硯材をもとめて

とある書道用品の卸しをやっている人との会話で、こんな話を聞いた。「今の人は、日本の墨しか買わないのですよ。唐墨はなかなか濃くならないし、良い硯は買わないし。」
たしかに、和墨は唐墨にくらべて早くおりるかもしれない。しかし唐墨も、鋒鋩の整った硯ですれば、濃度をえるのにさほどの労力は必要としないものである。しかし鋒鋩の堅牢な硯は少ない。仮に鋒鋩の弱い硯でも、適度に目立てをしてやれば良いのであるが、それをやる人も少ないようだ。硯面の研ぎなおしはそれほど難しい事ではないのだが、これが専門家でなければ出来ないと思い込んでいる人も多いという。
龍尾石硯龍尾石硯また、近年まともな硯材が輸入されていない事も原因だろう。端溪は旧坑系の硯材の産出が停止し、沙浦や宋坑が市場の主流を占めている。これらもまったく使えないことはないが、鋒鋩は弱いものである。使い始めは良いかもしれないが、毎回よく洗っていないと、すぐに磨り味が悪くなる。そういう説明をしながら売られているわけではないのだから、買ってから「がっかり。端溪なんてこんなもんか。」ということになってしまう。
龍尾石硯少し前は、学生用に羅紋硯の安価な長方硯が出回っていたものであるが、これも少なくなった。羅紋硯といっても龍尾石のそれではなく、徽州周辺のほかの山域から取れる材なのであるが、これはこれで使えないことはなかった。
端溪硯は良い物は離墨、つまり洗っていてすぐに墨が落ちるのであるが、粗慢な材は墨が落ちにくく、汚れてくる。鋒鋩が目つまりをおこしやすい。しかし歙州系の材は、総じて離墨が良いので、鋒鋩が長持ちする。あまり硯の手入れなどをしたがらない人には歙州系の材の方が使い勝手が良い物であるが、近年これも適当で手頃な価格の材が無い。
弊店で取り扱っている新老坑硯はお勧めできるが、いかんせん小さい上に数が少ない。値段もそれなりになってしまっている。これら新老坑の小さな硯とて、今の大陸では探してもなかなか仕入れられる品ではなく、今後の供給にも不安がある。
龍尾石硯龍尾石硯唐墨の輸入は平安朝の昔から続いているのであるから、日本の文房四寶や墨の文化を語る上で、いまさら唐墨抜きという話もないだろう。適切な硯が無いために「早く濃くならない」という理由だけで唐墨が敬遠されているのだとしたら、それは残念なことである。
良い硯が無いわけではないが、日本の業者は仕入れない。硯材ひとつでも、十数年前の軽く数十〜百倍くらいに値段が上がっている。ちょっとした美材でも、1個何十元で買えた時代があったのである。昔は一山幾ら?だったのだが、今では1個幾ら?の世界である。業者としては利幅が取れないし、デフレの続いた日本では値上げが出来ない。そもそも硯を買う人も少ない。長い間在庫しておくのも大変なので、仕入れたくないのだろう。
唐墨を専門的に扱う身としては、硯の問題は何とかしないといけないと考えていた。老坑水巌のような希少な材は望むべくもないが、美観を抜きにして実用性の高い硯を、手頃な価格で供給する道はない物か?硯匠と相談しているところなのである。石品は抜きにして、作硯様式は少し古いものに倣うにしても、実用性があり、ほどほどにキレの良い作の硯.......これを1個1万円くらいの墨を買う人に提供する道が無いと、今後の日本における唐墨の市場も先細りだろう。和硯の方が今や安価に感じることがあるが、和硯の鋒鋩はやはり唐墨には適合しにくいのである。
龍尾石硯硯一面に十数万円〜数十万円、出さないと唐墨の良さが分からない、というのではやはりちょっと問題かもしれない。良い硯は一生使えるし、価値を減じないものであるが、さりとていきなり手を出せるものでもない。失敗のリスクもある。手頃な硯で磨墨の面白さを知ってから、でもいいのではないかと考えている。
端溪はもはや良材を新たに入手するのは絶望的なので、やるとしたら歙州だろう。さりとて龍尾石は高騰してしまっている。その周辺山域で、佳材が無いかどうか.......人工的に作れる澄泥硯や陶硯では、油烟墨にはやはり少し粗い。米芾は”硯史”で多くの硯材を挙げている。石品や石色などをやかましく言わなければ、意外な佳材が、まだどこかに潜んでいるかもしれない。
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硯と改刻

”改刻”された硯を見かけることがある。すなわち一度作硯された硯を、後から手を加えて彫りなおすことである。”改刻”された硯としては、日本でみかける多くは、墨を貯める墨池を広く深く掘りなおしている例である。
墨池を持っていない、硯板ないし硯板状の作硯様式もある。また宋代の鳳池硯(ほうちけん)や箕様硯(きようけん)のように、墨堂と墨池が連続しているような作硯様式もある。しかし墨堂と墨池が分離した、いわゆる”実用形式”の硯を比較した場合、一般に古い時代の方が、墨池が穿たれた面積が小さいといえる。現代の実用硯の多くは、おおむね広い墨池を持っている。墨池のみならず、墨を磨る部分の墨堂も、硯縁から深く落ち込んでいる。いうまでもなく、現代においては作品が大型化し、消費される墨液の量が増えたためである。

一昔前の日本の書家は、大陸の硯を日本の業者を通じて改刻させ、墨池を広く掘りなおしてしまうことをしばしば行っていた。現在の大陸の実用硯は墨池の容積も大きいが、一昔前は新しい硯であっても、日本の硯に比べるとまだしも墨池の容積は小さかったものである。
しかし改刻されるのが新しい硯の場合であればまだいいのであるが、中には古い時代の硯を改刻してしまっている例もある。これはさすがにどうか?と思うところである。無論、硯などは実用の道具なのであるから、使えるように改作するのは勝手であろう、というのも一つの見解ではあろう。しかし古い時代の硯はしかるべき理由があってそのように作られているのであり、そういった経緯を一顧だにしないという態度は、いかがなものであろうか。
硯と改刻愛硯家に言わせれば、墨堂から墨池へいたる造作は、硯の美観を決める重要な要素なのである。墨堂から落潮部分を経て、墨池に流れ込む曲面は、適度な緊張感を伴った傾斜と連続性を持っているからこそ美しい。たとえ幅の狭い墨池であっても、そこに無限の深遠が穿たれ、満々と墨をたたえているように見えるものである。ゆえに四直の硯に墨池を掘っただけの簡素な実用硯であっても、墨池を見ればおよその時代と作硯家の技術がわかるものである。

しかし現代の実用硯の多くは、墨堂から墨池へと漫然だらりと、ごく緩慢になだれ込んでいる格好をしている。墨液がよどんだように墨池にたまった形勢は、何ら感興を伴わないものである。
他の部分を見るとなかなかの作行きであるのに、墨池だけが不釣合いに漫然と広くなっている硯というのは、十中八九、日本で改作されたものである。そのような硯を見せられると、ともかくも「口惜しい」という感情が先に立つ。口には出さねど、改作させた持ち主の見識の無さに、実に腹立たしい思いがするものである。
そういう硯を例として掲示したいと思ったが、あいにくそういった硯を手元に持っておくのは嫌なものなので、まず買わない。以下は10年以上前、杭州の骨董屋で見つけた硯である。
硯と改刻硯と改刻いわゆる鳳池硯と琴様硯の中間のような作硯であるが、宝珠を模した足の作りと言い、わずかに凸に膨らんだ墨堂部分といい、石の節理を縦にとっていることなど、北宋の作硯の特徴を兼ね備えている。出土した硯であろう。惜しむらくは硯頭部分が完全に破断していることであり、かつてはここにあったはずの墨池が存在しない。その代りに、墨堂部分に下手な造作で墨池を掘ってしまっている。むしろそんなことはしない方がいいのであるが、この硯を改刻した人物は、ともかくも墨池が無いと硯にならないと考えたのかもしれない。つくりを見る限り、作硯家の仕事ではない。墨池を掘って使おうという目的よりは、おそらくはこの硯を売らんがための浅慮な行いであろう。こういう硯を持っていても、頭を悩ませてしまうだけのなのであるが、参考資料ということで買っておいたのである。
なんにせよ、硯というものがわかっていない者達の手にかかると、あたら貴重な文物もかくの如しなのである。これは硯に限らないかもしれない。

しかし硯の改刻は現代だけに見られるものではなく、古くから硯の改刻は行われてきている。たとえば宋代の硯を改刻した例などは、乾隆帝の西清硯譜にもみられるものである。しかし改刻といっても、多くは硯の補修の延長にある行いで、優れた硯材を再生させる意味もある。ただ、中には適切を欠いた例もあったようだ。明代の馮夢龍「古今譚概」という文章に、硯を改刻する話がある。

『明有陸公廬峰者,於京城待用。嘗於市遇一佳硯,議價未定。既還邸,使門人往,以一金易歸。門人持硯歸,公訝其不類。門人堅證其是。公曰“向觀硯有鴝鵒眼,今何無之”答曰“吾嫌其微凸,路遇石工,幸有余銀,令磨而平之。”公大惋惜。蓋此硯佳於鴝鵒眼也。 』

『明に陸公(りくこう)廬峰(ろほう)という者有り,京城において待用す。嘗(かつ)て市において一(いち)佳硯(かけん)に遇(あ)い,價(あたい)を議(ぎ)して未だ定(さだま)らず。既に邸に還り,門人をして往かしめ,一金を以て易(か)えて歸(かえ)す。門人、硯を持ちて歸り,公の其(そ)れを訝(いぶ)かるに類(るい)なし。門人、其れは是れと堅證(けんしょう)す。公曰(いわ)く“向(さ)きに硯を観るに鴝鵒眼(くよくがん)有り,今は何ぞ之の無きや?”答へて曰く“吾(われ)は其の微(わずか)に凸(で)るを嫌い,路(み)ちに石工に遇(あ)うや,幸(さいわい)に余銀(よぎん)有り,磨(ま)せしめて之を平にす。”公は大に惋惜(えんせき)す。蓋(けだ)し此の硯の佳(よ)きは鴝鵒眼(くよくがん)に於ける也(なり)。 』

難しい文ではないが、大意を示しておく。

『明の時代、陸公(りくこう)廬峰(ろほう)という者がいて,都において宮廷に仕えていた。嘗(かつ)て市場で一面の良い硯にをたまたま見つけ,値段を交渉したのだが、買いたいと思う値段にならない。それで一度屋敷に帰り、門人をに市場に行かせ、一金で買って帰ってこいと命じた。門人は首尾よく硯を(買って)持ち帰えったのだが、公はそれが本当に求めさせた硯にであるのか、非常に疑った。門人は、これはたしかにお求めの硯ですと主張する。そこで公が尋ねるに“先刻、この硯を観たときには鴝鵒眼(くよくがん)があったのだが、今ははどうしてないのだね?”門人がこれに答へて言うには“私は眼のある部分が微(わずか)に出っ張っているのが良くないとおもったのですが、たまたま路上で石工にあい、幸(さいわい)におつりがあったので,石工に出っ張ったところを磨らせて平にしました。”公はとても残念がった。おそらく、此の硯の佳いところは、鴝鵒眼(くよくがん)にあったのだろう。 』

門人も、余計な事をするものである。この門人は気を利かせたようで、これほど気の利かないことも無いのである。しかし陸公にも、行き届かない者を買いに行かせた責任もある。なにゆえ自分で値段交渉をやりきって買わずに、あえて門人を行かせたかといえば、その方が安く買えるからである。市場の商売人も、相手を見て値段をつけるのである。それなりの役職についた士大夫を相手にする場合と、門人、すなわち書生程度のものが交渉する場合では、値段の下げ方が違うのである........話がそれるが、似たような話は、大陸の骨董街でも昔はよくあった。日本人が買いに行く場合と、中国の人、それも地元の人が買いに行く場合ではつける値段が違うのである。なかなか値引きしない骨董屋では、後で地元の友人などに頼んで買ってきてもらう、というのもひとつの方法なのであった。骨董屋に定価などあろうはずがなく、人を見て値段をつけるのである。ただし、昨今は大陸にお金持ちが増え、日本人は買いにくる人自体が減ったため、日本人だからと言って、極端に高い事は言われなくなったような気もする。時に「日本は不景気みたいだから安くしてあげよう」と言われることもある..............ともあれ、陸公も、自身が買うよりも書生に行かせた方が良いと考えたのだろう。
都の一定の身分以上の士大夫の家には、書童といって、書斎においてアシスタントをする者達がいる。彼らは同じ郷里のある程度の教育のある若者であり、住み込みで主人の手伝いをしながら、科挙の受験勉強をするのである。その屋敷の主人とは師弟関係、ということになる。日本の明治時代の小説に良く出てくる「書生」と同じような存在と考えて良いだろう。

鴝鵒眼を持つのであるから、この硯は間違いなく端溪硯であり、おそらくは墨堂に眼を残した作硯をしていたのだろう。眼を残す作硯では硯背に「眼柱」を立てる作硯技法があるが、墨堂ないし墨池の場所にも眼が出る場合がある。その場合は眼柱ほどの高さになることは稀であるが、やはり眼を残して作硯する。古い時代にそういう硯は稀に見られるものである。以下はその一例。
硯と改刻陸公の硯も、墨堂はもう少し削り込む必要があるが、まんべんなく平らにしてしまうと、眼が喪われてしまうような位置に鴝鵒眼が出たのだろう。そこで眼をのこして周囲を掘り込んだ結果、眼の部分がわずかに”凸”になっていたと考えられる。
眼を残したこの”凸”の部分があったところで、磨墨にはさして支障にはなっていなかったかもしれない。硯面に凹凸があれば、たしかに墨は磨りにくい。が、硯である以上、眼を凸に残したからと言って、墨を磨る平面の余地は十分残して作硯するものである。
しかしこの門人は使い勝手を考えた場合に、墨堂が広く使えなければ不便と考えて、削らせてしまったのだろう。実用本位でそうさせたのであろうから、門人の考えにも一理無いとは言えない。しかし硯の趣味性における”実用を兼ねた美観”という点からみると、これは無粋の極みである。おそらくは、陸公がこの端溪硯を買おうと思った理由も鴝鵒眼にあったのだろう。内心「一金の値打もなくなった」と慨嘆したに違いない。まさに「三文惜しみの銭失い」のような話である。

米芾が「硯史」の序文で述べているように、硯は実用性が第一とされる。しかし実用を妨げない範囲での装飾性、あるいは機能性の洗練による「用の美」などは、否定されるべきものではないだろう。また天然にあらわれる石品の美も、硯の魅力を構成する需要な要素である。米芾もそれを否定しているわけではない。眼を削り取ってまで、平滑である理由もないのである。
漫然と広い墨池に改刻された硯などは、硯というより「容器」に近づいた格好であり、事実広大な墨池になみなみと墨汁が注がれて使われることもある。墨を磨らないのであれば容器でいいのであって、事実墨汁用のポリ容器などが広く使われるようになっている.........昔の硯は使い勝手が悪い、と言う人もいるのだが、そもそもどうしてそのようなカタチをしているのか、立ち止まって考えてみることも必要であろう。現代の使用者の価値観を、古い時代に生まれた硯に押しつけるのは、それはやはり”酷(むご)い”というものであろう。改刻された硯をみるにつけ、痛々しい思いがするものである。
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新老坑硯三面

現在の大陸では、端溪硯といえば「氷紋」を持った材質がもっとも好まれているようだ。要は”老坑水巌には氷紋が出る”という事で、水巌が欲しい者が氷紋を求める、ということである。しかし”逆必ずしも真ならず”、氷紋が出るからと言って必ず水巌とは限らないことは言うまでもない。麻子坑にも坑仔巌にも、あるいは沙浦であっても氷紋が出る硯材がある。
しかし氷紋は、水巌に比較的多くみられる石品であることは確かである。しかし水巌全体から言えば、氷紋の現れる硯材は多くはない。そもそも水巌自体の採掘量が圧倒的に少ないのである。そのうえ氷紋が明瞭に表れている硯材となると、やはりなかなかお目にかからないのが現実である。麻子坑や坑仔巌よりも、老坑水巌全体としては氷紋の出る”率”は高いかもしれない。が、絶対数となると、何とも言いきれない。老坑水巌に比べれば、坑仔巌や麻子坑の採掘量は大きく、また沙浦の採掘量も圧倒的に多いからである。ゆえに氷紋が出ながら、老坑水巌ではない例もまた多くみられるのである。
しかし現在の大陸の市場では、そこまで厳密に鑑別をしていないので、氷紋が出て、ある程度温潤な材質であれば「老坑水巌」で通るかもしれない。「通ればそれでよし」とする向きも少なくないのであるが、それはいかがなものだろう。
たとえば印材の田黄なども、蘿蔔紋や紅筋といった、特徴的な石品が出ているものばかりを求めようとする傾向がある。本当はそれは入口に過ぎないのであるが、ほとんどの人はそこでとどまってしまう。オークション会社のスタッフやバイヤーであれば、そういった特徴に担保を求めるのであるから致し方ないのかもしれない。が、そこが彼らの”眼力”の限界でもある。
本来は、氷紋を傍証として真の老坑水巌にたどり着き、老坑水巌の材質の優れていることを知り、そこから”氷紋は出ていないが老坑水巌”を見抜けるようにさらに眼を養うべきなのだが、多くは”氷紋”を持って”事足れり”として終わっている。
蒐集家の中にも、資産形成が目的で集めている人もいる。そういった人にしてみれば、手放す時に”売れやすい”品物であった方がよいので、やはり特徴的な石品が出ている品に人気が集まるようになる。愛好家や研究家が追求する世界と、硯石の市場は別物と考えておいた方がいいかもしれない。
新老坑硯新老坑硯それはさておき、新老坑であるが、老坑水巌に近接する硯坑であるだけに、比較的氷紋が出やすい。また氷紋に伴って金線、水線といった石品も”比較的”多く現れる。おそらく氷紋も金線、水線も、同様な形成過程を経ていると考えられる。そういった石品が出やすいことは、老坑水巌、新老坑を含む”老坑系”の硯材の特徴であるといえるかもしれない。
しかしクドイほどに繰り返しているように、石品はあくまで”傍証であるにすぎない。硯材の真骨頂はその石質にあるのであり、石質の優劣を持って鑑別されることが必要である。石品を見て材質を見ないというのは、やはり”木を見て森を見ず”である。なので玄人は、氷紋や金線が出ているからと言って、老坑であるとは断定しない。しないが、しかし石質が温潤で、氷紋や金線がはっきり出ている場合「老坑かもしれない」という、可能性程度のことは考える。そこから先は、仔細な検討が待っている。
素人あるいは日本、中国を問わず業者の大半がそうであるところの”半可通”は、氷紋を見ればもうそれだけで老坑と即断してしまう。そもそも現今の業者の多くは、氷紋があれば老坑で通るのだから、それ以上の検討など必要としていないのかもしれない。そういった浅い断定の繰り返しだから、いくら長年の経験を積んだといっても、ごくごく浅い経験であって何のアテにもならない。
新老坑硯新老坑硯小生は将棋を少しかじるが、ある程度戦型を研究して手筋を覚えると、局面を見れば第一感で指すべき”手”が浮かぶようにはなる。しかしそこからが素人と玄人の分かれ目、あるいはアマチュアとプロの分かれ目、時間いっぱいどれくらい深く検討できるかが勝負を決めるのである。第一感で浮かんだ手でもって指し続けている人というのは、何年たっても上達しないものである。
モノの見方もこれに似ていて、玄人ほど第一感に頼らずに仔細に検討して判断を下す。場合によっては何か月も、何年も判断を保留にすることもある。氷紋を見て老坑だ、と即断したり、蘿蔔紋や紅筋が出ていなければ田黄ではない、と言っているようでは、たとえ10年、20年やっていても見る目は鍛えられない。そのはずなのだが、モノを見て即断即決をやる人というのは、素人受けはするようだ。そういう人というのは実のところ”粗忽”以外の何者でもないのであるが、経験年数だけは長かったりする。それでもって、あるところでは権威として”通って”いたりするから、なるほど滑稽ではある。いや言葉が過ぎたか。
新老坑硯新老坑硯ともあれ、再び入荷ができた新老坑小硯三面である。昨今、市場に良質な端溪硯は払底している。ゆえに毎回少量づつしか仕入れられないのであるが、それはご了承願いたい。
今回の三面のうち二面はうっすらとであるが、氷紋が現れている。また三面とも金線、水線が認められる。金線にせよ水線にせよ氷紋にせよ、造岩の過程で岩石に亀裂が生じ、そこに別の成分が入り込んで形成されたと考えられる。老坑水巌に”氷紋が多い”、ということはいわれるが、いまひとつの傍証として”金線が走っている”、ということも言ってさしつかえないだろう。
しかし氷紋が出たからと言って、そういった硯材の石質がとりわけ温潤で鋒鋩が緻密堅牢ということではない。氷紋が出ても出なくても、墨を磨る性能や、質感の温潤さには関係しない。材質という観点から見れば、今回の三面もほぼ横並びに優れている。
作硯という点からいえば、龍や鳳凰、麒麟や蛟などの仰々しい神獣は出てこないが、瓜瓞、芭蕉、瑞雲、壁虎(やもり)など、親しみやすいモチーフが選ばれており、簡素で品よく形作られている。

氷紋の有無にこだわらず、作硯や石色も含めて、お好みの硯をお選びいただければ幸甚である。
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石眼がいっぱい

端溪硯を特徴づける石品(石の紋様)の代表といえば、眼、石眼があります。しかし実際のところ、眼の出ている硯材というのは非常に少ないものです。少ないだけに、古来、眼の出た端渓硯は珍重されてきました。
近いうちに、さる蔵硯家の協力のもと、眼の特集をお店のページに掲載しようと企画しています。
端溪の石眼夏目漱石の「草枕」にも、眼を持った端溪硯が登場します。この硯、蜘蛛を象(かたど)った作硯なのですが、蜘蛛の背にひとつの眼、そして八本の足にひとつづつの鸜鵒眼(くよくがん)があると描写されています。抜粋すると、

「中央から四方に向って、八本の足が彎曲(わんきょく)して走ると見れば、先には各(おの)おの鸜鵒眼(くよくがん)を抱かえている。残る一個は背の真中に、黄(き)な汁(しる)をしたたらしたごとく煮染(にじん)で見える。 」

また

「なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く潤沢(じゅんたく)を帯びたる肌の上に、はっと、一息懸(か)けたなら、直ただちに凝(こ)って、一朶(いちだ)の雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。眼の色と云わんより、眼と地の相交(あいまじ)わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど吾眼(わがめ)の欺むかれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹(むしようかん)の奥に、隠元豆(いんげんまめ)を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど類いはあるまい。しかもその九個が整然と同距離に按排されて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の逸品をもって許さざるを得ない。」

とあります。

巷間、眼の出た硯はなかなかお目にかからなくなりました。もともと眼のある硯材が少ない上に、人気が高いからです。端溪がどんな硯石かわからない人でも「眼が出ているから端溪」というような事を言いいます。それほど、端溪といえば石眼であり、愛硯家であれば、石眼を持つ端溪硯を一面は所有したいと思うものなのです。

端溪も坑洞によって、眼の出やすさが違います。一般に旧坑系の材では坑仔巌には比較的多く眼が現れます。”比較的多く”と言っても、他の硯坑と比べてのことですが。また麻子坑や老坑水巌でもあらわれますが、これは稀です。また北嶺の端溪では、半辺巌に比較的多くあらわれます。また梅花坑という硯石は、”梅花”の由来が数多く出た石眼を梅花と形容してそう呼ばれるように、別種の硯石のように石眼が多く出ます。なので梅花坑といえば、眼が出ていて当たり前、のようなところがあります。
端溪の石眼贅沢を言えばきりがないですが、石眼といっても、良いもの悪いものいろいろなレベルがあります。色であれば、一般に濃い翡翠色、青緑のものが最も好まれます。しかしそういった美しい眼は、旧坑系の硯材にしか現れません。翡翠の色が浅い物はそれに次ぎますが、一般にはやや緑がかった、あるいは赤味のさしたような黄色が多いです。草枕にも”黄(き)な汁(しる)をしたたらしたごとく”とありますね。

また眼というだけに、”瞳(ひとみ)”が無いとどうにも落ち着きません。しかし意外と、きれいに”瞳”の入っている眼は少ないもの。瞳の無い眼は”死眼”などと言われて、やや縁起の悪い名前で呼ばれたりもしています。対して瞳の入った眼を”活眼”とも呼びます。梅花坑の硯材には、瞳の無い眼が無数に出た材が散見されます。
端溪の石眼また瞳があったとしても、暈(うん)を巻いているかどうか?という問題があります。眼は何層にも暈を巻いたものほど珍重されるのですが、やはりそういった暈をきれいに巻いた石眼は非常に少ないものです。
さらに言えば”煮染(にじん)で見える”と草枕にあるように、輪郭がぼんやりした眼も多いもの。まわりの硯材との境界が、くっきりと明瞭に出ている眼というのは、これもまた少ないものなのです。

すなわち、色、瞳の有無、暈の数、明瞭さ、大きさ、などが眼の価値を決める場合の基準になるといえるでしょう。そもそも眼の出た硯材は少ないのに、そのうえ品評しようとなると、なかなか厳しい話です。

以上は眼そのものの鑑別の基準ですが、硯として考えた場合、さらに考えるべきポイントがあります。それは硯のどの位置に出ているか?でということです。作硯家は、硯石に眼が出た場合に、もちろんその眼を生かした作硯をします。宋代には眼柱という独特な作硯様式が生まれました。端溪の石眼また墨堂や墨池の中心にあえて眼を置くということはまずありません。墨を磨っている時には眼が隠れてしまうからです。しかし硯材に石瑕があればそれを避けたいし、形よい硯に仕上げたいという欲求もあります。そうした点からみると、眼が作硯家を悩ませる場所に出ていることもしばしばです。そして”欲しいところに眼がない”場合に、後から眼を埋め込んだ、いわゆる”嵌め眼”という技法もあります。
草枕にも「しかもその九個が整然と同距離に按排されて」とありますが、実際に蜘蛛の八本の足の位置に”おあつらえ向き”に眼があろうはずがなく、おそらくは”嵌め眼”でであると考えられます。(ちなみに草枕の硯は実在し、夏目漱石はこれを実見していたと考えられます。)
端溪の石眼端溪の硯材を採石している際に、硯にはならないが、眼の出ている小片が出ることがあります。これは嵌め眼用に取っておかれます。また硯材にも、どうにも生かしようが無い位置に眼が出ることもあり、そういう場合も削り取られ、とっておかれます。こうした嵌め眼用の材料もご紹介しようと思います。

眼の有無で端溪の価値を論じてしまうと、”木を見て森を見ず”に陥る危険性が大きいです。そもそも硯の実用性、磨墨の性能や温潤さと眼は関係がありません。大昔は、眼は忌み嫌われて削り取られていた時期もあったといわれます。また老坑水巌に眼の出た材は本当に少ないもの。眼よりも蕉葉白や青花、火捺、氷紋といったところを観たいところです。しかし端溪を鑑賞する以上、石眼は避けて通る事ができませんから、ここらで集中的に整理しておこうかと思います。乞うご期待。

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硯と宝石

今回の上海は前半は知人と行動を共にしていたのですが、奥さんへの土産を探したいということで、二人で南京路や豫園の宝飾品店やゴールドショップを何店舗か見て回っていました。しかしいいものはなかなか無いものです。金でできていることくらいが値打ちであって、デザインに関して言えば、買って帰ったら逆にセンスを疑われそうなものしかありません.........日本では時々、西洋アンティークのショップで、18−19世紀のイギリスのアンティーク・ジュエリー、アクセサリーを選んでいるような人なのですが、私も一緒に見に行ったことが何度かあります。現代は欧州の貴金属の細工物というと、日本のアクセサリーショップの細工に比べて若干大味なところは否めないかもしれません。しかし大英帝国の栄えていた、19世紀くらいまでのロンドンの宝飾店の貴金属細工は繊細で見事なものです。さすがに世界に先駆けて産業革命を成し遂げた国、金属加工や精密加工にたけているということなのか、非常に緻密な細工がみられます。また造形の感覚も現代に通用するような洒脱で良い品があります。今の欧米のアクセサリーにみられるような、”ボッテリ”と重たい感じがないのですね。また宝石や真珠は小粒ですが、良い形をしていて使い方がうまい。
さすがにあのレベルの金銀細工を観ていたら、申し分けないけれど南京路や豫園で観光客相手の店でペンダントトップを探しても無駄骨、というところなのでした。あるいはもっと気の利いた品を置いている店もあったのかもしれませんが、何せいつも骨董街ばかりを回っていたもので、そういった女性が身につけるような品物については大陸では捜索範囲外。最近、金相場が暴落して、大陸では値下がりした金を買いに走る人が殺到したということですが、そのせいでいいデザインの品が不足していたのか?いやもともと不細工なモノしかなかったのか........

私はジュエリー、アクセサリーの類はもちろん専門ではないのですが、”石”つながりということで、宝石や真珠、アクセサリーの類を扱う人と話をする機会が時々あります。
硯は文房四寶ですが、印材も文房には欠かせない材料です。硯を愛好する女性はめったにいませんが、印材は最近”宝石に準ずる貴石”というような扱いで、色や姿の美しい物を愛好、蒐集する女性も多いようです。
印材には壽山石や昌化石など以外にも、水晶や玉や翡翠が入ってくることがあります........そういえば、昔東京有楽町にいた印材の目利きの爺さんも、昔は宝石店をやっていた、と聞いたことがあります........そして玉や翡翠になると、雲南経由で入ってくるミャンマーの翡翠がたっとばれます。ミャンマーまで来ると、ルビーやサファイアの産出地としても有名ですね。ルビーはタイのものが最上とされますが、実は日本の宝飾品店の多くは、ジュエリーの加工を長年タイでやっているところが多い..........
その道の人に話を聞いていると、やはりルビーなども硯と同じ天然石ですから、厳しく選ぶと良い物はなかなか無い、ということがわかります。硯は石品が無くても、石瑕があろうとも、実用に優れていればそれだけの価値があります。しかし宝石はいうなれば見た目がすべてです。
石の色や”テリ”、含有物、宝石に加工されたときのプロポーションなど、いくつかの見る”基準”があるということです。宝石の場合は厳選すると値段もとてつもなく高くなるので、とてもじゃないですが買う対象ではなくなってしまいます。しかしそういった”基準”を知っておくのは、”石”を考える上での参考にはなります。
まあ、贈る相手もいないのにそんなに詳しくなってどうするのだ?と見られる向きもありますが、話の内容は硯にも通じて面白い。たとえばルビーの場合は、色が薄すぎても魅力がないし、濃すぎると暗い色になる。また色がちょうど良くても、石そのものの組成が粗いと研磨しても”テリ”艶が出ない。また天然の証しであるところの含有物(インクルージョン)が多すぎるのも問題です。あまり意識していなかったのは、形(プロポーション)。宝石の形なんて大きさは別として、皆おなじようなものだとおもっていましたが、考えてみれば田黄や芙蓉などと同じ、原石あってのモノなのでした。透明な石なので、適度な厚みがないと深みのある色合いに見えない、ということなのだそうです。プロポーションは原石の大きさや形状に左右されますから、どんな原石でも理想的な厚みにカットできるわけではない、ということです。
これらは大雑把な理解なのですが、もちろんこれだけ知っていても宝石の鑑定士になれるわけではありません。全然無理。またルビーやサファイアは人工も優れていて、化学的な成分は天然とほとんど同じで、見た目だけで鑑別するのは実のところ難しい。レーザーを駆使した、一台何千万円もするような専用の機械を使うのだということでした。いざ買う段になったら、信頼できる専門店に相談した方がいいのでしょうね。
宝石を扱う人は「色、テリ、形」といった理想がそろった宝石を手に取ることを夢見るそうですが、硯も「材良し、作良し、来歴良し」といった、三拍子そろった硯というのは、本当にめったに出てこない。また端溪なら「眼、氷紋、蕉葉白が出たもの」というような。
宝石は硯に比べると、世界的に大きな市場があるので、基準もかなり安定したものができてるようです。しかし硯は宝石に比べれば圧倒的に愛好者が少ないので、勢い基準も主観に傾斜してしまいがちです。
「ダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルド。これら以外は基本的に宝石じゃないと思った方がいい。また必ずゴールドかプラチナに合わせたもの。シルバーを使っているものは、何か問題があると思った方がいい。」ということも聞きました。これも「端溪、歙州、松花江以外の諸硯は手を出さない方がいい。箱は端溪なら紫壇、歙州なら漆箱。」というような話と通じるような気がします。硯の場合はそこまで極論してしまうと、本当に手に取れるものが少なくなってしまうのですが。

しかし天然由来の宝石はともかく、金銀細工は加工なのだからなんとかなるのではないか?と思うとやっぱりそういうわけにはゆかない。細工するにあたっての、地金つくりの段階から高度な技術がいるようです。金は純金では柔らかすぎるので、微量の銅や銀などのほかの金属を混ぜるわけですが、19世紀以前のイギリスの金細工などは、どういう組成の金の合金になっているのかわからないとか。現在の金の合金の基準とは違うと聞いたことがあります。現代は冶金技術が発達して、かなり精度の高い安定した合金を作ることができますが、昔は職人ごとの秘伝でやっていたのですから面白いですね。こういう話も、たとえば墨の文字を埋める金の純度を見る際の参考になります。また細工の細かさや、彫る線の様子なども、良い物とそうでないものは全然違う。硯や墨も、彫り方、刻線の様子で時代や職人のレベルを推測できるのと同じ感じがします。

「一芸は百芸に通じる」とまでは行かないかもしれないですが、近い領域の話というのは聞いておくと勉強になるものですね。無論、まずは一芸に深くなる必要がありますが。確かに、文物の世界でも、非常に深い専門領域がある人は、ほかの領域も生半可な自称玄人以上、ということをまま目にします。反面、「いろいろ知っているよ」という人が一番分かっていない、ということも多い。
色鮮やかな宝石の世界も心惹かれるものが無いわけではありませんが........まあ浮気しないで硯墨に専心したいところです。
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漢代の漆硯

揚州の筆匠を訪ねた際に、少し時間が余ったので広陵王の漢墓を見学に行くことにした。墓の主である初代広陵王は漢武帝の息子、劉胥(りゅうしょ)である。揚州一帯は昔広陵(こうりょう)と呼ばれていた。
劉胥は皇族ながら、熊を素手で撃ち殺し、鼎を持ち上げるほどの大力の持ち主であったという。自身が帝位につくことを画策したというが、宣帝に謀反の罪を着せられて服毒自殺を命じられた経緯については司馬遷の史記にも記述がある。後に元帝によって名誉回復が行われ、劉胥の子が広陵王を継承したのである。

博物館の入口には編み物をする年配の婦人が何人かおしゃべりをしていて、誰が入ってこようが一向に気に留める様子がないあたり、いかにも国営の博物館といった風情である。建物の外観も文革時代の近代建築を思わせる造りであるが、中がとにかく暗い。実際問題、展示物もよく見えない。明るくできるか聞いたのであるが、やる気がないのか壊れているのか、無理だというのであきらめた。こういったところもいかにも地方の国営博物館である。

広陵王の永い眠りを妨げない配慮なのかもしれないが、真っ暗な墓の内部に入ってゆく気分というのは、盗掘者もかくやであろうか、いささか薄気味悪いものがある。原寸大の陶製の従者や車馬、すなわち”俑(よう)”に相当するものなどが置かれていることがかろうじてわかるが、暗すぎてただただ不気味なだけである。

別室の展示物も、見ると複製か本物かよくわからないものが多いのだが、漆器のいくつかは本物が展示されているようだった。
漢代の器物については、その紋様に興味がある。当時は神仙思想が上流階級や知識人階級を中心に浸透していった時代であり、器物には神仙思想に基づく意匠が多くみられるのである。広陵王漢墓の漆器については、仙人の原初的なイメージである、羽の生えた人物が雲気の中を飛翔する、”羽化人”が知られている。しかし展示室の照明の加減が悪くてやはりよく見えない。
漢代の漆器この漆器のワンセットは、ずいぶん前に日本でも展示されたような記憶がある。朱漆と黒漆を使った見事な造りである。西洋のイメージでは、陶磁器と言えば中国で、漆器と言えば日本ということになっているが、そうなるまでには少なくとも江戸時代までは下る必要があるだろう。
黒と朱を使う技法については、ずっと時代が下がった明代や清朝の堆朱、堆黒といった漆技法にまで継承されている。赤には丹砂を、黒にはおそらく木灰を漆に混ぜていると思われるが、その配色には陰陽の思想的な背景があると考えられている。日本の漆器も重箱の内側は赤く、外側は黒、あるいはその逆という配色が古くから用いられているが、源流は漢代のこの頃の漆器に求められるのかもしれない。
これらの器物を見る限りでは、前漢時代にすでにかなり高度な漆器の制作技術が確立されていたことがうかがえる。劉胥が謀叛の罪で自殺を命ぜられて死んだのが紀元前54年のことであるから、優に2000年以上前の製作物である。この時代、日本では弥生時代の中後期にあたる。日本ではまだ土器を作るのがせいぜいだった時代に、大陸ではすでにかくのごとくである(上流階級の持ちモノではあるが)。当時の大陸と列島では、産業技術力の格差と経済規模の違いたるや、まあお話にもならなかった、ということである。
漢代の漆器もうひとつ、屋根付きの小屋のような格好をした漆器があった。目いっぱい感度をあげてもこの程度の写りなので、なんだかよくおわかりになられないやもしれない.......光量を絞っているのは文物の保護のためかもしれないが、それにしても「見せる気があるのか?」というくらいの暗さである。紫外線の照射が問題なら、LEDで紫外線カットをした光源を使用すればよさそうなものであるが......人感センサーで照明をオン・オフしているというわけでもない。ただひたすら暗いのである。
長方形の容器を、ピラミッドのような四角錐の頂きをカットした格好の蓋(?)が半ばを覆っている。蓋の部分は黒地に朱漆で唐草のような紋様が描かれている。説明を見ると「漆硯(しっけん)」とだけある........漢代にすでに漆で作られた硯があったとすると、これは今まで知らなかったことである。
現代では多くは作られないが、昔から漆硯、というものはあった。日本の漆器の世界でも古くから作られている。ウルシ液の塗料に細かい砂のような研磨剤を混ぜ、それを器に塗り重ねる。最後に砥石で表面を軽く磨いてやると、漆の中の研磨剤が露出する。この研磨剤が鋒鋩の代わりをつとめ、墨が磨れるというわけである。軽く持ち運びに便利なので、矢立(やたて)等と一緒に、携帯用の文房具として利用されていたのである。
この器物が本当に、現代と同じく墨を磨るための硯なのかどうかはわからない。硯面も暗くてよくわからないので、鋒鋩がどうなっているのか、判別しがたいものがある。しかしこれが前漢時代の漆硯だとすれば、こういった硯に合う墨があったということになる。

漢代の墨というと、"墨丸(ぼくがん)"という、松烟の粉末を丸く固めたものであったとされる。これを円盤状の石板、すなわち硯の上で底面が平らな小さな石を使って押しつぶし、すりつぶし、粉状に戻した後で膠なり漆なりの媒材と混ぜて墨液を得ていた、というのが通説である。現代のように膠と煤をあらかじめ混ぜ合わせて固めた墨は、文献上では後漢末から作られ始めるということになっている。
松烟をすりつぶすのであれば、乳鉢の内側と同様、鋒鋩は滑り止め程度にしか必要ないということになる。また素材は堅いほうが都合がいい。漆で定着させた鋒鋩では、固めた煤を再び砕いて粉末状にするのには、表面がやや脆弱で適していないような気がするのである。漢代の硯というのは、現代の硯における鋒鋩の役割が、膠で固めた墨の溶解を助ける働きをする性質とは、違った機能を果たす器具のように思えるのである。
この辺りの事情は、漢代の墨や硯の現物資料が少ない出土例しかないだけに、考えさせられるところである。果たして本当に硯なのだろうか?容器の内側は、鋒鋩状のザラツキがあるのかもしれないが、確かめようがない。もちろん、この漆器がもし硯で無いのなら、何のための道具なのか?ということにもなるが。

ともあれ、漢代の漆器は造形的にも非常に優れている。大陸の漆器といえば、明代の堆朱がよく知られているが、それらなどはずっと時代がさがって作られたものであり、明代からさかのぼること唐代にも宋代にも、優れた漆器が数多く作られていたことだろう。しかし陶磁器などに比べると、漆器の現存数は圧倒的に少ないものである。照明の加減には難があったものの、この貴重な漆器を見れたということで満足し、広陵王の墓を後にした。
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硯市場雑感

今まで大陸で「景気がいいですか?」と聞くと「いいね。」とか「まあまあだね」という返事が返ってきたものである。しかし今回の渡航中に「景気がいいですか?」と聞くと「まあ、普通」とか、はっきり「悪い」「あまり良くない」という返事が多かった。今年に入って、中国も景気が後退していることを皆実感しているような雰囲気である。GDPの成長率をみると今年は7.5%、来年は予想8.5%と、数字だけ見ればそれでもすさまじい成長率であるが、庶民の実感はまた別にあるようだ。
新老坑小硯美術品、古美術品の市場も例外ではなく、書画、とくに現代作家の作品は昨年あたりから急落している。ここ7、8年くらいの美術品市場の動きを大雑把に振り返ると、初めの頃は当然のことながら、古い時代の書画が高くなった。しかし古典作品はあまりに偽物が多く出回ったために、次に売買の対象が現代作家にシフトしてゆく。今生きている人が書いた作品であれば、確実に本物、というわけである。そして現代作家の作品でありながら、近代以前の作品よりも、おおむね高値で売買されるようになる。
普通に考えると、数が増えることのない古書画のほうが、現在活動している作家の作品よりも常に相場が上回るものなのである。が、これが逆転したというわけである。そのピークが、たしか2年前くらいだったように記憶している。今はそれも急落してしまっている。
急落といっても、見た目の価格が下がるということだけではない。むろんそれもあるが、取引そのものが急激に減ってしまったのである。値札は付け変えなければ価格は変わらないが、すでにそのお値段というのは過去の数字なのである。ひとつには市場が縮小したことと、さらには作家自身の濫作も影響しているだろう。
新老坑小硯書画や陶磁器が高騰を続けていたころ、我らが文房四寶は比較的緩やかな価格上昇にとどまっていた。上海の著名な墨のコレクターなどは、あつめた墨の価格が大してあがらないので、奥さんから「マンションを買っておけばよかったのに!」と怒られる始末。硯や筆も騰がってはいるが、書画や陶磁器のような値の付き方ではなかったのである。
書画や陶磁器が下落基調に転じた現在であるが、しかし硯や墨は下落する気配がない。どころか現在はゆっくりであるが評価が高まる傾向にある。
文房四寶ではないが、10年前と比較しても印材は暴騰した。とくに田黄、鶏血、芙蓉などの著名な材はどうしようもなく高値になってしまっている。面白いのが、古印材よりも新印材、綺麗で大きく傷のないものが高く評価されることである。一昔前は日本では馬鹿にされていた巴林石なども、大きさと見た目の美しさによっては、非常に高価な品になっている。つまりは宝石に準ずるような価値をもつ鉱石として、いまの印材市場が形成されているのかもしれない。
印材は一時のような暴騰の傾向は沈静化しているが、書画のように相場が大きく下落した、という気配はない。どころか、印材全体の価格はじわじわと上昇基調にある。それは田黄や鶏血のような著名な印材ばかりではなく、実用の青田や昌化石にまで及んでいるのである。実用の青田石は値段があがり、また近年の採石手法が発破を使うなど乱暴なため、亀裂を含まない良材は市場に少なくなっている。

書画に関してはバブルが弾けてしまった感があるが、印材や硯などはジワリと価格を上げている。その理由を考えると、ひとつには印材も硯も限られた天然資源、ということがあるのかもしれない。書や画は紙があれば人為によって(駄作佳作は別として)好きなだけ作ることができるが、印材や天然石硯ばかりは無尽蔵というわけにはゆかない。採石する量は多くとも、佳材はそもそも少ないのである。
とくに硯に関して言えば、大陸においても徐々に鑑別や賞玩の基準ができつつあることも、影響していると考えている。その傾向を概観した限りでは、どうも一昔まえの日本の硯石趣味の変遷をトレースしていることが感じられる。ともかく大陸でも硯をはじめとする文房四寶の趣味が、広がりつつあることが感じられるのである。広がる、というよりも復活してきた、というべきか。
新老坑小硯過熱気味の経済成長の過程では、まあ悪い言い方だが、いわゆる”成金趣味”が大陸中に蔓延した感がある。人の趣味は勝手なわけだから、そういった趣味性を一概に攻撃するのもどうかと見る向きがあるが、衆目の眉を顰(ひそ)めさせるようなお金の使い方が、ほうぼうでみられるのも事実である。しかし、小生の知る極々狭い範囲かもしれないが、中には歴史と伝統の中に精神性を尋ね、心の平安と美意識の洗練を求める人たちも、わずかずつであるが増えてきている。
どうも日本人、特に長く大陸に住む日本人の中には、大陸の人々というのは結局はお金お金で、精神的な豊かさにかける、などと断言して憚らない人もいる。しかし厳しい言い方をすれば、そもそもそう言い切る人々の中に、どれほどの文化に対する理解があるのかは、疑ってみなければフェアとはいえないだろう。漢詩漢籍、文房四寶や書画にまったく興味が無いような人は、いくら長く大陸に住んでいたとしても、そういった方面の素養の高い人々と交際する機会を持つことは、まずないであろう。
古典的な文化に関心を持つ人々というのは、正確に統計はできないし、また割合として多くを占めるとは小生も言えないのであるが、絶対数だけはかなりの人数に上るのではないかと考えている。特に20歳代、30歳代の若い世代にそれをみるということは、特筆に値するといえるかもしれない。大陸の若者すべてが日本のアニメや漫画に夢中と考えるのは、これは早計に過ぎる見方なのである。

また硯石の相場が上向きに堅調である別の理由としては、やはり硯の良材の採石が中断してしまっている、ということがある。端溪は老坑をはじめ、麻子坑や坑仔巌といった、佳材の坑道が軒並み閉鎖されている。老坑にいたっては、坑道の入り口を閉鎖したうえに公園を整備し、完全に採石ができなくなってしまっている。現在採石されているのは、沙浦、ないしは西江はさんで対岸の宋坑といったいわゆる北嶺の硯材のみなのである。
歙州龍尾石についてもどうようで、基本的に採石は停止されている。とはいえ、多少はこぼれ出てくるものもあるのだが、数量は限られてしまっている。

とはいえ硯ならなんでもいい、ということではない。現在の大陸における硯の需要は、鑑賞用が大部分であるから、端溪でいえば沙浦などの、巨材がとれて石品が出る硯石であれば事足りるのかもしれない。ほかに、端溪と同じ紫色をした硯石で、四川省や山東省でとれる材料もある。そういった材は墨を磨って良いものではもちろんない。観賞用に凝った彫琢を施して、硯の格好をした置物になるのがせいぜいなのである。
玄関なり客間なりに、観賞用に使いもしない硯を置くというのは、文房趣味というよりも多分に”文人気取り”の趣味であり、かえって俗悪なことはなはだしいのであるが、それと気づかない人も少なくないのだろう。そういう硯の需要というのは、粗悪な書画と同じで、大陸における不動産バブルの崩壊と同時になりをひそめてしまっている。
硯は使用を考えなければ、ただの石の彫刻でよく、硯としての使用に耐えないが見た目は良い硯材は、建材の石と同じで豊富にとれるのである。大量に作られたその種の硯が、今は売れなくなって困っているところは、最近はままみかけるものである。鑑賞硯の相場は、大きく崩れてるとみている。

今の大陸の硯の市場というのは、本格的に硯を使おう、あるいは集めよう、という人が支えている、と個人的には考えている。たとえあまり使わなくても、本気で良い硯や良い材質を追及する方向に、関心が向かっているように思えるのである。
印材が見た目の美しい新印材に傾斜していったのとは対照的に、硯は古硯も評価されている。その昔、日本に流入した大量の硯が中国に還流しているが、かつて倣古硯として日本に輸入されたものが、いまや堂々と古硯でまかり通っている、というような面白い現象も起きている。鑑別の資料として、戦後日本で出版された多くの書籍が参考にされているので、勢いそうなるのかもしれない。またいまひとつの資料として、硯の墨拓をとった拓本をあつめた「硯譜」がある。古来愛硯家蔵硯家が多くの硯譜を残しているが、収録されている硯には銘の入った硯が多い。そのせいか銘文の彫られた、いわゆる在銘硯が人気を呼んでいる。

とはいえ佳材であれば新旧問わず人気が出るが、なかでも端溪、とりわけ老坑水巌はほしいという人が多い。やはり産地の坑道が閉鎖され、佳材が市場に見られなくなってきていることも、心理的に影響しているだろう。現在の大陸にあっては、新老坑と老坑水巌の区別は、必ずしも厳密ではない。かつての日本でもそうであったが、氷紋、金線があれば老坑、というような大雑把な鑑別が通用している。ゆえに氷紋や金線の多い新老坑は、大陸では今や老坑水巌として通ってしまっている。
何度か強調しているが、新老坑というのは、端溪の歴史上でも屈指の佳材である。老坑水巌と厳格に区別することの是非については異論もあるわけだが、区別したとしても立派に老坑水巌に準ずる材である。同様に入手難な麻子坑や坑仔巌の旧坑に、硯としての性能は十分に対抗できるものである。「老坑にあらずんば端溪にあらず」とばかりに、捨て置いてしまっているような愛好家も多かったのだが、実用面から考えるとこれ以上の佳材を求めることは、現実的には難しい。端溪以外なら、龍尾石の一部がこれにかなうだろうか?
老坑水巌にしろ、新老坑にしろ、もはや新たに採石することは望めない硯材なのである。弊店でも数は少なく、小さいものであるが新老坑硯を扱っている。「将来値段があがりますよ。」とか「じきになくなってしまいますよ」みたいな事を煽るつもりはないのであるが、現実に新しい入荷は期待薄になってきているし、価格もなかなか厳しくなってきた、という実感がある。文房四寶のお店として、硯を扱わないのもさびしい話なので、今後も少しずつ並べておきたいのであるが、これがいつまで出来るだろうか。いよいよとなったら、陶硯や漆硯も検討しなければならないかもしれない。

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桃と長壽 〜献壽硯

新老坑の小硯。桃の形をした硯である。小さいながらも青花、氷紋、金線が認められ、老坑の雰囲気を漂わせている。桃の形をした硯は、「桃様硯」とはいわずに普通は「献壽硯(けんじゅけん)」という。献壽硯西王母から帝王が不老長寿の薬として桃をもらう話が古くから伝えられている。ゆえに桃は不老長生の象徴として扱われる。また「桃」の現代の発音は「táo」である。寿(壽)の発音は「shòu」であるので異なるのだが、さんずいをつけて「濤」になると「tāo」である。平水韻では「桃」も「濤」も同じ「下平四豪」に属しているので、唐代のころはほぼ同じ発音であったと考えられる。どうも「献壽」と「献桃」は「濤」を介して連想されたようにも思えるのである。ともあれ「献桃」は「献壽」なのである。

”桃”にまつわる呪術性については、ここでくだくだしく述べるまでもないだろう。しかし西王母との関連でいえば、西王母から帝王に贈られる長壽の霊薬として”桃”が描かれるようになったのは、西王母が記述に登場するようになってから、ずっと後のことである。
西王母は「西母」という名ですでに殷代の卜辞にも表れるが、文献としては戦国春秋時代から漢代にかけて成立した「山海經」、「荘子」あるいは戦国春秋時代の「楚辞」にもその名が現れる。漢代の歴史書である史記や漢書にも、周の穆王が西王母と会見した話を読むことができるが、そこに桃は登場しない。前漢の淮南子には、羿が西王母からもらった不死の薬を嫦娥が盗んで月に逃げた話(奔月)がおさめられているが、不死の薬としての”桃”は登場していない。
「山海經」で描かれる西王母はボサボサの頭髪、虎の歯と豹の尾をもつ怪物であり、後世の美しい女仙としてのイメージとは程遠い。しかしほぼ同時代の荘子では、道を会得した仙人とされ、また淮南子の「奔月」でも不死の薬の出所とされているから、”不老長生”と関連付ける見方は、古くから存在したと考えられる。
一方の”桃”については、「詩經・周南・桃夭」に“桃之夭夭、灼灼其華”とある。「夭夭」は若々しく美しい様子であり、桃の実を形容していると考えられる。 「灼灼其華」は「華(花)」が「灼灼(しゃくしゃく)」ということであるが、「灼灼」は明るく鮮やかであることをいう。花も愛でられる対象であったのだろう。あるいは「詩経・大雅」に”投我以桃、報之以李”とあり、李(すもも)と並列される果物であることがうかがえる。「詩経・召南」にも「華如桃李」として登場し、「華(花)」としてやはり李(すもも)と類似するものとしてあらわれている。さらに西周時代の民謡と考えられる「詩経・魏風」には”園有桃”という詩があり、そこに「園有桃、其実之肴」とうたわれている。「肴」は「食べる」という意味でつかわれているから、西周時代には既に桃が栽培され、実が食用にされていたことをうかがわせる。とはいえ西王母や不死の薬との関連性は認められない。しかし「桃夭」に「桃之夭夭」とあり、若々しさを象徴している点は、のちの不老長生のイメージとの関連を暗示させる。
献壽硯西王母と不老長生の果実としての桃が登場するのは、漢代を経て魏晋南北朝時代(184-589)に書かれたと言われている「漢武帝内傳」というテキストである。
この漢武帝内傳は、後漢の班固(32-92)の著作とされている。班固は後漢が成立した年に生まれている。父親の班彪が遺した「漢書」の編纂作業を継承し、のちに連座して投獄、獄死しているが、妹の班昭が漢書を完成させている。「漢武帝内傳」を班固が書いたのであれば、後漢初期の文章ということになるが、実際は南北朝時代のどこかで班固に仮託して書かれた説話であると考えられている。「漢武帝内傳」は「隋志」に収録されているので、すくなくとも隋の時代にはすでに知られていた書物であったのだろう。
この「漢武帝内傳」に、武帝が西王母から桃をもらって食べた話が書かれているのである。すなわち「以玉盘盛仙桃七颗、大如鸭卵、形圆青色、以呈王母。母以四颗与帝、三颗自食。桃味甘美、口有盈味。」とあるのがそれで「(侍女が)玉のお盆に仙桃が七個盛られたものを西王母に奉げた。大きさは鴨の卵のようで、形は丸く青い色をしていた。西王母は四つを武帝に与え、自身は三つを食べた。桃の味は甘く美(うま)く、その味が口の中にあふれた。」ということである。。
この桃、「鴨の卵」の大きさというからさほど大きくはない。また「青」とあるから未熟な桃を思い浮かべたくなるが、「桃味甘美、口有盈味」とあり、「盈」は「みちあふれる」という語であるから、ジューシィな果実としての桃が想起される。また7個のうち4個を武帝に与えたのは、大切なお客さんだから多く出した、ということではなく、男性(陽)の武帝には偶数(陰)の四個を、女性(陰)である自身は奇数(陽)である3個をとったのだろう。
この後武帝は桃の種を貰おうとするのだが、西王母に「実をつけるまで三千年かかる。」と言われてあきらめた、ということになっている。「桃栗三年」という語があるが、「三千年」というのはやはり普通の桃ではないということである。
6世紀、北魏時代の「斉民要術」には「仙玉桃,服之長生不死」とあり、不老長生の霊薬としての”桃”のイメージが定着していることがうかがえるが、「仙玉桃」とあり、やはり普通の桃ではない。

西王母は、紀元前の「山海經」に描かれる蓬髪の怪物としての姿から、時代を経るにつれて美しい女仙の長として定着してゆくが、この過程で西王母の”不老長生の薬”も、甘美な果実である”桃”があてられるようになったと考えてよいかもしれない。また”桃”そのものにも、若々しさや豊穣といった意味付けが、「詩経」にうたわれる古い時代からあったことも関係していると考えられる。

「献壽」ということであれば、今一人「麻姑」という女仙による「麻姑献壽」がある。麻姑は東晋の葛洪の著書である「列仙傳」に、美しい女仙としてあらわれる。「麻姑(マコ)」の登場は唐突のようであるが、南方の少数民族の信仰との融合が指摘されている。「麻姑献壽」は、麻姑が美酒を献じて西王母の長壽を寿(ことほ)ぐ図として、あるいは桃を奉げる姿として、画に繰り返し描かれるようになる。しかし麻姑が桃とともに「献壽」の図像となるのは、西王母の場合よりもさらに後代であるから、ここではこれ以上は述べないでおく。

”桃”を象った作硯においても、かたどられているのは普通の桃ではなく、玉桃、仙桃といった不老長生を暗示する桃なのである。ひとつには帝王の長壽を表すが、一方では西王母に象徴される女性の若さ、美貌をあらわしてもいる。男女どちらの持ち物としても、ふさわしい意匠であるといえるだろう。

ところで硯の作硯様式でいえば、ただ「桃」があるだけではなく、「青鸞(せいらん)」という鳥が桃の実を咥えた格好の「青鸞献壽硯(せいらんけんじゅけん)」という硯式がよく知られている。この硯式については、また別の機会に考察したい。
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李賀「楊生青花紫石硯歌」

端溪における硯石の採掘は唐代にはじまるとされている。1952年湖南省長沙の唐代の墳墓から、端渓石で出来た箕様硯式の硯が出土している。また1965年には、広州動物公園内の唐墓から、やはり唐代の箕様硯式の端溪硯が出土している。
よって発掘資料によって、唐代に端溪硯が存在したことは確認できている。また唐代より前にさかのぼる、端溪石硯の資料は見つかっていない。出土資料を見る限りでは、端溪硯の採石はすくなくとも唐代にさかのぼることが出来るといえるだろう。
ちなみに箕様硯とは、農具の箕(き)の形状をした硯式で、鳳池硯に連なる作硯様式とされる。
唐末の動乱から南唐を経て北宋にはいると、欧陽脩(1007〜1073)の「硯譜」をはじめ、梅堯臣、蘇軾や米芾、晁貫之といった士大夫が、硯について詩文を残している。これらの文から、北宋から端渓やそのほかの石硯についての考証、鑑別が進んだことがわかる。
唐代端溪紫石硯唐代端溪紫石硯しかし唐代の詩文のなかからは、端溪硯に関して述べているのはこの李賀の詩だけなのである。欽定四庫全書の「端溪硯譜提要」にも、”考端硯,始見李賀詩”と書かれている。つまり端溪硯についての最も古い文は、詩も散文も併せて、この李賀の「楊生青花紫石硯歌」という詩なのである。
他にも端溪の硯石に関する文があったものの、亡失してしまった可能性もある。唐代末期の動乱は非常に激しく、また長期にわたった。たとえば唐代の楷書は書の精華であるが、真蹟として現存するものの少なさ(ほとんど出土品)を思い合わせれば、その損失の大きさが思いやられるところである。(だから日本に東晋の筆跡が残っているなどというのは、奇跡に近いのである)。それでも唐代に端溪石に関する詩文がほかに存在した可能性は否定できないが、現在の確認できるのは李賀の詩のみなのである。

以上の理由から、硯の歴史を考える上で李賀の「楊生青花紫石硯歌」は非常に重要であるといえる。しかし、ややわかりにくいところがあり、現在まで適切な解釈を見ない。もともと難解といわれる李賀の詩である。この「楊生青花紫石硯歌」について言っても、実際に唐代の紫石硯をみたことがないと解釈しきれないところがあるかもしれない。以下、(借り物ではあるが)唐代箕様硯式の紫石硯を観ながら、解釈を進めてゆきたい。

端州石工巧如神 踏天磨刀割紫云
傭刓抱水含満唇 暗洒萇弘冷血痕
紗帷昼暖墨花春 軽漚漂沫松麝薫
干膩薄重立脚? 数寸光秋無日昏
圓毫促点声静新 孔硯寛碩何足謂

こころみに書き下せば、

端州の石工、巧みなること神の如く,天を踏み刀を磨(と)ぎ紫雲(しうん)を割(さ)く。
傭(たいら)に刓(けず)り、水を抱(いだ)いて唇(しん)を含満(みた)す,暗に萇弘(ちょうこう)の冷血(れいけつ)の痕(あと)を洒(すす)ぐ。
紗帳(さい)は昼暖かにして墨花(ぼっか)の春,軽漚(けいおう)は漂沫(ひょうまつ)して松麝(しょうじゃ)薫(かお)る。
干(乾)膩(かんじ)薄重(はくちょう)にして脚は?(ひと)しく立ち,数寸の光(こうしゅう)は秋の日の昏(たそが)れる無きがごとし。
圓毫(えんごう)は点を促し、声(こえ)は静かつ新(しん)。孔硯、寛(ひろ)く碩(あらわ)るといえど何ぞ言うに足らん。

となろうか。以下聯ないし句ごとに読んでゆきたい。

「端州の石工、巧みなること神の如く,天を踏み刀を磨(と)ぎ紫雲(しうん)を割(さ)く」

「踏天」は、古くから「踏地(地団駄を踏む)」という用法があるが、ここを「踏天」としている。神のごとき石工が”紫雲”を割くのであるから、彼は天にいなければならない。紫雲、あるいは紫霞は優れた気(瑞気)が寄り集まった雲であり、神仙が乗る雲とされる。紫色の端溪石は、すぐれた天の気が凝り固まって出来た、という意味を含んでいるのである。

「傭(よう)して刓(けず)り、水を抱(いだ)いて唇(しん)を含満(みた)す」

「傭(よう)」は「平ら」という意味だが、この1字で平らに削る、という意味がある。「刓」も同じく削ることであるが、彫琢を施す、という意味がある。合わせて作硯するということになる。
「唇」はいわゆる「硯唇」のことで墨液をためる部分、今でいう墨池を指すところである。つまり「水を抱く」というのは、墨堂と墨池を水で満たす、ということになる。
写真に箕様硯の例を示しているが、この作硯様式では現在の硯のように墨堂と墨池が明確に分かれていない。墨堂に水を注ぐことは、同時に墨池を満たすことにつながるのである。そして水を注いだ後に「萇弘(ちょうこう)の冷血(れいけつ)の痕(あと)」があるという。

「暗に萇弘(ちょうこう)の冷血(れいけつ)の痕(あと)を洒(すす)ぐ」

萇弘(ちょうこう)は周の時代の人物とされるが、「淮南子」には周王朝の天文史官であったと記述されている。周王朝の為に諸侯に外交し成果をあげるが、叛逆を疑われて周王の命令で殺された。親族が哀れんでその血を集めて秘蔵したが、三年の後に美しい碧玉に変わったという。これは萇弘の忠心、潔白を表わす出来事として、後世に伝えられた。あるいは碧の玉は、萇弘の恨みが凝り固まったとも解釈される。「荘子・外物編」には「萇弘死于蜀,藏其血三年而化為碧」とある。
すなわち「萇弘冷血」とは、萇弘の死後に碧玉に変わった血潮のことである。この李賀の詩の題には「青花紫石硯」とあるが、碧玉と化した血をもって、端溪の石品である青花を喩(たと)えていると考えられる。
「洒(すす)ぐ」とあるが、硯石を水で濡らすことで、初めて青花が明瞭にあらわれることを言っているのであろう。「暗」は、暗(くら)いという意味ではなく、「潜んでいる」というほどの意味である。青花の鑑賞は古くから「水に浸して太陽の下で見る」と言われるように、硯石が乾いた状態では判別しがたい。
石品の青花から血痕を想起するあたりは凄惨ですらあり、ここは李賀らしい比喩である。青花といっても、まったくの「ブルー」ではなく、微かに青みを帯びている程度の、ほとんど黒色の石品である。乾いた血痕も黒く変色するから、刑死した萇弘の三年経過した血潮とイメージが重なっているのである。

ちなみに李賀はこの”萇弘の血”のイメージが好きなのか、代表作のひとつである「秋來」でもこれを用いている。すなわち「秋來」の最後の聯、

秋墳鬼唱鮑家詩
恨血千年土中碧

この「秋來」でうたわれている「恨血」は、死したのちの李賀自身の血である。自身の血もすなわち萇弘の血のごとく、千年後には碧玉と化すのだ、とうたっているのである。

ついでに付け加えると、この”碧玉”をエメラルドと訳している解釈も見受けられる。これはさすがにハイカラに過ぎるところで、やはり緑色を帯びた玉石と考えるべきだろう。「碧玉」は、碧(みどり)色の玉ということになるが、いわゆる翡翠の色である。端溪には翡翠条という、翡翠のような青緑の色をした筋状の石品が出ることがある。またこれが点状になった翡翠点、翡翠眼という石品もある。しかし詩の題に「青花」とあるので、やはり萇弘の血は”青花”をたとえていると考えるべきであろう。
またよくしられているように、端溪には石眼という石品もある。なかでも鸜鵒眼(くよくがん)は、ヒスイを思わせる深い緑をしている。萇弘の血が「碧玉」となった故事から連想して、萇弘の血とうたわれている部分を、石眼として解釈しているものも見受けられる。しかしこれも詩の題と一致しない。
ちなみに「碧(みどり:グリーン)」と「青(あお:ブルー)」は別の色ではないか?と思われがちであるが、それは現代日本語を当てはめて考えるからである。「碧海」「碧空」、あるいは「青山」「葉青」というように、「ブルー」に「碧」、「グリーン」に「青」があてられることも少なくない。「青」と「碧(みどり)」はいわば同系色として扱われているのである。

「紗帷は昼暖かにして墨花(ぼっか)の春」

紗帷(さい)は薄絹のカーテンであるが、古代の書斎では、採光のため机はきまって窓際に置かれている。机のすぐ前の薄絹を通して、日の光が机を照らしているのである。
「墨花」とは、直接的には”墨液”を言う。硯の上でも紙の上でも、花開くように自然と墨液が広がってゆき、かつ墨の香りが漂うからである。すなわちこれが”墨花の春”ということになる。しかしこの”春”が比喩としての春なのか、実際に春の季節なのかは判然としない。
ともかく寒い冬は膠が凝り固まるし、夏は湿気で膠が重い。春ないし秋が好適なのである。また薄い絹のカーテン越しに日差しが机上に差し込んでいるのであれば、硯の石品も墨色もつぶさに鑑賞できるということになる。

「輕漚(けいおう)は漂沫(ひょうまつ)して松麝(しょうじゃ)の薫(かお)る」

「輕漚(けいおう)」は浮かんだ水泡であり、「漂沫(ひょうまつ)」は「泡沫漂飛」であるから、墨を磨りながら、浮かんだ泡がはじけ飛ぶことを言うのだろう。「松麝」は松烟と麝香、すなわち墨の原料であるが、墨の香りを指す語である。唐末の馮贅の「雲仙雑記」には、玄宗皇帝は松烟と麝香を用いて墨を作り、龍香剤と称したという記述がある。(高級)墨に麝香が用いられることは、唐代には広く知られていたと考えられる。「松麝」は墨の香りあるいは、墨そのものを指す詩語になっているが、あるいは李賀が初出かもしれない。
ここではすなわち、墨を磨りながら、墨液から墨香が芬芬(ふんぷん)として漂う様をうたっている。
しかし実のところ墨を磨っていて泡がたつというのは、良い状態で墨が磨れているとは言い難い。墨の膠が重いか、硯面と墨の磨墨面が適合していない時に泡がたちやすいものである。

「干(乾)膩(かんじ)薄重(はくちょう)にして脚立ちて?(ひと)し」

「干(乾)膩薄重」は、すなわち「干(乾)膩(かんじ)」と「薄重(はくちょう)」である。まず「干(乾)膩(かんじ)」であるが、「膩」は脂じみていること、脂気のあることを言う。「乾く」ことと矛盾するようだが、これは端溪石が、乾いていながら温潤な質感を持っていることを言っている。
また「薄重(はくちょう)」は「薄い」のに「重い」ということである。すなわち密度が詰まって、充実した石質であることを形容していると解釈できる。
硯が「薄い」ということであるが、現代の鈍重な硯ばかりを見ていると「硯が薄い」ということがピンとこないかもしれない。これは写真の箕様硯をご覧いただければと思う。

一般に唐代から宋代にかけての硯は、硯石を薄く削って造りこんでいる。また唐代より以前、漢代から五代にかけては陶磁器で出来た硯、いわゆる「陶硯」が広く使用されていたと考えられている。陶磁器で作られた硯は、陶磁器に準ずるだけあって、形状も皿や容器の延長上にある。陶磁器はどうしても肉が薄く作られる。石硯が広く使われるようになると、石とはいえ陶硯の形状を模倣するために、やはり肉を削って薄く瀟洒に作られたのだろう。
石塊を削って薄く作りこむのは、機械などない時代は大変な作業である。硯材も作られる硯に対して、ずっと大きなものが必要である。また削る部分が大きくなることで、石傷も表れやすくなる点は不利である。薄く作硯する技法は北宋に頂点を迎えるが、時代が下がるにつれて硯も肉厚になってゆく。硯材が枯渇するころになると、整形を最小限に抑えた、天然形もあらわれるようになるのである。

次の「立脚?」は「?しく脚の立つ」あるいは「脚の立つこと?しい」と読んでも同じであるが、この部分は古来定説を見ない。墨をまっすぐに立てて磨っている様子を示している、などという解釈を見るのだが、「干膩薄重」は硯の姿を形容しているのであり、前後意味がつながらない。
唐代端溪紫石硯唐代端溪紫石硯ここは唐代の箕様硯の姿を見れば、意味がわかりやすいであろう。鳳池硯や箕様硯には2本の脚が付いており、硯頭部分の底面と三点で硯を支える格好をしている。後方の両脚が「?しく」なければ、安定して立つことは難しい。グラグラと不安定な硯であれば、至極使い心地が悪いであろう。やはり「端州の石工は神の如し」なのであるから、キッチリ正確に作られているのである。

「数寸の光秋は日の昏(たそがれ)る無し」

「数寸」が硯を指すのか、墨を指すのか、ここも解釈が分かれている。硯として解釈している本もあれば、墨としている本もある。しかし次に「光秋」と続いている。「秋光春色」というように、色彩の春に対して、秋は無彩である。色としては”白”をもって代表される。北方の秋といえばはや霜が降りる季節であり、また白い月光が夜の地表を覆うのである。
杜甫の「茅屋为為風所破歌」には「秋天漠漠白昏?」とある。また李賀の「南山田中行」には「秋野明,秋風白」とある。黒い墨について「白」とうたうのは合わないようであるが、ここで李賀は墨の色ではなく、その光沢についてうたっていると考えられるのである。硯と解釈している文もあるが、前の聯では墨を磨っており、次の句ではその墨を用いている。墨の乗った硯を「光」と形容するのはいささか不自然である。またこの硯は端溪の紫石硯であり、紫雲とたとえている。無彩色である秋をつかって形容するのも、やはりここではそぐわない。

次の「光秋」の二字も問題なのであるが、「光秋」という詩語、用法は古い詩文にはまったく見られない。二文字を前後入れ替えた「秋光」は古くから用いられている。秋の日の光、あるいは秋の「光景」を指す。あるいは「光秋」は「秋光」の間違い、という説もある。
平仄の都合で、文字を入れ替えることはある。たとえば「両三枝(2,3本の枝)」は「liǎng sān zhī 」で、「仄平平」になるが、これを「三両枝」として「平仄平」としている用法は少なくない。
「光秋」はどちらも平声である。唐代の発音は現代中国語とは異なるが、平仄にはほとんど変化がないとされる。全く変化がないわけではないといわれるが、すくなくとも「秋光」という、よくつかわれる詩語などは平仄が変わるほどの変化ないと考えられる。すなわち「秋光」は2文字平声なので、入れ替えても平仄は変わらないのであり、平仄を整えるために文字を入れ替えた、と考えるにはあたらない........ほとんどの解釈ではここを「秋光」として訳している。しかし小生はここは「光、秋」と区切ってもいいように思う。そうすると、

「数寸の光、秋の日の昏(たそがれ)る無き」

さらに明確に比喩であるから、”ごとし”を補って、

「数寸の光、秋に日の昏(たそがれ)る無き(がごとし)」

としてもいいだろう。「秋の日」は秋の澄んだ大気に輝く、太陽の光である。つまり艶やかな墨の光沢が白く光り、その光が「昏」すなわち翳(かげ)ることがない、とうたっているのであろう。

唐代は松烟墨が主流であったと考えられ、松烟墨は油烟墨に比べて光沢はそれほど強いものではない。しかしすでに南朝斉の簫子良は、三国時代の韋誕の墨について「仲将之墨,一点如漆」と述べている。すなわち(漆のような)光沢は、すぐれた墨の条件として認識されていたと考えていいだろう。
後世には墨の光沢、すなわち墨光の鑑賞もすすみ、宋代の晁貫之の「墨經」では「凡墨色紫光为上、墨光次之、青光又次之、白光之下」として、その色にも鑑別を加えている。また墨色をその色と光に分けて鑑賞するべきとしている。このような墨色に関する詳細な鑑賞は、唐代以前の文章からは見ることができない(亡失しているのかもしれないが)。あるいはその”異常に鋭い”と評される李賀の色彩感覚をもってすれば、彼の独創ではないかとも考えられるのである。
無論、すぐれた墨の色沢をうたうことは、同時に硯材がすぐれていることを示唆している。また「日の昏(たそがれる)無し」というところでは、いつまでも墨が乾くことなく保たれるという、やはり硯の材質の良さ(保水性の良さ)を述べていることになる。石質が粗慢で水がしみ込みやすい硯材では、墨液は乾きやすいのである。

次の句では、その墨に筆を浸して用い始めるのであるが、さきほど「松麝薫」として磨った墨を、いきなり用いていない点も注意したい。磨ったばかりの墨は気泡もあり、濃度も安定していないから、しばらくおいて落ち着かせてから使用したと想像される。その間に改めて硯の均整の取れて優れていることを見、また墨の光沢を鑑賞したと考えられるのである。

「圓毫(えんごう)は点を促し声は静新」

「圓毫」は「丸い毫」すなわち筆鋒、筆である。また筆鋒が丸いことは、すぐれた筆の条件である。「点を促す」の「点」は点画を書くこと、あるいは筆を墨に「点ずる」、つまり筆鋒を墨液に浸すという解釈も可能である。「促(うなが)す」というのは、あたかも「圓毫(筆)」が早く書けと催促しているかのような気分であり、書きたくてうずうずしている書き手(李賀)の心理を表しているのだろう。前の聯で、磨った墨をしばらく時間を置いていることとも対応していると考えられる。

問題は次の「声静新」なのであるが、ここ解釈も分かれるところである。ひとつには「硯の声」。つまり筆を墨に浸す際に、「静新」な音がする、という解釈がある。たしかに硯材には「石声」といって、叩いたときの響きによって鑑別する法がある。端溪の場合、低く湿った音を「木声」、高く澄んだ音を「金声」などという。しかしやわらかい筆先でもって筆を硯につけたときに、いかほどの「声」がするであろうか?「静」とすれば「無音」と解釈できるが、しかしこれでは「新」の説明にはなっていない。
いまひとつの「声」のについては、墨をつけた筆でもって、紙に書くときの「声」という解釈がある。宋詩には「下筆春蚕食葉声」という詩句がある。科挙試験に臨んだ受験生たちが、一斉に答案を書く際の、筆鋒と紙との摩擦音のことである。この「声」を春の蚕が桑の葉を食べる「声」になぞらえたものである。この場合は「静」を「静かな音」と解釈できる。しかし「新」がどのような意味かがやはり曖昧である。
どうも「声」を硯の響きや、筆と紙の摩擦音とするのは、いまひとつしっくりこないのである。

ところで「声」には、「音」以外にも「楽曲」「詩歌」という用法がある。唐代に流行した詩文の形式に「楽府」があり、これは民謡などの決まった曲調に合わせて書かれた詩文である。必ずしも楽器の演奏をともなくことなく、吟謡されてうたわれた。現代でも詩の朗読会などがあるかもしれないが、詩文は一語一語の発音の連なりそのものに音楽性を求められたのである。意味と同時に声調も重要なのであり、李賀は十代半ばにしてこの「楽府」の名手であったという。ゆえに小生は「声」は詩文のことであり、「静新」は「静かつ新」と解釈できると考えている。また「静」は静寂(silent)ではなく、古くは純粋、あるいは善美といった用法がある。あるいは平穏、安定、恬淡という用法がある。この詩では「干膩」あるいは「薄重」と、二字を並べて対比する表現をとっているが「静新」も同様だろう。ここで「静」を「新」と対比させるなら「恬淡としているが、陳腐ではない」とでも訳せようか。

優れた道具は、その使い手の仕事を楽しくする作用があるということは、現代ではなかなか意識されないかもしれない。北宋になるが、蘇軾の「孫莘老寄墨」には、孫覚から墨を贈られたことを「又復寄詩械」と、つまり詩の創作意欲を沸き立たせる物を贈られた、とうたっている。またその墨色について「幽光発奇思(幽光、奇思を発す)」といい、墨の淡い光沢が詩のインスピレーションを与えてくれる、と述べている。
李賀は優れた硯で佳墨を磨り、そこで優れた筆が「促す」とうたっているのである。紙には言及していないが、これらすぐれた文房四寶に「促される」ように詩文を書く、という気持ちを解釈する必要があるのではないだろうか。
音楽家がすぐれた楽器を求めることは理解されやすいのであるが、詩人や文筆家が、すぐれた文房四寶を手に取る気持は理解されがたいようだ。もっとも書家ですら硯を持たず、墨をすらない時代に、その理解を求めるのは難しいのかもしれない。

「孔硯、寛碩といえど何ぞ言うに足らん」

この「孔硯」を孔子廟に祭られている古い硯であるとし、孔子の使っていた硯であるとする解釈がある。明代や清朝の注釈化は「孔子様の持ち物にケチをつけるとはけしからん。」と非難しているという。はたして孔子の硯を指すのだろうか?「寛碩」は「寛頑」とするテキストもある。そして孔子の硯が「寛(ひろ)く」「頑丈」だと解釈している。しかし孔子が使っていた(とされる)硯がそれほど多いわけではないはずでる。実際に李賀がそれを使ったことがある、あるいは目にしたことがあるということだろうか?(そもそも春秋戦国時代にどのような硯が使われていたかは、これはこれで大きな問題なのであるが)
ここを「寛碩」とすると、「碩」は「碩学」というように「非常に知られる」という意味がある。とすれば「寛(ひろ)く」とあわせて「広く知られて評価が高い」と解釈することができる。孔硯が広く知られるためには、1個や2個ではききそうもない.........孔子の生まれた魯の国は現代でも魯硯として硯の産地でもある。現在でも端溪や歙州ほど有名ではないが、河北省の易水硯と並んで、古くからの硯の産地として知られている。今では山東省の硯が良いといわれてもピンとこないが、かつての四大名硯のひとつ、紅絲硯は山東省の硯であることを忘れてはならない。
孔子が生まれたという、山東省の尼山からも硯石が産出した。尼山硯という。あるいはこれを孔硯と呼ぶのではないか?という説もある。また魯の国では(現代でもそうだが)孔姓の人物が多い。作硯の職人も孔姓が多ければ、これを孔硯としても不思議はなさそうだ。
また唐代に採掘がはじまった端溪硯が、次第に旧来の硯石を凌駕していったことを併せて考えたい。端溪に比するに、孔子様のような特定の人物の特定の持ち物を対比させるのは、やはり思考の上から考えても無理があるようである。やはり李賀は、それまで石硯で著名であった魯硯にたいして、端溪硯の優れていることをうたっているのであろう。

ところで明代や清朝の注釈家が言うように、孔硯を孔子の硯として、李賀がこれをこき下ろしているとするのは無理がある。しかし天才的な文学的才能がありながら、若くして科挙の受験機会すら奪われ、官途を永遠に断たれたのが李賀である。魯の硯をあえて「孔硯」として、端溪の下に置く気持ちも多少あったのかもしれない。いうまでもなく、魯の国で作硯が発達したのは、学問の伝統の基礎にたってのことである。李賀は官界での栄達どころか、その入口すら閉ざされていた........残されたのは、詩文で後世に名を残す道だけだった。その詩文にインスピレーションを与えてくれる端溪の硯を、儒教の聖地である魯の国の硯よりも上に置いたところに、李賀の鬱懐をみることが出来るといえるのかもしれない。このあたりの李賀の感情は、前述した「秋來」などと併せて考えてみてもいいのだろう。
唐代端溪紫石硯唐代端溪紫石箕様硯ところで端溪石の「青花」についてさらに補足したい。唐代に採石が始まった端溪石であるが、この時代にすでに「青花」という石品が認知され、鑑賞の対象になっていたことが、この李賀の詩からはうかがえる。
李賀は817年に27歳の若さで病死してしまうが、その90年後の907年には唐王朝が滅んでいる。李賀は晩唐の詩人とされる。そして唐朝滅亡後、動乱の末の937年には唐朝を継承した南唐が南京を首都として成立し、李景・李?といった皇帝の下、文房四寶はこの地方政権下で精緻な発展をみるのである。そして南唐における文房文化の精英は、北宋にほぼそのまま継承されることになる。北宋においては、文房四寶に関する詩文を豊富に得ることが出来るが、唐代の詩文においては数がすくなく、前述したように端溪硯については李賀のこの詩のみなのである。

唐代はまだ筆写によって書籍を書き写していた時代であり、活版印刷が始まる宋代と比較して、後世まで伝存しながら引用されるといった文献は非常に少ない。また唐末の動乱を経たことで、唐代以前の記録や文化の多くが失われてしまっているのである。
唐詩によって唐代の文学が代表されているが、実のところ(敦煌で発掘された仏典など以外にも)相当量の著作があったことは想像に難くない。ゆえに唐代において、文房四寶に関して詳述した文章をみないといって、唐代における文房四寶の文化が貧弱であったとは言い切れない。
「楊生青花紫石硯歌」は短い詩であるが、李賀が生きた晩唐においても、すでに硯や墨、筆といった文房四寶についての鑑賞が、かなりの程度に進んでいたことをうかがうことができる。夭折した李賀は、寡作でも知られている。わずか二百四十首余が伝えられるのみの彼の作品のなかに、端溪の歴史の端緒が示されていることは興味深い。またその内容は、高度に洗練された唐代の文房四寶の趣味性がうたわれている。これは鬼才李賀の鋭敏な感覚を発揮した、すぐれた作品でもある。

最後に、かなり砕いた大意を示す。

端州の石工の技術の優れていることは神のようだ。きっと天上を駆け巡り、刀をするどく磨(と)いでは、めでたい紫の気が凝り固まったかのような、端溪の原石を割ったのだろう。
そして硯面を平らに仕上げて彫刻を施し硯に仕上げた。この硯に水を注げば、墨堂いっぱいに水が満たされる。すると萇弘(ちょうこう)の冷血(れいけつ)の痕(あと)ような、青黒い青花が浮かび上がってくるじゃないか。
今日は薄絹のカーテンから、やわらかい陽の光がこの書斎にも差し込んで暖かい。墨を磨るのに丁度よい春のような日だ。墨を磨れば硯面に墨液がさっと広がり、軽いおどみのような墨液からは小さな泡が飛んで、松烟と麝香の混じったこの佳墨の香りがする。
この硯材は乾いても脂じみて温潤で、ごくごく薄く作られているといっても手に取れば重(おも)く、その石質は充実している。また硯の脚もうまく均一に作られて、机の上でもすばらしく安定している。硯の上の数寸ほどの墨のひろがりの艶やかさは、あたかも秋の澄んだ日の光が黄昏(たそが)れることがないかのように、乾くことなくいつまでも輝いている。
このうえ筆鋒がまるく整えられた精良な筆を手に取ると、ああ、いやがうえにも創作欲がわいてくる。湧き出てくる詩句は奇矯なところはないけれど、かといって全然陳腐じゃない。魯の国の石硯なんて、広く知られて名高いといっても、ただの筆記の道具というだけで、この端溪の紫石硯とは比べ物にはならないものだ。
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硯の退鋩について

短い記事ですが、お店のほうに硯の退鋩について、ページを掲載しました。どうぞご覧ください。
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