文房での七夕の過ごし方

七夕である。残念ながら近畿地方はこのところ雨天がつづき、天の川は拝めそうに無いのである。自然光が得られないので、資料や商品の写真撮影にも難儀する。
さて七夕にまつわる説話であるが、子供の頃にさんざん聞かされたストーリーがいくつかあったかと思われる。どのような話が印象に残っているであろうか?中国では、以下の日本の羽衣伝説と似たような説話が一般に知られているようである。

牛飼いの青年が、牛に水を飲ませようと川岸に降りると、木立に沢山の薄絹の裳裾(もすそ)がかかっていた。水辺では十数人の天女が水浴びをしていたのである。牛飼いは裳裾、すなわち天衣の一揃えを隠してしまう。人の気配に気づいた天女達は驚き、急いで天衣をまとって飛翔して天に逃れる。ところが天衣を隠された一人だけは、逃げることが出来ない。そこで牛飼いは天女に求婚し、天女は受け入れて仲良く一緒に暮らすのである。それを知った天帝が激怒し、二人を引き離して天河で間をさえぎる云々という話。
江南を旅していると、水郷の農村地帯に水牛は普通に放し飼いにされているし、牛を使う男性の姿もよく眼にする。また、手わざで機織をしている女性はさすがにいないが、江南とくに浙江省は現在でも生糸の生産が盛んな地域である。水牛を遊ばせる男この地方の農村の女性達は、昔は春から蚕を育てて秋に生糸を採取し、冬場の屋内で機を織る。冬に間に仕上がった絹布はもちろん自分で使うのではなく、翌年の春先に売って現金収入にするのである。農閑期の労働であり、端境期の貴重な現金収入となる。
これが少し都会になると、色糸を買って刺繍をしたり、布を買って縫製を行ったりするのである。出来上がった刺繍や衣服、靴や帽子は、これももちろん貴重な家計の収入になる。機織であったり、刺繍であたり、縫製であったりするが、つまりは家内制手工業による繊維産業である。
日本では織姫というから「姫」であって高貴なイメージがあるし、「彦星」の「彦」は男子の尊称である。しかし織姫も彦星も、実際は農村のありふれた若い男女の一組であったのだろうな、という想像が沸く。高貴なイメージは薄れてしまうが、そのぶん庶民的な親しみも増そうというものである。牛飼いの青年が、牛を追って川岸へ降りることもあったであろうし、農村の若い女性が河で洗濯ついでに沐浴していたということも、ままありそうなことである。(写真は大根を洗っているところであるが...)水辺で大根を洗う河を挟んだ両岸の村で交流もあったであろうし、雨季の増水で往来が出来ない時期もあったことだろう。

紀元前の昔は、中国の華北一帯も緑豊かで養蚕も盛んであったようだが、その後人口の増加と共に砂漠化が進行し、繊維産業の中心は黄河以南から、さらに長江以南へシフトして行く。
三世紀に生きた魏の曹操は臨終に及び、残される一族の女性に靴を作る技術を学ばせ、それで生計を立てろと遺言している。靴には当然刺繍をするのである。
またはるかに下って十七世紀、清朝初期の蘇州を舞台に、窮迫した読書人の生活を綴った自伝的小説の「浮生六記」では、逼迫した家計を刺繍の腕前でもって助ける妻陳氏の姿が描かれている。陳氏は若い頃に刺繍を習い、その同窓の女性と義姉妹の盟を結んだという話がある。また陳氏は体を壊してからも、家計の為に納期が短く難度の高い刺繍を引き受ける。これがさらに彼女の寿命を縮めてしまうのである。
蘇州の刺繍は「蘇繍」と呼ばれことのほか名高いが、それをささえたのが、こういった家庭の女性たちの仕事であった。また江南や四川の女性の「手に職」の最たるものが、機織や刺繍などの技術だったともいえる。
後藤朝太郎の話では、大正時代に徽州を訪れた際に、女性達を顕彰した牌坊を多く眼にしたという。残念ながら小生はまだそのような牌坊を眼にしていない。が、清朝期だけでも、表彰された女性は6万人あまりもいたという。ただし牌坊に名を刻まれた女性は、士大夫、読書人階級の出身に限られていたということだ。
その多くは、夫が死別した後も再婚しないで子供を育てあげた女性達であり、彼女たちを「貞女賢母」として表彰しているのである。そういった封建社会の価値観はともかくとして、別の見方をすれば「女手一つ」で、子弟を育てるだけの産業があったということである。周カク「仕女図」(蘇州博物館蔵)しかも、この場合の「子育て」というのは、男子なら教育を受けさせ、女子には持参金をつけて嫁がせないといけない。大変なことである。ある程度の身分をもった女性たちであるから、当然足は纏足されていて、重労働など出来たものではない。となれば、椅子に座って手を動かすことで出来る刺繍などは、格好の仕事ということになる。世世、服飾の需要が絶えるということはない。
女性達に犠牲を強いた旧社会の構造を賛美しているのではもちろんないが、現在見られる古代の刺繍の多様な工夫や美しさをみるに、日々の労働の中にも楽しみや喜びがあったと、思いたいものである。生地を売る店七夕にちなむ説話の別のパターンでは、天帝が職務に励む織姫を不憫に思って牛郎に嫁がせる話である。ところが織姫が下界で機織を怠けるようになったことに天帝が怒り、これもまた夫婦の仲を裂く。
主人すなわち天帝は、嫁がせるにあたって「機織(はたおり)に励め」という訓戒をたれたことになっており、織姫がそれを破ったことに腹を立てるのであるが、この訓戒というのは昔の中国の一般家庭の女性の勤めを怠るな、くらいの意味であったのだろう。
パールバックの「大地」では、主人公の農村の男は屋敷から閑を出された女中を貰い受けて妻とする話から始まる。美しくは無いが、器用で働き者のこの妻のおかげで男の家は大いに栄えるのである。また「紅楼夢」でも、女中達がある程度の年齢になると、主人は屋敷の男性の使用人と娶わせる算段をするのであり、何人かの女中がそのようにして整理されてしまう。幼い頃から主人に仕えた女性にとって、ある程度の年齢になった場合の身の振り方は、主人が決めてやらねばならないものであろう。紫微星歌他にも、機織が上手で美しい娘に、牛飼いの他にも権門の男や金持ちの男が求愛する話が記憶にある。機織の娘は貧しいが誠実な牛飼いを選ぶ、という結末だが、子供の頃に聞かされた話では、男達は皆まっとうな求婚をしていることになっていたと記憶している。が、働き者だが貧しい家の出の娘が権門富豪の家に入る場合、まあ大体は“妾”として入るのである。ここは子供向けの話としてぼかされていたのだろう。しかし機織の娘は、貧しくとも誠実でつりあう相手と、まっとうな婚姻を結びたいという気持ちの方が強かったといことになる。それが当時の話の人情としても、しっくりゆくということなのだろう。
この意識の凄まじさというのも、現代の日本人にはわかりにくいかもしれない。パールバックの「大地」には、貧しい農民である主人公に嫁いだ女が長子を出産し、屋敷の元主人に披露目にあがる場面がある。手製の刺繍で赤子を飾り、正月の祝菓子を作る。入念に準備し、自分が昔虐げられた屋敷に上がる女の姿には、たとえ貧しい男に嫁いだとしても、一家の跡取りを生んだ誇りが滲み出ている。
武侠小説の大家である金傭は、作品「連城訣」の後書きで、子供時代に面倒を見てくれた体の不自由な老人について語っている。この老人は若い頃に富家の陰謀で冤罪に落とされ体を損ない、隣家の許婚をその富家の妾に奪われたのである。彼を金傭の両親が救い出して家で使っていたが、丁寧な態度で接し、下等な用向きはさせなかったという。また巴金の「家」(岩波文庫で読める)には、清朝末期の成都の富家の女中が他家に妾に売られる悲哀が描かれている。ともかく、妾と言えば普通は女中として買った娘か、妓女を見請けするものであったようだ。なのでこの金傭の昔話や、あるいは「金瓶梅」の西門慶のように、他家の許婚や妻を陰謀で力ずくに妾に入れるのは、やはり人道上は非難されることなのであったろう。
妾が、当時の中国の家庭にとってどういう存在であったか?というのは、現代の小生などからは、実にはかり難いところがある。もちろん、正妻に嫉視されて苛められることもあったであろうし、逆に夫に取り入って正妻の座を奪うとか、派閥を作って抗争するなどもあっただろう。
ただ、必ずしも正妻にとって目障りな存在であったわけではなく、仲良くしていた場合もあったのであり、またそのように家庭を納めるめるのが正妻の手腕であったという。むしろある程度の家庭では、夫に妾を勧めるのは、正妻の勤めであるとされていた。正妻との間に子が無い場合は特にそうだが、そうでなくても夫に妾を持たせる場合は多々あったようである。
「紅楼夢」で屋敷の女主人格の王煕鳳は、腹心の侍女の平児を勧めて夫の妾にしてしまう。まあ、他に煕鳳の思惑があってのことなのであるが、この煕鳳などは、大都会の並ぶものなき権門富豪の家庭の場合である。
しかし前述の「浮生六記」を読むと、貧しいにもかかわらず、愛妻の陳氏が積極的に自分が気に入った妓女を妾にしたいと奔走する話がある。陳氏は一男一女を生んでいるから、子孫を残すためではない。結局陳氏が見初めて義姉妹の盟をした妓女は、他家に身請けされてしまうのであるが、これを陳氏は随分と気に病み、心身を損ねてしまうほどであった...........この近代以前の中国の「家庭の事情」というのは、現代の、しかも日本人の価値観でもって一概に是非を問えるものでもないところであろう。

それはさておき、妾どころか独り身の読書人の場合はいかに過ごすべきであろうか?ひとつには「晒書」という習俗がある。
もともとは漢代から三国魏晋の時代の「晒衣」という衣服を虫干しする習慣が先にあったという。七夕になると、富豪の家々は家蔵の衣装を日に晒(さら)して「晒衣」し、富強を誇示して競い合い、城内はその衣装の色彩で大いに華やいだということである。衣服の豪華さ、数が富力を測る一つの指標足りえたということでもある。
三国時代の「竹林の七賢」の1人の阮咸は、七夕の「晒衣」で賑わう城内で、独り竹ざおに破れたボロ服をひっかけて悠然と歩いていたというから、これもその変人ぶりがうかがえようというもの。
ともあれ、「晒書」というと、書物の他に晒すような豪華な衣服も持ち合わせない、(必ずしも独り身ではないが)つつましい読書人の生活をにおわせるのである......というと、なんだかすごく侘(わび)しい過ごし方に思えるが、「三国志演義」にあの司馬懿の「晒書」のエピソードがある。

曹操は老境に入って日増しに猜疑心が強くなる。死後に子孫を脅かす者は排除しなくてはならないのである。そこで華々しい戦果を挙げ、高い官位と兵権を握る司馬懿にまず猜疑の目を向ける。しかしさすがに司馬懿である。それと察して先手を打って病と称して官を辞し、故郷に隠棲してしまう。とはいえ曹操も老奸雄、その程度では疑いを晴らさない。密偵を派遣し、司馬懿の様子を探らせる。
明くる年の七夕に、司馬懿は自宅で蔵書を日に充てて「晒書」、すなわち土用の本の虫干しを行う(三国時代の書物は多く木簡か巻物であった。紙による書籍の出版が盛んになるのは宋代を待たなければならないが、「三国志演義」は明代に成立した小説である)。
その報告を聞いた曹操は早速「急ぎ司馬懿を召し出せ。病と称して随わないなら即刻捕らえよ。」と命じるのである。司馬懿は即座に応じて事なきを得る。もし応じなければ、お前はのうのうと”晒書”していたじゃないか、ということで病が嘘ということになり、嫌疑をかけられるところである。
この場合、「晒書」というのが微妙なところで、ここで派手に「晒衣」をしていれば、それはそれで財貨を溜め込んでと、様々な言いがかりが出来たところである。召還に応じてから「汝は今年の七夕に“晒書”をしていたそうだな?」と曹操に聞かれれば、「ええ、少しは具合が良くなりましたもので。」と応じれば良い。病み上がりとはいえ、読書人のつとめとして「晒書」くらいはしていました、というところで言い逃れを図れるのである。
また曹操も隠棲しても読書を忘れない司馬懿の見識や才能を思い出し、再び任用する気が起きたのかもしれない。このことから「晒書」というと、腹蔵に才識を有して雌伏している、という意味に用いられるのである。
(以上はあくまで三国志演義の話で、実際は司馬懿が大いに活躍するのは曹操の死後である。)

ということで、七夕の今夜が雨模様であっても、天上の逢瀬に思いを馳せるようなことは巷の若者達に任せ、小生如きは我が文房(=書斎)で本が虫干しできないのを惜しんでいようか。と、うそぶいたところで、もとより腹中に蔵して晒すほどの才学は、いかほどもないのではあるのだが。
落款印01

”県”と”鎮”と”村”と

話が文房四寶からだいぶはなれてしまっているようであるけれど、徽州の地が生んだ文房四寶、特に墨を考える上で、この地域の特色や歴史を知る必要を考えている。現代人の感覚、まして現代日本の感覚で考えてしまうと、何もわからなくなってしまうように思えるのである。以下はその一環として。

中国の地名に”鎮”という単位が出てくる。徽州でいえば、呈坎鎮や、岩寺鎮などである。鎮は、現在の中国の行政単位では、県の管轄下にある。村は鎮の下位の行政単位である。なので「安徽省歙県岩寺鎮信行村」というようになる。
徽州の農村風景徽州の農村風景
”鎮”はなかなか訳し難い。多くは大都市から離れた農村地帯に存在するので、そこに住む人々を”村人”と訳しているが、日本にあるような”村”や”農村”とは少し違った雰囲気である。規模的にも、その機能についても”村”というよりは”街”に近い集落といえる。一方の中国の”村”は、日本における農村と似たような、開けた雰囲気である。
徽州の農村風景徽州の農村風景
”鎮”という言葉には、明治初期に日本でも軍隊のことを”鎮台”といったように、人間が住む集落であると同時に、軍事単位というニュアンスがある。実際に、明代、清朝の軍制における部隊の単位でもあった。また部隊単位という意味もあるが、軍事拠点という意味合いも有る。
そもそも”戸籍”を調査するのは、その国の動員兵力を算出するのが目的であった。古代中国の兵制と日常生活は密接に結びついていたのである。
呈坎鎮呈坎鎮
呈坎鎮などは、山間のいかにも要害の地に築かれている。池や川を周囲にめぐらし、高い外壁で覆われた姿は、中世の欧州にもみられる城塞都市のようである。
鎮もそうだが、県も、”県城”といって、外壁や城門を持っていた。もちろん、北京や南京、上海も”都城”といわれ、高く厚い外壁や城門をもった城塞都市であった。
近代になってから、都市の発展を妨げると言うことで、大都市の防御施設は大半が取り壊されしまった。今ではモニュメント的な城門の墟や、市内の地名にその名残が見られる程度である。以下の写真は休寧県市街。
徽州休寧県徽州休寧県
しかし、徽州の歙県や休寧県、あるいは績渓県にゆくと、城壁こそないものの、城郭の名残を感じさせる遺構を目にする。そもそも街が築かれている地形が、防御に適しているのである。
徽州に鎮を築いた祖先たちは、北方の戦乱を逃れてこの地にやってきている。水利に開けた耕作に便利な土地が、先住民に支配されていたということもあるかもしれない。しかし北方からの移民の多くが要害の地に集落を築いていったのは、中原の戦乱から学んだ教訓が生かされていたのかもしれない。

徽州で”鎮”に区分される集落は城砦のような雰囲気があるが、”村”というと、田園に開けた集落といった印象がある。いざ戦乱や匪賊の襲来を受けたときには、村人も”鎮”に逃げ込んだのではないだろうか。なんとなく、村が行政区分として”鎮”の管轄にあるというのが、その名残のように感じられる。
人々の生活上の集まりが同時に軍事上の拠点でもあり、戦時の部隊単位であるということは、中国の古代社会がどのように組織されていたかを理解するうえで重要である。時代によって多少のアレンジが加えられたとしても、生活をともにする人々が一致して戦う、というスタイルに変化はない。
同じ”鎮”に住む人々の大半が同性の宗族で構成され、となりの鎮ごとに互いに通じないほどの口語方言が存在しているのである。戦場では、同じ言葉を話す集団で部隊が構成されるのは、当然必要なことであっただろう。
日本でも旧日本軍の軍制は、各都道府県毎に師団や連隊が置かれていたと思う。各国の軍隊でも、市民社会が国民軍を持つようになると、部隊編成に地域性が反映されることは、少なくなって行ったに違いない。
徽州休寧県徽州休寧県
そして現代中国においても、”鎮”はさらに大きな”県”の管轄にある。日本のように、県の下に独立した市町村が存在するのではないというのが面白い。”県”の上に”省”があり、”省”には”省都”がある。無論そのうえには国家があるというわけである。現代中国の中央集権の権力構造を濃厚に感じると同時に、それが古代中国の行政組織の上に築かれているのを、まざまざと見る思いがするのである。
その古代中国の行政組織を支えたのが、官僚士大夫達であり、墨や硯などは、まずはそういった人々の用に供されるものであったことは、忘れてはならないだろう。
落款印01

中国の景気に関する雑感

中国の景気は良いらしい。専門のアナリストの分析結果を聞いたわけではないなく、現地の知人友人の率直な印象を聞いた限りにおいてであるが。
マクロ指標が好況を示していても、まったく好景気の実感がなかったここ数年の日本と違い、一般人の口からも景気が良いことが伝わってくる。現在の中国の高い成長率の維持というのは、誇張があるかもしれないが、すくなくとも嘘ではないようだ。
黄山市の朋友が、店舗物件を購入したそうだ。ただ特に何か商売を始めるということは、今のところは考えていなくて、投資目的が半分だと言っていた。上海市内に住む朋友達も、住んでいる家の値段が上がっているといっている。不動産価格も、再び上昇傾向にある。
現在の中国の好景気を牽引しているのは、金融危機に見舞われた外資ではないそうだ。内陸における大規模な公共事業による、内需の創出にあるという。このあたりは、日本の高度経済成長の時期と同じところであろう。ただし、そういった公共事業は、すべて国営企業が請け負うため、当然のことながら国営企業が潤うことになる。日本の公共事業の場合は、民間の建設会社が施工を行うが、中国の場合はほぼ国営企業で占められているという。
日本の場合も、公共事業の下請けを行う業者というのは、なかば国営企業のようなもので、癒着体質を生むなどの弊害があった。とはいえ、国に守られた国営企業と民間企業では、その存立基盤がまったく異なる。絶対に倒産しない会社と、そうでない会社との違いは大きい。
日本でも国営企業は「親方日の丸」と呼ばれ、その厚遇が批判され、民営化の道を辿ってきた。さしずめ中国では「親方赤旗」が全盛というところであろう。この中国の国営企業群が経済全体に占める割合は、かつての日本と比べて非常に大きいといえるだろう。改革開放経済で民営化が進んだように思われるが、インフラやエネルギー事業に関する大企業は、すべて国営である。
鉄道や道路建設などの土木事業は、専門教育を受けていない肉体労働者の雇用を生み出す一方で、大卒者の雇用が伸び悩んでいるという。
また、国営と民営での収入の格差も大きい。国営企業によっては、新卒であっても月収が1万元を超え、2万元も珍しくない一方、普通の民間企業では高くても2000元〜3000元どまりという格差を生み出している。民間企業の従業員より、国営企業の従業員の方が、はるかに給与が高いのである。国営企業への就職は、学歴よりも親の人脈がモノを言うそうだ。そのあたりの事情は何をかいわんやであるが。
日本などは、経済成長とともに第3次産業が発達し、増える大卒の雇用を吸収してきたが、中国においては、第3次産業は外資系が強く、国内で起業した民間企業がなかなか成長しないという。また、日本や韓国では、高度経済成長下において、様々な分野で世界的な大企業が生まれたが、中国ではそういった民間の大企業が育っていない。
一昔前は、外資系企業で働くことが憧れであり、国営企業は人気がなかったそうだが、いまやその地位は逆転しているという。外資系企業はリスクが大きくなれば、撤退するのも早い。昨今は、安定した就職先とは言い切れない事情がある。

というような事を、黄山市から上海へ向かうバスの中で、経済学を専攻したという江さんと話していた。今年15歳になる息子の将来について、江さんもあれこれと考えている。
小生は「いっそ筆職人になったら?」と言ってみた。
いま若い人が筆作りの勉強を始めたら、素質があれば将来間違いなく中国でNo.1の筆職人になれるであろう。何をやったとしても、なかなか中国で一番になるのは難しいが、筆職人なら今は可能性はかなり高いのではないか。また、現在は低い筆職人の収入であるが、いずれは稀少価値が出て、上がることは間違いない。
というような事を話したら、江さんはかなり真剣に「うん、いいかもしれない。姪も一緒に筆職人にして、老後は空気の綺麗な田舎で暮らそうかな。」と言い出した。
小生は少し慌てて「本人にその気があったら、ですよ。」と言っておいたが。一度一緒に職人さんのところへ行くのも悪くないかもしれない。中国では大学を出ても、なかなか就職先が見つからないという。皆、大卒はエリートというイメージがあり、ホワイトカラーの職種にあこがれるそうだが、現実は厳しいようだ。
少し目先を変えて、伝統工芸の世界に身を投じる若者が出てこないものだろうか。2000年の歴史を持つ、中国の製筆業の技と伝統を一身に背負うというのも、やりがいのある仕事に違いないと思うのであるが。ほんの2〜3人、そういった人が出てくるだけで、伝統の継承はなされるものなのである。もしそのような若者がいれば、応援してあげたいものだ。
落款印01

清時代の書の学習について 〜紅楼夢の一場面より 

紅楼夢の第七十回「林黛玉重建桃花社 史湘云偶填柳絮詞」に、賈宝玉が書写の練習を行うシーンがある。登場人物一人一人についての詳しい解説や全文引用は別所に譲りたい。ここでは要所を抜き出して拙訳を添え、その学書がどのようなものであったか、また小説中での意味などを考えてみたい。

いつも遊んでばかりいて、勉強を怠けている主人公の賈宝玉に、侍女の襲人が勉強するように諭す。ひとつには、宝玉の父親の賈政が帰ってきたとき、宝玉が勉強をしていないことが発覚すると、宝玉が手ひどい折檻を受け、そのため家中が大変な騒動になるからかもしれない。(宝玉が息絶え絶えになるまで折檻されるのは、また別の回にみられる)
襲人は言う、
『[イ尓]昨儿不在家,我就拿出来共算,数了一数,才有五六十篇. 這三四年的工夫,難道只有這几張字不成.依我説,从明日起,把別的心全収了起来,天天快臨几張字補上』
(抄訳:昨日、あなたが家に居ないときに、私はどれくらい字を練習していたか、数えてみました。するとほんの50〜60篇ばかりしかありません。この3〜4年のお勉強がこれだけしかないと、字の勉強をしたとはいえませんね。私の言うことにしたがって、明日起きたら、心を入れ替えて集中し、毎日急いで机に向かって字の練習をして、これを補うようにしてください)
「五六十篇」ということからわかるように、この当時は、ひとまとまりの法帖の一篇を一通り臨書した回数を、学書の回数としてカウントしていたようだ。3〜4年でこの程度の回数であるから、おそらくは一ヶ月に1篇がせいぜいの練習量だったのだろう。歴とした大貴族の子弟としては、ちょっと少なすぎる量かもしれない。(もっともそれでも宝玉は、これでなかなかの能書家と思われる描写も、小説中には見られるのであるが)

襲人に説教されて宝玉は早速、
『至次日起来梳洗了,便在窓下研墨,恭楷臨帖』(次の日の朝、起きて洗面を済ませると、すぐに窓の下に硯と墨を用意し、熱心に法帖に向かって楷書の臨書をするのでした。)
一般に、書写の練習は朝が良いとされる。書斎の机というのは、かならず窓に向かって置かれる。朝日が窓から差し込む時刻に、明るい机に向かって書写をするのである。いわゆる「明窓浄机」である。この学習が夜まで続くと「蛍の光、窓の雪」ということになる。いずれも、窓からもれてくる光をたよりに勉強するということになる。
一方、同じ屋敷に住んでいる宝玉の女友達である林黛玉は、宝玉の父親の賈政が家に戻れば、かならず宝玉の勉強の進捗を訊ねると考え、宝玉の勉強の邪魔をしないように、遊びや詩文の会へ誘うのを控える。
また.宝玉の姉の探春と従姉の宝釵の二人は、
『毎日也臨一篇楷書字與宝玉』
(毎日楷書を一篇臨書し、宝玉へ送って寄こしす)。つまり、宝玉一人では、とても追いつかないであろうとおもって、二人で毎日一篇の楷書の臨書を行い、それを宝玉に送って練習した回数に加えろというのである。
宝玉も『宝玉自己毎日也加工,或写二百三百不拘』(宝玉自信も、毎日勉強し、あるいは書写をして、二百〜三百字ほど書いた)ということである。
さらには林黛玉付きの侍女である紫鵑が訪れて、
『送了一卷東西與宝玉,拆開看時,却是一色老油竹紙上臨的鍾王蝿頭小楷,字迹且與自己十分相似』
(一巻の書巻を送って寄こしたが、折り開いてこれを見ると、これは一色の油を敷いた古い竹紙に、鐘・王の蝿の頭ほどの小楷を臨書してあり、筆跡も宝玉に似せているのであった)
ここでは、手本が明記されている。鐘・王は、無論のこと鐘(しょうよう)と王羲之である。「蝿の頭ほどの小楷」ということは、鐘の「宣示表」と王羲之の「楽毅論」であろう。後世、どちらもその真跡であるかどうかは疑問がもたれているが、三国〜晋時代の小楷の代表作として、古来重んじられてきている。
竹紙に油をしいて滲みを止め、透明にした紙は、蝋箋と同じく墨が滲まず、非常に滑らかでまったく筆を取られることがない。精密な運筆が必要な小楷には好適の紙であった。
竹紙は、宋代より杭州の「由拳紙」や蘇州の「春膏箋」が名高いが、ここでは何を用いたか。ただし、油気があるため、墨の用法には気をつけなくてはならない。油紙だけに水を弾くため、墨液が薄く、膠が弱ければ紙に墨が乗らないのである。
蝋箋や油紙はまた、透明であるため、「模」、つまり敷き写しにも適している。油紙であるだけに墨液を通さないため、手本の法帖の上に敷いて写し取るのである。「模」といえば、敷き写しであり、「臨」といえば臨書である。二つはあわせて「臨模」といわれ、書の学習に欠かせない方法であった。ここでは「臨」と言い、宝玉の筆跡にまねているので、敷き写しをしたわけではないだろう。
また史湘云と宝琴の二人は、
『皆臨了几篇相送』
((一篇を)皆臨したものを数編を送って寄こす)
「皆臨了」つまり、手本は不明であるが、二人してある法帖の全臨を何篇か書いて、これも宝玉に送るのである。
男子が学書において小楷を専らとするのは、もちろん科挙に応じるための基礎訓練である。しかし公爵家の跡取りの宝玉はともかく、その姉妹従姉妹達や侍女達まで、宝玉の代作がつとまる程度(あるいはそれ以上に)に書写に通じているのであった。皆、15歳の宝玉を中心として、ひとつかふたつ年上か年下の少女達である。現代からみれば、ずいぶんと教養の水準が高いように思えるが、あるいはこれが当時の良家の子女の一般的な教育水準であったのだろうか。

気になるのは黛玉付きの侍女である紫鵑が送ってきた(黛玉が書いた)巻子の時のみ、「鐘・王」と、手本にしている法帖(拓本であろうが)が記述されている点である。また他の侍女や姉妹たちが単に「臨」といって、臨書練習したものを送って寄こしているのに、黛玉の場合のみ、使用されている紙や表具などが細かく描写され、ひとつの作品として完成された巻子を送ってきている。
黛玉以外の他の女性達が「臨書」しているのは、おそらくは、科挙に挑む男子の学習にふさわしく、官僚書体の「館閣体」に近い、端整な楷書体の手本であったのかもしれない。対して黛玉が書いた鐘や王羲之の時代、三国〜晋時代の楷書といえば、隷書から楷書に向かう過渡期の楷書体である。その書としての鑑賞価値は高いとはいえ、官僚を目指す男子が学ぶ書体としては、やや趣味に傾いていると言えるかもしれない。

ひとつには、ヒロイン林黛玉の負けず嫌いの性格の一端が、現れているとも考えられる。さらに、手習いの束の上にこの巻子が一幅あることで、ただ受験勉強のための書写を繰り返していたわけではないということを、宝玉の父親に示す効果も計算していたのかもしれない。「十分相似」と宝玉の筆跡を真似て書けたというのも、林黛玉が取っておいた宝玉からの書簡を、つぶさに見た上でのことだろう。
いずれにせよ、黛玉の聡明さと、宝玉への心づかい、そして想いの深さを感じさせる場面である。
紅楼夢を未読の方もおられると思うので、あまり詳しい人間関係や人物紹介を、ここで言ってしまうのははばかられる。ただ、数多い人物の中で、ある人の性格を際立たせたいとき、その人物に他と違った行動をとらせるというのは、紅楼夢では随所に見られる手法である。
作者の曹雪芹、宮廷画家にとの推薦もあったほど、書画に通じていた人物である。その造詣の深さを思わせる描写は他にもあるが、加えて文房具や書画にまつわる小道具の、小説中での用い方が上手い。
また、科挙は庶民貴族に係らず、一律の試験が課せられる。宝玉は大貴族の家庭に生まれたが、その学習の方法も一般の読書人階級の子弟と大差はないであろう。当時の書写の学習がどのようなものであったか、紅楼夢の一場面からその一端が伺えるとしても、あながち言い過ぎともいえないだろう。
とはいえ、怠けた勉強の帳尻あわせを、女の子達にしてもらうというのは、ちょっとないかもしれないが。
落款印01

「惜墨如金」 〜梅蘭芳「業余愛好」より

梅蘭芳はその自叙伝、「業余愛好」(仕事の合間の楽しみ)で、斉白石に画の手ほどきを受けたときの思い出を書き綴っている。梅蘭芳が書き残した斉白石の作画の様子を、もうすこし詳しく紹介したい。前回紹介した、梅蘭芳の家にはじめて斉白石が訪れた時の模様を、「業余愛好」から抜粋して拙訳を添える。

「這時候,白石先生坐在画案正面的座位上,我坐在他的対面,我手里磨墨,口里和他談話。等到磨墨已濃,我找出一張旧紙,裁成几開冊頁,鋪在他面前,他眼睛対着白紙沈思了一下梅蘭芳所絵扇面,就从筆海内挑出両支画筆,在筆洗里軽軽一刷,焦上墨,就開始画草虫。他的小虫画得那様細致生動,倣佛蠕蠕地要爬出紙外的様子。」
『斉白石氏は、作画机の正面に座り、私は氏の正面に座った。私は手でもって墨を磨りながら、斉白石氏と談話を交わしていた。磨った墨が充分に濃くなると、私は一枚の古い紙を出した。そして画冊の見開きになる大きさに紙を裁断し、白石氏の前に敷き広げた。白石氏の瞳は紙面にひきつけられ、しばらく沈思したのち、筆筒から二本の画筆を取り出した。筆で筆洗の水面を軽く触れ(て水を取り)、さらに墨を少し筆先に着けると、草虫画を描き始めた。白石氏の小さな虫の画は、繊細で実に生き生きとしてる。いまにも虫が動き出して、紙から這い出てくるようであった。」
文房四寶に親しんでいた梅蘭芳、せっかく斉白石に描いてもらうのだからと、まず古い紙を取り出している。民国時代の当時であるから、少なくとも清朝に作られた紙であろう。繊細な斉白石の草虫画(キリギリスやコウロギなどの画)を描く紙であるが、残されている斉白石の作品から考えると、このときの紙も玉版か熟宣だろうか。そして、その紙を表具製本して画冊になるような大きさに裁断している。画を習うと同時に、斉白石の画冊が入手できるとは、まったく得がたい機会ではないか。
斉白石は紙をしばらくながめて構想を練ったのち、画筆の先端にわずかに水気を取って湿らせてから、墨をほんの少し取り、書き始めている。
「但是,他下筆凖確的程度是驚人的,速度也是驚人的。他作画還有一点特殊的是惜墨如金,不肯浪費筆墨。那天画了半日,筆洗里的水,始終是清的。我記得別一次看他画一張重彩的花卉,大紅大緑布満了紙上,但画完了,洗子的水還是不混濁的。」
『まったく、白石氏の筆致の正確さ、速さは驚くべきものであった。その作画の特徴は、“金石の如く墨を惜しみ”、けっして筆墨を浪費しないことであった。半日をかけて画を描き終えたが、筆洗の水は最後まで澄んだままであった。またこれとは別の機会に、氏の作画を観たときのことを覚えている。その時に書かれたのは色彩が施された一枚の花卉画であり、大紅大緑の絵の具が紙面を満たしていた。ただ、画を描き終えたときはやはり筆洗の水は濁ってはいないのであった。』
ここで梅蘭芳は「惜墨如金」、“金石の如く墨を惜しみ”と言っている。この言葉は、貴重な墨を惜しみ惜しみ磨って使う様子を表す言葉としてもでも使われるが、画法で言えば、余白を大きく取り、最小限の筆致で最大限の表現効果を発揮する意味となる。それがすなわち「不肯浪費筆墨」、つまり無駄な筆線を描かず、また必要以上に線が滲んだりしないということになろうだろうか。また筆洗の水が澄んだままというのは、筆に取る墨の分量が実に的確であったことを表している。そのことが、墨に限らず絵具の場合でも同様ということであった。
実は梅蘭芳は以前にも、斉白石以外の何人かの書画家に手ほどきを受けている。彼らも、当時の北京の画壇では名を知られた書画家達である。それらのプロの作画を観て学んでいた梅蘭芳の目から見ても、「驚くべき」筆致の速さと正確さであったと語っているのである。
また京劇俳優であった梅蘭芳は、人の所作に対して極めて鋭い観察眼を持っていたはずである。洗練された斉白石の画技は、最小の動作で最大の表現を演じなければならない役者にとって、大いに参考になるものであったに違いない。
斉白石は、貧しい家に生まれ、若い頃は大工仕事や、家具職人など、職工で暮らしを立てていた時期が長かった。見通しを立てて無駄な材料を使わず、最小限の作業で仕事を完結させる姿勢は、あるいは職工の経験に由来するのかもしれない。
もっとも、紙墨を浪費しないというのは、書と言わず画と言わず、プロの書画家であれば当然求められる技量の水準であった。このときも梅蘭芳はとくに「旧紙」を用意している。書画家に揮毫や作画を依頼するとき、依頼主が前時代の精良な紙を用意するのはよくあることである。近年も、中国の博物館に収蔵されている古い紙は、国賓への贈答の為の作品を書く書画家の用に供されるそうである。そう何枚もあるわけではない古い良紙を、無駄に使うわけには行かないのである。それは墨にしても同様であった。

やや話はそれるが、似たような話をT.H先生が話してくれたことがある。20年ほど前のその昔、呉冠中展が日本橋三越で開催された際に、裏方の労をとったT.H先生に、呉冠中氏が目の前で画を描いて贈ってくれたそうである。
もちろんT.H先生は所蔵の佳墨佳硯を用意したということであるが、呉冠中氏は硯板の上でほんの五百円玉程度の広さで墨を磨り、そのわずかな墨でもって17インチほどの画を描き上げ、描き終わった時には硯面から墨液はすっかりなくなっていたということである。
描く紙の大きさ、画題、紙の吸水性を考慮し、過不足ない分量しか墨を磨らなかったわけである。計算というよりは、経験で養われた感覚というべきであろう。

現代中国ではアマチュアからプロまで、ほとんど同じチューブ入りの絵の具を使用しているが、斉白石が使用していた絵具は高価な岩彩であった。筆洗で洗い落としたり、絵皿に残してみすみす流すような使い方はしなかったのであろう。
また斉白石の画を見ると、墨も絵具も用いるに実に吝嗇である。画面を余白が大きく占めることになるが、その空間には溢れんばかりに豊かな余韻が湛えられている。これが斉白石や、彼が尊敬してやまなかった石濤や徐渭、八大山人等の画に共通する魅力のひとつであると、おもわれてならない。
落款印01

雑感 〜それは本当に「伝統」?

中国のとあるオークション会社に勤めている朋友と、話をする機会がある。彼女は、書画や陶磁器の鑑定のために、顧問の先生群を引き連れて中国各地や、時には海外を飛び回る生活をしている。
書画の鑑定家の先生は、紙をよく観るそうな。書画の鑑定においては、巻子をすべて広げなくても、ほんの数センチ、あけて紙を見ただけで真贋を鑑定するという。それぐらいでなければ、書画の鑑定をやってはならない、といわれていたそうである。が、それほどの”目利き”の先生方は皆亡くなられてしまったそうだ。
朋友の印象では、紙や墨に詳しく、材料にこだわった書画家というのは、存命であれば90歳以上の世代の人々だそうだ。たとえばかつての清朝の皇族、愛親覚羅家の人々などもそうであったという。実際、旧皇族の人々は、中国の外交部や文化部、日本で言えば外務省や文部科学省のようなところに属して、文化交流や書画の鑑定に携わっていた人が多かったという。
清朝最後の皇帝、溥儀氏の弟、愛親覚羅溥傑氏や、又従兄弟の溥佐氏等も、晩年近くはそのような仕事をされていたそうである。であるから一昔前の愛親覚羅家の人々が使う書画材料は、現代の一般の書画家とはやはり少し違っていたという。(今の世代はまた別であるが)
長老クラス、70歳代から80歳代は、良い書画材料に出会うことが無かったので、道具に対する認識があまりないということだ。中堅層の50歳代から60歳代は言うに及ばず、むしろ若手で熱心に研究している人の方が、道具へのこだわりがあるかもしれないという。

現代の中国では、伝統の復権とばかりに、盛んに「伝統製法」「伝統美術」「伝統工芸」が持て囃されているようであるが、年配の自称専門家といえど、本当のところはわからなくなってしまっている分野が相当にある、という事実は無視できない。
「伝統」といわれているところのものが、実際はほんのここ数十年の産物であるとも限らないのである。「伝統」はそれ自体「権威」としての力を持ってしまいがちであるからこそ、無批判な態度であってはならない。

中国の古美術を愛好する人であれば、おそらくは多くの人がご存知の、中国文物局の重鎮がおられた。この方は硯のコレクターでもあり、数年前に自ら蒐集した硯の本を出版しており、わたしもこの本を持っている。
が、その硯の鑑別にはいささか以上に問題がある。硯以外にもこの方の文物の鑑定鑑別に関しては、かなりいい加減であることは小生のまわりでは周知の事実なのであるが、その筋の権威としてまかり通っているのも事実である。
またこの方は、東洋美術史を研究している日本人研究者(某国立大教授)の翻訳によって、日本語でも著書が出版されているから困ったものだ。書画を解説しているその本も、まったく参考にならないばかりか、とんだ認識違いを引き起こしかねない。
書画にしてしかり、まして研究するものが少ない文房四宝に関して言えば、信頼できるほどの文献は極めて少ないと言って良い。いわゆる「権威筋」の当てにならないこと、特にはなはだしい分野といえる。
故周紹良氏の「清墨談叢」などの一連の著作を読むと、その本の中に登場する近現代の人物がほんの数人であることに気付く。このわずかばかりの人々が、王朝時代の墨に関して「本当のところ」を掴んでいた最後の人々なのであったのだろう。 葉恭綽、寿石工、尹潤生、張絅伯、張子高、周紹良....皆亡くなられてしまった.........。
何も、そういった現代中国の状況を批判しているわけではない。日本ではとっくに喪われたモノがまだ中国なら「ある」と思って訊ねていったら、「無かった」事実に愕然としているのである。
製紙工場は昔の文献を元に、製法を「復元」している状況である。墨にしてしかり、筆にしてもしかり。「伝統」は継続しているのではなく、断絶を復旧している段階なのである。これがあるいはうまく実を結んで、前時代以上の品を生み出すこともあるかもしれない。
いずれにせよ、生産者のみが意識を高めるだけでは不十分である。作る者、流通させる者、使う者が共に、「伝統」が持つ価値と意義を改めて問い直さなくてはならないだろう。
落款印01

筆と紙の使用の変遷 〜呉湖帆「談芸録」より?

呉湖帆は(1894-1968)「丑談芸録」(ちゅういだんげいろく:文革で亡失)で、こう述べている。
「羊毫盛行而書学亡,画則随之。生宣紙盛行則画学亡,書并随之。試観清乾隆以前書家如:宋之蘇、黄、米、蔡,元之趙、鮮,明之祝、王、董,皆用極硬筆。画則唐宋尚絹,元之六大家、明四家、董、二王,皆用光熟紙,絶无一用筆羊毫者。筆用羊毫,倡于梁山舟;画用生宣,盛于八大、石涛。自后学者風靡从之,堕入悪道,不可問矣。然石涛、八大,有時亦用極佳側理,非尽取生渋紙書。」

抄訳:書に”羊毫”が盛んに使われるようになって書学は亡び、画もこれに追随した。”生宣”が画に盛んに使われるようになって画学が亡び、書も一緒にこの傾向に従うことになった。
試みに観れば、清朝の乾隆以前の書家、宋代の蘇軾、黄庭堅、米元章、蔡襄、元代の趙孟頫、鮮于枢、明の祝允明、王鐸、董其昌、の如きは皆極めて硬い筆を用いた。
画はすなわち唐代や宋代はもっぱら絹をよしとし、元の六大家、明の四家、董其昌、二王、皆“光熟紙”を用いており、羊毫筆を用いたものは絶無である。
羊毫を用い始めたのは、梁山舟(梁揩)にはじまり、画に生宣を用いたのは、八大山人、石涛より盛んになったのである。
その後、書画を学ぶものはみなこの風潮に靡(なび)き、悪道に堕落し、このことを問題視することもできない。しかして石涛、八大はある時は極めて良い側理(紙)を用いたのであり、ことごとくが生紙や渋紙に書いたわけではないのである。

呉湖帆は、名を倩、本名は万、又号して倩庵、別署に丑(ちゅうい)、翼燕、斎名は梅景書屋などがある。江蘇省蘇州の人。上海中国画院画師、中国美術家協会上海分会副主席、上海市文史館館員、上海中国書法篆刻研究会会員。また西冷印社社員。
蘇州博物館には、呉湖帆の作品と同時に、寄贈されたその収蔵品も数多く見ることが出来る(あいにく、画像を持ち合わせていないのであるが)。
金石学の泰斗、呉大澂の孫にあたる呉湖帆である。家伝の金石書画の収蔵物は実に豊富で、晩年には1400件を数えたという。その中には欧陽詢の「虞恭公碑」、また「董美人墓志銘」、米元章「多景楼詩冊」、梁揩「睡猿図」、王晋卿「巫峡清秋図」など、超一級の文物が含まれていた。

彼は13歳の頃より画を学び始めるが、画は“四王”の真跡に学び、また書は董其昌の真筆を深く研究し、その技法を自分のものとしていった。「談芸録」で述べているところは、自らの経験に基づいて述べているのである。
呉湖帆の作品には自らが研究習得した、古典作品のテクニックが豊富に駆使されている。書は董其昌に深く学んだ流麗端整な行草を得意とし、画は単に古典の模倣にとどまらない、明澄静謐な独自の画境を切り開いている。
古典作品に深く学ぶ書学、画学の方法は、中国における伝統的な書画の学習方法であり、呉湖帆のみにとどまらない。同時代では他に張大千が、その実践において徹底しているといえるだろう。

「談芸録」では、書画に使用される筆と紙の変遷について述べ、それが書画に与えた影響を論じている。また書と画が、道具を共用しており、書において使用される筆の変化が、画用の筆にも影響を及ぼし、また逆に画で使用される紙の変化が、書における紙の使用に影響するという関係を簡潔に述べている。「書画同源」という、中国の伝統的な書と画の関係を端的に表した一文である。
また「亡ぶ」という言葉を使い、道具の変化が書画双方の衰退につながっていることを痛切に嘆いている。
ここで述べられている「光熟紙」は表面に光沢があり、滲みの少ない熟宣、(加工紙)を言うのであろう。熟宣にたいして加工を施していない「生の紙」を生宣、生紙(きがみ)という。一般に生宣は吸水性が高く、滲みが強い。現在、書や画一般に用いられているのが生宣である。
「光熟紙」は特定の紙の種類を意味していないが、明礬を施して滲みを抑制し、また磨くことによって繊維を緊縮させ、さらに滲みを抑えた紙であろう。熟紙の種類で言えば、煮硾宣や牙光紙、蝉衣宣などを指すと考えられる。またこれらの紙には表面に磨き出された光沢があり、摩擦抵抗が少なく、運筆は至極滑らかになる。
また「極めて硬い筆」とは、紫毫(ウサギ毛)や狼毫(イタチ毛)などの硬毫筆のことであると考えられる。
呉湖帆の道具に対する考え方は、現在の「羊毫筆に生宣を用いよ」といった、書の道具に対する基本的な姿勢と真逆であると言っても良い。しかし呉湖帆は自らの主張が根拠のないことではなく、歴代の名家の真跡を観ることによって得られる事実であるとする。
硬毫筆を用いて、滲みが少なく、滑らかな紙に書くとどうなるであろうか?当然のことながら筆線は明瞭な軌跡を描き出す。筆がとられないため、運筆は軽快であるが、逆に運筆の巧拙も白日の下に晒される。吸水性の高い生宣に書いた時のように、滲みやカスレによって、筆線の稚拙さや軽佻さが糊塗されることがないのである。
また、実際に熟紙を用いればすぐわかることだが、強い筆力で沈着に用筆しなければ、墨は紙に深く浸透することがない。筆運びの滑らかさに任せて筆致が放埓に過ぎれば、ただちに軽薄な筆線となって現れる。一見書き易いようで、その技量の差が端的に現れやすいといえるだろう。
「硬毫筆を使うのは簡単であるから、柔らかい羊毫筆を使いこなせなければならない。」また「滲みが強い紙に書くことが出来なければならない。」といった言説は、現代においては日本の書道界のみならず、中国の書法界でもほぼ主流の考え方である。小生はおそらく清朝末期から、徐々にそのような傾向が強まってきたと考えている。日本の仮名書道の伝統にみられるように、中国でも日本でも、古代においては硬毫筆に滲まない紙を用いていたというのは、ほぼ間違いのない事実なのであるが。
書も画も、古人の真跡を真近でつぶさに観察し研究した呉湖帆は、近代における書画の変質に痛烈な批判を加えているのである。しかしそれは単純に、「伝統を固守せよ」と主張しているのではないだろう。本来の伝統的な書画では見られない道具や材料を使用しながら、無批判無自覚にそれを「伝統的な技法」としている姿勢に、疑問を投げかけていたのではないだろうか。

(つづく)
落款印01

書と画の関係について

最近は、日本でも水墨画が密かなブームだという。ただ、私はあまり知らなかったのであるが、水墨画と書道というのは、日本ではまったく別ジャンルで、相互に関連性が薄いということである。
私が中国人に画の手ほどきを受けたときは、まずは「書」にも力を入れなさい、といわれたのである。絵筆の筆致には、必ず「書」に裏付けられた筆意があり、書に習熟しないと画も上達しない、ということであった。
大雑把に言えば、少なくとも明代以降の文人画においては、たとえば竹にしても、蘭にしても、その運筆法は書の筆線の変化にほかならないものであろう。隷書と蘭葉ひとつの例であるが、いわゆる「逆入平筆」で送筆する隷書の筆意が、中国のある種の伝統的な墨蘭を書くときは求められる。とはいえ、「書」と「画」の関連に基づいて、画法を解説している本は、日本ではあまりなかったように思える。
中国の文人画を学ぶ際は、書と同じく、画も臨書ならぬ模写によって学んでゆく。対象とする画の描法は、自分で観察して読み取ってゆかなくてはならない。このとき、書に対する理解が、画法の解析を大いに助けてくれるものである。
また創作の際にも、画の構成を考えるときには、書の布局(字の配置、構成)の考え方を応用することになる。いわゆる「知白墨守」という、墨が置かれた部分と余白を構成するバランスの感覚は、書にも画にも共通する重要な概念であるとされる。
文人画に限らず、工筆画のように、繊細な描線と彩色を施す画であっても、その描線には書の筆意が求められる。現代の中国でも、画を学ぶものが書を学ばなくて良い、ということはないのである。
なので「水墨画の道具」というような、水墨画専門の道具というのはありえない。むろん、画のみに用いられるような筆や一部の特殊な紙などはあるが、そのほとんどは書と兼用である。もっといえば、書に使われる道具からの転用である。
明代から清朝にかけての文人水墨画の書き手は、単に画家ではなく、第一義的には官僚、文学者、あるいは詩人であった。彼等にとってもっとも重要なのは文章であり、書であった。画は余技であり、あるいは生活の糧を得る手段であった。
墨も紙も筆も、そして硯も、圧倒的な需要は文章を書く為にあり、書に使用される中で洗練され、鍛えられていったのである。その時代に最高度に洗練された墨や紙が生まれ、その道具をもって画を描くことで、すばらしい墨色が発揮されることになったのである。
なので私も、画用の墨や書用の紙、のような区別を設けて販売しているつもりはない。墨であれば、艶やかな濃墨を発揮しない墨は、書にも画にも宜しくはないであろう。紙に関しては、たとえば「玉版宣」などは書画両用の顕著な例である。

書をもっぱらとされる方も、画をされるのも楽しいかと思われる。水墨画のみを学ばれている方も、書を学ぶことで新たな発見があると思われる。同じ道具でもって少し楽しみに幅が出来るなら、それも結構なことではないだろうか。
落款印01

「混沌」

O.T老師作「混沌」である。昨年の秋に、母校の書展で出品されていたのを気に入ったので貰い受けたものである。まさに今の世相と、今年の自分の状況を端的に表現した言葉であり、ある意味予言していたとも言えるのかもしれない。
(O.T老師はもちろん雅号があるのであるが、ほとんどのパソコンでは漢字が出せないはずなので)
混沌篆刻をされている人ならこの書風を見てわかる方もいると思われるが、O.T老師も篆刻家である。他、篆書を初め、書画を能くされる。私が学生時代の書道部の顧問をされていた。大学では中国思想、わけても道教や神仙思想の研究をされている。O.T老師は以前紹介した戴山青先生に篆刻の教えを受けており、戴青山先生は斉白石の孫弟子にあたるので、O.T老師は曾孫弟子ということになる。となるとO.T老師に篆刻を習った私は斉白石の.....と言うのは言い過ぎだが。実際私は篆刻のほんの初歩を習っただけであるから。

それはさておき。

O.T老師は他に書論を研究されていて、研究室には「中田勇次郎全集」や「書論体系」などの書籍が揃っていた。それを時間さえあれば読み耽っていた時期があった。中田勇次郎先生は、『文房清玩』(全5巻 二玄社 1976年 )を出されており、これらの全集は文房四宝の基礎的な知識を得るのに大いに役に立つものである。また方氏程氏の墨譜については詳細な研究を遺されていて、非常に参考になるものである。

書道をやるにせよ、文房四宝に親しむにしろ、基礎的な文献はやはり抑えておいたほうがいいと考えている。とかく実践が強調されて、座学をおろそかにし過ぎではないかと最近は思われる。事実、文房四宝や書論、書道史に関する文献の出版が日本では最近ほとんど無い。(中国では今非常に盛んである)
売れないから出版されないのだろうが、売れないこと自体、書道に関わる人々の書道史や書論への無関心をあらわしてはいないだろうか。楷書を崩した書体が行書、行書を崩したのが草書、などと誤解したままでキチンと碑帖が理解できるのかどうか.....。
無論、文献に凝り固まって実践を怠ったり、モノが見えないようでは本末転倒なのであるけれど。
専門の研究者のように学説を唱える必要はないとおもうが、自分なりの書道観を作るためにも、書道史(書法史)や書論は役に立つと思われるのである。

ちなみに、職人が彫っていた印を、篆刻として文人が自作するようになったのは明代からだといわれている。その文人が彫る篆刻の発祥とも言える地が徽州なのである。とくに羅姓の多い歙県呈坎村は羅聘を初め、篆刻で名のあるものを多数輩出した。学術が盛んであった徽州、とくに金石学では当時の中国でも最高レベルの学者が集まっていた。おもに彼ら金石学者達が、青銅器を研究しながら、篆刻を発展させていったのである。
徽州で篆刻が盛んになった理由をたどると、宋代から連綿と続く、中国の統治理論の継承発展にもつながってゆくのであるが、このことは少しづつ述べて行ければとおもう。
してみれば、中国思想を研究されているO.T老師、研究上甲骨文や金文はもちろん読めなくてはいけないそうだ。篆刻を能くされるのも自然なのかもしれない。
落款印01

金融危機と文房四寶

写真は「婺(ブ)源博物館」の蔵品である。この博物館についてはかつて紹介した。中国には、市、省、県、など各行政レベルでの博物館がある。1980年台から現在にかけて、その大半が増改築ないし新設されてきたものである。全国の博物館の展示スペースの急増によって、作品が不足するといった事態になっているそうだ。また博物館同士での収蔵品の争奪戦もすさまじいという。ここ数年の中国の古美術品市場の価格の高騰を支えてた一つの要因である。婺源博物館また、中国の文化局に勤める朋友から聞いた話では、今年から中国全土の博物館が無料で入館できるようになり、博物館には国から補助金が下るということである。
だが、補助金を受ける代わりに、定期的になんらかのイベントを行ったり、企画展を充実させなくてはならないそうである。各博物館の学芸員も今までのようにのんびりは出来ないということだ。婺源博物館古美術品には限りがある。そこで各博物館は近現代作家の作品の蒐集ももちろんだが、現代作家に作品を描かせて収蔵する、といったことも始めているそうだ。
以前、中国の墨工場や紙工場で、博物館からの高級墨、高級紙のオーダーがかなりある、という話を聞いた。これ等の紙や墨は、一般の店頭では見られない、高品質な品である。価格も高い。
また、数年前に古い紙や墨が博物館から市場に流出したことがあった。実はこれの文房四寶も、博物館から書画家に提供され、作家の書画制作に供されるために収蔵されていたものであったとのことである。婺源博物館日本のバブルの時もそうであったが、建設ラッシュで住居や商業空間が増えると、自然と壁の装飾である書画の需要は高くなる。中国人は基本的に古い美術品が好きであるが、高いお金を払っても偽物しか買えない状況になったとき、現代作家の作品を競って求めるようになった。
ただ、私が知る限り、それも北京五輪直前までの状況である。

現在急激な円高が進行している。円高差益還元セール、と行きたいところであるが、残念ながら今の在庫はすべて1年以上前に決済が済んでいるものばかりである。製造に時間をかけているので仕方が無い。
今の中国は改革開放経済以後、最大の不景気を経験している。ただ、日本では国政レベルでのんびり景気対策を行うのに対し、中国では省や県といった地方行政レベルで景気対策へ動きだし、その動きは意外と早いものがある。日本がかつてそうであったように、中国は輸出依存から内需拡大への転換を迫られている。
中国におけるここ半年の経済環境の激変が、紙や墨、筆の原材料や需要にどう影響してくるか、無関心ではいられない。価格の変動もそうだが、高い品質で安定して供給できるかどうかが問題である。また、さらに高い品質を求めることが出来るかどうか。現在の店頭のほとんどの製品が研究開発の産物であり、これは今後も続けてゆきたいとは考えているのではあるが。
文房四寶についていえば、すでに輸出依存から内需への転換が進んでいた分野ではあるので、影響は小さいと思いたいところだが、無関係というわけにもゆかないだろう。
暮に久しぶりに仕入れに渡航するので、その際に状況は調査してくるつもりである。
落款印01

<< | 2/4PAGES | >>

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< March 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM