黒幕?佞臣? 厳嵩

黄山市の骨董屋では、陶磁器を見せられることが多い。下記は建窯(けんよう)の天目茶碗(てんもくちゃわん)と言って見せられた。さすがに陶磁器が専門ではない私でも、この程度のものでは惑わされないのであるが。
倣建窯天目茶碗それでもまあ、上海の骨董街で見せられるものよりは出来がいい。日本には「油滴天目」や「窯変天目」の名品があり、目にする機会もあるのだが、中国には伝世の建窯は無かったと思う。その割にはよく真似ている。倣建窯天目茶碗まあ、こんなところです。倣建窯天目茶碗こちらは北宋の出土品と言っていたが、確かに上のものよりは出来がいい。とはいえ手を出したくなるレベルではなかったが。倣建窯天目茶碗もっとも、文房具一本槍の私を血迷わせるほどの出来なら、たとえ倣古であっても、価格も相当なことを言われるが必定なのであるけれども。
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景徳鎮(けいとくちん)は、徽州の一部であった婺源県(ぶげんけん)に隣接している。黄山市は婺源のすぐ北東の方向(地図上右上の方向)にある。(上の地図をマウスでドラッグすれば移動できます)。
景徳鎮が近いだけあって、黄山市周辺でも陶磁器を多く目にする。かつて、景徳鎮で作られた陶磁器の一部が、婺源を経て徽州にはこばれた。そして徽商達の手によって江南諸都市へ流通していったのである。その名残か、骨董屋でも陶磁器を多く目にするのである。話によれば、ここ徽州から北京や上海の骨董街へ、多くの倣古品が流れていったということである。

嘉靖三十六年、胡宗憲が総督に着任するや、対倭寇の戦略は一変する。前年まで倭寇と激しい戦いを続けてきた明朝の軍であるが、胡宗憲がこの地方の最高責任者になるや、これが誘降や懐柔を併用した対処に一変する。また、そのための計略を立案したのがほかならぬ徐文長であり、王直や徐海などの倭寇の大頭目と同郷(徽州:歙県)の羅龍文の役割も大きかったという。
胡宗憲は、海外交易を合法化し、徽商を中心とした海外貿易事業の拡大を本気で画策していたようである。これは胡宗憲の朝廷における庇護者である厳嵩一派の意図するところでもあった。
厳嵩についてはここでは詳しく述べないが、徽州の隣の江西省分宜の出身である。彼とその息子、厳世蕃は陶磁器に凝っていて、あるとき、幻といわれる唐代官窯”柴窯”を中国全土に渡って探させ、やっと数点を得たと言う逸話がある。(このとき「発見」された柴窯の真偽は確かではないが。)
(現在の)江西省には当時(今も?)世界最大の陶磁器の生産地、景徳鎮があった。江西省の分宜出身(現在の江西省新余市区)の厳嵩は、景徳鎮に非常に大きな影響力を持っていたのである。厳嵩があまりに景徳鎮の陶工達を酷使したために、景徳鎮の良工の多くが貧窮に陥ったと、当時の資料は語っている。
この景徳鎮の陶磁器こそ、当時の海外交易では極めて重要な輸出産品であった。その陶磁器は日本のみならず、東アジア各地、とくに欧州で非常に珍重されたのである。
となると何ゆえ胡宗憲等が厳嵩一派との癒着を深めて行ったか、わからなくもない。また厳嵩が胡宗憲のバックについていた理由も、ある程度は推察できるのである。たとえば海外交易の合法化が成立すれば、徽商が主導する貿易を通じ、景徳鎮からの陶磁器の輸出を進めることができる。厳嵩一派は巨大な利益を手に出来たはずである。もちろん、物産は陶磁器にかぎらない。徽州は昔から、茶、漢方薬、工芸品など、海外で珍重される物品の生産には事欠かない地域である。
また徽墨にみられるように、それらの産品を、非常に高いレベルで加工する技術も持っていたのである。
そのような事業には、王直のような海を知り尽くした海商の存在は不可欠である。王直自身も、海上秘密貿易に対する明朝の取締りの厳格化から、倭寇に転じた経緯がある。交易が合法化され、胡宗憲の下で貿易事業の展開ができるのであればと、むしろ進んで投降したようにも見受けられる。
そして、羅龍文や先に降伏した王直による説得によって、もう一人の倭寇の巨魁である徐海も降伏に応じるのである。

厳嵩(げんすう)にたいしては、子の厳世蕃(げんせいばん)とともに「金権政治、売国奴」というような評価がなされることが多い。中国の歴代王朝は、農業重視政策、いわゆる「重農主義」をとってきたのであって、商業は伝統的に卑しめられてきた経緯がある。貨幣経済の膨張は、封建社会においては真っ先に農業生産者を没落させるのである。商業が未発達の地域の出身である士大夫達にとっては、それは死活問題であった。無論、貨幣経済は中国全土にあまねく行き渡っていた。
ただそれにしても、江南諸都市を消費地にもつ徽州中心の金融、流通の高度化は突出していたのである。まして「海禁政策」を採る明王朝において、商業重視、海上貿易の解禁を目指す厳嵩一派には風当たりも強かった。厳嵩がいかに権臣であったとしても、他の派閥の士大夫による、命がけの弾劾も繰り返し行われることになるのである。
(このあたりの事情は、江戸時代後期の田沼意次政権の事情と少し似通っているといえるかもしれない。)

彼等の構想が実現し、徽商による物流と交易のネットワークが海外に拡大したとき、どのような歴史が展開されただろうか?

(つづく)
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侠客 羅龍文

徽州古民居の富豪の住居に見られる屋内劇場である。場所は屯渓区からやや離れた、安徽省休寧県万安鎮の丘陵の上にある”徽州故民居文化郷”である。
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徽州古民居の劇場「紅楼夢」に、家族の誕生日や祝い事には劇団一座を呼んで公演させる模様がしばしば登場するが、その場面を思わせる。徽州古民居の劇場徽州がいかに富強の地であり、また文芸が盛んであったかを物語る遺構である。その徽州の経済力と文化の流通を担ったのが徽州商人達であった。
墨匠羅小華で知られる羅龍文は、字は含章、号して小華山人という。安徽歙県の桐城出身といわれる。また呈坎出身とも言われる。のち揚州八怪の羅聘も近傍の出身(原籍ともいわれる)であるが、この呈坎村は羅姓が多い地域であった。また篆刻、彫刻が盛んな村であったと言われる。(中国では原籍地を出身地ということにしてしまうことがよくある。)
羅龍文の生没年は未詳である。その息子の一人羅王常も明代の製墨家の一人に挙げられる。羅王常は羅龍文が都で処刑されたとき、連座を恐れて改名し、紹興や寧波に逃れたといわれる。羅王常とその子孫はその後篆刻で名を残すが、改名後に製墨を営んだという記録は無い。であれば羅龍文が江南を奔走していた時期に、羅王常は家業の製墨業を任されていたと考えられる。
以上から考えると羅龍文が胡宗憲や徐文長と行動をともにしていたのは40歳代であろうか。この時期の精力的な行動と華やかな行状は、壮年期の男を思わせるものがある。

羅龍文の家は素封家であり、多額の資金を必要とする製墨業を支えるのに充分な資産を持っていた。加えて羅龍文の独自の工夫により、桐油煙を用いた墨で一世を風靡する。油煙墨は羅龍文以前にも作られていたと考えられるが、明代中期までは松煙墨が主流であった。羅龍文以降、程君房、方于魯がこれを改良し、清朝に至って油煙墨の精華を見るのである。
羅龍文は若い頃から任侠を好み、杭州や南陵(南京)を往来し、貴顕紳士や侠客達との交わりに努めた。野心家であり、また策略家でもあったという。また倭寇の王直とは姻戚関係にあったという説がある。王直も歙県出身の徽商であるからあながちな話ではない。
羅龍文は、単なる遊侠趣味で走り回っていたわけではない。後の胡宗憲や厳嵩、厳世蕃とのかかわりでも明らかになるが、彼の行動の動機はやはり”徽商”としての事業の拡大にあったと思われるのである。
あるとき偶然に杭州の茶楼で妓女の王翠翹(おうすいぎょう)を見初め、愛人にしたという。この辺りの真偽は定かでは無いが、杭州や南陵で社交に余念が無かった羅龍文、茶楼(妓館)への出入りも不思議ではない。
後に羅龍文は胡宗憲の幕僚として倭寇戦に挑んだが、軍事的には無能で倭寇に敗れた際に徐海にこの王翠翹を奪われた、という話もある。
また後に、胡宗憲が羅龍文に命じて徐海を降伏させるにあたり、王翠翹が内通の役割を果たしたという伝奇もある。さらにその後、王翠翹は謀殺された徐海を偲んで命を絶つとか、いやベトナムへ逃れたとか、この美妓王翠翹に関わる伝説は多種多様である。真偽の程は不明だが、侠客に美女、という取り合わせが後世の人々の想像を掻き立てるのであろう。

むしろ、羅龍文が徽州出身の”徽商”の一人であり、同じく徽商出身の倭寇の頭目である王直と姻戚関係にあったこと、また胡宗憲ともおなじ徽州の出身であったこと、そしてもう一人の倭寇の大頭目である徐海とは同郷の出身であったこと、などに注意が必要であろう。いわば、「嘉靖倭寇」は、官軍も倭寇軍もその幹部クラスに徽州出身者が多く参加していたのである。
徐文長は紹興と杭州を往来していたから、二人は杭州で出会ったのだろうか。あるいは前述したように、羅龍文は胡宗憲と郷里が近い歙県出身であることから、胡宗憲の幕僚として招かれた後に徐文長と出会ったという説もある。
史書では胡宗憲が王直に降伏を誘いかける際、計略を立案した徐文長が、その交渉役に「太学生、羅龍文」を胡宗憲に推薦したと言われている。

想像するに、任侠肌の羅龍文と徐文長、気質的には気があったと思われる。ただし、政治上の立場は異なり、厳嵩に批判的な徐文長に対して、羅龍文は胡宗憲と共に積極的に厳嵩一派に接近してゆくのであった。
徐文長と羅龍文が出会ったとき、二人の間に”墨”に関する話題が出なかったとするほうが不自然であろう。むしろ、羅龍文の方から徐文長に墨を贈るなりのことがあったと考えるのが自然である。

(つづく)
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文武に長じた徐文長(徐渭)

上海博物館の徐渭「徐渭」というと、なんども科挙の試験に失敗し、挫折感から次第に精神を病み、不貞を疑い妻を殺害、獄中で画を描いた、というようにことさらにこの「官僚試験に失敗し続け、精神を病み」というネガティブな経歴を強調した文章が多い。性格も陰険で猜疑心が強く、傲慢で人に嫌われたというようにも語られる。またその独特な書法や画技も、その狂気の現われとするような説明のされ方を散見する。

果たしてそうか?

徐渭(1521-1593)、字は文長、号は青藤老人、青藤道師、天地、天地生、天地山人、田丹水、天地漁陰、金回山人、白鵬山人、山陽布衣、など数多い。明の正徳十六年(1521)浙江省紹興府山陰県に生まれる。場所は現在の紹興市街に残る青藤書屋であったという。
徐渭こと徐文長は早熟で、幼少期から非常に聡明であったが、試験というものを本質的に苦手とする性格だったのではないだろうか。20歳になるまで、郷試に応じる為の資格試験である童試にも2度落ちている。推薦で資格を得て、やっと受けた郷試にも受からない。
若い頃から琴棋書画をよくしたほか、同郷の使い手である彭應時に剣術を学び、相当な腕前を持っていたという。文長は若い頃から豪侠な性格で、やはり任侠肌の彭應時とは気があった。30歳代初めの頃まで、郷試には落ち続けるが(3度)、私塾を立てて生計を営みながら、紹興と杭州を往来し、多くの文人士大大夫と交わりを結び、文章で次第に名を知られてゆくのである。

嘉靖三十二年(1553)徐文長33歳の時に、現在の浙江省沿岸地域を王直等が率いる倭寇が大挙襲撃した。杭州の喉元であり、浙江地方の大きな港湾都市であった紹興に倭寇の攻勢は集中する。このとき徐文長はその剣術の師である彭應時とともに紹興城防衛戦に参加する。だが彭應時はこの戦いの中で壮烈な戦死を遂げてしまう。文長は彼を痛んで「彭應時小伝」を遺している。
嘉靖三十三年(1554)胡宗憲が浙江巡按御史として赴任、対倭寇の戦いに参加する。
徐文長も頻繁に来襲する倭寇と戦い続ける。このときはまだ胡宗憲指揮下の会稽典史呉成器(徽州休寧県出身)の下で作戦立案を行っていた。この時期の戦闘の模様を「陶宅戦帰序」や「龕山凱歌」(がんざんがいか)という勇壮な詩文によって書きのこしている。この「龕山凱歌」は
「短剣随銃暮合圍 寒風吹血着人飛 朝来道上見帰騎 一片紅冰冷鉄衣」
(意訳:日が暮れて、味方は賊軍を取り囲む。冷たい風が返り血を吹き飛ばす。朝になり、路上を馬に乗った戦士達が帰ってゆく。一片の凍った血が鉄の鎧を冷やしている。」
情景が活写され、詩の意味は明快である。長く軍歌として歌われた。
この龕山の戦いでも徐文長の作戦が功を奏したという。徐文長は地元の地理に明るく、地形に応じて縦横に機略を用い、明朝軍はついに龕山に倭寇を追い詰めることに成功する。夜陰にまぎれて包囲急襲を仕掛け、激戦の末にこれを破ったといわれる。また呉成器に講和とみせかけて敵の首領を船上に誘わせ、船を沈めて一挙に300人の倭寇を溺死させるという奇計も成功させた。(呉成器は泳いで脱出した)。さらに得意の剣技を振るって白兵戦にも参加したといわれる。
こうしてみると、文弱な男という印象は無い。むしろ兵法や武芸にも精通しており、武力を用いた戦いにも積極的に参加していた姿が浮かび上がってくる。

胡宗憲は倭寇と戦いを続ける一方、厳嵩一派の張文華の指示に従い、先任の上司であった張経、李天竜を戦意不十分として弾劾し、張経は処刑される。さらに新任の総督であった楊宜をも張文華によって退けられた後、胡宗憲は浙江総督の地位に着く。
嘉靖三十六年(1557)、紹興の名士であり、龕山の戦いで功績を挙げた徐文長を、胡宗憲はその帷幕に誘った。徐文長は、胡宗憲が時の権臣である厳嵩の一党であったことから初めこれを嫌い、病と称して応じなかったという。が、再三の要請に徐文長は腰をあげる。

(つづく)
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倭寇の”徽王”汪直の故郷 〜安徽省歙県

安徽省歙県安徽省歙県は、道路上は黄山市(屯渓)と績渓県のちょうど中間地点にある。上海からの列車の路線では、屯渓の一駅手前の駅である。通過することが多かったところだが、一度は観てみたいと思っていた。安徽省歙県あるとき、墨工場での打ち合わせが早く終わったので、通訳の張燕小姐と歙県へ立ち寄ってみた。旧市街へ入るためには、20元ほどの入場料を取られるが、ガイドさんが一人ついて、色々と説明をしてくれる。安徽省歙県市内に立つ牌坊も立派である。
かつて、「徽州府」が置かれ、徽州の文化と政治の中心として栄えた歙県だが、現在は黄山市(屯渓、むかしの休寧)に比べるとやや取り残されてしまった感が有る。
いわゆる”歙派”と分類される墨匠の一派は、羅小華、程君房、方于魯、曹素功、方密庵、汪近聖、汪節庵と、それぞれがその時代を代表する極めて優れた墨匠の一群である。そのうち績渓県出身の汪近聖を除けば、皆かつて歙州と呼ばれたこの歙県城内か近傍の村落の出身である。

嘉靖倭寇の最大の頭目とされる汪直、後に改名して王直(日本史ではこの名で知られるが)もこの歙県出身である。「汪」姓はまた安徽の大きな宗族の一つである。
「倭寇=海賊」というイメージが強いが、もとは王直は商人であった。はじめ徽商の最大の権益の一つである塩業を営んでいたが失敗し、後におなじ歙県出身の海商の許棟のもとで海上へ進出した。日本やベトナム、タイ、マラッカなどの東南アジア地域に赴き、また欧州の商人とも貿易を行い、巨万の富を得たとされる。日本の五島列島を根拠地に、当時の日中貿易の仲介役として重要な役割を果たしている。
しかし、嘉靖二十六年(1547)七月、朱(糸+丸)が浙江巡撫となると海上密貿易の取締りが厳しくなる。嘉靖二十七年(1548)、許棟等徽商派の密輸団の根拠地である双嶼港が急襲され、許棟は逮捕され処刑される。王直は逃れて以後徽州出身者を中心とした勢力の再編成を図る。
(だが朱(糸+丸)も、双嶼襲撃の際に一味と見られた沿岸部の漁民百姓96名を斬首したことを告発され、京師に送られ投獄、憤懣のうちに自殺する。この告発事件の裏には、徽商勢力側の朝廷工作の匂いがする)
その後、密輸団の組織化と武装化を進めた王直は、日本の五島福江ついで平戸(長崎)を拠点として「徽王」(つまり徽州の汪というわけだが)と称して明朝軍としばしば戦い、中国沿岸部や商船に大規模な襲撃を行うようになる。
王直は商人出身だけに、信用を重んじ、また海賊の頭目だけに非常に義侠心に富んだ人物であった。そのため、日本との交易に際して日本側にも個人的に私淑する者が多く、その配下で働く日本人も多かった。
王直は、時の明朝の海禁政策を犯し、密輸から私掠に走ったのであるから、明朝側から見ればいわゆる海賊以外の何者でもない。が、今一つの見方として、日中民間貿易の先駆けとして評価する声もある。明朝の厳しい追求が、密輸団を凶暴な海賊集団へ変化させたという見方も出来なくはない。
しかし結局のところ武装集団を率いて相当数の商船や沿岸の都市を襲い、殺戮と略奪を繰り返した王直を”倭寇”として非難する声は中国側では根強い。

この海賊化した王直等を討伐すべく、派遣されるのが同じく徽州績渓出身の胡宗憲なのである。胡宗憲は武人ではあったが、徽州出身者らしく多分に”徽商的”な考えをする人物であったようだ。従来の武力には武力で以ってするやりかたに加えて、投降や懐柔をも併用し、倭寇の討伐に成果を上げてゆくのである。その傍らにあって、徐文長が大きな役割を果たしてゆく。

(つづく)
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徽商と嘉靖倭寇

黄山市の屯渓区は、墨工場や硯村に行く際に必ず宿泊する街である。黄山登山の基地として、国際的な観光地でもあり、安徽省の合肥以南ではもっとも大きな街である。
その屯渓市街にある、「程氏三宅」である。明清時代の、徽州の富商の邸宅の典型とされる。「程氏三宅」とは、三度持ち主が変わったが、いずれも「程」姓の主人のためにそう呼ばれているという。「程」姓は徽州の宗族では大きな方だが、ある程度の規模の屋敷の主が、三代つづけて同姓というのはやはり珍しかったのかもしれない。
程氏三宅写真では少し見づらいが、徽州の古民家は、見事な木彫によって修飾されている。その木彫の質量が、その家の経済力をあらわしているともいえる。程氏三宅程氏三宅は、明清時代の安徽商人の生活様式や暮らしの中での嗜好を物語る。こういった、徽州独特の建築様式は、屯渓周辺ではいまだに多く見ることが出来る。「程氏三宅」は屯渓市街にあるのと、その優れた作りや保存状態の良さから、伝統的な徽州建築の代表の一つとされている。程氏三宅窓から採光し、窓に沿って長いベンチが置かれている。これは「美人座」といって、女性達が腰掛けて読書や歓談した場所だという。程氏三宅2階まで届く高い壁に囲まれているが、たくみに外の光を取り入れている。欄干や欄間など、いたるところに見事な木彫が見られる。適宜補修が行われているが、木彫の多くは明代や清朝そのままだという。

徽州商人、”徽商”の経済力と活動が、明代から清代にかけての中国の、とくに江南地方の社会と文化に大きな影響を与えてきたことが、近年の研究で明らかにされてきている。

明王朝を揺るがし続けた”倭寇”の活動は、嘉靖年間はその活動後期にあたるとされる。この嘉靖年間におこったいわゆる「嘉靖倭寇」と、対する明の朝廷側の討伐の戦いの中に、徐文長や羅龍文の姿がある。(書画家としての徐渭や墨匠としての羅小華ではなく、ここでは武人としての徐文長と羅龍文という書き方にする。)
徽州商人の集団である徽商は、長い歴史と広範なネットワークを持ち、特に明代以降の中国の歴史文化に大きな影響を与えてきた。徽州一帯の歴史文化については、「徽学」という独立した学問分野が成立している。「徽州文書」といわれる膨大な資料を基に、特に1980年代以降、詳細な研究がなされてきている。そのなかで「嘉靖倭寇」とのかかわりに関する研究結果は興味深い。極論すると、「嘉靖倭寇」は徽商が倭寇化したものであるとも言えるのである。
宋代から明代にかけては「天に天国あり、地上に蘇杭あり」とまで言われた蘇州、杭州の繁栄に目を奪われる。しかし遠く宋代に遡る頃から、その蘇州、杭州へ物資を供給し続けたのが徽州なのである。そしてその物流、さらには金融を受け持ったのが徽州商人「徽商」であった。墨の産地として有名な徽州だが、他にも米、木材、塩、茶、工芸品、綿などの必需物資の産地や集散地であった。
徽州を基点として扇形に開いた地域に、北から揚州、蘇州、杭州、さらに紹興や寧波などの、商業と消費が盛んな都市の繁栄が見られる。それらの都市を舞台に、徽商は活発な商業活動を行ってきた。その徽商の一部が、紹興や寧波、遠くは福建までくだり、海上貿易に進出して行ったのが明代中期以降である。
海上貿易の大きな相手国の一つは日本である。室町末期から安土桃山時代にかけての日本との交易は、双方に莫大な利益をもたらした。海上貿易には密輸の横行がつき物である。その密貿易を取り締まる官吏や、他の武装商船、近海の海賊との戦いや妥協の中で、貿易商人達そのものが海賊(倭寇)化していったのが「嘉靖倭寇」ともいえるのである。海禁政策をとる明の朝廷側からすれば、密輸業者イコール海賊そのものである。
この時期に日本との交易や密貿易に大きな力を影響力を持っていたのが徽商ということであれば、現代の徳川美術館などに見られる明墨の招来についても、ある程度の説明は出来るのではないだろうか。
以上は至極大雑把な説明だが、胡宗憲と徐文長等が倭寇討伐に明け暮れた数年間とは、そういった時代の只中である。
(つづく)

※安徽省黄山市一帯について興味のある方はこちらもどうぞ。
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胡宗憲の郷里 〜安徽省績渓県龍川

安徽省の墨工場へ行ったとき、工場長が「徽州の古村落を案内します」という。そこでつれて行かれたのは、績渓県(せきけいけん)の龍川村(りゅうせんそん)であった。残念ながらあまりいい写真は撮れていないと思うが、数点掲載する。
安徽省績渓県龍川龍川村は「龍川胡氏」の村である。
徽州には八大姓や新安十六姓といって、代表的な姓がいくつかある。同じ姓それぞれが一つの村落をなすほどの構成数を持ち、大半の住人の姓が同じ、という村もある。
墨匠であれば羅(小華)、程(君房)、方(于魯)、汪(近聖、節庵)などの諸姓がそれである。血縁をたどれなくとも、姓が同じもの同士は”宗族”としての連帯意識が強い。これは中国人全体にいえることでもあるが、特に徽州のこの地域は郷党意識と重なって、独特なアイデンティティを作り上げてきた。
その宗族がさらに居住地域によって系統が分かれる。なかでも胡氏は”巨族”のひとつであり、いくつかの村落にまたがって巨大な宗族を構成している。たとえば胡開文や文学者胡適は「上庄胡氏」の出身であると言われ、また「西逓村」の「西逓胡氏」なども構成人数は多い。龍川村は胡氏の宗祀(社稷)があり、胡氏全体にとって重要な意味を持つ村落なのである。この村の胡氏は「龍川胡氏」と呼ばれる。
安徽の宗族について語ると長くなるし、勉強中でもあるので別の機会に述べようとおもう。が、この地域の歴史文化を知る上では宗族の理解は欠かせないし、墨廠や書画家の影響関係を調べる上でも重要な手がかりとなることは注意していい。安徽省績渓県龍川安徽省績渓県龍川明代の武将に「胡宗憲(1512-1565)」がいるが、この龍川胡氏の出身である。胡宗憲(こそうけん)、字は汝貞、号梅林、倭寇に功績を挙げた名将と評せられる。明の嘉靖十七年(1538)に進士。三十三年には浙江巡按御史(せっこうじゅんあんぎょし)となり、以後7年間、倭寇討伐に任にあたり、大きな成果を収めたとされる。嘉靖四十一年に時の権臣厳嵩(げんすう)とともに政敵に弾劾され、投獄される。四十四年に獄中で自殺を遂げる。(ちなみにその頃の日本は信長秀吉の時代である。)安徽省績渓県龍川胡宗憲にとってもっとも輝かしいキャリアは倭寇の討伐に当たった数年間だろう。その指揮下に戚継光、兪大献といった名将を擁し、幕僚には江南から多くの知識人を招いて陣容を整えている。かの文徴明の名前もその中には見出せる。そして、のちの徐青藤こと徐渭(文長)もいた。さらに後には、明代最高の墨匠、羅小華こと羅龍文も加わるのである。
羅小華こと羅龍文が、胡宗憲のもとで倭寇との抗争に活躍した話は、義侠あり、美女あり、悲恋ありと、武侠小説ばりの面白い話である。詳しくはびんてん翁の「古墨紀言」(私家蔵版)にあるので、読まれたいかたは翁にメールを。
私は徐渭こと徐文長について調べたり考えていることを、後で少し述べようと思う。それに先立ち、不十分だが胡宗憲と安徽の宗族に関する事柄をここに掲載した。徐渭の人生に大きな影響を与えたのがこの胡宗憲なのである。そして胡宗憲や羅龍文の出身背景となる徽州の宗族に関して、多少なりとも知識があった方が、理解しやすいと思われるからである。
(つづく)
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