歙南の昌溪鎮

今年の1月、徽州南部の古鎮、昌溪を訪ねた時の事。

いつも依頼しているタクシー運転手の胡氏には「明日婺源に行きたいからホテルまで迎えに来てほしい」と頼んでいた。朝、ホテルの駐車場で待つタクシーへ行くと「今日は婺源への道が閉鎖されている」との答え。仕方がないのでこの日は墨工場へ向かう事にしたのである。そのあくる日、きょうは大丈夫かと思っていたら胡氏の答えは「まだ通行止めが解除されない。」とのこと。いたしかたなく、この日も婺源行きをあきらめて、歙県(きゅうけん)郊外の昌溪という古鎮の見学へ行くことにした。

昌溪は「歙南第一」と讃えられる、渓谷に沿って開けた美しい集落であると聞いている。しかし宿泊地の黄山市屯溪区からは少し距離があり、今まで訪問することがなかったのである。
昌溪の起源をたどると、紀元前の前漢時代の生活の跡が見られるという。時代下って唐代の頃は滄溪と呼ばれ、南宋の淳煕年間に至って昌溪と改められたそうだ。最近は観光に解放され始めたとはいえ、ここを訪れる旅行者はまだ少ない。徽州の古鎮といえば世界遺産の”宏村”などが圧倒的な知名度を誇っているから、それ以外の古鎮にまで足を延ばす人は少ないのである。

いつもの胡氏の運転で山道をたどる。山麓の木々の梢には、ふるった粉砂糖まぶしたような雪が残っている。この季節の徽州の降雪時によく見られるのであるが、木々に降り積もった雪がなかなか解けないのである。溶け落ちずに樹上に何日間も残る。特に葉の上に積もった雪は、葉に付着したまま落下しない。これは山間の空気が冷たいことと、山の陰になって日照時間が短いこともあるが、晴れていても薄曇りで太陽の光が弱いためである。日本のように空気が澄明であると、日差しに熱せられてすぐに溶け落ちてくるのだが、ここ徽州では事情が違っているのである。しかし粉雪を薄くかぶった山景色もまた良いものである。

昌溪の入口には地をならしただけの駐車場がつくられ、入口には参観の受付らしき建物がある。しかし窓口は開いていない。昌溪も観光地として開放されてからは、参観料が必要なはずである。ただ昌溪は観光に解放された時期が遅い古鎮であり、黄山市における中心市街の屯溪からも距離がある。もともと訪れる人は少ないと思われるが、冬場のこの時期であればさらに少ないのだろう。どうも受付は閉めてしまっているようだ。ともかく中に入ることにする。
徽州昌溪鎮川沿いに開かれた小さな菜園に沿って、農道のような小道が続いている。雪をかぶった青菜は、黒いほどの濃い緑色の葉を延べている。
川沿いにしばらく歩くと、渡河点に出たようだ。流れの中に人が一人立てるほどの大きさの、長方形の切り石が点々と置かれているのが目に入る。切り石は流れを横断できるように、対岸に向かって直線上を等間隔に並んでいる。切り石が尽きる先には、瓦葺の木造の小屋がみえる。そこを目指してこの切り石を踏んでゆくというわけである。
木造の小屋は水車小屋で、回転していない巨大な水車が見える。元来はこの水車を機能させるたであろう、川のこの個所には人工の落差が築かれている。貯水を目的としたものではないが、一種のダムであり、動力用途という意味では発電用のダムに相当するだろうか。これを水壩(すいは)という。並べられた切り石も、流れを調整するためにおかれたものであり、両岸の往来の役割も兼ねているのである。
徽州昌溪鎮急傾斜に沿って流れが速くなっている。この日はとても寒く、水は手を切るような冷たさである。うっかり足を滑らせて流されれば、無事では済まないかもしれない。流れの中ほどで写真を撮る時も、やや緊張する。
徽州昌溪鎮この切り石は水面からほんの数センチ浮かんでいるだけで、ところによっては面積の半分ほどが、流れの下に沈んでいる石もある。冬場は水量も少ないので渡れるが、降雨で水量が多いときは渡るのが難しかもしれない。
歙南の昌溪鎮流れの中ほどで、上流の集落の方を見る。青い水面に灌木が影を落とし、その奥に集落の白い壁が見えている。遠景には淡く雪をかぶった小高い山々が続いている。

先にも述べたが、唐代の頃は滄溪と呼ばれ、南宋の淳煕年間に至って昌溪と改名されたという。滄溪の「滄」は青青とした水が広がる様子を形容する文字であり、眼前の光景がそのまま表現している。また昌溪の昌は、日の光を反射してキラキラと輝く、という様子をあらわす文字である。水面に陽光が反射する時の形容にも使われる。これも昌溪の静かな流れに太陽の光が照りかえっている様子から、名付けられたのではないかと思う。
険しさはないが、平明で美しい山水の眺めである。

対岸に渡ると、水車小屋の中から激しい水の流れの音が聞こえる。明代の弘治年間(1488年 - 1505年)に創建されたといわれる水車小屋である。水車小屋に合わせてこの水壩も築かれたであろうから、当時としてもかなり大がかりな土木事業であっただろう。徽州における王朝時代の水利事業の見事な例は、歙県近郊の新安江においてもすでに目にしてきた。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮大きな水車の車輪は、現在は壊れていて回転していない。巨大な臼が置かれているが、かつてはここで製粉が行われたのだろう。この巨大な臼を回転させるのであるから、相当な動力である。
水車小屋から川沿いに上流へ向かうと、昌溪の入口に至る。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮途中、家屋の上を見上げると、四方へ突き出した独特な格好の拡声器が目に入った。同行していた朋友の話では「あれは昔どこの村にもあって、あのスピーカーから毛沢東の言葉とか、共産党のスローガンが流されたのです。」ということだ。日本でもああいった拡声器は田舎の農村にないわけではないが、必要時以外は今は使わないだろう。文革期の大陸では、朝から晩まで、四六時中党を賛美する歌や毛沢東語録が流れていたというのだから、今は閑静なこの村落にもそれは騒々しい時代があったのだろう。

昌溪は上流地域の集落と、下流地域の集落の二手に分かれている。上流は主に呉姓の宗族、下流地域は周姓の宗族が聚居しているという。徽州の古鎮は、それぞれ多数派の宗族を中心として形成されているところが多くみられる。呈坎の羅姓や、歙県雄村の曹姓、績渓県龍川なら胡姓、槐唐なら許姓、といった具合である。しかし姓を異にする宗族が同居していないということではない。結果的に、ひとつの鎮に半々くらいのところもある。中国は伝統的に同姓婚をしない風習がある(現在は当然OKである。が、例は少ないそうだ。)また姓を異にしていても、地域によっては通婚してはならないとされる組み合わせもあった。なのである村に支配的な宗族がたとえば”汪”であっても、必然的に”呉”や”方”など、他姓の相手が入り込むのである。特定の宗族同士で通婚が繰り返される傾向があるから、いつしか他姓の人口が増え、宗廟が築かれるようになることもある。また支配的な宗族が逆転するという現象も起こるのである。

昌溪についていえば、南宋に呉姓が大量に移住してきたことを契機として、村落の名が滄溪から昌溪に改められた、という経緯があるという。北宋が金に滅ぼされた際の、北方の漢民族の大量移住の例といわれる。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮昌溪の集落に入ってまず目にするのが、下流集落の周氏の宗廟である。宗廟の前の広場がきれいに整備されている。周姓といえば漢の高祖に仕えた周勃と周亜夫がいる。彼らは劉邦と同じ沛の出身である。徽州は北方の戦乱を避けて移住してきた宗族が多いから、昌溪の周氏も元は北方の一族であったのかもしれない。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮しかしこの宗廟、急ピッチで修復したのかもしれないが、壁や柱を褐色のペンキで塗りたくっているのは、あまり感心できないことであった。しかしどんな形にせよ、完全に取り壊してしまうよりは保全されているだけ良いといえるのかもしれない。ちなみにこの周氏の宗廟は、昌溪出身の実業家が海外で成功し、事業で得た資産を投じて整備したのだという。再び渓流沿いに、上流地域の集落へ歩いてゆく。
歙南の昌溪鎮昌溪の歴史を体現するかのような、ふた株の樟(クスノキ)の巨木が現れる。それぞれも、非常に大きなクスノキのひと株に見えるが、実際は同程度の年輪の大木が癒着してひと株のようにそびえているのだという。ゆえに非常な巨木ではあるが、年輪は800年くらいだということだ。
歙南の昌溪鎮この巨樹がそびえる築山に沿うようにして、垂直に深く切れ落ちた水路が導かれている。水の流れから地表までは、緻密に積み上げられた石垣で覆われており、カーテンのような優美な曲面を作り上げている。実に丹念な設計であり、代々昌溪に暮らしてきた人々も、この景観を美しいと感じてながめてきたに違いない。現代の異邦人である、小生もそう思うわけである。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮昌溪は上流地域と下流地域に分かれるが、その境目の地域には学校や病院、政府関連の建物があり、近代的な建物が多くなっている。肉屋では、解体された豚の大きな肉塊や内臓が、凍てついた外気にさらされて、鮮烈な色を見せている。前々日に降雪があり、この日は晴天だが凛とした寒気に満たされている。石と煉瓦、漆喰で出来た古鎮の中はことのほか冷えこむのである。これから旧正月へ向かう農村では、豚肉を始め肉類の需要が高まる時期であり、肉屋も繁盛するのである。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮やはり蒼溪(青い谷)、あるいは昌溪(輝く谷)というどちらの名にもふさわしい、山光明水の景観が、鎮に沿って続いている。鎮の中心区域からは対岸へ向けて、近代的な橋がかけられている。陽光に白く輝くアーチは、碧い水に映えて優美な姿だ。
歙南の昌溪鎮やや繁華な中心地域を抜けて、上流の古い集落へ入る。四角く区画された濠が現れる。徽州の古鎮の中には、集落の中に四角く濠をうがたれている場所がいくつか現れる。印象的なのは西溪南のそれがある。盛夏には蓮の葉で覆い尽くされるであろう。
歙南の昌溪鎮木製の牌坊がある。石でできた牌坊を見慣れている眼には、牌坊というよりも、全体で建物の入口のように見える。木製の牌坊に向かい合って、廊橋が築かれている。そこでは村人たちが昼食の準備をしていた。歙南の昌溪鎮内部はまだ公開されておらず、入ることができなかった。幼稚園が併設されているが、この建物自体が、昔は昌溪の子弟の教育の場であった。
歙南の昌溪鎮呉氏宗廟に辿り着いた。中には入ることができない。ここには赤い星が掲げられ、かつてはここが党の本部として使用されていたことを物語っている。これに伴って、封建時代を想起させるような意匠や彫刻が破壊された可能性があるが、一方で党本部として使用されたことにより、宗廟全体の破壊は免れた、という見方もできるのである。
歙南の昌溪鎮「聖旨」と掲げられた小屋が隣接している。こういった建物は、王朝時代の昔、宮廷から派遣された使者が皇帝の布告文、いわゆる「聖旨」を読み上げるところなのである。党本部のすぐ近くであるが、おそらく文革中などはこの「聖旨」の扁額は外されるか、上に粘土などをかぶせて隠匿していたかもしれない。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮赤い色の文字で「民兵の家」とある。ここも元来は宗廟であったと思われるが、中には入れない。ある時期に地元の民兵の施設として使われていたのだろう。脇には毛沢東語録が筆書されている。
歙南の昌溪鎮「三眼井」である。その名の通り、三つの穴が穿たれている。中はひとつにつながっている。こうした三つの井戸の口がまとまっている式の井戸というのは、中国各地にみられるものである。由来はよくわからないのであるが、ひとつひとつの口が小さいので、動物などが入り込みにくいという理由もあるのかもしれない。南屏を訪問した際には、子供が落ち込まないようにするためだ、と聞いた。安全性を考えると、この方がいいかもしれない.........井戸に人の死体を投げ入れたとか、突き落として殺したとかいう話は昔からあるわけだが、こうした井戸ならそれも難しいわけである。とはいえ、水桶がひとつやっと入る程度の穴がもし一つしかなかったら、水汲みの順番待ちができてしまうだろう。三つくらい空いているのが、丁度いい、とも考えられる。
歙南の昌溪鎮昨夜は氷点下を優に下回る気温だったのだろう。水槽に厚く氷が張って、中の魚は哀れにも凍死してしまっている。が、店の人は気にとめた様子はない。
歙南の昌溪鎮谷間の入口を塞ぐように壁が築かれている。「衆志成城」という名がついているが、防風墻(ぼうふうしょう)である。(どうも衆志成城という名称には文革の臭いがするのだが)これは谷から吹き下ろす風が村落に入り込まないように防いでいるのである。この防風墻の外側に出ると、気のせいか寒気が厳しい。この寒気がそのまま昌溪に流れ込んできたら、村落を凍らせてしまうかもしれない。
歙南の昌溪鎮あるいは夏場などは、風向きによっては熱気が流れ込んでくるだろう。良く見ると、アーチ状に穿たれた防風墻の一部が瓦礫でふさがれているから、時代によって風量の調整が変わってきたのかもしれない。あるいはその昔は、匪賊の侵入を防ぐ拠点となっていたかもしれない。ここにも井戸が穿たれている。
歙南の昌溪鎮清冽な流れの中で、女性が青菜を洗っている。野菜に限らず、徽州の女性というのは、真冬でも清流に手を浸して炊事や洗濯をしている。慣れているのかもしれないが、大変なことであると思うわけである。呉越の戦いに登場する絶世の美女西施も、川で洗濯をしていたところを見出されたという。古代から洗濯は女性の重要な労働だったのだろう。

再び村落の中に戻る。昌溪の家々から、唐辛子を炒める香ばしい匂いが漂ってくる。徽州の家庭料理の基本的な調理法なのであるが、油を強く熱し、そこへ唐辛子をいれて焦げるほどに強く炒める。そうすると、ごま油よりもさらに香ばしい香りが出るのだが、そこへ適当な野菜を入れて塩で味付けすると、それだけで簡単なお惣菜になるのである。これに少量の肉や大蒜を加えることもあるが、やはり農村らしく野菜が中心である。どんぶり茶碗に御飯を盛り、上から総菜を乗せて出来上がりなのである。上に載せるのはほかに作り置きの煮物や漬物が加わることもあるが、たいていは2,3品である。
歙南の昌溪鎮昼時に差し掛かり、宗廟の広場にはどんぶり茶碗を抱えた村人たちが集まってくる。頻繁に見られる江南農村の昼食の光景である。この昼食のスタイルというのは、小生の見た限り、江南一帯の農村では共通ではないかと思われる(雲南でもおおむねそうだというから、ご飯を食べる地域全般かもしれない)。
歙南の昌溪鎮香りにそそられて、急に空腹を覚えた。昌溪で食事ができる店がないかと探したが、開けた雰囲気の割に飯屋の一軒もない。運転手の胡氏の話では、隣の深渡の街は、魚が美味いこと事で知られているそうだ。この提案には一議に及ばない。昌溪を後にして、深渡へ向かうことにした。

 

昌溪南歙邑
峽水繞村鄰
歲歲雙樟老
年年古廟新
堆墻寒露隔
石路碧流淪
但聽奔湍響
既无轉木輪

落款印01

深渡の魚

訪問した昌溪で昼食を食べようと思っていたのだが、あいにく昌溪には適当な飯屋が無い。適当どころか、そもそもこの鎮には料理屋が一軒もないのである。そこで運転手の胡氏の勧めによって、車で30分くらい行ったところにある「深渡」という街へ行くことにした。新安江のほとりに位置し、胡氏の話ではそこの魚が美味しいのだそうだ。
安徽省歙県深渡鎮大陸で海の魚を食べる地域は限られている。「中国料理」における魚料理のほとんどは、河川や湖沼、運河や濠で養殖される淡水魚である。海老や蟹も川や沼なら、貝などもやはり淡水域から、思いがけないほど大きな貝がとれるのである。海苔も川海苔が豊富で、日本市場の青海苔などはほとんど中国産なのである。無いのはイカやタコくらいか.........なのでいわゆる「海鮮料理」も、ほとんど淡水産の食材で作ることができる。

淡水魚といっても、日本の鮎や岩魚と違って多くは淀んだ沼池か濁流に生息するためか、多少の泥臭さは否めない。それでも美味しく食べられるように工夫して調理されているのであるが、やはり魚の味わいという点では、率直にいえば海の魚にはやや及ばないところがあると感じている。
安徽省歙県深渡鎮しかし徽州を流れる大小河川は比較的水質がよく、そこでとれる魚には上海や蘇州あたりで食べる淡水魚のようなクセが少ない。特に小さな川魚などは、淡水特有の臭みもなくて、美味しいものである。
安徽省歙県深渡鎮新安江を深渡鎮へ渡る橋が工事中で、車両は通行止めになっていた。欄干の無い橋を徒歩で渡る。この日は天気が良く、新安江の水面も青い。
新安江は徽州は休寧県に水源を発し、浙江省の西部へ向かって流れ、銭塘江に接続している、徽州を代表する大江である。上海墨廠の製品においても、かつての”油烟101”に「新安大好山水」という墨があるが、ここでいう「山水」の景観は、新安江を含む山野を指すものである。
安徽省歙県深渡鎮唐代の李白の「清渓行」という詩に、新安江が出てくる。ここでは「清渓」という、別の渓谷をうたっているのだが、新安江は水がきれいな渓流の代名詞として表れるのである。


清渓清我心
水色異諸水
借問新安江
見底何如此
人行明鏡中
鳥度屏風里


清渓(せいけい)は、我が心を清め、
水色は、諸水(しょすい)と異なれり。
借問(しゃもん)す新安江。
底を見るに、何ぞ此(こ)の如きかと。
人は行く明鏡(めいきょう)の中。
鳥は度(わた)る屏風(びょうぶ)の里。


清らかな流れに心を洗われるようだ。この青い水の色たるや、まるでほかの河とは違っている。
新安江にちょっと尋ねてみよう。お前の水底も、こんなに澄んでいるのかと。
人々はこの鏡のように透明で静かな河に船を浮かべて旅をする。
鳥たちは屏風のように広がる山々を飛んでゆく。
安徽省歙県深渡鎮杭州から徽州へ向かう夜は雪に見舞われた。二日後のこの日は快晴である。深い谷間を藍で埋めたような新安江は静寂で、まるでダム湖のような穏やか川面である。大陸は大江が多いがその大半は奔騰する濁流であり、このように静かで青い水面はあまり見ないものである。その新安江のゆるやかな屈曲に寄り添うように深渡鎮がある。山光明浄、水色秀麗、天藍、城美の景観である。
安徽省歙県深渡鎮深渡鎮も徽州では歴史のある古鎮であるが、”深渡”という名があらわすように、いうなれば徽州における港町のひとつである。水路を経由して杭州に接続してるためか、近代化が進んでいるようだ。古い故民居などは目立たない。
安徽省歙県深渡鎮路上では年配の女性がみかんを売っていた。1斤で0.5角というのは、知る限り最も安い。少し買って食べてみたが、皮が厚く実に酸っぱい。さほど人通りのあるわけではない大通りだが、行商の人々が店を広げている。時に船から観光客が上陸することがあるためかもしれない。

胡氏のお勧めの店は、大通りに面した宿屋を兼ねた飯屋である。
一行は3人なので、さほどの量は必要ない。青梗菜(チンゲンサイ)を入れた火鍋をひとつと、評判の魚料理、そして芹の炒め物を一品頼んだ。真冬だというのに、食堂は路面に面して全面解放である。晴れてはいるが、かなり気温が低い。紹興酒を1本、生姜を入れて温めてもらうことにした。これにご飯を少しもらうことにする。
火鍋については店の女将が「紅焼肉が入ると美味しいよ」という。紅焼肉(ホンシャオロウ)は、つまり豚の醤油煮込みである。ここに来たのは魚目当てであって、それほど肉を食べたかったわけではない。しかし女将が強く勧めるので、深く考えずそうしてもらうことにした。
ほどなくして魚料理が運ばれてくる。徽州でよく出会う魚の「紅焼(ホンシャオ)」である。先ほどの「紅焼肉」と同様、「紅焼」というのは、日本でいうところの醤油煮込みである。魚であったり、獣肉であったり、豆腐もよくこれにする。大陸における基本的な調理法のひとつである。ご飯に合う、かなり濃い醤油味なので、一度の食事には「紅焼」と名のつく料理は一品か、重なるとしても魚と肉、あるいは豆腐など別種の食材にしたほうが無難である。
安徽省歙県深渡鎮日本の煮魚と違い、酒と醤油で煮る前に油で焼いて火を通す。煮崩れを防ぎ、香りを引き立てるためである。魚を調理する時は、徽州ではニンニク、生姜、生の唐辛子を入れることが多いようだ。青味としてネギかニンニクの葉、時に香菜を刻んだのがかかっている。なんという魚かわからないが、ワカサギに似た淡泊で繊細な味である。たしかにドロ臭さのない、上品な味わいである。先ほど見てきた新安江の水の綺麗なことを思い合わせると、安心して箸がすすむ。屯溪でも同じ魚を食べることができるが、味はこちら深渡の方が上だということだ。
安徽省歙県深渡鎮芹の炒め物が出てきた。細長く刻んだ豆腐干、これに豚肉の赤身を細長く刻んだものとを塩味で炒めている。セリはシャキシャキと歯触りが軽く、かすかに甘くほのかな香りがいい。
ここにタケノコがなかったのがやや残念であるが、魚の美味いことといったら、まさに蘇軾が黄州で詠んだ

長江繞郭知魚美
好竹連山覚筍香

長江 郭(かく)を繞(めぐり)て 魚(うお)の美なるを知り
好竹(こうちく)山に連なりて筍(じゅん)の香(かんば)しきを覚ゆ

である。

安徽省歙県深渡鎮火鍋が出てきた.......とみるや、確かに紅焼肉がたくさん入っているのだが、肉からにじみ出た脂の量がすごい........これは正直なところ頼んだのは少し失敗であった。加えるのは咸肉を少しスライスしたくらいでよかったと思った。同行していた上海の朋友も「文革の頃ならこれはすごい御馳走だけど.......」とつぶやいた。まあ確かにそうだろう。この飯店の女将は、おそらく遠方からの客なので、ちょっと豪勢なものを勧めたかったのかもしれないが..........
野菜や魚料理というのはひどく失敗することは少ないのであるが、肉料理は少し考えないと食べきれないような料理が出てきてしまうことがある。もちろん、食べきれなければ残してもかまわないのであるが、招待された宴会では仕方ないが、仲間内の行動中の食事などでは、あまりそういう浪費はしたくないものである。
紅焼肉は杭州の東坡肉をはじめ、江南で美味しい料理のひとつだが、それほど量が食べられるものではない。かの毛沢東などは毎回の食事に(文革中は庶民の口に入らなかった)紅焼肉を欠かさなかったというが、晩年は心臓や血管の病に苦しんでいる.........
まあ3人では食べきれないと思うが、食べられるだけ食べるよりない。しかしこの鍋の青梗菜は実にうまい。徽州を冬場に訪れて、鍋で食べたい物が4つある。ひとつはタケノコ、ひとつは大根、白菜、そしてこの青梗菜である。日本の青梗菜と違って、小ぶりで茎の部分が肉厚である。青梗菜というと軽く火を通してシャキシャキの状態で食べるのもおいしいが、白菜と同じく柔らかく煮込んでもいい。かなり煮込んでも煮崩れないし、青い葉の色が退色しない。
野菜は厳冬に雪をかぶると、凍結を防ぐために糖度が高まり、甘味が増す。青菜を食べているというよりも、柔らかく煮たカブを食べているようなホロホロとした柔らかさがある。やっぱり脂の量にひるんでしまい、紅焼肉はなかなか箸が進まなかったが、青梗菜はきれいに平らげた。青梗菜と一緒にかなりの脂が体に入っただろうが、これはいかんともしがたいところだ。
安徽省歙県深渡鎮安徽省歙県深渡鎮食事終えてから、深渡の船着場を見て行くことにした。深渡というだけあって、この周辺の水深は深い。いわば徽州における良港である。思った以上に近代的で大きな船が停泊していた。船着場からの新安江の姿が、どことなく「新安大好山水」を想起させる。この深渡はいわば徽州の南の入り口であり、徽州を訪れる旅人の多くが、この景観を賞美したことだろう。いつかここから乗船して杭州にくだるのも良いかも知れない。時間のある旅であれば、逆に杭州から深渡へ行くのも悪くないだろう........そう思いながら、歙県への帰途についた。
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徽州の肉屋

徽州の朋友からメッセージが届いていた。「この間、農家で”殺猪飯”を食べた。年の瀬特有の料理で、年末(旧正月の)しか食べられないから、来年は一緒に食べに行こう。」ということである。”殺猪”とあるが、イノシシではなく”豚”のことである。”殺猪(豚)飯”とはまたすごい名前だ......以前に朋友とは、真冬の呈坎を訪れて、豚の屠殺現場に遭遇したことがある。なかなか凄惨な場面であったが、この時の事を思い出した、ということだ。
家々が大切に飼った豚を屠(ほふ)るのは、正月を迎える準備の一環である。豚を屠った時の特別料理としてこの”殺豚飯”を作るのだそうだ。
..........中国の歴史や文学には、たびたび肉屋が登場する。それも優れた戦闘者である場合が多い。戦国春秋時代、信陵君の食客であった朱亥(しゅがい)は市場で屠殺を生業としていた。彼は魏国の将軍、晋鄙から兵を奪うべく、鉄槌一撃で晋鄙の脳天を割って暗殺している。また史記の”刺客列伝”には、魏の刺客聶政(じょうせい)は、犬の屠殺業をしていた、とある。古代中国においては、豚や牛を食べるのは特別な祭事の時だけで、一般的に食肉といえば狗(イヌ)だったらしい。
また漢楚の戦いの時代、”鴻門の会”の豪傑、樊噲(はんかい)がいる。彼ももとは犬の屠殺業を生業としていたといわれる。樊噲は劉邦の親衛隊長として近侍し、会戦にあたっても突撃隊長として、実際に数多くの首級を挙げていることが史記に記されている。その戦闘の能力も相当なものだったのだろう
後漢末にも、妹を後宮に入れて大将軍にまでのしあがった何進(かしん)がいるが、何進の家は代々豚の屠殺を生業としていたとある。後漢の頃の大都市には、既に豚の食肉が普及していたということだろうか。何進は三国志の物語中では情けない最後を迎えるが、大将軍になったほどであるから、武芸もそれなり以上に出来たのかもしれない。
そして史実では定かではないが、三国志”演義”の中では張飛も肉屋を生業としていたことになっている。ほか、物語では水滸伝の”操刀鬼”こと曹正なんかもそうである。同じく水滸伝の女傑、顧大嫂も牛の肉屋だった。どうも”肉屋は強い”というイメージがあるようだ。
子供のころに三国志を読んだときは”お肉屋さん”が何でそんなに強いのかわからなかった。近所のお肉屋さんというと、太ったおじさんが機械で肉をスライスしたり、ミンチをつくったり、コロッケを揚げている姿しか見ていない。恐ろしい話だが、刀でもって渡り合いの末に人を斬るのは、すでに動かなくなった豚や牛を斬るのとはわけが違うだろう、などと思っていた。時代劇のチャンバラしかみていないから、肉屋の太ったおじさんと、俊敏に動きまわる剣客がどうしても結びつかなかった。
徽州の肉屋それが大陸に渡り、田舎の市場における肉屋を見て、なるほどと思ったわけである。写真は安徽省歙県に属する昌溪の路傍の肉屋。この季節、片田舎の市場や路傍では、こういった肉屋をよく見かける。
無論夏場も肉屋はやっているのであるが、気温の関係で腐敗しやすいからだろう、冬場ほど生肉をおおっぴろげにはしていない。また夏は生肉だけではなく、塩漬けにして少し乾燥させた肉を店頭に出していることが多い。徽州、とくに績渓県はハム(金華ハムなどの、いわゆる中華ハム)の産地としても名を知られているのであるが、ハム未満の半生肉も作られる。これはハムほどではないが、生肉よりは多少は保存が効く。これを少量細かく切って、野菜などと炒めて食べるのである。
徽州の肉屋昌溪のこの時の外気温は零度を下回っており、リンとした寒気が覆っている。冷蔵庫の中で作業しているようなもので、腐敗の心配はない。脂身は白くかたまり、赤味も鮮烈な色をしている。
もちろん日本のスーパーのようにスライスやミンチでは売っていない。主婦は部位を指定して、その場で塊で買うのである。量り売りである。凍るほどではないが、肉塊は固く引き締まっている。ナタのような重い厚刃の肉切り包丁でたたき斬るのであるが、時には骨をも断ち切らなければならない。これに熟練すれば、あるいは戦場で人を斬るのも造作もないことなのかもしれない...................
やはり正月準備の関係だろうか、この季節は豚の需要が高いようだ。おそらく豚を屠るというのは、昔は季節限定のことだったのだろう。徽州では昔から冬に肥えた豚を屠ってハムなどの保存食を作り、1年の用途に備えるのである。今でも正月にはハムを贈答する習慣があり、これは徽州に限らない。上海などでもこの時期は”金華ハム”などを中心に、正月用のハムが売り出されているのを目にする。
徽州の肉屋徽州の肉屋写真は万安鎮の市場。木材が無造作に置かれていると思ったら、これは肉屋のまな板だそうだ。丸太を縦割りにしただけのまな板であるが、なるほど表面には無数の包丁跡が刻まれている。これだけのまな板であれば、豚一頭を丸ごと横たえてさばくことができるに違いない。まな板というよりも、古代の犠牲式の祭壇のような重厚長大さである。
徽州の肉屋劉邦の謀臣であった陳平は、若いころの村の祭事において、犠牲の獣を切り分ける手際を褒められている。史記には
裏中社、平為宰、分肉食甚均。父老曰「善,陳孺子之為宰」平曰「嗟乎、使平得宰天下、亦如是肉矣
とある。書き下せば
里、社に中り,平(へい)宰(さい)を為し,肉を分かち食すに甚だ均し。父老曰く「善(よ)い,陳(ちん)孺子(じゅし)の宰を為す」平(へい)曰く「嗟乎(ああ),平をして天下を宰(おさめ)るを得さしめば,亦(ま)た是(こ)の肉の如くや」
大意を示せば
里中で社稷の祭りがあった。陳平がこの犠牲の式を執り行ったのであるが、肉をとても公平に分配した。これをみた村の長老は”よし、陳の小僧はうまくやるわい”といった。陳平は「ああ、俺に天下を切りまわさせたら、きっとこの肉のようにさばいてみせるのに」
というところだろうか。

”社”は村の祭り。祖先をまつる行事である。古代の行政長官、首相を”宰相”というが、宰相の宰(さい)の原義は肉を切り分けること、より直接的には屠殺を意味する。この場合の屠殺は、食肉に犬を殺す生業とは意味が異なり、神事の一部なのである。祭祀に臨んで犠牲の獣を神(祖先)に捧げ、しかるのちに皆で公平にこれを食すのである。
犠牲には豚や山羊、牛が使われる。獣を一体解体すれば、いろいろな部位に分かれるわけであるが、それを皆の不満の無いように切って取り分ける、というのは実はなかなか難しい。同じ重さでも、部位によって価値が違う。たとえば日本ではあまり食さない、豚の頭なんかは高かったわけである。脂身を好むから、ヒレよりも三枚肉の方が喜ばれたかもしれない。だから単に目方だけで分ければ不公平感が出る。また村の中でももちろん長幼の序列はあっただろうから、各自の身分や業績に応じて切り分ける必要があっただろう。つまり細かい計算が働き、かつ事情通であり、その記憶力もよかったのだろう。また切り分ける手際が悪くては格好が悪いから、膂力もそれなりにあったに違いない。その後陳平は漢王朝の右丞相(実質的には宰相)にまで上るから、ついに天下を宰(おさめ)ることになったわけである。そして呂氏の専横に対しても、文字通りの”大ナタ”を振るうことになる。
徽州の肉屋政治を”まつりごと”というように、大陸の古代社会においては、祭事における儀式が地域の政治そのものであった。儀式は犠牲を神(祖先)に捧げることであり、祭壇には豚や牛がまつられる。犠牲の鳥獣の血を滴らせることも多かったわけであるが、この点、”血”をケガレと見てきた日本との大きな違いがある。祖先崇拝の源流は大陸も日本も同根であると考えられるが、”血”に対する不浄感は日本にだけ大変強いようである。
ともあれ大陸では古代から戦争も政治も”肉”とは切り離せない。大陸の食肉文化の奥深さが思われるのである。
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排行と命名

”排行”は、「並び順」という意味であるが、親族の間にあっては「長幼の序」というほどの意味になる。この場合の「長幼の序」というのは、年齢に基づく序列ではない。たとえば、祖父祖母、父母、兄弟、姪甥、のように世代ごとの順であり、当然のことながら前の世代を尊ぶ必要がある。また同世代は互いに仲良くし、下の世代に対しては保護教育する必要があるとされる。
現代であれば、ほとんどの場合は世代が下になれば年齢が下、ということになる。しかし昔にあっては、ある程度の土地なり地位なりのある家であれば一夫多妻の例もあり、それでなくても死別によって後妻を迎えることは少なくなかったのである。なので年が上の甥や姪がいる、ということも珍しいことではなく、しかしそういった場合でも「長幼の序」というのは「排行」によって決められるのである。

同じ世代でも年齢に開きがあるため、外見だけでは排行のどこに位置するかが分かりにくい。そこで同じ排行に属する世代は、すべて同じ一文字を名前、とくに”字(あざな)”につけることが古くから行われていた。一文字を共有するのであるから、二文字でなければ区別ができなくなる。名前は1文字の場合が多いから、排行を適用するのは”字(あざな)”の方になる。
近代中国では”字(あざな)”は使われていないが、排行を守ろうとすれば、名を2文字にするしかない。歴史的には”名”が一文字、”字”が二文字、ということがほとんどだが、現代中国においては二文字の名前も結構多い。字(あざな)が使われなくなる過程で、元来の”名”を名前とするか”字(あざな)”を名前とするか、二文字の名前が増えた事情はそのあたりにあるのではないかと考えているのだが、定かではない。

少し話がそれるが、80后(80年代生まれ)の若い朋友に聞くと、「漢字2文字の名前のほうがなんとなくカッコいい」ということだ。たしかに印象としては、2文字の名前が多くなっているような気がする。ついでに言うと「姓も2文字なら、さらにカッコいい」という。中国に2文字の姓はあまりない。パッと思い浮かぶのは「歐陽」とか「司馬」とか「宇文」とか「夏候」とか「諸葛」だろうか。しかし日本は漢字2文字の姓が多い。また名前も漢字2文字が多いだろう。
どうも日本人の漢字四文字の名前がたくさん知られるにつれて、なんとなく字数が多いほうがカッコいいとおもえる感覚が出来ている気配がある。小生としては姓が一字姓、名に漢字一文字、たとえば”原敬”なんかの方がカッコいいと思うのだが、姓が二文字なのでどうしようもない。まあ日本人も姓の多くが一文字であれば、こんなに姓が多くなることはなかっただろうと思うのであるが................話がそれた。

排行だが、たとえば”孔子の子孫”は中国全土に何十万人といるが、現在でも排行を守って命名している。”孔”姓といっても、すべてが孔子の子孫とは限らないのであるが、ともかくも孔家の排行を守って命名されている”孔さん”であれば「私は孔子の一族です」と言えるわけなのである。

また宗族社会の伝統を色濃く残す徽州でも、この習慣は根強く残っている。たとえば現中国国家主席の胡錦濤氏は安徽省績渓県の龍川村が原籍地であるが、祖父は胡炳衡という人であった。その兄弟に胡炳華がいる。その息子たちはそれぞれ胡増鑫、胡増金,胡増麟、胡増?と名付けられた。すなわち”増”を共有しているのである。このうち胡増?が胡錦濤氏の父親にあたる人である。胡錦濤氏の世代は”錦”の一文字を共有し、13人いるそうだ。

世代ごとに共有する文字の順番は、宗族ごとに決まっており、続けると一遍の詩を為すようにきめられている。
排行例
安徽省績渓県の大廟汪村の宗廟の中にも、この「排行」を示した詩篇が掲げられていた。この排行は「汪村」の汪氏のものだという。試みに読んでみよう。

元徳恆昭懋
煕綸集大成
純光敦玉彩
培秀秉時英
仕進臨台輔
文華照国賓
孫謀如燕翼
祖武定能縄

一応書き下してみる。

元徳(げんとく)は昭懋(しょうむ)を恆(つね)とす
綸(りん)を煕(あきら)かにして、大成(たいせい)を集む。
純光(じゅんこう)は玉彩(ぎょくさい)に敦(あつ)し
秀(しゅう)を培(つちか)って時英を秉(と)り
仕進して台輔(たいほ)に臨んで
文華(ぶんか)は国賓(こくひん)を照らす
孫(そん)は謀(はか)ること燕翼(えんよく)の如く
祖武、定めて能(よ)く縄(うけつ)ぐ

「元徳」は本来「玄徳」であろうが、康煕帝の忌み名を避けたのであろう。「綸」は倫理。「大成」は道徳。「昭懋」は公明正大ということ。「時英」は英才。「台輔」はいわゆる三公の地位で、高位高官のこと。「祖武」は先人の業績。最後の「縄」には「継承する」という意味がある。「詩・大雅」に「縄其祖武」とある。
大意は示すまでもないと思うが、要は道徳、および学習に力を入れて秀才を育成し、高位高官を排出し、子孫は助け合う、というほどの意味になる。徽州宗族の伝統的な価値観を反映している内容である。

右端に「謹将三十五世排行列左」、左に「大清光緒二十六年荷月重立」とある。「三十五世排行列左」は、すなわち三十五世代をもって、汪氏の排行は一巡するという意味になる。しかし詩篇をみると五言一句が全部で八行で、すなわち合計四十文字である。おそらく、最後の一行「祖武定能縄」は排行に含まないのではないかと考えられる。また光緒二十六年の旧暦6月(今の7月)に書かれたものであるが、「重立」とあるから、古い排行表が劣化したので書きなおしたのだろう。

中国全土、どこの農村でもこのようなしっかりとした”排行”があるわけではないようだ。魯迅の「風波」には、生まれたときの目方で持って命名している村が描かれている。生まれたときに体重が「七斤(3500g)」なら「七斤」といった具合である。これに「爺さん」「婆さん」「ねえさん」をつけて家族を区別するといった塩梅で、至極適当であるが、狭い村落の中では「あんた」「おまえ」で会話が終わることが多く、これでいいのだろう。
しかしやはり文化水準が高く、教育に力を入れた徽州の人々は、いずれ官界に出たり、商業で他郷へゆく場合がある。中国は姓が日本ほど多くないため、同姓同士が多いわけである。他郷で同姓同名を避けるためには、「一郎二郎」式の命名で不都合が多いに違いない。

ちなみに字だけではなく、一文字の名前にも、同世代が分かるように命名する場合がある。すなわち漢字一文字の”偏”や”旁”を共有するやりかたで、たとえば紅樓梦の賈家は宝玉と同世代に賈珍、賈珠、賈?、賈環、賈?、賈瑞、賈璜、また父親の世代は賈政、賈敏、賈敬、祖父の代に賈源、賈演、といった具合である。賈家ほどの大貴族であれば、字ももちろん排行に基づいて命名されていたはずであるが、作中に字の紹介はない。しかし名に使用されている漢字をみると、世代が一応わかるようになっている。賈宝玉だけ二字の幼名のままであるが、「玉」だけに、やはり同世代の使用文字の規則にしたがっている。さらにいえば、黛玉や宝釵など、同世代の従姉妹達も「玉」が使われている。
女子には同世代に迎春、探春、惜春、といった命名が見られるのであるが、女子の場合は排行に基づくかどうかはわからない。日本でも兄弟姉妹で同じ一文字を共有する例も珍しくはないだろう。

「排行」は歴史上の人物の人間関係を調べるときに、ヒントになることもある。特に徽州ではかなり厳格に適用されているようなので、思わぬ手がかりになることも少なくない。欧米の場合は、家系を名前に表そうとした、やたらと長い名前があるが、アルファベットの単語の場合はこうするしかないのだろう。漢字は漢字で別のやりようがある、というところだろうか。
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大廟汪村の廟堂? 〜石柱の廟堂

ところで”汪氏”について調べている理由は、間接的に汪近聖や汪節庵の事跡を知りたいからである。清代製墨史における稀代の名工、汪近聖の出身地は績渓県の尚田村である。汪節庵の出身地とみられる、岩寺鎮信行村は訪ねてみたことがあるが、尚田村はまだ訪れたことがない。
しかし尚田村出身といっても、汪近聖自身が尚田村で生まれ育ったかどうかまではわかっていない。汪近聖は歙県の曹素功の墨廠に墨工として働き始めたのであるが、あるいは汪近聖の父親以前の代から、歙県に移り住んでいた可能性もある。
中国では本籍地が今なお重視されるので、本人が一度も本籍地を訪れたことがなくても「彼はどこの人か?」と聞かれた時には、本籍地がほぼ答えになる。(中国の現国家主席の胡錦濤氏も、安徽省績渓県で生まれそだったわけではないが「どこの人か?」と聞かれた時には「績渓県」ということになるのである。)日本のように「生まれも育ちも」ではなく、祖先がどこに住んでいたか?が重視される。王朝時代の士大夫であれば、他郷で死んでも棺は「本籍地」に送られ、祖先の地に葬られるのである。

今回績渓県を訪れたついでに、汪華ゆかりの「大廟汪村」を見学することにした。尚田村にもいつかは行こうと思うが、績渓県市街からはやや距離があるのである。
例によって事前情報などほとんど何もない。績渓県に大廟汪村という村があり、その村に汪氏の廟堂がある、と聞いているだけである。績渓県の市街から車を走らせて20分ほどの位置にある。道順からいえば、以前に訪問した胡氏宗廟のある龍川村へ至る途中にある。
大廟汪村大廟汪村初夏の山河が美しいのは、日本も江南も一様ではないだろうか。山に囲まれた平野を河川が貫き、山麓まで水田が敷き詰められている光景というのは、やはりどことなく日本の農村と似通う風景である。田植えの終わった水田というのは、人の手が加わった景観のなかでも、とりわけ美しいもののひとつではないかと思う。
大廟汪村汪村は、宏村や呈坎鎮のように掘や外郭で囲まれた集落ではない。しかし集落の正面に河川が横たわり、背後に山を背負っている。この形勢は徽州の村落でよく見られるのだが、防御に適した地勢なのである。生活における利便性や生産性よりも、防衛が重視された時代でなければ、このような狭隘な地に大勢の人が移り住むこともなかったかもしれない。
大廟汪村大廟汪村村の入り口に「大廟汪村」という立て札が掲げられている。地元の人の話では、ちょうどこの場所に「大廟」があったという。今は建築物は何も残されていない。地面を大きく掘り返された跡が、かろうじて「大廟」の遺構を思わせるのみである。非常に残念なことであるが、文革時代に取り壊されてしまったということだ.........話には聞いていたものの、やや茫然としてしまう。跡地を何かに利用するわけでもなく、ただ破壊してしまうというのは、なんとも残念なことだ。保存するだけのゆとりがなければ、せめて放っておいてもいいようなものであるが。

かえすがえす残念なことに「大廟」はすでにない。しかしせっかく来たので、村の中を訪問してみることにする。何度か触れているが、案内人なしに不用意に村に入ってゆくのは考え物である。この村は観光地として開発、解放されている村ではない。余所者が入り込むこと自体、場合によっては警戒されてしまうのである。
このときは上海人の朋友が同行していたが、同じ中国の人と言っても余所者という点では日本人と大差はない、と考えなければならない。地元の人を同行していなければ、なるべく村の入り口で適当な人を見つけ、訪問の目的を伝えたほうが無難である。いくばくかの謝礼を渡せば、案内人を買ってくれることもある。

時刻は午後2時を回っていた。5月とはいえ、盆地の徽州は日差しが強い日は気温がすぐに高くなる。農作業を終えたとおぼしき、年配の婦人が通りかかる。日よけの頭巾をかぶっている。小脇に抱えた竹籠の中には、摘んだばかりのえんどう豆の青いサヤが光っている。
「この村には、古い建物、宗廟のような建物が残っていないですか?」聞くと「村の中にあるよ。」という返事。別段、我々を警戒する様子も見えないので、ともかく村の中に入ってゆくことにした。
集落の外側の建物は、外観は徽州の故民居に少し似せているものの、近代的な工法で建てられていることがわかる。せいぜいここ20年間の間に建てられた家屋である。
大廟汪村大廟汪村大廟汪村古い建物が残っているかどうか少し不安になったが、村の内側に入ると、徽州独特の故民居が古い家並みを見せている。「廟はないですか?」と尋ねると、一か所だけ、残っている場所があるという。狭い路地を通り抜けると、小さな広場に出た。広場に面して、”廟”と思しき建物が見える。
大廟汪村大廟汪村大廟汪村閉ざされた門扉の上には、カーキ色に色褪せた「赤い星」が掲げられている。”レッド・スター”は言うまでもなく中国共産党のシンボルである。この建物がある時期、共産党の施設として使用されていたことを表している。党の施設として利用されていたがゆえに、文革の破壊をまぬがれた、とも推測されるのである。
大廟汪村とにかく中に入ってみたい。扉はさほど強固ではなさそうだが、錆びの浮いた大きな錠前で施錠されている。この木製の扉は、後から付けたような格好である。ところどころに裂け目があり、中をのぞくと、雑草が繁茂し、荒れ果てた廟内が目に入る。
とはいえ、入ってみたいものである。しかしこういうときは不審な行動をとらず、村人に見学を希望する旨を申し伝えるよりない。通りがかりの老夫人に、宗廟の中を見学したいのだが、どうすればいいか?と聞くと、廟に隣接して管理人の家があるという。
大廟汪村入口向って左手に、廟に隣接した民家がある。牛も解体できそうな厚刃の包丁が置かれているが、どうも肉屋を営んでいるようだ。こうした小さな村では、豚なり牛なりを屠る日は決まっていて、その日のうちに買い取られるという。また鶏肉などは、各家庭でトリを”しめる”のである。
人の気配がないので「有人嗎(だれかいますか)?」と呼ぶと、中から痩身の男性が現れた。無表情な男性であったが、廟の中を見学したいというと、意外にもあっさりと了承してくれたのである。ただの物好き、と思ってもらえたようだが、それでいいのである。家の奥からカギの束を持ってくると、廟の扉を開けてくれたのである。
大廟汪村大廟汪村さてこそ「叩けよ、さらば開かれん」である。時代がかった重い錠前が外され、薄い木製の扉を押し開いて中に入る。管理者の村人は、われわれに錠前を渡し「見学が終わったら鍵を閉めてから帰るように」と告げて立ち去った。
大廟汪村大廟汪村手入れもせずに放置された格好の廟の中は、さまざまな雑草が生い茂っていた。5月のこの季節だからまだいいが、真夏まで放っておけば足を踏み入れることもできなくなるだろう。大廟汪村古い農具が、脇に積み重なって放置されている。ほとんど物置のような扱いになっているのだろう。かろうじて人の出入りはあるようだから、草取りなどもされるに違いない。しかし大変な荒れようである。
修復も手入れもされていない印象であるが、一見して価値の無い建物、というわけではないことがわかる。いや、想像以上に豪壮な建物である。
大廟汪村大廟汪村両側面の柱は角柱である。しかも石材を使用している。実際に四角柱の柱は多くはない。
角柱の柱は徽州では明代の様式、ということになっている(造られたのは、かならずしも明代とは限らないが)。これが清朝に入って円柱になったと言われている。
柱の材質は石材のものもあれば木材を使用することもあるが、むろんのこと、石材の方が建築材料としては高価である。世界遺産の宏村では、村の経済力を反映してか、石材の柱を多く目にする。しかし徽州全体では、一村の宗廟といえど、石柱はそれほど多くは見られないのである。
大廟汪村大廟汪村柱の形状については、石材を使う場合は円柱より角柱の方が加工しやすく、無駄も少ない。石材はまず方形にカットされ、円柱を得るためにはそれがさらに丸く削られるからである。
しかし木材を使用する場合は、角柱にする場合にはもともと円柱の丸太を削らなければならない。すなわち円柱の場合よりも、直径の大きな丸太が必要になる。明代後期の創建と見られる、西溪南の汪道昆の故民居は木材の角柱である。
これは小生の勝手な想像であるが、当初は角柱の石柱が多く用いられたが、石材資源が枯渇し、木材が使用されるようになった。さらに木材を角柱に削って使用していたが、次第に太い丸太の入手が難しくなり、円柱が使われるようになった.........のかもしれない。
柱に石の角柱が使われているということは、創建はすくなくとも明代後期以前と考えられる。汪村の成立自体は、隋末の汪華までさかのぼることができるのだとすれば、この宗廟が明代以前であっても不思議はないところだ。
しかしこの宗廟には、石の角柱ばかりではなく、木材の円柱も並んでいる。この点、繰り返し大規模な補修が行われた可能性も考えられる。大廟汪村また、それぞれの柱の基部には礎石がおかれている。この礎石の形状にもさまざまなものがある。
大廟汪村大廟汪村大廟汪村本堂には二階に上がる階段が付いていた。破損している可能性もあるので、一段一段慎重に足を運んで階上へ上がる。屋根裏のようなスペースには、机と椅子が置かれている。教室か、あるいは党支部の執務室として使われていた跡であろうか。
床板の裂け目から階下の外光が漏れている。踏めば床が抜けないとも限らない。眺めて写真を撮るだけにした。

堂内は雑草が茂り、やぶ蚊が多く、蜂や虻がブンブン唸っているので、虫よけがないと長居は難儀である(あとで気づいたが、腹部を服の上から2ヶ所刺されており、1週間ほど腫れが引かなかった)。堂内をくまなく見て回ると、ほどほどに写真に収めて外に出ることにした。錠前を閉じ、一応は管理人に見学が終わったことを告げて後にする。

村の人の話では、村の入り口にかつて存在したのが汪公廟であり、村の中にあるのは司馬公祀であると言われる。胡宗憲が明代に修建したのは汪公廟であるともいわれるし、司馬公祠であるともいわれる。司馬公祠は四十世の汪叔挙を祀った廟であるが、汪華の曽祖父の世代として尊崇を集めたのであろう。これは新しい王朝がひらかれるときに、初代皇帝の父親や祖父にさかのぼって諱(いみな)が定められ、さらに帝王の称号が追贈されるのと同じような感覚なのかもしれない。

三国時代に荊州を守った関羽も、死後に神として祀られることになった。現在ではその信仰はほぼ中華圏全土に及んでいるが、当初は関羽が軍政を敷いた荊州を中心に興ったと考えられている。戦時下のこと、いかに善政を施いたといっても、民衆の負担は軽いものではなかったはずである。しかしむやみに略奪されるわけでもなく、流民や匪賊を防いでくれ、明日の命が保たれるというだけでも幸いなことだったのかもしれない。
汪華の信仰の範囲は徽州一帯に留まっているが、祀られるに至った経緯や武神としての性格は、関羽に類するものであると考えてもよいだろう。現代ではその信仰そのものが衰えてしまっている。しかしかつて徽州各地では、”汪公大帝”と呼ばれ、一年の間にさまざまな行事が行われてきたのである。
大陸ではもともと春節(旧正月)の前後に廟堂の神々を祀る風習があり、徽州においてはこの時期に各地の汪公廟で祭祀が行われたという。また清明節(4月初旬)の頃にも、”迎神廟会”という祭祀が行われていた。あるいは旧暦八月十三日の靖陽節に汪公を祀る地域もある。さらに旧暦の正月十八日は汪華の生誕日であり、績溪の地元では”花朝廟会”という行事でこれを祝ったという。
汪公廟は既に無いが、今なお残る司馬公祠は、伝承の上でも建築様式の特徴からいっても、すくなくとも明代後期にまでさかのぼれそうだ。一応は、この建物を修理・保全する案が地方政府に提出されているという。文革の嵐をかろうじて乗り切った、貴重な廟堂である。汪公廟のような末路をたどらないように、保存に力を入れてほしいところである。

(おわり)
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大廟汪村の廟堂? 〜徽州の汪公信仰

「ご先祖様に申し訳が立たない。」は、もはや死語だろうか。日本の近現代化の過程で、喪われた感覚のひとつと言えるかもしれない。悪いことをすると仏壇の前に正座させられ「ご先祖様に謝りなさい」というのも、ほとんどの家庭では今や見られない光景かもしれない。

「祖先を敬う」「祖先崇拝」は、東アジアに限らずエジプトやギリシャなど、世界各地域の古代宗教に見られる宗教の形である。祀られる神々の性格には様々なものがある。たとえばギリシャ神話の神々などは、実に人間的な感情の持ち主たちであり、時に非常に残忍で、怒りも嘆きも激しく、愚かな罪も錯誤も犯す存在である。彼らももとは、ギリシャ民族の祖先にまつわる伝承が生んだ存在と考えられている。またエジプトにいたっては王はすべて神になるのであるから、神々への信仰すなわち王権への崇拝であり、後世のように宗教と政治がかい離しているということはないのである。
しかし神格化された祖先(達)を、神殿ないし宗廟といった建築物に祀るという構図は、東西で共通しているといっていいだろう。そして神格化された祖先の群像として神々の存在があり、彼らが活躍する神話世界が物語られるところもほぼ同様である。

実在の人物が神格化される、というが、歴史的実在として尊崇される人間達と神々との境界は、この場合ややあいまいである。厳密な定義は難しい。あえていうのであれば、この場合の”神格化”とは、やはりある程度の普遍性を帯びるかどうか?が境界なのではないだろうか。
同姓の宗族によって祀られる祖先崇拝の場合は、その尊崇をあつめる範囲は、やはり同姓の宗族内にとどまるのである。それが別姓の人々からも崇拝を集めるほど大きな存在であったとき、いわば宗族を超えた”神”として”祀られる”と言えるのかもしれない。見方を変えれば、「神」になることで、別姓の人々にこれを祀る正当性が与えられるのである。そのとき「崇拝」が「信仰」に変わる、といえるのかもしれない。

徽州では「汪公」という”土地神様”が信仰されている。文革の過程でほとんどが壊されたが、かつては徽州各地に「汪公廟」が存在したという。徽州における「汪公信仰」には、徽州における「崇拝」と「信仰」の境界の、一つの典型を見ることができる。
汪公は汪華(587--649)という、実在の人物である。徽州の汪氏は、隋末から唐時代に生きたこの汪華を始祖としているといわれる。
英雄的な活躍をした祖先の恩恵で、子子孫孫が栄えるということはままある(逆もそれ以上にあるが)。宗廟には歴代の祖先が祀られるわけであるが、中でも宗族にとって功績の大きかった祖先は別格に祀られる。また時代が経過するにつれてさらに神格化され、神として別の廟堂で祀られるようになることもある。
汪華は何より汪氏の英雄であるが、その功績が徽州とその周辺地域という広範に及んだため、汪氏の祖先崇拝の枠を超えた尊崇を集めるにいたったのである。

「天下の汪氏は汪華を祖とする」とも言われる。「汪氏家譜」の記載によれば、汪氏はもともと古代周王朝と同じ姫姓であり、春秋時代に魯の国で”汪”という土地に封ぜられ、汪氏を名乗るようになったといわれる。ただし「家譜」の記載は、多かれ少なかれ系譜を美化して書かれており、そのまま信じることは出来ない。
ともあれ「家譜」に拠れば、後漢末期の建安二年(197)には、三十一世祖の汪文和が現れ、彼は献帝に仕えて龍驤将軍として黄巾賊との戦いに功績を挙げたという。その後漢王朝が乱れるに及んで、孫策に従って南下し、江南平定の戦いに武功を挙げ、会稽令(知事)に任じられ、また淮安侯に封じられたという。ただしこれほどの人物であっても、この時代の正史というべき三国志呉書には記載が無く、汪文和の実在は疑わしい。
孫権の代になって、歙県をはじめとする新安(徽州)一帯が呉の勢力下にはいったが、汪氏もこのとき徽州に移り住んだと考えられている。
晋の元帝の時代に三十六世の汪道献が、黟県の県令に任じられたという。このとき汪氏の多くも、歙県に移り住んだといわれる。南斉の時代、四十世の汪叔挙の代に至ると、さらに績渓県の”登源村”へ移住し、のちにこの村は汪村と呼ばれるようになった。汪叔挙は南朝に軍司馬として仕えた武官である。司馬公と称されるが、そのさらに四代後が汪華である。

汪華は字(あざな)を国輔、英発という(字が2つあるが、そのような場合もあるのである)。汪村汪氏の四十四世である。隋末から唐初にかけての武将で、徽州とその周辺地域における地方政権の首領であり、のちに唐王朝に帰順して重用された。その出身地は現在の績渓県汪村であるといわれるが、隋唐時代には汪村はまだ歙県に属していた。
汪華は幼年時に父母をなくし、歙県の親類の家で育てられた。十四歳の頃から徽州の”南山和尚”の羅玄を師として、刀槍(とうそう)弓箭(きゅうせん)の修練に励んでいたという。
ちなみに”南山和尚”といっても少林寺の武闘僧ではない。東晋時代の大興二年(319)に天然という僧侶が、休寧県は万安鎮水南村に南山寺という寺を建立している。徽州は自衛のための武芸も盛んな地域であり、また王朝時代においては武芸に励んだ寺というのは少林寺に限らないのである。
また汪華には汪鉄佛という弟がおり、この弟もまた勇猛で、副将としてよく兄を助けたといわれる。
厳しい武術修行で優れた武芸を身につけると,汪華は郡府の招募に応じて義勇軍に参加する。隋代末期は天下が大いに乱れ、群盗、流民の類から地域を防衛する必要が高まっていた。匪賊の征討に官軍が差し向けられると、規律の無い官軍によって、さらに地域が荒らされる恐れもあるのである。地元を守るには、その土地の者達で構成された義勇軍に頼るほかないのである。兵隊も、地元ではさほどの悪さはできないものだ。
若い汪華は義勇兵として周辺地域の騒乱の鎮定に従軍すると、その抜群の武勇で立て続けに功績を挙げ、同郷の義勇兵の間でたちまちのうちに頭角を現した。そもそもこの汪一族は、代々武将の家柄である。家伝の兵法のようなものもあったのかもしれない。汪華は武芸はもとより統率にも秀でており、次第に兵たちの間で首領とみなされるようになる。このあたり、戦時の軍隊は実力がモノをいう世界であった。
隋も末期には王朝の勢力が衰え、もはや官軍は支配力を発揮できなくなっていた。汪華はこのような時勢をみると、隋の官員の役目を翻し、軍を起こして全州を占領したのである。さらに汪華は義挙の旗をかかげ,宣州、杭州、睦州、呉州、饒州の六州に支配を伸ばす。総勢十万の兵を擁し、ついに“呉王”を称したのである。隋末の動乱は激しく長期にわたったが、汪華が納めた徽州とその周辺一帯は、兵乱を寄せ付けずよくおさまっていたという。
しかし621年、汪華は唐王朝の勢い盛んなことを見、さらに王朝が徳政を行っていると判断した。過剰な野心を持たなかった呉王汪華は、独立自治にこだわることなく、622年に唐王朝へ帰順したのである。これによって汪華の支配地域は、唐王朝による平定の戦乱をまぬがれることになる。
唐王の李渊は汪華の軍事的な能力と統治力、またその見識が高いことを喜んだ。そこで汪華の六州を保全した功績を認め、六州の諸軍の総官としたうえ、歙県刺史(知事)を兼務させた。また上柱国に封じ越国公の称号を許したのである。
その後の汪華は宮中の禁軍(親衛隊)の総監の役についたり、太宗が遼へ遠征の際は都の留守を任されるなど、特別に厚い信任をうけた。649年に長安で病に倒れ、652年に死去。棺が故郷に運ばれ、歙県の雲嵐山に葬られたという。
汪華の死後、徽州各地には汪華を祭る「汪公廟」が建設された。汪華が”呉王”を称したことから「汪王廟」とも呼ばれるが、「汪王(ワンワン)」となって語呂がいいからかもしれない。徽州とその周辺地域にとっては、まさに守護神といえる存在だったのであろう。汪華は汪氏の英雄であるだけではなく、徽州一帯を守る土地の神として信仰されたのである。
時代は下って、北宋初期の太平興国五年(太宗の時代)には、勅命によって汪華の出身地の汪村に汪公廟が建設された。ゆえに汪村は「大廟汪村」と呼ばれるようになったという。北宋の王朝によって汪華が再評価された背景は、宋王朝と遼との紛争に際しての、国内の防衛意識の発揚があったと考えられる。
汪村にあった「大廟」は、その後修理が重ねられてきたが、近代にはいって荒廃し、文革時代に完全に破壊されたという。現在の汪村に残るのは、四十世の汪叔挙を祀った”司馬公廟”の廟堂であるといわれる。つまり汪村には汪華を祀った「汪公廟」と、汪叔挙を祀った「司馬公廟」があったということになる。
村名に残る「大廟」はすなわち「汪公廟」であり、これは現存しない。「大廟」は、明代に胡宗憲の手によって建設されたと言われるが、胡宗憲は「司馬公廟」を建立したという伝承もある。現存する廟堂は「司馬公廟」であると言われるが、誰の手によって作られたか?は、はっきりしたことがわからないのである。

胡宗憲が「大廟」を建立するにいたった経緯については、伝説が残っている。ついでに言えば、汪村は胡宗憲の故郷である龍川村からも、それほど離れていない場所にある。
明代は嘉靖年間、倭寇討伐に大功をたてた胡宗憲は、郷里の母親を喜ばせようと豪壮な邸宅の建設を図る。北京故宮の”金銮殿”つまり”太和殿”に似せた邸宅......というよりも限りになく宮殿に近いもので、むろん臣下の分限を超えた建築様式が採られることになる。胡宗憲は軍需物質を横領して資金を作り、汪天乙という名工に依頼し、汪村に壮麗な金銮殿を完成させる。これが績渓県の知事のとがめるところとなり、朝廷から査察官が派遣される事態になる。
日本でも江戸時代には身分によって、”門構え”に厳しい規格が定められていた(庶民は門を構えられなかった)。同様に大陸の王朝時代においても、住居の建築様式には身分制度に基づいた厳格な制限が存在したのである。皇帝の住居と同じ規格の建物を建てるなど、それだけで造反とみなされかねない越権行為なのである。
あわてた胡宗憲は”汪公”の像を金銮殿に運び込み、汪公廟を建設したことにして言い逃れようとした。汪公廟にしても僭越は免れないが、私邸よりはマシである。しかし査察官が徽州に到着したとき、胡宗憲の母親は自ら罪を被って服毒自殺し、胡宗憲は都に送還されて取り調べを受けることになったという..........しかしどうも、これは後世の作り話のようだ。
倭寇討伐に大功を挙げた胡宗憲も、当時から悪名高い権臣の厳嵩に接近するなど、多分に”梟雄”の匂いのする人物なのであるが、それでもやはり明代後期の名将と目される人物である。上記の話を事実とするには、いささか内容が粗忽に過ぎるようである。
ただし羅小華が建設に関わった呈坎の羅氏宗廟も、豪奢にすぎるという理由で建築差し止めを受けた事実がある。また歙県に残る、許国を称えた八脚牌坊も、あまりに豪壮で本来なら臣下の分際を越えている規模であるが、既成事実を積み重ねて承認させた、という経緯があったという。明代後期に徽州の経済力は最盛期を迎えたが、ありあまる財力が建築に傾注されとき、往々にして身分制度の軌範を踏み越えてしまいかねない気分があったのかもしれない。
武将として生きた胡宗憲としては、郷里の名将の信仰にひかれる気持ちがあったのであろう。歴代名将を輩出した汪氏の系譜は、徽州の武門の象徴でもあったといえるのかもしれない。ともあれ、すぐ近くの龍川胡氏出身の胡宗憲であるが、彼が汪村に汪公廟ないし司馬公廟を建設したという伝承が残っているのである。汪華ないし汪叔挙が、郷里の守護神ないし英雄として、宗族を超えた尊崇を集めていたということはいえるだろう。

前置きはこれくらいにして、次回は大廟汪村を訪問した印象記を。
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新安人工山水

屯溪から績溪へ行く途中、屯溪を常々依頼している胡氏のタクシーで出発した。しかし屯溪郊外にさしかかったとき、いつもと通るルートが違うことに気がついた.......この日は気温がこの季節の徽州にしてはやや高め、朝から霧が濃い。右手の新安江河岸の遠景も、淡墨を引いたようにかすんでいる。
胡氏に聞くと、屯溪を貫流して歙県へ流れる新安江に沿って、新しく公園が整備されたのだという。ちょっと横目で観て行かないか?という配慮である。観るとなかなか綺麗に整備されているので、少し車から下りて辺りを見渡すことにした。
新安人工山水新安人工山水新安人工山水
しかし手前の整備された公園はともかく、あの対岸の風景、こんな情景は以前からここにあったのだろうか?山頂には、格好の箇所にアズマヤまであるのだが............
胡氏に聞くところでは、対岸の山々も人工的にかなり手を入れて整備した山なのだそうだ。今は自然に霧が出ているが、霧を発生させる装置もあるのだという。
もちろん、庭園の造形というのは本来こうしたものなのかもしれない。しかし現代の土木技術と、おそらくは観光地として栄えている黄山市の経済力をもって、これはまたずいぶんと雄大な規模でやってのけたものである。
新安人工山水
新安人工山水岩壁の頂からは二筋の滝が岩肌を流れおち、盛大に飛沫をあげている。しかしこの滝を抱く岩壁の背後には、重畳たる山並が控えているわけではないところを見ると.......やはりポンプで水をくみ上げているのだそうだ。近くには水力発電所があり、水も電力も豊富に供給されているのだと言う........それにしても。山水画でも、構成に力がない作家の作品には、ありえないような箇所に滝が描かれていることがある。それを実物大のスケールで見せつけられているかのようだ。
岩壁の壁面にはふとぶとと、「新安大好山水」の文字が刻まれている.................

「新安大好山水」の「大好」は「大好き」ではなく、「非常に美しい」という意味である。「好」は「美」と同義に使われる。

南朝梁の武帝に重用された、東海郡は郯県(現山東省)の人、徐擒(じょきん)という人物がいた。彼はかねて風景の美しい地方に任官し、余生を過ごしたいと考えていた。その事を聞いた武帝は徐擒を召して彼に言うに「新安大好山水、任?等并経為之、卿為我臥治此郡(新安は山水が大そう美しい。任?(じんぼう:460-508)等(著名な文学者も)この地方の太守を務めてきた。卿は私の命令を聞いて、この郡を統治せよ)」。
後に朱熹は「新安大好山水」の六字を揮毫し、歙県の古寺の岩石にこれがきざまれたという。

徽州の明媚な山水を代表する「新安大好山水」は、「黄山図」や「白岳図」とともに、画の主題や墨の意匠として古くから用いられてきた。清朝においては、汪近聖の三十二笏からなる「新安大好山水図集錦墨」が著名であり、後世その模倣品も数多い。近代の上海墨廠の墨の中でも、最上等の部類である”油烟101”には「鐵齋翁書畫寶墨」と並んで、「新安大好山水」がある。小生などは、赤味が勝ちすぎる「鐵齋翁書畫寶墨」よりも、曹素功らしい澄んだ色の「新安大好山水」の方が好みである。

オスカー・ワイルドは「自然は芸術を模倣する」という逆説を用いたが、これは「自然は人工を模倣する」と言いかえることもできる。しかしどうも、この徽州の新景観は、その域には達していないように思われてならない。黄山に人造の松を置いたりすることと、同じ発想なのかもしれない。なにもこんなものを作らなくても、屯溪郊外には自然の美しい景観が存在するのであるが..........ここはやはり「新安人工山水」と呼ぶべきであろう。
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徽商大宅院の蛟龍

かれこれ5、6年は、年末年始を徽州で過ごしていることになる。以下の写真は、今回訪れた歙県にのこる「徽商大宅院」の壁面の彫磚(レンガ彫刻)。2匹の蛟龍のうち一匹が、靈芝をくわえている図である。
徽商大宅一応、今年の干支にちなんだ吉祥図案を掲げておく、という意味もある。

「蛟龍」には「靈芝」がつきものなのであるが、こ靈芝の図案は雲気紋とフィージョンした瑞雲、靈芝雲として描かれることが多い。また靈芝をくわえた動物では、他に鹿、あるいは鳳凰や鶴などを目にすることがある。特に鹿に靈芝の組み合わせは、龍川の胡氏宗廟の木彫など、徽州では目にすることが多い。
さらにいえば、龍の幼生である”蛟龍”は、よく見ると龍のようであり、また麒麟のようでもある。麒麟は神格化された鹿と関連があるが、鹿にせよ蛟龍にせよ、常に靈芝がまとわりついている。靈芝はそもそも鹿の角の薬効から想起される、生命力の象徴から分化したという説もある。
このあたりのイメージの融合、分離が織りなす変転には興味が尽きないところである。製墨の意匠との関わりも深いため、そのうち整理して紹介できればと考えている。かつて製墨に使用された鹿角膠は、昔も今も漢方の貴重な薬材なのであり、滋養強壮に薬効があると信じられている。墨の背面にも、鹿、靈芝を模した意匠は多い。無関係ではありえないだろう。

ところで、いままで多くの徽州故民居を見てきたのであるが、現存する一邸宅のなかで最も豪奢なのがこの「徽商大宅院」ではないだろうか。補修された部分も多いのであるが、その壮麗さには驚嘆するよりほかない。北京の紫禁城などよりも細部の作り込みに優れ、実に見ごたえがあるものである。時間をかけてゆっくりとながめて飽きることがない。往時の徽州の経済力、文化の力の恐るべきこと。徽州を訪れる機会があれば、ぜひ見学をお勧めしたい場所である。
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新安碑園へ

明代後期に刻された「餘清齋(よせいさい)帖」と「清鑑堂(せいかんどう)帖」を見に、歙県郊外の「新安碑園(しんあんひえん)」を訪れることにした。
新安碑園は、歙県城の外郭に沿って流れる新安江にかけられた「太平橋」を渡り、対岸に位置している。付近には南宋時代の古塔を遺す「太平興国寺」があり、また明代の利水建築を遺す漁梁村がある。徽州の観光基地である黄山市の屯溪区からは車で30分ほどの距離であるが、意外にも土地の人にこの「新安碑園」はあまり知られていない。

この日はあいにくの曇天に小雨がパラついていた。いつも依頼している呉氏のタクシーで屯溪区を出発する。30分ほど走って歙県城外に到着したが、道行く人やこの街のタクシーに尋ねても、誰も「新安碑園」などという場所は知らないという。
小生はあらかじめGoogle Mapで大抵の位置見当をつけていたから、それを元に尋ね歩き、ようやく一人の老人から「そのような場所なら、太平興国寺に向かう道の初めにあるだろう。」と教えてもらう。
徽州に限らず、史跡というのは、必ずしも現地の人に知られているとは限らない。「知らない。そんな場所は無い。」と言われても、諦めてはいけない。運転手の呉氏は、小生の物好きな探索に付きあっても、いつも粘り強く探してくれるのである。旅行会社を通じて手配した車の場合、マイナーな史跡に詳しいとは限らないし、すぐに諦めて名所を周りたがる向きがあるから、そこは注意が必要である。
安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」入口には確かに「新安碑園」と書かれた、刻石の扁額が掲げられている。入って右手に受け付けがあるが、名前を書くだけで入場料は無料である。安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」新安碑園は盛り上がった岸壁の上に建てられており、急勾配の石段が崖上の庭園の入口へと続いている。急峻な崖の上に楼屋を築き、訪れる人に曲がりくねった石段を辿らせるのは、山水画では常套の構図なのである。
安徽省歙県「新安碑園」門に至る途中には、石のテーブルと石鼓を模した四脚の椅子が置かれている。テーブルと椅子の下には、八卦を模した石畳が敷かれてる。安徽省歙県「新安碑園」さらに石段を登り、登り切って庭園の入口には、「古墨衍芬(こぼくえんふん)」の題字が掲げられている。これは近現代の著名な古建築、園林造営家の陳従周(1918〜2000)の手によるものだそうだ。安徽省歙県「新安碑園」門の両脇の獅子は清朝の徽派石刻の獅子の特徴を良くあらわした、これも名品である。安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」この門をくぐると「真賞亭庭院」に入り、以下「歙池」「小天都庭院」「両清堂庭院」「披雲小築庭院」と続いている。安徽省歙県「新安碑園」各院を連絡する「墨妙廊」には、「餘清齋帖」と「清鑑堂帖」の拓本が展示されている。
安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」園内には、ほのかにキンモクセイの花が香っている。この新安碑園の元となった建物がどのような建物であるか、資料もなければ現地の人も知らなかったのであるが、おそらくは書院(学校)だったのではないだろうか。文革後に新安碑園として修建されたというから、文革時代には学校として利用され、破壊を免れた可能性がある。安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」かつて歙県雄村の「竹山書院」で見たように、キンモクセイの木が植えてあるのは、この書院で学んだ学生が科挙に及第したことを思わせる。さらに言えば、紫陽書院の遺構ではないかと推察している。現在は歙県城内の中学校の校内にある紫陽書院であるが、城外にも別校舎があったと言われている。
安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」「餘清齋」あるいは「餘清齋帖」は単帖二十六篇よりなり、中に評文跋文が六十五篇、鑑賞題識が二十一、合計で九十九人の人物の筆跡が収められている。落款のなかでも最も古い時代のものは北宋の大中祥符八年(1015)、最も新しいもので万歴三十七年(1609)である。また万歴年間の評跋は二十四篇あり、うち董其昌(当時41歳)の手によるものが十一篇、他は創編者の呉国廷と楊明時の文である。
この餘清齋帖の拓本で完全なものは日本書道博物館旧蔵の拓本が知られているが、収録されているのは、以下の二十五編である;
安徽省歙県「新安碑園」第一冊:王羲之「十七帖」
第二冊:王羲之「遅汝帖」、「蘭亭序」、「楽毅論、黄庭経、霜寒帖」
第三冊:王洵「伯遠帖」、王献之「中秋帖」「蘭草帖」「東山帖」、智永「帰田賦」、虞世南「積時帖」
第四冊:孫過庭「千字文」、顔真卿「祭姪文稿」
第五冊:蘇軾「后赤壁賦」、米芾「千字文」
第六冊:米芾「評紙帖」「臨右軍至洛帖」
続篇(二冊八巻)
第一冊:王羲之「行穰帖」「思想帖」「東方朔画賛」、王献之「鴨頭丸帖」「洛神賦十三行」
第二冊:王羲之「胡母帖」、謝安「中郎帖」、顔真卿「蔡明遠帖」
安徽省歙県「新安碑園」刻石で現存するのは三十三方であり、其のうちの二十八方には両面に刻され、合計六十一面の版面があるという。拓が採られることの少なかった餘清齋帖は、あまり広範には知られていなかった。明治時代に楊守敬が日本へ持ち込み、当時の書壇に知られるところとなった。いわゆる「南帖北碑」という場合の、「南帖」を代表する集帖のひとつであるとされる。
北宋の太宗の命で成った「淳化閣帖」や、また乾隆帝が命じてつくらせた「三希堂帖」などの官製の集帖を除いた、民間の集帖の中では最も優れた集帖のひとつであると言っていいだろう。王羲之の「十七帖」や「楽毅論」「黄庭経」など、現在よく知られている図像は、この餘清齋帖から採ったものである。安徽省歙県「新安碑園」「餘清齋集帖」を創編した呉国廷(あるいは呉廷)は、明代嘉靖から万歴年間、歙県は豊南すなわち西溪南の人で、いわゆる西溪南呉氏の宗族に属する大商人である。呉国廷は陳繼儒(ちんけいじゅ)や董其昌(とうきしょう)といった、当時著名な書画家、鑑定家と深い親交があった。この「餘清齋帖」は董其昌、陳繼儒の鑑定に拠っているとされる。
安徽省歙県「新安碑園」ところで西溪南の呉氏と言えば、その豊富な財力と教養水準の高さもあって、歴代の書画の蒐集で著名な一族である。かの祝允明の母親も西溪南呉氏の出身で、祝允明はこの母の郷里で書画を学んだことは前に述べた。
呉国廷自身も書画の鑑定に明るかったであろうし、西溪南や徽州一帯にも、書画の鑑賞に長けた人物はいくらでもいたはずである。しかし、同族の批評というのは、第三者からの疑いの目を免れない。
同じ時代の著名な収蔵家といえば、嘉興の項元汴(こうげんべん)がいる。董其昌は二十代半ばの若いころから項元汴の下で書画の鑑定を学んでいる。また董其昌と同じ松江出身の陳繼儒は、彼自身が非常な収蔵家なのである。呉国廷としては、西溪南の身内や徽州以外の人士、それも著名な人士の鑑定を経て、集帖の声価を確定したかったというところかもしれない。安徽省歙県「新安碑園」実のところ董其昌の鑑定眼は、かなり恣意的で怪しげなところもあるのであるが、この餘清齋の鑑定には意を尽くした形跡がある。また書画に対しては真面目で真摯な陳繼儒も加わっているから、その鑑定を経たこの集帖には相応の評価が与えられても良いだろう。
また餘清齋帖を石に刻んだ楊明時(嘉靖35年1556〜万歴28年1600)は字を存吾、号に不弃、未孩子、未孺道人。徽州歙県人である。博学多能な人で、金石から書画骨董の鑑定に明るく、詩書画、古帖の臨模、刻碑に優れた技量を持っていた。「程氏墨苑」や「方氏墨譜」を刻した呉左千や丁雲鵬も、彫刻に秀でていたと同時に、技巧的な絵画にも優れていた。書画と彫刻の技量を兼ね備えた人物が、当時の徽州には少なくなかったのだろう。書や画の筆意に理解がなければ、筆勢を生かした精緻な刻画、刻字は難しいのである。餘清齋帖に楊明時の評跋があることを見ると、単に呉国廷が楊明時に刻碑を依頼しただけではなく、この集帖の主要な編集者の一人であったと考えられる。「余清斎」の刻石は、もとは呉国廷の故里である西溪南の呉氏の宗祠に置かれていた。清朝に入ってからもここで時々採拓が行われていたという。のちに西溪南に隣接する休寧県の好事家が収蔵したという。清朝後期に巻き起こった太平天国の乱では、徽州でもとりわけ西溪南の破壊がひどかったが、刻石はなんとか難を免れたようだ。しかし西溪南の没落によって、刻石の存在も世に知られることが稀になる。20世紀初頭、民国初年に入って岩寺鎮の鮑蔚文が建てた「遐廬」に移ったという。民国期から戦中戦後にかけてさらに存在を忘れられていたが、1962年に安徽省博物館の葛介屏氏が再発見する。そして当時の歙県文化部の手で、歙県城内の太白楼に納められた。しかしその後に文革の受難に遭い、すくなからぬ刻石が破壊にあったという。(文革の破壊では十方の刻石が破壊されたと、新安碑園の管理人が語っていたが、詳細の程はよくわからない)しかし文革の火の手が弱まる70年代の終わりには、安徽省政府の有志によってこの”新安碑園”が建てられ、保護された。1979年頃から刻石は新安碑園内に陳列されていたが、1995年になって歙県博物館の倉庫に移され、収蔵保存されているという。安徽省歙県「新安碑園」いまひとつの「清鑑堂帖」は明代も最末期の崇禎七年(1634)に、やはり董其昌、陳繼儒と親交のあった呉禎が刻んだものである。呉禎と清鑑堂帖については資料が少ないのであるが、呉禎もまた西溪南呉氏の出身であり、豊富な収蔵を誇っていた。その刻石は百三方にも及び、晋から明までの二十四家、三十一件の作品を収録している。安徽省歙県「新安碑園」呉国廷といい、呉禎といい、西溪南呉氏の蒐集の豊富なことである。清朝初期に「書画記」を遺した休寧県出身の呉其貞は、西溪南を訪れて当時の呉氏の収蔵を目にしている。その時は十二日間ぶっ続けで、「走る馬から花を見るがごとく」次々に見て、応接に暇なかったほどであるという。その収蔵の膨大な様が伺える。
明代後期から清朝初期にかけて、江南に栄えた書画文化のひとつの極点ともいえる徽州は西溪南なのであるが、現在ではその存在や書画の歴史に果たした役割も忘れ去られている。この地域に根付いた書画文化に随伴しながら、徽州の製墨業も洗練の度を加えてゆくのである。しかし西溪南と同様、書画の文化における製墨業の重要性も、今や省みられることがないのは残念である。
安徽省歙県「新安碑園」小生は「新安碑園」で「餘清齋帖」あるいは「清鑑堂帖」の刻石そのものを観ることができると期待していたのであるが、生憎と刻石は歙県博物館に保管されており、特別な許可がないと見ることが出来ないのだという。安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」仕方ないので庭園内の回廊に展示されている拓本を観ることになったのだが、必ずしも上手な拓ではない。また原刻かどうかも、やや怪しい感じの拓もある。原刻の拓本を元に、別の石に翻刻して再び拓をとるということも珍しくはない。新安碑園の管理人の話では、刻石は歙県博物館にあり、一般の人には公開していないということである。この種の文物を見るのに、一般人と専門家がどこで区別されるのかはわからないが、要は事前に申し込めば何とかなりそうな口調である。これは次回に期することにしよう。
安徽省歙県「新安碑園」さて、再び石段を下りて入口に戻ると、脇に設置されているお土産物屋に案内された。このお土産物屋も徽州故民居の遺構の中に作られている。特に買いたいものなどなかったのであるが、ここでは「餘清齋帖」や「清鑑堂帖」の拓本が売られていた。安徽省歙県「新安碑園」安徽省歙県「新安碑園」まさか原拓ではあるまいと思っていたが、やはりと言うべきか、故民居の中庭の隅で、拓をとっているところがあった。採拓しているのは、王羲之の「蘭亭叙」である。まあ売れ筋というところだろうが、よもや餘清齋帖の原刻ではあるまい。この翻刻された拓本のクオリティを見ていると、新安碑園に展示されている拓本と良い勝負である。刻石を大切に保管するのは良いとしても、レプリカであることは明記しなければならないだろう。ともあれ、次回は原刻石を観に行くために手を尽くすのみである。
刻石を見ながら、「餘清齋帖」や「清鑑堂帖」の刻の精妙なところを見たかったのである。それが叶わなかったのはいささか残念であるとしても、自然の形勢を巧みに生かした新安碑園そのものも、ちょっと足を踏み入れるのも悪くはない場所である。
新安江をはさんで向こう岸の歙県の城壁から「新安碑園」を眺めれば、静かな河水を前景に横たえながら、急激に盛り上がった丘嶽の上には、清楚な書院が幽遠な佇まいを見せているだろう...........いつものことであるが、充ち足りない思いが残るものである。門を守る獅子に再会を約し、秋雨に煙る新安碑園を後にした。
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国慶節に上海から杭州経由で黄山市へ

中国の大型連休、いわゆる国慶節(日本で言う建国記念日)に大陸を移動するものではない。国慶節のはじまる前日に、杭州を経由して黄山市に向かった。しかし今回は大型連休前の交通を甘く見た手配不足も祟って、少し痛い目にあったのである。
徽州(黄山市)行きへは、上海の朋友と香港の朋友が同行することになっていた。香港の朋友は飛行機で杭州へ行き、そこで上海から行く小生と上海人の朋友と合流するてはずなのである。
上海人の朋友とは、午後2時頃まで上海市内で仕事をしており、それから二人で上海虹橋駅へ向う。虹橋空港に隣接して完成した上海虹橋駅は、発着するCRHの本数が多いのである。しかし予め「和諧号」の乗車券を用意しておくべきところ、用事にかまけてそれを怠っていた。これが間違いの始まりだったのである。

窓口で並ぶのは面倒だから、CRHのチケット販売機で買うことにした。ところがこの券売機、中国人民の身分証が無いと買うことができない。つまり外国人はこの券売機でチケットを買うことが出来ないのである。しかし今年の前半、蘇州からCRHに乗った時は、蘇州駅の券売機で切符が買えた。その時は身分証番号もパスポート番号も確かに必要がなかった。どうも最近、CRHのチケットを買う際に身分証、パスポートが必要になったようなのだ。なので外国人は、窓口で買わなくてはならない。これは繁忙期のチケットが、高値で転売されることに対する措置なのだそうだ。セキュリティ上の要請もあるのだろう。
仕方がないので券売機から広大な駅の構内を歩きに歩いて窓口に並ぶ。国慶節の前日ということもあり、もとより席が取れるとは考えていない。中国の新幹線であるCRHにも「無座」というチケットがあり、シートがなくてもとりあえず乗車できる切符が販売されていたはずである。やむを得ず、「無座」で移動したことは何度もある。上海から杭州までは45分程度だし、カフェテリアに席を見つけるいつもの手で行こう、とタカをくくっていた。ところが窓口の小姐はそっけなく一言「没有(メイヨウ)」。「無座」というチケットが、そもそも「無い」ということだ。
これは和諧号の事故の影響なのだろうか?立ち乗りが出来ないのである。ともかく「では一番早く出る列車は?」と聞くと、「夕方6時以降しか席がない」という。この時点で午後3時である。杭州から黄山市までは列車は通っていないから、高速バスで移動する予定であった。しかし黄山市行きの最終のバスは、この時期は夜の7時なのである。なので6時に上海を出ても杭州着は夜の7時、とても間に合うものではない。
我々は次に「上海南駅」まで移動して、そこでも切符が買えなければ、タクシーで移動しようと考えた。古くからある「上海駅」はCRHの本数が少ない上に、上海の中心に位置している。数年前にできた上海南駅は、まだしもCRHの本数が多い。また上海市の南側の郊外にあり、杭州にもわずかに近いのである。
上海虹橋駅からタクシーで上海南駅に移動したが、やはりというべきか、ここでも早い時間のCRHのチケットは売り切れていた。まったく事前手配しておくべきであった。しかし今回はスケジュールに追われて、旅の日程が直前までたたなかった事情もある。また日本の新幹線のように、携帯電話で予約できるような便利なシステムがないのである。街の限られた代理店が発券業務を行っているから、早いうちに朋友に依頼しておくべきではあった。

杭州から黄山市へのバスは、「杭州西站(站は駅)」という長距離バスターミナルから出ている。この時期、黄山市へのバスの最終時刻は午後7時である。午後7時前までには、杭州西站に到着していなければならない。仕方なく杭州までタクシーを飛ばすことにした。
鉄道や長距離バスの駅には、これも長距離旅客狙いの「雲助」タクシーがうろうろしている。しかし相手が「雲助」だろうがなんだろうが、そこから先は交渉次第である。何台かあたってみる中で700元、800元という声があったが「500元」と言った一台のタクシーに乗ることにした。運転手は早口の上海語で話す生粋の上海人であった。
タクシーを飛ばすといっても、本当に上海から杭州まで運んでくれるタクシーなど滅多にない。日本のタクシーであれば、東京から大阪まで飛ばしてくれと言えば走ってくれるに違いない(やったことはないが)。しかし中国のタクシーというのは、自分が属する狭いエリアの中でしか基本的に商売は出来ないのである。ほんの隣町でも、運転手は道を知らないということはままある。
上海から杭州経由で黄山へ長距離を請け負うタクシーの場合、旅客は途中で別の車に乗り換えさせられることが多い。事情がわからない外国人などは、急に車がとまり、運転手が車を降りて別の男と交渉を始めたら「何事か?」と不安になるかもしれない。
たとえば一台目のタクシーと、目的地まで400元で話がついていたとする。タクシーの運転手は、乗り継ぎさせる車の運転手と値段を交渉し、200元とか250元で乗客を「売り飛ばす」のである。むろん、彼ら乗り継ぎの車のドライバーは、原則として目的地までの運賃に見合わなければ請け負わない。一台目の車のドライバーは、二台目の車に渡す金が少ないほど利益になるので頑張って交渉するのである。
上海から杭州経由で黄山へこのタクシーも案の定、上海郊外の杭州方面の高速道路の入り口で次の車を探し始めた。都市と都市を結ぶ幹線道路や、高速道路の入り口付近には、この手の商売をする車がたむろしているエリアがある。また必ずしもプロのドライバーばかりではなく、一般の車も便乗者を求めてその車列に加わっていることもある。長距離の移動は高速代やガソリン代も馬鹿にならないので、ついでに誰かを乗せてやって運賃がとれれば費用が浮く、という思惑からである。
そもそも我々は、杭州まで500元で請け負ってもらったのである。タクシーの運転手はなんとかして300元で杭州へ運んでくれる車を探したかったようである。ところが国慶節のためか、もともと300元は安すぎるのか、なかなか承知する車がない。安いところで500元くらいである。500元では一台目の運転手に利益はない。あとで調べると、上海から杭州までの相場は700元〜800元なのだという。時間は空しく過ぎてゆく。小生は杭州からのバスの時刻に間に合わないから、適当に手を打ってもらおうとした。ところがここまで我々を運んできた運転手がなかなか妥協しない。面倒になったので、運転手に「要はあなたに幾ら必要なのか?」と聞いて、次の車には別途支払おうと考えた。そんな話をしていると、一台の車が側にとまり、運転席から技術者風の若い男性が「どこまで行くの?」と声をかけてきた。話を聞くと、彼は250元で良いというので、これに乗せてもらうことにしたのである。ちなみにわれわれをここまで運んできたタクシーへの払いは200元である。上海南駅からここまで、せいぜい100元の距離であるから、悪い儲けではなかっただろう。
上海から杭州経由で黄山へようやく杭州への移動が再開した。運転する若い男性は上海に勤務するソフトウェアエンジニアで、国慶節に杭州郊外の実家に帰省するのだという。杭州までは2時間程度という。二台目の車に乗り換えるまでの時間のロスは辛いところだ。この時点で、おそらく7時のバスは間に合わないだろうと考えた。
上海と杭州を結ぶ高速道は何本かあるが、この時走っていたのは「濾昆高速道路」である。「濾」は上海のこと。国慶節前日と言うことか、上海近郊ではやや込んでいてあまり速度を上げられなかったが、松江を過ぎるころからはさすがに道が空いてくる。運転しているのはまったくの一般人なのであるが、特に不信感を抱かせるようなところはない。逆に我々二人が「何者?」という不安も多少はあっただろう。警戒するのはお互い様である。
途中の長安鎮のサービスエリアで少しトイレ休憩を入れたほかは、2時間ほどひた走って杭州郊外の余杭という地域に入った。このあたりが高速の降り口である。
杭州まで運転してくれた人は、実家が杭州郊外のため、杭州市街には車を入れたくないのだという。夕方の時間帯の杭州市街は大渋滞である。高速の降り口から杭州西站へ回るには、渋滞の市街区に突入しなければならない。故郷へ帰省する人を、無理強いしてもしかたない。高速を降りたところの出口付近、タクシーがつかまりやすそうなところでおろしてもらい、この車と別れる。高速を走っている間、小雨がパラついていたが今はやんでいる。
上海から杭州経由で黄山へ上海人の朋友がスマート・フォンの地図検索で現在地を確認すると、杭州西站までは十数キロの距離である。ともかくタクシーを拾うしかない。手を挙げて呼びとめると、すぐに一台ののタクシーが止まった。助手席の窓越しに目的地を告げると、男性のドライバーは意外にも難色を示す。そして「120元だねえ。」と「法外」としか思えないような金額を提示してきた。「噴飯もの」という言葉があるが、このときはまさにそれだと思った。一緒にいる上海人の朋友も、さすがにこの金額には氷ついた。たった十数キロの距離で120元である。黄山市なら屯溪から績溪まで行ける値段だ。話にならないと思って、別のタクシーを止める。今度は女性のドライバーだ。彼女が言うには「150元なら良いよ。」とのこと。これにも絶句するしかない。
さっきの男のドライバーはまだそのあたりにいて、我々が「150元」にあきれる素振りをみせると、女性ドライバーの方に歩み寄って「こいつら、これが今の相場ってことがわからないんだ。」とまくし立てる。三台目のタクシーでやっと「80元」という。少し迷ったが、この頃は我々もこの異常事態が飲み込めてきた。市街の渋滞を突破して杭州西站にたどりつくためには、少なくとも1時間はかかる見込みなのである。通常はせいぜい20分の距離であるが。
もはや最終バスの出発時刻は絶望的だが、香港から来ている朋友をあまり待たせるのも気の毒である。ともかくこのタクシーに乗り、杭州西站を目指してもらう。蛇の道は蛇というが、杭州の道は杭州人だ。この運転手はショート・カットを実によく知っていた。大渋滞の大通りを避け、住宅街の軒先を縫うように走る。車の窓をあけると、雨上がりの湿った涼気にキンモクセイの淡い香りが漂っている。
小生は杭州は好きな都市のひとつであるが、タクシーだけはたびたび感心できない経験をしている。聞くところでは、この杭州の街に8000台しか走っていないのだという。また江南屈指の大都会にも関わらず、地下鉄がようやく伸び始めたところなのである。上海人の朋友はしきりと先ほどの「120元」や「150元」のタクシーに憤慨していた。しかし彼の住む上海の方が、はるかに交通システムは発達しているのである。足元見るようなタクシー達も、メーター通りに走っていては「営業にならない」という事情もあるのかもしれない。

中心市街をすりぬけて杭州の郊外に出ると、キンモクセイの香りがだんだんと濃厚になる。杭州西站に近いこのあたりは、道路沿いにキンモクセイの並木が続いているのである。懸念したほど時間がかからず、30分たらずで杭州西站に到着することができた。快適に走って気分がよかったので、100元札を渡してお釣りは受け取らなかった。
到着した時刻はすでに夜の7時半を回っていて、黄山市へ走る最終のバスは出発した後である。香港の友人は香港から杭州へ飛び、2時間前にはすでにこのバス停に到着していた。随分と待たせてしまったが、彼も中国国内は仕事でほとんど行ったある旅のつわものだけに「お疲れ様」の一言だけだった。
今日はもう黄山行きのバスの便はない。今日は杭州に一泊して明日の朝、黄山市へ行くか?あるいは今夜中に杭州隣の臨安市までは行こうか....明日は墨匠と打ち合わせであるが、なんなら墨工場まで直接行ってもいい......などというアイデアが浮かんだが、ともかく軽く夕食を食べながら相談することにした。杭州西站と道路をはさんだ対岸には、何件か食事を出来る店がある。
香港人、上海人、日本人の男性3人であるが、二人には杭州経由で黄山市へ行った経験は無いのである。外国人とはいえ、ここは小生が手段を提案しなければならない。
麺を食べながら思い出したのは、たしか杭州西站にもモグリの長距離バスがあるはず、ということである。利用したことはないが、バスターミナルの周辺で「黄山、黄山」と連呼している男の存在が記憶に残っている。バスといっても、ボロボロのマイクロバスかライトバン程度の車である。しかしこの際、黄山に行けるなら車を選んではいられない。

杭州西站の周辺をそれとなく見渡すと、すぐにジャケットにジーンズといった出で立ちの男が声をかけてきた。本日の黄山行きのバスがなくなってからの時間が彼らの稼ぎ時である。交渉すると屯溪までライトバン1台を借りきって900元であるという。3人なので1人300元.....はさすがに高い。
ほかを当たろうとすると男は「ちょっとまってくれ。もし同乗者があと4人みつかれば、ひとり150元で良い。」という。そのためには少し待たなければならないが、この時点ですでに8時近い時刻である。高速を急いでも、黄山市屯溪区までは3時間近くかかる。ホテルに着いてからは何もできないのであるから、この時は腹をくくって待つことにした........意外と早く、30分程度で他4人の同乗者が見つかった。案内された杭州西站付近の駐車スペースには、小型のライトバンが1台とまっていた。上海から杭州経由で黄山へライトバンには、中段の座席に我々3人が横並びで座り、後部座席には年配の女性を中心に、30代くらいの男性、50歳代の男性の3人、そして助手席に若い男性1名が乗り込んだ。7名が乗客である。
出発して10分もすると、小生は「道が違う」ような気がして不審を覚えた。杭州から黄山市へはもう何度も通っている。すぐに高速に乗るはずなのだが、明らかに臨安方面の幹線道路へ向かう道ではない。どうしたことかと聞くと「運転免許証を家に忘れたから取りに行く」という......それは携行してもらわないと、途中に検問にでも会えば困ったことになりそうだ。
15分ほど走って到着した小さな集落で、男が携帯電話で何事か話をしている。5分ほどしてひとりの女性が現れ、運転手に免許証を渡す。運転手は屯渓の人で、奥さんである女性も同郷人なのだそうだ。夫婦の話す会話は屯渓の方言なので、香港人にも上海人にも聞き取ることができない。冗談好きの香港の朋友は「今のは本妻か?今から本妻のところに帰るんじゃないか?」と運転手に聞いて笑いを誘っていた.......たしかに怪しげなライトバンの乗合いバスである。営業許可などもちろんないだろう。運転手が目指す屯渓の人であれば、途中で乗せ換えは無いだろう。上海から杭州経由で黄山へ杭州と黄山市を結ぶ高速道路の、夜の道は暗い。車内では最後部座席の中央に陣取った年配の女性が、携帯電話でやはり聞き取れない徽州の方言でまくしたてている。中国の人は公共の空間での携帯電話の利用に寛容だが、何をしゃべっているのかわからないとうるさいだけである。その前に座っていた上海の朋友もこれには閉口していたが、静かになったと思うと前の背もたれに頭と腕を乗せて寝入ってしまっていた。前に座っている朋友は、おかげで背もたれを使えない。香港人の朋友ともども、これには苦笑するよりない。
シートもあまりすわり心地のよくない、古いライトバンであったが、幸いにして杭州から黄山市への高速道路は舗装状態がいい。乗客は途中眠りながら、3時間弱ほどの時間が経過すると、7人を乗せたバンは黄山市屯溪区に入った。屯溪も杭州と同じく、柔らかなキンモクセイの香りが漂っている。
ホテルまで送ってくれるということはないので、老街近くでバンから下りて、黄山市内のタクシーに乗り換える。思えば今回はイレギュラーな手段ばかりでここまで来たものだ。交通費も、上海から二人で飛行機で飛んだ場合と同じくらいかかってしまった。
国慶節ということで、国際的な観光地の黄山市も旅客が多い。屯溪の朋友が手配してくれたホテルもいつもと違う.......その名も「胡開文賓館」である。
上海から杭州経由で黄山へ上海から杭州経由で黄山へここはかの墨匠、「胡開文」の一族が経営しているホテルである。老街からはやや離れており、黄山市の長距離バス・ターミナルから歩いてゆける距離にある。
明日は「曹素功」へ行くのであるが、その前夜に「胡開文」に泊まるのも悪くはないだろう。時刻はすでに深夜零時を回っていた。明日に備えて今は寝るだけである。
落款印01

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