汪節庵「金不換」

汪節庵の金巻円柱墨「金不換」である。
汪節庵は名を宣礼,字を蓉坞といい、徽州岩寺鎮(岩寺行信)の出身である。後に歙県城内で「函璞斎」を創始し、乾隆中期にかけて一世を風靡し、汪近聖と名声を二分している。
徽派木彫の粋を凝らしたような精緻な意匠の集錦墨を得意とする一方、嘉慶年間には文人士大夫階層の特注墨を数多く手がけ、簡素で力強い銘墨を残している。道光年間にはいって経営が行き詰まり、胡愛堂に接収されて幕を閉じた。活動期間が曹素功や汪近聖に比べて短く、資料も少ないため、その名声の割りに謎の多い墨匠である。
互いに意識をしなかったはずはないのであるが、両者の接触を表す資料はいまのところ発見されていない。
汪節庵金不換少し磨ってあるが、重さを計ると8.5gであった。前に紹介した曹素功の「国宝」と同じくいわゆる1/4両のサイズである。円柱全体を薄い金箔で鍍金している。「金不換」の文字に填藍を施し、背面には「徽州汪節庵按易水法製」と陽刻してある。汪節庵金不換「易水」というのは、唐代の墨の名産地であった現在の河北省易県一帯の地域の事である。後に唐末の戦乱を逃れて易水の墨工が徽州に移り住み、連綿と続く徽墨の産地を形成して行った。「易水法」とは、易水時代以来の秘伝ということで、墨銘には良く使われる常套句である。よもや1千年前の製墨法を忠実に踏襲しているわけではあるまい。ここでは「古(いにしえに)倣う」というぐらいの意味合いであろう。汪節庵金不換汪節庵といえば、初期の頃はその巧緻を尽くした墨の意匠で特徴付けられる。が、この墨はどうであろう。金不換一見してかなり使い込んだ木型を使っていることがわかる。意匠も極めて単純である。古い墨でもまれにこのような、木型が磨耗して、バリが出ているような墨を観ることがある。名工の墨にしては奇異な印象も受けるが、恐らくは実用に量産された墨のうちの一つなのであろう。そういった実用墨は、贈答用の集錦墨と異なり、多くは消費されて現在目にすることは少ない。
汪節庵といえど、型の制作に多額の費用が必要な集錦墨ばかり作っていたわけではなく、製造した絶対数としてはこのような実用墨が多かったはずである。それらが同時代の文人墨客に使用されることで、華麗な外見だけではなく、墨質への高い評価と信頼につながったと考えられるのである。
別の機会に紹介できればと思うが、汪近聖でもそのような墨を見ることがある。いずれもその墨質は極めて精良である。
この墨は数本まとまった形で日本に招来され、幾人かの好事家の手に渡っている。清朝当時は実用であった墨とはいえ、現代の人間からすれば、むやみに磨ってしまうことははばかられてならないものである。
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鳩居堂の金巻円柱墨「雲柱」

鳩居堂の金巻円柱墨である。この墨はT.H先生にお借りして撮影させていただいた。おそらく戦前には遡ると思われる。
鳩居堂の金巻円柱墨先に掲載した曹素功の「国宝」墨と同じく、8g程度の小さい墨だが、綺麗な雲紋をほどこした墨を金箔で覆い、「鳩居堂製」の文字を凸にし、文字の表面のみ磨いて艶をだしている。非常に凝った意匠である。鳩居堂の金巻円柱墨しかしどうもこの墨、実際は中国で造られたような気がしてなら無いがどうであろうか。事実、明治大正、昭和初期まで、鳩居堂などの日本のいくつかの文房店は、当時の曹素功や胡開文に墨を造らせていたそうである。
墨の意匠や技法から手前勝手に類推しているのだが、あるいは唐墨に影響を受けた日本の墨匠の手によるものかもしれない。ご存知の方がおられれば教えていただきたい。鳩居堂の金巻円柱墨箱も唐墨の箱によくあるスタイルの紙箱で、かぶせる蓋ではなく、扉のように開閉する形になっている。(もちろん、日本にもこういう箱に入っている和墨の古い墨が無いわけでは無いが。)
いずれにせよ未使用の状態でよく残っていたな、と思う一品である。
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デットストック? 曹素功堯千「神品」

曹素功堯千「神品」である。写真を掲載したが、懸念したとおり、全然パッとしない。本来は墨銘を填藍か填金して仕上げてあるべきところであろう。古い墨を探していると、こういった未仕上げの墨をよく目にする。仕上げの藍や泥金が入っていない墨というのは、大抵は後世に同じ型を使って造った倣古墨である場合が多い。この墨はどうか?
曹素功堯千「神品」「神品」の下に八卦、裏には獅子をあしらった意匠である。空想上の動物や思想的なモチーフは、清朝初期から中期の墨に多い。清朝後期になると、人物や花鳥など、現実的な題材が多くなる。
形状のみを同じにして、古墨として売るという行為は近年に始まった事ではなく、昔から営々として行われてきたことである。故に外形のみで墨の時代、質の良否を判断するのは、厳に戒められるのである。曹素功堯千「神品」しかし、実際にオリジナルの墨が、未仕上げのままデットストックとして残り、市場に流出する場合も無いわけではないだろう。この墨は磨ってみると純粋な油煙墨で、墨色も清澄な黒味を有している。質感から言っても、曹素功製品は間違いないと考えられる。堯千の製品は多く、時代の特定は難しいが、墨質は悪くない印象である。こういう、未仕上げでもあるいはオリジナルではないかという墨もまま目にする。
倣古墨の多くは、本来油煙である墨が松煙や油松煙、あるいは近年は粗悪なカーボンブラックが大部分を占める墨にすりかわっているパターンが多い。胡開文などは、清朝末期の混乱期に、他の墨匠の型を多く購入して倣古墨を盛んに作ったといわれている。往々にして、倣古墨はオリジナルの墨質を大きく下回っているものである。また、木型も使用する回数を重ねるにつれて摩滅してくる。特に細かい木目や側面の墨銘の磨耗は顕著である。曹素功堯千「神品」曹素功堯千の文字が筆致も忠実に盛り上がり、墨の肌に木型の木目が写し取られている。丁寧な型入れを感じさせる。墨の肌が光線の具合で白っぽく撮れてしまっているが、実物は艶のある漆黒の肌をしている。未仕上げの墨はあまり手を出したくないが、「お買い得」ということもままあるかも知れない。

墨工場の老板の話では、微細な装飾のある墨ほど、型入れに時間がかかるということである。以前に店の商品として特注した墨などは、一日に2〜3個しか作れないと言っていた。ゆっくりと時間をかけて練った墨を墨型に圧着させないと、細かい型の彫りが綺麗にとれないということだ。このときに木目までも写し取られるのである。もっとも、墨によっては後に磨きをかけて木目を目立たなくしている場合もある。
一方、普通に販売されている墨の型入れなどは、素早いものである。工場で見せてもらったが、2両型(64g)の墨を一個型入れするのに30秒とかかっていない。また量産するので木型の摩滅も早く、同じデザインで再び木型を作るそうである。
こうした量産される墨の木型は、一回一回専門の職人に依頼していてはコストも高いので、その工場では老板や技術者の手で作っている。専門の職人には及ばないが、墨銘だけの簡単な意匠の墨には充分ということだ。
現代の墨の多くが、清朝期の古墨の意匠の華麗さ、緻密さに遠く及ばないのは致し方ないことなのであろう。
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曹素功 「国寶」墨

曹素功「国寶」である。いわゆる金巻円柱墨で、柱に竜が巻きついた意匠となっている。重さは8g程度の小さな墨である。清朝時代の計量では、およそ1/4両の重さになる。
曹素功国宝曹素功国宝墨銘”国寶”を埋める藍色の顔料には、天然鉱物を磨り潰した顔料が用いられている。斜視すると、その顔料の粒子が見えるほどの細かさに破砕されており、深く彫られた墨銘を埋めて透明感のある青色をたたえている。
びんてん氏によると、康煕時代の曹素功製品には、よくこの粒子の粗い藍色が用いられているのを目にする。この墨が康煕年間における、初期曹素功の製品と考えられている理由の一つである。
清朝の曹素功の墨は、その墨銘に青色の顔料を用いることが多い。紫玉光や天瑞などがそうである。この顔料の色が、時代が下がるにつれ粒子の細かくなり、明るい青色になってゆく傾向がある。同じ鉱物を原料とする顔料であると考えられるが、細かく破砕するほど色は白っぽくなり、明るく感じられる反面、鮮やかさは低下する。明度はあがるものの、彩度は下がるのである。曹素功国宝この「国寶」墨を、適合した硯で磨墨すると、ガラス質の光沢と透明感のある磨墨面が得られる。気泡などはほとんど無い。硬質で非常に稠密な墨質といえるだろう。
曹素功国宝墨匠名にはただ「曹素功氏」とのみある。時代を康煕時代とすれば、金箔には酸化はほとんどなく、鍍金に使われている金箔の純度はかなり高いと考えられる。いわゆる「赤い」金の色であり、純度の高い金箔が出す色あいである。(純度が低い金泊は”青い”と言う表現をされる)また密閉された箱の中で長期間保存されていたとも考えられる。

十数本まとまった数で現れ、幾人かの好事家の手に渡ったが、特に”洗硯”あるいは”養硯”という作業を専らとする硯の愛好家逹には好評であった。この墨を使うと、端渓水巌の石品が美しくなるということである。特に、清朝初期の水巌である、小西洞や東洞に合う、などと言われていた。清朝の良墨にはたしかにそんな効果があり、そのための目的で清朝の銘墨を蒐集する人もいる。私の知る限りでは、清朝の古墨を躍起になって求めるのはこうした硯に癖がある人々が中心であり、彼らの間では硯材の質はもとより、墨質の論議も喧しい。
汪近聖も、もともとは曹素功の墨廠で働いていた墨匠であった。一説には、墨の配合に関わる責任者であったという。その彼も康煕末期に”鑑古斎汪近聖”として独立している。どうもその時期を境に曹素功の墨質は低下して行った、というのはびんてん氏の説である。事実、康煕時代に名声をほしいままにした芸粟斎曹素功も、乾隆時代にはその座を鑑古斎汪近聖に譲っているのである。
曹素功も汪近聖も共に徽州歙県派の墨匠であり、その名声の交代劇の裏には、どんなドラマがあったのか興味は尽きない。現代の私などの眼からすれば非常に微妙な、だが当時の文人墨客であれば明確に認識できた質の差異が、両者の間に存在したのであろう。
明代では、程君房から独立した方于魯の例がある。同郷人の両者の間には相当な確執があった事が記録に残っているが、曹氏と汪氏の場合はどうだったのであろう。
この「国寶」は、汪近聖独立以前の曹素功製品ではないかと推察されているのであるが、はっきりしたことは今もって不明である。ただ、墨質が時代が下がった曹素功製品とは明らかに一線を画することは、衆目の一致するところなのである。

こんな小さな墨では、すぐに無くなってしまう思われるかもしれないが、しかし良い墨は良い硯で磨ると無駄に摩滅しないものである。
また昔は現代のように、吸水性の高い生紙に大書していたわけではない。あくまで実用に、筆記のために使用していたのである。筆記に使用する紙というのは、適度に吸水性が調整されていている。滲まず、余計に墨を吸収するということも無かったのである。
試みに端渓水巌の上でこの墨を磨すること数分、水滴匙一杯分の墨液はたちどころに得られる。ちょっとした手紙や手慰みの画ならこれで充分描ける筈である。墨は見た目はほとんど摩滅していない。せいぜい1mmの数分の一程度減ったか減らないか。

とはいえ、やはり磨るのは惜しまれてならないものなのである。
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漱金墨について

古今の漱金3種である。
漱金右から、上海墨廠(1970年代)、?大有、曹素功堯千のそれぞれの漱金である。上海墨廠の漱金はともかく、?大有ないし曹素功堯千の漱金は清末から民国にかけての製品と考えられる。
漱金漱金上海墨廠の「漱金」は、この金箔を粉雪のように散らした華麗な意匠と、漱金の墨銘を埋める碧色の岩彩で特徴付けられる。数ある上海墨廠の製品の中でも、特に印象的な外観を持っている。
漱金「漱金」というのは元々金箔を墨に鍍金する技法のことである。金箔で全体を覆った、いわゆる「金巻」の墨を「漱金」と言ったのである。実際、清朝の「漱金」あるいは「漱金家蔵」は全体を金箔で覆っている。
この「漱金」墨に特徴的な金箔を散らした技法はいつ頃から使われ始めたのだろう?おそらくは使用する金箔の量を減らすことが出来るコストダウンの意味もあたことであろう。しかし結果的に特徴あるデザインとして近年までそのスタイルが踏襲される事となった。
漱金上の写真はT.H先生からお借りした漱金である。左は曹素功堯千、右は上海墨廠(2両型)である。この「曹素功堯千」はほぼ後の上海墨廠の製品と形状を同じくしており、恐らくは上海墨廠成立の少し前の時代の製品と考えられる。
上海墨廠でもこの技法は「漱金」にしか使われていないと記憶している。以前も述べたが、この墨の表面に金箔を散らして貼付する技法が上海墨廠が活動を辞めた後久しく失われていた。近年になって、安徽省南部のある工場がこの技法の復活に成功し、製品に用いている。とはいえ、コストのかかる方法には違いないので、あながちな墨には用いてはいないとのことである。
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曹素功徳酬 紫英

曹素功徳酬の「紫英」である。徳酬についてはびんてん氏の曹素功の三店舗に概要がある。時代は詳らかでは無いが、徳酬の活動期間が限られていることを併せて考えると清末から民国初期ぐらいではないかと考えられる。曹素功徳酬紫英この四角柱で表面に艶を出した”紫英”は近代になっても同じような意匠で繰り返しつくられているので、眼にされた事のある方も多いであろう。曹素功徳酬紫英表面の艶出しは漆ではなく、整形して乾燥してから磨いて出している艶である。
画筆と言い、画硯といい、画墨という言い方をする人がいる。絵画を描くのに特に向いた筆や墨について言われるそうなのだが、画筆以外、この言い方は私にはしっくりこない。書を書くのに適していればおのずと画にも良いものである。しかし、色々と道具を使い分けているうちに、自然と画用と書用に分かれてくるのも事実である。曹素功徳酬紫英”紫英”はどうも画を描くときに多く使うようになった。濃墨が艶良く、淡墨の伸びが良い。発色の良い紙に描くとトーンに非常に幅が出、画面に明るさが出る。濃墨が艶良く黒いというのは必須条件であるが、濃墨が良くても淡墨の伸びが良いとは限らない。和墨の油煙墨の多くがそうである。(故に日本では水墨画に松煙を使用するのではないかと考えている)
私も初歩の頃、水墨画は松煙で描くものと思っていた時期があった。松煙を使うとトーンに幅が出ていかにも水墨画らしい画面にはなる。しかし濃墨の黒さが足りず、メリハリを出せずに悩んだものである。そういった場合は濃墨の部分だけ油煙を使うなどしていた。
中国の画家の多くは水墨画にも油煙墨を使うということを知ったのはだいぶ後のことであった。また歴代の名画も多くは油煙墨を使っていることも知り、以来専ら油煙墨を使うことになった。唐墨の油煙墨は、良い紙に出会えば松煙墨を用いた場合以上のトーンの幅と色彩の変化が出る。何より濃墨の黒味が強く艶が良い。また粒子が細かいので微細な表現にも適しているのである。
曹素功徳酬紫英”紫英”は硯での磨り味は軟らかく、他の墨と一線を画する独特なものがある。似たような磨り味の墨にやはり角柱の「金不換」という墨もある。”紫英”は端渓水巌で磨った時に最も発色が良いようだ。軟らかい墨だけに、細かく磨ろうとするならやはり鋒鋩も細かいほうが良い。鋒鋩が細かすぎると膠で滑って磨れなくなる墨もあるが、この徳酬の”紫英”さすがに年数を経ているだけあって、膠がよく枯れていて粘ることはない。
この磨り味の特徴は、近代に入って造られた”紫英”にも共通しており、”紫英”特有の材料の配合や製法があることを思わせる。また墨色の傾向もかつての”紫英”に似通っているのである。ただ、近年の”紫英”は安価な墨であり、材料の質の程までは確信が持てないのであるが。
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王麗文集錦墨

びんてん氏のブログに王麗文の墨が掲載された。その中で私の旧蔵の墨である、と言ってしまっているので少し補足。かつて国内で入手したものであるが、康煕時代の集錦墨の特色が良く出ていて、期待したものである。どことなく、汪近聖の集錦墨と作風が似ている、というより当時の集錦墨とはこうしたものであったのだろう。硬く重さを感じさせる墨であった。
王麗文集錦墨表に張られている金箔の厚みが実にあつい。金箔を墨に巻きつける技法は、墨型(中国では墨模という)に金泊を貼り付けてから、練った墨をはめ込んで圧着する。この際、金泊を何枚重ねるかで効果が異なるそうだ。一枚だけでは薄くてとてもムラ無く覆うことは出来ないそうであるが、この墨には一体何層ぐらいはっているのだろうか?王麗文集錦墨いわゆる”瓦筒硯”を模した墨で「銅雀台」とある。「銅雀台」とは言うまでも無く三国魏の曹操が建設したといわれる高楼である。つまり、その銅雀台の瓦を用いて硯に仕立てました、というのがデザインの趣旨である。
瓦は焼き物であるから一面を平らに削れば、鋒鋩が立って硯として使えるのである。瓦硯などと呼ばれて、古硯でもたまに見かける硯式の一種である。
曹操は武人・政治家として優れていただけではなく、卓越した詩人でもあった。在りし日の威風を、その栄華の象徴であった銅雀台の瓦を硯に仕立てて偲ぶ、というのがこの硯の趣向である。王麗文集錦墨「銅雀台」の下に篆書で「超龍尾、騰馬肝、硬如石」とある。「龍尾」は「龍尾石」でつまり歙州硯、「馬肝」は端渓硯を意味する。銅雀台の瓦を用いた瓦硯はそれら二大名硯に勝るということをうたっている。しかし明確に銅雀台の瓦で造った硯であると分かっている硯は現存しないので、その真偽の程は不明なのであるが。
墨で硯を模するというのはなんだかおかしな気もするが、硯を模した墨というのは意外に例が多いものである。王麗文集錦墨墨の表面にうっすらと青い油膜が浮いている。ほんのわずかに試墨したのであるが、墨質・墨色はもう一つであった。恐らく油松煙だったのであろう。飾り墨に油松煙がよく使われるのは整形してからの割れが少ないからだそうだ。
この墨はどちらかといえば鑑賞目的なのか、磨って使おうという気になる墨ではなく、なにかの拍子に手放してしまった。墨を鑑賞目的に蒐集している人もいるのであるから、そういった人の手に合った方が良いだろう。
(渡った先は上海の知人であるからあまり大きな声では言えないのであるが)
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曹素功堯千「青松煙」

「鉄斎翁書画宝墨の謎」シリーズ、幸い好評をいただいているが、他人の褌で相撲をとってばかりではなんなので、たまには蔵墨箱から。気候も安定してきたので、そろそろ古墨を引っ張り出してもよいかなと思う。
曹素功堯千「青松煙」曹素功堯千「青松煙」である。箱が着いた状態で購入している。曹素功堯千「青松煙」時代ははっきりとわからないが、意匠や使われている泥金、泥銀の感じからすれば清朝末期というところだろう。この「書帯草堂」についても詳らかではない。曹素功堯千「青松煙」勿論、「青松煙」というからには、「松煙墨」なのであろう、と思って買った。曹素功堯千「青松煙」ところがである。磨って見ると、どう考えてもこれは純油煙墨なのである。磨墨した磨り口に硬質な光沢があらわれる。松煙は燃焼温度が油煙ほど高くないので、どうしても煤の粒子が大きくなる。精錬を極めても油煙のような質感にはならないものである。(もっとも明代の松煙は膠の用法によって、油煙と見紛うばかりの質感をもっていたというが)
どうも「松煙」という先入観が先にたってしまうが、どう見ても油煙墨としか思えない墨質である。あるいは混合の油松煙墨なのか?松煙墨としたら、この滑らかさは清朝の墨ではちょっと例を見ない。
あるいは松脂を燃やした松煙があると聞いたがそれなのか?とも考えてしまう。松脂を焼成した松煙は燃焼温度が高く、細かい松煙の煤が出来ると聞いたことがある。最も、確実に松脂から採取した煤で造られたという墨に出会ったことはないが。(ありえない話ではないと思うが)
明代以前は松煙の方が主流で、油煙墨は明代も後半になってから流行したと言われている。もっとも油煙墨が唐や宋の時代に無いわけではなかった。「松煙墨」の名残が墨の名称に残っている例は多い。
「松滋侯」「古松心」「松心」「玄松脂」「蒼松万古」などなど。このなかで「古松心」という名で油煙墨を見たことがある。あるいは「松」の一字にはこだわらないのか。
しかしさすがに「青松煙」と銘打っておいて油煙なのか......なんとも困惑を覚えるネーミングなのである。
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【再掲】 徽歙曹素功 紫陽書院墨

徽歙曹素功「紫陽書院墨」である。時代は詳らかではないが、清朝は間違いないと思いたいところ。
紫陽書院墨紫陽書院墨墨銘として「紫陽書院墨」その裏に「御書」「学達性天」とある。側面には「徽歙曹素功監製」と明記してある。紫陽書院墨紫陽書院墨先輩の濱田翁がこの墨を見て「紫陽書院とは、徽州の子弟の私塾」と教えてくれたが、その「紫陽書院」についてはしばらく情報はなかった。その後、江西省ブ源県へ行く機会があった。江西省博物館が新設されており、立ち寄ったのだが、そこに「紫陽書院」について多少の手がかりとなる資料が展示されていた。紫陽書院全図(クリックで拡大)「紫陽書院」というのは、地元の名士、郷紳等が出資した学校、私塾で、歙県やここブ源に同名の学校があったようである。
図には「咸豊の兵火で焼かれ...」とあるが、この咸豊の兵火というのは徽州全体を襲った太平天国の兵火であろう
徽州は、「徽商」と呼ばれる商人が中国全土で活動し、塩と茶を主力としたその経済活動によって蓄積された富は、建築や彫刻、製墨業などの文化事業へも投資されたのである。また教育にも熱心な土地柄で、清朝においても多数の挙人(科挙合格者)を輩出している。
おもそらくこの墨は、その私塾とかかわりがあるのだろう。まさかこの墨を、子供達が普段の学習用に使っていたとは考えにくい。そう思わせるほどの上々な墨質である。またわざわざ双竜をアシライ、”御書”とあるだけに、褒賞の品か記念品だったのではなかろうか?
このような学習機関出身の子弟達は、晴れて科挙に合格し、官僚となるべく都へ上る際に、きっと精良な徽墨、宣紙、歙州硯を携えて行ったに違いない。それが都での徽州の文房四宝の名声を一層高めたことは想像に難くない。

【追記】
その後、濱田翁からメールで下記のようなことを教えてくれた。「宋代からある学校のようですし、汪近聖への注文主の多くがここに集っていたり、汪近聖の孫なども通っていたところですので、相当有名なところなんでしょう。ちなみに、墨にかかれている「学達性天」は、康煕三十二年、国子祭酒呉公苑が疏請して康熙帝書いてもらった扁額で、大堂の額になっていたようです。」
このことは「歙事閑譚」(李明回 彭超 張愛琴 校正 黄山書社)に記載されているという。「歙事閑譚」は小生も持っているが、存在をすっかり忘れていた。
さっそく引っ張り出して調べると「紫陽書院志」なる項がある。そもそも「紫陽書院志」という書籍が存在し、これに宋代からなる紫陽書院の歴史が詳細に書かれているということである。「紫陽書院志」を一部引用した「歙事閑譚」の記載内容も相当多いからここではいちいち述べないが、「竹波先生」こと汪近聖の曾孫の汪天鳳の記載も引用されている。彼もここで学んだのだろう。他のページにも「紫陽同門」というような表現が使われている。この地の知識人階級富豪の子弟みなここで科挙に挑む勉学に励んだようだ。
別の箇所の記載で「清代歙京官及科第」とある。それによれば、歙県では清朝期に大学士4名、尚書7名、待朗21名、都察院都御史7名、内閣学士15名の高官を輩出し、成績では状元(首席)5名、傍眼2名、武傍眼1名、探花8名、会元3名、解元13名、伝(月+盧)5名とある。進士はのべ296名、挙人にいたっては千名近くに上っている。
その多くが、この「紫陽書院」で学んだものたちなのである。
徽州は徽商が活躍した江南でも特筆すべき富強の地であり、あまり裕福で無い家庭の子に奨学金を与えて学ばせる制度があった。中央に地元の人材を送り込めるかどうかというのは、地方にとってはまさに死活問題であったからである。及第の可能性がある者であれば、その同族の富家が援助した例もおおく、こういった学校も冨商の援助によって成り立っていたのである。
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胡開文 耕織図墨

胡開文の耕織図墨である。耕織図墨といっても、図柄から判断しただけのことで、墨銘などは明記されていない。しかしながら、種をまき、糸をつむぎ、機を織る、といった一連の光景が絵柄から読み取れる。これは「耕織図」と呼ぶほかない。
「耕織図」は農作業と農民の勤労を象徴的にあらわすモチーフとして、中国の歴史上、詩や絵画に繰り返し用いられてきている。
清朝に入って有名なのは乾隆御墨の「御製耕織図集錦墨」である。この華麗な16笏のセット墨は現在北京故宮博物院に収蔵されている。康熙帝から乾隆帝にいたる期間でいかにこの「耕織図」が重視されたか、詳しい解説はここで書かないが、ただ清朝初期〜中期の農業重視政策の思想が墨の図柄にも大きな影響を与えていることを示すにとどめる。
胡開文耕織図墨四角柱で四面にそれぞれ詩文と絵柄が表裏で対になって描かれている。「胡開文督製」「蒼風氏倣古」とある。このように堂々と「倣古」とうたっているのは、文字通り「古に倣う」という意味で、伝統的な製法にのっとって作っている、という意味をこめている。「蒼珮」とは胡開文の別称蒼珮室を指す。
胡開文耕織図墨胡開文耕織図墨胡開文耕織図墨写真ではわかりにくいが、絵柄の人物に2色の泥金を使い、人物の帯や襟も藍と緑の岩彩で埋めている。胡開文の墨は比較的多く目にするが、こういった技法の墨は胡開文の製品として類例がみあたらない。この墨に関しては、時代は明確に特定できない。造作からみて清末より下ることはあるまいと思われる。
何か情報があればお教え願いたい。
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