四体筆勢 1. 〜蒼頡と沮誦

さて、宿題にしていた「四体筆勢」の読解を進めようと思う。別段、専門的な研究といったほどの知識も能力も持ち合わせていない者の解釈なのでいいたい放題であるが、読み物程度にお考えいただきたい。

しかし読むほどに四体筆勢が、現存する最古の書論のみならず、優れた内容を持っていることに気づかされるのであるが、今回は冒頭の以下の短い一節のみについて。

昔在黃帝、創制造物。有沮誦、倉頡者、始作書契以代結繩、蓋睹鳥跡以興思也。

書き下せば、

昔し黃帝(こうてい)あり、造物(ぞうぶつ)を創制(そうせい)す。沮誦(そよう)、倉頡(そうけつ)者あり、始(はじ)めて書契(しょけい)を作り、以って結繩(けつじょう)代える。蓋(けだ)し鳥跡(ちょうせき)を以って睹(もく)し思(し)を興(おこ)す也(なり)。
とりあえずの大意を示せば、

昔し黃帝が造物を創制された。沮誦(そよう)と倉頡(そうけつ)という者がいて、始(はじ)めて書契(しょけい=文章)を作り、それでもって縄の結び目による記録・伝達手段に代えた。おそらく鳥の足跡をみて文字を発想したのだろう。

というところか。
はるか太古の黄帝の時代、倉頡という人物が文字の創案者、ということを述べている。この倉頡はまた蒼頡ともかく。

「倉」は「クラ」すなわち”モノがたくさん集まったところ”を表すのが原義である。また「蒼」は「あおい」という意味があるが、もとは草が集まった色を表している。山は近くで見れば「みどり」でおおわれているが、遠くから見れば「あおい」ように、植物が密生した草原もまた「あおい」のである。
この「倉」ないし「蒼」という姓は、周の王室の姫姓とともに古くから存在し、もとは官倉の管理責任者の官職名が氏姓に転じたと考えられている。

四体筆勢の筆者の衛恒は三国時代末期から西晋にかけて生きた、西暦でいえばおよそ三世紀の人物である。一方で冒頭で触れた”蒼頡”による文字の起源説については、衛恒の時代からさかのぼることおよそ500年前、紀元前二世紀頃には知られていたようだ。

たとえば「荀子・解蔽」に“好書者眾(衆)矣,而倉頡獨傳者壹也”とある。また「韓非子・五蠹」には“昔者倉頡之作書也”とある。さらに「呂氏春秋・君守篇」にも”奚仲作車、倉頡作書”という記述がみられる。これらの書物はすべて紀元前2世紀ごろに書かれたと考えられている。
少し時代が下って紀元前1世紀の前漢時代、「淮南子·本経」には“昔者倉頡作書、而天雨粟、鬼夜哭。”という記載がある。
この淮南子の記述については、つまりは文字が出来たことを嘉(よみ)して天は粟(穀物)の雨を降らせ、鬼(神)は夜にむせび泣いた、ということである。
論語にはすでに「(孔子は)怪力乱神を語らず」という言葉がある。鬼神はここでいう神、のことである。文字の発明によって人間の知識が増加蓄積し、知恵の光に照らされることで怪異の立つ瀬がなくなることを嘆いた、という意味になるだろうか。

ともあれ紀元前2世紀から前1世紀ごろの知識人にとっては、文字の発明者として蒼頡の名は常識化していた、と考えていいだろう。だから三国時代後期の衛恒もその知識を踏まえて四体筆勢の冒頭に蒼頡の名を掲げているのである。
しかしこの2世紀の知識人たちの知識がどこから来たのか?という点は少し考える必要があるだろう。

呂氏春秋を編纂させた呂不韋も、韓非子、さらには荀子も、ほぼ同時代の人物である。韓非子は荀子の弟子であったという説もある。(これを否定する説もある。)
いうまでもなく呂不韋は秦の始皇帝に仕えた(始皇帝の実父という説もある)豪商であり、巨費を投じて知識人を集め、呂氏春秋を編纂させた。韓非子は後に秦に仕えるが、それは呂不韋の失脚の後である。
秦というのは戦国春秋時代のはじめは西方の後進国であったが、次第に強大となり、ついには六国を滅ぼして中原を統一する。
それまで中原における知識の先進地域というのは、孔子の出身地である魯を中心とする地域、中原の東方であった。しかし呂不韋のころには秦も相当に知識文化が進んでいることがうかがえる。むろん、秦の統一後に焚書坑儒によって膨大な文献が亡失したと考えられ、先に挙げた荀子や韓非子、呂氏春秋といった書物は秦にゆかりをもつだけに残存したとも考えられる。しかしそれとは別に、秦は西方との交易をひらき、西域経由で西アジアの文化を積極的に輸入していた事も無視できない。
秦が天下を統一できたのは、中原に対して黄河の上流に位置する地の利もさることながら、西域からの新知識の導入も貢献していたと考えられる。始皇帝は手を尽くして不老不死の法を求めたが、現代風に言えば最先端の知識・テクノロジーを求めてやまなかった、ということになる。
始皇帝陵がピラミッド構造をなし、復活再生を信じて壮大な死後の世界を地下に築くという発想、知識自体が、おそらくはエジプトを起源とする死生観に基づくという説もある。
推測の域を出ないが、この蒼頡の文字の起源説も、やはり西方由来の知識に基づくのではないか?と考えられるふしがある。

話が西に飛ぶが、人類最古の文明といえばメソポタミアに始まるとされる。ひとくちにメソポタミア文明と言っても、実際はメソポタミア地方に大小複数の文明が存在したことがわかっている。
そのメソポタミア文明における粘土板に刻まれた楔形文字は、その最古の部類は占いの結果を記すものであったという。これは古代中国において、甲骨文がやはり占いの結果を記録する用途において使用されてきた事に類似している。

先に掲げた「四体筆勢」の冒頭には『蓋(けだ)し鳥跡を睹(もく)し、以って思(し)を興(おこ)すなり』とある。すなわち「鳥跡」つまりは鳥の足跡をじっとみて、その形象に文字のアイデアを得た、ということである。

鳥が足跡を残すのは泥濘の上である。また湿地に降り立つのは、多くは足が長く首の長い水鳥を想起する。
メソポタミア文明における楔形文字は、粘土板にアシのペンでもって刻み付けることで筆記されたという。紙に比べれば重量もありかさばるが、乾く前なら修正が用意で再利用もできるうえ、焼成すれば焼失しにくい記録媒体である。
逆三角形が基調の鳥の足も、見る角度では楔形にも見える。基本的に同じ形象のクサビの数や配置によって記号の異同を表す楔形文字であるが、鳥の足跡が並んでいるようにも見える。
また水鳥が泥濘に残した足跡が文字になったという伝説は、どこか粘土板に葦のペンで刻まれたクサビ形文字を想起させるところがある。いうまでもなく葦は河岸に繁茂する植物である。
現代でいう篆書体と隸書体が中心であった衛恒の時代も、出土文物である青銅器や獣骨に刻まれた古代文字は知られていたと考えられる。後述するが「四体筆勢」には古文、つまりは古代文字が発見された事例が記述されている。
獣骨や亀の甲羅、あるいは青銅器に刻まれた甲骨文の形状が、鋭い水鳥の足跡の重ね合わせに似ているといえば、似ていないこともない。

ちなみにメソポタミアにおける知恵と文字の神はNabuといい、またはTutuともいう。そのイメージは、美髯の神人ないしは有翼神人として描かれている。
また古代エジプト神話における文字の神はThoth(トト)であり、水鳥のトキないしはヒヒの姿をしているという。一般にThothといえばトキの姿ないしは鳥面有翼の神人としての像が良く知られている。
ここでメソポタミア神話におけるNabuがエジプト神話におけるThothなのである、というのはまったくの早計なのであるが、人類最古の文明といわれるメソポタミア文明と二番目に古いとされるエジプト文明において、文字の起源に神が存在する、というのは示唆的である。神の意思を読むべき卜占を記録する文字の創案が、人間の手によるべきものではない、という考え方であろう。

以下は推測に過ぎないが、おそらく紀元前2世紀の中原の書物に言及されるところの”蒼頡”というのは、西域経由でこれら中東〜西アジア起源の神話が伝播した結果、その知識内容が翻訳変化したものではないか?と考えられるのである。

蒼頡の”頡”は、詩経(邶風・燕燕)に「燕燕於飛、頡之頏之」とあるように、鳥が(上方に)飛翔することを意味する語である。また「頡」には(まっすぐに硬直した)「首」という意味がある。また「頏」は飛び降りることと、さらにはやはり「首」という意味がある。
蒼頡の「頡」は首、ないしは鳥の飛翔にかかわる文字であり、鳥の足跡が文字の創案の契機となったという伝説と考え合わせると示唆的である。エジプトのThothが水鳥の格好をしているところにも、どこかつながりを感じさせるものがある。
Thothが水鳥の姿をしているのは、天空を舞う鳥に神の姿を仮託するという古代エジプト神に共通のイメージと同時に、筆記媒体であるパピルスがナイル川河畔に多く自生し、また筆記具として葦のペンが使用されることと無関係ではないだろう。鳥の中でも、特に水辺を想起させる水鳥、すなわちトキの姿をとるのではないだろうか。

蒼頡とならんでもう一人沮誦、という人物が出てくる。道教の説では沮誦は蒼頡とともに黄帝の四人の史官の一人であり、蒼頡の助手を務めた、といわれている。もちろんこれは「四体筆勢」よりさらに後世、道教の発展の過程で形成された伝説である。
ところが蒼頡に関しては2世紀頃の複数の書物にその名が現れているが、沮誦に関しては記載されている史料が見当たらない。四体筆勢には蒼頡の前に沮誦の名が挙げられているにも関わらず、先の韓非子や荀子、呂氏春秋には見当たらないのである。

沮誦は、また詛誦、ないしは沮頌とも書かれる。”沮”には流れをせき止める、という意味がある。”沮”のサンズイと”詛”とゴンベンは、草書ないし行書に約せばほぼ同じ字形になる。”詛”は呪詛、というように誓いや呪いを口にする、という意味がある。また”頌”は古くは祝願を表す字であるが、朗読という意味もあり、ほぼ”誦”と同意の文字である。
沮誦ないし詛誦、または沮頌という人物の名も、文字の発明と無関係ではないだろう。すなわち記録可能な文字の出現以前には、口伝による伝承の時代が長く続いていた、と考えられるからである。文字はなかったが言葉や会話はすでに存在していて、それが沮誦ないしは詛誦という人物の名に、痕跡として表れているのではないだろうか。

あるいは沮誦という人物の名称自体、西方から伝播してきた書物を誤訳した結果ではないか?という疑惑がある。なぜか?

文字の発明の後、”書契”でもって”結縄”にとってかわった、と述べている。
この書契は今でも”文章”という意味でつかわれる単語であるが、書契の契は古くは”鍥”と同意であり、”鍥”は刀でもって刻む彫刻する、という意味である。これはどことなく獣骨や亀甲に刻まれた甲骨文を想起させるところがある。
また”結縄”これは縄の結び方や、結び目の数によって記録や意思伝達をする手法である。

「老子道徳経」の中でも比較的有名な「小国寡民」の章に”使民復結縄而用之”とある。つまりは文章で複雑な事を記述する必要はなく、結縄くらいの簡単な記録や意思伝達で事足りるくらいの小さな国家が理想なのだ、ということである。また易経・周易・繋辭には”上古結繩而治,後世易之以書契。”とある。
易経・周易は東洋最古といわれるテキストであるが、その繋辞伝の成立は漢代であるといわれる。老子道徳経の成立年代は諸説あって定まらないが、遡れても紀元前2〜3世紀ごろであるから、早くとも蒼頡が文献に現れる時代とほぼ同じ時期である。

単純に考えれば、まず記号としての文字が発明され、やはり記号に過ぎない結縄にとってかわる、ということは理解しやすい。しかし”書契”すなわち文章が発達し、記号である結縄が表す単純な意思の伝達や記録に代わるというのは考えにくいものがある。
もし”書契”が置き換わったのだとすれば、結縄で表された単純な記号もむろんあったにはちがいないが、歌謡や言い伝えのような、ひとカタマリの内容を持った口伝、口承の類なのではないだろうか。
とすれば”沮誦”という”話す”あるいは”語る”行為に関係する文字のつながりは、もとは人物名ではなく、文脈上は”結縄”と同列の、文字の発明以前の情報の記録・伝達の手段をあらわしていたのではないだろうか?と考えたくなる。
”沮誦”の名が「四体筆勢」以前の”蒼頡”に触れた文の中には見当たらないのも、そのあたりに理由を求めることができるのではないだろうか。

衛恒がどのような書物を参考にして「四体筆勢」を記述したのか?今となっては確かめることができない。西晋の衛恒より前の時代の前漢の「淮南子」にも文字の発明者としては”蒼頡”の名ばかりで”沮誦”の名は見当たらない。
現在読むことができる「晋書・衛恒傳」の文が正しく衛恒の文を伝えているのであるとすれば、やはり衛恒は文字の起源について、当時の常識的な知識以上の何事かを伝えようとしている、という見方もできるのではないだろうか。
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新老坑硯五面 〜有眼荷葉硯

新老坑硯を五面、あらたに店頭にお出しした次第。今回、弊店にしてはややおおぶりな、ハスを模した荷葉硯もある。この新老坑硯、珍しいことに眼がある。
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......寶硯堂硯辨には、老坑水巌は大西洞の三層の石をさらに上下二層に分け、この上層の部分を”腰石”と呼び、よく眼が出ると述べている。手のひらに載るほど大きさながら、眼が必ず数個はあると。
正直、この"腰石"に相当するであろう大西洞の硯石については、恥ずかしながら過眼している自信がない。”かならず数個の眼が出る”というあたり、そのような老坑水巌の硯石が存在することが、やや信じがたい思いがする。
大西洞の三層であれば必ず佳材に違いない。いや大西洞に限らずとも、佳材にしてかつ眼が数個もあるような老坑水巌自体、記憶の中でも片手に満たない。
一般に老坑水巌に眼の出ることは極めてまれで、それは老坑水巌近傍で発見された新老坑においても同様なのである。

端溪を特徴づける石品として珍重される眼、ないしは石眼であるが、端溪だからと言って眼が必ずあるわけではない。
比較的よく眼がみられるのは坑仔巌であるが、坑仔巌の眼はおおむね丸くて黄色味の勝った色をしている。老坑水巌といえば淡い緑色、ないしはさらに青の勝った翡翠色をした、いわゆる鸜鵒眼(くよくがん)である。しかし現実、老坑系の硯石では鸜鵒眼はおろか、死眼ですらめったに見られるものではない。

端溪といえばやたらと石眼を珍重する向きがある。以前にも触れたが、夏目漱石の”草枕”では、田舎の温泉を訪問した主人公が寺の茶席に呼ばれ、蜘蛛を模した端溪硯を見せられる。じつに九つもの眼のあることをもって、非常に貴重な硯であるとしている。
 
「中央から四方に向って、八本の足が彎曲(わんきょく)して走ると見れば、先には各(おの)おの鸜鵒眼(くよくがん)を抱かえている。残る一個は背の真中に、黄(き)な汁(しる)をしたたらしたごとく煮染(にじん)で見える。 」

この石眼、蜘蛛の足上にひとつづつと、背中にひとつの、合計9つであったと描写されている。その眼のいちいちが蜘蛛の足の配列に従ってほぼ等間隔に並んでいる旨が”草枕”には描写されている。むろん自然に生まれた配列ではないだろう。後から別所の眼をもって補填した、いわゆる”嵌め眼”と考えられる。
背中の眼だけが黄色く、他が鸜鵒眼であるという。自然に表れたのは背中の黄色い眼であり、鸜鵒眼は”嵌め眼”に相違ない。およそ一硯の一面に現れる眼の、あるモノが黄色く、またあるモノが緑がかった鸜鵒眼、これらが混ざり合っているということはまずない。
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実のところ弊店で扱ってきた新老坑硯も、明瞭な眼の出るものはなかったはずである。眼の出た硯だけ秘蔵しているわけではなく、眼の出ていて、かつ材質のいい硯は滅多にお目にかからないからである。
硯としての性能を全うするだけの堅牢な鋒鋩であるとか、材の温潤さを重視して選別していると、眼の出る硯ははじかれてしまうことが多い。とはいえ眼だけを重視して硯を選んでいると、それなりの数の端溪硯が出てくるのである。しかしあいにくと材質が劣っていることが多いのである。
眼が出ているからと言って材質が悪い、ということではないが、材質が良くかつ眼が出ている硯は不思議と少ないのである。

石眼にかぎらず、硯に現れるさまざまな外見上の特徴、すなわち”石品”でもって硯石、とくに端溪硯の良しあしを判断するのは危険である。良い石品が出ているからと言って、鋒鋩が堅牢であるという保証はどこにもない。また確たる石品が現れていないからと言って、材質が優れていないとは限らない。硯をもっぱら観賞用の石の彫刻とするならば、石品をもって価値を決めるのもひとつの価値観であろうけれど、その見方を当方は採らない。
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しかし強いて石品を重視するのであれば、それは”青花”であろうか。寶硯堂硯辨でも、天青に続いて石品の筆頭に挙げている。また青花に付随して現れる蕉葉白や魚脳凍、などがたっとばれる。「寶硯堂硯辨」に限らず、幾多の『硯説』が述べるところでは、青花は硯石の精華であり、佳材の証であるとしている。
太陽の下において、水に沈めた時に青花が浮かび上がるさまは硯石が脈動するかの如く、生命力を感じさせて好ましいものである。
しかし注意を要するのは「寶硯堂硯辨」が説くのはあくまで老坑水巌において、という点である。青花は麻子坑や坑仔巌にも現れる。しかし青花が出ているからと言って、他の雑坑の硯石が老坑水巌に勝る、ということを意味しないのである。このたありは言葉の論理をよくわきまえておかなければならない。別段”必要条件”や”十分条件”を持ち出さなくてもいいが「逆、必ずしも真ならず」は、常々頭に置いておかなければならない。老坑水巌であり、かつ青花が出ている場合において、という意味である。

昨今、金線銀線や氷紋のあるをもって老坑水巌である、とみなす傾向がある。また眼の出る端溪硯を珍重する向きも、やはり根強いものがある。しかしながら金線や銀線は古くは石瑕として扱われた石品である。また石眼も同様、削り取られてしまっていた時代もあった。金線も石眼もともに、それらが現れていたからと言って硯石の温潤なことを担保しないからである。
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さて、この荷葉硯は写真には写りにくいのであるが、細かい青花が一面を覆っている。弊店が扱う硯としては、今までの中で最も大きい部類であろう。しかし一般に老坑ないし新老坑に巨材は少ない。面積にして小さく、厚さが薄く、かつ不定形をしていることが多い。不定形の天然石を四直の硯板状にカットしようとすれば、相当部分を捨てなければならないのである。
硯背と硯面に数条の金銀線が走っているが、それはハスの葉の葉脈に見立て、荷葉硯に仕上げているのである。墨池を持たない硯板状の硯はいささか玄人好みである。もっとも大きな眼の周囲を若干もりあげ気味に仕上げているのも、古来からの有眼硯の作硯手法である。ゆえに硯面は完全な平面ではなく、緩やかな起伏がある。大きさが大きさだけに値段も値段なのであるが、当面、店頭を飾ってもらえればヨシ、という次第である。
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新老坑硯数面

.......「四体筆勢」を自分で宿題にしておきながら、諸事情で立て込んでしまって内容が進まない。まずは近日中に、店頭の在庫も残り少なくなった新老坑硯を何面か追加したいと考えている。以下はそのうちの四面。
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宿題といえば、いつか何傳瑤の「寶硯堂硯辨(ほうけんどうけんべん)」も解説してみたいのであるが、いつになることやら。
愛硯家のバイブルと言われる「寶硯堂硯辨」が面白いのは、老坑水巌を説きながら他の雑坑の記述に及んでいるところである。すなわち大西洞の後に小西洞について述べられるわけではなく、大西洞と似た雑坑を列記し、しかる後に正洞について説き、続いて正洞に似た雑坑を列記......これを以下小西洞、東洞、として老坑四坑洞について述べている。
要するにそれだけ老坑四洞の特徴に似た端溪の雑坑が存在するというわけで、「寶硯堂硯辨」で老坑以外に言及される”雑坑”は三十一にも及んでいる。その中には現在ではどこの坑洞なのかわからないような坑洞もある。大西洞に近似の”雑坑”の中には坑仔巌も麻子坑も入っているから、ひとからげに雑坑と言ってしまうと語弊があるだろう。
しかし何傳瑤の価値観では、老坑水巌以外の諸坑にはとるべきところがないのである。宋坑に至っては砥石あつかいなのである。
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「寶硯堂硯辨」の初版は道光十年(1830年)であり、この時代にはむろん新老坑(戦後に開坑)はまだ開坑されていない。もし新老坑を見ていたら何傳瑤がどのように述べたことだろう。さらにいえば、70年代以降に大規模に開坑され、現在も採石が続いている、俗にいう沙浦石というものがある。沙浦は老坑のある斧柯山とは離れた場所の石であるが、なんと露天掘りで麻子坑、坑仔巌、老坑水巌に似た石が採れるのである。しかも巨材にも事欠かない。これも何傳瑤が知っていたら、どのように評価したであろう。
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雑坑でも老坑水巌の石品の特徴を持っていれば、これを強いて老坑として売れば高く売れるわけである。端溪の硯工達が雑坑の中から氷紋の出る硯石を老坑としている旨も「寶硯堂硯辨」には述べられている。
古今、硯にかけては百戦錬磨の硯工達がそのようなことをするからこそ、老坑水巌と雑坑の弁別が重要なのである。そこが何傳瑤をして「寶硯堂硯辨」をあらわしめさせた、主たる動機であるともいえるだろう。
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以前「金線があれば老坑なのか?」という記事で述べたが、たとえ金線銀線があっても、あるいは氷紋があっても、かならずしも老坑とは断定できない。このことはすでに「寶硯堂硯辨」の大西洞近似の雑坑の中で述べられている。
そもそも金線の類は石瑕(いしきず)とされている。また老坑にあっても特に佳材の出る二層三層の石層ではなく、四層以下、底の方の石層にこれが多いと述べられている。石品として珍重されるのはまず青花、魚脳、蕉葉白等であって、金線などではないのである。
大西洞は頂石、二層、三層、四層、と続き、五層をもって”底石”としてこれは硯材にならないと述べている。二層、ないし三層が佳材であり、大西洞の三層をさらに二つの層に分けて論じている。
何傳瑤は三層目を特に佳材としているのであるが、ここには金線や銀線の記述はない。また底石に近くなるにつれて金線銀線が増えるのは、大西洞以下の老坑全般の傾向であることが「寶硯堂硯辨」からは読み取れる。
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昨今、特に金線をもって”老坑の証”と主張する向きがある。これは近年、経験の浅い業者が多数参入した結果の”胡説(でたらめ)”である。古くから老坑水巌を扱っている者なら、魚脳や蕉葉白、青花、天青といった石品を珍重するが、金線をもって老坑水巌とみなす、という見方はまずしないものである。
また新老坑には金線が比較的多くみられるのは、経験にてらせば事実である。新老坑は老坑の近傍の石脈であり、老坑水巌の”底石”に近い性格を持っているということなのだろう。
しかし金線が出るからと言って、新老坑とは限らない。また金線が認められないような新老坑も存在するのである。
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新老坑を弁別する過程で、金線のある硯石を多く過眼することになる。冒頭に掲げた四面の新老坑硯にもすべて金線が認められる。

逆に金線がありながら新老坑ではない、といって、では逐一どこの坑洞であるか?というところまでは正直わからない。しかし少なくとも「新老坑ではない」と言い切れるのは、墨を磨るための基本的な特性である”鋒鋩”がまるで違うからである。

言うまでもなく、老坑水巌が何故貴とばれたかといえば、石品が美しいのは二の次で、緻密で強靭な鋒鋩を持つからである。新老坑は石品の美しさや温潤さという面では老坑水巌に及ばないものの、やはり強靭で密生した鋒鋩を持ち、墨をよく溌墨させてくれるのである。実用的価値において、新老坑を推す由縁である。
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金線、銀線、あるいは氷紋であっても、老坑水巌と比較した場合には、やはり雑坑や新老坑では微妙に違う形態が認めることができるのである。しかしそれは「おおむね」の話であって、中には非常によく似た格好で現れる場合もある。
以下の写真は、新老坑の金線に非常に似ているので悩ませるのであるが、この硯石は鋒鋩がまるでなく、つるつるしているだけで墨が全く下りない。詳細はつかみかねているが、あるいは端溪の硯石ではない可能性もある。
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また老坑水巌にせよ、新老坑にせよ、巨材はなかなか出ない。直方体をなすような、いわゆる四直の硯板をつくろうと思えば相当部分を捨てなければならない。手のひらに乗るような小さな硯板でも、もとは幼児の頭ほどの硯石であったと考えなければならない。
ゆえに材を惜しんだ結果、老坑ないし新老坑は天然の不定形をしている場合が多く、四直に切った硯板であっても、四辺のどこかに天然の趣をのこしているものである。また”四辺天然硯”といって、四辺のすべてに天然石の面影を残した形勢を貴ぶ向きもある。
なので硯板状の硯で8インチを超す大きさがあり、四直に切ってあって氷紋や金線が出ている硯材というのは、老坑水巌であれば珍しい部類といっていい。そんな硯材は始終お目にかかれるものではなく、少し疑ってかかった方がいいくらいである。特に沙浦は巨材を産し、氷紋や鸜鵒眼など、老坑水巌固有の石品が出ることがあるから注意が必要である。
新老坑にせよ、沙浦にせよ、何傳瑤の時代には開坑されていなかった点は改めて注意していいだろう。

以下の写真は新老坑硯であるが、天然の石の皮を残した作硯例である。
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新老坑を扱っていて、まれに老坑水巌に近い温潤な性格を示す硯に出会うことがある。老坑も四層以下の石は金線が多く出、その質はやや粗燥であるという。それでも同じ老坑水巌の二層や三層と比較した場合であって、新老坑に比べればもう少し温潤な性質をもつものかもしれない。
何傳瑤曰く「底石は硯にならない」というが、老坑は貴重である。底石ないし四層の石であっても、ある程度見どころがあれば、硯に仕立てられることもあっただろう。そのような材が新老坑硯のような顔をして世に現れていたとしても、それを弁別するのは相当難しいだろう。自身、そういった硯を新老坑に区分してしまっている可能性がないとは言い切れない。
巷間、老坑水巌と新老坑を区別している者は少ない。新老坑もすべて”老坑”にしてしまった方が、売るには都合がいいのは確かである。それ以前に区別ができない、というのが実際なのだろう。新老坑が区別できないのはすなわち老坑水巌がわからないのと同義である。新老坑と老坑水巌を混同している方面には、用心してかかった方がいいかもしれない。

ともかくも扱う硯は墨を繰り返し磨ってみて、鋒鋩の堅実なることを確かめたものに限っている。老坑水巌の端くれが混じっている可能性はあるが、沙浦そのほかの雑坑が入り込んでいる可能性はまずない、と考えている次第である。
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金線があれば老坑なのか?

老坑水巌や新老坑など、いわゆる老坑系の硯石に特徴的な石紋として、硯面上に認められる線状の模様、”金線”、”銀線”、あるいは”氷紋”がある。氷紋は古くは”氷紋凍”とも呼ばれた。長い年月をかけた造岩の過程で、地中の圧力によって岩石に亀裂が生じ、そこへ周辺の鉱物成分が浸透し、固化することで形成されたと考えられる。
黄色味を帯び、光の下でわずかに反射光を呈するものを金線という。また白色の勝ったものが銀線と呼ばれている。銀線のような白色の線状模様が複数本交錯し、あたかも凍結したるがごとく、あるいは氷板に亀裂が走っているように見える場合に”氷紋”と認められることになる。以下は老坑における金線、銀線の例。

金線、銀線、氷紋は、老坑水巌あるいは新老坑に特徴的な石紋、と述べたが、無論の事、すべての老坑系の硯石に金線や銀線、氷紋が認められるわけではない。金線、銀線ともに存在しない、あるいは存在しないように作硯された老坑硯もある。
また多く硯石を過眼してきた経験に照らせば、老坑水巌よりも新老坑のほうに、より金線、銀線が認められることが多いようである。

最近では金線の存在を以て「老坑」と認定する向きもある。たしかに老坑や新老坑など、老坑系の硯石に多く見られる金線であるが、金線が無いからと言って老坑ではないとは限らない。清の呉蘭修の「端溪硯史」などでは、金線は”石瑕”に数えられているくらいであるから、氷紋などと違い、あえて珍重すべき「石品」のひとつには数えられていないのである。
ゆえに金線が出ない、あるいは金線を避けて作硯された硯もあるから、金線が出ていないからと言って老坑ないしは新老坑とは言えない。すなわち

金線が無い→老坑(あるいは新老坑)ではない。

という命題は成立しない。金線が無いことは老坑ではない事の必要条件であって十分条件ではない。では、

金線がある→老坑(あるいは新老坑)である。

という命題は成立するだろうか?
これはただちに反証しうる。老坑ないしは新老坑以外の硯石にも、金線が現れるからである。以下は明らかな梅花坑であるが、明瞭に金線が認められる。
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すなわち「金線がある」ということは「老坑(あるいは新老坑)」であることの、必要条件であって十分条件ではない、というところなのである。
また梅花坑以外の、諸坑や雑坑にも金線ないしは銀線は存在しうる。以下はその例である。
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もっとも、白っぽい線については銀線以外にも、白線や水線、という言い方がある。「寶硯堂硯辨(ほうけんどうけんべん)」に曰く「白線巌」という老坑ではない坑洞があり、

”多白筋如粗銀線,石工以之充冰紋凍,然石筋粗大無活色,且一片紅灰混濁氣,無潔白融液如大西冰紋者。”

「粗い銀線のような白い筋が多く,石工は之をもって冰紋凍に充(あ)てる。然るに石筋は粗大で活色が無く,且つ一片の紅灰色の気が混濁としており,大西の冰紋のような潔白で融液のようなところがない」

と評される。また端溪硯史では、他の坑道について

”白紋如線,適損毫非所尚矣”

「線のような白い紋様は、(筆の)毫を損なうに適い、尚なり(=望ましい)とするところに非ず」

といって区別している。
言葉の定義というのは難しいのであるが、老坑に現れる白っぽい線は銀線で、そのほかの諸硯坑の硯石に現れる白っぽい線は水線ないし白線なのである、というように言ってしまうと何が何だかわからなくなる。黄色い線だの白い線だので安易に硯石を断定してはならない、というところだろう。
また以下の硯石は端溪かどうかも疑わしい硯石?の例。鋒鋩がまるでないのである。しかし金線は非常に新老坑のそれに類似している。
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「寶硯堂硯辨」によれば老坑水巌にのみ氷紋が現れるとしているが、当時はまだ新老坑が開坑されていない。新老坑にも氷紋と呼ぶべき石品は現れる。しかし老坑水巌のそれには及ばない。「寶硯堂硯辨」にも

”若冰紋帶青花乃千百中之一、二,謂之絕品可也。”

「もし氷紋の青花を帯びたものは千百中の一、二であり、これを絶品というべきなり。」

とあって、極めて珍しいとしている。老坑の金線、水線、氷紋については別の機会に詳述することもあるだろう。

ともかく、金線、銀線、ないしは水線ともいうべき、線状の石紋が現れていたからと言って老坑ないし新老坑と断定するのはまったくもって早計なのである。金線があるから老坑です、という売り方をしている向きがあれば疑ってかかったほうがいいかもしれない。
また金線や銀線にだけ注目して老坑をさがしていれば、あたら佳材を見落とすことになりかねない。ここに注意を喚起する次第である。
落款印01

祝新元号 「万葉集 梅花歌併序」

万葉集 梅花歌併序

(原文)

天平二年正月十三日。萃於帥老之宅。申宴會也。
於時初春令月。氣淑風和。
梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。
加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。
夕岫結霧鳥封而迷林。
庭舞新蝶。空歸故鴈。
於是蓋天坐地。促膝飛觴。
忘言一室之裏。開衿煙霞之外。
淡然自放。快然自足。
若非翰苑何以攄情。
詩紀落梅之篇古今夫何異矣。
宜賦園梅聊成短詠。

(書き下し)

天平二年正月十三日。
帥老(しろう)の宅(たく)に萃(あつ)まり、申(かさね)て宴(うたげ)を會(かい)すなり。
時は初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)
気(き)は淑(しと)やかに風(か)和(やわらか)し
梅は披(ひら)く鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)
蘭は薫(かお)る珮後(はいご)の香(こう)
以って加(くわ)うるに曙(しょ)の嶺(やま)は雲を移(うつ)し、
松は羅(ら)を掛け蓋(がい)を傾く。
夕岫(ゆうしゅう)は霧(きり)を結び、鳥は封(とざ)して林に迷う。
庭に新蝶(しんちょう)舞い、
空に故鴈(こがん)帰(かえ)る。
是において天を蓋(がい)とし地を座(ざ)とし、
膝(ひざ)を促(つ)めて觴(さかずき)を飛ばさん。
一室の裏(うち)に言を忘れ、煙霞(えんか)の外に衿を開く。
淡然(たんぜん)として自から放(はな)ち、快然(かいぜん)として自から足る。
若(も)し翰苑(かんえん)にあらざれば何を以って情を攄(の)べん。
詩に落梅之篇(らくばいのへん)を紀(しる)す、古今(ここん)夫(そ)れ何ぞ異とするや。
宜(よろ)しく園梅(えんばい)に賦(ふ)して聊(いささ)か短詠(たんえい)を成さん。

(補足)
和製漢文なので、語順の感覚に注意が必要かもしれません。あくまで漢文として読んでみます。
「申」は重ねて、の意味があり、正月の宴の二次会を会のリーダー的年長者の邸宅で開いたと思われます。
氣淑風和」は、漢語風にいえば「淑気」「和風」ですが、意図的に逆転したのでしょうか。
「粉」ですが、ここは次の蘭の句と対句になっており、対応する「香」がおそらく香炉を表すことから対応して「白粉」という解釈が可能でしょう。「鏡前」とありますが、白粉から連想して「鏡台」を指すかのように思えますが、庭に向けて魔除けにおいた鏡のことでしょう。いわゆる照魔鏡は、鬼瓦と同様大陸から伝来しましたが、貴族の邸宅では一般的な風習でした。それに庭の梅花が映っているのを、鏡台の前の女性の化粧になぞらえたと考えられます。
「珮」はしめた帯。
「蘭」ですが、旧暦の正月13日といえばまだ2月下旬で、梅はともかく蘭の開花時期としてはギリギリです。庭に咲いたのではなく、室内で鉢植えで育てられた蘭を想定していると思われます。ゆえに「香」一字で「香炉」、ということになります。また蘭の花は単独で君子を表します。しめた帯のあたりから蘭の香が漂うというのですから、集まった者達がいずれ劣らぬ君子ぞろい、ということを暗示しています。
「曙」は日本語ではもっぱら「あけぼの」、朝の光を指しますが、漢語では明るい太陽の光のことでもあります。夕暮れに向かう前後の文脈から「朝陽」のことではなく、山際におちかけて最後の光芒を放つ陽の光をいうのでしょう。
「松掛羅」の「羅」を「うすもの」としている訳例がありますが、松に羽衣をかける文脈は前後にないですね。「松羅」は松に寄生する和名サルオガセという地衣類で、漢語では女羅といいます。また蓋(がい)を傾くというのは、天蓋(屋根)のように広がり茂った松の枝葉のことです。
「鳥封」は、鳥が霧に閉じ込められて林で迷子になる、ように訳している例がありますが、それなら「封鳥」のはずです。「封」は口を閉ざす、という意味があります。鳥は鳴くのをやめて、というように解釈しました。
「煙霞」は「紅塵」と同じく、世俗、俗世間のこと。「煙霞」の外、ということですが、あつまった者達の間にも階級や職位の区別はあるわけです。それを忘れて楽しみましょう、という事ですね。なので「開衿」の対句の「忘言」の「言」は、身分に応じた言葉遣い、という意味に解釈できます。
「淡然」はたんぱくな気持ち。名誉や利益から離れた心境。
「詩」とあるのは詩経。古く詩経にも梅を詠んだ詩があります。

(大意)

天平二年の正月十三日、頭(かしら)だつ人の家にあつまって二次会の宴会をひらいた。
時節は初春の(正月)めでたい月。空気もようやく温かく、風も穏(おだ)やかに吹いている。
鏡には、白粉のような白い梅の花が映り、集まった君子たちのしめた帯の背中からは、蘭の薫(かおり)が香炉(こうろ)を置いたようにかすかにただよってくる。
傾いた日が山際にさしかかり、山裾には雲がながれるのが見える。
女羅がさがった老いた松は、屋根のように大きなその枝葉を庭にかたむけている。
山にかかる夕靄はふもとにおりて霧となり、鳥は鳴くのをやめ、林をさまようかのように飛びわたる。
目の前の庭には生まれたばかりの蝶が舞い、遠くの空には故郷へ帰る雁が飛ぶ。
(ああ、美しいこの場所、)ここでもって天地の区別なく無礼講で楽しむことにした。
そこで席順を崩し、膝をつきあわせ、酒杯を応酬する。
一部屋の中で言葉遣いも忘れ果て、世俗の身分に関係なく、衿(えり)を開いて打ち解けあう。
名利を忘れて自由な気持ちになり、楽しい気分になって満足する。
もし、文学に拠らなければ、どうやってこの楽しい感情を表し残したらいいのだろう。
詩経に落梅花を詠んだ詩があるくらいだから、昔も今も(この季節に梅を詠むことに)違いはないのだ。
だから皆でもって庭の梅をテーマにして、すこしばかりの短歌をつくったのである。


ともあれ「令和」が良い時代にならんことを。
落款印01

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