立夏の焼餅

立夏吃麺徽州のとある農村の朋友の実家を訪ねた時のこと。部屋にはいると、刻んだ韮のにおいが強烈に漂ってくる........徽州古鎮のその伝統的な家屋の厨房では、朋友の御母堂がせっせと粉をこねている。餃子をつくっているのかな?と思ったら、焼餅(シャオ・ピン)なのであった。焼餅は具材を皮で丸く包み、それを平らな円盤状に伸ばして作られる。というわけで、その日の昼食は菜種油の香りも香ばしい、きれいに焼かれた二種類の焼餅が出てきたのである。
立夏吃麺立夏吃麺焼餅より一回り小さな皿に載った焼餅は、焼き鍋から取り出したばかり、手で持つと火傷しかねまじき熱さである。熱くて手で触れないので箸をもらったが、地元の人は箸も使わず片手でささえた皿にのせたまま、端の方から少しづつずらしながらかじってゆくのである。
ひとつは炒った鶏卵と韮、干豆腐(豆腐を押し固めて水分を抜いたもの)、筍、それにひいた鶏肉が入ったもの。材料は極々細かく刻まれている。無論、材料はすべてこの家の畑や庭で採れたものであり、新鮮な鶏卵と鶏肉に、柔らかい韮の風味が効いている。細かく刻まれた干豆腐と筍(マダケ)の食感も小気味良い。
もうひとつは「香椿」という、椿の新芽にやはり鶏肉を引いたものがはいったものである。口に含むと、かすかにほろ苦いお茶の香りを感じるのは、椿も茶樹も同じ仲間だからであろうか。口の中がさわやかになる。手のひらの大きさ程もある焼餅は、二枚も食べればそれでお腹はいっぱいである。
「もっと食べないか?」と勧められるので、もう半分だけ同行の朋友とシェアしておしまいにする。無論、食べきってしまえば、また次々に出てくるのである。
立夏吃麺大陸では来客に水餃子など、小麦粉を使った点心を出す習慣があるが、あるいはそういう意味なのか?と思ったのであるが、そうではなく、これは節句の習慣なのである。
すなわち過日5月6日は二十四節句の立夏であったのだが、立夏には餃子や焼餅など、小麦粉を使った点心を作って食べる習慣がある。日本語における「麺(メン)」とやや異なり、中国では小麦粉が練られたものは餃子や拉麺などもすべて「麺」で総称される。これは「立夏吃麺」、すなわち立夏の日に「麺」を食べる習俗なのである。
立夏吃麺上海の朋友に聞くと、上海などでは立夏には鶏卵を煮て食べるのだそうだ。小麦粉を使った「麺」を食べるのは、どちらかと言えば北方の習俗であるという。それは立夏の前に「麦秋」つまり麦が熟し、収穫の時期を迎えるからであるという。収穫後の豊富な麦を使って「麺」を食べ、豊作を言祝ぐ、という意味合いもあるそうだ。また北方に於いては必ずしも餃子や焼餅ではなく、拉麺のような文字通りの「麺」を食べるところも多いという。徽州のこの村で「吃麺」をするのは、あるいはこの村の祖先が北方から南遷してきたという名残りなのかも知れない。
立夏吃麺鶏卵を使うのは南方に多い習俗であるというが、察するに、鶏卵を食べるのも、一般的に鶏卵は春が旬とされるからではないだろうか。卵など年中ある現代であるが、本来の旬は繁殖期である春である。徽州のこの焼餅にも、豊富に鶏卵が使われている。
鶏卵にせよ「麺」にせよ、養生法の観点から言えば、夏に備えて体を壮健にする、という意味あいになるという。

ともあれ、徽州の古鎮で思いがけず「立夏吃麺」を経験する機会を得たわけである。二つの焼餅の味は忘れがたいものになりそうだ。
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徽州の搾油工場

中国の国営テレビ局CCTVが製作する「舌尖上的中国」という、大陸の食文化に関するドキュメンタリー番組がある。綺麗な映像と構成で、誰にとっても関心のある”食”がテーマということで、なかなかの人気を誇っているという。時折視聴している。

その”第二季”の「之心伝」という回に、徽州の油絞り工場が登場する。(ちょっと検索すると映像を観ることが出来るので、興味のある方はご覧いただければと思う。)

その回の映像に映し出されている製油法は、みるからにに古式ゆかしいものである。まず焙煎した菜種の黒い粒を、円盤状の鉄環をはめた”ワッパ”に詰めてゆく。ちょうど富山の鱒の寿司のようなその円盤を、横倒しにして太い丸太の締め木にはめ込んでゆく。そして円盤の列の最後尾にクサビを入れ、天井から皮紐でつるされた巨大な石鎚を何回もぶつけて打ち込んでゆくのである。クサビによって重ねられた円盤に高い圧力がかかり、油が搾られるというわけである。

このクサビを打ち込む”石鎚”は、頑丈な皮紐でぶら下げられた巨大な石塊である。職人は寺の鐘をつくように石塊を大きくひっぱりあげ、振り子の反動に人力による加速をつけ、クサビの頭に”石鎚”をぶつけるのである。映像の中では半裸の男が渾身の力を込め、陸上競技選手のような瞬発をもって石の塊を打ち込んでいる。搾油は菜種が収穫できる秋以降の作業だというが、汗みずくである。かなりの重労働であることが察せられる。
ところでこの「舌尖上的中国」であるが、ドキュメンタリーといいつつも、制作上の意図をもって映像を作り込んでいる事が時々あると言われる。世上のいわゆるドキュメンタリー番組などというのは、そういうものかもしれない。映像に関心を抱きつつも、現代においても現実にこのような搾油が行われているかどうか、半信半疑であった。

この搾油の手法はどこかで見た記憶がある........「天工開物」だ。
明末清初の学者、宋応星によって書かれた「天工開物」という書物がある。「天工開物」には朱墨や油烟墨、松烟墨の製法について書かれた章があり、古代の製墨法の知るうえでの基礎的な資料のひとつなのである。日本では東洋文庫に現代語訳されたものを読むことが出来る。

宋応星の生きた時代は、明朝の滅亡を経た激動の時代であった。兄の宋応升は明朝の滅亡に殉じて自殺し、宋応星自身も生涯清朝に仕える事を潔しとしなかったという。多数の著書があったと言われるが、反清思想が強烈、とのことから禁書とされ、そのほとんどが大陸では亡失してしまっていたものである。
「天工開物」は江戸時代の初期には日本に伝わっており、訓読本が出版され、江戸時代の知識人の間ではわりと広く読まれていた。平賀源内も愛読していたという。これが清朝が倒れて鎖国が解けた20世紀初頭、再び大陸の学者の目にとまり、再評価されるようになったという。宋応星の故郷の江西省奉新県には、宋応星を記念した公園が造られているそうだ。しかし「天工開物」の日本への伝来がなければ、宋応星の業績は忘れ去られたままだったかもしれない。

「天工開物」には、製墨の他にも製油について書かれた章がある。油烟墨の製造のためには、当然のことながら油脂の精製が先立つのであるから、この章も何度か読んでいた。「天工開物」は工学的な書物であるだけに、文章だけではなく図も付記されている。この「天工開物」に書かれている製油法と、「舌尖上的中国」の映像に現れているところのそれが”ほぼ”一緒なのである。
「舌尖上的中国」の中では「千年以上前からの製法」というナレーションが入っている。実際のところ千年前かどうかはともかく、「天工開物」に記載されていたという事は、すくなくとも四、五百年の歴史は優にあるとみていいだろう。しかしはたして現代でも、このような手間のかかる手法で油を製しているものであるか?と疑問に思ったのである。

「舌尖上的中国」に登場するその製油工場は、歙県に属する富堨村という村にあるという。場所を調べてみると、屯溪から績溪に至る途上、脇道に入った位置にある。そこで徽州滞在中、時間をみつけてその製油工場を訪ねてみることにした。想像するに、映像にあるような一式の設備はあるにはあるが、現代では使われておらず、もう少し近代的な設備で油を搾っていると考えたのである。

観光開発が進んでいる徽州にあって、富堨村は観光地でも何でもない。屯溪から績溪にいたる途上、岩寺鎮を過ぎて歙県に入る手前、左折して狭い路地に入り込んでいった田園地帯の中に位置する。いつも依頼している運転手は、およその場所を知っていた。村へ至るという農道は舗装されていない砂利道であるが、小生の物好きを知っている運転手は、こともなげにこの悪路に車輪を入れてゆく。
農道は狭く、途中、障害物を置いて大型車両の進入を妨げている箇所がある。小さな農村などで見られる光景であるが、道路を保護するためである。富堨村の中心地域の道路は舗装されてはいるものの、基礎工事がそれほど堅固ではない。地方都市にいけばトラックの荷重積載などは日常茶飯事であるから、そのような重量車両に蹂躙されてしまうと、せっかく舗装した道路が使い物にならなくなってしまうのである。インフラ投資の盛んな大陸であるが、地方の零細な農村においては、必ずしも資金が潤沢にあるというわけではなく、壊れてしまった道路の補修もままならないこともあるのだ。

村人に「油絞りの工場はどこか?」と聞くと、「あちらだ。」というようにすぐに答えてくれる。この小さな村に、油絞りの工場は一か所しかないのである。
工場に近づくと、何やら香ばしい匂いが漂ってくる。間違いなくここが「舌尖上的中国」に登場した工場であるという。
工場は操業中で、当然の事ながら仕事の最中である。しかし突然の訪問にも関わらず、快く見学を許してくれた。工場の従業員も....やはり「舌尖上的中国」に出てくる人達なのである。
徽州の搾油工場徽州の搾油工場徽州の搾油工場工場内に入ると、産業革命時代を思わせるような、大仕掛けな機械が忙しく動いている。床に敷き述べられた、黒色火薬を思わせる黒い砂のようなものは、焙煎された菜種なのであった。徽州の搾油工場この工場は間違いなく「舌尖上的中国」の工場なのであるが、せわしくうごいている蒸気機関のような機械を見て、やはり機械化されていたと一瞬思ったのであるが.......工場内の一角に、丸太を組み合わせた、長大な締め木が横たわっているではないか。これはまさに「舌尖上的中国」でみた、また「天工開物」の挿絵に描かれているような、あの締め木である。
徽州の搾油工場徽州の搾油工場天井からは皮紐で扁平の石塊がつりさげられていおり、牛の角のような二つの取っ手がついている。締め木に打ち込むクサビには、頑丈な鉄環がはめられている。この鉄環の役割についても、天工開物には記述があるが、衝撃によってクサビが裂ける事を防ぐためである。
徽州の搾油工場締め木の中には、搾油をおえた”ワッパ”のいくつかがはめ込まれたままであった。疑いようもなく、現代においてもこうした装置をつかった搾油が行われているのである。

もちろん、搾ったあとの”油かす”は良い肥料になる。徽州の搾油工場徽州の搾油工場菜種や胡麻を焙煎したり、搾油前に破砕する工程は半ば機械化されている。また一部の油は、木製の締め木ではなく鉄製の締め木で絞ると教えてくれた。
徽州の搾油工場徽州の搾油工場「舌尖上的中国」で登場して以来、やはりここを訪ねる人が稀にいるという。残念ながら、この時は油を搾る工程は観られなかった。急に訪問しておいて、仕事を邪魔してまで、打ち込む工程をいまここでやって見せてくれと言うのは頼めない。しかしこれらの設備を観る限り、現代においても「天工開物」ほぼそのままの方法で油を搾っている事は確認できた。原材料を焙煎したり、蒸したりする工程は多少機械化されているようだが、それにしても時代がかった設備である。
徽州の搾油工場徽州の搾油工場せっかく来たのであるから、この古代の搾油によった油を買う事にした。菜種油にごま油、それに大豆油を少々。
徽州の搾油工場菜種油は濃い褐色をしている。加熱するとじつに香ばしい匂いが漂う。この香りこそ、徽州の農村を訪ね歩いている時に昼時になると漂ってくる、まことに食欲を刺激する香りなのであった。普通の植物油で唐辛子を種ごと強く熱する時に似た香りであるが、徽州の農村も辣い料理が多いので、てっきり唐辛子を炒める香りであると考えていたのである。実は菜種油自体の香りなのであった。
徽州の搾油工場徽州の搾油工場ごま油は広い口の甕(かめ)にはいっている。口が広いのは、油を”枯らす”ためかもしれない。これも年季の入った鉄製のマスでもって量をはかってくれるのである。少し嘗めて見ると、口当たりよく甘く濃厚な味わいと、やわらかく上品な胡麻の香りがある。普通に市販されているごま油のような、鼻孔を直接刺激するような香気ではなく、口の中で広がる馥郁とした丸味のある香りである。ごま油特有のアクなどもまったく感じられない。
徽州の搾油工場現代の油の抽出法では、油分を融出させるために、有機溶剤を使用している。有機溶剤に油脂が溶出することで、油の収率が劇的に増えるのだという。有機溶剤と言っても食品添加物として認められており、あとで除去する工程があるという。しかし完全に取り除くことが出来るわけではなく、また取り除くために余計な工程が加わり、それが油の味わいや自然な風味を損なう、という話もある。また胡麻油に関していえば、色が黒く「胡麻」っぽい香りのするものは、胡麻の絞りかすを再度過熱して香りと色を付けているのだそうだ。
徽州の搾油工場菜種などの材料をつめた円盤状の”ワッパ”は”餅(ピン)”というのだそうだが、職人氏曰く「この”餅(ピン)”を上手に作るのがコツで、うまく作れるようになるまで三〜四年は経験が必要だ。」という。その事は実は「天工開物」にも記述がある。

「凡油原因氣取、有生於無出甑之時、包裹怠緩則水火郁蒸之氣遊走,為此損油。能者疾傾疾裹而疾箍之,得油之多。」
「油というものは気を取るものであり、無から生じるものである。(種子を蒸す)甑(こしき)から種子をとりだすとき,包み方がゆるければ蒸気がにげてしまい,この為に油(の量)を損なう。能くする者は疾(はや)く傾け疾(はやく)裹(つつ)み、また疾(はや)く箍(たが)をはめる、こうすることで多くの油を得るのである」

油を搾る材料を包む”餅”の作成には、今も昔も熟練を要するのである。
徽州の搾油工場徽州の搾油工場ここで精製しているのは、ごま油や大豆、菜種油のような食用の油である。製墨原料に使われる桐油は食用の油ではない。これはアブラギリという植物の種子から採るのだが、古代においてはここの製油法と同じような手法で搾油されていたのであろう。とすれば搾油の量も現代ほど大きなものではないはずで、油烟墨というものも、如何に贅沢な品であったかがうかがえるのである。

戦国時代、美濃の斎藤道三は油商人から身を起こしたという伝説がある。当時の日本で油は非常な貴重品で、油を燃やした”灯明”も、人が使う照明というよりも神仏に供えるものであったという。富堨村で千年前から基本的に変わっていない搾油法を目にすると、なるほど当時の日本で油が極めて貴重な品であったことが納得できる。
まして戦国時代の日本における搾油法は、臼ひとつに原料を詰め込んで圧搾するという原理で、一度に絞れる油の量はさらに少なかったはずである。
日本で油烟墨が造られるのは、菜種油の生産量が増える江戸時代を待たなければならない。しかし国産の油烟墨とて、一般庶民が日常の用途においそれと使う事が出来る品ではなかった。松烟墨なども上等な方で、一般的にはカマドや鍋、灯明などの煤を集めて回る業者がおり、そうした”回収カーボン”を利用した墨が造られていたのである。
明代後期から末期、少なからぬ量の徽州の墨が戦国末期〜江戸初期の日本に輸入されていた背景には、むろん徽州の油烟墨が優れていた事も理由であろう。しかしそもそも日本で油烟墨を造ることが、製造コストの面に合理的ではなかったという理由もありそうである。

このごま油は普通の油よりも当然ながらちょっと高い。なので「炒め物に使うのはもったいないよ」と言われた。野菜や豆腐製品を使った冷菜の香りづけに使うとよろしい、という事である。
日本に持ち帰って使ってみたところでは、冷奴にこの油をほんの少しだけ垂らして、そこに塩を少々振って食べるとすこぶる風味が良いものである。生野菜や、また焼いた肉に直接つけてもよろしい。塩とこれがあれば、複雑な調味料は不要と思える。
菜種油の方は、地元の朋友にもらった徽州の”咸肉(中華ハム)”を薄切りにしてこの油で炒め、そこへ大根の薄切りを加えて炒め合わせるなどして使ってみる。人によっては、菜種油の香りが強すぎると思う場合は、初めにまず油をよく過熱して、香りを少し飛ばしてから使うのだそうだ。

この時は、上海人のD君が同行していた。彼は今に至るまで、このような搾油法を知らなかったという。また屯溪で硯の店を営むC女史も同行していた。徽州は績渓県出身の彼女は、子供の頃はこのような工場があったが、現代もあるとは知らなかったという。二人とも結構な量の油を買って行った。
またこの徽州の製油場の写真を何人かの朋友に見せたのであるが、四川省は自貢出身のQ小姐は「実家の近くでは、ごま油は今でもこのように搾っているところがあります。」という。また湖北省出身の朋友も「うちの田舎では、菜種油をこうして搾っています。」という。なるほど、数は減ったりとはいえ、まだ地方にはこのような搾油法をとるところがあるのかもしれない。もっとも、このような製法で十数億人民の油の需要を満たせるはずがないから、大半は現代のより工業的な製法に依るのであろうが。

大陸の料理に油は欠かせないものであるが、必ずしも良い油を使っているとは限らない。農村地域へ行くと野菜を塩と油で炒めただけの単純な料理が供される事があるが、その美味しさは、上海や北京の街中の大きなレストランなどではちょっとお目にかからない。野菜の鮮度もさることながら、油にも決定的な違いがあったということだろう。
徽州の搾油工場近代的な搾油法に比べて、非常な手間暇を必要とするにも関わらず、また材料に比べて搾れる量が少ないにもかかわらず、何故現代に至るまでこのような製法が続いているかと言えば、それはやはり「美味しいから。」ではないだろうか。地中海圏の人は”オリーブオイル”の鮮度や品質に非常なこだわりがあるが、現代中国でも油の味わいや品質に注意を払う人々がいるのである。
なんでもかんでも近代的科学的工業的な手法が優れているというわけではない、これも一つの実例と言えるだろう。要は”価値観”なのである。硯で墨を磨る手間を惜しんで安易に墨汁をつかうかどうか?ということとも軌を一にしている問題であるといえるかもしれない。
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胖子包店

安徽省黄山市の中心区、屯溪の”老街”の朝食といえば、餛飩(わんたん)か肉まん、お粥、豆乳などがある。これらは屯溪に限らず、江南ではごく普通の朝食で主食にする品々である。こうした軽食を供する店は、街のところどころにある。
屯溪滞在中、ビジネスホテルに泊まれば朝食はないし、朝食付きの国営ホテルは味がどうもいまひとつなので、朝食は外に食べに行くことが多い。ホテルの朝食ビュッフェは品数はあるものの、つくり置いて時間がたっている。やはり餛飩や肉まん(に限らないが)は、出来たばかりが美味しいのである。
肉まんは普通”肉包(ロー・パオ)”という。あるいは蒸した”まんじゅう(饅頭)”を総称して”包子”ともいうが、指し示すところは大抵は肉包のことである。野菜だけはいった”包子”は”菜包(ツァイ・パオ)”という。小麦を使った包子は、米が主食である南方では主に朝食か、昼間の軽食に食べるものである。

墨工場や硯職人の住む村へ行く際、屯溪を早立ちの朝などに、地元の朋友が朝食用に時々持って来てくれる、まことに美味しい肉包があった。ビニールに無造作に放り込んで持ってくるのだが、用心しないと肉汁があふれて手がべとべとになってしまう。この肉包は絶品で、屯溪の他のどの店よりも断然美味しいのであったが、いつもどこで買うか聞き忘れていた。
前回の滞在中、久しぶりにこの肉包を食べたくなったので、場所を聞いてみた......それは老街に沿った延安路、昔よく宿泊した華山賓館の近くにあったのである。
胖子包子店その名も「胖子包店」という。この名を見れば、中国の人なら大抵はクスッと笑うであろうし、意味は明瞭である。「胖子」というのは、「ふとった人」というほどの意味であり、直訳すれば「ふとっちょを(が)包む店」ということになる。といっても、店で働いている夫婦はさほど「胖子」ではないのであるが..........あるいは肉がたっぷりつまっている、という意味か。ここの肉包があまりに美味しいので、食べ過ぎれば「胖子」になるよ、ということなのかもしれない。

屯溪に到着した日の夕方、小腹の空いた夕食前の時間に寄ってみたのだが、この店の道路を挟んだ反対側に小学校がある。子供たちの下校の時刻にあたっていて、迎えの親たちで付近の道路はかなり混雑していた。大陸の下校時刻の小学校前ではよく目にする光景である。
こうした小さな包子の店の繁忙のピークは朝と昼時で、夕方は少し落ち着いているのが普通である。むしろ夕方まで肉包を作り続けている店は、あまりないかもしれない。しかし「胖子包店」の店頭では、重ねられた大きな蒸籠から白い蒸気が立ち上っていた。店の前では、何人かが肉包が蒸しあがるのを待っている。大人もいれば、小銭を握りしめた子供もいる。

普通の店は、温かい肉包といっても、蒸籠で長い時間蒸し続けられている場合も多い。冷めているよりはマシであるが、蒸し過ぎた肉包というのは肉汁が既に皮に浸み込んでしまっており、やはり若干味が落ちるのは否めない。この「胖子包店」は蒸しあがるそばから売れてゆくのか、ちょっと待たされる代わりにいつも出来立てなのである。
胖子包子店胖子包子店何年使い込めばこのような形状になるのかわからないような、ひしゃげて鈍く光るアルマイトの皿の上に、小ぶりの蜜柑ぐらいの大きさの肉包が三つ。割ると武骨な皿の上に肉汁があふれ出す........薄目の皮の割に、肉がたっぷりと詰まっている。具は肉以外に野菜などは見当たらない。純粋に肉だけの旨みがつまっているのである。
日本の”肉まん”は皮が厚すぎるといつも思うのだが、大陸では安価な肉包ほど皮が厚いものだ。材料としては肉の方が高いのだから当たり前だが、ここの肉包は皮が薄く、肉餡が多い。試しに三個食べてみたのだが、あまりに美味しかったのでさらに二個お代わりした。
胖子包子店次の日の朝、いつも朝食を食べていた老街の店はやめて「胖子包店」で朝食をとることにした。朝なので活気があるが、みな通勤や通学の途中だからか、店内で食べてゆく人はあまりいない。
この店は肉包以外に餛飩(わんたん)も出しているので、肉包と餛飩を頼んだ。餛飩は屯溪の普通の味であるが、これもわるくない。
肉包の他には「菜包」もあり、写真に撮るのを忘れたが「菜包」も、やはり他では食べたことが無い、美味しい「菜包」であった。キャベツを炒めたものがぎっしりつまっているだけなのだが、野菜だけなのにこの充実感は一体何なのか。
胖子包子店江南にそれこそ包子店は星の数ほどあり、少なからぬ数の店で、それこそ無数の肉包を食べてきた。揚州の三丁包などの、茶館の特殊な点心と異る、シンプルな庶民的包子の中では、この店の肉包は出色の出来である。今まで食べてきた屯溪の店も美味しいと思っていたが、「胖子包店」を知ってしまうともう後戻りする気にはなれない。さすがは老街っ子の朋友が、子供のころから食べ続けている包子なのであった。
胖子包子店週末にかかった上海に戻る日の朝にも寄ったのだが、残念ながらまだ開いていなかった。平日は朝の早い時間からやっているが、土曜日は少し遅い時間に開くようだ。日曜日は休日。屯溪を訪れる日本人も今や少ないかもしれないが、身軽な旅であれば朝食にお勧めしたい店である。
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革命時代主題餐店

深圳は文房四寶に関してあまり用事は無いのだが、広東方面の一部の取引を中継してもらっている朋友がいるので、打ち合わせがてらに滞在することがある。正直なところ、大陸の文物や歴史文化を愛好する者にとっては、深圳という街は本当に観るべきものが無い。が、香港を起点とした広東行きでは必ず通過する都市でもあるので、ここ数年の間に何回か訪れている。
深圳といえば、改革開放の発祥地であり、工業化が進んでいる。日系のみならず海外資本、合弁の工場もたくさんある。外国人を多く見かけるのはもとより、広東にあっても広東人以外のいわゆる”外省人”の多い都市であり、広東語ではなく普通語(標準語)を耳にすることが多い。

昔から大陸は南北よりも東西の往来が盛んなのであるが、それは大河川の尽くが西から東に流れているためであると言われる。地勢的に東西の交通、物流の便が良いのである。そのためもあってか、深圳には湖北、湖南、四川、といった広東以西の省の人が多い。ここ深圳に住む小生の朋友も湖北省の人で、仮にS小姐としよう。S小姐は妹と、やはり湖北省出身の小姐と三人で一つの部屋を借りて住んでいる。
まだ若いが香港に会社を設立し、貿易関係の仕事をしている。小生の取引きの中継などは、ついでに過ぎない。妹がこれまたやり手で、電子製品の検査治具を請け負う会社を起こしてバリバリ働いている.......と、それはさておき、打ち合わせもそこそこに、姉妹と小生の三人で食事に行くことになった。後で姉妹の従弟と友達の男性二人が合流するのであるが、皆湖北の人である。
深圳に多いのが、湖北省、湖南省、四川省の人だけに、街には辛い料理の店を多く目にする。今回は最近できたばかりの店で、まだ行ったことが無い店に行こうという。それがここであった。
革命時代主題餐店「佬革命」の「佬」は成人男性の意味だが、「旦那」というニュアンスもある。特徴的な書体はもちろん毛沢東の筆跡からとっている。
最近、毛沢東時代への郷愁からか、革命時代をテーマにしたような格好の店が増えている。どうも”革命時代”というと、粗製乱造されている”抗日ドラマ”を想起してしまいがちである。しかし対国民党軍の”革命”と対帝国陸軍との”抗日”は、やはり時代の区切りとしては違うものである。むろん、日本人を連れて行っておどかしてやろうなんていう魂胆ではない。とはいうものの、仮に普通語が可能であっても、日本人だけではちょっと入りにくい雰囲気の店であるのは事実である。小生の”物好き”を知っているS小姐達の、これもひとつの”おはからい”というわけだ。

服務員.......最近では飲食店の従業員を気取って”美女”とか呼ぶものなのだが、この店はやはり”服務員”と呼ぶのがふさわしい.......彼女彼等はみな緑色の、革命時代の解放軍の軍服を着ている。
写真に撮り損ねたが、中には薄いグレーの軍服を着ている服務員もいた.......これはどうみても”国民党軍”の軍服である。聞けば、一番下っ端の服務員はこの服装なのだそうだ.......うーむ。どこかに帝国陸軍の恰好をした服務員がいたらどうしようかと思ったが、さすがにそういう事はないのだった。たぶん、”シャレ”で済むのは国民党軍までなのだろう。
革命時代主題餐店服が汚れない様に各自に”前掛け”が用意されているのだが、これもどことなく”革命色”である。刺繍されているのは......「广阔天地、大有作为(広々とした大地が、大いに貢献してくれる)」だな。
テーブルには.....ところどころ剥げたホーロー製のマグカップが置かれている。剥げているのは、わざとそう加工してあるので、革命戦士の日常を偲ばせるのである。
革命時代主題餐店革命時代主題餐店革命時代主題餐店このマグカップでビールを飲むのかと思えばそうではなく、これはお茶を入れる容器なのだった。ビールなどの酒類は....これは取り皿と思っていた、小型のすり鉢状の器なのであった。豪傑風にこの陶製の杯(さかずき)で飲む.....「同士諸君!乾杯!」の世界である。
革命時代主題餐店革命時代主題餐店軍服姿の服務員が席に来て、敬礼してから「ご注文を!」という。なかなか演出が細かい。注文の仕方は、火鍋の店によくある方式で、まずスープを選び、具材を選択する。ちなみにビールは”手投げ弾”という、やや物騒な呼称になっている。
革命時代主題餐店革命時代主題餐店革命時代主題餐店革命時代主題餐店漬けダレは香りのよいごま油で、ここにお好みでニンニクのみじん切りと、香菜を入れる。鍋は辣いスープと、辣くないスープの二種類の物にした。真ん中の小さな領域が辣くないスープで、その周りを唐辛子がびっしり浮いた辣いスープが取り囲んでいる.......見ているだけで汗が出てくる。現代中国語であるが、こんな対句が頭に浮かんだ。

紅色是革命的顔色
辣椒是革命的味道

小生以外は湖北省の人で辣い料理に強く、とくに最近の若い女性は辣い物が大好きである。辣い火鍋は少し食べる分には美味しいが、ほどほどにしないと後でひどいことになるので、小生は主に辛くない方で食べることにした。
具材は羊肉をメインに、鵞鳥の腸や、湯葉や豆腐や野菜、キノコ類といった無難な選択である。味は湖南料理の火鍋というよりも、花椒の香りの利いた四川風に近い風味である。今まで食べたどこの火鍋よりも美味しい、というほどではないが、具材の鮮度も味も悪くはなかった。ここは味で選ぶというよりも、雰囲気の面白さを楽しむべきなのだろう。
食事の途中で顧客が参加するゲームや、服務員が西遊記の仮装をして踊る出し物などがあり、若い人の集まりが目立つ店内は活気があった。
革命時代主題餐店革命時代主題餐店革命時代主題餐店革命時代主題餐店店の壁には、文革時代をおもわせる、赤と黒を基調とした”プロパガンダ・ポスター”が掲示されているが、実際は昔の”プロパガンダ・ポスター”のパロディである。赤と黒が多用されるのは、その昔は安価なインクが赤と黒だったからでもあり、デザインは当時ソ連の”プロパガンダ・ポスター”の影響が強いものである。
革命時代主題餐店なるほど、これは「革命不是请客吃饭(革命はお客を呼んで食事をふるまうとうことじゃない)」をもじったものだな.........書かれているところの内容、すなわち”スローガン”は......一読して真面目な内容ではない事はわかるのだが、正直なところ”毛沢東語録”以外、元ネタがよくわからない”スローガン”も多い。
S小姐に聞いたら、最近の流行のドラマのセリフをもじった冗談がいろいろあるのだという。そのいちいちについて、ここでくだくだしく述べるまでもないだろう。
しかし”ポスター”を観る限りでは、革命時代を回顧し賛美しているというよりも、実は”革命”を”茶化している”、というのが正しいのかもしれない。そのうち当局からお叱りを受けて......なんて言う事は無いのだろうかと、余計な心配をしたくなる。
革命時代主題餐店革命時代主題餐店革命時代にシンパシーを覚えるかどうかは、人によって違うだろう。今の日本や中国の若い人はまったく知らないし、信じられないかもしれないが、日本にもかつては毛沢東主義や共産党革命に強く共感し、共闘を叫んでいた人達もいたのである.......無論小生はそうではないが。
この店は若い顧客がメインのターゲットのようであるが、今の大陸の若者にとっては、革命時代というのはパロディ化して楽しんでも良いという、対象になってしまっているのかもしれない。
もし日本で”軍国主義時代”をパロディ化した飲食店などをやったら、話題にはなるだろうが、右や左の圧力ですぐに閉店に追い込まれそうな気がするのだが。
革命時代主題餐店革命時代主題餐店充分に食べかつ飲んで会計を済ませたら、サービス券をもらった.......”糧票”とあるのはつまり昔の食料配給切符を模しているのである。今や大陸も飽食の時代である。あるいはここへ食事に来る人に、昔の食糧難の時代をちょっと思い出してほしい、という意図なのだろうか。革命時代の”パロディ”がテーマの火鍋店ではあるが.......壁に描かれた毛沢東の肖像と見比べると、この”糧票”には、少し”辣さ”の利いたアイロニカルな刺激を感じなくもない。
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揚州 五亭吟春茶社の点心

杜牧が自らの青春時代を詠った「遣懐」。

落魄江湖戴酒行
楚腰断腸掌中軽
十年一覚楊州夢
贏得青楼薄倖名

落魄(らくはく)江湖酒を載せて行く
楚腰(そよう)断腸(だんちょう)掌中に軽し
十年一(ひと)たび覚む楊州の夢
贏(か)ち得(え)たり青楼(せいろう)薄倖(はっこう)の名

「断腸」を「繊細」に、「贏得」を「占得(占め得たり)」に作るテキストもある。宰相の祖父を持つ、名門中の名門出身の杜牧ではあったが、父親の死を契機に家門は急速に没落する。二十六歳で科挙に及第し、続いて最難関の「能直言極諌科」にも合格するが、そのキャリアのほとんどは幕僚(正規官員の私設スタッフ)として、あるいは地方官として過ごすことになる。地方官の在任期間が長いのは、失明した実弟の家族を含む、一族全体を養う必要があった為と言われる。中央官庁よりも、地方官の方が何かと実入りが多いという事情もそこにはあったようだ。
26歳から33歳までの大半を、観察使の沈伝師や節度使の牛僧儒の幕僚として江南諸都市を転々とする。揚州は杜牧にとって、江南で過ごした”麗わしき青春の日々”を象徴する地であったようだ。杜牧には柳に想いを寄せた詩が多いのも、柳の垂れる揚州河畔を想起させるところである。
が「青楼薄倖名(妓楼の軽薄児)」の浮名と引き換えに、消渴(糖尿病)を患い、以後はもっぱら茶を喫して養生に努める後半生となる。しかし杜牧が消渇を患うようになったのは、あながち飲酒のせいばかりではないかもしれない、という事は揚州を訪れるとしばしば思うところである........

揚州の文豪、朱自清先生の「揚州の茶館で出されるような美味しい点心は、他所で食べたことが無い。」という回想は、たしかに現在でも当てはまるかもしれない。事実、揚州料理は中国料理の数ある地方料理の体系の中でも、一種特異な地位を保っている。群星の如き江南諸都市の中にあって、もっとも料理が優れているのは、あるいは揚州ではあるまいか、と思うことが時々ある。
揚州の料理は、上海、杭州や蘇州、紹興を含む、広い意味での”江南料理”というくくりの一部であるが、安徽省と揚州を含む地域の料理は”淮揚菜”とも呼ばれる。”淮”は安徽を意味し、徽州料理が淵源であり中心であるが、徽州料理と揚州料理を結んだ”淮揚菜”は、揚州と徽州の経済、文化交流の歴史の産物である。しかし、実のところ揚州市街の、茶館を中心とした点心の類はこれまた独特で、ごく狭い揚州市街の範囲を出てしまうとお目にかからない。

茶館で点心をつまみながらお茶を飲む、いわゆる”飲茶”の本場は広東とされる。とりわけ香港の飲茶はその極みであろう。しかし飲茶の習慣が最初に発展したのは揚州であると言われる。
いつの時代もそうであるが、本当に美味しい料理を追求し、また追求することが出来るのは商人達である。物産と流通に詳しい事と、また忌憚の無い場で競争の必要があったからでもある。明代から清朝中期にかけて塩業で栄えた揚州商人達は、やがて海外との交易を求めて広東や福建へ下ってゆくのであるが、点心と飲茶の文化も一緒に南方へ移って行った、という説がある。
それはさておき、朱自清先生の感慨の通り、揚州の点心というのは別格である。上海、あるいは蘇州や杭州といった江南の料理自慢の地でも、揚州のように”小さな蒸籠”で供する種類豊富な点心はお目にかかることが無い。
蘇州杭州でも、大きなレストランであれば無い事も無いが、揚州のように気軽にかつ日常的に供されるものではない。上海は辛うじて”小籠包”だけが独行の地位を保っているが、包子や蒸餃子を含めると、なかなか揚州には抗しがたいものがある。
米粉や海鮮と出会って進化した香港の”ディムサム”はまた別格であるが、あるいは味覚の面から香港の点心の体系に対抗しうるのは、大陸では広東を除けば揚州だけかもしれない。ついでに言えば、香港の名店の蒸餃子ひとつの値段で、揚州なら有名店であっても、二度はお腹いっぱい食べられる。上海や杭州、蘇州、あるいは南京と比べても、揚州の食事はその質に比べて実に廉価である。
揚州 五亭吟春茶社の点心揚州には、老舗の名店が何店舗かある。痩西湖畔の冶春茶社や、国慶路沿いの富春茶社、あるいは共和春などは、日本でも良く知られているかもしれない。
ここ何度かの揚州滞在中、気に入って通っているのが「五亭吟春茶社」である。五亭吟春茶社は揚州市内に三店舗を構えるが、どれも小さな店舗である。いつも行くのは宿泊先からほど近い、国慶路沿いの店である。国慶路に沿っては近くに”共和春”があり、やや離れた場所に”富春茶社”がある。
「五亭吟春」の「五亭」は、朱自清先生の「揚州的夏日」にも出てくる「五亭橋」からとった名である。揚州の他の茶館、「治春」「富春」「共和春」などと同様、「吟春」と、「春」の一字を含む雅味のある名である。
小さな店であるが、早朝と昼時は近所の客でいっぱいになる。なのでいつも混雑のタイミングを外した午前中の10時、あるいは午後の1時以降を狙ってゆく。さすがに夕方ごろになると、人気のある点心は売り切れになっている事が多い。さらに点心のいくつかは保温され続けているため、若干味が落ちるのは否めない。やはり出来立ての熱々を食べたいのであれば、午前中から昼過ぎにかけてまでが、行くべき時間帯であろう。
テーブルには熱湯を入れたポットが置かれている。お茶を飲みたい人は、各自ティーポットを持参して、好みのお茶を飲むのである。旅先なら、茶葉だけ持って来て、湯呑に入れて飲んでも良い。
揚州 五亭吟春茶社の点心揚州の茶館の朝には欠かせない「揚州湯干丝」。「干丝」は圧をかけて固く造った豆腐を千切りにしたもので、この食材を使った料理自体は全国的にある。切っただけの干丝を、ごま油やネギ油、それに香菜を合えただけの簡単な冷菜として出てくることが多い。しかし揚州のそれは”湯干丝”といい、干丝を軽く湯通ししている。こうすることで、干丝が柔らかくなり、豆臭さが抜けて風味も良くなるというわけだ。
揚州の宴会料理でも「水煮干丝」といって、蟹味噌を融かした黄色いスープの中に浸したちょっと贅沢な料理もある。しかし朝食で食べる干丝は、ごく簡単に醤油や酢、香り油に浸しただけのものである。揚州の人はタレも油も干丝にしっかりと混ぜ合わせて食べるが、やや味が濃いと思えば、混ぜないで食べるのも一法である。
五亭吟春茶社の湯干丝は、湯通しで温めた干丝を醤油味のタレに浸し、たっぷりとしたごま油の香りが効いている。含むとまだほのかに温かく、香り油や干しエビの風味が広がり、そして口の中でハラリと崩れてゆく感覚。まことに繊細で優れたものである。ちょっと炭水化物を取り過ぎの日が続いた時などは、これだけで朝食を済ませるのも良いかもしれない。
揚州 五亭吟春茶社の点心蒸しあがった包子達が、蒸籠の湯気の中で微笑んでいる。包子の張りきってツヤツヤとした皮、それが自らの重みで自然と両脇にふくらんだ美しい姿というのは、見ているだけで幸福な気持ちになるものである。
五亭吟春茶社でかならず食べるべきは「五丁包」である。「五丁」と「五亭吟春茶社」の「五亭」は同音であることからも、この店の名物料理であることがわかるのである。五丁包は.......由来をひもとけば乾隆帝の江南御幸をめぐるエピソードがあるといわれるが、実のところ揚州では比較的新しい点心であるという。
「五丁包」を出す店は五亭吟春茶社だけではないが、すべての茶館で出しているわけではない。伝統的には「三丁包」があり、これはどこの茶館でも定番メニューとして置いてある。揚州の名物包子であり、「三丁包」を食べずに揚州は去り難い。「三丁」は、豚肉と鶏肉、それに筍の、三つの食材の角切り(丁、という)が入っている事に由来する。柔らかく濃厚な豚肉と、淡白だがしっかりとした食感のある鶏肉、それに筍のコリコリとした歯ごたえの調和が妙絶である。
その「三丁」に”干海鼠(ほしなまこ)”と”エビ”の「二丁」を加えた包子が五丁包なのである。「五丁包子」を割ると、小さな黒いゼラチン質の具材が見えるが、これが干し海鼠である。三丁包は三元、五丁包は八元するが、やはり少し高いだけあって、高級な食材が使われているというわけだ。「三丁」でも充分美味しいところに、海鮮の風味が加わることで、形容しがたい深い味わいに仕上がっている。
揚州 五亭吟春茶社の点心揚州 五亭吟春茶社の点心もちろん、「三丁包」と「五丁包」を食べ比べるのも一興である。味にしっかりとした違いがあることが分かるだろう。むろんの事、「三丁包」が「五丁包」に比べて著しく劣るという意味ではない。それはまた別種の味わいなのである。
揚州 五亭吟春茶社の点心揚州 五亭吟春茶社の点心もうひとつ、”蒸餃子”がある。蒸餃子自体は揚州に限らないが、揚州の蒸餃子はやはり独特である。福建や台湾の蒸餃子は、一口で食べられる小さなものであるが、揚州の蒸餃子は総じて10cmほどもある大きなものである。やや厚みのある、しっかりとした皮の中には、エビをいれた肉の餡がはいっているのだが、これにスープもたっぷりと仕込まれている。何も知らずに食べると、スープが飛び出て服を汚したり、火傷しかねないので要注意である。蒸餃子に限らず、中からスープが出てくるような点心は、注文を受けてから蒸し始めるので少し時間がかかる。焼売や普通の饅頭などは、ある程度の時間、保温し続けていても大きな問題はない。しかしスープの入った点心は、蒸し続けているとスープが皮の中に浸透してしまう。破けやすくもなるし、スープの量が減ってしまって楽しみは半減してしまう。
経済的合理性のみを追求した”ファストフード”では、こうはいかない。”作り立て”を出すというのは、店側にすれば手間のかかる事であるし、客側にすれば待たされることでもある。客を待たせるという事で客席回転率も低下するのであるが、そんな事よりも味が大切、というわけである。
揚州 五亭吟春茶社の点心文思豆腐。絹ごし豆腐を絲のように細かく刻んで、とろみのついたスープに流し込んでいる。豆腐を糸のように千切りにする包丁技は熟練の技術の成せるところである。これは揚州の名物料理といえども、何処の店でも食べられるわけではない。この文思豆腐を出しているということは、その店の厨師の技術が一級であることを表わしてもいるのである。
杭州にも西施豆腐という、豆腐とハムを細く切ってスープに流し込んだ料理があるが、豆腐の細かさは文思豆腐には遠く及ばない。豆腐の他に、やはり糸のように刻んだハム、きくらげ、筍などが入っている。口に含むと、とろみのついたスープの滑らかな舌触りの中に、かすかに豆腐の存在感が感じられる、とても繊細な料理である........口の中の何処に豆腐があるのか、よく味わおうとしていると、勢い詩句でも考え込んでいるような表情になる......ゆえに「文思」かというとそうではなく、これは人名だそうだ。
清の俞樾「茶香室叢鈔」によれば”文思は字(あざな)は熙甫(きほ)、詩に工みで、また豆腐の羹(あつもの:スープ)や甘い粥をうまく製した。”とある。文思豆腐は”文思さんの豆腐スープ”という意味というわけだ。しかし文思は詩に工み、とあるように”文を思う”にもかけているのだろう。また「思(sī)」は「絲(sī)」と同じ音ということで、絲(いと)のように細く切った豆腐のスープ、という意味も重ねられている。
揚州 五亭吟春茶社の点心揚州独特の陽春麺。少し昔は1元五角で食べることが出来たのが、今や3元5角ないし4元はしてしまう。とはいえ、他の都市では今時4元や5元では場末の蘭州拉麺の一杯も食べることが出来なくなってしまった。この醤油色の濃褐色のスープにわずかに黄色みがかった麺は、近接する南京や大都市の上海でも見たことが無い、揚州の独自色である。これに虾籽餃麺という、エビ餃子を数個入れるものもある..............虾籽(シャー・ツー)というのは、エビの卵を塩漬けにして乾燥させたものである。内陸部の多くは淡水のエビの卵であるが、広東などでは海水のエビが使われる。”虾籽麺”といえば、麺の上に炒った虾籽をふりかけた麺で、これは広東、福建などの海岸部のほか、安徽省の菱湖一帯でも食される。香港や澳門、珠海などの広東沿岸部では、虾籽拌麺ないし虾籽撈麺といって、ゆでた麺を虾籽と香り油で合えた麺料理を出す店が多い。
しかし揚州で”虾籽餃麺”というと、エビ餃子が入っているだけで、虾籽の気配が感じられない。虾籽が入っていれば、スープの底にたまるはずなのであるが......虾籽餃麺は、どちらかと言うと香港や澳門の蝦雲吞麺に近い格好だ。あるいは香港の蝦雲吞麺も、原型は揚州の虾籽餃麺にもとめられるかもしれない。
揚州 五亭吟春茶社の点心普通に揚州でいつも食べる”陽春麺”は、麺とスープだけの”かけそば”である。独特の黒い色のスープに浅い黄色味がかった麺が沈んでいる。もちろん店によって味の違いがあるが、おおむね刻んだニンニクとショウガ、多めの胡椒、それにラードの香ばしさが醤油の香りを引き立てている。
五亭吟春茶社の陽春麺は、スープの色がやや浅い。このスープはいつも火傷しそうなほど熱いし、麺にはコシがある。3元ほどの”かけそば”一杯でも手抜きがないあたりが、揚州人の食道楽を感じさせるところである。
麺好きならば、揚州では必ず食べたい陽春麺ではある。しかし五亭吟春茶社の陽春麺は麺の量が多めなので、これを食べてしまうと、点心を食べる余地が少なくなる。揚州の点心というのは香港の点心に比べれば大ぶりで、皮もしっかり厚みがある。一回の食事としては三つも食べれば充分なのだ。

ついでに言えば、有名な揚州炒飯もメニューにあるが、五亭吟春茶社の揚州炒飯は規定に則った”正宗”ではなく、庶民的な普通の炒飯なのである。エビや干し海鼠(ナマコ)の入った”正宗”揚州炒飯を食べるのであれば、”食為天”などがおすすめである。揚州では、点心は点心の専門店である茶館、大皿料理はそれを主力とする店を選んで行った方が良いかもしれない。揚州 五亭吟春茶社の点心揚州 五亭吟春茶社の点心陽春麺にしようか、蒸籠の点心にしようかというのは、揚州の茶社では常に頭を悩ませる問題なのである。朝に陽春麺をいただき、昼にいくつかの点心をつまむ、というのが有効な解決策なのであるが、夜に”揚州炒飯”を食べないわけにはいかない.........というように、揚州に来て朝な夕なに炭水化物をいささか過剰に摂取する食生活をしていると、先の杜牧の「十年一覚楊州夢」の詩句が脳裏に浮かぶ。ついで消渴(糖尿病)を患うにいたったその運命にも、想いが及ぼうというものである。
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長沙 辣妹子不怕辣

長沙は深圳へ通じる高速鉄道の駅「長沙南駅」と、在来列車の駅「長沙駅」がある。長沙駅の中央時計台に掲げられている「長沙」という駅名は、その特徴的な筆致が長沙出身の毛沢東の筆跡から採用したものとみてとれる。またこの時計塔の上に、突起した何かのモニュメントがあるのが見える。一見すると”トーチ”のようにみえるのであるが、長沙市民のYさんが「あれは唐辛子なんです。」と教えてくれた。「夜になると赤く点灯するのです。」なるほど確かに紅(あか)い........
長沙 辣妹子不怕辣長沙 辣妹子不怕辣日本で辛い中国料理といえば四川料理であるが、大陸の地方料理の中では、単純な辣(から)さで言えば湖南省が最も辣いと認められている。二番目は少数民族の多い貴州省であるという。
唐辛子をはじめ、トマト、ジャガイモ、ナスなど、ナス科の野菜の多くは南米原産である。南米を支配したスペイン、ポルトガル商人によって世界中に拡散したといわれている。いずれも現在の中国料理によく使われる野菜であるが、その使用は比較的新しいのである。
唐辛子は16世紀の後半に、マニラ経由で”南蛮商人”によって東アジアにもたらされたと考えられている。朝鮮半島の唐辛子が秀吉の朝鮮出兵で伝播したのは有名な話であるが、中国南部では朝鮮半島経由ではなく、南洋商人によってもたらされた、という説が有力である。そもそも日本で”唐”辛子というのであれば、中国経由で日本へ入ってきた事を思わせる。また日本と同様、大陸でも元来は観賞用の植物であった。
清朝の康熙〜乾隆年間では、「海椒」と呼ばれていた、という記述がある。「海から来た胡椒」というほどの意味である。「胡椒」という語がすなわち「胡(北西辺境から来た)の椒(しょう)」であるように、「海椒」にも海外から来た香辛料、というニュアンスが感じられる。
そもそも「椒」という文字は「香りの強い植物」を指す字で、いうなれば「香辛料、香味野菜」にあたる語である。杜牧の「阿房宮詩」には、始皇帝の宮殿の盛んなる事を詠んだ一句に、

焚椒蘭也

とある。これはつまり「椒」と「蘭」ということで、やはり香りの良い植物、ないし香木を意味している。
現代の中国では「胡椒」の語が指す香辛料は日本と共通であるが、日本で言う山椒は「花椒」であり、唐辛子は「辣椒」である。「椒」は香りが良いだけではなく、ある種の”辣味(からみ)”を持った香辛料に当てられているようである。
ともあれ大陸南部には16世紀に入ってきた「海椒」であるが、観賞植物からいつしか香辛料として使われるようになり、その使用が広まったようだ。
それがなぜ湖南省で特に定着、浸透していったか?という点については実のところ定説を見ない。ただ湖南省は歴史的に洞庭湖の水利を生かした稲作が盛んで、米が豊富に採れた。ゆえに米をよく食べてきた歴史がある。辣椒を使った辣いおかずはご飯によく合う、という事で深く広く浸透したのではないか?と言われている。農村出身の毛沢東が好んだように、もとは庶民の食卓からひろまったのであり、公式の記録に記載されないうちに、”いつのまにか”普及した、というのが事実に近いのかもしれない。

二日目の晩も、Yさんの案内で湖南大学近くで食事をした。湖南省には少数民族の”苗族”が山間部に住んでいる。湖南大学周辺の学生街にも”苗族”の鮮魚料理を看板にする店があった。その名も「七秒魚」という。
長沙 辣妹子長沙 辣妹子極薄くスライスした魚を、七秒間だけ煮立った鍋に潜らせて食べる。要は魚のしゃぶしゃぶである。生きた魚を選んで待つことしばし、皿が透けるほど薄くスライスした魚が運ばれてくる。鮮魚の薄切りは日本料理の専売と思っていたが、これもなかなかの技術である。
長沙 辣妹子長沙 辣妹子タレは、醤油に香り油ときざんだネギ、生の赤い唐辛子が入っている。
大陸の”火鍋”の店では、きざんだ生唐辛子を薬味に加えるところが多いのであるが、生唐辛子の香りがさわやかである。青い唐辛子は非常に辣いのであるが、赤唐辛子が多少入っている分にはさほどではない、と思って食べ始めたが.......
切り身を沸騰したスープに浸し、七秒間で引き揚げ、タレにつけて食べる。淡水魚特有の小骨はもなく、においもなく、淡白で上品な味である。”七秒”のところを、淡水魚ということで少し警戒して”十秒”で食べていた。ところがこの店のタレにつけて食べていると、4、5切れを食べたところで、だんだん口の中が焼けてきた。口中が痛くなって、味が分からなくなる。汗か涙か、目の周りが滲んでくる。熱い物を口に入れる気がしなくなる..........しかたないので店の人に頼んで、醤油にネギを刻んだものを入れただけのタレを作ってもらってそれで食べた。おそらく、使用している唐辛子の辣さそのものが違うのだろう。この程度の量の生唐辛子を入れても、上海あたりの店ではまったく問題ないのであるが。
長沙っ子のYさんは汗ひとつかくわけでもなく、普通にぱくぱくと食べている。にじみ出る汗をぬぐっている小生を見て怪訝な顔をしている。
小生は辣さをしのぐために度数の低いビールを飲みながら、一方でまったくアルコールが駄目なYさんはひたすら白いご飯を食べている。ご飯は一膳づつ出てくるのではなく、お鉢に山盛りになって出てきたものを、各自が好きなだけ盛って食べるのである。山盛りのごはんの大半はYさんが食べた。たしかに湖南省の人はご飯が好きで、辣い物はご飯に合うのかも知れない。
曰く「私はあまり辣いものが得意ではないので、先日友達と辣い物を食べすぎて、少しお腹を壊しました。」という.........それはもう、想像を絶する辛さなのではないだろうか。また「日本にいる間に、辣いものが弱くなりました。」とも言う。料理が辣くない地方へ行くと”辣いものに弱くなる”、それは確かに広東に来ている湖北や四川の人からも聞いたことがある。要は”慣れ”の問題なのかもしれないが、辣くないほうから辣い方に慣れるのは、より難しいのではないだろうか。
長沙 辣妹子不怕辣湖南に滞在中、日本在住の四川省出身の朋友が「長沙は”口味虾”が美味しいです。洞庭湖で育ったものです。」という情報をくれた。”口味(こうみ)虾(えび)”とは何であろうか?と思っていると、”七秒魚”の店の店頭でも売っていた。テイク・アウトもできるが、店内のメニューにもある。何かと思えば、上海や江南で言うところの「小龍虾」、要は”ザリガニ”のことなのである。ザリガニであれば、上海や揚州など、江南ですでに何度か経験がある。湖南省や四川省では”口味虾”と言うらしい。試しに少し食べてみることにした。上海周辺では、唐辛子を中心とした香辛料をまぶしてある。湖南省の口味虾は調味液で味を浸透させており、見た目には唐辛子などは見えない。半斤ほど買うと、乱切りのニンニクと香菜を載せて出してくれた。
長沙 辣妹子さほど辣いようには見えない、と思って侮ったのは早計であった。上海でも”小龍虾”といえば、もともと辣さが売りの食べ物である。しかし経験があるし、食べられないほどの辣さではない。しかし長沙の「口味虾」はやはり辣さが生半可ではなかった。口味虾を漬け込んである調味液が非常に辣いのである。小龍虾ないしこの口味虾ことザリガニ料理は、手で剥くだけではなく、殻にかぶりついて食べるものである。が、湖南の口味虾は辣いというより、痛い、口の中が痛くなって先が進まなくなる。いうなれば「口痛虾」である。やはり上海や広東あたりの小龍虾は、それなりにマイルドになっていたようだ。この「口味虾」は、仕方ないので手で丁寧に殻を向き、身だけを選って食べた。淡白で甘みあり、クセもなく確かに味は悪くない。

また同じ四川省の朋友が「田螺もすごく美味しいです。」という。「田螺」.....つまりタニシのことか。江南ではタニシも時々食べることがある。ザリガニと同様、河川が汚染されている現状では、あまり食べない方が良いと言われる「田螺」であるが、貝好きの小生はたまに少しだけ食べる事がある。殻の大きさの割に身は小さく、いうほど食べるところなど無いのであるが、要は殻につまった汁を実と一緒に「ちゅっ」と吸って味わう。子供のおやつであり、酒の肴である。日本だと、食べるところが幾らもないような「田螺」は流行らないかもしれないが、かの魯山人の好物であり、昔はよく食べられていた。滋養強壮にも良いのである。ただし寄生虫には注意すべきであるが、良く煮てあれば問題ない。長沙 辣妹子不怕辣夜な夜な学生街に出現する”屋台村”に、「田螺」を出している店があった。傍でみていると、学生が入れ替わり買いに来て良く売れている。
しかしこの「田螺」、江南はさほど辛い事がないのであるが、湖南省のはやはり普通でないくらい辣い。入っている唐辛子の本数が何かの間違いのように多い。殻につまった煮汁をすすっていると、これが”むせる”くらい辣いので、しかたなく楊枝で身だけをより出して食べた。食べなれているはずのものであっても、やはりどこか、湖南では勝手が違う感じがする................しかし辣い料理は警戒すべきで、美味しいと思って食べていても、胃腸が受け付けず、後でお腹を壊すことがある。なので食べ続けられないくらい辣い料理を我慢して食べ続けていたら、翌日の行動に支障が出る恐れがあるのである。次の日に長距離をひかえているので、あまり無理は出来ないところである。

「辣椒(ラアジャオ)」は「辣子(ラーズ)」とも言う。「橘(みかん)」や「桃」を「橘子」や「桃子」というのと同じである。「子」は「孔子、孟子」のように、もとは相応の敬称であるが、現代では軽く「さん」付けで呼ぶような感覚だろうか。
また「妹子(メイズ)」といえば”いもうと”の事ではなく、女の子の事を指すのであるが、「辣妹子(ラーメイズ)」という語がある。要は「辣(からい)」「妹子(メイズ:女の子)」つまり、辣い物が好きで明るく活発な女の子、という意味だそうだ。四川省や湖南省の若い女性に対してよく使われるというが、四川省の人は「それは湖南省の女の子だけですよ。」という。

「辣妹子」という歌がある。メロディーは懐かしい民謡調だが、1999年の歌で歌っているは、苗族出身の有名解放軍歌手”宋祖英”である。歌詞の一部を抜粋すると、

”辣妹子从小辣不怕”
辣妹子は小さいころから辣いものが平気。
”辣妹子长大不怕辣”
辣妹子は大きくなっても辣い物は怖くない。
”辣妹子嫁人怕不辣”
辣妹子は辣い物が苦手な人には嫁がない。
”吊一串辣椒碰嘴巴”
ひょいと担いだトウガラシの束とならんだ、その紅い唇とほっぺた。

........おそらく、「辣妹子」には「騒々しい田舎娘」というようなニュアンスも込められているのだろう。とはいえ、いたって真面目で物静かなYさんは”辣妹子”のイメージからはほど遠いのであるが。曰く「普通は、長沙の女性同士が話していると、まるで喧嘩をしているように聞こえるかもしれません。」ということである。辣い物には、人の性格を活発にさせる作用があるのだろうか。
しかし今や全国的に四川料理と湖南料理は流行し、辣い料理を好む人が増えている。特に若い人、とりわけ女性に人気のようだ。女性が辣い料理を好んで食べるのは、辣い物を食べると”痩せられる”という信仰があるからだという。ご飯のような炭水化物は、太るので痩せたい人は敬遠するというが、ご飯のカロリーと唐辛子の効果がちょうど相殺されるのであろうか。ご飯を山盛り食べるYさんもかなり細い方である。道行く女性も、肥満の人はあまりみかけない.......杜牧の「遣杯」に、

楚腰繊細掌中軽
楚腰(そよう)繊細(せんさい)掌中(しょうちゅう)軽し

という有名な句がある。もとは「韓非子」にある「楚霊王好細腰、而国中多餓人」すなわち「楚の霊王がほっそりとした美人を好んだため、国中に(絶食して)餓えた人が多くなった。」という文から来ている。要は南方出身のほっそりとした美人を「楚腰」という。「霊」はろくでもない君主につけられる諡(おくりな)であるが、この楚の霊王も王座を追われて自殺している。
あるいは伝統的に南方では細身の女性が好まれ、明末に入ってきた唐辛子の減量効果が着目されて、料理に多用されるようになった.......かどうかはわからない。

清朝の康熙年間の大貴族の生活を背景とする「紅樓夢」の中には、唐辛子を使ったような、非常に辣いと思われる料理は出てこない。少なくとも黛玉や宝釵は「辣妹子」ではなかったようだが........そういえば熙鳳は「鳳辣子」と呼ばれていた.........黛玉がはじめて熙鳳に会った際、賈母に熙鳳をそう紹介されている。賈母の会話中「作辣子」という語があり、要は「勝手放題」という意味の江南方言であるから、「鳳辣子」は現代風に言えば「あの辣妹子の熙鳳」というところだろうか......たしかに「辣妹子」のイメージに熙鳳はあっている。明末に大陸に渡来した唐辛子も、康熙年間にはかなり普及していたのかもしれない。紅樓夢は長沙出身の毛沢東の愛読書でもあった......読む本も”紅い”のである。その毛沢東は当然のことながら”辣子”を常食しており、「辛い唐辛子を食べられなければ革命家にはなれない。」と語っていたそうだ。どうも小生は”辣妹子”の嫁ぎ先としてはまったく不適格で、かつ革命家向きではなさそうである.......”革命”の”紅(あか)”は実は”唐辛子”の”紅”だったのかもしれない。
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カン州の豆腐

贛(カン)州は江西省南方の大都会である。江西省といえば、黄山市の隣の婺源に何度か行った事がある。婺源は昔は徽州の一部であり、したがって文化的には徽州に連なっているので、別の地方に来た、というほどの違いは感じなないものである。
江西省の省都は南昌であるが、南昌は泊っただけでほぼ素通りして贛州へ至っている。婺源と贛州の文化的な雰囲気の違いは大きく、なるほど同じ江西省といっても、南北でこれほど違うのだなと、思った次第である。
贛州は「客家(ハッカ)三州」の一角であり、客家文化の影響が色濃い。「客家」の定義は諸説あるのだが、「客家語」を母語とする人々は自らを「客家」という。一般に、大昔に北方の戦乱を避けて中原から南下し、南方へ住み着いた人々というように語られる。北方からの移民、という意味では、徽州にもそのような伝承が残されている村は多い。夏に訪問した「石家村」などもまさにそれである。
ただし必ずしもすべてが北方にルーツを持つというわけではなく、後付けで”系譜”と”由来”を創り上げた地域もあるというから、一概に「古代北方からの移民」と言い切る事は出来ないともいう。
大陸は、宋代以前は中原の方が文化の先進地域であり、南方は未開の後進地域、という観念が根強いのである。ゆえに、南方土着の一族の中にも、系譜に「北方起源」が付け加えられることが行われたという。
ただ、やはり相当規模での北方からの移民が行われたと考えている。製墨業の歴史では、唐代末期に北方の易水から南の徽州に製墨の中心地が移っており、その節目に李庭珪父子が存在するのである。

それはさておき。

江西省南部の贛州は、江南というよりも、どことなく広東を思わせるようなところがある。特に”食”に地域の違いが感じられるものなのだが、それもごく簡単な料理に土地の嗜好が現れるものである。たとえば贛州の小さな麺の店では、南方特有の米で作った麺「米線」や「河粉(平たい米の麺)」を、小麦粉の麺にかえて選ぶことができるのが普通である。

ところで「麺」といったが、日本人の感覚では、穀物を挽いて錬り、細長くした食べ物は皆「麺」である。うどんも蕎麦もラーメンも、パスタも広い意味では「麺」になる。しかし大陸では「麺」といば、小麦粉を練って作られたものに限られる。それも必ずしも細長い必要はない。というよりも、小麦粉を水で練った「カタマリ」を「麺」というのである。だからそれを細長く伸ばそうが、平たくして餃子の皮にしようが、あるいは豚まんの生地にしようが、姿を変える前の状態は皆「麺」なのである。だから米の粉を原料として作られた「米線」や「河粉」は、同じように細長くなり、スープの中に入っていても「麺」ではない。
もちろん、上海やその周辺の町々でも米線や河粉を食べることができる。しかし江南以北では、米でつくられた麺類は一般的ではない。米線や河粉を出す店は、たとえば「雲南過橋米線」とうたった店のように、いうなれば専門店なのである。江南で普通に「麺」といえば、小麦粉でつくられた麺類である。「米線」「河粉」も普通に置いていて、小麦粉麺を米線や河粉に換える事が出来る店と言うのは多くない。
贛州の豆腐しかしここ贛州で、小さな麺屋に入って壁のメニューを見ると「米線、河粉、麺」からの選択になっている。この同じ具材のメニューでありながら麺の種類を選べるというのは、日本で言えば「うどん・そば」の選択と同様と考えていただければと思う。これを見ると「いよいよ広東が近いのだな」と思わずにはいられない。スープも、化学調味料と塩、醤油程度の簡単なスープではない。豚骨か牛骨か鶏ガラかわからないが、きちんと炊いたスープが使われるようになる。スープに手をかけるのも、広東料理の特徴なのだそうだ。
贛州の豆腐贛州にはその名も南京路という、繁華街がある。そこからほど近いところに自由市場がある。市場と南京路を結ぶ途中に植物園があり、その近くに何軒かの麺屋が並んでいる。小腹がすいたので一軒の麺屋に入ったのであるが、ここには米線や河粉がある。上海からくだってきたので、久しく米線を食べていないと思い、米線を注文した。
米線といっても、乾麺からゆでるのではなく、ゆであがった麺を湯で温めるのである。大阪の安価なうどん屋が茹で上げ麺を温めて出すのと、これも同様である。米線を温めるときに、一緒にちぎったレタスを湯にいれている。あらかじめスープを注いだ椀に、温めた米線と湯引きしたレタス、それに具材を乗せて出てくる。

出てきた米線をさあ食べようかという時、店の老板娘が「豆腐と卵はいるか?」と聞いてきた。「豆腐」は日本語と同じく「豆腐」と書き、発音もほぼ「トーフゥ」なので聞き間違えることはない。豆腐は大好きなので、どのような品かも確かめずに「欲しい」という。贛州の豆腐すると皿に茶色く煮しまった卵と、厚揚げのような品が乗って出てきた。この三角形の、一見厚揚げのようなものが「豆腐」なのである。実のところ厚揚げと呼ぶには薄いし、油揚げと呼ぶには厚さがありすぎる。噛むとやはり厚揚げのようなしっかりとした豆腐の充実感はなく、油揚げのふわふわ感をそのまま厚くしていったような食感である。福井のほうに”座布団揚げ”という、分厚い油揚げがあるが、それを少し薄くしたような恰好である。
そこに熱いスープがたっぷりとしみこんでいるので、”がんもどき”と同様、気を付けて食べないと火傷をする。煮卵は、ゆでた卵を一度油で揚げてから煮込んでいるらしく、皮がしっかりしている。米線はいつ食べてもお腹に軽くていいのだが、そのかわりに消化が良すぎて腹持ちがやや悪い。この「豆腐」と卵を追加する、腹持ちという点では、ちょうどよいかもしれない。
この小さな店が美味しかったので、滞在中に再訪したのであるが、店のおかみは小生の顔を覚えてたのか、米線の注文時に「豆腐と卵もいるか?」と聞いてくる。贛州の豆腐「要(いる)」と言うと、今度は米線の上に直接、くだんの豆腐と卵が乗ってきた。これはまさに”きつねうどん”、大阪人の言うところの”けつねうどん”といった格好である。
贛州の豆腐”南京路”の一隅に、年配の女性が一人でやっている小さな屋台があった。若い女性の客が多く、路面におかれた椅子に腰かけながら、熱心に何か食べている。興味を覚えて屋台をのぞき込むと、鍋の中ではくだんの”豆腐”だけがぐつぐつと煮込まれていた。
「豆腐をください」と言うとおかみさんが「何個?」と聞くので「二個。」というと、鍋の中から豆腐を二切れ取り出し、何か調味料や薬味を載せて出してきた。薬味には刻んだ葱、それに”豆角(トウジャオ)”という、塩辛くて酸っぱいインゲンマメの漬物を刻んだものが乗っていた。贛州の豆腐とてもとても熱い。プラスチックの容器にかぶせたビニール袋が溶けないか、心配になるほどの熱さである。果たして、熱い。しかし寒い日には良い物だし、低カロリーということで、若い女性の間食にはウケが良いのだろう。1個が1元5角、2個で3元(50円)くらいである。
贛州の豆腐豆腐好きの私は、この贛州の”豆腐”が気に入ってしまい、滞在中はほ麺屋か屋台でこの”豆腐”ばかりを食べていた。その後広東に下ったのであるが、広東ではついぞこのような”豆腐”を見ていない。やはり客家文化が色濃く残った、贛州独特の食材と料理なのかもしれない。
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香港甘味処

私はどちらかと言えば甘い物は得意ではないのですが、香港ではたまに”甘味処”へ連れて行かれることがあります。
香港 石磨坊の甜品写真は旺角の「石磨坊」。香港の”甘味処”の紹介など、今更私がやるまでもないほど、日本人にはよく知られています。しかし大陸で台湾や香港の「甜品(ティエン・ピン)」の店が見られるようになったのは、最近のことです。香港至近の広東ですら、まだそれほど多くはありません。

素材はタピオカやナタデココ、果物に小豆餡やアイスクリームやココナッツミルク、豆腐、焼きプリン、果ては胡麻汁粉や白玉団子などを組み合わせた、実にさまざまな「甜品」がありますが、総じて甘さは控えめで食べやすい。ただしボリュームは相当ありますね。

香港の「甜品屋」は、日本で言えば”蜜豆”や”あんみつ”、”ぜんざい”などを出す”甘味処”に相当するといえるでしょうか。「甜品」の多くは、夏は冷たくないと美味しくないですから、冷蔵設備と衛生管理の普及が前提になりますね。台湾と香港で「甜品」が発展したのも、そのような条件が早くから整っていたからだといわれます。香港の「甜品」を出すお店も、もとは台湾(台北)から来たものだということです。意外と台湾の「甜品屋」も、起源は日本の”甘味処”と”フルーツ・パーラー”にあるような気がしているのですが、どうでしょうか。あるいは昔から、冷たい甘い物をたべる習慣が南方にはあったのかどうか。
香港 石磨坊の甜品香港では20HKD-30HKD、日本円の今のレートでは250〜360円くらいのメニューが主流なのですが、深圳あたりの「甜品」の店では30人民元前後、今のレートで400〜450円くらいします。深圳の繁華街でも、15元前後で昼食が十分食べられますから、30元というのは結構良い値段ですね。それでも台湾、香港系の有名店はとても人気があるようです。とはいえ庶民的な価格とはいいがたいので、台北や香港のように、若い人が頻繁に気軽に行くようなところではないようです。
香港市内の「甜品」の店は、女性が良くゆくのはもちろんですが、男性ばかりのグループも多いところは、日本の「甘味処」の光景と違うところですね。
あまりに暑いと、暑さそのものがストレスになりますが、そういう時に冷たい甘いものを食べると、気持ちが穏やかになるそうです。またアルコールの分解には糖質が必要なので、深酒をした夜などは、寝る前に甜品をひとつ食べておくと、確かに翌朝は楽になります。香港の繁華街では深夜まで「甜品」の店が開いていますが、このような光景は大陸のほかの都市の繁華街には見られないですね。やはり「甜品屋」も、香港独特の文化というべきなのでしょう。
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元日の昼食

ここ何年か、日本で正月を過ごしていません。今年の元日は、江西省婺源県の硯職人氏の家で昼食をごちそうになっていました。
正月の食卓彼の家はこのあたりでは普通の半農家で、家で食べる野菜の類はほとんど自給自足です。

中央には、塩漬けにして干したアヒルの肉と、タケノコを炒め煮にした料理。タケノコは雪をかき分け、地中にあるうちに掘り出したものです。この日の朝に採ったというタケノコは、やわらかく香ばしく、とてもおいしいものでした。また雪をかぶった青梗菜や大根は、甘味が出てとろけるようにやわらかくなります。味付けは、農村らしく少し濃い目になり、御飯が進む感じです。暖房のない江南の農村の室内は実はとても寒いのですが、度の強い白酒も少し飲んで体を温めます。

中国では元日に特別な宴会はあまりやりませんが、このときは牛肉を使った料理と魚料理を出していただいていました。来客へのおもてなしの意味があります。このあたりの川は清流で、魚も淡水特有のクセがなく、味がいいものです。
器は各自どんぶりひとつで、適当にご飯をよそって、おかずを載せながら食べます。手前の赤と青はトウガラシの漬物ですが、漬け込んで酸味が出ると辛さもマイルドになり、少しかじりるとまた体も温まり、食欲も増します。

毎年こんな正月も、悪くないと思っています。
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栗と粟

ようやく今年の出荷もひと段落したので、閑話休題。
冬になると、大陸では街の辻辻で焼き栗が売られている。中国全土で確認したわけではないが、少なくとも北は北京、天津、南は珠海、深圳などで、焼き栗を売る屋台を目にしているから、まあ大陸の大部分、ということはできるだろう。普通に”栗”というと、クリノキのことも含めて言うが、栗の実のことは特に”栗子(リーズ)”という。

天津に”天津甘栗”はないが、甘栗の名店ならある、ということは以前に書いている。小生は焼き芋よりも焼き栗が好きなので、冬場はおいしそうな店を見つけて焼き栗を買うのが楽しみである。日本の路上でも、焼き栗の店がないわけではないが、どの町にもというほどではないだろう。
いわゆる”天津甘栗”は、実際は河北省や山東省でとれる栗から、選りすぐった栗を輸出しているのである。出港するのが天津だから”天津甘栗”というわけである。上海だったら”上海甘栗”になっていたかもしれない。しかし日本で食べられるような、大陸産の小粒で甘みの強い栗は、実のところ江南ではほとんど出会ったことがない。
上海の焼き栗写真は上海は浦東区、”世紀大道”の地下鉄出口付近の路上で売られていた焼き栗である。が、見た目は栗というより”どんぐり”である。それもほとんど球状の..........想起するところ”クヌギ”の木から落ちる”どんぐり”である。子供のころ、楊枝を刺してコマを作って遊んだ記憶がある、あれである。クヌギの木から落ちる丸い”どんぐり”は、軸を中心にうまく刺し、かつ軸を”どんぐり”の長さよりも極端に短くカットしてコマを作る。するとコマが回転しているうちに重心が移動してゆき、ついにひっくりかえり、軸を下にしてまわるようになるところが面白い。この丸い”どんぐり”も、作りようによっては同じように回るかもしれない。
栗はたいてい1個のイガに3個入っており、ほぼ均等に成長する。すると真中の栗はちょうど両脇に抑え込まれて扁平になるが、中国ではこれを特に「板栗」という。中には中心の栗のみが肥えて、両側2個を押しのけて成長してしまうこともある。両側2個は薄っぺらくまったく実がない格好になるが、中心の1個だけがはじけんばかりに丸くなる。おそらくこの上海の焼き栗も、そのように成長したのではないだろうか。みごとに丸い栗ばかりである。
上海の焼き栗上の写真のように、大陸でみかける焼き栗は、栗の腹の部分を横一文字に切って焼いている。焼きあがるにつれて実が膨張し、切れ目が裂けてくる。これが人が口を開けて笑っているように見えるということで、”開口笑”といわれる。食べるときはむろんのこと、ここから爪を入れることで皮を剥きやすいのである。この栗も”天津甘栗”と同じで、鬼皮を剥くと渋皮ごとつるりときれいに剥ける。”天津甘栗”には切れ目がないが、これはおそらく鬼皮もさほど厚くなく、爪を入れれば裂けるからであろう。江南で見かける焼き栗は、大抵は鬼皮が厚く硬く、爪を立てたくらいで切れ目を入れるのは困難である。切れ目を入れてから焼くのはえらい手間のようであるが、切れ目を入れないと爆ぜて危険だろう。”天津甘栗”が切れ目がないのにうまく焼けているのは、砂利と一緒に弱火で万遍無くじっくり焼くからだそうだ。
後蜀の何光遠「鑑戒録・容易格」には”栗爆焼氈破,猫跳触鼎翻(栗が爆発して毛皮を焼いて破損してしまい、猫が跳ねて鼎に触れれば、鼎がひっくりかえる”とある。栗が爆発する事故は、昔からあったわけである。

江南で食べる栗は”天津甘栗”ほど甘い栗はまれであるが、それなりにホクホクして香ばしく美味しいものにあたることがある。「あたることがある」というのは「はずれることもある」ということで、あまり甘くなかったり、焼き加減が悪く生焼けだったりすることもある。また栗はどうしても、中身が黒く変色しているなどの”ハズレ”が入っている。これは”天津甘栗”などでもまま経験されることであろう。一袋焼き栗を買ったものの、食べてみるとハズレばかりでいまいましい思いをすることもある。
焼き方は”天津甘栗”とおなじ恰好で、熱した砂利の中に放り込んでかき混ぜながら焼いている。焼けた栗は発砲スチロールの箱の中で保温し、客の求めに応じている。
あくまで個人的な経験に基づく話であるが、美味しい焼き栗を買おうと思ったら、栗を見るのではなく、売っている人物の人相風体を良く見たほうがいいかもしれない。そして栗を焼く手つき、栗をみる目つきなど。男女は問わないが、やはり若い人よりも、それなりの年季の入った年恰好の人がいい。また値段を聞くと、結構いい値段を言ってくる。ちょっと安くしてよと言っても、負けてくれない。試食させてくれと言えば、無造作に1個取って食べろという。こういう屋台の栗は、若干高めのような気がするものの、外れがほとんどない。また美味しい栗を売っているおじさんというのは、なぜかおじさんの顔も栗に似ているような気がすることがある。

ところで「栗」という漢字に”りっしんべん”を加えると「慄(リツ)」という字になる。一文字で震えおののくことをいい、「慄然(りつぜん)」「戦慄」というように使われる。
「不寒而慄」という語がある。「寒からずして慄(おのの)く」とでも書き下せようか。出典は「史記・酷吏列伝」の「義縱傳」で「是日皆報殺四百余人,其后郡中不寒而慄」という文からである。すなわち四百人という人々が報復で殺され、郡中の人々は冬でもないのに恐れおののいた、ということである。また「漢書・六十六巻」の「楊敞傳」では「下流之人、衆毀所歸、不寒而慄」とあるから”不寒而慄”は慣用的に用いられた語法なのかもしれない。
現在では「慄(リツ)」といえば「戦慄」「慄然」のように、心理面で衝撃をうけて「ふるえおののく」という用法で使われるが、もともとは「寒さに震(ふる)える」という意味だったようだ。ゆえに「寒くないのにふるえる」というつかわれ方があえてなされたのだろう。

しかし簡体字が使われる現代中国では「慄」という漢字の簡体字として、「栗」があてられている。理由はよくわからないのであるが、日本漢字における「慄」あるいは台湾・香港で使われる繁体字における「慄」は、簡体字中国語では「栗(くり)」になってしまうのである。中国の検索サイトなどでは「不寒而栗」で検索すると、上述の史記の文が検索される。中国の大手検索サイトである「百度(http://www.baidu.cn)」などで検索しても、検索文字列の入力欄に「慄」を入力しても「栗」に変換されて結果がでてしまう。ゆえに「不寒而慄」が「不寒而栗」になってしまうのである。
しかし「不寒而栗」というと”寒からずしてクリ”とでも書き下すしかなく、寒くないのにクリを焼いて食った、かのような話をイメージしかねない。

もうひとつ、「栗(クリ)」を「粟(あわ)」として表記している例も、検索すると多くみられる。「不寒而粟」になっているのである。現代中国簡体字でも「粟」は同じく「粟」である。もちろん「粟(アワ)」と「栗(クリ)」はよく似た字形だが、まったく別の植物である。寒くて鳥肌が立つことを、「肌に粟粒が出る」というように表現する。「不寒而粟」といえば「寒からずして粟(アワ)」ということで、寒くもないのに(恐れおののいて)鳥肌が立った、とでも解釈できなくもない。少なくとも「栗(クリ)」よりはずいぶんマシのようである........そう考えてゆくと「栗(クリ)」に「りっしんべん」をつけて「慄(ふるえ)る」という字を作るよりは、「粟(アワ)」に「りっしんべん」をつけたほうが似つかわしく思える。
ところが「りっしんべん+粟」は「憟(ショク)」という文字になり、これは阿諛追従、おべっか、という意味の漢字なのである。

「粟(アワ)」はもともと穀物一般を指す。高校の頃に習った韓愈の「馬之千里者、一食或尽粟一石」というのは、馬が「粟(アワ)」を食うのではなく、穀物一般のことである。また非常に小さな粒のことも言う。「滄海一粟(そうかいいちぞく)」は、”大海原に浮かんだちいさな粟粒”のように、とるにたらぬ我が身のことを言う。しかしここでも「粟」のところ誤用して「滄海一栗」と間違える例も多いようだ。大海原に栗が一個浮かんでいたところで、頼りないことには変わりないと思うが、これは間違いである。「栗」と「粟」は間違えやすい、ということは言えるだろう。意外と「不寒而粟」が本当かもしれない。
中国の雲南省と四川省の境あたりに「傈僳族」という少数民族がいる。「傈僳」は「リス」と読む。「傈僳族」の歴史は古く、文献に登場するのは唐代にさかのぼる。つい「傈僳」を「僳傈」と書いてしまいそうである。山奥で栗(クリ)と粟(アワ)を栽培して生活している人々、というように想像したくなる。「リス」という呼び名に、漢字をあてたのだろう。「傈」には廟堂を建設するための木材、という意味があり、また「僳」には「与える、贈与する」という意味があるが「傈僳族」の名称以外にはほとんど使われない文字である。誰が決めたのかわからないが、やや紛らわしい、人を食ったような文字の並びである。
上海の焼き栗現代では「粟(アワ)」を食する機会は、日本では少ないかもしれない。小生などは日常白米に麦と少量の粟を加えて炊いているが、日本ではほとんどの場合健康食品であって、主食にしているというほどではないだろう。
大陸では古代周王朝時代では、「粟」が主食であったと考えられている。今でも殻をむいた「粟」を小米といい、普通のコメを大米ともいう。北方では「粟」や「黍(キビ)」を炊いた、ほんのり黄色いおかゆが今でもよく食される。小豆や緑豆を加えたり、砂糖を入れるなどして食べることもある。主食ではないが重要な穀物である。
たいして「栗」は、こちらは今や限りなく嗜好品であるが、古代社会においては「栗」も主食であった時代と地域がある。この場合の「栗」はいわゆる「クリ」以外にも、椎の実などの「どんぐり」も含まれるが、東北の寒冷にしてコメのとれない山間部では、明治大正のころまで主食に準ずる重要な食物であったという。「栗ご飯」も、クリを主食にする生活の痕跡なのかもしれない。
日本に限らず、たとえば北朝鮮などでも、毎年秋になると、人々は競ってどんぐりの採取に山々へ行く。どんぐりはそのままではアクが強くて食えたものではないが、水にさらしてアクを抜き、すりつぶした後乾燥させて粉にする。北朝鮮ではこの”どんぐり粉(トト)”を使って、独特な冷麺につかう麺を作る。日本や朝鮮半島だけではなく、大陸の山間部においても同様な食文化をもった地域があったと考えられる。ちなみに大陸でも日本の「栗おこわ」のごとく、米とともに栗を蒸したり炊いたりすることはよく行われる。また栗を食べて育つイベリコ豚ではないが、大陸でも山の中のどんぐりを食って育った豚は美味とされ、この豚で作られたハムなど特に珍重される。
そう考えると「傈僳」というように、「栗」と「粟」を並べる感覚も、さほどおかしなことではないのかもしれない。「粟と栗を主食としている、山間部の少数民族」というところだろうか。

「栗」が「粟」と並んで、古代における重要な食物であったのであれば、あるいは混用もいたしかたないのかもしれない。しかし「不寒而栗」はどうもいただけない。やはり焼栗は寒い冬に食べたいものである。
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