年頭雑感

新年あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

年末・年始のご挨拶というのは、毎年特にしていなかったのですが、それというのも2004年の年末あたりから、10年ほど年越しは徽州でしていたからでもありました。大陸は旧正月が新年というわけでしたが、西暦の新年も元日だけは休日になり、それなりに爆竹なども鳴らすわけですが、やはり旧正月の方が「正統お正月」の感があるのは否めません。そういう雰囲気にのまれていたのか、まことに不調法ながらご挨拶を欠く事が多かったように思います。
今年は諸般の事情があり、昨年に続いて日本での年越しと相成りました。

年々、厳しさを増す文房四寶の業界ですが、それは需要と供給の両面からであります。需要が先細る一方で、供給サイドの品質を保つのが非常に難しくなってきていることが感ぜられます。
私などもお世話になった老舗の書道用品店も、相次いで店を閉じられているようなここ数年でした。おそらく今後も、需要の拡大どころか維持すら見込むことはさらに困難になると思われます。日本の書道用品、文房四寶の業界が長期的に氷河期に突入することは、避けられない情勢かと考えております。
あるいは営々と続いてきた、ひとつの伝統文化の終焉を、目の当たりにしているのではないか?という感慨も、あながちではないのではないかと思うこの頃。

手間暇のかかる文化が軽んぜられ、手軽に消費出来る娯楽がもてはやされるのが今の風潮であります。あるいは本物、より本質的なもの、ないしは客観的な正しさのあるものを求めるのではなく、個々人の主観に基づく快楽を即時に供するものが、常々世上をにぎわす時代でもあるようです。
大量消費社会の時代、人の不満や不安といったものは、多く経済上の過不足に集約されるように思います。さらに換言すれば、望むような消費生活が営めないことへの不安、というようにも言えるかと思います。人々が即事の享楽を対価を払って消費し、すぐに飽きるを繰り返す方が、社会の経済発展のためには誠に好適、なのかもしれません。しかし一方、人間性に対してどこかまことに不誠実な、一言で言えば”人を馬鹿にした”、それは価値観のように思えてならない。

近年のように経済成長が停滞し、富の格差が拡大する一方の時代にはいると、従来のようなインスタントな快楽消費の拡大再生産は立ち行かなくなるであろうし、既にそうなりつつあります。人も企業も、一体、次に何をしたら良いのかわからなくなっている、というのが昨今言われる時代の閉塞感なのではないかと感ぜられます。
それはとっつきやすく、簡単に楽しめて、手っ取り早く人と差がついて、適当に飽きがくるもの.........なかんずく、すぐに儲かるもの........の中から”次の何か”を探すからで、それはもう、ほとんどやり尽くされてしまっている。あるいは、まだ手を付けていないものでも、すぐに先が見えてしまうから手に取る気もしない、という事かもしれません。

こうなったらもう、逆を行くしかないのでは?

とっつきにくく、極めて難解で、修得に時間がかかり、不惑を越えてもまだまだ半人前で、時に深い挫折感すら味わう。いまどき流行らないようなもの。たとえば、書、とか。本来、筆書も、そういうものだったはずなのですが。ここのところ、少し様相が違ってきていますねえ。

AI、エー・アイ、いわゆる人工知能の利用が今後ますます増えてくるようです。人工知能が囲碁の名人に勝ったとか、将棋の名人に勝ったとかいう事は、今後珍しい事ではなくなるでしょう。プロ中のプロ、が勝てないわけですから、一般人など問題にもなりません。
しかし、人間の掛け算割り算の暗算能力が電卓に勝てないからといって、人間の知性が電卓に負けた、とは言わないように、ある分野でAIの回答処理が大部の人間のそれを凌駕したからといって、人類すべての知性がAIに負けた、とは言い難い。AIの方が強くても、チェスも将棋も囲碁も、では人間がやらなくなるかというと、そうではない。オートバイや車で走った方が早いからと言って、陸上競技がなくならないように。機械力は別として、人間は人間の限界への挑戦、あるいは人間同士の能力の対決、が続くでしょう。
ただ将棋や囲碁などは、AI同士の対戦棋譜が、人間同士の対戦に影響を及ぼすようになってくるでしょう。そうなってくると、囲碁や将棋は、競技というよりは数学のように、何か研究対象的な行為、に変わってきてしまうかもしれません。

それとは別に、AIの存在感が急速に台頭してきた事実には、人類史の上で、ある転換点を意味しているのではないか?と感じることがあります。
たとえば、イギリスの離脱投票や、アメリカ大統領選挙の結果に見られるが如く。それは自称他称のインテリ階級、政治家やメディアや学者、批評家連が言うところの「反知性主義」ないしは「大衆迎合主義」といったネガティブなレッテル張り、反対を唱えるものたちは無知蒙昧な連中だ、と決めてかかるような、まことに堕落した知識人達の在り方が顕在化した今の時代にこそ、AIが重みを増しているのではないか、という観測。

あるいは逆にAI技術の急速な勃興が、いわゆる従来型知識人の堕落を顕在化させた、ともいえるかもしれません。言い換えれば、人類社会の”知性”の在り方が、既に危機的末期的状況にあるという警鐘を、AIの適用範囲の拡大が鳴らしている。

実はイギリスのEU離脱投票も、アメリカ大統領選挙の結果も、世界一の検索エンジンを有する某企業が、結果を正確に予測していた、という噂があります。それは膨大なインターネットのデータを解析し、AIに分析させて出た予測、ということです。それは検索エンジンの会社だけではなく、インドのAI企業の分析結果も同様だったようです。
つまり、EU離脱に投票する奴は無知だとか、トランプ候補に投票するような連中は蒙昧な田舎者だとか、決めてかかってEU残留やクリントン候補当選を信じていた”賢明な”人々よりも、AIの方が結果を正しく予見していた、という事でもあります。自分が賢いと思っていた人々が、その予測に於いて人工知能に勝てなかったという皮肉な事実。つまり彼等も、所詮は”信ずべきものを信じるのではなく、信じたいものを信じる”、普通の人間に過ぎなかったという現実。たぶん、幾分かは権威主義的で、幾分かは拝金主義的な、普通の人達........

まあそういうAI技術も、結局はそうした”エスタブリッシュメント”達に力を貸す事にはなるのでしょう。”ベスト・オブ・ブライティスト”を自任する人々も、間違えたくないからこそAIの意見を鵜呑みにするようになるのかもしれません。そうなるといよいよ人間性の危機ですね。いやしかし、そんな悲観的なことは考えないで、いかにAIで楽にお金儲けをするか?を考えるのでしょう。
近い将来、政策決定も裁判所の判決もAIにゆだねられるかもしれない。AIの決定だけに公平無私、とか言い出すようになるのかもしれない。書展の入選特選もAIが決める。

しかし気を付けなければならないのは、AIも所詮は人が作るものだ、という事です。分析のための指標はプログラムを設計する人が決める。どう決めるかは、人の価値観に拠らざる得ない。それをどう決めるべきか?というところで、やはり人や社会や時代の問題が出てくる。やはりそれは人が考えなくてはならない。それを考える限りにおいて、人は人でいられるのかもしれない。AIが主人ではなく、人が主人であり続けられるのかもしれない.............かもしれない。

 
本年も、人が正しく人でありますように。
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”逃耻用”小考

以下まったくの余談。
最近、中国の若い朋友から「”逃耻用”みましたか?」と聞かれるので、何の事かと思ったら、日本の連続テレビドラマなのである。「一話たりとも見ていない。」というと「それは残念ですね。見るべきですよ。中国ではとても人気があります。」という。
”逃耻用”の”耻”はつまり日本語で書くところの”恥”の事なのであるが、ようは”逃げ恥”、と略称されるドラマが中国でも大人気、という事である。そんなものかと思ってインターネットで少し調べると、なるほど若い人を中心に熱くなっていることが感ぜられる。

だいたいにおいて、大陸に於いて人気のあるドラマというと延々と続く長大な韓国ドラマなのであるが、これは比較的高い年齢層の女性に支持されている。若い人は短期決戦型の日本のドラマを好む人が増えているような気配がある。そもそも海外のドラマが、何故そんなに人気があるかというと「国産ドラマは面白くない。」という返事が返ってくる。ある程度の教育水準がある大陸の若者は、粗製乱造される”反日神劇”など見ないのである........
それはさておき「逃耻用」は略称で、タイトル全体を中国語に翻訳した例を探すと、これがいろいろ出てくる。そこに少し興味をおぼえた。

”逃跑可耻但有用”
”逃避可耻却有用”
”逃避無耻却有用”
”逃避雖可耻但有用”
”逃避可耻却有用”
”逃避可耻却很有用”
”逃避雖然可耻但却有用”

と実に様々なパターンがある。何故こうも多くの訳例が出てきてしまうのかといえば、正式に大陸の放送局なりで放映されていないからであろう。公式の放送があれば、そのタイトルに統一されるはずである。皆々、インターネット経由などで勝手に視聴しているのである。
およそ”逃げる”を”逃避”ないし”逃跑”に訳している。”跑”は走る、くらいの意味である。”逃跑”にすると文字通り走って逃げる、という意味になるが、”逃避”であれば心理的な”逃げ”も含むことになる。
また”恥だが”を訳すところには”恥ではあるが〜役に立つ”という、逆接的な係り受けをどの程度重く解釈するかによって”可耻(恥ずべし)”あるいはそれに”雖”を付けて”雖可耻(恥ずべきといえども)”さらに文語的に”雖然可耻(恥ずべきは然りといえども)”としている例もある。ちなみに”可耻”はひとつの単語で、公共道徳に反する行為、あるいは人に罵られるような行為、という意味がある。ここを”無耻”としている例もわずかにあるが、この場合は”恥知らず”くらいの意味になる。

それを受けるに「但有用(ただし用あり)」という例が最も多いようである。”有用”で「役立つ」という意味になるが「用」の一文字でも「使える、役立つ」という意味にはなる。あるいは「却(かえって)」を入れて「却有用(かえって用あり)」あるいは「但却有用(ただしかえって用あり)」というように、逆接的な命題の接続をより強調している例もある。もっとも懇切な例を示せば、

”逃避雖然可耻但却有用”
”逃避は恥じて然りといえども、ただしかえって用あり”

であろうか。
ともあれ、さまざまなタイトルの訳例の存在と、”逃耻用”という略称の存在が、大陸における人気のほどを表しているともいえるだろう。オフィシャルな放映がないままのこの盛り上がりようである。

そういえば「”你的名字”見ましたか?」ともよく聞かれる。”你的名字”..........これは公式に大陸で映画が公開されているので、タイトルは統一されている。実はこちらも見たことがないのだが、最近の大陸の若い朋友達の話題についてゆくには、日本のドラマやアニメを観ないといけないのか..........と思うとなかなか気が重い。まあ、無理に合せる必要もないのだろうが。

ところで大陸のドラマといえば”紅樓夢”に尽きるのであるが、それは文芸の世界においても、”紅樓夢”を超える作品がなかなか生まれない、という事でもある。人間の種々相が紅樓夢にほぼ書き尽くされてしまっており、あとは何を書いても”紅樓夢”の亜流、ないしは部分集合に過ぎなくなってしまう、という悩みがあるようだ。
人の感情は人間同士の関係性、あるいは社会的な文脈で深化されるものであるから、大陸の文芸世界が依然として”紅樓夢”を越えられないのだとすれば、現代の大陸社会も”紅樓夢”の時代と本質的にはあまり変わっていない、という事実の傍証でもある。
そこへもって、現代中国とまったく違った社会の産物である”ドラマ”にえがかれている感情や価値観というのは、確かに新鮮なものとして目にうつるのだろう。また今やすくなからぬ大陸の若い人たちが、それに共感を覚える、ということのようである。
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時事

....アメリカの大統領選は、日本のメディアの多勢にとって意外な結果に終わりましたね。イギリスの離脱投票の時もそうですが、基本的に都会にいるメディア、ジャーナリストの論調というのは、都会の多数派の意見に偏りがちなところがあります。
アメリカ、アメリカ、といっても、大多数の日本人にとってのアメリカとは、ニューヨークやワシントン、ロサンゼルスやカルフォルニアであって、カンザスやコロラド、ケンタッキーではない、というところでしょう。
アメリカの今回の選挙は、参政権を通じて、アメリカという国の現状がどうなっているのか?それを多くのアメリカ人、あるいは世界の人があらためて知る、いい機会になったのではないかと考えています。
同じような事は大陸中国にも言えるのですが、おそらく大部分の日本人の目にうつる”中国”というのは、北京か上海、それに深圳や広州といった、沿岸部の大都会に尽きるといえるのかもしれません。それはヨーロッパの多様性を、パリやロンドン、ベルリンといった諸都市だけを見て理解しようというようなものかもしれません。
東京が日本のすべてだ、と言い切るのは、東京に住む日本人でも抵抗を感じるのではないでしょうか。言ってみれば当たり前のことなのですが、往々にして、それを忘れてしまうのでしょう。しかし日本人などは、東京、あるいは京都をもって外国人に対する「日本の代表」としても、そう文句は出ないかもしれません。しかし大陸中国では「〇〇なんて中国じゃない。」的な言い方は、普段でもよく耳にします。
私が最近、”中国”という単語を使うのに躊躇するのは、別段、中国という国を認めたくないとかという事ではなく、”中国”という概念で”かの国”を理解しようとすると、やはりいろいろ見えなくなる部分があると感じるようになったからでもあります。
昔から「天下はあれど国家なし」と言われたところなので、近代に入って成立した”国家”という概念を、うっかり遡及して過去にまで適用してしまうと、大変な誤解を生むことになります。現代の価値観なりイデオロギーなりを、過去に適用して何か分かったような事を書くのは実に簡単な事で、いくらでも作文が出来てしまうものなのです。世の中、そういう情報で溢れかえっているような気もします。
一部指摘があるように、世界的にIntellectualの傲慢、というのはあると思います。知性の堕落と言ってもいいかもしれない。ソクラテスが今の状況を見たらなんというでしょう。知識人も階級化すると堕落、腐敗するのですね。大陸王朝時代の士大夫達も、王朝末期には堕落仕切ってしまうのが常でした。これはいかんともしがたいかもしれませんが、揺り戻しも起こるでしょう。今回の大統領選挙では、アメリカの若い人たちに衝撃と失望が広がっていると言いますが、ある意味、またとない良い経験になるでしょう。敗北にこそ、得るものが多いもの。そこから新たに、若い知性の覚醒を期待したいものです。
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謡言

熊本は昔仕事で阿蘇山の噴煙を横目に通過した事しかないのであるが、いつか清正公の堅城を見たいものだと思っていた。ともかく今後の安全と生活の回復を祈りたい。
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写真は4月初めに上海から揚州へ移動したとき、CRH(高速鉄道)の座席シート前のポケットにはいっている車内誌の見開き一ページである。これはPR用マスコットキャラクターの歴史特集であった。このクマのキャラクターは中国語では「熊本熊」といって、子供たちを中心に人気なのだそうだ。また旅行先としても熊本は知名度が高い。この社内誌の特集では、古くはミシュランマンから中国の万博や五輪のキャラクターなどが紹介されていたが「熊本熊」の見開き2ページの扱いで、人気の高さがうかがえる。大陸の高速鉄道は依然として中流〜富裕層が乗るもの、というイメージがあるのか(実際は庶民も載るのだが)、その階層をターゲットとしたと思しき広告が多い。旅行もそのひとつであり、日本は今や人気の旅行先なのであるが、東京、京都、北海道、大阪....と巡って、熊本に足を延ばすのは既にそれらの都市を回った後のリピーターであるから、なるほどやや余裕のある顧客層を想定しているのかもしれない。
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あまり情報が無いが、実際に旅行中で現地で被災している大陸の人もいるはずである。学生寮では留学生もいるという。今回の地震は大陸でも関心が高い。概ね、同情的な声が多勢なのであるが、中にはここぞとばかりに「謡言(ようげん)」を飛ばす者もいる。
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例によって「環球時報」なのであるが、日本の産経新聞の報道として、以下抜粋の内容。

「日本《产经新闻》15日报道称,地震发生后,恶性网络谣言在推特上被多次转发,引起部分民众恐慌。一则谣言称,“动物园的狮子跑出来了”,并附上了一张狮子在街道上徘徊的照片。经查,该照片为日本网民在国外旅行时拍摄的。还有一则谣言称,“熊本的朝鲜人已向井里投毒”,试图利用日本社会对朝鲜人的仇视情绪制造话题。1923年日本关东大地震时,曾有流言称“朝鲜人向井里投毒、放火”等,结果造成在东京、横滨等地,很多朝鲜人被杀死的惨剧。」

あえて翻訳しなくてもわかると思うが、”動物園から動物が脱走した”、”朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ”といった内容である。まさに自身が「謡言」を飛ばしているのである。別段、驚くほどの事ではないが、他国の災害に付け込んでこういった情報工作をするものなのである。しかし動物園はまだしも”井戸に毒”、というのはいまどき大陸の都市部の人間が「さもありなん」と思うだろうか?この記事を書いた藍雅歌という記者のセンスを疑いたくなる。それにしてもこの記者、人と生まれて読み書きを覚え、モノ書く人になって、このような時にこのような事を書くのが仕事なのだとしたら、自分の人生があるいは間違った方向に進んでいるのではないか?という事くらいは疑ったほうが良いかもしれない。まあ、普段からこういう事を書くのをもっぱらとしているのかもしれないが。日本も大陸と同様、「謡言」が多い国なんですよ、と言いたかったのかもしれない。
よく読めば、別段産経新聞が謡言を飛ばしているとは書いていないのであるが、あたかも日本の報道機関が謡言を助長しているかのような印象を与えかねない。そもそもそんな報道はしていないのであるから、この「環球時報」の記事が「謡言」そのものである。

「謡言」、言い換えれば流言飛語というのは、闇夜の幽霊のようなもので、明るいところに出てくると雲散霧消してしまう類のものである。いうなれば情報、言論の自由が確保されている社会では、都市伝説程度に語られはしても、社会を混乱させるにはいたらない。しかし王朝の興亡を繰り返してきた大陸では、衰亡した王朝末期においてはこの「謡言」が侮れない力を持つことになる。衰微した政権ほど、権力維持のために情報統制、言論弾圧を厳しくするのであるが、それがかえって客観的真実を伴わない「謡言」を助長するのである。

「環球時報」は、党の機関紙「人民日報」の系列の報道機関なのであるが、報道機関と言うより情報工作機関の一部である。諜報でいうところの、いわゆる”ディスインフォメーション”工作が役割であって、さすがに「人民日報」には掲載できないような”あることないこと”ないまぜの報道を担当している。なのでそのいちいちに目くじらを立てるほどの事はないのであるが、こうした事実上の政府機関が存在する、という事は気に留めておいても良いかもしれない。
ともあれ、一応は「報道機関」と認められているところが「謡言」を積極的に飛ばしているという事実は、裏を返せば今の大陸政権がいかに「謡言」を恐れているかの傍証でもある。「謡言」を抑えるために情報統制を厳格化することで、政府発表の信頼性はさらに低下し、それが「謡言」が跋扈する下地を強化する悪循環に陥る。
「謡言」は、困難な時期にあって無数の小さな善意をも押しつぶしかねないだけに、耳にした各人が冷静に対処しなければならないのであるが、そもそも情報が開かれた社会であるかどうか?という事が重要なのである。政府に連なる者達が「謡言」を飛ばすようでは末期的なのである。大陸内部の事情を反映した「謡言」は、日本にいると検証し様がないのであるが、日本の事柄については確かめようもある。大陸報道機関の「謡言」の飛ばしぶりがよくわかる報道であった。
 
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股市無情

深圳のとあるショッピングセンターのレストラン街で「股市無情」「免費熱干面」と題打ったポスターが目に入った。
2015_image2.jpg「股」とは、現代中国語では「株(証券)」を指すことが多い。ゆえに「股市」といえばすなわち「株式市場」の事である。「股」はいわゆる人体の一部としての「股(また)」という意味でも使われるが、「分かれる」「(身体の)一部分」という意味から、資本を分割したもの、「stock」の訳語に充てられる。ゆえに資本を株式化し、分かたれた資本の一部という意味で「株」の意味を指すということのようだ。
ちなみに「投機」を「炒」というが、「炒股」というと「株に投機する」というほどの意味になる。「炒める」というと、火にかけた中華鍋をゆすって「煽(あお)る」からである。
この「股市無情」「免費熱干面(麺)」は、要は自分の所有する株がその日下がって損をしていたら、それを店の人に告げれば「免費(無料)」で「熱干麺」を提供しますよ、ということである。株式市場は「無情」だけれど、まあ麺でもたべて元気出してよ、というところなのだろう。自分が所有する株が下がっている事を示すには、携帯の画面でそれを見せればそれで事足りる。「熱干麺」というのは、武漢などを発祥とする、湖北省の汁なしの和えソバのことで、ゆでた麺を辛い胡麻タレとネギや香菜などの薬味、具材とあえて食べる。簡易な麺料理である。
7月の第二週の初めに深圳でこのポスターを見た時、すでに上海株価指数は4日続落し、一週間で10%を超える下落を記録していた。

2015_image1.jpg大陸の経済をウォッチするのがここの趣旨ではないのであるが、経済動向は為替や物価変動に影響するので、大陸から品物を輸入している身としては気にしないわけにはいかない。
しかし急速かつ大幅な凋落を続けていた上海指数も、9日にきて5%を超える反発を見せた。それまで政府の利下げや、準備率の引き下げといった、金融政策としてはかなり大胆な支援策も実らず下落を続けていたのが、ようやく9日になって一応は反転に転じた格好ではある。
 

深圳の朋友のFさんは、株に5万元突っ込んで3万元の利益を手にしたそうだ......深圳で電子製品の交易を手掛ける会社を経営しているFさんであるが、前にFさんにあったのが、株価が上昇中の4月の終わりであった。その時は「私は株には手を出さない。」と言っていたのであるが、結局そこから手を出してきっちり利益を上げている......侮れない、と思うところである。が、これには少々カラクリがある。
Fさんは友人からある銘柄の株を買うように勧められたのである。そのFさんの友人にしても、さらにその友人が「いま15元のこの株を買いなさい。かならず騰がるから。25元になったら売りなさい。」という話を持ち掛けてきたという......まあ一種の”インサイダー情報”ではある。
その株は新規公開株、いわゆるIPOである。Fさんは言う「その会社は、親会社が株を売って儲けるために設立し、上場を図った会社です。」さてFさんは、25元までの上昇を待たずに売り抜けた。このあたりの判断は正しい。株は買い手がいなければ売り抜けられない。元締めは当然、25元に騰がる前に自分は売り抜けるのである。
実はこの種の”怪情報”は以前から、”微信”という、携帯電話でメッセージをやり取りするソフトウェアなどを通じてたくさん出回っていた........
なので大半の散戸(小口投資者)の株の選別は、PERや企業業績の分析とは全く関係ない。大方は騰がるという情報があるから買ったのである。絶対もうかるという確信があって買うのだから始末が悪い。もちろん、まったく同じような情報でもガセネタであったり、売り損ねて損失を出す人もいるのであるが。情報の発信者の立場であれば、自分が安全に売り抜けるためには、株価の上限は自分が売りたい値段よりも高めに相手に伝えるはずである。
 

そういう、”マイクロ・ゲッコー氏”とでもべきか、インサイダー、イカサマ上等の胴元+博徒たち相手に、利下げや、銀行の準備率の引き下げといった、常識的な株価のテコ入れ政策はどうやら通用しなかったようだ。ピークから30%ほども下落して当局者達もそのことにようやく気付いたのか、7月7日にIPOの停止を通達し、さらに8日になって大手国有企業に、子会社の持ち株の売却を禁止している。そこでようやく、9日の反転を見た、というところかもしれない。要はイカサマカジノのゲームそのものを停止した格好である。

昨年からの株価高騰の渦中で何が行われていたかといえば、かいつまんで言えば、大手国有企業が事業部の一部を切り離すなどして子会社を設立し、それを新規上場した上に株価を吊り上げ、高くなったところで売り抜けて儲けていたのである。上場から株価の吊り上げに協力したのは証券会社をはじめ、有象無象のブローカー達である。新規上場を審査していた機関も、それらを甘い査定で通している。まあグルとみていいだろう。意図的に流された情報によって買いに走った庶民の多くは、たとえばFさんのようには売り抜けられずに損失を強いられた人も多い、というわけである。むろん、さらにその外側で、単に値動きだけを見て売買していた人も大勢いるだろう。しかし突然起こった暴落にすべて飲み込まれてしまった格好だ。
あるいは似たようなことは新規上場だけではなく、比較的時価総額の小さな「小型株」という部類の銘柄でも仕掛けられたという。それは時価総額が小さなことから、ブローカーにとっても「株価操作しやすいから」である。むろん、大陸でも株価操作やインサイダー取引は処罰の対象である。しかし管理監督か充分行き届いていないのが実情である。
 

”まっとう”な経済官僚の思惑としては、株式市場の上昇によって、資金繰りが困難になりつつあった企業の資金調達が容易になる、という期待があったのかもしれない。産業構造の転換を図るうえで、新興企業へ投資を集める作用も期待できたであろう。しかし現代の大陸の株式市場は、そうした市場が本来果たすべき役割とは程遠い、巨大なイカサマ賭博場と化していたのである。
しかもそれを主導していたのは、おひざ元の大手国有企業の幹部、つまりは一部の党幹部達なのである。むろん、業績が低迷していた国有企業の一部にとっては、資金繰りの改善につながったかもしれない。しかしそれ以上に、企業幹部=党幹部のポケットに入るマネーも大きかっただろう。親会社にとっては、株を売り抜けてキャッシュを手にすればあとはどうでもよく、子会社の株が紙クズ同然となっても構わない、というわけだ。
普通日本の証券会社であれば、証券会社としての信用を守るため、怪しげな会社の株は扱わないという内規があるものだが、大陸ではそういう常識は通用しない。異常な高騰の後に異常な暴落を見、それが異常な政府介入で鎮静が図られた、という現象の背景には、やはり何か現代の自由主義国の株式市場のルールでははかれないような”異常”な事が行われていた、と考えるよりない。
 

そもそも株価の上昇が天井を打ったのも、新規上場やら公開やらといったIPOがひしめいて、そちらに流動性(資金)が流れ込み、既存の株の買いが進まなくなったから、という観測があった。IPOに味をしめたというか占めすぎたというか、騰がりきった株をさらに買い進めるよりは、IPOに資金をつぎ込んで、大きな旨味を手にしたいというわけだ。まあ、実を言えば、こうした「IPOバブル」は今に始まったことではなく、大陸の株が急騰するときに常套的に行われてきたことなのである。
 

さて日本では、この株バブルの崩壊が、いよいよ大陸バブル崩壊の序章になるという論調が多い。久しく大陸のバブル崩壊を待ち望んでいた向きには、今回こそと、そう思いたいのかもしれない。しかしながら、それほど単純にはいかないだろう。今回の大相場で、損をした者もいれば、大きく儲けた連中もいるのである。信用取引がそれなりの規模に膨らんでいたから、”儲け”と”損”がイコールではないにしても、である。
日本では、株の暴落に際して中央政府のあわてぶりが強調されている。しかし一方で、この騰落劇で大きな利益を手中にしているのは、党の権益と密接につながった大手国有企業や党幹部なのである。だからこそ、ついには国有企業や党幹部に、株の売却を禁止する通達まで出したのである。胴元が誰かなど、もちろん当局はわかっているのだが、身内だけに追及には限度があるというわけだ。反腐敗運動の渦中にあって、今後の当局の動きが注視される。
また大陸の官製メディアでは、しきりに「做空(空売り)」を非難している。また世界的な辣腕投資家である、ジョージ・ソロスが香港に現れた、等々。ともかく悪意ある「空売り」、とくに海外の投機筋による「空売り」が暴落を引き起こした、というようなイメージを宣伝するのに必死なのである。
たしかにソロス氏は、98年のアジア通貨危機の主演俳優であるが、今回の大陸株式市場の騰落劇ではどうであろう?
大陸では何か悪いことが起こると、それは「背後で外国の資本家が暗躍している」という論調で語られることが多いものである。そして市場の監視監督機能の不全、国内資本の腐敗、未成熟な個人投資家の存在、といった「不都合な事実」にはあえて触れようとはしないのである。
が、ともかくそれほど開かれた市場ではない大陸の株式市場で、外国資本の影響力は限定的である。かつ、空売りといっても、空売りを狙ういわゆる”ショート・ポジション”は暴落前も3%程度しか積み上がってなかったという。みんな騰がるとおもっていたからである。そもそも海外の投機筋によるそうした投機的な株価操縦ができないように、厳重な規制で守られているのが大陸の株式市場の現実なのである。
15日になって、上海のとある貿易会社が「株価操縦」を図った容疑で捜査を受けているという報道があった。このようなあからさまな”スケープ・ゴート”達は、これからいくつかピックアップされるだろう。しかし彼らはむろん、”氷山の一角”にもあたらないのである。
 

5月の下旬から6月のはじめにかけて、まだ大陸の株価が過熱していた時期に、香港に上場していたいくつかの会社の株価が急落をみせた。中国の太陽光パネル製造大手「漢能集団」の株価が1日で47%、高銀金融と高銀地産が一時ともに60%以上、といったような信じがたい急降下である。しかし思い起こせば、こういったこともその後6月半ばからの「大陸股市」の暴落劇の前兆であったと考えられる。香港の株価急落に関しては、当局が調査に入ったという報道があったが、真相が公になることは多分ないだろう。

今回の暴落劇.........おそらくは国内の大手国有企業と証券会社と組んで、市場監視機能の甘さに付け込んで仕組んだ大相場である。が、IPOのラッシュが続いて流動性が枯渇して停滞の兆しを見せたところから、彼等の利益確定の売りを引き金に個人投資家のパニックを誘発して暴落が起こった、というのが実情に近いのではないだろうか。むろん、これは小生の想像にすぎないのであるが、真相がオフィシャルに語られることもやはりないだろう。
何ゆえそう考えるか?と問われれば、卑近なところでいえば、骨董、古美術品市場、書画や陶磁器などにおいて、まったく価値のない贋物の値段を権威筋がグルになって吊り上げて売り抜けて儲けるといったような、”あざとさ”では株のインサイダー取引と同工異曲の事例を目の当たりにしてきたからである。
 

下落する株価の下支えのために、矢継ぎ早に繰り出した金融政策、特に利下げや預金準備率の引き下げによって、融資条件が緩和された状態にある。これでまたぞろ余剰資金が市中に出回って、あちらこちらで間歇的なバブルが繰り返されるだろう。事実、深圳を筆頭に、大都市の不動産価格は、好物件に限っては(すでに充分高いのに)高騰している。賃貸も高騰し、居住費の増加は人件費の引き上げを促し、賃料と人件費の増加は流通コストを増大させる。結果、小売りや飲食の値上がりが続くだろう。給与は騰がっても生活は楽になるとはいいがたい。
現代の中国経済が演じるこの壮大な狂騒劇は、終幕までもう一幕も二幕もあるだろう。ともあれ今回の株式市場の荒れ模様は、今まで中央政府が「制御可能」と自負していた大陸の経済が、徐々に制御不能に陥ってゆく、その始まりであるとはいえるかもしれない。
売り一辺倒になった株式の売却を禁止するということは、いうなれば銀行に取り付け騒ぎが起きてから預金封鎖をするようなものである。「政府がコントロールしているから大丈夫」と言われてきた大陸経済において、現実にそのような事態が起こりうるということを、今回の株の暴落に伴う政府の施策は示している。
 

今回政府が躍起になって株価の暴落を防ごうとしたのは、ひとつには昨年からの株高を、現政権の経済政策、とくに習近平国家主席が主導する方針の正しさを証明するものだ、という論調で称揚してきたから、というのも大きな理由であろう。その矢先に暴落されれば、主席の面子は丸つぶれである。同じ党、政府内部といえども、国有企業幹部を中心として一部が”インサイダー取引”に躍起になっていた事実は、周知されていなかったのかもしれない。ゆえに当初の政府当局の対応も、利下げといった、ごくごく常識的な金融緩和策にとどまっている。それでも下げ止まらない異常事態から、ついには株の売却そのものを禁ずるに至ったというわけだ。
海外の投資家にとっては、銀行の取り付け騒ぎが起こるような国の通貨を持っていたくはないように、突然売却が禁止されるような国の株式市場に投資することに対しては、今後はより慎重にならざる得ないだろう。
 

ともあれ世界第二位のGDPをもつ経済規模とはいえ、その性格は、自由主義市場経済の国々とはまったく異質なものなのである、ということを改めて認識させる現象ではあった。

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不動産バブル再燃

さて、深圳の宝安区といえば、大中小の工場の寄り集まった工業地帯でもある。小生が滞在していたホテルの界隈では、夕方になると工場の制服を着た若い男女が路傍にあふれ出てくる。彼らのほとんどは、田舎から出稼ぎにきた人々なのであるが、彼ら若い人の飲食の需要を満たすような安価な飲食店や、ビリヤードや卓球台を置いた遊技場が辻辻に軒を連ねている。
なんとなく、このあたりの雰囲気で今の深圳の景気の様子が見て取れるようなところがあるのだが、今回訪問した4月の終わりごろの様相では、昨年11月ごろの状況に比べると、いくらか活気が戻っているような気配があった。
やはり深圳の宝安区に住む朋友のSさんに聞いても「1月、2月まではひどかったが、3月の終わりから急によくなった。」というような回答である。SさんはLED照明やソーラーパネルを商材として扱う、”ひとり商社”を営んでいるのだが、日本をはじめとする海外市場のほかに、ここ数年は大陸国内の市場にも注力している。なので大陸市場の需給には敏感である。くわえて妹君は電子基板の検査治具を扱う、これも個人商店を営んでいるから、さまざまな工場の生産状況の動向も大掴みしている。さらには類は友を呼ぶではないが、まわりにその種の業界の、個人経営や家族経営の”小老板”が多いから、彼等彼女達に聞くと、なんとなく深圳の工場の景気の様子がうかがえるのである。
そういう方面からの話を総合すると、こと深圳に限って言えば、それなりに景気は回復しているようである。昨年の11月の終わりごろなどは、いささか閑散としていた感のある路傍にも、工場の従業員であろう若い人達が深夜まで遊んでいる姿が多くみられるようになっている。
 

むろんこれは、中国政府の景気のテコ入れがある程度奏功している結果であろう。度重なる利下げによる金融の緩和政策により、とまっていた案件が動き出した、というところではないかと考えている。なんだかんだといっても大陸市場は巨大であり、少し上向きになれば、深圳のような工業都市に活気が戻る。
深圳は従来は輸出を主力にした工場が多かったのであるが、リーマンショック以来の海外市場の減速に応じて、ここ数年は大陸市場に注力する企業が増えているという。海外市場で鍛えられているだけに、深圳が生み出す工業製品は、やはり品質の面で大陸市場においては競争力がある、という事情もプラスに働いている。3月、4月までの製造業PMIは下り気味であったが、5月期の統計では幾分は改善するかもしれない、という予想を裏付けているようでもあった。
ただこの景気の浮揚に持続性があるかどうかは、はなはだ心もとないものがある。あくまで金融緩和の結果であって、端緒についたばかりの構造改革の成果とは、もちろんまだまだ言い難い。金融緩和の結果、即活況を呈するということは、従来の産業が息を吹き返しているということであって、新しい産業が育っているということではないというわけだ。
 

ところでSさんは、最近お部屋を購入したという。宝安区の地下鉄直上の、ショッピングセンターと連結した好物件である。地下駐車場もついている。そこに来年結婚する予定の彼と、Sさんの妹、従弟の四人で住んでいるのである。広さは70平米強と、100平米が標準の大陸のマンションとしてはやや小ぶりであるが、若者四人で暮らすには十分な広さがある。親類縁者ばかりではあるが、日本でも今流行りの”シェア・ハウス”というところだろうか。それぞれ仕事を持っているわけであるが、やはり単独で部屋を賃貸するとなると、このような好物件をおいそれとは借りれないわけである。大陸の大都市では、このような若い人の”ルームシェア”は割と普通なのである。
この好物件、平米単価は3万元を超える。30年で組んだローンの支払いは月に1万1千元で、彼と折半なのだそうだ。現在のレートで換算すると、日本円で月に22万円のローンの支払いというのは、なかなか大変なのではないだろうか。自分で商売をやっているSさんはまだしも、テレビ・メーカーに勤務する彼が一か月に5千5百元というのは相当な負担であろう。二人ともまだ20代後半であるから、頑張っているといえばそうなのだろうけれど.........
 

そのSさんのお家で皆で食事をしましょう、ということになり訪問した時の事。エレベーターが誰かの引っ越し作業で占有されている。どういうことかと聞いたら、
「家賃が高くなりすぎたので、引っ越す人も増えました。」
という話。実はSさんは以前は妹や従弟、また同じ故郷出身のルームメイトと時期によって3〜4人で、同じマンションの別の部屋を借りて住んでいた。その部屋のオーナーに支払う家賃は、2011年の頃は3,000元だったと聞いている。それが3,500元、4,000元と、年々高くなってゆき、今年のはじめには、ついに5,000元にまで上昇したのである。
普通、ここまで家賃を急に吊り上げると文句が出そうであるが「無理なら出て行ってくれていい。ほかに借りたい人はたくさんいるから」と、大家さんも強気なのである。別段、この部屋だけ特別高い家賃というわけではなく、同じマンションの部屋は軒並みそのくらいの家賃が相場なのである。
そこで「家賃を払うよりは、ローンを組んで家を買った方が良い。」という、”よく耳にする”ような一見合理的な理由によって、同じマンションで売りに出ていた別の部屋を購入したのである。
実のところ、今年の4月以降、大陸の不動産価格は大都市を中心に再び上昇基調である。特に深圳が激しい。昨年は凋落傾向にあった不動産市場も、ここにきて活況を呈している。しかしこの不動産市場の再燃の背景には、やはり家賃の高騰があると思われる。
上海の浦東新区にオフィス兼住居の物件を借りて住んでいる朋友も、2010年ごろは3,000元程度だった家賃が5,000元に揚がったと嘆いている。彼は日本の不動産バブルの事をよく知っており、不動産を買うなど馬鹿らしいと常々言っていたのだが、この家賃の値上がりをみて「もっと早く買っておけばよかった。」と、後悔を漏らしている。
 

おそらく、賃貸に住みながら不動産価格の凋落を様子見していた人々を、ここにきて購入に踏み切らせた動機には、やはり家賃の高騰があるのだろう。日本でも「家賃を払うくらいなら買った方が良い。」というのが、マンション購入の主な要因ではないだろうか。
また深圳がとりわけ高騰しているのも、ひとつには深圳は広東省の人ではなく、四川省や湖北省、湖南省といったいわゆる”外省人”が多い街、という事情も関係しているといわれる。夫婦ともに外省戸籍の人が子供ができて学校に通わせる段になると、評価の高い公立学校に優先的入れないなど、いろいろな制度上の差別があるのである。そこで都市の戸籍を取得したいと思うわけであるが、そのためにはその地に住居を所有していないといけないのである。これが大陸の不動産バブルを下支えしている、強力な要因でもある。
Sさんもかなり背伸びして部屋を購入した事を自覚しているが、将来の家庭生活の事を考えると、やむを得ないということだ。
 

都市化の勢いが止まった大陸では、不動産市場の地域毎の勝ち負けが鮮明になってきている。地方の中小都市より大都市、大都市でも利便性や、文教エリアなど、すでにインフラの整った地域に限って高騰している。「これからの値上がりを見越して郊外に投資用の物件を」という雰囲気ではなくなってきている。
実はSさんも数年前に、恵州という、香港の北方に位置する地方都市に投資用の物件を買っていた。恵州といえばその昔、蘇軾の流刑地でもある。そこに投資用のマンションを1部屋、邦貨で言えば1千万円くらいの価格だが、30年ローンを組んで買っていたのである。しかしそこはいわゆる「鬼城」という、だれも住んでいない郊外の開発区なのであった。よって値上りもしないし、売れる見込みも無いのだという。Sさんが今回多少の無理をしてでも好物件を買った理由としても、自分用の住居でもあるが、値上りが見込める物件で過去の投資の失敗をキャンセルしようという意識も垣間見える。
郊外の投資の失敗の回収を、都心の好物件への投資で回収しようというのは、下落して塩漬けになった株の損失を、あらたに有望株に投資することで、せめて帳消しにしようとするようなものだろうか。
 

しかしそもそも家賃が上昇したというのは、すでに物件を所有しているオーナーが、家賃を吊り上げざる得ない状況に至ったということである。ひとつには今年の3月に導入された、新しい不動産税の影響であるという。大ざっぱに言えば、二つ以上の不動産を所有する家庭に対して課税される税金である。二つ持っていれば、80平米以上の市場評価額について1〜3%、三つ目の不動産については4〜5%、四つ目については10%、という具合である。店舗などが入る商業物件については家賃収入の12%を納税しなくてはならなくなった.......不動産バブル鎮静のための政策ではある。実のところこの種の不動産税の導入は、過去にもいくつか試行されたことがある。しかし統一的な不動産登記が厳密に実施されていないという現実があり、そのため不動産税の実効性については疑問も残るのであるが、ともかく投資用に購入していた物件に課税されるというのが、ここにきて家賃急上昇の要因であるという。
またSさんではないが、不動産投資に走っていた人の多くが物件を複数もっているわけだが、その中にも値上りも見込めず、売却も困難な物件がいくつかある。その損失を、好物件の家賃を上げることでキャンセルしようという算段も影響しているという。
ともあれ、この不動産税導入の主目的不動産投機の抑制にあるのだが、それが好物件の賃貸価格上昇を促し、不動産相場を押し上げて庶民に悲鳴を上げさせているとすれば皮肉な結果である。「不動産バブル再燃」のようであるものの、ある部分は実需に基づいている、ともいえる。
 

原因が税制であるにせよ過去の不動産への過剰投資にあるにせよ、家賃が揚がって悲鳴を上げているのは庶民である。今までは不動産価格の上昇にくらべて家賃の上昇は穏やかであったのだが、ここに至っての急上昇は家計や将来設計を直撃していることだろう。商業物件の家賃も揚がっているから、それは外食レストランや、小売店の価格にも直接的に反映しはじめている。家賃だけではなく、人件費も揚がっている。小生が依頼する筆匠のいる湖州でも、今年のはじめ北京から政府の役人が来て、一律に工賃を二倍にするように通達していったという。また全国の公務員の給与も一斉に引き上げている。公務員の給与を上げる理由としては、民間企業の給与上昇に合わせて、ということであるが、要は人件費が上がり続けているのである。
工場の街深圳でも、工場の工員は2010年ごろは1か月3,000元くらいで充分集められたものが、今では5,000元でもなかなか数をそろえるのが難しいという。一方で大卒の初任給は平均で2500元程度であったりするので、大学を卒業してしばらく工場で組み立て作業に従事する若者も少なくないのだとか。
人件費があがる最大要因は生活費が高くなったからであるが、とどのつまりは家賃の上昇が主要因であろう。なので人件費が揚がる、給与が上がるといっても、それほど生活が楽になるわけではないのである。
 

家賃があがる要因も、要は過剰な不動産投資のツケが庶民に回されているということである。それは何も今に始まったことではない。90年代の朱鎔基の国営企業改革の断行において、当時累積していた不良債権は専用の受け皿会社に処理に回された。そして膨大な不良債権を償却するために、金利は低い水準に据え置かれて2000年代初頭の高度成長期を迎える。結果的に不良債権を償却したのは、本来であれば預金者が受け取れたはずの利息なのであるが、いわば広く薄く庶民にツケをまわしたことになる。また成長率に比べて低く据え置かれた金利が、2000年代の空前の不動産バブルを生むことになったともいえる........昨年の10月から半年ほどで基準金利を3回も下げているが、低金利への誘導は”経済のモデルチェンジ”を掲げる李克強首相の思惑とは逆に、不動産バブルの延命を支える結果になるのではないだろうか。90年代初頭の状況などすっかり忘れてしまっているかもしれないが、2000年代の不動産バブルは、いわば改革開放経済以来の不動産バブルの再演なのである。
 

日本の報道では中国もデフレ圧力が高まっている、というような内容を見かけるが、それはメーカーからの出荷価格が低迷しているということであって、実のところ市内の商品価格は軒並み上昇しているのである。
製鉄に代表されるように、偏った分野への過剰投資の結果、製品の供給過剰によって過剰在庫を抱え、工場出荷価格は下落圧力が強い。しかし不動産高騰のあおりで流通コストが増大し、市中の店頭小売価格は上昇しているのが実態である。企業は利益が減る一方で、人件費は上げざるを得ない。人々は市場で割高な商品を買うことを余儀なくされている.......その大本の要因をたどってゆくと、やはり不動産に突き当たるのである。

高額なローンを組んで不動産を買う庶民は、皮肉な見方をすれば、政府が”こしらえた”負債をまたしても肩代わりしているということなのだが........大半はそうとは考えていない。あるいは気づかない方が良いことなのかもしれない。
 

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長江の遭難事故

長江で痛ましい事故が起きた。

長江というと、揚州〜鎮江間を何度か船で往来しているから、あながち他人事とも思えないのであるが、今回の事故ははるか上流の荊州である。小生もいつか行きたいと考えている、赤壁などをめぐるツアーだったのかと思うと、やはり気の毒でならない。
車ごと船で長江をわたるとき、舷側では褐色の奔流が渦巻いているのであるが、落ちたらとても発見してはもらえないだろうと、いつも思う。
長江は下流は瀬戸内海以上の川幅があるが、遠目には湖面のように穏やかであるが、実は結構流れが速い。しかも濁流である。昨年の韓国沖合の悲惨な事故も、現場は透明度が低く、しかも海流がとても速い海域であったことを想起すると、今回の長江での事故も救出作業の難しさがうかがえる。
割と河岸に近い場所での事故であるが、大型重機が入れるような足場は組みにくいだろうし、浅瀬であれば作業船が入れるかどうかもわからない。2000トン以上もある船体をどうにか動かして救出する、というのは工学的にも非常に困難であろう。

事故原因は「竜巻」であったというが、事実現地は暴風雨で、この暴風雨が東進して昨日は上海が荒天に見舞われている。船長が証言しているような「竜巻」が本当に発生していたかどうかはともかくとして、しかしそんな暴風雨下の航行に危険を感じなかったのかどうか.......事故現場の大馬洲水道は、三峡ダムの建設後、土砂の堆積と浸食によって河床の形状が不安定になっている、という話もある。突風が原因の可能性もあるが、暗礁に乗り上げたとも考えられる。

今回の事故現場には李克強首相が急派されて、陣頭指揮にあたっているという。韓国の船舶事故は政界をも揺るがす大事故、事件であり、大陸政府としてはこれに比較されることを恐れている、という見方もあるようだ。が、韓国の事故があってもなくても、大陸政府にとってはこの事故の救出に威信をかけざる得ないところである。なんといっても、転覆した船の名前が「東方之星」である。
「東方之星」が何を指すかといえば、現在の中国の国旗を見れば一目瞭然のように、これに象徴されるところは共産党、すなわち国家であったり、より直接的には毛沢東であったりする。

「東方紅」という、毛沢東と中国共産党をたたえる歌曲があり、かつては国歌同然にうたわれた。その歌詞に「太陽昇、中国出了个毛沢東(略) 他是人民大救星」とある。「東方紅」というのは明け方の空の暁色であり、そこに大きな星が輝く、というイメージである........いうなれば「東方之星」というのは日本の国旗を「日の丸」と別称するがごとく、説明しなくても何のことだか、大陸の人ならだれでもわかるのである。なのでこの船の名前だけではなく、いろいろな施設や事柄の名称に「東方之星」はみられるのである。

その「東方之星」が「転覆」、という事故で暗示される事態を考えれば、この事故についてすでに厳重な報道管制が敷かれているのもわからなくはない。大陸の政治がこの種の「表徴」に非常に敏感なのは、まさに大陸政治の「伝統」なのであるが、その感覚は現代の日本人には理解しにくいかもしれない。だから首相がすべての公務をキャンセルして現地に向かうにも、充分な理由がある。
人命がかかった事故の際に国家の威信云々というのは不謹慎なようであるが、それはたぶん日本人に多い感覚であり、(他人の)命より面子が大事、という大陸の政治指導者(に限らないが)の性格ではないのである。

ところで経済専門の首相が具体的な指示を出せるわけではないから、陣頭指揮というより督戦であろう。逆に考えれば、このような事態に首相自ら督戦しなければならない、ということでもある。日本ならまず現場は都道府県知事か副知事か当局責任者だけだろう。何日か後に官房長官あたりも動くかもしれないが......事故の翌日に李首相が現地入りである......つまりは政治的にはほとんど最優先事項、ということを示している。また現在の大陸の行政機構では、動員される関係各局の連絡連携に、湖北省のトップくらいではどうにもならない、ということなのかもしれない。
しかしどんな事故でもそうだが、現場を知らない偉い人が乗り込んできたところで、そのことで現場が混乱しなければまだ良い方なのである。感情的に現場の人間を怒鳴りつけるのは最悪である。その点、監督と調整に徹している李克強首相は、震災原発事故当時の日本の首相や、客船事故の際の韓国の大統領の対応よりはだいぶん良いようである。

ともあれ一刻も早く、一人でも多く救出されてほしいものである。

追記:6月5日の今日、思ったより早く船体の引き上げに成功したようだ。船内捜索のあとは航行可能な状態に修復したうえで、船名をかえて再び就航させるのではないだろうか。一種の政治的儀式として。
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世界は広いから.....

深圳の朋友を訪ねた時の事。「妹が書置きして出て行った。」と言って、一枚の紙切れを小生に見せるのであるが.......
「世界那么大 我想去看看」とある。直訳すれば「世界はあんなにも大きい。私は観に行きたい。」というところである。この朋友は電子機器の輸出、国内販売の商売を手掛けているのであるが、この妹もなかなかのやり手で、たしか電子基板の検査機械の販売事業を個人でやっていたはず.......仕事を放りだして「出奔」したのか?と、やや唖然としてしまった。その下には「ちょっとしたら戻るから、心配しなくていい」旨が追記されているので、騒ぐほどの事は無いのかもしれないが、なかなか大胆な行動である。

しかし朋友がいうには「世界那么大 我想去看看」は、最近の中国の流行語なのだそうだ。もとはと言えば、河南省の中学校のある教諭が「辞職申請」をした際に、その理由として「世界那么大 我想去看看」とだけ記した便箋の画像がインターネット上に出回り、これを真似して、ちょっとした外出の際のメッセージにするなど、さまざまな場面で使われ、瞬く間に拡散したのだという。
いわゆる「退職願」のその便箋は、勤務している学校名の入った赤い罫線の簡素な便箋で、ペンで「辞職申請、世界那么大 我想去看看」と年月日と姓名が記されただけのものである。「世界那么大 我想去看看」という語をちょっと検索すれば、この画像は容易に目にすることが出来るだろう。

学校の教諭といえば、安定して一生勤めることが出来るという意味では、今の大陸では人気の的の職業なのである。給与があまり高くなくとも、様々な「役得」もある。出張は少ないし、転勤もほとんどないから、家庭の安定を望む向きには、垂涎の職業なのである。しかもくだんの河南省の中学校は「実験中学校」である。これは文字通り、先進的な教育方法を「実験」する学校という意味で、裏を返せば公立の名門進学校なのである。そのような学校の教諭が「世界那么大 我想去看看」と、事務用の便箋にペンで走り書きした「退職願」一枚で"Good bye"してしまうあたりに、ある種の爽快感を感じなくもない.......その後の生活はともかくとして。
何はともあれ「世界那么大」が爆発的に流行した背景には、裏を返せば現代中国の社会に、ある種の閉塞感、抑圧感の蔓延があるからかもしれない。

さて、朋友の妹は二日ほどして戻ってきたという。実際には杭州に友達の結婚式に行っていたのだそうだ。それだけであれば2,3日で済むはずであるが、都合一週間近く出奔していたのは「旅行中にはいつも大きな注文が入る」というジンクスのためであるそうな。個人で会社をやっている「小老板」のこの妹君なのであるが、仕事内容はメールや電話一本で済むようなところがある。今風にいえば「ノマド・ワーカー」というところかもしれないが、このような若い小事業主というのは、深圳あたりには結構いるものである。移動、という意味では中学校の先生よりははるかに自由度が高いが、安定が約束されているわけではない。その辺の”バーター”は、あるいはどこの世界でも似たようなものかもしれない。

ともあれ名門中学校の先生が書き残した「世界那么大 我想去看看」である。進学校で受験勉強に明け暮れる生徒達に、強い印象を残したことが想像されるところである。
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生意還可以

大阪の挨拶に「もうかってまっか?」「ぼちぼちでんな。」という受け答えがあるという事は、大阪以外に住んでいる人にも広く知られているだろう。しかし大阪にかれこれ十数年住んでいて、実際にそのようなやり取りを耳にしたのはほんの数回である。普通に街を歩いているくらいでは、まず耳に入ってこないやり取りであろう。
どのような状況で使われるかというと、場所で言えばキタやミナミの繁華街や、オフィス街などではなく、どちらかというと下町寄りの地域。人で言えば”商い”を長くやっているような、それはそれは年季の入った商売人が、それも長年の商売相手同士が会った時にのみ、ごく自然とかわされるものである。なので大阪に長く住んでいても、そういう地域や人に近いところでなければほとんど聞いたことが無く、耳にしたときは思わず”ハッ”とするほど珍しいものである。

「もうかりまっか?」を、大阪で普通の人が使う事はまずありえない。しかし「ぼちぼち。」というのはなかなか使い勝手の良い言葉で、時々使用される。商売の様相だけではなく、進捗の度合いを表現するにも「まあ、ぼちぼち進めておきますわ」のように使えるものである。
また知られているように「もうかりまっか」に対する返答の「ぼちぼち」は、実際に「儲かって」いるかどうかにはかかわらず、常に「ぼちぼち」なのである。「もうかってまっか?」に「今月はあかんわ」と答えるのは、それこそ「お早うございます」に「もう10時ですが?」と答えるようなものかもしれない。
そこは長い付き合いを大切にする大阪の商売人の間で交わされる挨拶である。同じ「ぼちぼち」であっても、その時のなじみの相手の顔つきや口調から実際の景気が悪いかどうかはすぐに察せられる、という塩梅であり、そうでなくては小商いを長く出来るものではない。
仮にもし「もうかってまっか?」に対して「大繁盛してるよ。」などと言おうものなら、そこは商売同士のやっかみもあろうし、取引相手なら「じゃあ、少し値引してや」などという、余計な話に発展しかねない。
また反対に「いやあ、全然だめだね。」などと言おうものなら、ゲンを担ぐ商売人なら「不景気がうつるわ」と思われて嫌な顔をされたり、もしかしたら借金を申し込まれかねないから早く退散しようとか.......ともかく「いらんこと」を言わないという大阪の流儀に則った、もっとも無難な返答が「ぼちぼち」なのである、というのが大阪でかれこれ十年以上暮らしている、東京人としての自分の理解である。

日本では景気はタクシー運転手に聞け、と言われる事があるが、大陸においてもそれは同様である。日本のタクシーではここ十年ほど、「景気はどうですかね?」と聞いたところで「まあ、良くないねえ。」という様な返事が返ってくるものであった。
同様に大陸に出かけている間、タクシーに乗る時などは運転手に「最近生意好不好?(生意は景気;景気はどうですか?)」という質問をしてみる事にしている。
この質問に対して、ここ数年ほど最も多い返答が「还可以」であった。「还」は繁体字で書けば「還」になるのだが、現代中国語では「还」は冠詞的に使われた時は「まだ、なお」というような意味になる。「可以」は良い、OKくらいの意味なのだが、「还可以」というと「まあまあ」とか「まあ良い」という意味に相当するとされる。
「生意好嗎?」あるいは「生意好不好?」に対しては、ほぼ「还可以」という返事が返ってくるので、なるほど景気は「まあまあ」なのかと思っていた。なので「那好啊(それならいいね)」というように返事をしていた。要は「还可以」も大阪における「ぼちぼち」と同じ程度の、文字通り良くも悪くもない、というくらいの意味にとらえていたのである。

しかしある時、上海で朋友と一緒のタクシーでいつものようなやり取りをしているのを聞いた朋友が「还可以、というのはですね、それほどいい意味ではないですよ。」という。「日本語で”悪くない”、というと、どちらかといえば良い方の意味に傾いていますが、中国語の”还可以”はどちらかというと悪い方の意味です。」という事だ。そこで朋友が上海語(小生には聞き取れない)でタクシーの運転手と二言三言話をした後で「なんとかやっていってる、なんとか食べていけている、という感じだそうです。」と教えてくれた。なるほど。
おもえば今まで「なんとか食べていけているよ。」という返事に「それなら良いね。」と答えていたのは、”皮肉”な意味合いに受け取られていたかもしれない........しかし思い返せば、ずいぶん前から景気はあまり良くなかったのかもしれない。

ともあれ、渡航中の見聞による限りでは、経済指標はともかく、巷の景況感は必ずしも芳しいものではない。屯溪の老街で商売をやっている朋友などからは、はっきり「不景気」という声も聞こえてくる。目下日本は大陸からの観光客が押し寄せ、唖然とするほど大量の買い物をしてゆく姿を目にするが、それに反比例して大陸の個人消費は冷え込んでいるように思える。これはあながち現政権の「贅沢禁止令」の影響だけではなく、そもそも個人消費の拡大に必要となる、健全な流通と市場の形成を怠ってきた、その”ツケ”が響いているともいえるかもしれない。逆に考えれば、その部分を改善すれば、まだ大陸経済に成長の余地はある、というのは事実である。経済派官僚のコメントを見る限りでは、彼等はそれに期待している。しかしそれも、現時点ではあくまで机上論である。経済に占める政府の役割があまりに大きく、かつ権威主義的な政治体制下にあっては、大陸の人が日本や欧米諸国で”爆買い”しているような、”便利な商品”や廉価ながらも”洗練されたサービス”は生まれにくい...........

日本もバブル崩壊後、国内景気が低迷する半面、海外旅行や海外投資は盛んだった。国内でお金が使われず、海外で使われるものだから、国内景気が不活発なのも道理なのである。現代の中国は、かつて日本で起きたことがより極端な形で進行しているように思えるのである。「日本の道をたどりつつある...」というような事が良く言われるのだが、バブルのピークにおける日本の状況と、近年の大陸の状況を比較すると、その”同じ道”はどこかで必ず分かれる時期が来ると考えないわけにはいかないところである。

さて、今年の大陸庶民の景況感は「还可以」が続くのか、それとも........
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代購とEMS

大阪で、中国からの輸入食品を扱う店を経営している、紹興出身の女性がいる。旦那さんは貿易会社を経営し、男の子と三人家族で大阪に住んでいる。小生は彼女の店に時々中国の食材を買いに行く事がある。
彼女の親戚が中国の郵政の内部で働いており、最近EMSを扱う部署に配置されたのだという。その写真を見せてもらった。もらった写真なのであまり画質は良くないのだが、なかなか凄まじい光景だ。まるで地震で荷崩れでもしたかのようである。
中国のEMS事情中国のEMS事情大陸のEMSの内部の様相であるが、日本のEMSの内部は見たことが無いので比較し難いが、さすがにもう少し整然としているのではなかろうか。

しかしこの写真を見て思い当たる事がある........小生がお店の商品を出荷する際、休日や夜間の窓口は少し大きな郵便局しか開いていないので、そのような郵便局に足を運ぶことになる。都心の繁華街の大きな郵便局に行き、列に並んでいると、自分の前後にはほぼかならず外国人がいる。大きな段ボール箱を窓口に置いて郵便局の人から説明を受けているのは、これはほとんど大陸の人である。
郵便局員の人曰く「地方でしたらねえ、二週間くらいかかるかもしれませんよ。今大変混雑しているみたいなのでね。いえいえ、日本側ではなく、中国の方で停まっているみたいなんですよ。」そのような話をここの所よく耳にするのである。
”二週間”というのはEMSではなくSAL便の事だったかもしれないが、ともかく航空便を使って二週間という時間のかかりようはどうか?というところだ。
小生は上海の朋友と荷物のやり取りをすることがあるが、浦東に住む朋友からだと二泊三日で届くこともある。もっとも、内容が書類やちょっとしたサンプル程度だからかもしれないが。あるいはそれは日本人から中国の人に宛てた場合だからかもしれず、大陸の通関でも早めに通してくれているのかもしれない(良く知らないが)。この間、湖南省の長沙の朋友にEMSで少しお菓子を送った時でも一週間であった。小生のイメージではSAL便を使って大陸へ荷物を送っても、一週間くらいがせいぜいだったと思うのであるが、最近は事情が違うのだろうか。
中国のEMS事情そもそも膨大な荷物が中国に届くというのは.....あたりまえだが海外にいる中国の人が買い物をしてそれを送るからである。統計データが無いので断言できないものの、確信的推測を以てその大半は日本から送られる荷物であろうと察せられる。

「代購」、つまりは「代理購入」という言葉があり、日本に滞在している大陸の人はこれをせっせとやっている人が多い。無論、友人や親類に依頼されての買い物もあるが、量を買うのはほとんどセミプロである。留学生の多くもアルバイトで是をやっている。結構いい稼ぎになるのだそうだ。日本の家電量販店やドラッグストアで大量購入をしているのは、観光客に限らないのである。
中国のEMS事情この写真を見せてくれた紹興の女性も、輸入食料品店を営む傍らで「代購」に勤しんでいる。大陸にはWeChatというメッセージソフトウェアがあり、多くの人が使用している。小生も大陸の朋友との連絡のために使っているのだが、これは1対1でメッセージをやり取りする以外にも、自分とつながりのある人全てに向けて情報を発信する機能もある。その機能を使って「お勧め」の商品などをPRし、購入希望者を募ったりもする。この紹興の女店主のイチオシは「酵素」なのだそうだ。他にも衣料品や医薬品など、小生も知らないような、実に細かい商品の情報が飛び交っている。

人気商品の紙おむつの「メリーズ」などは、小売店も今や品薄で購入制限をしていたのであるが、そういうところにもアルバイトの学生数人がミニバンか何かで乗り付けて「おひとり様何点」の制限まで買ってゆく。これを中国に送って転売するのである。
さすがに小売店の方も業を煮やしたのか、母子手帳を持っていない人には販売しない、と張り紙で告知ところも出来たくらいである。その告知を見てさすがに朋友の何人かは「中国人として恥ずかしい」と言っていたものである。その張り紙の写真がWeChat上で拡散したらしい。しかし別の朋友などは「母子手帳の偽物もあるんですよ。」という。これはもう、なんといいますやら。
「メリーズ売り切れて無いなら、パンパースで良いじゃない。」と言ったら「パンパースは赤ちゃんのお尻少しかぶれる」のだそうだ。高分子吸収体の性能の差であろうか。しかしよくご存じである。それにしても........

日本の小売店で商品を購入し、EMSで送った場合、貿易統計の「日本→中国」の輸出額に反映されるのだろうか?

という疑問がわく。EMSには商品金額を記載する事になっているが、ほとんど過少に記述しているだろうから、中国の税関側でも正確なところは把握できないだろう。
何故このような「個人輸入」が莫大な量になってしまうのか、それはわからなくもない。品質の違い?円安だから?あるいはそもそも中国の人口が多いから?それも要因ではあるが、それならどこかの商社が大量に正規輸入して小売店で売ればいいじゃない?という事になる。しかし中国は”正規輸入”のハードルが実に高いのである。
くだくだしくは述べないが、正規輸入するには輸入権を持つ貿易会社である必要がある。また輸入手続きが煩瑣である。さらに輸入に際して仮に関税が安い品物であったとしても、17%の?値税がかけられる。それに流通、小売りを考えてゆくと、大陸のスーパーや百貨店に並んだ時には、日本の定価よりも高価になってしまうのである。

なので欲しい人は「代購」を依頼するし、「日本から輸入して商売しよう」と言いう人も正規輸入を通さないで、個人輸入でなんとかしてしまう。飛行機代がかかるにしても、その方が安いのだそうだ。また富裕層にとっては、値段は関係なく、要は日本でパッケージされた「本物」が欲しいのだそうだ。ついでに言えば、送料を安くしたいならいっそ船便で運べば.......と考えたいところだが、船便よりもEMSなどの空輸の方が、実は税関のチェックがさほど厳格ではない、という事情もある。空輸される空港の税関は、港湾と違って荷物のスペースがさほどないので、ゆっくり審査していられないのである。
かくして大陸郵政当局のEMS部門も、ここに掲げた写真のような仕儀に至るというわけである。

長崎の出島ではないが、莫大な利益を生む貿易は、かつては国家なり政権なりがその権益を独占するものであった。その昔、大陸から日本へ輸出される文房四寶は「上海工芸」という国営商社が一手に扱っていたものである。国は貿易に関しては関税をかけるだけで良いじゃない?と言いたくなるが、いやいやその関税すらも撤廃して行くのが世界の流れではある。TPPの是非はともかく、たとえば関税をかけた上に貿易商社が国営であったらどうだろう?消費者の手に渡る頃には、相当な国の”取り分”が乗っかっているというわけである。
「これは中国で売れる!」と思っても、”正規輸入”をしようとすると簡単に事は運ばない。いや、いくつか検討した事もあるのだが、無理ではないにしても「その筋」に話をつけたり、とかく商売以外の面倒な事が多いうえに、税関を通らないリスクも考えなければならない。

この個人による「代購」熱も、いつまで続くかわからない。突然、どこかで強い規制がかかるかもしれない。またインターネットショップの大手が「代購」に乗り出してきている。

傾斜しつつある中国経済であるが、不動産やインフラ投資に代わる経済の牽引役として期待されるのが”個人消費”なのだそうだ。しかしその”個人消費”のかなり上質な部分は、海外で”消費”されてしまっているように思われてならない。本来、自国で生産し、流通、消費された方が経済への寄与は大きい。そうならないのは、国民が国産の品質を信頼しない上に、流通している品物の真偽を疑っているからである。
海外からの輸入品をありがたがること、それは日本も例に漏れないのであるが、それにしてもここまで日常の些事にわたる必需品まで、海外から買う必要があるのだろうか?と考えてしまう。
「世界最大の市場」を喧伝された中国市場であるが、たしかに巨大ではあるが、同時に非常に不透明で不健全な市場と言っていいだろう。この”市場”の潜在力を当て込んだ”中国経済楽観論”も多く目にするが........大陸の人の消費の在り方の現状を見る限りでは、いまひとつ賛同しかねるのである。
落款印01

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