古典風の現代詩? 〜青花瓷

日本で時々中国語会話を見てもらっている、四川省出身の留学生がいる。今は日本の大学院に留学している。仮にQさんとしよう。Qさんは若いのに、古典文学の素養が豊かである。祖父の薫陶をうけ、高校生の時に二十四史を三回通読したというから、これはかなりの”強者”であるが、あながちではないのは話をしているとわかる。日本語の他に、英語はもちろん、スペイン語を操り、唐代の詩を美しく朗読するために広東語を覚えたというから、文字通り舌を巻く.....。
そのQさん曰く、
「現在の中国の若い人の間では、”古典風”の詩が流行しています。」と言う。
「”古典風”の詩?唐詩や宋詞ではなく?」
「そうですねえ、いうなれば古文と現代文の中間のような詩です。」
大陸の現代語の詩にはあまり興味が無いのでわからないが、「古典風」とはこれいかに?と思って聞くと、
「この流行は、私が思うに、台湾の作曲家で歌手の周傑倫から始まりました。」という。
「周傑倫には方文山という友達がいて、周さんの歌のほとんどは方さんの詩です。彼が”東風破”という歌詞を作り、これがヒットしたことで、若い人の間に”古典風”の楽曲や歌詞が流行するようになりました。」
という。
「方文山の古典風の現代詩にはいろいろと良い詩がありますが、私は”青花瓷”が一番好きです。聞いてみませんか?」
というので、インターネットで再生してみると、なるほど、ある時期よく流れていた曲である。
楽曲的にはR&Bに分類されると言うが、歌詞もメロディーも”古典風”ということだそうだ。それにしてもこのミュージックビデオ、武侠小説的な映像が出たと思ったら、オークション会場?なにやらSF的な.....
「このミュージックビデオは、詩の内容とぜーんぜん関係が無いです。詩はもっと深い内容です。」という。以下がその詩であるが.....

青花瓷 方文山

素胚勾勒出青花筆鋒濃轉淡
瓶身描繪的牡丹一如妳初妝
宣紙上走筆至此擱一半
釉色渲染仕女圖韻味被私藏
而妳嫣然的一笑如含苞待放
妳的美一縷飄散
去到我去不了的地方
天青色等煙雨
而我在等妳
炊煙裊裊昇起隔江千萬里
在瓶底書漢隸仿前朝的飄逸
就當我為遇見妳伏筆
天青色等煙雨
而我在等妳
月色被打撈起
暈開了結局
如傳世的青花瓷自顧自美麗
妳眼帶笑意
色白花青的錦鯉躍然於碗底
臨摹宋體落款時卻惦記著妳
妳隱藏在窯燒裡千年的秘密
極細膩
猶如繡花針落地
簾外芭蕉惹驟雨門環惹銅?
而我路過那江南小鎮惹了妳
在潑墨山水畫裡
妳從墨色深處被隱去

なるほど、一読というか一見しても、わかるようなわからないような感じの詩である。自由形式の散文詩のようだが、現代語の発音で韻は踏んでいる。現代中国語に非ず、さりとて古詩にあらずということだが......
「現代の中国の若い人は、この歌詞を聞いたら、すぐに内容がわかるの?」と聞くと、
「完全ではないですが、およその雰囲気はわかります。方文山はいろいろな意味をあいまいにぼかして埋め込んでいるので、解釈が難しいです。完全に理解するには古典の深い素養が必要です。」という。
日本でも人気のある歌手だからか、検索すると”青花瓷”の日本語訳も散見されるが、これがまたどれも意を尽くしているとは思われない。現代語でもないし、古文でもないというところが、かえって解釈が難しいのかもしれない。古詩であれば、訓読を経ることで訳出の正確性をある程度までは担保できるが、現代詩となると訓読のしようがない。

せっかくなので、これも一興と、解釈を施してみることにした。とはいえ現代中国語の語感については正直よくわからないところもあり、要所の解釈ではQさんの助けを借りた。Qさんがいうには、この詩の解釈や評価を巡っては、意見が分かれるところもあるという。作者はあえて正解を示さないそうだ。そういうものだろう。
以下、いくつか解釈のポイントを述べたうえで、大意を示す。
 

”焼き物”が象徴するもの


まず基本的な前提から。この詩は、ある男性の、先立たれた妻ないしは恋人への追憶をテーマとしている。
詩の中で焼き物、陶磁器を使って象徴しているのは、”変わらない物”、”永遠の美”である。そして主人公の『彼』は染付けの焼き物に、死んでしまった『彼女』を重ねている。美しい女性を陶器に喩えるのは、古典的な比喩の例である。
その『彼女』は死んでしまい、現実世界からは消え去ってしまった。それでも『彼』の心は陶磁器と同じく”不変”であり、『彼女』の美しさも、陶磁器の美と同じく(彼の心の中では)永遠に美しい、ということをうたっているのである。後述のように、この焼き物を焼いているのは『彼女』であり、儚い『彼女』の命に比べて永遠とも思える焼き物の美を対置してもいる。

 

 

詩中の男女はどのような人物たちか?


この詩の中の男女はどのような人物たちであろうか?まず男性の『彼』であるが、詩の中では『彼』の行為として”宣紙上走筆(宣紙の上に筆を走らせて)”という表現がある。また”書漢隸仿前朝的飄逸(王朝時代の飄逸な書風にならった隸書を書き)”または”臨摹宋體落款時(宋体を臨模して落款する)”とあるから、書の心得のある人物とみられる。また最後の方の”在潑墨山水畫裡(溌墨山水画の中に)”というのも、『彼』が書いた山水画であると考えられるから、『彼』は書画家ないし書画の心得をもった、文人的素養のある人物と考えられる。

対して『彼女』であるが、行為として”妳(あなたが)隱藏(かくした)在窯燒裡(窯焼きの中に)千年的秘密”とある。この部分を素直に考えると、少し意外なようでもあるが、作陶家であると考えられる。詩の中で『彼』は、染付の陶磁器に、『彼女』の面影や記憶を重ね合わせているのであるが、それらの陶磁器が作陶家である『彼女』の作品であると考えると、より情景が理解しやすいのである。

 

素胚勾勒出青花筆鋒濃轉淡”とあるが、筆鋒は染付の焼き物の筆致。それが濃い色から淡い色に変化してゆくというのは、染付の筆致をたどる描写と同時に、その染付を描いた彼女の記憶をたどる行為を暗示しており、記憶が過去にさかのぼるごとに淡くなってゆく、ということでもある。

また”瓶身描繪的牡丹一如妳初妝(瓶に描かれた牡丹は、まるであなたがはじめてお化粧をしたよう)”という句についても、化粧も陶磁器の絵付けも筆を使ってする作業であり、また染付の陶磁器には『彼女』のイメージが重ねられているから、『彼女』が作陶家とすれば、素焼きの肌に牡丹を描くことは、たしかに『彼女』が自分の顔に化粧をする事に”一如(ごとく)”重なるのである。

そして二人は”而我路過那(わたしが立ち寄った)江南小鎮(江南の小鎮で)惹了妳(彼女と惹かれあった)”というところから、書画家ないし文人の『彼』が、江南を旅した時に、小さな水郷の村で作陶を生業とする『彼女』と知り合い、一緒に暮すようになった、と考えられる。
陶磁器の生産が盛んで、美しい水郷のある江南の地域といえば、江西省の景徳鎮であろうか。景徳鎮は大きな街であるから、その周辺の水村が想起される。文人的素養豊かな『彼』と、焼き物を作る事に職人仕事以上の情熱を注いでいたであろう『彼女』が、互いの中に共鳴できるところを発見して、惹かれあっていったのは不思議なことではなかったというわけだ.......

 

 

 

 

檀香と一縷


”冉冉檀香透過窗心事我了然”、つまり「たちのぼる白檀の香りが窗(まど)からもれでてくるように、あなたのおもうことがわたしにはわかった」ということである。「冉冉」は、ゆらゆらと烟が立ち上る様子を表現する語である。
喪われた美女の魂を”香魂”、埋葬された美女を”埋香”というように、この世を去った美しい女性を”お香”に喩えるのは古典的な詩の世界ではありふれた表現である。またかならずしも客観的な美女ではなく、自分にとってかけがえのない女性を「香」に喩えてもいい。”お香”は香りを発すると同時に「灰」になり、烟は天に昇って消え去るからである。
ここでは窓から漏れ出てくる”白檀の香り”に、『彼女』の「思っている事」を喩えている。ゆえに後の”妳的美一縷飄散”、「あなたの美しい姿は、一縷の烟のように飛び去ってしまった」でいう”一縷”は、”一縷(いちる)の望み”というように、炊いたお香から細く立ち上る烟であり、『彼女』の魂を表現している。白檀の香りのように馥郁たる『彼女』、それが”飄散”、つまり風に吹き散らされてしまう、というのは『彼女』の死を意味する語に他ならない。
散見される日本語訳には『彼女』と『彼』は単に別れてしまった、『彼女』は『彼』のもとを去ってしまった、という意味で解釈しているものもある。しかし『彼女』が「香」「烟」で象徴されるところから、これは普通の”離別”ではなく(残酷なようだが)かならず”死別”である。
ここをただの”不意の蒸発”とか”Goodbye”という意味で解釈してしまうと、わけがわからなくなる。もしたんなる「離別」の意味で『彼女』を「お香」に喩えたのであれば、作者はまったく古詩の素養が無い人物である。そうではないだろう。
なので続く”去到我去不了的地方”、つまり『彼』の手の届かない”地方(場所)”は、どこか遠いところではなく、直接的には死後の世界なのである。

 

 

 

 

伏筆とは?


”在瓶底書漢隸仿前朝的飄逸”は、”在”からわかるように現在の行為であり、ゆえに行為者は『彼』である。普通、陶磁器の底部に隸書で落款を入れる例はあまりみない。あるいは文人特有の気まぐれか。また『彼女』が作陶家と仮定して解釈すると、この行為者は『彼』であるから、『彼』は『彼女』の死後、その仕事をいくらか継続していたとも考えられる。

次の”就當我為遇見妳伏筆”の”伏筆”は、現代中国語では”伏線”という意味がある。あるいは物語の前段の中で後段の展開を暗示する、あるいは準備する、というような文章表現を”伏筆”という。

陶磁器の瓶の底(いわゆる高台)に自分で落款を入れることが、何故「彼女にあえる」ことにつながるのか?ということであるが、あるいは染付けを入れる前の無地の瓶は、作陶家である『彼女』がつくったものであったかもしれない。それに自分の書を書き入れることで”共にあり続ける”という意味の祈念につながると解釈できる。また”漢隸仿前朝的飄逸”と、わざと古い時代の書体に倣って書き入れたのは、『彼女』が生きていた「過去」にさかのぼりたいという願望を表わしている、と解釈できる。

しかしどんな”伏筆”であっても、”我為遇見妳”すなわち死んだ『彼女』に再会するということは、現実にはありえない。つまり儚(はかな)い望みであり、”伏筆”それ自体は祈念、あるいは”おまじない”のような行為と解釈できる。

また”瓶底書漢隸”と並ぶ『彼』の行為に、”臨摹宋體落款時”があるが、”宋體(体)”は、宋代の印刷書体、現代で言うところの明朝体である。普通によむと、”臨摹”は臨書と”摹(うつしがき)”であるが、”宋体”とあるので、毛筆で臨書することではない。なのでここは”摹”、すなわち”かご字”をとって書体をコピーすることであろう。明朝体をレタリングして落款を入れる、というように読めるのである。

しかしこれが”瓶底”というように、陶磁器の底に”落款”をいれる行為であるとすると、青花染付けの底に明朝体で落款をいれている例が果たしてあったかどうか、記憶が定かではない。普通、作陶家がするなら篆文で落款印の形式であろう。それが明朝体というのは「大清乾隆年製」のように、清朝初中期の官窯の粉彩が念頭にあるのか(これも明朝体のような活字書体ではなく、翰林毛筆体であるが)。

ともあれ、先に述べたように『彼女』が作陶家であり、『彼』が『彼女』の死後、その制作をいくらか継続していたと仮定すると、やはりここでも『彼』が陶磁器に”絵付け”を施し”落款”を入れた、と解釈したほうが良いようだ。『彼』はもともと作陶家ではないが、書画の心得のあるわけだから、”絵付け”だけは出来たと考えても飛躍のし過ぎとは言えないであろう。
また『彼』が陶磁器に対する行為として、「落款」の描写のみがあるのは、『彼』は絵付けまではしておらず、もっぱら『彼女』が遺した製作途中の焼き物に落款を施していた、とも考えられる。その過程で否応なしに『彼女』の絵付けの筆致を目にするであろうし、そこへ落款を施すというのは、やはり”永遠にともにありたい”という、祈念につながる行為である。

 

 

 

 

千年の秘密とは?


”妳隱藏在窯燒裡千年的秘密”、すなわち作陶家である『彼女』は”窯燒裡”、つまり窯での焼成の過程に”千年的秘密”を”隱藏(かくした)”とある。”窯焼”であって”焼窯”ではないから、焼き窯ではなく、陶磁器の製法のことだろう。前述のように、この部分を素直に読まないと、『彼女』が作陶家であることがわからない。ゆえに陶磁器の焼き窯に隠された”千年の秘密”というのは、具体的には陶磁器の製法の秘密と解釈できるのである。
それが”極細膩(とても微妙で、かすかで)”、”猶如繡花針落地(地面に落ちた刺繍針のように)”、というのは、より直截的には「探し出すことが難しい」ということである。

「秘密」を「探している」のは主人公の『彼』であり、やはり『彼女』の死後、染付けの制作を継続していることがうかがえる。無論それは職業的な行為というより、追憶のための行いであったかもしれない。
ともあれ『彼』は『彼女』の陶磁器の製造過程をみていたであろうが、陶磁器は焼く工程がもっとも難しい、職人芸の世界である。その微妙な加減は体得するものであり、『彼』は会得することがかなわなかったのだろう。
『彼女』が焼く陶磁器の美が千年続くとすれば、陶磁器に『彼女』を重ね合わせる『彼』からすれば、その『秘密』とは不変、不滅、不死の秘密である。それが『彼』にとって「探し出す事がとても難しい」というのは、『彼女』が絵付けまでしたところに『彼』が落款を施しても、『彼』には焼成の技術が無く、合作として世に遺すのは難しいことを表わしている、とも読める。普通はしないような隸書や宋体による落款も、あるいは『彼』の個性の発露であるとも考えられる。

『彼』にとって染付けの仕事を継続し、製法の秘密を探る事は、いうなれば鎮魂以上の”招魂(たまよばい)”を感じさせる行為である。喪われた女性の魂を呼び戻そうとするのは、佛教的な観点からすれば”迷妄の極み”ではあるが、白居易の長恨歌に代表されるように、”招魂”は古典的な詩文の世界では繰り返されるモチーフなのである。傷心を最大級に表現する行為であると言える。

 

 

 

 

天青色はどんな色か?


”天青色等煙雨”における”天青色”は、具体的には青磁の色である。日本語訳の多くは晴れた空の色、あるいはここを単に”天青色”とそのまま訳しているものが散見される。さすがに晴天の空が雨を待つ、というのは意味が通らない。北宋の徽宗皇帝が、汝窯の青磁を”雨後天青雲破処”と賞したように、”天青色”で想起されるのは普通は雨上がりの空、ないし青磁の釉色なのである。
徽宗皇帝は汝官窯の色を”雨後天青雲破処(雨上がりの、雲の切れ間からのぞく空の色)”と表現しているが、この詩では逆に”雨上がり”ではなく”雨を待つ空の色”と解釈している。ここを作者の錯誤と指摘する人もいるそうだが、雨がいったん止んで、雲井から青空がのぞいた後でまた雨が降る事もあろうから、別段大きな矛盾は感じない。詩の作者の方文山は台湾の人で、書画骨董、陶磁器に趣味があるというから、当然台北故宮博物院で汝官窯は観ているはずである。
端溪にも青味が浮かんだ”天青”という石品があるが、”雨を待つ”ないし”雨後の空”という意味がある。

また”等煙雨”の”等”は、現代中国語では普通に”待つ”という意味であるが、古詩の世界ではこの用法は見られない。もし”天青色等煙雨”を古典的な詩句で表現するならば”等”を”欲”、すなわち”欲する”に置き換えて、”天青色欲煙雨”となろう。あるいは”色”を省いて”天青欲煙雨”とするところだろう。李白の「夢遊天姥吟留別」には「雲青青兮欲雨」という句があるが、あるいは李白のこの句を意識したものかもしれない。

ともかく詩の題名が”青花瓷”であるから、この詩に登場するのは”青花”すなわち”青い染付け”の焼き物だけと考えると、この”天青色”の箇所の意味が理解できない。青花瓷のミュージックビデオをみても、陶磁器といえば青花しか出てこないものだから、余計にここで”青磁の釉色”を想起するのが難しくなっている。

”天青色”が”煙雨”を待つ、という事であるが、古典的には”煙雨”に象徴されるのは男女間の情愛である。だから”而我在等妳”で、これが「私はあなたを待っている」という意味の”喩え”になっている。しかし『彼女』はすでにこの世の人ではない。その『彼女』を「待つ」とはどういう事か?
この詩に登場する焼き物は”不変”を象徴している。青磁の釉色がいつまでも変わらない様に、天青色が待ち続ける”煙雨”は永遠にやってこない。すなわち詩の主人公が喪われた女性を変わらぬ心で待ち続ける、裏を返せば絶望の表現以外の何物でもないわけである......................詩中で”青花瓷”に象徴されるのが『彼女』であるとすれば、”天青色”の青磁に象徴させるのが『彼』である、とも読める。

”如傳世的青花瓷自顧自美麗”の”自顧自”は現代中国語でも使う、「自らかえりみる」「自ずから」という意味であるが、普通に訳せば傳世品の青花瓷は、他の助けを借りること無く”そのもの自身が美しい”という意味になる。ここで「傳世」の青花瓷が出てくるが、これだけは『彼女』の手による作品ではない。世代を経ていなければ「傳世」とはいえないのである。『彼』が『彼女』の仕事を継承しているとすると、『彼女』が絵付けを行い、『彼』が落款を施した青花瓷が「傳世」の名品になってほしい、という願望の表れである。
続いて”妳眼帶笑意”つまり”あなたのひとみにうかんだほほえみ”は、当然『彼』の記憶の中の『彼女』のことである。つまり傳世の青花瓷がいつまでも”不変”に美しい「如く」、記憶の中の『彼女』も永遠に美しい、二人の合作もそのような「傳世」の名品になってほしい、という意味に解釈できる。

 

 

 

 

炊煙が江を隔てて千萬里とは?


”炊煙裊裊昇起隔江千萬里”の”炊煙”は、文字通りごはんを作る炊事の烟であり、象徴されるのは、現実の日常生活である。”裊裊昇起”は、ゆらゆらと”炊煙”が立ち上る、これは眼前の光景の描写である。ところがそれが”隔江千萬里”とある。”千萬里”は、古典的には実際の距離ではなく、手が届かないようなはるか遠くを指す。「眼前の光景」が「はるか彼方にある」というのは矛盾しているようであるが、無論これは『彼』の心象の表現であり、現実とは時空を異にする世界である。
”隔江(江を隔てて)”は、すなわち”彼岸”の事であり、生者がたどり着くことができない場所、と解釈できる。また古典の詩の世界では、川の流れは”時間の流れ”を象徴している。
つまりかつて目の前にあった、炊煙の立ち上る『彼女』との日々の間には”時間の流れ”が横たわり、”たどりつけないほど”遠くにある、『彼女』との日々が、もう手の届かない過去のものであることを表現しているのである。

 

 

 

 

月色が”打撈起”をこうむる、とは?


”月色被打撈起”、の”打撈”は魚をとらえるために網を打つこと。ここでは”月色”が”打撈を被る”のだから、水面に映った月を網を打って捕まえようとする行為である。”月”は言うまでもなく古典的には女性を暗示し、水面にうかんだ月は、『彼』の心にうかんだ『彼女』の姿である。それを網を打って捕まえようとしても、当然水面が波打って、月の姿はたちまち砕け散ってしまう。それが”暈開了結局”である。”暈開”は滲んでぼやけることであるが、ここでは水面に細かく波立って、月の輪郭がはっきりしなくなることを表わしている。

すなわち記憶に浮かぶ『彼女』の面影を追い求めても、悲しみに心が乱れて、かえってはっきりとしなくなる、というところであろう。古詩でよく使われる「断腸(はらわたがずたずたにちぎれる)」という表現と、同じ心理状態を表わしていると考えて良いだろう。

 

 

 

 

墨色が暗示するところは?


”簾外芭蕉惹驟雨”は簾(すだれ)の外の芭蕉の葉がにわか雨を惹きつける、あるいは呼ぶ、ということである。簾のかかった窓も芭蕉もにわか雨も、江南を想起させる古典的な風物である。また”門環惹銅?”は、扉(とびら)についた青銅のまるい取っ手が、緑青(ろくしょう)を吹いて青く錆びてゆくこと。これも江南の古鎮では廟堂の鉄扉などに目にされるものである。
続いて”而我路過那江南小鎮惹了妳”とあるから、『彼女』が作陶を行っていたのは江南のある小さな水郷であり、そこへ通りかかった『彼』が『彼女』と出会い、惹かれあったのは、雨を待つ芭蕉の葉や錆びてゆく円い取っ手と同じく、ごく当然の自然さで、ということだろう。文人気質の『彼』と、伝統工芸の世界で生きる『彼女』が、互いの中に共感できるものがあった、ということでもあるだろう。そして過去の二人の姿を、この二節で江南の風景の中に溶け込ませているようでもある。劇的な”出逢い”には悲劇的な結末も似つかわしいかもしれないが、ごく自然にみえる運命の成り行きでそうなったのに、何故?という『彼』の悲嘆でもあるだろう。

ゆえに続く”在潑墨山水畫裡”の”山水画”が描いているのは、この”江南小鎮”を含む山水の景観であり、この山水画を描くのはもちろん『彼』である。『彼』が書画を能くする文人的素養を持った人物、ということを念頭に置かなければ、この部分は理解できないだろう。おそらく詩の前半にある”宣紙上走筆”は、この山水画を書きかけて、想いが彼女の事に及んで筆がとまる、という所作ではないだろうか。

”潑墨山水”は、墨液を紙に注ぐようにして、滲みや墨の泳ぎを利用した景観の描写法である。台湾にはこの技法の大家、張大千がいた。また”山水画”というのは、”胸中の丘嶽”すなわち”心の中の風景”を描く、という考え方がある。作者の方文山は「山水合璧」という詩で、黄公望の富春山居図を詩に詠んでいるくらいであるから、古典的な画論の常識にも当然通じているであろう。

この山水画を描くのは『彼』である。なので『彼』の胸中が描き出されるところの”墨色”は、『彼』の心の中の想いや過去の記憶、人生そのものを暗示する。画法が墨液を紙面にそそぐ”溌墨”なのは、墨(=想い)をぶちまける、吐露する、という暗喩が感じられる。故に続く”墨色深處”は、墨色の一番深いところ、である。すなわち墨であらわされた、自分の(心、人生の)中で一番深い、大切な場所から『彼女』は”被隱去”「隠れ去ってしまった」つまり永遠に喪われてしまったことを表わしている。これも『彼』の”絶望”の表現である。

以上を踏まえて、やや冗長になるが大意を以下に示す。



青花瓷 方文山


素胚勾勒出青花筆鋒濃轉淡
白い素地に、細く線描きされた染付けの絵柄、その筆致の色合いは、濃い青から淡い青へと変化してゆく。その筆致をたどるように記憶をたどれば、過去の記憶がだんだんと淡くなってゆく。

瓶身描繪的牡丹一如妳初妝
花瓶のふくらみにあなたが筆で描いた牡丹の花、それはあなたがはじめてお化粧をした頃のような瑞々(みずみず)しさ。

冉冉檀香透過窗心事我了然
たちのぼる白檀の香りがかすかに窓から漏れ出てくるように、あなたが思う事は言わなくても私にはわかる、そのような日々だった。

宣紙上走筆至此擱一半
ひとり今、ひろげた宣紙の上に筆を走らせて絵を描きかけても、ふと、あなたを思い出しては筆をとめてしまう。

釉色渲染仕女圖韻味被私藏
白い釉薬に絵付けされた、美しい古代の女性の絵。その画から滲み出る余韻は、心にしまい続けているあなたへの想い。

而妳嫣然的一笑如含苞待放
あなたの嫣然としたほほえみは、いまだひらかぬ花のつぼみのようだった。

妳的美一縷飄散
でもその美しい姿は、か細い香の烟(けむり)が風に吹き散らされてしまうように、

去到我去不了的地方
わたしがゆく事ができない世界へと、飛び去ってしまった。

天青色等煙雨
青磁の釉色は、今にも訪れる煙雨を待つような、淡く青い空の色。でも青磁の色がいつまでも変わらぬように、煙雨も永遠に訪れはしない。

而我在等妳
その青磁の変わらぬ色のように、私は変わらぬ気持ちのまま、永遠に戻らないあなたを待ち続けている。

炊煙裊裊昇起隔江千萬里
夕暮れに炊煙の立ち上る、一緒に暮らした平穏な日々も、もう手の届かない遠い過去の世界の出来事。

在瓶底書漢隸仿前朝的飄逸
ひとり花瓶の底に、王朝時代の飄逸な書風を真似て、隸書でそっと字を書き入れてみたのは、

就當我為遇見妳伏筆
またあなたに会う事を願う、はかない祈り。

天青色等煙雨
青磁の釉色は、今にも訪れる煙雨を待つような、淡く青い空の色。

而我在等妳
わたしは変わらぬ気持ちのまま、戻ることのないあなたを待ち続けている。

月色被打撈起
水に映った月を、網をうって捕まえようとしても、

暈開了結局
水面は乱れて月の光が砕け散ってしまうばかり。わたしの心の中のあなたを捕まえようとしても、心が乱れて、かえって面影もはっきりえがけなくなってしまう。

如傳世的青花瓷自顧自美麗
伝世の青花瓷は、自ずからいつまでも美しいように、

妳眼帶笑意
あなたの目に浮かんだほほえみは、心の中では永遠に美しいまま。

色白花青的錦鯉躍然於碗底
まるで白地に青のニシキゴイが、碗の底で生き生きと泳いでいるかのような、美しい染付けの焼き物。

臨摹宋體落款時卻惦記著妳
宋代の書体を模してその高台に落款を終えた時、またあなたを思い出さずにはいられない。

妳隱藏在窯燒裡千年的秘密
あなたの焼き物の技に秘められた千年の美の秘密は、

極細膩
とても微妙で、

猶如繡花針落地
地に落ちた細い刺繍針のように、探し出すのは難しい。

簾外芭蕉惹驟雨門環惹銅?
江南では、窓にかけた簾(すだれ)の外の芭蕉の葉がにわか雨を呼び、古い門のまるい取っ手が青く錆びてゆくように、

而我路過那江南小鎮惹了妳
わたしが立ち寄ったあの江南の小さな水村で、あなたと出会い惹かれていったのは、ありふれた自然なことのようだった。

在潑墨山水畫裡
墨液をぶちまけるように山水を描(えが)けば、それは私の胸の内にある、あなたと過ごした江南の風景。

妳從墨色深處被隱去
でもあなたは、わたしの人生のいちばん大切な場所、この墨色に描き出された美しい日々から、永遠に消え去ってしまった..............



無論、以上の大意とは別の解釈も可能であろう。作者はわざと主体をあいまいにして、ストーリーに揺らぎを持たせているからである。しかし詩の中に現れる、古典的な語句の暗示するところは明瞭で、丁寧に追っていけばストーリーは見えてくる。適当に古い言葉、あるいは適当な空想や連想を並べて詩を作っているわけではないはずである。
典故を並べ立てて詩を作るのは唐代の李商隱がいるが、彼とて表現したい主題は明確に心の中にあったであろう。読む人には明確にわからなくても、詩の作者自身が詩に詠いたいところがはっきりわかっていない、ということではない。
解釈にあたっては、いわれるほど深い古典の知識は必要ないと思うが、詩に限らず、画論や書画陶磁器などの文物について、広く一般的な知識が要求されるであろう。無論、方文山の詩は今まで読んだことが無く(どこかで耳にはしていたのであるが)、方文山独特のレトリックの解釈については、彼の詩を愛好しているQさんの助言に依るところが大きい。

ともあれ実話をもとにしているとはおもえないが、陰惨な詩であり、あるいは現代の人の多くは「過去はもう忘れて前向きに......」と言いたくなるかもしれないが、この詩の主人公は”文人”あるいは文人気質の書画家なのである。方文山の他の詩を通読すれば、彼の文人趣味、文人気質が分かるはずである。
文人は過去の詩文や文物を愛好する人物であり、だから自分の過去にも拘泥しないわけにはいかない。このあたりの文人の感覚が良くわからない人には、清朝の文人夫妻の生活を描いた「浮生六記」を一読されることをお勧めしたい。
香港芸術博物館の白虚斎収蔵品の中に、羅聘の妻が方婉儀が絵を描き、羅聘が題賛を書き入れている「夫婦合作」の佳品がある。そういった雰囲気をこの詩中の二人に感じ取るべきであろう。
また文人にとって、作詩や書作、画を描くといった所作は欠かせない日課であるが、そのことごとくが辛い過去の記憶につながってゆくのであるから、傷ましい話である。が、『彼』は文人の勤めであるそれらの事を投げ出す事はしていないし、『彼女』の遺した仕事を継続しながら自分の”絶望”と向かい合ってもいる。弱い人間ではないだろう。
しかしこのようにいつまでも傷心に浸っている文人の心情というのは”今風”ではないし、それを詠んだ詩が現代の若い人に広く受け入れられるというのは、少し意外でもある。

ともあれ、若い人の間では”古典風”が静かに流行しているそうだ。一方で「古典」ならぬ「古典風」を批判する保守的な向きもある。しかし”古典風”で良い詩や楽曲を作ろうとおもったら、古典そのものを深く勉強する必要がある事は、言うまでもないだろう。結果的に、古典文化に若い人の関心が向かうとしたら、これも良い事なのではないかと思う。

 

 

落款印01

蘇軾 「虔州八境圖八首並引」 「八境圖後引」

贛州(かんしゅう)は北宋の頃は虔州(けいしゅう)という地名でよばれていた。虔州の南康には「八境台」という章江と貢江の合流点を望む楼閣があり、北宋の昔から、江西南部の景勝として有名である。
北宋の嘉佑年間(1056〜1063)、この地に赴任した孔宗瀚(?〜1088年)は、南康(現在の贛州市北辺)にこの八境台を築いた。孔宗瀚は、その姓の示す通り山東は曲阜の人で、孔子の第四十六代孫である。孔宗瀚はこの地点の重要性を考え、軍民を動員し、単なる石塁であった場所を改修し、レンガと石でもって堅牢な石城を築いたのである。この石城は水害を防ぐと同時に、街の防衛機能をも併せ持っていた。完成した石城は壮麗な楼閣と城門を備え、孔宗瀚はここを「宋八境」と題した。また八境台を詳細な絵図に描かせた。孔宗瀚が転任する際には、この絵図を持ってこの地を去ったのである。
贛州 八境台後に元豊元年(1078年)、孔宗瀚が彭城(現在の江蘇省徐州市)に滞在していた際に、山東省の密州に知事として赴任していた蘇軾にこの絵図の題詩を依頼した。元豊元年といえば、その一年前の1077年には黄河が氾濫し、蘇軾は徐州周辺の住民救済に多忙であった年である。また堤防と河道の修復工事を併せて行っている。あるいは孔宗瀚の治水事業の絵図を観て、何か感ずる所があったかもしれない。また孔宗瀚がこの時何故(なにゆえ)徐州に滞在していたのかはわからないが、あるいは蘇軾による黄河の治水事業と何か関係があったのかもしれない。
八境図に詩を題した翌年の元豊二年、蘇軾は詩文でもって朝政を誹謗したと弾劾される、いわゆる「烏台詩案」が起こる。辛うじて死刑は免れたが、黄州へ流刑同様の左遷に処されるのである。

ともあれ、孔宗瀚の依頼に応じて詠まれた蘇軾の「虔州八境圖八首並びに引」が残っているが、つまり蘇軾は八首の詩を詠んだ時点では実際に八境台を見ていない。絵図だけを見て八つの詩を詠んだのである。それから十七年後、広東左遷の途上で虔州へ立ち寄ることになる。実際に八境台を観たうえで過去に詠んだ詩を振り返り、その感慨を述べた「八境圖後引」が残っている。
蘇軾が八境台について詠んだ八つの詩についてはしばらくおいておくとして、この前後の序文(”引”は序、叙、などと同じ。蘇軾は祖父の諱をさけて”引”の字を使うことが多い)を簡単に紹介したい。

詠八境臺引


南康八境圖者、太守孔君之所作也、君既作石城、即其城上樓觀臺榭之所見而作是圖也。東望七閩、南望五嶺、覽群山之參差、俯章貢之奔流、雲煙出沒、草木蕃麗、邑屋相望、雞犬之聲相聞。觀此圖也、可以茫然而思、粲然而笑、嘅然而嘆矣。
蘇子曰、此南康之一境也、何従而八乎?所自觀之者異也。且子不見夫日乎、其旦如盤、其中如珠、其夕如破璧、此豈三日也哉。茍知夫境之為八也、則凡寒暑、朝夕、雨旸、晦冥之異、坐作、行立、哀樂、喜怒之變、接於吾目而感於吾心者、有不可勝數者矣、豈特八乎。
如知夫八之出乎一也、則夫四海之外、詼詭譎怪、”禹貢”之所書、鄒衍之所談、相如之所賦、雖至千萬未有不一者也。後之君子、必將有感於斯焉。乃作詩八章、題之圖上。 八境臺。

(書き下し)
”南康(なんこう)八境圖(はちきょうず)”なる者、太守(たいしゅ)孔君(こうくん)の作るところなり。
君(くん)は既に石城を作り、即ち其の城の上に樓觀(ろうかん)臺榭(だいしゃ)の見ゆるところ、是(こ)の圖を作るなり。
東のかた七閩(しちびん)を望み、南かた五嶺(ごれい)を望めば、群山の參差(しんし)を覧(み)る。章貢(しょうこう)の奔流を俯(みわた)せば、雲煙は出沒し、草木は蕃麗(ばんれい)。その邑屋(ゆうおく)を相い望めば、雞犬(けいけん)の聲(こえ)相い聞ゆがごとし。
此の圖を観るや、以って茫然(ぼうぜん)として思うべく、粲然(さんぜん)として笑うべく、嘅然(がいぜん)として嘆(なげ)くべし。
蘇子(そし)曰く、此(こ)れ南康の一境なり、何に従(よ)りて八(はち)なる?自ずから之を観る者の異とするところならん。
且(か)つ子の夫(そ)れ日を見ずか?其の旦(たん)は盤の如く、其の中は珠(たま)の如く、其の夕は破璧(はへき)如く、此(こ)れ豈(あ)に三日(さんじつ)也哉(ならんや)。
茍(いずく)んぞ夫(そ)の境の八を為すを知らんや、則ち凡(およ)そ寒暑(かんしょ)、朝夕(ちょうせき)、雨旸(あめはれ)、晦冥(かいめい)の異(い)、坐を作(な)し、行(ゆ)き立ち、哀樂(あいらく)、喜怒(きど)の變、吾が目に接し、吾が心に感ずる者、數者(すうしゃ)に勝るべからざる有らんや。豈(あ)に特に八と(いわ)んや。
夫(そ)れ八の出ずるは一なりと知るが如く、則ち夫(そ)の四海の外、詼詭(かいき)譎怪(きつかい)、”禹貢(うこう)”に書かれる所(ところ)、鄒衍(すうえん)の談ずる所、相如(そうじょ)の賦(ふ)す所、千萬(せんまん)に至るといえども、未(いま)だ不一(ふいつ)の者(もの)有(あら)ずや。
後の君子、必ず將(まさ)に斯焉(いずく)にか感(かん)有るべし。乃ち詩を八章作り、之の圖の上に題す。八境臺。

(大意)
”南康(なんこう)八境圖”というこの絵図は、この地の太守(たいしゅ)である孔君(こうくん)がつくらせました。孔君はかつてこの地に石城を作ったのですが、その城の城楼(じょうろう)や臺(うてな)から見える景観を、この圖に描かせたのです。
絵図の東は福建の山がちな地方を望み、南は広東を隔てる五嶺(ごれい)が望まれ、山々の高いところ低いところがいちいち手に取るようにわかります。
章江と貢江の奔流を俯瞰すれば、たなびく雲煙が出沒するところ、草木(そうもく)が美しく繁る様子が描かれています。
また周囲の村の家々が描かれているところをながめていると、その細かく描かれているところなどは、あたかも雞や犬の聲(こえ)が聞こえてくるようです。
この絵図をながめていると、そこに描かれているところの広々とはるかな様子に思いがめぐり、その鮮明で生き生きとした描写に自然と笑みがこぼれ、またこのように素晴らしい景色を実際に見てみたいものだと、おもわず溜息をもらしてしまいます。
わたくし蘇軾がいうに「この図に描かれているところは、南康の一地方でありますが、どうして”八(はち)”というのでしょう?」ということがあります。この八境図を見る人は、自然とこのことを疑問に思うでしょう。
ところであなたは太陽をみたことがないでしょうか?早朝はお盆のようにまるく大きく見え、昼間は大空の上で真珠のように小さく光り輝いて見え、夕暮れには雲や山に遮られて砕けた玉璧のように見えますね。このような変化は、果たして”三つの太陽”とは言えないでしょうか。
もしこの図の地方の景観が八つあるということを知ろうとするのであれば、それはこういうわけです。すなわち、およそ冬の寒い日や夏の暑い日、朝方と夕方、雨の日と晴天の日、雲が厚く垂れ込めて空が暗い日、また座ってみる景色、歩くことで景色が変化してゆく様子、あるいは立ち尽くしてながめるやる景色、哀しい時と樂(たの)しい時、喜(よろこば)しい時、怒(いか)りを覚えている時、それぞれ場合の自分の目にうつる景色の違い、また自分の心の感じ方の違い、その変化はわずか数通りというわけではないでしょう(無数にあります)。それをあえて”八”だといえるでしょうか。(八つではとてもおさまりませんが、あえて”八”としたのです)
この八つの景観の出所が実はひとつなのだということを知るように、(その考え方をひろげれば)あるいは広大な世界の果てまで、本当とは思えないような話や、きいたこともないような不思議な話、怪しく奇妙な話があります。また書経の”禹貢”に書かれているような古代の地理のこと、あるいは春秋時代の鄒衍(すうえん)が語った大九州のような壮大な地理観、あるいは漢代の司馬相如(そうじょ)が上林賦で詠んだような、やはり地理にまつわる美しい詩賦があります。これら文章や詩に残っているような事柄を、いちいち数え上げれば千万にもおよぶでしょう。その内容に、いまだに語りつくされていない事柄があるといえるでしょうか。
後の君子たちは、必ずこの図を観て何か感じるところがあるでしょう。そういうわけで詩を八章作り、この圖の上に題しました。 八境臺。
贛州 八境台孔宗瀚が描かせ、蘇軾が題したという「八境図」は、残念ながら現存していない。
通常、景観を描いた絵であれば、たとえば「黄山十八景」のように題されていれば、黄山におけるさまざまな景観を十八箇所選び、十八枚の連作を構成しているのが普通である。そして画冊ないし、長巻の体裁になっているものである。
しかし蘇軾の「引」を読む限りでは、「八境図」はおそらく一方面のみを描いた一幅の画であり、連作のような体裁をとっていなかったのだろう。そこで当然起こる疑問として、この画に「八境」と題されている意味を説いているのである。

絵図から読み取れる景観から敷衍して思考を展開し、景物をその主観によってとらえることの意義を説き、さらに”四海の外”の広大無辺の天地に精神を遊ばせ、またそれを詩文によって表現するところの意味に触れている。後の黄州時代に詠まれた「赤壁賦」にも通じるであろう、蘇軾らしい名文である。

「八境台図」は現存しないが、蘇軾が詠んだ八首の詩を詠む限りでは、精細で現実感に富んだ描写がうかがえる。あるいは「清明上河図巻」のような、繊細緻密な絵図であったかもしれない。北宋絵画の力量をもってすれば、絵図をして蘇軾の眼前に実景を浮かばしめたであろうことも、それほど不思議ではないようにおもえる。
しかしその十七年後に、蘇軾は左遷の途上、実際に八境台を目にしている。その際に往時を想い、八首の詩に「後引」を付している。以下がすなわちそれである。

八境圖後引


南康江水、歲歲壞城。孔君宗翰為守、始作石城、至今?之。
某為膠西守。孔君實見代、臨行出”八境圖”求文與詩、以遺南康人、使刻諸石。
其後十七年、某南遷過郡、得遍覽所謂八境者、則前詩未能道其萬一也。
南康士大夫相與請於某曰「詩文昔嘗刻石、或持以去、今亡矣。願復書而刻之。」
時孔君既沒、不忍違其請。
紹聖元年八月十九日。

(書き下し)
南康江水、歲歲(さいさい)城を壊す。孔君(こうくん)宗翰(そうかん)守と為り、始めて石城を作り、今に至るまで之を頼む、某(それがし)は膠西の守と為る。
孔君(こうくん)實見(じつけん)代(か)え、臨行(りんこうして)”八境圖”を出して文と詩を求め、南康に人を遣(つかわ)すを以て、諸石(しょせき)に刻ましめる。
其後(そののち)十七年、某(それがし)南遷して郡を過ぎ、所謂(いわゆる)八境の者を遍(あまね)く覽(み)るを得るに、則ち前詩(ぜんし)は未(いま)だ其の萬の一を道(い)うあたわざるなり。
南康の士大夫、相い與(とも)に某(それがし)に請いて曰く「詩文(しぶん)は昔(むかし)嘗(かつ)て石に刻むも、或いは持して以って去り、今は亡(な)き。願くば復(ま)た書し之を刻(こく)せんと。」時、孔君(こうくん)既に沒し、其の請うに違(たが)えるに忍びず。
紹聖元年八月十九日。

南康の江の水は、毎年のように街に被害をもたらしていました。孔君(こうくん)宗翰(そうかん)が太守となったときに、始めてここに石城を作りました。そして今現在に至るまで、この石城に治水を頼っています。
私が山東省は膠西地方(密州)の太守となった歳に、孔君(こうくん)は実際に八境台を見せるかわりに、わざわざ私のところに出向いて”八境圖”を出してみせてくれました。そしてこの図に題する文と詩を私に求めたのです。さらに南康に人を派遣して、私の詩と文(を筆書したものを)を石に刻ませたのでした。
その十七年後、私は南に左遷されて虔州を通過したさいに、このいわゆる”八境”の描かれているところをすべて実際に観る事ができましたが、すなわち前に作った私の詩は、その素晴らしい景勝の万分の一も述べつくしていないと思いました。
南康の士大夫たちは皆、わたくしに要請するに「あなたの詩文(しぶん)はかつて石に刻まれていましたが、いつのまにかどこかに持ち去られてしまい、今はありません。お願いですから、再びあなたの詩を書に書いていただき、石に刻ませてください。」この時、孔君(こうくん)は既に亡くなっており、自分では十分に行き届かない詩であるとはおもいつつも(故人を偲ぶ気持ちからも)彼らの要請に応えないわけにはいかないのでした。
紹聖元年(1094)八月十九日。
贛州 八境台絵画に後から詩を題する事はよく行われるのであるが、実際にその景色を見てしまえば、やはり絵を観て詠んだ詩だけでは、思いが行き届いていない気がしてしまうものだろう。蘇軾はあらためて詩を作りたいと思ったかもしれないが、既に故人となった孔宗瀚との情誼を思えば、新たな詩で昔の詩を覆(おお)ってしまうに忍びなかったのかもしれない。

虔州(贛州)では八境のほかにも周辺にさまざまな景勝、名所旧跡があり、「廉泉」をはじめ、それぞれについて蘇軾が詠んだ詩や文章が遺されている。しかし八境台については、ついに絵図を観て詠んだ八首以外にないのである。
落款印01

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