルールである。120牌というのは、すなわち東南西北、春夏秋冬、菊竹蘭梅等の字牌が除外されている。すなわち「發白中」以外に字牌は無い。84牌のルールだと、これから「ワンズ」の36牌が除かれるのである。


牌の数が少ないだけに作れる役が限定されるが、非常に速い速度でゲームが進む、というわけである。思えば東南西北などは多く序盤の捨て牌になるもので、役作りに使用される頻度はあまり多くない。これを除く事で”無駄ヅモ”が減り、ゲームがよりスピーディになるというわけなのであろう。また三人打ちに対して牌は豊富にあるから、実のところ流局もあまり起こらないのである。ある意味、より効率の良いゲームになっている。


また基本三人打ちであるが、四人で打つ場合は、アガッた人は次の一局はお休みである。次に勝った人と入れ替わりに復帰する際に、親になってサイコロを振る(サイコロを振る装置のスイッチを入れる)。こうすることで、一人に流れが傾いて勝ち過ぎないようにする、という事でもあるのだろう。


ともあれ、120牌の「卡五星」用の全自動卓がこの家にはある......と思ったのであるが、120牌用の全自動卓というより、牌が120牌用に少し幅広になっているのである。減った分の牌の幅を埋めているというわけで、全自動卓は通常麻将と兼用なのであろう。しかし大陸の牌は、ただでさえ日本の麻雀牌より大きいのであるが、こうなると握り寿司じゃないかと思うくらいの大きさである。

牌が大きい方が見やすいということであるが、小さな牌しか経験していないと、逆に一目で配牌が見渡せない感じである。重い牌を整理するのも一苦労である。


この「卡五星」にどんな役があるかもわからないままに始めたのであるが、まず、ポンとカンはあるが、チーはない。カンをすれば嶺上開花はあるが、カンドラ、というものはない。そもそもドラという概念はない。
また”麻雀”のように、自分の捨て牌を整然と場に並べて明示することもない。場に適当に放り出すのである。すなわち「フリテン」が無い、という事になる。

随州麻将
重要な手としては、テン牌したところでアタリ牌をさらす「听牌」であろうか。「听牌(ティンパイ)」はすなわち日本式に言えば「テンパイ」なのであるが、それを宣言したうえでどんな牌が来れば上がるか明示する、という事になる。たとえば(上の写真のを例にとれば)「三ピン、六ピン」の両面待ちのテンパイであれば、「四ピン五ピン」を場にさらして「三ピン、六ピン」待ちを明示するのである。
役がつくので、「听牌」可能な時にはほぼかならずこれをしている。これすなわち日本式”麻雀”で言う「立直(リーチ)」に相当する手であろうか。しかしポンやカンをしていると「立直」は出来なくなるが、「听牌」は可能である。むろんのこと「立直」と同じで、「听牌」以降はポンやカン、あるいは牌を入れ替える事は出来ず、ひたすらアタリ牌を待つのである。
この「听牌」が、始めは実に奇異に思えたものである。アタリ牌がわかれば振り込む恐れがなくなるではないか.........しかし「立直」と同様、「听牌」をした以上、アガリ牌以外は捨てなければならない。自分が「听牌」したときに、他の「听牌」のアタリ牌を引いて来たら、自動的に振り込まざるえない。


振り込みを避けて「おりる」という戦術があるが、自分が「听牌」すればこれは出来ない。またフリテンもないから、アガリを制約する条件も緩くなる。必然的に誰かがアガル確率が高くなるので、「流局」自体が少なくなる。
”荘”という概念が無く、時間が許す限り延々を麻将が続くのであるが、一局はものの数分で終わる。おそらく四十局以上はやったと思うが、流局はわずか二局ほどであった。

随州麻将
ゲームの速度が速く、流局が少ないという事は、ある意味効率が良いともいえる。少額紙幣を賭けるなら、なおさらその利点は感ぜられるのだろう。とはいえ、麻将自体が時間の無駄、と見る向きもあるであろうけれど...........

昼の宴席で少し入った白酒のせいか、頭に薄く霧がかかって、ルールを飲み込みながらなんとか役を作ってゆくので精一杯である。時折、三女と四女が背後から覗き込んで助言してくれる。またアガッて一局休みになった媽媽や姐姐も参謀についてくれる。それでなんとかアガれるようになったものの、まったくもって自身の実力ではない。
結論から言えば、媽媽が一番強い。対面の爸爸も本来なかなかの腕前のはずだが、小生と同様昼間の白酒のせいでどうも精彩を欠いた雰囲気である。姐姐はこの日はツキが無かったようである。少しイライラしてきたのか、ため息をついたり、牌を場に捨てる音が高くなってくる。媽媽はマイペース、淡々と勝ち続けている。


結果的には、終盤、大きな役を作って連続でアガッた小生が二番目だったのだが、これはもちろんそれまでの軍師達の献策によるところが大きく、一種の”接待麻将”といえなくもない.......誤解の無いように付け加えるならば、点棒の代わりに使われた小額紙幣はすべてこの家で支給されたもので、ゲーム終了後は回収、である。

 

麻雀は運のゲームであるが、随州麻雀のように字牌を減らされると、場の流れを読んだ数牌の組み合わせのセンスが勝敗の大きな部分を占めるため、運よりも技術の要素が大きくなるような印象である。無論、実力が伯仲した面子で卓を囲めば、運のはからうところが大きくなるのだろう。

 

大陸では各地から猛者が集う、競技麻将の大会がある。競技麻将の場合、役の難易度は問題ではなく、如何に早くアガるかを勝負するのだという。つまりいくら点数の高い、難易度の高い役で上がっても、それはあまり加点対象にならないという事だ。しかし、麻将というゲームの本質を考えた場合、最高の戦略は、どんなに安い役であっても誰よりも早く自分がアガる事であるから、競技麻将の採点法は理に適っていると言える。

 

今回は120牌の随州オリジナル麻将を経験したが、84牌のルールはよりスピーディな進行が予想される。滅多に成立しない難易度の高い役をつくれなくする代わりに、ゲームの回転速度が確実に上がるはずである。
難易度の高い役をつくって一発逆転が狙えるところに”マージャン”のロマンを求めるか、日々の現実的な小銭稼ぎのために”マージャン”をやるのか?という価値観の違いがあるのかもしれない。


日本でもかつて学生麻雀が盛んであった。徹夜の麻雀など、若いから出来るのである。しかし若者が麻雀で青春を浪費するのはいかがなものか?というところだが、大陸では引退したお年寄りが長い老後を麻将を打ちながら過ごすのである。
なるほど、慣れで打つとはいえ若干の頭の体操にはなるであろうし、手でもって巨大な牌を動かすのは、脳の刺激にもなるだろう。若干人数が集まるので、孤独になることもない。「あれ、今日は来ないねえ。」くらいの話にはなるだろう。
大陸では認知症のお年寄りをあまり聞かないのは、ひとつには麻将の効用もあるのではないだろうか。
そういう意味では、超高齢化社会を迎えた日本でも、ふたたび麻雀の活用を見直してもいいのかもしれない。

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朱自清「冬天」の湯豆腐

揚州の治春茶社の近くでは、骨董や玉石や水石、盆栽や観賞魚の市が開かれている。鳥かごを売る老人、古銭を売る初老の男.......実にいろいろな商品が集まってくるのであるが、こういった市で扱われる玉石や骨董の類に良い物はない。ふとみると、路傍で淡水真珠を売る男が真珠貝を地面に並べている。
揚州
とある古本屋の屋台で「朱自清散文全編」(浙江文芸出版社)が目に留まった。何気なく手に取って開いていると、眼鏡をかけた、意外に若い店主が顔をあげて「10元でいいよ。」と言う。かなりの厚さで、少し荷物になるが買う事にした。店主は気のせいか嬉しそうに本を紙に包んで、名刺も渡してくれたのである。10元ほどの売り上げがどうということではなく、外国人が揚州が誇る朱自清先生の本を手に取ったからであろうか。もとは23元の古書が10元で高いか安いか、という事もあるが、5元やそこらではいくらんでも朱自清先生に失礼、ということかもしれない。ともあれ揚州人には本好きが多いようで好ましい。
鎮江から上海へ帰る高速鉄道の車内で、ふとこの「散文全集」をめくってみる。なかに「新華書局 顧高」という蔵書印があり、文中に時折書き込みも見られる。パラパラと目を通していると、「冬天」という文の冒頭、「豆腐」の文字がある。

说起冬天、忽然想到豆腐。是“小洋锅”(铝锅)白煮豆腐,热腾腾的。水滚着,象好些鱼眼睛,一小块一小块豆腐养在里面,嫩而滑,仿佛反穿的白狐大衣。
锅在“洋炉子”,(煤油不打气炉)上,和炉子都熏得乌乌遏け显出豆腐的白。这是晚上,屋子老了,虽点着“洋灯”,也还是阴暗。围着桌子坐的是父亲跟我们哥儿三个。
“洋炉子”太高了,父亲得常常站起来,微微地仰着脸,觑着眼睛,从氤氲的热气里伸进筷子,夹起豆腐,一一地放在我们的酱油碟里。
我们有时也自己动手,但炉子实在太高了,总还是坐享其成的多。这并不是吃饭只是玩儿。父亲说晚上冷,吃了大家暖和些。我们都喜欢这种白水豆腐、一上桌就眼巴巴望着那锅,等着那热气,等着热气里从父亲筷子上掉下来的豆腐。


(以下略)

 
(大意)
冬の日といえば、忽然と豆腐のことを思い起いだす。それは小さな西洋鍋(アルミ鍋)で湯で煮ただけの豆腐で、ふつふつと熱い。あぶくがちょっと魚の目玉のように煮えたぎっているところに、ひとつひとつ小さくきった豆腐があつらえてあり、それは柔らかくなめらかで、まるで白狐のオーバーを裏返しに羽織ったようである。鍋は”西洋コンロ(空気を送り込まなくていいコンロ)”の上にあり、コンロはすっかりまっくろにいぶされていて、それが豆腐の白さを際立たせているのであった。
そのような晩、家はふるびていたから、西洋ランプをつけてはいるが、それでも陰ったように暗かった。円卓を囲んで座っているのは父親と我々兄弟三人である。西洋コンロは(位置が)高すぎたので、父親はときどき立ち上がり、すこし顔をあげて目を細めながら、たちこめた湯気の中に箸をいれ、豆腐を挟むとひとつひとつ、我々の醤油を入れた小皿にいれてくれた。我々もときには自分で手を動かすことがあるが、じっさいにコンロはとても高いところにあったので、いつもこのようにして座ったまま、出来上がったものをもらうほうが多かった。これは食事というようなものではなく、まったくの遊びなのである。父親は寒い夜だから、これを食べてみんなで暖まろう、と言うのであった。我々はみなこのような”白水豆腐”が大好きで、テーブルにつきながら鍋をみつめて、熱気の中で父の箸から落とされる豆腐をまちわびているのだった。
揚州
「白煮豆腐」とあるが........これはどう考えても、日本の湯豆腐の事ではないだろうか。現代中国では知る限り、豆腐を湯で煮て、生醤油につけてたべるような料理が無い。かつて豆腐が大陸から日本に伝来したことを考えると不思議であるが、すくなくとも現代中国の人は湯豆腐は日本の料理だと思っているのである。”火鍋”の具材として豆腐は用いられるが、あくまでスープの中で具材として煮られるのである。もっとも一般的な食べ方は、肉や野菜と共に炒めた”家常豆腐”である。朱自清先生の小さな頃、民国時代もこの”湯豆腐”のような料理が庶民の家庭で一般的に行われていたかどうか。


朱自清先生にしても、そもそもこういった豆腐の食べ方が、当時の中国でもありふれたものではないからこそ印象に残り、文章にしたのであろう。西洋鍋や西洋コンロを持ち出しているところからも、やはり少し特別な行事であった事が伺える。別の機会には、朱家でも”火鍋”をやることはあったのだろうし、そうした場合に椅子から立ち上がらないと鍋の内側に箸が届かないような、背の高い西洋コンロを卓上に置いたとは考えにくい。通常の火鍋であれば、練炭を燃やす七輪と、”砂鍋”、すなわち土鍋を使ったのではないだろうか。こうした道具は今でも庶民の家庭や飲食店よく見られるものである。しかしちょっとしたおやつがわりの料理に、七輪の火を起こすのは大袈裟であるから、察するにサッと点火して火が起こせる、西洋式の卓上コンロを使ったのかもしれない。
 
この文を読んでふと、揚州の朱自清故居に展示されていた朱自清先生のノートに、明らかに日本語で記述されていた箇所が認められることを思い出した。朱自清先生は英国へ留学しているが、日本へ留学した経験はない。しかしどこかで日本語や日本の文化に触れる機会があったのかもしれない。
かつて東西交通の大動脈である揚子江、それに南北をつらぬく大運河が交わる、大陸の水上交通と物流の大要衝であった揚州も、清末に上海や広東が開港して以来、徐々に経済的な地位が後退して行った。それでも揚州には相当量の海外の文化文物が入ってきた形跡があり、古都でありながら、どことなく”ハイカラ”な雰囲気も感ぜられるところがある。
揚州
「冬天」に出てくるアルミの西洋鍋であるが、大陸でアルミニウムの精錬工場が建設されるのは、1950年代を待たなければならない。朱自清先生の家にあったこのアルミの西洋鍋は、文字通りの輸入品であろう。西洋鍋や西式コンロが出てくるあたり、やはりかつては読書人家庭としてそれなりの経済力があったことを伺わせる。


朱自清先生が揚州で過ごした幼いころ、父親が一時失職し、母親は病身で家計は困窮していた。部屋が暗い、というのも照明の節約のためであろう。父親としては、寒い冬の夜に廉価な豆腐をつかった、子供たちのためのちょっとしたレクレーションだったのだろう。
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はがれたタイルと空中茶席

上海の朋友のD君が、新しいオフィスを買ったので見に来ませんか、という。案内されたビルは、大陸の開発区によくある”オフィスマンション”で、住居と事務所を兼ねられる物件である。賃貸もあるが、D君は家賃が年々騰がる情勢だからと、思い切って一括でオフィスを購入したのだそうだ。
経営者であるD君の執務室には、お茶を出す用具一式がおかれている。大陸の会社で、応接室や社長室にちょっとした茶道具がおかれているのは、広東・福建を中心に広まった習慣なのだが、一般家庭にも普及している。十年ほど前からだろうか、茶席で湯を沸かすのに日本の”鉄瓶”が目を付けられるようになる。それで一時鉄瓶が高騰していたのだが、いったんブームが下火になったと思ったら、ここ2年ほどで再燃し、高値が続いているという有様である。
D君のオフィスでは、このビルのガラス壁の際際に茶席があるのだが、ちょうど米国某大手自動車会社の開発センターを眼下に見下ろす恰好になる。ガラス一枚を隔てて地上十八階の高さである。ちょっとした空中茶席とでもいうべきか。依然として開発が続く浦東新区の光景が遠望できる。

日本のビルなどではガラス窓の手前に、書院で言う”甲板”のような、ある程度の高さと幅のスペースが設けられている場合が多いが、そうすると自然とガラス壁に接するには”甲板”に座る格好になる。
ところが大陸のビルなどではガラス壁の際まで床が続いていることがままあり、立った姿勢でぴったりとガラス壁に張り付く恰好になる。それで下を見下ろすとなかなかの高度感が味わえるのであるが、何かの拍子にガラス壁がバラッと外れてしまえば、真っ逆さまである。そういう事は無いと思いたいが、そのように思いたくなるような、何か不確かな感じがするものなのである。
D君はこのオフィスマンションから少し離れた、これもまた別のオフィスマンションを住居用に借りて住んでいる。1階と2階があり、総面積は百平米ほどである。購入したオフィスと同じくらいの広さなのであるが、自宅のこちらは賃貸である。この部屋にも幾度となくお邪魔しているのであるが、今回の訪問時、エレベーターの前の共有スペースが何やら工事中のような恰好である。特定の階だけではなく、すべての階、エレベーターを出たすぐのスペースが同じような恰好である。どうも、壁面のタイルを修理しているような雰囲気である。
D君に聞くと、

 
「たぶん、タイルがはがれて怪我人が出たので、修理するんでしょう。」


「え、怪我人が出たの!?」


「おそらく。怪我人が出なかったら、わざわざ修理しませんよ。」


「............。」


「ケガする人が出るくらいで初めて管理会社が動くという....」
 
スペースの隅には、すでにはがしたものなのか、タイルが重ねて立てかけられている。一辺50センチほど厚さ8ミリほどの磁器製のタイルであるが、手に取るとかなり重い。これがあるとき剥離して頭上から落下して来たら、場合によってはひどい事になりそうである。
ちなみにこの物件が建てられたのは6年ほど前である。築10年していない建物でこの......そもそも手抜きだったのだろうか.......劣化の仕方は、信じられないが事実なのである。
こういう物件を仮に購入しても、将来的な必要な補修費用については、見えない部分がかなりある。一応、管理費も徴収されているが、それでおさまらない費用が発生した時にどうなるのか。D君はいずれ手狭になって売却するであろうオフィスの方は購入したが、長く住む部屋はとても買う気になれないという。それはそいういうものかもしれない。
最近、大陸の高いビルのエレベーターに乗るのが若干怖い。D君の住んでいるマンションのエレベーターも、時折あやしい挙動をする。止まるはずの階をパスしたり、止まったものの扉が開かずにそのまま上昇していったり、という事が何度かあったが、人生において、二度ほどエレベーターに閉じ込められた経験があるだけに少々緊張する。
マンションの管理費の中でも、大きな部分を占めるのがエレベータのメンテナンス費であるが、果たして大陸のエレベーターはキチンとメンテナンスされているのかどうか?疑い始めるときりがない。街中でも、エレベーターやエスカレーターはかなりの頻度で修理作業中で使えなかったり、未修理のため停止されている、というような場面に出くわすのである。駅のコンコースなどでも、エスカレーターが設置されていながら動かしていない、と言うようなことも普通である。
ビジネスホテルのエレベーターなどでは、昇降するたびに「バスン、バシン、バスン」と大きな音を立てている事がある。おそらく昇降制御をリレー回路でやっている音であろうし、それならそれで接点寿命とか、ちゃんと考えているのかどうか?一抹の不安を覚えるものである。
なんにせよ、故障してから初めて修理を考える、という傾向があるのは否めない。問題は起きてから対処するもので、何もないのに「何か起こるかもしれない」と考えるのは、”神経病(シンジンピン)”というありがたくないレッテルを貼られかねない。D君は日本のメーカーで働いた経験もあり、技術者でもあるので、仕事柄潜在的な問題点に注意を払う傾向にあるが、そうした人は大陸にあっては確かにかなり少数派なのでは?という印象がある。


実際、日常のこまかい点まで問題意識を持っていたらここでは生きていけない、というのこともある。それは建物に限らず、政治や経済にいたるまで同様かもしれない。そう、政治も経済も、支障が出てから考えればいいのである。これが結局、問題は露呈さえしなければいい、という発想にも関係していると考えられる。それはこの国のテクノクラートが、その優秀と言われる頭脳を問題解決に振り向けているようでいて、たんにエクスキューズの作文に勤しんでいるだけという事が往々にしてある、という事ともつながるのかもしれない。
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上海タクシーと携帯決済事情

半年ぶりの上海滞在である。今回は上海の朋友と行動する事が多かったのであるが、会社を経営しながらも車を持たないD君との行動は、以前はタクシーを多用していたものである。それが今回からは、インターネット+携帯電話を利用した配車サービス、いわゆる”uber”がもっぱらとなった。
この”uber”、日本では”ユーバー”などと音訳されるが、大陸では”ユーボー”というように発音する。日本でも一部利用されているが、この”uber”はいろいろな配車サービスシステムの総称なのである。

日本の”ユーバー”では現在のところ、既存のタクシー、ハイヤーの配車サービスのみが利用されている。”uber”を特徴づけるサービスとしては、一般人が自家用車を使って客運を行う、いわゆる”uberX”がある。しかしこれは福岡で実験的に実施されたが、国交省の行政指導で中止になったと聞いている。上海をはじめとする大陸の大都市ではこの”UberX”が実施されており、盛んに利用されているのである。
2016上海
D君曰く、今はタクシーは滅多に使わず、もっぱらUberを利用しているのだという。上海のタクシーの初乗り運賃は年々上昇し、今では16元(1元≒17円)である。夜間では18元にもなる。D君が住む浦東のエリアでは、最寄りの地下鉄駅まで30分ほど乗ると35元前後になる。これが同じ距離をUberを使うと、たったの15元くらいなのである。利用する理由のひとつがまず安い事である。
やや難点としては、車が見つかり、現れるまで暫時待たされることがある。しかしつかまりにくいタクシーを待つ事を考えると、欠点と言うほどの事はないかもしれない。ユーボーではアプリによって車が今現在、地図上でどのくらいの距離におり、どれくらいの所要時間でこちらに到着するかが表示される。なので雨の日になかなかつかまらないタクシーを路上で待つより、お店の中などで待つことも出来るので、便利なくらいである。
また支払いもネットで決済されるため、下車の際に小銭を出し入れしたり、レシートの印字を待つ必要もない。GPSで車の移動距離が算出され、ユーザーのネット口座から決済されるのである。運転手側にも、オンラインで運賃が支払われる。これは目的地に着けばすぐに車を下りれるので、非常にスマートである。レシートを遅いプリンターで印字されるのを待つもどかしさもない。課金の仕組みは運転手の方では操作できないので、料金をごまかされることもないし、メーターを倒さないで法外な料金を要求されることもない。
またユーボーのサービスに従事している側というのは、上海にあっても自家用車を持てるだけの所得層なので、比較的裕福な人々なのである。かつ時間と行動に余裕があるというのは、ビジネスオーナーや、経営幹部クラスに多い。なので使う車も良い車であるし、自分の車なので手入れもよく行き届いている。
2016上海
事実、D君は”テスラ”でユーボーをしている車に乗ったこともあるそうだ。彼らは生活の為と言うよりも、レクレーションとしてユーボーをしている。実施したサービスの質量によってユーボーから報酬が支払われるが、金銭目的と言うよりも、一種のゲーム感覚なのである。D君も若くして小規模ながら会社を経営しているので、ユーボーを利用すると、運転手との会話が時に有益なのだという。
ユーボーは利用者が運転手を評価すると同時に、運転手が顧客を評価する、相互評価システムになっている。なのでおかしな車も利用者も排除される仕組みになっているので、互いに安心でもあるというわけだ。

しかし上海のタクシー会社やタクシーの運転手にとっては、まさに商売あがったりな状況なのである。実際、ユーボーによる収入は月に2万元に達することもあるという。ガソリン代、車の維持費を除いても、月に5千元、高くて8千元程度のタクシーの運転手よりはずっと良いのだそうだ。なのでタクシーの運転手の中でも、タクシーを辞めてユーボーを始める者も増えてきているという。とはいえ、上海で新たに自家用車を取得するのは容易ではない。車両の購入はもとより、車のナンバープレートは抽選制で、毎月応募者の3%程度しか支給されないのである.........上海市内を移動してると、高架道路上で、なんとナンバープレートの無い車が走っているのだ。
これを同行していたD君に言うと、
2016上海
「ああ、あれはですね、上海以外の車かもしれません。上海市内へは他所からの車が入るのが制限されているので。あるいは、車を買ったけれど、ナンバーがまだ取得出来ていないのかもしれません。」
「え、ナンバー無しで走っても大丈夫なの?」
「まえは3か月まで大丈夫でしたが、それでは問題になって。」
「だろうね。」
「それで、今は半年の間、大丈夫になりました。」
「........。」

というくらい、上海で新たに自家用車を持つのは難しいのである。

ユーボーは、今や大陸のほとんどの大都市で実施されているという。地方都市、たとえば黄山市などはまだ無い。しかし今回、揚州でもユーボーを利用することが出来た。
ユーボーの普及で、気のせいか街を走るタクシーの数は減ったような気もする。ユーボーのアプリを利用できる現地の人には良いかもしれないが、外国人や年配の人は難儀なことになるかもしれない。

ユーボーが普及した背景には、そもそも既存のタクシーが足りていないという、大陸特有の事情があるだろう。杭州などは、タクシーが少ない上に配車アプリで現地の人が利用するので、外来の人がなかなかタクシーを拾えない状況があった。
タクシーが足りていないので、結局白タクが横行することになるのだが、これら白タクは実のところ質の悪い者が多い。もともとタクシー不足であるから、値交渉しようにも、強気なのである。
なのでユーボーの普及は、既存のタクシーを駆逐する以前に、これら悪質な白タク業者を一掃することに効果があるかもしれない。白タクを営む者でも、比較的良心的にやっていた者もいたのであるが、彼等などはユーボーに転向すればいいのである。しかし白タクの中には、公用車や社用車を”ムニャムニャ”して流用していた輩も少なくなかったのであるが、こういった怪しい車は登録出来ないので排除されるだろう。ユーボーのシステムは、運転手側にとっても、利用者を探す手間が省けるので効率が良いのである。

このようなユーボーの利用は、規制の厳しい日本ではなかなか実現が難しいかもしれない。交通の便が良く、タクシーの台数も確保されている日本の大都市では、タクシーが足りないという事もない。もっとも、料金が同じ距離でタクシーの半額程度になれば、利用者はそちらに流れるだろう。
上海などにおいては、ユーボーの普及と利用によって既存のタクシー業界が圧迫されるのだとすれば、それは単純な価格競争だけではなく、安価で良いサービスを提供可能とする、ユーボーのシステムが優れている、という事になるだろう。いうなれば従来のタクシー会社の経営システムと、ユーボーのシステムの優劣の競争なのである。タクシー会社が生き残るには、ユーボー以上の経営システムを開発するよりないのである。
そういう点で、日本のタクシー会社の経営も、システムの見直しを考えても良い時期に来ているのかもしれない。日本のタクシー会社の経営も、タクシー運転手の収入の状況も、良いという話を聞かない。また利用者にとっても、タクシー料金は安価とはいえない。とすれば、何かが時代に合わなくなってきているのかもしれない。規制の是非以前に、システムの良否を考え直すことはできるだろう。
とはいえ大陸においてユーボーが普及している背景には、既存のタクシーの数が足りておらずかつ白タクの質が悪かった、という事情が下敷きになっているという事はいえるだろう。急激な都市化と住宅の高層化による超過密に、公共交通機関の普及がまったく追いついていないのである。なので公共交通機関が便利で、かつタクシーが余り気味の日本で、そのまま一般人による客運が普及するというものではないのかもしれない。

少なくとも上海のユーボーは、利用者にも提供者にも都合の良いシステムになっているように、今のところは見える。くだんのD君などは、ユーボーがあるので自分で車を購入する必要を感じなくなった、と言っている。

もうひとつ、食事の時の支払いである。これも今や、スマートフォンのアプリで済ませてしまえるのである。これは昨年の後半に深圳で食事をしたときに経験したが、それはオフィスビルの中の飲食店などの特殊な環境だけなのであるかと思っていたが、どうもそうではない。
このスマートフォン決済のおかげで、こちらが払おうと思っても、なかなか払わせてもらえない状況に今回はなってしまっている。前はトイレに行くときに払ってしまうなどの手が使えたのであるが、注文してほどなくすると決済が済んでしまうようなのであるから敵わない。対抗しようと思えば、こちらも現地対応のスマートフォンを購入して、決済システムに登録するよりないのだが........
この決済システムは、店側が対応していないと使えないのであるが、こういうシステムはカード決済などと同じで、ある程度の規模の飲食店しか扱っていないのだろうと、その時は考えた。
ところが、場末の冒菜屋や餛飩屋や麻辣湯屋のような、一回の支払いがせいぜい十数元くらいの店でも、このような決済が使えると聞いていささか驚いた。しかしD君曰く、まさにこうした零細な店ほど、このようなシステムへの加入に積極的なのだそうだ。それは、ネットを仲介した決済であると、顧客と現金のやり取りの必要がなくなる。店に現金小銭を置いておく必要が無い。オーナーとしては、盗難や、従業員による誤魔化しにも合わない。そして、これも大陸特有の事情であるが、偽札を受け取るリスクもなくなる、と言うのである。
2016上海
偽札の蔓延は、密かに深刻な事態である。かつては高額紙幣の100元札が多かったが、いまや50元から20元、10元や5元の偽札も横行しているのだという。少額の買い物で100元札の偽札で支払い、露店の店主などから釣銭をだまし取るような手口が昔からあったのであるが、それが20元や10元にまで下ってきているのである。1元玉にいたっては、もう真贋混交で流通してしまっているような状況なのだそうだ。
日本であれば自動券売機を導入するところであるが、大陸の紙幣貨幣事情に対応するのは難しいだろう。また結構な費用がかかる。携帯によるネット決済の導入は、店側も口座を持っていればいいだけなので、導入コストは低い。支払う側は手数料は無料である。
日本でもプリペイドカードや、携帯による決済が普及してきているが、上海など大陸の大都市では現れたと思ったら、爆発的に広がり、あっという間に末端まで浸透している。それは現金による支払いにまつわる大陸特有のリスクを解消してくれる、というのが大きな理由なのだろうが、新しい習慣に対する抵抗感があまりない、というような雰囲気も感ぜられるところである。

それにしても、タクシーに乗るにしても朋友が”ユーボー”で呼んでサッサと決済してしまうので、一緒に行動しているとこちらは払ってもらう一方である。どこらへんでバランスを取ろうかと言うのは、これもあらたな悩みなのであった。

ともあれ、毎度毎度、大陸の経済環境の変化は激しすぎて、たまに来る異邦人などはとてもついていけない。上海でも若い人は良いが、年配の人などは困惑することも多いだろう。社会主義の巨大な残滓のような超不効率な国営企業がいつまでも残っているかとおもえば、新興の超効率的な資本主義そのもののようなシステムも、大都市圏ではあっという間に普及する。このあたりは何につけても動きが遅くなった日本から見れば、無視できないところである。まったくもって不思議な国なのであるが、こと「お金」に関する限り、現代中国人は超合理的なのである、ということは言えるかもしれない。
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