墨汁の功罪 〜墨汁の歴史?

一世を風靡した「一得閣墨汁」はたちまち中国全土に広がった。科挙制度が廃止された後も、対聯や大幅の揮毫に、即席に大量の墨液を必要とする需要は絶えなかった。
鉛筆や万年筆の普及によって、毛筆で書くという行為が実用の場面から急速に失われて行く反面、技芸としての書画は、大衆化がその需要を支えることになる。
光緒年間に、工業用の黒鉛を墨に使用して大成功を収めた廣戸氏胡開文も、早速墨汁の製造に着手する。胡開文は工業用の黒鉛を墨汁にも使用し、天然油脂から焼成した油煙を使うよりもはるかに安価に、大量の墨汁を作り出す。

一得閣は、1956年の”公私合営”によって「北京墨汁廠」となり、さらに1960年代の終わりに「北京製墨廠」という名で国営化される。この時期に、墨汁の配合や製法の”近代化”が進んだという。
初期の墨汁の欠点は、長期保存が利かないことであった。長く置くと煤の成分が分離沈殿する。また夏季は腐敗も避けられなかった。その点を改良するために、防腐剤、安定剤が加えられ、さらに滲み加減を調整するために浸透剤が添加されるようになる。
これら薬物の配合は、現在も各社各製品それぞれ工夫があるであろうが、食品と違って成分表示の義務付けがないためか、その詳細は明らかではない。
現在の中国では、一得閣墨汁の他、中華墨汁、胡開文墨汁、曹素功墨汁、そして紅星墨汁(宣紙工場が作った墨汁)などが、おもなブランドとして流通している。しかし、小生が知見した範囲では、いったいどの墨汁がどこの工場で作られているか、皆目検討もつかない状況である。(調べる気があまり起きないというのもあるが….)またすくなからぬ量の墨汁が、日本へ輸出されていることも忘れてはならないだろう。
小生が特注墨を製造依頼している墨工場も、墨汁、それも100%桐油煙、あるいは松煙を用いた書画家専用墨汁を製造している。それは、専門家用に特別に調合した墨汁であるが、それでも工場の老板は「やはり作品を残すプロの書法家や画家は、固形墨を磨って使うべきである」と説く。
墨汁は、品質を長期安定させるための化学的な薬剤の添加が避けられず、それが長期的には作品の劣化につながると言っているのである。また、墨汁で書いた書や画は経年劣化するが、良質の固形墨を用いた作品は年々墨色が濃く艶やかさが増すといっている。
「私は作家にいつも言うのです。“墨汁を使えば、50年後にあなたの作品はゴミになってしまいますよ。そんな作品を売ってもいいのですか?”と。」

現代の日本の“書道“に関して言えば、大規模展覧会やパフォーマンスなど、そもそも作品の保存性や耐久性を考慮する必要が無いカタチでの活動がその中心になっているようだ。
この事情は多かれ少なかれ、日本も中国も変わりは無い。時間に追われる中、大量の墨液を必要とする“書道家”達にとって、墨汁は今後も重宝であり続けるだろう。
また墨汁の使用に抵抗感がないのは、日本よりもむしろ中国においてかもしれない。固形墨を使うことの意義を、懐古趣味と同程度にしか認識していないフシがある。プロの作家も、テレビ番組や教則本で堂々と墨汁の使用を認めているのが現状である。
ビジネスとして考えた場合、書画の市場拡大を図るためには、一般の人が入りやすい安易な手段を提案するのも一つの戦略である。墨汁の使用に懐疑的な人も多い(しかし使う人も多い)日本にくらべて、墨汁を自国の発明品として誇る中国において、その使用はむしろ推奨されてさえいる。
多様な消費文化が現れては消える現代社会において、書画のような伝統文化を継続普及させたという意味では、墨汁が果たした役割は無視できない。しかしながら、書画という文化の重要な部分を変質させてしまった事実は、考え直す時期に来ているのではないかとおもう。

一得閣が北京で創設されたことから、墨汁の使用は北方、特に北京において顕著であるという。実は現在、清朝以前の古墨の多くは北京にあるといわれる。実際、江南諸都市ではほとんど見かけない清末の古墨でも、北京であれば市井の骨董屋でもまま見ることが出来る。
清朝の都として、とりわけ多くの墨が集められたことが理由に考えられるが、大都市だけに本来消費もそれだけ大きいはずである。あるいは墨汁の普及によって、固形墨を磨る習慣がなくなってしまった事も、北京に古墨が残った要因ではないかと考えているのだがどうだろうか。(功罪という意味では功績にあたるかもしれない)

北京の書画家の多くが墨汁を使用する中で、晩年に至るまで嬉嬉として墨を磨した書画家がいた。ほかならぬ斉白石である。彼の墨盒にはいつも小さな歙州龍尾石の硯板が入っていたという。
斉白石はもともと南方の湖南省出身で、北方へ渡ったのは壮年の頃からである。「北斉南呉」(北の斉白石、南の呉昌碩)と言って、斉白石を北の大御所に据えるには、実はやや難があると思われる。
斉白石以外にも、清末民国から戦後にかけて活躍した書画家の大半は江南の出身者である。呉昌碩(湖州安吉)、傅抱石(江西新余)、張大千(四川内江)、徐悲鴻(江蘇宣興)、黄賓虹(安徽歙県)、李可染(江蘇徐州)、謝稚柳(江蘇武進)、そして呉冠中(江蘇宣興)等等、現在も国際的なオークションを賑わす一流どころはみな南方の出身者である。
北方出身者の中からは、上記のようなビックネームの列に入るだけの書画家は、現在に至るまでついに輩出しなかったのであるから不思議ではある。この原因が幼少期からの墨汁の使用にあるとまでは言い切れないし、上記の作家の中でも、作品に墨汁を使用していた人はいる。
ただ小生としては「50年後にゴミになる。」といった墨工場の老板の言葉が、何事かを示唆していると、思われてならない。

(おわり)
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科挙制度と墨汁の誕生 〜墨汁の歴史?

前回からの続き。墨汁の考案者にして一得閣の創設者は謝?岱である。徽州は歙県の人(原籍は湖南省であったが、徽州で学んだようである)。同治二年に挙人となる。同治三年、北京で会試に挑むが失敗。科挙制度の詳しい解説は他所へ譲るが、会試は三年に一度、北京で開かれる試験である。会試に合格すると、晴れて進士となり、高級官僚への道が開けるのである。再掲になるが、科挙の答案用紙を掲載する。(時代は不明)
科挙答案科挙答案
科挙の答案は濃く明瞭な墨色で、かつ端整な楷書体で書かなければならない。特に清朝では、“翰林体”と呼ばれる、官界特有の書体が求められた。墨色が薄ければ不合格である。滲んでいてもカスレていてもいけない。また答案用紙を汚してももちろん不合格である。
答案用紙は配布されるが、墨や硯、筆は各自持ち込むのである。無論のこと、質の精良なものが求められた。

宋代から清朝にかけての王朝時代は、個性的な書体を創出した文人書画家を多数輩出したが、そのほぼすべての者は、多かれ少なかれ、幼少期から科挙の受験勉強に多大な時間を費やしていた。よって、どれほど奔放な書風を生み出した者であっても、幼少期からキッチリとした答案作成を叩き込まれているということは、当時の学書がどのようなものであったかを考える上で忘れてはならない。
また、古い墨を鑑別するうえで、その墨銘が「翰林体」に近い端整な書体で書かれているか、あるいは文人風の個性的な書体であるか、あるいはフォーマルな篆書体であるかは、その墨を注文した人物や時代、目的を推定する上で極めて重要な情報である。

話がそれたが、同治三年の会試で謝?岱、試験終了間際にに墨が尽きてしまい、あわてて墨を磨ろうとしたら答案用紙を汚してしまう。書き直そうとして焦れば焦るほど筆先が乱れ、答案が作れない。結局、答案を書き切ることが出来ずに試験時間が終了し、しばし茫然自失の状態であったという。
謝?岱は試験勉強の際、磨墨に多大な時間を費やしたことを思い、墨を磨らなくても良い液体墨の開発を思い立った。またこれは、時間制限のある試験に際しても有効であると考えた。謝?岱は弟の謝松梁と協力し、液体墨製造の研究にとりかかる。
謝?岱は歴代の製墨法を丹念に研究した。そして一室を密閉し、内部で数百の灯心をもって油脂を燃焼させ、室内に層毎に設けた鉄板上に煤を付着させる採煙法を考案する。その際、最上層の鉄板に着いた煤を“雲煙”とし、中ほどの煤は“中煙”また床に落ちた煤を“落地煙”として等級を区別した。高品質の油煙の量産が可能になった事は、墨汁の生産と品質の安定に大きな意味を持つことになる。
そして固形墨を水中で溶かすことにより、史上初の“墨汁”の開発に成功する。そして1865年、北京瑠璃廠44号に墨汁専売の墨廠を創設し、“一芸足供天下用,得法多自古人書。”(一芸をもって天下の用に供するに足る。古人の書より多く法を得る)という対句をつくり、その両句の頭一文字をとって墨廠名を“一得閣”とした。この対句には、この墨汁があれば従来の固形墨は必要が無くなること、またこの墨汁の開発には従来の墨の製法を研究した成果を反映している、という気持ちが込められているようである。当時の製品には最高級品の「云頭艶」他、「蘭烟」、「亮光」、「桐烟」、「大単童」、「双童」などがあった。
この墨汁は科挙に挑む受験生に大いに支持され、空前の成功を収める。
謝?岱は、製墨研究の成果を「南学制墨札記」にまとめ、又後に「論墨絶句詩」を残している。科挙答案また清朝宮廷内での御墨の製法を記した、「内務府墨作則例」を編集したのも彼だという説がある。歴代の墨の製法を相当に研究していることが、これらの著作から伺えるのである。科挙答案「論墨絶句詩」には、墨汁が普及し、固形墨が駆逐されてゆく様が記されている。墨汁の普及につれて、硯に代わって使用されるようになったのが「墨盒」である。「墨盒」は、もともとは、磨った墨液を腐敗・乾燥しないように保存しておくための道具であった。腐敗を防ぐため殺菌効果のある銅(白銅または黄銅)で出来ており、乾燥を防ぐために蓋の付いた箱の形をしている。「論墨絶句詩」には、学校やあるいは試験に臨んで硯を持ち込まず、この墨盒のみを携える者が増えていったことが述べられており、墨汁の普及が物語られている。
また謝?岱の弟子に河北省深県人の徐潔濱という者がいた。彼には経営の才があり、生産設備を拡大し、本格的な墨汁製造工場を北京の宣武区南新華街25号に開設した。また彼の代で「一得閣」は天津市や鄭州市、そして上海、西安へと分店や代理店を増やしていくことになる。

科挙制度が廃止されるのは「一得閣」創設後よりわずかに40年後の光緒31年(1905)である。隋唐に制定され、1300年の歴史を持つ科挙の受験者の中で、不合格の原因を墨と硯に求めたのは謝?岱くらいかもしれない。必要は発明の母というが、非凡な発想と言えるだろう。いずれにせよ、墨汁の成功と普及に、終焉間際の科挙制度が深く関係していたことは興味深いことである。

(つづく)
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八寶印泥(一得閣八寶印泥) 〜墨汁の歴史?

北京製墨廠「八寶印泥」である。七宝の愛らしい印盒(いんごう)に入っている。1970年代の製造であるから、さほど古いものではない。八寶印泥この印盒、中身を使い切った後は印泥を足して使い続けることが出来る。「八寶印泥」の空になった印盒は、骨董屋でも稀にみかけることがある。この時代の北京製墨廠「八寶印泥」は、七宝のほかに堆朱で出来た印盒もあるが、悪い作りではない。この程度の七宝の印盒も、骨董屋で買えば100元や200元では済まなくなってしまった。
近年の印盒は総じて安物の白磁青花で、図柄も龍がうねっているような、中国趣味を勘違いしたようなものが多い。八寶印泥あまり使っていないのであるが、この当時の印泥の色はまだ良いものであるし、30年以上経過しても鮮やかな色合いを保っている。印泥は硫化水銀である朱砂などの化合物を原料にしており、比較的安定した顔料である。本来は金と同じく、経年による退色が少ないはずである。実際に、数百年を経過しても、書画の落款印や収蔵印の朱は鮮やかな生彩を保っている。
が、篆刻をされている方ならお分かりと思うが、最近の印泥は質のよくないものが増えた。色合いそのものが悪くなったこともあるが、押した後何年かすると色が黒ずんでくるものもある。

何ゆえ「墨汁の歴史」という副題なのか?この印泥を造った「北京製墨廠」も、1956年の”公私合営”によっていくつかの店舗が合併し出来た国営企業である。その前身の中核となった店は、瑠璃廠の”一得閣”といった。1980年代の改革開放経済下で、再び”一得閣”に名を戻し、現在も”一得閣”の名で営業をおこなっている。
この”一得閣”こそ、”一得閣墨汁”で知られる、史上はじめて墨汁を作り出し、その墨汁をもって創業した店なのである。
創業者は安徽省歙県出身(原籍は湖南省)の謝?岱。創業は清朝も末期の同治四年(1865)にまで遡るから、墨汁の歴史もはや140年ということになる。創業者の謝?岱は、実は歙県出身というだけあって、非常に墨の製造に詳しく、製墨の歴史を語る上で欠かすことが出来ない研究者なのである。が、この謝?岱の経歴と一得閣の成立については次回に譲るとしよう。

この「八寶印泥」は、もともとは「珍珠(真珠)、瑪瑙、珊瑚、麝香、梅片、金箔、琥珀、猴」などの八種類の珍奇な香料や薬剤を混ぜて製せられることからいう。康煕十二年(1673)、[さんずい+章]州の魏長安(ぎちょうあん)が経営する、麗華斎(れいかさい)という薬剤商が販売を始めたのが最初である。
冬でも凝固せず、夏でも油が分離せず、水に数日漬けても使うことが出来、また印を押した紙を焼いても、その印影のみは残るといった性質を持っていたといわれ、非常な好評を博し、宮中にも納められることとなる。
魏長安ははじめ、「源豊斎」という商号の薬剤商をいとなんでいた。彼は薬剤の研究に非常に熱心で、さまざまな材料から「八寶膏薬」という万能外傷薬を作り出したが、材料費があまりに高価で、販売は不振であったという。外傷薬を必要とする人々の多くは庶民であるはずだから、高価な「八寶膏薬」はあまり売れなかったのかもしれない。
魏長安はまた書画を非常に愛好しており、薬剤研究の基礎の上にたって印泥を作ったところ、こちらのほうが評判を呼ぶことになる。そこで「麗華斎」という印泥販売用の商号を、新たに創始したというわけである。
印泥は仙薬にも使われる「朱砂」を用いるため、当時としても非常に高価なものであった。が、書画を愛好し、収蔵印などの用途に優れた印泥を必要とする人々は、それなりの経済力をもっていた階層である。貴重な書帖や絵画に使うのであるから、良い印泥であれば価格の高下は問わなかったのであろう。
収蔵家や蔵書家にとって、低劣な色の印を書画の上に遺すのは、他の収蔵家や具眼の士に、その見識を疑われかねない行為である。まして劣化退色するような印泥であれば、書画の風采を著しく損なうことになるのである。印影とともに自分の雅号が残ることになれば、それこそ永遠の恥である。
落款印は、書画作品を構成する重要な要素である。しかし、書画の鑑定の際に、落款印を重視しすぎる鑑定士(のような人)も良く見かける。が、これはこれでやや見当違いである。書画の真贋判別には、やはり作品そのものを見なくてはいけない。落款などは、幾らでも偽作されるものである。
ただし、低劣な印泥が押されている作品は、それなりの収蔵家の手にあったとは、まず考えられない。そういった意味では、印泥の色の良し悪しや、時代による色合いの好みは、ある程度の手がかりとなるだろう。

話がそれたが、「麗華斎」の八寶印泥の製法は無論のこと、秘中の秘であった。が、その名は広く喧伝され、さまざまな業者が「八寶」を冠した印泥をつくりだす。配合はそれぞれ違っていたが、一得閣の「八寶印泥」はすなわち「紅宝石、紅珊瑚、珍珠、金箔、朱砂、麝香、冰片、百年以上貯蔵したヒマシ油」という「八寶」で作られているということになっている。(サンゴや宝石というのは、多分に疑問が残るのであるが。)この「八寶印泥」すぐれた品質で評判をよび、墨汁とともに一得閣を支える主力商品となった。その製法、「特制八宝印泥制作技芸」は、北京の「宣武区級非物質文化遺産」に指定されている。

「八寶印泥」を作った一得閣とその墨汁、そして創設者の謝?岱については、また回を改めてということで。

(つづく)
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