豆腐箋に画く

「豆腐箋」というのも、不思議な紙である。
豆腐箋に画く通常、墨は濃墨ほど粘性が高く、滲みにくい。墨液を希釈して淡墨にするほど、滲みやすくなるのである。しかし、豆腐箋の場合は、濃墨も淡墨も横広がりに滲む事は無い。滲まないのだが、紙に浸透しないかといえばそうではなく、わずかに紙背に抜けるように浸透するのである。
墨は、紙に与えてはじめて変化する。その変化の極まりないことが、墨色のみで畫を画くことの大きな魅力でもあり、水墨による作畫の可能性の広大さそのものである。墨色の変化の要因としては、墨そのものの濃度、筆致の遅速、筆圧の高低、紙の滲み方、そして紙への浸透がある。
たとえば墨の紙への浸透による効果であるが、同じ墨の濃度でも、まったく墨液が浸透しない紙に使用すれば、墨液は紙の表面にとどまり、ごく淡い発色を呈する。これが浸透する紙であれば、紙への浸透度合いによって、墨色に変化が現れる。すなわち、紙に深く浸透した部分はより濃く、わずかに浸透した部分は淡く、のような変化である。豆腐箋はこの効果を出しやすい紙なのである。紙への浸透は、かならずしも「滲み」とは同等ではない。豆腐箋は、横広がりの「滲み」はなくとも、墨液を浸透させる紙なのである。
紙に墨液がどの程度浸透するかは、筆致の速度や、紙と接する筆鋒の圧などによって変化する。しかし滲みの強い生箋などは、どのような筆圧で書いても、急激に紙に墨液が吸収されるため、その変化が現れにくいのである。
豆腐箋に画く豆腐箋や煮捶宣などの、滲みを抑制した紙は、墨の濃淡の変化に鋭敏に反応するようになる。筆致が重なった部分は、重なった分だけトーンが変化する。滲みやすい生箋などでは、淡墨による線の重なりも渾然となってしまい、境界は曖昧なものになってしまう。豆腐箋などの半熟箋は、そこが明瞭に現れる。これがまたひとつ、画面に変化をもたらす要因となるのである。
熟度を50%にした煮捶宣の場合、紙は幾分は墨液を弾き気味になる。墨液ははじかれた後にユックリと紙に定着するのであるが、豆腐箋の場合は紙への浸透が早い。墨色の発現も素直であると言えるかもしれない。
水墨による作畫は、筆致によって表れる形似のほかに、墨の濃淡による変化が加わることで、より複雑な変化に富んだ効果が現れる。墨の濃淡の変化は、完全な人為によっては制御できないが、それが画かれる対象をより自然に感じさせるのである。
豆腐箋は、墨が横広がりに滲む事が無いので、筆致の軌跡がそのまま現れる。これは煮捶宣と同様である。滲みによって筆致の輪郭がぼやけないので、描写も明瞭になるが、逆に言えば筆致の巧拙も露わになる恐さもある。
豆腐箋に画く当たり前だが、濃墨は濃く、淡い墨は淡く発色してくれなければ、良い紙であるとはいえない。粗悪な紙とうのは、いくら濃墨を与えても、光のない灰色っぽい墨色にしかならない。反面、淡墨を与えても、まったく何が画かれているかわからないほどにぼやけてしまう。さらにいえば、墨の濃度に対して鈍感なので、墨色に変化を出したくても表れない。特定のトーンのみにしか反応しないので、勢い画面はメリハリがなく単調になる。濃墨による強いアクセントや、極く淡い墨液による暗示や余韻が効かないのである。
その点、豆腐箋の発色は素直である。おそらくは「芥子園畫伝」に述べられている、サイカチによって紙の滲みを抑制する方法も、同じような効果を意図して紙に処置されたのだろう。
巷間、水墨による作畫を教則した本は多いが、紙の選択に言及している例は極めて稀である。紙について明解な解説がなされている本は、ちょっと記憶に見当たらない。古畫に倣(なら)う事をうたった本であっても、その筆致の解析と模倣に終始し、どんな筆を使い、どんな紙に画けば良いかは述べられていない。ただ「画仙紙を用意」とだけある本も多い。「画仙紙」といえば、現代では滲みの強い生箋である場合が多い。普通の「書道用品」の店では、「書道」の世界で主流の生箋にもっぱら力がおかれているから、半熟箋や熟箋は種類も少なく、置いて無い場合さえ多い。「画仙紙」の一言で片付けられてしまうほど、紙の種類や性質は単純な話ではないのである。
言うまでも無く、筆致が滲んだ畫というのは、古畫にはほとんど見当たらない。溌墨技法という、紙上での墨色の変化を狙った畫法は、陳淳徐渭をはじめとして、明代末期に盛んになる。(現存しないが)おそらくは北宋の蘇軾などの士大夫の畫にも、その例を見る事ができただろう。溌墨は、紙上で墨が濃淡交じり合い、気韻生動し、瑞々しく自然な効果を発揮する。これは墨液がすぐに紙に浸透せず、紙上に滞留して流動性を保つことで、初めて発揮される効果である。豆腐箋や煮捶宣のような紙は、滲みが抑制されている事で、この効果を発揮する事ができる。
この溌墨技法を、現代の滲みの強い生箋の上で行おうとしても無理である。滲みの強い紙は、墨液は紙に吸収され、変化する暇が無い。墨液が紙に滲む事で、変化しているようにも見える。しかし乾けばその変化の境界が不分明で、ボンヤリと起伏に乏しい画面にとどまるのである。
豆腐箋に画く豆腐箋は、「かすれ」の効果も筆致そのままに現れる。畫においては、乾筆による「かすれ」の効果を必要とする事がある。「かすれ」は、筆鋒に含ませる水分量を少なくして、素早く運筆することであらわれる。滲む紙でも滲まない紙でも、「かすれ」を効果として発揮する事は可能である。しかし、よくよく見ると、滲む紙は「かすれ」た無数の線が、それぞれ滲んでボンヤリしている。カスレによるドライな筆致で、枯燥の効果を出そうとしても、勢い湿潤に筆線が変化してしまうのである。
滲みを抑えた煮捶宣や、豆腐箋は、カスレた線がほぼそのままに残る。乾いて荒々しい岩肌や、樹皮の複雑な肌合いを表すときには、どうしても乾いた筆致が必要である。また墨液を十分に含んだ筆致との対比においても、より明確にその違いが現れるのである。
人が「変化」を感じるということは、部分によって違いが認められるからである。その違いが大きく、際立っているほど多彩な変化を感じとる。水墨による畫作は、墨色のみによる表現であるが、墨色の濃淡の変化以外にも、さまざまな変化を感じさせる事が可能なのである。
すなわち豆腐箋においては、墨の濃淡は、墨液の濃度、紙への浸透の深浅、筆致の重なりによって現れる。紙への浸透の深浅は、筆致の速度や筆圧の強さの変化を反映する。また筆線の乾湿の違いが是に加わる。その変化はほとんど無尽蔵に近いものがあり、造化の理を辿る事も可能であると、思わせるに足るものがある。
豆腐箋に画く紙に加工を施す法はさまざまにあるが、処理の仕方が悪いと、墨の発色に悪影響を及ぼす場合がある。なにより良い墨色を理解していなければ、良い加工紙は作る事ができない。日本ではあまり流通していない豆腐箋であるが、中国ではそこそこ大きな書画材料の店であれば置いてある。しかし非常に廉価な分、質の良い紙は見た事が無い。処理の手間や良し悪しもそうであるが、もともとの原紙が良くなければ、良い紙であるとはいえないのである。
もとより表具をしてしまえば、元がどんな紙であったかは判別しにくいのであり、原紙の美しさのみが残る。繰り返し表具した場合の作品の耐久性なども、もっぱら原紙の品質に拠る。

材料を吟味し、加工の優れた豆腐箋は、古画を臨模したり、古典的な水墨の畫を画いてみたいという人には必須の紙であると言える。もちろん紙が畫を画いてくれるわけではない。しかし古人の使用していた紙と、似ても似つかないような紙を使っていたら、いくら画いても永遠に及びもつかないことになる。模倣が目的ではないにせよ、古人と同じような技法、効果を使ってみたいという欲求はあるものである。摩訶不思議なのは、そこに言及した教則本が無い事である。むろん、生箋の使用を専らとしている教則本も多いのであるが、なかには明らかに半熟箋を使いながら、そこに触れていないような本もある。それは企業秘密というわけであろうか.......別段、秘するほどの事でもないと思うのであるが。
またもちろん、生箋の使用が悪いということではない。ただ一辺倒に傾斜した昨今の状況には、解せないものを感じている。生箋は筆致の変化が滲んでぼやけてしまい、筆線に現れる個性を減殺しがちなのである。ケレン味を追求しなければ、他者との違いは出しにくい。もちろん、生箋に自分で加工を施して使うことも出来る。その場合でも、豆腐箋や煮捶宣の効果は、参考になるものである。
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煮捶宣二種に画く

今回、「羅紋煮捶宣」を二種類リリースした。それまでも煮捶宣は何種類か扱ってきたが、羅紋箋を煮捶宣加工を施し、砑光(研磨して紙の表面を滑らかにした紙)は今回がはじめてである。

煮捶宣の試用この紙は原紙は同じ羅紋箋であるが、一種類は熟度30%、もう一種類は50%である。この「熟度」というのはもちろんきまった指標があるのではなく、この紙を造った職人氏の基準に基づいている。熟度100%であれば、熟箋ということなので、熟度50%であれば「半熟箋」ということである。
2種類の紙を並べると、その色合いも若干異なる事がわかる。写真では分かりにくいかもしれないが、熟度30%の方が、ほんのり黄色味を帯びている。熟度が30%と50%というのは、紙を浸す漢方液の濃度が違うのではなく、漢方液そのものが違うということである。たしかに熟度30%の方が、かすかに生薬の香りが強いように感じられる。
煮捶宣の試用それぞれ1枚づつの紙を重ね、筆に墨液を含ませて線を引いてみる。その違いが明らかであろう。50%の方は、まったく横広がりに滲むことはなく、幾分は墨液を弾き気味なほどである。またわずかに白い斑点が見られるが、これは半熟煮捶宣独特の効果である。しかし墨はしばらくすると紙に浸透し、紙の表面にとどまっている事は無い。大半の墨が紙の表面にとどまる熟箋とは、本質的に異なる紙なのである。
一方の30%の方は、わずかに横広がりの滲みも見られる。無論、生箋ほどの滲みではない。滲み方は運筆の速度や墨の濃度により、大きく変化する。あらゆる筆線が滲む生箋と違い、わずかに滲みを抑制した紙の方が、墨色の変化は多彩である。特に水のように希釈した淡墨であっても、輪郭がしっかり残るために紙の白さとの境界が明瞭で、濃淡のコントラストが映えるのである。
「どちらの紙が良いか?}と考えるのはあまり意味が無く、自分の表現に合わせて使いたい紙をセレクトするのが本来だろう。
巷間、たくさんの「水墨画」の教則本が出版されているが、道具や紙の選択に言及している本は稀である。水墨による描画は、筆法を云々するまえに筆、紙を定める必要がある。とくに古畫を臨模して練習するのであれば、生箋を使用するのはやはり考え物である。生箋に書かれた畫などは、近現代以前は皆無と言って良い。とはいえ、現在の街の書道用品店はあくまで「書道用品」がメインである。墨汁や生箋、羊毫筆など、必ずしも水墨による畫作に向いた道具ばかりではない。
書の用具は同時に畫に用いる事ができるとは、何度か述べている。しかし「現代の書」の道具が、古畫の臨模に向いているとまでは思わない。また作畫には作畫特有の文房四寶もある。
紙から少し話が逸れるが.......さほど古い筆ではないが、揚振華の画筆である。ラベルから判断すると、おそらく1980年代から90年代にかけて作られた筆であろう。
揚振華画筆画筆を得意としていた揚振華であるが、この画筆というのは非常に酷使される筆である。もっぱら書に用いられる筆であればやらないような、側筆や逆鋒での運筆を行うため、筆鋒が磨耗してしまうのである。ゆえいに揚振華に限らないが、古い時代の画筆が良い状態で残っている事は非常に稀である。
揚振華画筆揚振華画筆
揚振華の画筆は、筆鋒の付け根を縛り、漆を塗って固定している。この手法はなにも揚振華だけに見られる事ではないが、開始したのは揚振華ではないかと推測している。筆は使用していると、筆鋒の付け根まで水が上がり、筆鋒の根元が膨張して筆管が割れてくることがある。特に画筆は筆洗にたっぷり浸し、洗いながら使用されるため、筆管の割れが起こりやすい。無論そうなれば、使用している者は自ら絲で巻くなどして、筆管の割れを防ぐのである。古い筆などで、そうした修理をされている筆はよく見かけるものである。予め絲で巻いて補強しておく事で、製品の耐久性を高める狙いがあったのだろう。この工夫は揚振華が創案したものかどうか、はっきりとした確証は無い。しかし同時代の李鼎和や周虎臣といった筆店は、競うように筆管と筆鋒の付け根を薄く削りこんでいた。見た目に美しい筆管であるが、その分だけ割れやすくなる。筆管に予め絲を巻いておくのは、美観に反する加工のようにも見える。しかし上海での成功を、画筆にかけた揚振華らしい筆の独特のスタイルである。
揚振華画筆消耗の激しい画筆とはいえ、この筆には一応は斑竹が使用されている。抜群に良い斑竹というわけではないが、ここ数年では、この手の斑竹も非常に高価になってしまった。おいそれと画筆の筆管に使用できるような材料ではないのである。

書に使用する筆は畫にも使用できる。その逆も然りで、そこから面白い効果が生み出される事がある。しかし実際のところ、現代の市場の画筆を書に転用するのはなかなか難しいかもしれない。この一連の揚振華の画筆にしても、書に使うにはまとまりが悪いのである。筆は作り方によって材料原価を抑える事ができるが、使用する狼毫を少なく、筆の付け根に雑毛を混ぜるのである。画筆は極端に、この作り方で作られている筆が多い。書では筆鋒が鋭利にまとまることを求められる。しかし画においては、たとえば丘壑における皴法のように、バサバサになった筆鋒を紙に擦り付けるなどして、不規則な墨痕を積極的に求める技法がある。即ち「不規則」というのは、それだけ「自然」に見えるという事である。

煮捶宣から話が逸れたが、まず熟度30%の紙に画いてみる。「雪浪紙」の回で、「皴法」に少し触れた。山水畫では必須の技法であるが、小生は山水が画けるほどの造詣はない。といっても「四君子」を画く場合においても、山とはいかなくても石くらいは書く必要がある。石法も山法もその根源は同じである。
煮捶宣の試用別段、上手くかけているわけでもなんでもないのだが、熟度30%の紙に画いた場合、やはり岩肌はしっとりとした印象が加わるのは確かである。
煮捶宣の試用煮捶宣の試用
筆線の中にも墨の濃淡が現れ、濃墨が淡墨の中を泳いで、書いた後も筆致の中に変化をもたらす。生箋が滲んでゆく過程で、変化が均質化されて行くのとは効果に違いが現れる。
煮捶宣の試用煮捶宣の試用淡い墨でも、墨の輪郭がしっかりと紙に定着する事で、存在感が現れる。淡く、かつ輪郭が滲んでぼやけていると、何が画かれているのかは分かりにくい。書における淡墨表現では、墨を粗く磨り、粗い粒子が「基線」というのもを作るから、墨が滲んでも筆線が分かるのだという。しかし墨の粒子が残るような磨り方というのは、墨が悪いか硯が悪いか磨り方が悪いかであり、もとより本来良い墨色ではない。畫においては、筆致にそのような粗い粒子が残るようでは、画面が汚らしく見えてしまう。

50%の羅紋煮捶宣に画いてみる。
揚振華画筆滲みがより抑制されている分、水に近いような淡墨を使用しても、墨色がよく発現する。墨の性質を言うに「淡墨が伸びる」とよく言われるが、滲みの強い紙に淡い墨を使用しても、ボンヤリとして濃淡の違いも判然としにくいのである。
煮捶宣の試用50%の煮捶宣独特の効果であるが、筆線の中にわずかに白い斑点が現れる。また筆戦の中に濃淡のムラが発生する。紙の表面が加工によって、墨液の浸透に「ムラがある」からであるが、この「ムラ」が変化を作り出すのである。またカスレた効果も出しやすくなり、画き方によっては、木炭を当てたようなドライな筆致が現れる。
揚振華画筆筆から墨をぬぐって、筆洗の水に浸して画いたような、極々淡い線も、途切れ途切れになりながらも良く残る。背面から光が差しているような透明感も、水と見紛う淡墨が紙に定着しないと効果を出すのは難しい。煮捶宣はそれを可能にしてくれる紙なのである。
熟度30%と50%といっても、ほとんど別の紙と考えた方が良いほどに、そのもたらされる効果は違ってくる。どちらが良いということではなく、やはり自分の書きたい畫にあわせて紙を選ばないといけないだろう。紙は「棉料」か「浄皮」か、などということは良く言われているが、いずれも生箋である。加工をほどこしていない生箋であれば、大きく滲むのは必然であり、運筆法をいくら工夫しても、細かい描写は不可能なのである。
巷間の「水墨画」の教則本には、手本では明らかに加工紙を使用しているのに、紙について何の解説も無い本もある。手本と同じように書こうとしても、普通に市販されてている生箋を使う限りは、なかなか近づくのも難しいであろう。こればかりは練習を増やしてどうなるものでもない。趣味で、古画の臨模をしてみる場合は尚更である。清朝以前、生箋に書かれた畫などは、ごく一部の例外を除いて見られないのである。紅楼夢の宝釵ではないが、畫を画く前にはまず紙を定めなければならない。

この二種類の煮捶宣は、原紙の羅紋箋もまた良い紙なのであるが、そのことはまた別の機会に触れたいと思う。
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蝉衣箋と雲母箋 〜雲母箋について?

清朝末期あるいは民国時代と思われる、極く薄い加工紙がある。大陸北方の港湾都市に住む、とある人物から購入したのであるが、彼はそのときこの紙を「蝉衣箋(ぜんいせん)」と言っていたと記憶している。なるほど薄く、キラキラとした滑らかな光沢があり、それは「蝉の羽」を思わせる紙であった。現代の一般的な市場で見られる「蝉衣箋」とは似ても似つかぬが、古い蝉衣箋とはかくの如き紙を言うのかと、納得したのであった。
雲母箋全紙大の紙が8枚巻かれており、1枚の価格も相当なものであった。ビタ一文負けてはくれぬのである。当時の小生は、半熟箋の玉版箋の、古い時代のものを中心に集めていた。完全な加工紙である熟箋まではとてものこと、蒐集する余力はなかったのである。ただ「蝉衣箋」と言われるそれらの紙だけは、どうも気になって仕方がなかった。この機会を逃したら二度と手に入るまいと思い、そのときは財布をはたいて購入したのであった。
蝉衣箋は別名「蝉翼箋」と言う。「文房用品辞典(上海書画出版社)」に拠れば、それは熟箋の中でももっとも薄い紙であるという。極薄い原紙に礬砂と膠水を塗布し、雲母粉を撒き、乾燥の後に磨きをかけた紙であるという。ゆえに小生が入手した紙も、「蝉衣箋」あるいは「蝉翼箋」であると理解していたのである。
雲母箋後にこの「蝉衣箋」を再現してもらうことになったのだが、紙を加工する職人に言わせると、これは「蝉衣箋」あるいは「蝉翼箋」ではなく、「雲母箋」なのだという。別に「蝉衣箋」という紙もあるが、それは雲母を使用して加工された紙ではない、ということである。この場合の「蝉衣箋」は、紙の中でももっとも薄い部類である、羅紋箋に「砑光(磨きをかける)」処理を施した紙ということになっているようだ。
雲母箋雲母を塗布した紙を「雲母箋」と呼ぶのであれば、「蝉翼箋」も「雲母箋」の一種である、と言えなくも無い。しかし「蝉の羽のように薄い」という字義に忠実であれば、薄い羅紋箋を磨いてさらに薄く、滑らかな光沢を持つように仕上げた紙を「蝉翼箋」と呼んでもいいのかも知れない。また地域や店舗によって、必ずしも製法と名称が一致しているとは限らないだろう。
名称の問題はさておき、この「蝉翼箋」、もとい、「雲母箋」を、作る事ができないかと考えていた。「雲母箋」と呼ばれる紙自体は、現在でも市場に存在している。しかしあまり品質の良いといえない原紙に、疎(まば)らに雲母が散らされているだけである。墨の発色も良い物ではない。これは雲母を装飾のアクセントに使っているだけで、原紙の性質を本質的に変えてはいないのである。王朝時代の扇面などに使用されている「雲母箋」は、そのような紙ではない。微細な雲母の粉末によって、原紙の表面が完全に覆われているのである。
泥金や金箔を塗布した金箋と同様、雲母を満遍なく散り敷いた「雲母箋」は、その紙の質が生紙とは決定的に異なる紙として完成している。「熟箋」に共通の性質として、滲みは完全に抑制され、淡墨であっても墨が横広がりに滲むことはない。しかしながら、粉末の雲母によって微細な凹凸を持ち、墨の定着が悪いということではない。墨が乗らない部分の光沢はそのままに、墨が乗った部分も、墨の背後から紙の光沢が表に現れる。また細微な雲母の粉で覆われた紙面は、濃墨を用いても筆に対する抵抗が極わずかであり、流麗な筆致が可能なのである。
金箋のほか、銀箔や泥銀を塗布した紙も作られている。しかし銀は硫化や酸化によって、その光彩が持続しない。安定した鉱物である雲母が使われた雲母箋は、その銀色の光沢がいつまでも損なわれないのである。これは歳月によっても、その金色が喪われない、金箋と対になる紙であるといえるだろう。
雲母箋の使用例は、特に扇面において豊富な例を見る事ができる。扇面の流行とその意匠の工夫は明代後期に最盛期を持つが、華麗な金箋、洒金箋による金色の扇面と並んで、銀色の光沢を放つ雲母箋による扇面もまた、盛んに造られたようだ。
乾隆年間に編纂された宮廷所蔵の書畫目録である「秘殿珠林」には、「世祖章皇帝御筆達摩一軸雲母箋本墨畫上方欵署御筆二字」とある。また同じく乾隆帝によって編纂を命じられた書畫目録の「石渠寶箋」には、「雲母箋本行書大字有御筆一璽」とある。雲母箋が宮廷においても、また民間においても、高級紙として珍重されたことが伺える。
雲母箋のような加工紙は、安徽や四川といった紙の原産地ではなく、都市部の工房で作られていたと考えられる。かつて各都市に存在した文房四寶を専門に扱う「南紙店」では、直営の工房やお抱えの職人を持ち、都会の需要にあったさまざまな加工紙を作っていたのである。また加工紙を造る工房は、同時に書畫の表具・表装を請け負っていた。現在では書畫の表具のみ手がける店は存在するが、加工紙の多くは安徽や四川といった、紙の生産地に引っ込んでしまっている。勢い、粗製の量産品が多く、かつてのような質の高い加工紙は見られない。やはり都会のニーズに近いところに工房があり、さまざまな注文に応じて少量づつ造っていた頃が、加工紙にとっては良い時代だったのであろう。そのようなスタイルで加工紙を扱っている「南紙店」は、上海では現在のところ福州路の博印堂以外に無い。
雲母箋博印堂が直営する紙工房の長である、かつて倣古乾隆蝋箋を造った老名工は、「造れない紙は無い」と豪語しているという。それならばと、小生の「雲母箋」の1部をサンプルとして提供し、同じ紙を造ってもらうことにしたのである。ほどなくして博印堂の老板から「試作品が出来上がった」という連絡を受けた。その老名工は、実際にはサンプルを眼にせず、電話で話を聞いただけで紙を作り上げたと言う。
雲母箋果たせるかな、まことに良い出来である。まさか現代でも、この紙を造る事ができるとは思いもよらなかったことである。曰く「この紙を造るには、八層、九層にわたって、雲母を散らす必要がある。」ということだ。非常な手間がかかるのであるが、何より原紙の質が決め手なのだと言う。原紙が悪いと、その上に高度な技法は施せないのだそうだ。
使用される原紙は、安徽の工場に特注して漉かせた紙で、一般の市場で流通している紙ではない。加工紙用に材料を精選し、加工の工程にあわせたサイズで漉いてもらう必要があるということだ。雲母箋なにより漢方薬を入れた「漿」に浸して引き上げるときに、破れないだけの丈夫さが必要である。また極薄い紙が使われる。厚過ぎれば「漿」に浸して引き上げるとき、重さで紙が破れるのである。1枚1枚加工を施すのであるから、場所も人手も必要である。決して、大量生産が可能な紙ではない。
雲母箋現代の書の場面では、数十枚から数百枚の全紙に書き続け、そのうちの1枚を選ぶと言った制作の仕方が主流であるという。近代に入ってからの紙の大量生産の技術が、そのような生箋の大量消費を可能にしたともいえる。一方で紙の質の低下を嘆く声も聞く。しかしもともと大量生産に向かない伝統製法でもって、現代の紙の浪費に応えるのはそもそも不可能なのである。ましてそのような作品制作の手法をとる限り、少量づつしか生産できない、伝統製法の雲母箋を使いこなすのは難しいかもしれない。
「温故知新」というが、なるほど古きを訪ねるということは、現代の状況を浮き彫りにすることである.......しかしそこには、かえって新鮮な”気付き”が潜んでいることがある。果たして紙は出来上がった。この「雲母箋」をお使いになる事で、そのような”気付き”を感じ、何よりそれを楽しんでいただければ幸いである。
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薛濤の詩箋 〜雲母箋について?

唐代の著名な女性の詩人に、薛濤(せつとう)がいる。薛濤は長安の官吏を務める、薛郧の娘である。755年から763年にかけて勃発した、「安史之乱(安禄山の乱)」が平定されてほどなく、父親が蜀に赴任するに従って移り住んだという。この乱では、唐の玄宗が長安を追われて蜀へ逃避している。その途中で皇帝の護衛兵の叛意をおそれ、寵愛していた楊貴妃を殺害せざる得なかった悲劇はよく知られている。あるいは薛濤の父親が蜀へ転任になった事も、玄宗の蜀への逃避行と何らかの関係があったとも考えられている。
薛濤は八歳にして詩を能くしたという。ところが十四歳の時に父親が急逝してしまう。父親を喪った官吏の家と言うのは悲惨であった。
十六歳になると、逼迫した家計を助けるために、宴席に侍って詩文や歌唱を供する「詩妓」と呼ばれる生業につく。そしてその卓抜した詩才、歌唱、そして美貌でたちまち評判となったのである。
唐の徳宗(785〜804)の時代、朝廷より中書令を拝した韋皋(い・こう)は剣南節度使となって蜀に赴いた。「節度使」は地方軍を率いる武職であり、しばしば唐王朝を揺るがした、強大な権限を有する要職である。先の「安史之乱」も節度使の安禄山によって引き起こされている。軍職にあった韋皋であるが、特に文雅を愛好する人物であった。
韋皋は蜀での薛濤の評判を聞き、特に蜀の行政府に招聘し、彼女の詩賦の才を試した。また朝廷に奏上して薛濤が宮廷で文書を司る、”校書郎”の官職を(名義的に)得られるように図ったのである。そのことが実現する前から、「女校書」の異名が世上で多いに喧伝されたという。日本でも妓女の異称を「校書」と言うが、これは薛濤が始まりである。薛濤は韋皋が転任した後も、代々の蜀の節度使に重んじられた。また白居易や杜牧、王建、劉禹錫といった、当時の著名な詩人達と詩文の応酬があったことが知られている。
薛濤は行政府で催される官僚の宴席に出る、いわゆる「官妓」という妓女の身分であった。妓女は身請けされて家に嫁ぐことも珍しくなかったが、薛濤は生涯嫁ぐことはなかった。晩年は道服を着、女道士の姿で清雅な生活を送ったという。
この薛濤は詩文と同時に筆跡にも優れ、王羲之、衛夫人の法に倣って筆力(ひつりょく)峻激(しゅんげき)とうたわれた。残念ながら、現在その真筆は残っていない。自作の詩を美しい詩箋に書き綴ったというが、その詩箋もまた、薛濤は自ら製したという。いわゆる「薛濤箋(せつとうせん)」である。
「詩箋」について簡単に触れておく。「詩」が最盛期を極めた唐代においては、その詩文が書かれる「詩箋」にも、高い装飾性、観賞価値を持つものが工夫されたのである。同時代の日本においても、平安貴族の間では、舶来の加工紙が珍重されると同時に、国産の紙の加工にも工夫が凝らされた。華麗な料紙を使い、自詠の和歌を流麗な書体でものすることが流行したのである。日本で製せられた装飾性の高い加工紙を含めて「唐紙(からかみ)」と総称したように、もとは唐代に大陸から渡来した文化であり、それは唐朝の士大夫社会の流行を反映しているのである。
しかし薛濤に限らず、唐代の真筆は伝世の形では、ほとんど現存していない。唐楷も碑帖に拠らなければ伺うことが出来ず、わずかに写経巻の発掘品が見られる。しかし学僧の写経用の紙と、士大夫・貴族階級の遊興・技芸におけるそれは同質の品ではありえない。よって唐代の上流階級の筆書がどのような紙に書かれていたか、物証に基づいて確かめる事は実は難しいのである。多くは、日本に伝来した紙や筆跡によって、その一端をうかがい知る事ができるのみである。
この、詩文を装飾を凝らした紙に書き連ねることは、唐代に限らず、王朝時代を通じて広く士大夫社会の間で行われてきたことである。いつの時代も「詩箋」は盛んに作られていた。現在も使われる、八行の罫を持った「八行信箋」も、元は詩箋であるといわれる。
ちなみに明代の名墨匠、羅小華は詩賦に秀でていたことが知られているが、詩箋をつくることも善くしたという。また後の方于魯は汪道昆にその詩才を愛されたが、やはり詩箋つくりに長けていたといわれる。詩文の才と優れた紙墨が、不可分の関係にあったことが伺える。
薛濤は貞元の初年ごろ、罪を受けて成都の西の浣花溪に隠棲した。もともと浣花溪では造紙が盛んであった。薛濤はその紙が大き過ぎ、短い詩を書くのが不便なことを思い、自から芙蓉の樹皮を原料として紙を作り始めた。紙には芙蓉の花弁を搾った染料で着色し、深紅色の精美な詩箋が作られ、これが世上に大いに珍重されたと言う。薛濤の後も紅色の八行箋が作られ続け、特に男女の思慕の念をうたう詩に用いられるようになるが、これは薛濤が始まりであるといわれる。
明の方以智の著した「通雅」には「蜀雲母箋、薛濤之遺也。」とある。すなわち蜀で作られる「雲母箋」は薛濤の遺法であるというのだ。また「通雅」には「濤本小箋、而今則與連四同式。但加礬與雲母粉耳。」とある。「濤は本(も)と小箋、而(しこう)して今は則ち連四と同式。」ということだが、「連四」は「連史」と同義で、いわゆる「連史紙」である。「同式」というのは、同じ寸法、という意味であろう。薛濤箋はもともとは小さな詩箋であったものが、後世になって生産性を高めるためであろう、1枚の大きさが「連史紙」と同じ大きな紙になったということである。
そして蜀の雲母箋が「薛濤箋」の遺法であるということは、薛濤の紙もまた、雲母によって加工された紙であったと考えて良いであろう。また「加礬與雲母粉耳」と述べられていることから、これは紙に礬砂と雲母の粉末が塗布された紙であることが伺える。
雲母を敷いたいわゆる「雲母箋」は、原紙の上に糊を塗布し、細かく砕いた雲母を散らした華麗な加工紙である。雲母は「キラ」と呼ばれるように、ガラス質の光沢を持った鉱物である。それを細かく破砕し紙に散り敷く事で、華やかな光彩を帯びた紙になる。もっとも、現在の市場で「雲母箋」と呼ばれるものは、細かい雲母片がまばらに分布している程度の、至極散漫な紙がほとんどである。雲母を使用しているから雲母箋には違いないが、一面に隙間なく雲母粉末を敷き詰めたかつての「雲母箋」とはまさに「雲泥」の差である。
薛濤の紙は、芙蓉の花卉の汁で赤く染めた紙を原紙としていたという。その上に雲母を散り敷いた紙、とも考えられる。雲母は透明の鉱物であり、背景の紙の色は雲母の層をある程度透過して表に現われる。その色あいはいわゆる「シャンパン・ピンク」を思わせるような、女性的な華やぎを帯びた詩箋であったと想像されるのである。
薛濤の創始した詩箋は、その後も浣花溪で作り続けられたようだ。「浣花溪箋」の名がある。晩唐の詩人、李商隠(812〜858)は「送崔珏(さいかく)往西川」の中で「浣花箋紙桃花色、好好題詩詠玉鈎」と詠んでいることからも、その紙が淡紅色の紙であったと考えられるのである。
ところで「神農本草經」に拠れば、「雲母」もまた仙薬のひとつである。「列仙伝」の方回をはじめ、多くの仙人がこれを服用していたとされ、抱朴子の仙薬篇にも収録されている。
晩年は道服をまとったと言われる薛濤であるが、隠棲の後に女道士として神仙術に傾倒していたのであろう。薛濤箋の装飾に「雲母」が用いられたのは、薛濤の昇仙の願いへの現われだろうか.......その紙を手にとったかつての詩友の多くは、往年の美妓がついに女仙に昇ったのだという感慨を、抱かずにはいられなかったのではないだろうか。
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豆腐箋について

日本では耳慣れないかもしれないが、豆腐箋という紙がある。煮捶宣と同様、半熟箋に分類される半加工紙である。原紙に豆漿(とうしょう)、すなわち豆乳を塗布して作られることからこの名の由来がある。別名、豆漿紙ともいう。また塗布されるのはいわゆる豆乳ではなく、豆腐を成型した際に出る水分の上澄みであることもある。この紙に豆漿を塗布する目的は、適度な滲みの抑制である。豆漿(豆乳)を紙にしみこませる事によって、滲みが抑制されると言うのはどういうことであろうか?
「芥子園畫傳」には、生紙の滲みを調整するために、梍(サイカチ:あるいは皁莢)の煮出し汁の上澄みを用いる方法が紹介されている。滲みの抑制には「礬砂」を使用する法が古くから知られているが、礬砂はその効果が強過ぎるきらいがあり、紙が墨を受け付け難くなる。「芥子園畫傳」の主旨では、礬砂に拠ると完全な加工紙(熟箋)に紙質が近くなる。そのため書かれる畫も、士大夫が興趣に任せて描いた畫から趣がやや遠ざかる、というのである。
サカイチは、古くから漢方薬、あるいは洗剤として用いられてきた植物である。樹皮に大きなトゲが生える独特な姿の樹木であり、秋に成ると豆状の実が落ちる。この豆のサヤと実をぬるま湯につけておくと、その溶液は泡立つようになり、石鹸の代わりに使うと洗浄効果がある。現代でも天然植物性の石鹸として、使用される事がある。いわゆる「ソープ・ビーンズ」と同じ働きをする植物である。
紙をサイカチの実で染める事により、その吸水性を抑制するということは、もともとは絵絹に施す技法から来ていると考えられる。絵絹をサイカチの実で染める事で、その吸水性を抑えられるという事実は何故発見されたのか?これも絵絹や布を、サイカチで洗浄する経験から、早くから知られていたのだろう。山水画の技法には、絵絹に墨で作画した後に、これをを洗浄して脱色する技法がある。繊維の墨を洗い落とすことで、極めて淡い色調が生まれる。淡墨よりも、さらに幽玄な効果を求めるのである。またサイカチの実やサヤは、茶色の染料として使用されていた。あるいはそこから、滲みを抑制する効果が見出された可能性も考えられるだろう。
このサイカチに石鹸の効果をもたらすのは、「サポニン」という成分であることが知られている。「サポニン」は多くの植物、特に豆類に含まれることが知られている。もちろん豆腐の原料である大豆にも多く含まれる。「大豆サポニン」といえば、最近では抗酸化効果をもたらす成分として、さまざまな健康食品にも応用されている。豆腐箋において、豆漿が滲みを抑制する働きをするというのは、この「サポニン」の働きに拠ると考えられる。
ところで、豆腐箋がいつ頃から使用されるようになったかは定かではない。昔の人がサポニンという成分とその効果を知っていて、サイカチの煮汁の代わりに豆漿を使うようになった、というのはやや考えにくい。豆腐箋の製造と使用には、やはり染織の技法、あるいは漢方医薬の知識が影響していることが考えられる。
また別の半熟箋である煮捶宣には「漿」、すなわち重湯である米を煮た上澄みが用いられている。また膠を溶かした「膠水」も、滲みや紙質の調整に使用されてきた。大陸の食文化においては、米の煮汁や膠(すなわちゼラチン)、あるいは豆腐はごくごく身近な存在である。何らかの経験則から、豆漿が紙の加工に用いられるようになったのではないだろうか?今のところ、文献上の証拠が無いのでそう類推している。

ともあれ生箋を偏重する現代と異なり、かつて紙にはさまざまな二次、三次加工が施されて使用されていたのである。しかしながらその技法の多様さも、大多数の書画家が生箋の使用を専らとする現在では、顧みられる事が少なくなってしまっている。
豆腐箋は、現代の書画用品の市場でも、入手が困難な紙ではないが、品質は原紙となる紙に大きく依存する。一般に、原紙に粗悪な紙を使用した安価な豆腐箋が多いのが実情である。
豆腐箋に限らず、加工紙は加工技術の良否もそうであるが、原紙の精選が重要である。高度な加工も、優れた原紙でなければ施す事ができないのである。豆腐箋の場合は、軸に紙を架け、槽に満たした溶液に紙を浸してから引きあげる。紙が弱ければ水分を吸って脆くなり、紙が破れてしまう。また紙が厚すぎても、重さで紙が破れてしまう。極々薄く、丈夫な紙が望ましいのであるが、そういった宣紙は昨今の一般的な市場には出回ってない。しかしながら、粗悪な脆い紙で豆腐箋を作るには、重ねた紙に豆漿を浸透させる法がある。が、ムラを生じやすく良い物ではない。
煮捶宣もそうであるが、豆腐箋も水墨山水画によく用いられたといわれる。作家によって好みが分かれるが、近代の潘天寿、謝稚柳、呉湖帆といった書画家は山水画にこの紙を使用していたという。煮捶宣と同様、半熟箋の良い物を探しているのであれば、試す価値がある紙であろう。しかし原紙の確保と手間の問題で、優れた紙を多量に入手するのは今や難しくなった.......煮捶宣と事情は同じであるが、その使用に価値を見出されることがなければ、いずれ姿を消してしまうだろう。
豆腐箋といい、煮捶宣といい、生箋を加工することで発揮される墨色の妙味には、水墨の美しさの確かな一面が現れる。今回入荷する豆腐箋に、それを見出される方々がおられれば幸甚である。
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蝋箋について?

漉いて乾燥させただけのいわゆる「生宣」が全盛の現代からみると、紙に二次加工を施すのはいかにも特殊なことであるかのように思われるかもしれない。しかし元来は、漉いたそのままの紙を利用することのほうが、特殊な利用のされ方だったのではないだろうか。漉いた後には材料の添加などは行わない、竹紙のような紙であっても、多くは重ねて圧力を加えて繊維を密にすることが行われた。また時には研(みが)いて、紙の表面をさらに滑らかにする処理が施されている。漉いて乾燥しただけの紙の表面は、繊維が粗雑な状態であり、摩擦が大きいために筆を取られ易く、繊維が粗く滲みやすい。現代のように滲む紙に大書し、かつ滲みとカスレを好む時代はそれで良いのであろう。しかし古代の書画家はそれと対極にある紙を好んでいたことは、文献や伝世している作品から伺うことが出来る。
博印堂倣乾隆蝋箋の工房中国における書画用の紙は、加工の度合いによって「生箋(生宣)」「半熟宣(箋)」「熟宣(箋)」に大きく分けられる。普通、蜡を塗布した蝋(蜡)箋や蝉衣宣は「熟箋」であり、煮捶宣は「半熟箋」に分類される。この熟箋にたいする「生箋」というのは、元来は熟紙や半熟箋の原料となる紙、という意味がある。小生にはひとつの疑惑があるのだが、少なくとも清朝以前の王朝時代において、生箋が生箋のまま用いられるという事は、実はほとんど無かったのではないか?ということである。そもそも「生箋」という呼称には、「生=(未熟、不完全)」な紙という意味合いが付帯しており、「熟(=完成)」した紙である熟箋とは、明らかに対を為す呼び慣わし方である。
清朝末期から、たとえば趙之謙や呉昌碩の作品などには、生箋の積極的な利用が見られるようになる。しかしながら当時においてさえも、生箋の書画への利用というのは実は少数派なのである。現代では生箋を使うのが常識であるかのような「写意」においても、当時は扇面などにつかわれる「熟箋」の上に画かれている作例は珍しくない。さらに厳密に言えば、彼らが時として使用していた滲みやすい、一見すると「生箋」にみえる紙というのは、作品を見る限りでは、多く「玉版宣」という半熟宣が使用されていたことがわかる。(ただし玉版宣という紙の定義付けも実際難しい。時代によって指し示す紙の性質が大きく異なっているのである。ここでは清末〜民国の玉版宣、ということにしておきたい)
清朝末期から始まった生箋の利用と拡大は、作家個人の感性の所産や趣向の変化というよりも、当時の社会構造の変化に依存すると考えている。つまりは滲みやすい紙を好んだというよりは、滲むような紙しか入手できなくなって行ったとき、そういった材料にあわせた表現が工夫された、という見方である。あるいは滲みを生かした表現を必要とした、当時の書画市場の要求である。
とはいえ、清朝末期から民国にかけて蝋箋などの加工紙の利用が緩慢に減退し、生箋の利用が拡大して行った経緯について、合理的に説明するのは難しい。実際に紙の加工の担い手であったと考えられる清朝〜民国の「南紙店(書画用品、材料店)」が、どのような存在であったかが、ひとつの手がかりではある。
博印堂倣乾隆蝋箋の工房大都市にはかならず存在した「南紙店」については、それがどんなに有名な店であっても、断片的な記録しか残っていない。ために実態の把握は困難である。しかし少なくとも、文房四寶を扱うと同時に、特に紙の加工を中心に手がけ、書画の表具なども請け負うのが一般的な業態であったと考えて良さそうである。
実のところ清朝における「南紙店」といっても、店舗で直接紙の加工を手がけていたとは限らない。いくつかの「下請け」の職人や、工房が存在したことだろう。また書画の表具についても然りで、直営の工房を持っていた南紙店もあれば、いくつかの南紙店の委託をうける工房もあったことだろう。
現代では宣紙の生産地である安徽省?県においても、さまざまな紙の加工が行われている。安徽省?県の宣紙工場では、「粉蝋箋」の再現もこころみられている。しかし清朝末期から民国にかけて作られた「玉版宣」などの加工紙には、当時の大都市に存在した「南紙店」の押印が施されているものが多い。やはり清朝における紙の二次加工の多くは、消費地である大都市を中心として行われていたのであろう。清朝後期以降、湖州の多くの筆匠が北京や上海に移住して独自の店舗を創設したように、書画用の紙もよりユーザーに近い場所で、顧客のニーズを反映した品が作られていたと考えるほうが自然のようだ。その究極の姿が、乾隆帝のつくらせた「倣澄心堂紙」などの華麗な宮廷専用紙であったといえるだろう。
博印堂倣乾隆蝋箋の工房ところで書画の表具、表装の技法と、蝋箋や蝉衣宣などの紙の加工法は、これも実は密接な関係がある。軸装の過程で紙に施されるさまざまな処理は、蝋箋や砑光紙を作る際の工程と、手法や道具、材料に多くの共通点がある。蝋箋に使用される虫蜡(川蜡)は日本では蝋(ロウ)というが、現代中国では蜡と表記する。いずれも「虫」ヘンが付くことから分かるように、蟻や蜂などの昆虫の分泌する物質が原料になっている。現代では四川省が主な産地であり、とくに「川蜡」ないし虫(白)蜡と呼ばれる。蟻の下腹部から分泌され、蟻の巣などから採取されるという。この「川蜡」は表具にも使用される。また紙を研いて繊維を引き締める「砑光」の処理は、やはり表具の過程でも行われるのである。表具というのも、見方によっては紙の加工そのものであろう。
ところで小生の知っている大阪の表具職人は、軸装や額装はもとより、料紙も作れば襖(ふすま)も貼る。つまりは紙の加工と装飾全般に関わることをやってのけるのだが、その老職人に言わせれば、もともと表具屋さんというのはそういう仕事であり、多くが美術表装をもっぱらとするようになったのは、最近のことだという。日本家屋の襖をはるにはいわゆる「から紙」を用いるのだから、料紙造りや扱いに長けているのも道理である。
中国においても、蝋箋などの加工紙をつくる職人というのは、表具・表装、あるいは扇面つくりといった、紙に関わる一通りのことを行えたものだということがわかってきた。もちろん現在においては、そのような多くの技術を持った職人は極めて稀である。
博印堂倣乾隆蝋箋の工房上海で「乾隆(粉)蝋箋」を再現している工場を見学した。運営しているのは福州路の上海博印堂である。中国で画材や文房四寶を扱う店は、表具や額装のオーダーも請け負っているのが一般的である。また時に安徽の宣紙工場へ、紙を特注する店も有る。しかし特殊な加工紙を製造する工房を直接運営している店は、小生の知る限りでは博印堂だけである。しかしかつては北京栄豊齋や南京十竹齋、上海九華堂といった有名文房用品店は直営の工房をもち、顧客の求めに応じた加工紙を多く製造していた。いまでも押印のある高級書画用紙にその痕跡を見ることができるが、生箋の利用が中国においても盛んな昨今では、わざわざ高価な蝋箋を特製しようという店舗がないのが現実である。高価なだけではなく、そもそも制作可能な職人自体が僅少という事情もある。安徽省の宣紙工場で量産される蝉衣宣や雲母箋、蝋箋といった高級加工紙に、昔日の品質と生彩を求めるのは難しい。
ともかく蝋箋を初めとする紙の加工は、上質なものほど手間暇がかかるため、どうしても受注生産に近くなるのである。かつても一枚一枚紙を加工する人件費の負担が高かったとすれば、沢山作って在庫しておく、というような販売の仕方は難しかったに違いない。
たとえば清末〜民国くらいの玉版宣を探していると、大抵は1枚づつ、あるいは2〜3枚、多くても10枚を越えない格好で出てくることが多い。しかし同時代の生箋などは、稀に数十枚〜百枚程度の束で見つかることがある。玉版宣は、生箋に漿(米の煮汁)や膠などを添加し、一枚一枚砑光を施した高級書画用紙である。使用によって数が減ってしまい、わずかづつしか見つからないのかとも考えていたが、そもそも作られた数量も少なかったと考えるべきであろう。当時の書画家としても、ここぞというときは1枚幾ら?の紙を大事に使っていたに違いなく、現代のように1反幾ら?の宣紙を、墨汁をぶちまけながら、瞬く間に使い切ってしまうようなことは、したくても出来なかったことだろう。現代において、伝統的な製法の加工紙が作られないのは、(あたりまえのことだが)なにより必要とされないからなのである。そもそも作品における紙の美しさなどは問題にもされない現代において、王朝時代の美意識の結晶である蝋箋が生き延びる余地は少ないのかもしれない。
この工房の長も、10年位前まで単独で紙の加工や表具を請け負っていたそうであるが、あまりうまくゆかなくて辞めていたところ、博印堂の主人の肝いりで再び腕を振るうようになったのだという。蝋箋の加工はもとより、表具や額装、あるいは扇面、画冊の制作も行っている。やはり紙の加工に関わる全般に精通している人物なのであるが、そこには古い時代の書画用品業界の余薫を感じるところである。(また写真のように若い徒弟が修行する姿が工房に見られるのも、頼もしい限りである。)
博印堂倣乾隆蝋箋の工房清朝後期において、使用される紙の性質が大きく変わって行った要因としては、やはり科挙制度の廃止と、西洋からの洋紙の流入があったと考えている。科挙制度の廃止は、科挙の答案専用紙を作ってきた産業を衰退させたであろうし、それが書画用の紙の製造にも影響したであろう。ただそれでも蝋箋の生産は、民国においても続けられたのである。明治時代の日本には、中国製の安価な蝋箋が大量に輸入されたという記録がある。民国期においても、對聯などの揮毫のために、蝋箋にも一定の需要があったと考えられる。
しかし滲まず表面が滑らかな洋紙の流入は、もともと滲みやすい紙を加工するという手間を省いたことだろう。洋紙は必ずしも唐墨を美しく発色するものではないが、丈夫で滲まず色が白く、表面が滑らかであるという利点を持っていた。事実、清朝末期の書画家や文章家には、筆記用紙としての洋紙に一定の評価を与えている記述がみられるのである。
注意しなければならないのは、洋紙の流入にともなう毛筆の衰退は、中国では起こらなかったことである。大正〜昭和に生きた後藤朝太郎が書き残しているように、洋紙の流入と同時に毛筆から万年筆、鉛筆に変わっていた日本と違い、中華民国においては毛筆の使用が主流を占め続けたのである。それに教育の普及が重なって、民国時代における毛筆の生産量は、史上かつてない規模に拡大したのである。(それが羊毫筆の隆盛に結びつく)
しかし一方で、洋紙の流入は作られる墨の性質に決定的な変化をもたらした。墨汁の使用もさることながら、固形の墨においても、西洋インクと同じく原料にカーボン・ブラックの使用が広がった。また蝋箋の上で映える透明度の高い純油烟墨が作られなくなり、不透明な松煙あるいは油松煙墨がつくられるようになった。紙の上での色艶はともかく、実用上は黒ければ良いのである。しかしそのような「粗悪」な墨は、蝋箋の上では生彩のないことはなはだしい。
ともあれ清朝末期から民国にかけての墨の変質と、加工紙の衰退と反比例する生箋の隆盛というのは、社会構造の変化を背景にしながら、互いに関連しあって起きた流れである。そこに特筆すべき書画家の存在があったとしても、それはあくまで結果なのである。
それでも民国期には對聯や扇面における利用などに、蝋箋や蝉衣宣などの加工紙には一定以上の需要が存在したと考えられる。中国における書画用紙の変質が決定的に起きるのは、隣国日本における需要の変化が大きな要因であると考えているのだが、それはまた別の機会に述べたいと思う。
博印堂倣乾隆蝋箋の工房紙の加工と「南紙店」のかかわりについて述べたが、銀行の存在抜きに金融の歴史が語れないように、書画の歴史を考える上で「南紙店」(これは北方での呼称だが)のような存在は欠かせない。「南紙店」といっても、もっぱら紙を販売していたわけではなく、文房四寶全般、書画材料や骨董品も扱うところが一般であった。しかしそれらの店舗の総称に「紙」の一字が用いられているのは、やはり書画家にとっては何より「紙」を求めるところであったのだろう。
「南紙店」は、墨や筆については筆店や筆匠と契約してオリジナルブランドの筆を作ることもあったであろう。また墨を特注することもあれば、硯を発注することもあっただろう。しかし加工紙の原料となる「生箋」を安徽から仕入れていたとしても、これはという紙の加工は自家製ないし特約の職人や工房で行っていたと考えられる。古い紙には、しばしばそうした南紙店の印が押されている。いわばその「南紙店」の特色が、最も現れるのが紙の品揃えだったのではないだろうか。良紙を求める書画家の要求の高さは現代の比ではなく、「南紙店」が遠方の宣紙の産地に委託したところで、うまく品質をコントロールするのは困難であっただろう。
蝋箋のように高価な原料と高度な工芸技術を要する加工紙は、「南紙店」と書画家の緊密な関係の間で保存されてきた紙であり、表具や表装と同様、両者の関係の「あるべき姿」の象徴であるとさえ思えるものである。その関係が衰退すると同時に、蝋箋や蝉衣箋も姿を消して行ったのだろう。
現在の北京や上海の書画店を覗いていても、蝋箋や蝉衣箋については、店の人すら知らないことが多い。精良な蝋箋を古い時代の品に求めたところで、さすがに使用をためらうほど高価で稀少である。多くは観賞用に供されているのも道理なのであるが、やはり使ってこその材料、道具である。たとえ乾隆帝の「倣澄心堂紙」には及ばなくとも、伝統製法の蝋箋の復元というのは、やはり期待を抱かせずには居られない試みなのである。

(つづく)
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蝋箋について?

「蝋箋」について概観してゆきたい。「蝋(蜡)箋」といえば、清朝における「倣澄心堂紙」などで知られる、いわゆる「乾隆蝋箋」が著名である。しかし清の乾隆時代より千年ほど前の唐代においても、蝋(蜡)を使用して紙を加工することは行われていた。唐代以前における蝋を使った加工紙の製法やその性質、使用目的は、清朝の乾隆帝が作らせた「蝋箋」とは必ずしも一致していないだろう。そう、ひとくちに「蝋箋」と言っても、明確な定義は難しい。ともかくここでは紙の繊維に蝋を塗布あるいは浸透させ、さらに圧迫摩擦して繊維を緊縮し、かつ紙の表面に光沢をもたらした加工紙として考えて行きたい。
倣乾隆蝋箋紙の広範な利用は後漢に始まるとされるが、そのごく初期のころから、漉いて乾燥させた紙にさまざまな二次、三次加工を施して利用されていたことが知られている。加工法としては、ひとつは重湯や膠、礬砂、油脂、蝋などの材料の添加があり、また紙を重ねて圧力や打撃を加えるか、摩擦するなどして物理的に繊維を緊縮させる法がある。また両者の効果は互いに関係していることは言うまでも無いだろう。紙に与えるさまざまな加工は、紙以前に使用されていた木簡や絹帛への加工を継承した技法も多かったことだろう。
絹帛に蜡を浸透させた「蜡絹(帛)」は、膏薬の塗布などに古くから利用されている。これらの加工が紙の上に施されるようになったのも、不思議なことではない。漉いただけの生紙は吸水によって脆くなり、破れやすくなる。油紙の利用にみられるように、現代におけるビニールにかわるものとして、さまざま実用上の目的による加工が施されていたことを、考える必要がある。
蝋(蜡)の利用による紙の加工の歴史は古く、魏晋南北朝に遡ることができるとされるが、明確にそれとわかる紙は現存していない。時代が下って唐の時代、張彦遠の「歴代名畫記」には「好事家宜置宣紙百幅,用法蝋之,以備摹写。:好事家はみな宣紙を百幅ほど貯えており、之に蝋を用いて加工し、模写に使う際に備えている」とあり、紙の加工に蝋が用いられていたことが述べられている。唐代以前からも、紙を黄檗(きはだ)によって黄色く染色して使用することが行われていたが、唐代に入って、黄檗で染めた麻紙にさらに蝋を塗布することが行われるようになったという。いわゆる「硬黄紙」とよばれる紙がそれである。
この硬黄紙については、北宋の趙希鵠「洞天清録集」に「硬黄紙、唐人用以写経。染以黄檗。取其避蠹:硬黄紙は唐代の人が写経に用いた。黄檗を用いて染め、虫の害を避ける」とある。ここでは紙を黄檗で染めるのは、防虫を目的としていたとしている。また「以其紙如漿沢、瑩而滑故,善書者多取以作字,今世所有二王真迹,或有硬黄紙,皆唐人倣書,非真迹也。:その紙は艶やかで滑らかであり、書を善くするものの多くはこの紙を使って字を書いた。だから現存する二王(王羲之と王献之)の真跡のなかで、硬黄紙のものがあれば、これらは皆唐代の人の倣制であり、真跡ではないのだ」とある。趙希鵠も「歴代名畫記」の記述と同じく、蝋を塗布して加工した紙が、「摹写」に使われると述べている。蝋を塗布した紙が「摹写」、すなわち「敷き写し」に用いられたというのは、蝋によって紙が半透明になり、また水分を浸透させないので、下敷きにした原本を汚さないためと考えられる。
倣乾隆蝋箋ところで楷書体は唐代に隆盛を極めたが、唐代の楷書いわゆる「唐楷」を学ぼうとすれば碑に刻まれた文字の拓本、いわゆる碑帖に頼らざるを得ない。実のところ唐代の書帖というのは、紙に書かれた形では中国や台湾に確実と言えるものは(たぶん)伝世していない。もちろん敦煌などからの発掘品、出土品としての写経本などは存在するが、使用されているのは多く写経紙である。唐代における華やかな加工紙の例は、むしろ隣国日本の平安貴族たちの使用に豊富な例を見ることが出来るのである。
日本において発展してきた装飾性の高い加工紙に「料紙」がある。現代で言うところの「仮名の料紙」には、「から紙」という種類がある。その名の通り、もとは平安時代に平安朝へ輸入された「唐(から)の紙」である。やや後に同じような装飾を施した加工紙が作られ、唐風の紋様や彩色を施した紙を「から紙」と総称するようになった。多く雲母を紋様に刷り込んだ紙が作られ、のちの襖(ふすま)に多く使用されたことから、襖紙を「から紙」と言うこともある。少しややこしいが、ここでは「から紙」を唐朝製と平安朝製にわけて考えなくてはならない。
「本願寺本三十六人集」に代表されるように、平安時代も末期になると、日本において「から紙」が多く生産されかつ用いられたようだ。しかし傳小野道風の「本阿彌切」や傳藤原行成の「御物粘葉本朗詠」など、当時の唐から輸入された「から紙」の使用例も多い。それら唐朝製「から紙」の中に蝋箋の例がある。もっとも雲母を刷りこんだ唐朝製「から紙」に比して、蝋箋の例は少ない。しかしたとえば傳小野道風の「八幡切」の中には、唐朝製の蝋箋が使われた1枚がある。また傳俊頼筆「巻子本古今集」には、比較的多くの唐朝製蝋箋が使用されているのを見ることが出来る。
平安朝製「から紙」では雲母を刷り込んだ紙が多く作られたが、平安時代以降、ついに「蝋箋」が作られることはなかったとされる。試験的に倣製を試みた可能性はあるが、蝋箋の製法は日本の伝統的な「から紙」の中には確立されていない。
ちなみに紙の製法を解説した本の中には、木版に紙を押し当て、バレンで裏面を圧迫摩擦し、「蝋を塗ったような光沢」を出しながら、木版の紋様を刷り込んだ紙を「蝋箋」としている記述も見られる。この場合、蝋を添加した紙とは若干意味合いが異なっている。モノの名称というのは時代によって変化するので、そのような定義づけも一概に否定出来ない。しかしここで対象としているのは、あくまで材料に字義通りの「蝋」を使った紙であり、そのような紙は、平安日本における「から紙」の製造技法の中には含まれていないのである。いわば唐朝の紙の代表とも言うべき蝋箋なのであるが、蝋箋を使った唐代の書の作例が現存していないのは残念なことである。
宋代の趙希鵠が述べている「硬黄紙」は、どうも唐代の書帖の模本(コピー)つくりのための原紙のようである。事実現代において「唐朝真筆」とされる書帖の多く(ほとんどすべて)は、北宋以降に硬黄紙を使用した摹本(コピー)なのである。蝋の塗布は紙の透明度を高め、敷き写しの際の墨液の原本への透過を防ぐ目的があったのだろう。
しかし蝋の塗布(あるいは浸透)は、紙の繊維の保護や透明度の付与、運筆の向上といった実用性と同時に、さまざまな顔料の定着を可能にしたのである。また潤滑な紙面は細かい描画を可能にし、光沢は顔料や金泥の生彩を引き立たせる効果をもたらしている。紙に先立つ絹帛や綿布などの織布における染色や刺繍、あるいは染描といった装飾性が、紙において求められたのも自然なことである。
倣乾隆蝋箋さて、唐代と北宋の間には「五代」という大きな時代の隔たりがあるのだが、五代における優れた紙といえば南唐の澄心堂紙である。これもやはり蝋(蜡)などの材料の添加によって、加工が施された紙が作られていたと考えられる。もっとも「澄心堂紙」というのは南唐の官製の紙一般を指す、いわばブランド・ネームであって、「澄心堂紙」のすべてが蝋箋であったという意味ではない。
この「澄心堂」における蝋箋について考えるために、はるかに下って十八世紀に乾隆帝が作らせた「倣澄心堂紙」について考えてみる。乾隆帝の「倣澄心堂紙」は、加工法からいうと「粉蝋箋」であるとされる。「粉蝋箋」とは、すなわち「粉箋」と「蝋箋」を併せた名称である。「粉箋」とは、紙に鉱物や貝殻の粉末(胡粉)などをすりこみ、紙の繊維の間に粉末粒子を充填し、紙の密度を高める加工が施された紙である。もちろん、粉をすりこんだだけでは剥落してしまうため、重湯や膠、蜡などの材料を塗布して定着がはかられている。また研きこんで紙の密度をさらに高め、表面を滑らかにする「砑光」という処理が施されるのである。見方を変えれば、粉箋のなかでも特に蝋(蜡)が用いられた紙が「粉蝋箋」ということになる。(また「粉彩を施した紙」というほどの意味で「粉箋」という語が使われることがあるが、ここでは別としたい。)
南唐の「澄心堂紙」は淳化閣帖に使用されているといわれており、また蔡襄の「澄心堂帖」に使用されている。しかし南唐当時の澄心堂紙が、そのままの姿で残されている例は確認されていない。南唐以降、宋代においても「倣澄心堂紙」は作られていたから、「澄心堂紙」といわれている紙のすべてが、オリジナルの澄心堂紙であるかどうかはわからない。
したがって乾隆帝の「倣澄心堂紙」が、どの程度忠実に南唐の澄心堂紙を再現できたかも定かではない。しかしすくなくとも乾隆帝が参考にした澄心堂紙は、南唐の澄心堂紙か、あるいは宋代における倣製品であったことは充分考えられる。とすれば、逆に名高い澄心堂紙にも、やはり蝋箋が含まれていた可能性は高い。事実乾隆帝の「倣澄心堂紙」は、多くは蝋箋に華麗な金描を施した装飾性の高い加工紙である。とすれば南唐の当時の澄心堂紙もまた、さまざまな紋様や金描がなされた色彩豊かな加工紙であったと考えられるのである。
倣乾隆蝋箋蝋の塗布による紙の加工は、基本的に繊維質である紙の物性を大きく変質させ、同時に鉱物や動植物を原料とするさまざまな着色剤の定着を可能にしている。また砑光処理を施すことで、紙は滑らかになると同時に強靭になり、さらには金泥による繊細な描画も可能になるのである。複雑な工程と高度な工芸技術を要する華麗な(粉)蝋箋は、その実用性もさることながら、王朝時代の紙にたいする美意識の現れの、優れた事例であるといえるだろう。

(つづく)
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新入荷の煮捶宣について

3種類の煮捶宣を今回入荷している。この煮捶宣を入荷する前に、煮捶宣を作っている職人氏に連絡を取ってサンプルを受けとったのであるが、その際に実に長い手紙をいただいた。内容を要約すると、品質を改良して製法が複雑化した分、価格は高くなってしまいましたよ、ということである。同時にサンプルとして送られてきた紙を試してみたのであるが、なるほど前回入荷の紙よりも、一層書きやすくなっている。あるいは好みが分かれるかもしれないが、大半の方であれば、今回の煮捶宣の方が使いやすいのではないだろうか。特に墨の発色が良い。
煮捶宣について煮捶宣についてただでさえ中国の物価は上昇しており、改良でなくても値上げはやむをえないところである。伝統製法を忠実になぞろうと思えば、工程の面からのコストダウンの余地はないと思った方が良い。中国から日本へ輸入する側にとっては折角の円高であるが、物価上昇と相殺されているのが現状である。墨や筆に比べて、紙の価格上昇は急なものがある。
製造元に値上げをされた場合に「そんなはずはない。据え置け」という人と「まあ、仕方ないね。」という人がいるだろう。出来上がりの品質を見て、その価格設定に合理性があると思えば、それも仕方ないことだろうと受け入れるしかない。伝統製法、手工芸品で安価に良い物を得ようというのは限度がある。煮捶宣について煮捶宣について前回入荷した紙は、撥水性が強く、墨を弾くような気味があった。しかし毛筆の線でありながら、木炭デッサンのような乾いたカスレを生み出す効果をもたらし、なるほど山水画や小写意には良い効果をもたらすと考えていた。
今回の紙は、横広がりに滲まないのはもちろんであるが、前の紙のように墨を弾くような効果が低減され、しっとりと墨がのる紙になっている。ちょっと使ってみたが、濃墨の定着がよく、濃淡の泳ぎだしや、非常に淡い墨色の受け止めも良い。加工紙で注意しなければならないのは、墨の発色が悪くなってしまうような加工が、施されていないかということだ。滲みを抑え、書き易くなったからといって、墨色が出ない紙であれば、弊店で扱うことは出来ない。
以前の紙は畫の用途には間違いなく適していたものの、書を書く場合にはよほど沈着に筆を動かさないと、紙が墨を拒んでしまい、細かい筆線にカスレが生じやすかった。畫では必要な効果とされたカスレも、精緻な書を書く場合ではあまり出て欲しくないところだ。煮硾宣で小楷を楽しまれる方もおられるということで、この点については小生のほうでも工夫の余地がないか職人氏に伝えていたところである。職人氏の方でもこの問題は認識しており、独自に旧来の製法をさらに調査し、改良工夫を重ねていたということである。
煮捶宣はもともと、漉いた紙を台上に数枚敷き重ねて台を傾け、熱湯をかけて紙の繊維を弛緩させ、乾燥した後に石で紙の背面を捶(つ)くなり研(み)がくなりして繊維を引き締めた紙である。“煮“えた湯をかけたのちに、捶(つ)くために”煮捶”の名があるという。またこの際には、単に水を煮沸したものをかけるのではなく、湯にさまざまな材料を配合する方法があるといわれている。ともかく手間のかかる紙なのである。
煮捶宣について紙の加工は大きく分けると、膠やでんぷん質の溶液、礬砂、あるいは蝋などの、材料を塗布して紙質を変化させる手法と、石で磨いたり、圧力をかけるなどして繊維を物理的に緊縮させる手法の二つがある。それぞれが単独で用いられることもあるが、多くは両者の複合である。その方法の組み合わせ、程度によって千変万化の紙の効果が生まれることになる。
加工紙の製造については、非常に多くの手法が存在するが、その手法の多くは表具・表装の工程のなかにも見られるものがある。石で磨くことを牙光(砑光)というが、中国における表具の工程でも使われる言葉である。すなわち裏打ちをした後、背面を玉石や蝋石で磨きをかけるのである。こうすることで、裏打ちにあてた紙と本紙の密着がよくなり、また画面の風采も増すのである。表具という工程も、紙の加工にほかならないのである。

この紙を研くなどして紙の組成に物理的な作用を加えることは、紙が使用され始めたきわめて初期のころから行われていたようである。
唐の張懐瓘(ちょうかいかん)「書断・左伯」には“左伯字子邑,東莱人,特工八分,與毛弘等列,小異於邯鄲淳,亦擅名漢末。又甚能作紙。漢 興有紙代簡,至和帝時,蔡倫工為之,而子邑尤行其妙。”とある。大意のみ示せば「左伯、字(あざな)は子邑、東莱(とうらい)の人で、八分書にたくみで、毛弘などと併称され、邯鄲淳とはやや趣を異にし、漢代末期に名高かった。又はなはだ紙を作ることがうまかった。漢代には紙ができて竹簡に代わっていったが、和帝の時に、蔡倫がこれを工みになし、また子邑はその妙をもっとも受け継いで行った。」というところだろうか。左伯氏は製紙史上では蔡倫の弟子ということで、その製法を継承して改良した人物であるとされる。またここに出てくる毛弘も、製紙に名のあった人物である。
当然、というべきかこの左伯氏の製したとされる紙は現存していない。紙の起源には諸説あるが、少なくとも書法の発展に寄与するほどの改良と生産が行われたのは、たしかに蔡倫と左伯氏の時代以降のことであったのだろう。この左伯氏の紙は、後世においても伝説的な名声を博したようだ。
南朝は斉の武帝の息子、竟陵郡王の蕭子良(460——494)は書法を善くしたが、彼が侍中の王僧虔(426——485)に宛てた手紙のなかに“子邑之紙,研妙輝光“とあるという。もっとも後漢が滅んだのが220年とすれば、それからさらに二世紀半は経過した時代の話であり、蕭子良のいう”子邑之紙“、すなわち左伯の紙がほんとうに左伯氏の紙であるという確証は無い。しかしここでは明確に「研妙輝光」とのべている。「研」とあるのは、あきらかに紙を研(みが)くことで、やはりなんらかの研磨によって紙の繊維を引き締め、光沢を引き出す加工が行われていたということが伺えるのである。あるいはここで述べられているのが、佐伯氏の紙ではなかったとしても、五世紀の中国で好まれていた紙がどのようなものであったかを物語っている。
以上のように、紙を加工するということは、紙が筆記の主流となったきわめて初期のころから行われていたと推測される。紙を研いて繊維を緊縮させ、かつ筆運びが滑らかにし、墨の光沢が増すように加工するという発想は、紙の使用に先立つ木簡や、絹帛といった素材に施された加工から継承されたものであると考えられる。
すなわち木簡は削りだした後に研ぎをかけ、表面を滑らかに整えたであろうし、なんらかの溶液を塗布して書きやすさの改善を図っていた可能性もある。またこのうえなく貴重な絹帛も、畫を画くにせよ書を書くにせよ、やはり砧(きぬた)で打って物理的に繊維を緊張させて表面を平滑にし、礬砂を引くなどして吸水性を調整してから用いられたのである。
ともあれ加工紙の歴史は古いものがあり、実用の紙には何らかの加工が施されたものが主流であった。逆にいえば、漉いて乾燥させただけの生紙を大量に使用するようになったのはごくごく最近のことなのである。煮捶宣について煮捶宣について砑光を施した紙は、当然のことながら繊維が圧縮されて密度が大きな紙になっている。通常の生紙とくらべると、容積が小さい割りに重量がある。事実この煮硾宣はとても重い。これらの煮捶宣は砑光といっても、完全に光沢が出るまで研きをかけていないが、繊維がひきしまっており、また表面が滑らかである。
煮捶宣は、雲母を満遍なく塗布して叩いた蝉衣宣や、蝋を塗布した蝋箋などの熟紙にくらべると、幾分は生紙の性質を残しており、いわゆる半熟宣に分類される。芥子園画傳には、紙に加工を施す法が紹介されているが、礬砂を用いる法をきらって、サイカチで染める法を紹介している。礬砂を用いれば、にじみのかなりの部分が抑制されるが、たしかに墨の発色は悪くなるものである。近年市場で目にする安価な煮捶宣の多くは、礬砂によって滲みを抑制しており、滲まないかわりに墨色も冴えない紙である。
もちろん製法の能書きはともかくとして、紙は墨の発色が良くなければならない。これは絶対条件である。いくら伝統製法をうたったところで、良い紙でなければ何の意味も無い。滲まない紙そのものは、煮捶宣に限るものではない。滲みを抑制する加工法も色々あるが、なんにせよ使用する墨の本性を引き出してくれる紙でなければ、扱う価値はないものだ。
墨の色、特に濃墨の黒味が強く、かつ艶良く発色してくれなければならない。墨が粘るほどに充分に磨墨しているにもかかわらず、ボンヤリと灰色味がかった色しかだしてくれない紙は多い。淡墨の使用を前提に、滲みを強くするように作られた、近年の粗悪な棉料宣にはそれが多い。曰く有名ブランドの紙、曰く20年、30年寝かせた紙といっても、駄目な紙は駄目である。紙は80年代には急速に品質を低下させている。70年代の紙といえど怪しいものだ。ゆえに30年、40年経過した古紙といっても、まったくあてにはならないのである。
墨汁が濫用されている現代ではあまり意識はされないのかもしれないが、マトモな墨が黒く出ない紙は意外と多い。30年前の紙なら良いはずだ、という固定観念があるため、色が出ないのは墨が悪いの硯が悪いのと、おかしなことが言われているのも耳にする。実のところ、墨の発色の決め手は紙である。良い紙が無ければ、良い墨も威力を発揮しようが無い。
紙にせよ墨にせよ、年数が経過したほうが使いやすくなるのは事実である。しかし粗悪な材料、粗雑な製法で作られたものは、紙にせよ墨にせよ、年数が経過したところで良くはならない。いわく「枯れた紙」、いわく「枯れた墨」というような「枯れた」信仰も考え物なのである。
今回の入荷は単宣(重単宣)と、挟宣、そして倣古挟宣の三種類の紙に、煮捶加工を施した紙である。単宣がもっとも薄く、挟宣、倣古挟宣の順にやや厚みが出る。用途に合わせて使用されたいが、個人的には筆書には単宣、畫用には挟宣が適していると考えている。煮捶宣はわずかに墨が浸透するので、厚みのある紙の方が幾分は多めに墨を吸収する。であれば、薄手の単宣の方が、細かい筆運びが軽快に進むと思われるからである。
濃墨で筆書する場合はもちろん、書きあがった作品の墨色が冴えないとおもしろくないものだ。また畫を画く場合にしても、一点の濃墨が映えない紙というのは、淡墨をいくら駆使したところで、ボンヤリした畫にしかならない。墨を磨って使った方が良いという事を、なんとなく考えている方でも、いまひとつ墨を使う気にならないのは、そもそもマトモな墨を美しく発色してくれる紙が少ないためではないだろうか。

以下、少し煮捶宣からは話が逸れる。この煮捶宣は墨の発色が非常に良いので、墨色の試験にも使うことが出来る。いままでは、“曹氏牌二層玉版”や、“光緒御製紙”も利用していたが、この煮捶宣を得てからというもの、これを試墨に利用することが多くなった。以下はその一例。70年代の鐵齋翁書畫寶墨と、天瑞書巻墨の墨色の比較である。
煮捶宣について煮捶宣について
鐵齋翁書畫寶墨は、人気の高い墨であるが、70年代から80年代にかけて、その品質にかなりおおきな違いがあることが知られている。小生の印象としても、70年代最初期の鐵齋はまだいいが、80年代以降は良い物が無い。墨汁をもっぱら使うようになった現代と違い、30年前40年前の当時は墨質の違いに敏感な人達がまだかなりいたのだろう、当時から「年々鐵齋は悪くなる。」とか「昔の鐵齋は良かった。」などといわれたものである。
鐵齋翁書畫寶墨は、いまでは複数の工場で作られているが、その品質は一定ではなく、また昔日の鐵齋翁とは比べるべくも無い。しかし値段は昔にくらべてずいぶんと安価になっている。将来の用に備えて買い込んで寝かせている人もいるというが、材料・製法の劣った墨は、何十年寝かせたところでよくはならない。それは40年前の70年代鐵齋翁と、30年前の80年代鐵齋翁を比べるとよくわかることである。今でも昔の鐵齋翁を求める人は多いのであるが、じつのところ、70年代初頭の鐵齋翁にしてみても、いまやさほどに優れた墨であるとは思えない。
ともあれこの70年代に作られた鐵齋翁を、老坑水巌の小硯板で丁寧に磨墨する。これ以上はないほどに、濃く磨るのである。墨色を比較するのは濃墨においてである。淡墨の伸びを追うよりも、墨質の差異が確実に現れるのである。煉るほどに墨を磨った後、少し乾かして水分を飛ばし、さらに墨の濃度を高めるのである。
煮捶宣について煮捶宣について
煮捶宣のうち、煮捶単宣が墨色の試験には使いやすい。煮捶挟宣は厚みがあるので濃い色が出やすい。また倣古煮捶宣は地の色がわずかに灰色を呈しているため、墨色の判別には少し不便である。薄い単宣で深く艶良く発色してこその良墨である。
筆の中の余計な水分をティッシュなどで良く吸い取り、さらに墨を含ませてからまたティッシュで筆鋒の墨を吸出す。そこでもういちど墨液に浸して、筆鋒に墨を含ませる。煮捶宣の上に同じ調子で四本程度の線を引く。
煮捶宣について煮捶宣について
硯をきれいに洗浄し、天瑞書巻墨を磨る。硯が同じだからといって、墨を磨るコンディションはおなじではない。磨墨面の面積がことなれば、当然墨が溶出する速度も異なる。同じ回数、あるいは同じ時間だけ磨ったといっても、それでは同じ条件で墨色を比較したとは言い難い。やはりこれ以上は無理なほどに墨を濃く磨り、若干時間を置いて水分を蒸発させて濃度を高めた墨液を、同じ紙に用いることで比較するのがベターであろう。
天瑞書巻墨の墨液を使って、先の鐵齋翁書畫寶墨の墨跡の下に線を引く。これは特に決まりがあるわけではないので、画くのは線でも面でもいいだろう。しかし、同じ面に筆を二度往復させると、紙に浸透する墨液の量に違いが出てしまう。またムラになりやすい。一定の速度、同じ筆圧でユックリと筆を動かすのが良いようだ。
煮捶宣について乾いた跡で、低温のアイロンを当てて凹凸を平坦にし、鐵齋翁で書いた部分を切り取って、二つに折りたたみ、天瑞書巻墨で書いた墨跡の上に重ねる。左が天瑞書巻墨、右が鐵齋翁である。違いがお分かりであろうか。デジタルカメラによる撮影であると、小生の技術ではこのあたりが限界であるが、肉眼で見た場合はさらに顕著な違いを認めることが出来る。
鐵齋翁書畫寶墨も、70年代以降に作られた墨の中では出色の出来栄えである。しかし色身が曹素功らしい青というよりも、茶墨を思わせるような赤に傾き、なんだか?大有系の墨色を思わせる点が釈然としないところだ。加えて、絶対的な黒味にややかけるところがある。これは紙を得ないためなのかと考えていたが、どうも鐵齋墨自身の墨質の限界なのではないかと考えている。
煮捶宣について墨色の違いを見る場合、蛍光灯の光では差異がわかりにくい。自然光の下で監察した方がいいだろう。このような結果を示したところで、”天瑞”に有利なように手を加えたとか、あるいはなんらかの画像修正、トリックだと言われてしまえばそれまでである。
もちろん、ここに掲載した結果が結論ということを言いたいのではなく、こういった方法で確認するのもひとつのやり方であるから、興味を持たれた方は是非ご自身でお試しいただきたい、というまでである。墨色や墨の良否、あるいは紙に対する理解の一助となるはずである。
単純極まりない方法であるが、この手法を教わったのは墨匠からである。こういうことを、墨匠は毎朝一日の始めに、おびただしい墨に対して行っているのだという。これは異なった墨の比較だけではなく、同じ墨でも墨を磨ったときの硯や天候、湿度などのコンディションによる違いを確認するのである。あるいは異なった紙に同じ墨を使用し、紙の質の違いを比較してもいい。
良い墨色という、主観に傾きがちな価値判断に、ある程度の客観性を持たせようとするならば、このような方法で多くの墨と比較検討するよりほかないだろう。蘇軾が雪堂で多くの墨を試した際も、多くの墨をならべて比較している。墨の良否の判定を独断に拠らず、その黒さに基準を置き、比較することで多少なりとも客観的に捉えようとした態度がうかがえるのである。

ともあれ、墨の良否を判定するには、まずは紙がよくなければ話にならない。むろん、紙と墨の相性という問題もあり、一概に決め付けることは出来ないのであるが、大半の墨に対してその発色が信頼できる紙が身近にあるという事は、実に心強い。そういう意味でも、この煮捶宣は誠に重宝な紙である。
2009年の暑い夏に作られた紙であるが、寝かせることなくすぐに使用して差し支えない紙である。そもそも加工紙はすぐに使用することが出来るように、作られているのではないかと考えている。滲み易い生紙は、20年、30年経過することで、枯れてある程度は滲みが抑制された効果が現れる。しかし煮捶宣は、あらかじめ墨の発色効果を考え、紙に加工を施しているのである。
滲みが抑えられ、かつ発色の良い紙は、書を書くにしても畫を画くにしても、筆の軌跡が明瞭に紙の上に描かれる。かつて使われていた紙により近い紙が、煮捶宣である。弊店の墨の真価を引き出す上でも、是非ともお使いいただきたい紙である。
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金箋に画く

蘇州博物館では、清朝末期の海上派の書画の展示を見ることが出来た。特に今回は、任伯年や任薫の金扇面(金面扇)に見るべきものが多かったように思う。
任薫 金扇面任薫 金扇面現代では金箋(あるいは金牋、散金紙)を使う人というのは、どれほどいるのだろう。金箋ないし洒金箋(しゃきんせん)は、その名のとおり金箔(ないし泥金)を塗布した加工紙である。
その歴史は古く、唐 の王涯 (おう・がい)「宮詞」には“伝索金牋題寵号、鐙前御筆與親書” とある。また北宋の蘇軾が墨を贈られた喜びを詠った「孫莘(そん・しん)老寄墨」にも“金牋洒飛白、瑞霧萦長虹”とある。唐代や宋代の昔から、金箋が揮毫に用いられていたことはこれらの詩からも明らかである。しかし作品として伝存しているものとしては、明代にこれが多く見られる。
高価な紙であり、金箋のみで書巻になったものは少ない。しかし扇面、とくに折りたたみの扇に使用されることにより、金箋の使用がひろがったようである。折りたたみ式の扇子というのは、一説によれば宋代に高麗から伝わったといわれる。以前紹介した”猩猩毛筆”が高麗からもたらされたとき、その文物の中に折りたたみ式の扇子があり、これが時の士大夫達に流行したという。それまでは平面の団扇が主流であり、丸い団扇に書や画が描かれていた。これが宋代以降、徐々に折りたたみ式の扇子に変わって行ったと考えられている。
明代になるとこの扇面に金箋を用いたものが流行した。祝允明(しゅく・いんめい)、あるいは李応禎(り・おうてい)、文徴明(ぶん・ちょうめい)、呉寛(ご・かん)といった名手達の作品には、”金扇面”に揮毫したものを見ることが出来る。明代は特に扇面の所持が流行した時代で、都の士大夫は皆競って名士の筆跡、あるいは名のある畫人による扇面をもとめた。嘉靖年間には、杭州の杭扇、蘇州の蘇扇、金陵(現南京)の寧扇などの流派が成立していたと言われる。
明代に中国を訪れた宣教師、マテオ・リッチは「江南の人士は春夏秋冬、つねに扇子を持ち歩く」と不思議そうに書き残している。士大夫の子弟、特にお洒落に余念が無い公達にとっては、今で言うファッション・アイテムであり、交際を広げるメディアでもあった。当然、所持する扇面は一、二にとどまらない。
明代の嘉靖年間から万歴年間にかけて、徽州で文房四寶を扱っていた方用彬の手紙にも、扇面を求められる内容が散見される。この扇面を愛好する習慣は清朝でも継続され、清朝末期に至るまでさまざまな作例を目にすることが出来る。
扇面に使用される紙は、丈夫に加工された熟紙が多く、洒金箋のほかに蝉衣箋、蝋箋などが用いられている。
任薫 金扇面任薫 金扇面洒金箋の製法を大雑把に言うと、紙を染色して地色を与えた後に膠を塗布し、その上に金箔を砕いたものをまく、という工程を経る。この際の金箔の砕き方によって、洒金箋は三種類に大別される。
すなわち比較的小さな金箔片を使用したものを”屑金紙”といい、また大きな金箔を用いたものを”片金紙”、細かく破砕した”泥金”を用いたものを”泥金紙”という(ちなみに泥金は金箔を磨り潰して作られる)。また"屑金紙”と”片金紙”を合わせて”冷金箋”ともいう。
これら洒金箋は、全体を泥金で覆った泥金箋にせよ、冷金箋にせよ、墨が滲まず、表面が滑らかに加工された紙である。墨が滲まない性質というのは、”金”という金属の性質以前に、そのような加工が紙に施されているのである。

これら洒金箋(しゃきんせん)であるが、もとの紙の物性を完全に変化させた”熟紙”である。雲母を全面に塗布して圧力を加えた蝉衣宣(ぜんいせん)などとおなじく、墨はほとんど紙に浸透せず、また横広がりに滲むこともない。墨液は紙の表面にとどまって固着するのである。それだけに墨の本性の色が、そのまま現れる紙であるといえるだろう。
金箋の上に書や畫が画かれることは古くから行われてきたが、特に書に用いられたものが多いようだ(写真で掲載した例は畫ばかりであるが)。扇面でも表は白い紙に畫を画き、裏に張られた泥金箋には、書で詩文がしたためられているケースなどがある。
金扇面金箋ちなみに明代に泥金箋が盛行したのは何故であろうか?これは戦国時代から安土桃山にかけての日本は金を多く産出し、金扇や金屏風を明へ大量に輸出していたことも要因のひとつであると考えられる。金箔の製造にかけては、当時の日本は東アジア屈指の生産量を誇っていたといわれる。
無論、需要に応じて輸出したのであり、また日本から輸入された扇面だけではなく、中国でも洒金箋の生産は広く行われていた。明の考槃餘事には”細密洒金五色粉箋”、”五色大簾紙洒金箋”、”印金五色花箋”の名がみられる。また蘇州には“无(無)紋洒金箋”が名高かったという。
明代は洒金箋に限らず、さまざまな加工紙の製造が盛んになった時代であると言われる。ただし、伝存している紙が明代に比較的多いということもあり、宋代以前に優れた加工紙が存在しなかったというわけではない。明代、清朝においても、繰り返しつくられたのは南唐や宋代の加工紙の倣古であった。
またこれは推測に過ぎないが、明代に精良な油煙墨が作られるようになったことが、加工紙、特に洒金箋の流行と関係していると考えられる。艶がよく透明感のある油煙墨を使用すると、金箋の表面の光沢がこれを支持し、墨の光沢も一層高まるのである。反面、艶の少ない松烟墨を金箋に用いても、くすみが目だってあまり見栄えがしないものである。
もちろん明代より以前の元や宋の時代に、油煙墨が無かったというわけではない。また宋代における松烟墨は、後代における松烟墨よりもその光沢が強かったと考えられる。しかし明代、特に明代後期において、非常に精良な油煙墨が求められたのも、各種の加工紙や金扇の流行と無関係とは思えないのである。
光沢の強い墨を安定的に作り出すには、油煙墨の方が都合が良い。松烟は材料の松の選定、とくに年数を経た老松の選定が難しく、安定した供給は望めないものである。材料と採烟の工程によって、その色沢にバラつきが出やすいのである。加工紙の流行により、華麗な加工紙の上で映える、より光沢のある墨が求められたのではないだろうか。それが油煙墨の盛行、さらにはより色が深く艶のある墨色を得るための、油煙墨の製法の改良とも関係していると考えられる。事実、加工紙の上で用いると、墨質の違いは如実に現れるのである。
金扇面現代の日本では、滲み易い生紙に淡墨でもって大書することが大流行している。金箋に濃墨で書く、ということは、まさにその対極にあるような紙墨の使用法であり、注意を要する点がある。特に泥金箋に揮毫する場合、濃墨を上手く作ることがポイントになる。
一般に、日本の墨、和墨の方が同じ時間墨を磨った場合は濃くなる傾向がある。これは墨に含まれる、膠の量が少ないためであると考えられている。反面、中国の墨、唐墨はなかなか濃くならないとも言われる。和墨にも色々な種類の墨があり、唐墨もさまざまな配合法の墨がある。しかしあくまで全般的な傾向としては、和墨に比べて唐墨のほうが、濃くなるまでに墨を磨る時間を要するとはいえるだろう。
泥金箋や蝉衣箋に書く場合に限らず、たとえば封書や葉書の宛名書きなど、墨を全く含まないような紙に書いた場合、墨の濃淡は如実に現れる。生紙に書く場合であれば充分な墨の濃さであったとしても、加工紙に書く場合は薄すぎる場合がある。紙の中に墨が浸透する生紙であれば、紙の厚みを借りて墨は濃く見えるのであるが、紙の表面に固着する熟紙ではその効果が得られない。あくまで固着した墨の厚みのみによって濃度が出るのである。
熟紙に濃墨を用いる場合は、生紙に用いる以上の濃墨を作らなければならない。当然、濃度が高いので墨液の粘性は高くなる。しかし蝉衣箋にせよ泥金箋にせよ、紙の表面はいたって滑らかに加工されている。滲むことはなく、また粘って筆をとられることも少ないのである。
膠が枯れた古い墨であれば、濃墨を作ることは比較的容易である。長い間磨っていても墨液が粘って飽和することなく、容易に濃墨が得られるのである。しかし新しい墨、特に膠分の多い唐墨の場合は若干工夫が必要である。
金箋に画く綺麗に洗って乾かした硯の上に、水を数滴落とし、墨を磨る。墨が濃くなってきたと感じたら、再び数滴の水をたらして磨る。ここまでは普通の墨の磨り方である。ある程度磨っていると、墨液に粘性を感じるようになる。生紙や竹紙に書いて充分な濃度になったところで墨を磨るのを一度やめて、しばらく放置する。すると磨った墨液の縁が少し乾いてくるのがお分かりかと思われる。
当然、水分が蒸発すれば、墨の濃度は高くなるというわけである。しかし新しい墨や、あるいは膠の重い墨を泥金箋に用いる場合は、ここでさらに墨を磨るのである。こうすると、連続して墨を磨っている場合よりも、墨をうまく濃墨に持って行くことができる。ひとつには墨液の水分が蒸発して、墨液の濃度が高まるということもあるだろう。もうひとつは磨っている墨の磨墨面が若干乾くからでもあると考えている。金箋に画くこれは1度で足りないときは、2度、3度行うときもある。同じ墨でも、使用する硯や天候や、湿度、墨の乾燥状態などにも左右されるところである。特に湿度の高い夏場は、墨が濃くなりにくい。
現代中国でも墨液を乾燥させて濃度を高めるのは、「宿墨法」として歴とした墨の用法に分類されている。「濃墨法」よりもさらに濃度を高め、いわゆる「画龍点睛」を施すときに用いる技法である。
「宿墨」と言っても、日本と現代の中国では使われる意味が少し意味が違うようだ。日本で宿墨というと、一昼夜程度経過し、墨の膠分が沈殿したような状態を言う。そのような墨は、金箋に用いるのは良くないだろう。墨の膠分が沈殿して、書いても艶がなく、また墨色も薄くなってしまっている。これは考槃餘事でも墨の用法として戒めているところである。ただし北宋の郭煕が言うところの「宿墨」は、むしろ現代の日本でいうところの「宿墨」に近い。このあたりは時代や文脈で意味がことなるもので、厳密な定義があるとはいえない。あまり言葉にとらわれず、墨液の状態を中心に考えた方が良いのかもしれない。

泥金箋に濃墨で書くと、墨が乾いた直後はいかにも墨がカサッとした、光沢のない色を呈し、これに愕然とするかもしれない。しかし不思議なことに、乾いてしばらくすると、墨色はしっとりとした潤いを帯び、墨色に光沢があらわれてくる。良い墨を用いれば、墨色はいつまでも潤いを帯びて艶よく輝き、あたかも昨日書いたかのような生彩を見せる。良紙には良墨を用いるべき所以である。
唐の陸游の詩「秋晴(または秋游)」に“韫玉硯凹宜墨色,冷金箋滑助詩情”とある。「韫玉硯のくぼみに溜まった墨は良い色艶だ。(この墨を用いても)滑らかで筆が滞ることのない冷金箋は、詩情の赴くままに筆を運ぶことが出来る」というところだろう。古代において、滑らかに加工された紙が好まれたことがうかがえる。また硯は「凹」とある。陸游は凹んだ硯が好きだったのか“重簾不卷留香久 古硯微凹聚墨多“という詩も詠んでいる。
「古硯」というだけに、摩滅によって凹面を呈したとも考えられるが、初めから凹面に作った硯”凹心硯”も存在している。明の陶宗儀「輟耕録・墨」には“至魏晋時、始有墨丸、乃漆烟松媒夾和為之、所以晋人多用凹心硯者、欲磨墨貯沈耳”とある。つまり魏晋の頃は墨丸という煤を丸めた墨を用い、これを中心が凹んだ硯で漆と混ぜて用いた、ということである。すり鉢状に深く凹んでいることにより、雑物があれば沈殿し、上澄みを用いるのであれば都合が良い。それが膠で出来た墨を用いる時代になっても、使い勝手の面からその形状が踏襲されたとも考えられる。事実、深い墨池を持たない硯では、わずかに墨堂を凹ませて作られているものが多くみられる。
ここで陸游は、硯に湛えられた墨色を観て「宜しい」と言っている。つまりは冷金箋に書く前の墨の濃度、艶を硯の上の墨液で判断しているということである。そのように用いる場合は硯面がやや凹面を為し、墨液が中心に集まる硯の方が都合が良いだろう。墨液が墨堂いっぱいに広がってしまうようであれば、乾いた後、墨を取るところが少なくなってしまうのである。

言うまでもないことだが、金箋を用いた扇は明代当時も高価な品であった。日本からの輸入品という事であればなおさらである。そこへ揮毫するとなると一回で決めなくてはならない。科挙に応じる試験勉強で鍛えた士大夫の子弟であれば、それも造作もないことであろう。科挙の答案も書き損じは減点対象なのである。絹帛への揮毫も求められる名家ともなれば、金箋でたじろいでいては話にならないであろう。
しかし現代では、数十枚から時には数百枚も書き、そのうちの一枚を選ぶといったスタイルが流行している。紙の大量生産が可能になり、墨汁が濫用されるなか、資源の浪費は筆書の世界も変質させている。泥金箋のような加工紙が衰退するのも、やむを得ないことなのかもしれない。
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「澄心堂紙」について

台北の故宮博物院に、蔡襄(さいじょう:1012-1067)の「澄心堂帖(ちょうしんどうちょう)」がある。この蔡襄が五十二歳の時に書かれた墨跡は、数年前に台北故宮で開催された「北宋書画展」で目にしたのが最後であった。当時は展示室が暗くてはっきりわからなかったが、斜視するとうっすらと胡粉で画いたような暗紋が浮かび上がる、精良な加工紙であったと記憶している.....後で聞いたところでは、そんな暗紋見えなかったという人も結構いる。あるいは「暗紋」が見えたのは、小生の記憶違いかもしれない。
ともあれ澄心堂紙が、加工紙であったことは疑いないところである。澄心堂紙については、蔡襄と同時代の米芾(べい・ふつ)が「書史」という文章の中で、その真贋の鑑別法をのべている。
そこには“古澄心堂水洗浸一夕,明鋪于床上,漿硬已去,紙復元性,万个池者也”。とある。書き下せば「古澄心堂は水洗(すいせん)し浸(ひた)すこと一夕(いっせき),床上(しょうじょう)に明鋪(めいほ)し,漿(しょう)の硬(かた)きは已(すで)に去(さ)り,紙の性(せい)を復元す,万个(まんが)の池(ち)の者(もの)也」となろうか。
最後の「万个池者」だけやや解説を要するだろうが、「千个万个」は「無数の」という意味で、また「池(者)」は(とくに縁の)装飾、という意味がある。
大意は「古い澄心堂紙は、一昼夜水に浸して洗い、床の上にきれいに敷き広げる。漿(しょう)の固くなったものは取り去られ、紙は元の姿にもどる。無数の装飾が施された紙である」というところであろうか。
現代の表具の世界でも“洗い”をかけるという処置があるが、これによって紙のシミや汚れたところが落ちるのである。米芾は表具・表装にもきわめて深い造詣と技術を有しており、蒐集した古書画の表装や修復も自らおこなっていたという。この「書史」の中では、米芾が手に入れた澄心堂紙、ないし澄心堂紙を使用した古書画を、“洗い“にかけている様子が述べられているようだ。
「漿硬已去」というのは、付着して硬くなった「漿(しょう)」を取り去っているということだが、この「漿(しょう)」とはなんであろうか?単に「漿」といえば、米を煮た際の上澄み、すなわち重湯を指すものである。粥を常食する中国では、日々家庭にありふれたものだ。
しかしもうひとつ、「豆漿(とうしょう)」を指すこともあり、これは日本で言う「豆乳」のことである。「豆漿」も長い間中国で常食されてきた食品である。また現代でもこの「豆漿」を塗布した加工紙が作られており、「豆腐箋」などとよばれている。「豆腐箋」も本質的には生紙を加工し、滲みを押さえた紙である。
「芥子園画伝(かいしえんがでん)」には、梍(さいかち)の実を煮出した汁で、紙を染める法が記載されている。これは礬砂(どうさ)を用いずに、紙の滲みを調整する法であるとしている。サイカチは古くから石鹸の代用品として使われており、洗浄力のもととなるのは“サポニン”という成分である。豆乳にも“大豆サポニン”が多く含まれるので、あるいはサイカチで染める場合と、同じ作用があるのかもしれない。
北宋の呉淑(ごしゅく:字は正儀、947-1002)の「江淮異人録・耿先生」という文には“上乃取水銀,以硾紙重復裹之,封題甚密”とある「上のすなわち水の銀なるを取り、硾(つい)を以って紙を重ね、復(ふく)して之を裏(打ち)すると、題を封じて甚だ密」ということである。題箋の作り方を述べているのだが、ここでいう「上乃取水銀」とは、粥を煮た上澄み、重湯のこととも考えられるし、あるいは豆を煮た上澄みということも考えられる。
また南宋の周密(しゅうみつ:1232〜1298)の「癸辛雑識前集」には 「唐人多用白麻紙,皆先砑光,而后漿硾,若先塗布再砑光,効果就更好了」とある。すなわち「唐代の人は白麻紙を多用した。先ず研磨して光沢を出し、しかる後に漿硾(しょうつい)する、あるいは先に(漿)を塗布し再び研磨すると、効果はさらによくなる」とやはり紙の加工に“漿“を用いることを述べている。
米芾が言うように、古い澄心堂紙にこれが固着しているというのは、“漿”が劣化したものであると考えられる。とすれば米芾(べい・ふつ)が扱った澄心堂紙に塗布されていたのは、やはり米を煮た重湯であったと考えたほうが自然のようではある。

紙の加工に何らかの液体を塗布する法としては、豆漿や重湯のほかにも、礬砂、膠水(こうすい:膠の希釈液)、卵白、あるいは麺の湯で汁などが知られている。生紙になんらかの材料を加えた紙は、半加工紙、すなわち半熟箋(宣)に分類される。また塗布する材料にさまざまなものがあったとしても、その目的は紙の滲みや顔料の発色の調整、運筆の改良にあったと考えられる。半熟宣は、にじみやすい生紙の性質を調整しながらも、ある部分は生紙の性質を残した紙であるといえるだろう。これにさらに雲母や蝋を塗布し、植物繊維としての紙の物性を根本的に変えた紙は熟箋とよばれるようである。
また呉淑や周密が述べているように、材料を加えて性質を変えると同時に、紙を叩くなどして繊維を引き締める処理も加えられることがある。紙に打撃を与えて繊維を緊縮させることで、墨液の浸透はおさえられる。また繊維が圧縮され、紙の表面がなめらかになるのである。滲みを抑えると同時に、筆に与える摩擦を低減させた加工法といえるだろう。
この重湯や膠のような粘性を持った液体を与え、かつ圧力や打撃を加えるという作業をほどこすことで、重湯や膠はそれ自体が滲みを抑える働きを持つが、さらに圧力をかけたり磨くなどした、紙の繊維の状態を保持する役割もあったであろう。衣服に糊をきかせて形状を安定させることと、発想は似ているといえる。

加工の程度によって熟箋か半熟箋に分かれるが、大きな違いは、墨との関係で言えば、墨液の浸透と墨の定着にある。滲みをほぼ完全に止めた蝋箋や蝉衣箋などの熟箋は、墨がほとんど浸透せず、表面で乾いて固着する。そのため紙面の光沢が、ある程度は墨の光沢に寄与することになる。一方の半熟箋は横広がりに滲むことはないが、わずかに紙に墨液が浸透して定着する。この場合は紙の内部で墨が発色し、光沢は抑えられるが深みのある色合いになる。
また運筆との関係で言えば、滑らかに加工された熟箋はまったく筆が滞ることはないが、半熟箋は未加工の生紙ほどではないにせよ、わずかに筆に抵抗感がかかるものである。筆にかかる抵抗感が少ないほど、墨を含んだ筆が紙上を通過した軌跡そのもの、端整で繊細な描線が可能である。しかし抵抗があれば、そのぶん運筆が渋(しぶ)る気配がある。しかしこの運筆の“渋り“を強いて押して運筆すれば、筆線は勢い重厚で力強いものになるのである。
米芾が述べているように、澄心堂紙は紋様が施された紙であったのだろうか。清の乾隆帝が作らせた華麗な加工紙、いわゆる乾隆紙や淳化閣紙は、蝋箋に加工された紙に描金を施したものである。しかし金泥や胡粉による描画は、かならずしも蝋箋のような熟箋(加工紙)にのみ施される処置ではない。米芾が扱った”古澄心堂紙“は、半熟箋に線描で紋様が画かれた紙であったかもしれない。また紋様のあった紙もあれば、無地の紙もあったと考えるべきであろう。さらにいえば、”澄心堂紙”と総称される紙の製法が、ただひとつであったと考える理由はなく、熟宣もあれば半熟宣もあったかもしれない。
さすがにサラの澄心堂紙を入手するのは不可能事であるから、残された記録から類推するより他ない。澄心堂紙そのもののことはついにわからなくても、当時の士大夫がどのような紙を好んだかという点については、おぼろげながらその姿が見えてくるかもしれない。

この澄心堂紙をめぐっては、北宋士大夫の間で興味深いやりとりがあったことが、当時の詩文を読むとわかる。
南唐の李景(り・けい)・李?(り・こう)の時代に製作された紙、墨、硯、筆は精良を極めたようだ。続く北宋時代の士大夫達にとっては、李廷珪墨、澄心堂紙、南唐官硯、汪伯立(おうはくりつ)の筆は、まさに憧憬の的なのであった。
実際に北宋時代には南唐皇室が残した文房四寶が市場に流出し、士大夫達の手に渡った形跡がある。南唐は宋に滅ぼされて滅んだが、この際に南唐最後の皇帝、李後主こと李?は捉えられて宋の首都開封に送られ、以後は軟禁状態で一生を終えたという。また李後主と一緒に、南唐皇室が蓄えた文物の多くが開封に運ばれたという。その中に李廷珪墨や澄心堂紙が含まれていたようだ。
しかし何故か、北宋の宮廷では澄心堂紙が使われることが好まれなかったという。これは国政を省みず奢侈に耽って国を滅ぼした、南唐の皇室が作らせた文物を、宋の皇帝達が使いたがらなかったためであるとも言われている。宋の宮廷では、別に官製の紙を作らせて使用したため、南唐製の澄心堂紙は宮廷に死蔵され、産地でもあまり作られなくなっていった。一方で収蔵されていた澄心堂紙は、少しづつ民間に流出していった。宮廷で使われない澄心堂紙は、時折その臣下に下賜されたようだ。“淳化閣帖”には澄心堂紙と李廷珪墨が使われたというが、これも多くは臣下に下賜されたのである。
北宋の劉敞(りゅう・しょう:1019〜1068)、字は原父は澄心堂紙の下賜をうけたひとりであり、“流落人間万无一,我从故府得百枚。(世間に流伝しているものは、万にひとつもない。私はさいわい宮廷に仕えて百枚を得た)”と、澄心堂紙百枚を得たことを感激とともに詩にうたっている。
南唐が滅亡したのが975年のことであるから、劉敞が生まれたときにはすでに半世紀近くの歳月が流れている。現代でもたとえば1960年代〜1970年代に製造された紙を求めたところで、それほど市場に流通しているわけではない。滅んだ南唐王朝の文物を市中で入手するのは、ほとんど奇跡に近いことであっただろう。劉敞は、はからずも宮廷にあって下賜の恩恵をうけたわけである。
劉敞はそのうちの十幅を親しい友人である欧陽脩(おう・ようしゅう:1007-1070)に贈っている。宋の八大家に数えられる欧陽脩も、澄心堂紙を得てもちろん大喜び、さっそく「和劉原父澄心堂紙」という詩を詠んでいる。そのなかに“君家虽有澄心纸,有敢下笔知识哉。(君の家には澄心堂紙があるが、誰かあえてこれに書くものがいるだろうか)”とある。実はこの詩では南唐の敗亡がうたわれており、澄心堂紙を使用しないのは、亡国の産物を忌避するからであろう、というニュアンスがある。不吉な紙だから私に送って寄越したのだな、という親しいもの同士の冗談もまじっている。それでも“君从何処得此紙,純堅瑩膩卷百枚。(君は何の功績があってこの紙を得たのだろう?純粋で堅実、滑らかな光沢をもった紙が百枚も)”と、その澄心堂紙の精良さをたたえているのである。

少し話は変わるが、欧陽脩と同時代人に名墨匠、潘谷がいる。彼は製墨だけではなく、紙も手がけたようだ。澄心堂紙を模した倣澄心堂紙を、故郷の歙県で作っているのである。墨をつくる潘谷としても、自分の作った墨の真価を十二分に発揮するためには、ぜひとも精良な紙が必要であるという認識を持っていたのだろう。製紙を手がけた形跡のある墨匠としては、他に明の羅小華や方于魯がいる。この場合の製紙とは、紙を一から漉くだけではなく、その加工も含んでいる。詩人であった方于魯は、詩箋に独自の工夫があったといわれている。
さて蘇軾(1036-1101)と親しかった潘谷であるが、蘇軾よりひと世代上の梅尭臣(1002-1060)とも深い親交を結んでいたようだ。潘谷は自ら製した澄心堂紙を、梅尭臣に贈るのである。潘谷の生卒は不明だが、おそらくは欧陽脩、劉敞と同じ世代に属していたのだろう。梅尭臣は妻の姻戚を通じて欧陽脩と親しく、梅尭臣の墓誌銘は欧陽脩が撰している。また蘇軾は欧陽脩、梅尭臣が試験監督をつとめた際の科挙に及第している。潘谷と蘇軾との親交も、おそらくは欧陽脩等との交際を通じてはじまったのだろう。
それはさておき、梅尭臣は潘谷から澄心堂紙を贈られ詩をつくる。このとき潘谷は硯も一面贈っていたようだ。梅尭臣が「謝潘歙州寄紙三百番石硯一枚」でうたうには“永叔新詩笑原父,不将澄心紙寄予。澄心紙出新安郡,臘月敲冰滑有余。潘侯不独能致紙,羅紋細硯鐫龍尾。:永叔(欧陽脩)は新詩で原父(劉敞)を笑ったが、私には澄心堂紙を寄越さないじゃないか。澄心堂紙は新安群(徽州一帯)で作られる。臘月(12月)の寒い冬によく搗きこんで氷のように滑らかになったその紙がある。潘谷は紙をうまくつくるだけではないようだ、龍尾石を削って細かい羅紋の硯をつくってくれた”とある。ここでも、澄心堂紙が「
敲(こう)」すなわち「叩く」ことによって作られることが明確に述べられている。
この梅尭臣の詩は、とうぜん欧陽脩の目に触れるところとなったのだろう。というより、あきらかに読ませるつもりで作った詩である。そこで欧陽脩は梅尭臣に、自分の手持ちの十枚から二枚の澄心堂紙を割いて、梅尭臣に分けてあげたようだ。狂喜した梅尭臣は「永叔(すなわち欧陽脩)寄澄心堂二幅」という詩を詠んで、“滑如春冰密如繭,把玩驚喜心徘徊(その滑らかなことは春の冰のようで、緻密なことは繭のようである。手にとって眺めては心は驚き弾んでしまう)”とうたっている。
さらに梅尭臣は数年して「答宋学士次道寄澄心堂紙百幅」という詩をつくり、恐らくは潘谷から贈られた紙と古い澄心堂紙を比べ“而今制作已軽薄,比於古紙誠堪嗤。古紙精光肉理厚,迩歳好事亦稍推。:現在作られた澄心堂紙はすでに薄く軽く、古いものとくらべると哂うべきものである。古い澄心堂紙は艶があり肉厚で、近年になって幸いまた少しだけ手に入れることができた”とうたっている。
潘谷の製した澄心堂紙といえど、現在もし入手できれば決して馬鹿に出来ない精良な紙であったには違いないが、やはり南唐の皇室が作らせた紙に及ぶものではなかったのだろうか。
さて蔡襄の“澄心堂帖“には、蔡襄がこの澄心堂紙について論じた文が書かれている。
“澄心堂紙一幅、闊狭、厚薄、堅実皆類此、乃佳。工者不願為、又恐不能為之。試與厚直、莫得之。見其楮細、似可作也。便人只求百幅。癸卯重陽日、襄書」とある。書き下せば「澄心堂紙一幅、闊(ひろ)く狭(せま)く、厚(あつ)く薄(うす)く、堅実(けんじつな)ことは皆(み)な此(こ)の類(たぐい)、乃(すなわ)ち佳。工者(こうしゃ)は為(な)すを願わず、又(また)恐(おそ)れ之に為す能(あた)わず。試(こころ)みて厚直(こうちょく)、之を得る莫(な)し。其(そ)の楮(ちょ)の細(さい)を見、似可作也。便人(べんじん)只(た)だ百幅を求める。癸卯重陽日、襄書」となろうか。だいぶ省略されているので、解釈はやや難しい。
あえて大意を示せば「澄心堂紙が一幅ある。(いったい良い紙というのは)広過ぎず狭過ぎず、厚過ぎず薄過ぎないものが良い(これはまさに良い紙である)。(書に)工(たく)みな者といえど、(あえてこの紙に)書くことを願わないであろうし、仕損じることをおそれて書こうとはしないだろう。ちょっと試したいと思っても、あまりにも厚直(高価)な紙であり、入手するすべもない。その繊維の細かいことをつぶさにみれば、それもいたしかたないことであるとわかる。その道に通じた者であれば、ただただ百幅ほどを手にいれたいと願うばかりである。」というところだろうか。
最後に「便人(べんじん)只(た)だ百幅を求める。」とあるが、「便人(べんじん)」はその道の熟達者という意味がある。書法に通じたものを言うのだろう。欧陽脩と詩文を盛んに応酬した蔡襄であるから、あるいはこの澄心堂紙の一枚も、欧陽脩から譲りうけた紙ということも考えられる。とすれば「百幅」というのは、暗に劉敞が百枚の澄心堂紙を下賜された幸運を指しているのかもしれない。
この「澄心堂帖」は大きさは24cm×27cm程度の断片である。蔡襄はその一幅を入手したとはいえ、とてもすべてを使い切る気にはなれなかったのか、あるいは後世になって裁断されたのか。ともかく「蔡襄」の「澄心堂帖」はその紙の精良さもさることながら、まぎれもなく蔡襄の傑作のひとつであり、その重厚な力量が遺憾なく発揮されているのである......現代では、書展の度にいったいどれほどの紙が浪費されるのか想像もつかないが、何十枚、何百枚と書いて一枚を選ぶのが現代の書の創作のプロセスであるという。これではたとえ澄心堂紙が現代にあっても、“百幅“程度ではお話にもならないに違いない。

話をもどすと、澄心堂紙は紋様の有無はともかく、漉いて乾燥した後に”漿”という紙質を調整する材料を塗布し、叩いて表面を滑らかに加工した紙であるという事はほぼ間違いがないようだ。叩いて繊維を緊縮し、光沢を出し、なおかつ「厚みがある」ということは、加工前の原紙は相当な厚みがあったのかもしれない。日々の使用には竹紙が多く用いられたと考えられる宋代であるが、一概に薄手の紙が好まれたということではないようだ。また表面に光沢があるかのように、滑らかな紙が求められたようである。

澄心堂紙をめぐる梅尭臣等の詩は、彼と応酬した欧陽脩の詩もふくめて興味深いものがあるのだが、長いので別の機会に紹介したい。ともかく「澄心堂紙」というのは、時の文壇を担う名士達の耳目をそば立たせずにはおれなかったのだろう、数多くの詩文がのこされている。また澄心堂紙についてうたわれた詩や書かれた文章の数々は、当時の士大夫達の文房四寶に対する関心の深かさ、その確かな証であるといえるだろう。
落款印01

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